2003/2/14
 『飯島愛の体験的性愛論(2)』
     -八木秀次の自由批判の墓場(笑)-
                   
          文責 滝丸 一兵

(つづき)
 さて飯島愛さんは,父親およびそれに夫唱婦随(笑)する母親によって,誤ったパフォーマンス教育を受けた。それは,父親が飯島さんの自己行為(パフォーマンス,ファッション,食事,読書,排泄,歩行,鑑賞など)の形,体裁について「よき形」を設定し,その対象についても「よき対象」を設定して,彼が「悪しき形」「悪しき対象」とみなすものへ飯島さんが逸脱するのを禁止した。その都度,大声でどなり,ひっぱたき,すなわち有形力の行使によって攻撃し苦痛を与えて「よき」ものの中に拘束しようとしたわけである。
 「よき形」「よき対象」を設定すること自体は必ずしも否定できない。その様相と場合によりけりであろう。だが,人間はラットではない。ラットを金属板の上に乗せて電流を通す。ラットが金属板から逃げると,うーむ動物は苦痛を回避するものだなあ,よし苦痛によって人間を制御しよう,とにかく逸脱には苦痛を。寝転んで本を読んでいる,ひっぱたけ。食事中によそ見をした,ひっぱたけ。ニンジンを食べない,ひっぱたけ。背中を丸めて書写している,ひっぱたけ。茶碗を持たずに口を近づけてお茶を飲んでいる,ひっぱたけ。恋愛主題の映画を見に行った,ひっぱたけ。「悪しき形」の出現も,「悪しき対象」の選択も全部その都度,苦痛を与えれば直るはずだ。だが,そうはいかないだろう。
 飯島さんの父親およびそれに夫唱婦随(笑)する母親の第一の誤りは,慢性的な否定と苦痛によって飯島さんを制御しようとしたことにある。
 私も子供の頃,父親にしょっちゅう姿勢が悪いと文句を言われていた。ひっぱたかれはしなかったが,男はもっと背筋をぴーんと伸ばしているものだとよく言われた。言葉の否定を受け続けていたわけである。しかし,では,どうすれば背筋が伸びるのか教えてもらったことはなかった。今,子育ても終わって回想すれば,単に剣道や弓道や合気道などの武道系の部活を続けると,特別な努力もなく,習慣的に背筋は伸びるものだということだが,方法論もなくむやみに「よき形」を求められるのは相当うっとうしいものである。飯島さんの父親は,弓道を習わせれば姿勢はよくなると正しく思って,習わせようとしたようだが,飯島さんに強硬に拒絶されて断念したようで,これがむしろ大失敗なのである。
 また,心構えで言えば,自分のパフォーマンスをしょっちゅう否定され苦痛を与え続けられていたら,人間の心は元気をなくし,萎縮する。心が元気をなくし萎縮すれば,その身体もしょぼんとし,縮こまることになる。胸を張って背筋を伸ばしている姿は,私は元気だ,私は自己主張するぞ,私は強者だという姿であり,これは圧倒的な自己肯定の姿勢なのである。絶え間なく否定され,苦痛を与え続けられている人間の姿勢ではない。「かかってこんかい,俺は強いし,勇敢だ」というような心が姿勢をよくしたりするのである。さらにこういう事柄には驚くべき理由が隠れていることがある。金が無くて,シャツやセーターをあまりクリーニング屋に出したくないという思いが,シャツやセーターの首筋を汚さないように首を前に突きだして歩く姿勢をもたらすというような話さえある。
 飯島さんの父親には,飯島さんの固有性を尊重したうえで,姿勢の悪い原因は何なのかと探求する心が欠如していたのである。
 「よき形」を作るための思考と技術の合理主義の不在,そして「悪しき形」にある飯島さんへの慢性的な批判,これが 飯島さんの父親およびそれに夫唱婦随(笑)する母親の第二の誤りである。
 子供の固有性に耳を傾けることがない。子供は納得すれば,自発的に「よき形」を求めるはずである。だが,飯島さんの両親は「悪しき形」の原因の探求がなく,したがって,子供が納得するような,「よき形」に到達するための技術的な指導ができなかったのである。背中が丸いのが「悪しき形」だと思うのなら,その原因は何なのか,胸を張り,背筋を伸ばすには,いかなる心構えや習慣が必要であるかを子供が納得できるように提示しなければならない。
 「よき対象」を子供の「好ましい対象」とすることについても同様のはずである。父親にとっての,ある「よき対象」を子供にとっての「よき対象」としたければ,そこにはある程度の努力と工夫が必要であろう。子供が「嫌いな対象」を「好ましい対象」と感じるようにする努力と工夫が必要なのである。それなしには,子供の自発性を誘い出すことはできず,子供の自発性を誘い出せなければ,「よき対象」がかえって「嫌いな対象」となる。しかも,「よき対象」というのは相当な広い範囲におよぶものであり,「よき対象」を狭く設定すること自体がすでに間違っているのである。「一房の葡萄」がよきドラマで,「白鳥の湖」が悪しきドラマだということはない。
 知的好奇心というものは基本的に肯定されるべきである。まして虚構世界,想像世界では,ほとんど無限の範囲で肯定されるべきものである。世の両親の中には,心中のドラマを見聞きしたら心中する,強盗のドラマを見聞きしたら強盗する,セックスしまくりのドラマを見聞きしたらセックスしまくるなどと思う人が相当数いるようだが,しかし,虚構,想像の世界と事実,現実の世界はそのように単純に直通しているものではない。
 高校の頃,私は「百万人の夜」だの「夫婦生活」だのというエロ本を愛読していたし,おもしろいだけの「三国志」や「水滸伝」を愛読していた。SMマガジンを愛読している奴,太宰治を愛読している奴,アサヒ芸能,週刊実話を愛読している奴などなどさまざまな知的好奇心が存在したであろう。私は高校の頃,上品な文学などほとんど読まなかったが,高校の国語の成績はほとんどトップクラスであった。(ウソだと思うのなら,今,金沢で仕出し屋を経営しているN君に聞いてほしい(笑))
 すなわち飯島さんの父親およびそれに夫唱婦随(笑)する母親の第三の誤りは,知的好奇心の対象についての度量の小ささということにある。
 飯島さんは,両親によって,小学校の終わり頃,「恥ずかしい,みっともない」と言われ続けたそうである。
 飯島さんは「悪しき形」を保持し,「悪しき対象」を選択する人間と見なされていた。これを飯島さんの父親およびそれに夫唱婦随(笑)する母親は,飯島さんを慢性的に批判し,苦痛を与え続けることによって,制御し,矯正しようとした。飯島さんの固有性に耳を傾け目を凝らすことなく,「よき形」を作るための思考と技術の合理主義も不在のまま,そして度量小さく知的好奇心の対象を制限したまま,「悪しき形」にある飯島さんへの慢性的批判が行われた。個人の固有性の無視,「悪しき形」への慢性的な批判,苦痛の攻撃,「よき形」獲得の希望の不在,知的好奇心の圧殺。これは家出するしかない(笑)。
 飯島さんは学業のことも書いている。彼女の両親は,彼女が小6の時,彼女を「偏差値の高い私立のお嬢様中学に行かせたがった」が,偏差値不足で結局,飯島さんは区立で「高校進学率の高い中学に」「越境」入学したそうである。で,そこの同級生に「山口さん」という勉強のできる子がいて,いくら頑張っても勝てず,母親にいつも「山口さんはこんなに偉いのに,あなたはどうしてるの?」「あなたの努力が足りない」と言われていたという。で,ある時,苦手の数学で90点を取った飯島さんは喜び勇んで帰宅して,母親に報告した。ところが,「『お母さん,聞いて,聞いて,数学で90点取ったよ』『山口さんは何点だったの?』『……』『四問も間違えてるじゃない。どうしてできなかったの』『……』『山口さんはどうせ100点だったんでしょ』『……』」というようなやりとりになってしまったらしい。で,飯島さんは「精一杯努力したのに…」「私はただほめてもらいたかった」と総括している。
 飯島さんの両親にとって,学業における「よき形」とは「偏差値の高い私立のお嬢様中学」への入学であり,それが失敗した後は,クラスで1番,あらゆる教科100点なのであった。となると,クラスで2番,90点というのは「悪しき形」になる。で,「あんたはダメな子,恥ずかしい,みっともない」ということになる。
 かくて,飯島さんの父親およびそれに夫唱婦随(笑)する母親の第四の誤りは,その子供固有の絶対的進化を我が子評価の中心に据えず,相対比較の順位を優先した倒錯にあるということになる。
 私の中学3年の時の担任の先生は,後に養護学校に移動したが,先生は「その子なりの進歩」ということを常に言っていた。運動能力や知的能力を相対比較すれば,養護学校の生徒は普通の生徒より劣る。だが,その子なりの進歩,その子供固有の絶対的進化というものもあるのだ。現在,養護学校にいる知人の話では,ほとんど運動能力のなかったある子供に,スルメを与えて咀嚼させているうちに徐々に手などの運動ができるようになってきたという。咀嚼能力というのはわずかな運動能力であるが,そういう今ある非常に部分的な能力を強化すると,徐々にその運動が他の部分の能力に汎化することがあるということだ。これは真の専門家だからこその方法,思考と技術の合理主義である。
 まして飯島さんの場合は,クラスで2番,90点なのだから,その子なりの進歩で褒める材料としては充分すぎるほどなのである。これを褒めないのは倒錯している。
 もちろん言うまでもないことだが,私は子供を全部等価に評価せよなどと俗流差別反対論みたいなことを言いたいわけではない。50m走などで,足の速い子が遅い子をゴール前で待って,手をつないで同着でゴールインするというようなことが行われている学校があるらしいが,そんなもの,平等のペテンである。こんなもの,絶対評価でもなんでもなく,無理矢理,相対比較の順位を人為的に平等にしているだけである。絶対評価と,相対評価の人為的平等とは何の関係もない。能力上の相対比較の順位は,それはそれ自体として存在すべきであり,そこでの勝利者,上位者は誉め称えられるべきである。そうでなければ,誰も競争を通した自己拡張の情熱を持てないからであり,他に勝つための冒険と挑戦は人間の本能の一つだからである。私が言いたいのは,相対比較における能力の格差は鮮明に順位づけるしかないが,しかし,同時に,個人の絶対評価は自己ベストを中心にするしかなく,これを統合すると,能力の相対比較における勝敗,上下をその領域だけに留めて人格的な選抜や主従化をしないということなのである。
 たとえばある親が「東大に入れない奴はダメな奴」という価値観を過信し,そういう意味のことを日常,言い続け,自分の子でもできの悪い子をその観点から慢性的に批判し続けたとする。その子が歪むことは明白である。彼自身固有の絶対的進化という価値観が中心に無いどころか,完全に欠如しているから,常に相対比較の結果だけにこだわることになる。
 自分が東大に入れそうになければダメな奴,人間の屑ということになり,引き籠もりになるかも知れないし,他人に対しても東大に入れそうにない奴はダメな奴,人間の屑だと排除的に批判するということになる。こんな奴とは普通人はつき合えない。人間の屑と見なされてまでおつき合いしてもらわなくてもよいわけだし,彼自身固有の絶対的進化を価値としない奴などと付き合ってもおもしろいわけがない。たぶん現実の東大生には2つのパターンが存在する。僕は東大に入って特権階級になるんだというタイプと偏差値で入れそうだからまあ東大へでも行っとこうかというタイプ。
 前者のようなタイプが国家公務員になった場合,公僕意識などあるはずがない。僕たちゃ特権階級だ,国民から徴収,募集した国家の金は僕たちのもの,僕たちの金を採算無視して使って何が悪い,国家の権力は僕たちのもの,国民が仕事と収入を失い減らしていても,僕たちが天下って仕事・高収入の機会を得るために使おうぜ,国民が特権階級の僕たちに世話をしろと命令するなんてとんでもない,世話をお願いしろ,まあお願いされても無視してやるけどな,そしたら泣き寝入りでもしていろというようなことになる。こいつらは学力テストの順位を,人格的な選抜や主従関係に転じようとしているのである。
 八木さん,自由もへったくれもねーんだよ。飯島家で行われたのは,その子供固有の絶対的進化を我が子評価の中心に据えず,相対比較の順位を優先した倒錯の道徳教育なのである。また,個人の固有性の無視,「悪しき形」への慢性的な,苦痛を与える攻撃,「よき形」獲得の希望の不在,知的好奇心の圧殺の礼儀作法教育なのである。
 「新進気鋭」の道徳教育家八木秀次さんはその後の飯島愛さんの人生を「少女は『自由』を求めてさまよう。」と表現する。
 しかし,少女であった飯島さんは「『自由』を求めてさまよ」ったのだろうか?。飯島さんの家庭には癒しも,自由もなかった。で,存在しなかった自由を求めてさまよい出たとは言える。だが,これを自由の観念の批判につなげるのは素っ頓狂である。飯島さんは自由を求めてさまよい出た。それは家庭に自由がなかったからである。
 飯島さんの家庭には自由はなく,不合理で独善的な抑圧だけがあった。家庭にもっと癒しと自由があれば,飯島さんはさまよい出なかったはずなのである。問題は両親の不合理で独善的な抑圧教育にある。したがって,結論は,もっと自由を大切に,チンケな抑圧教育は止めましょうということになるはずである。ところが,八木さんは素っ頓狂にも,自由批判に転じるのである。
 八木さんは言う。「この本の著者を含めて,現在も多くの若者たちが『自由』を求めてさまよっている。しかし,少女は『自由』を求め,『自由』であるがゆえに,『堕ちて』いった。『PLATONIC SEX』の著者は結果的に今日の地位を得たからいいようなものの,多くはそのまま『堕ちて』いく。自由とは残酷なものである。」
 バカ言ってるよ。私は飯島さん型の人生も一局の人生として認めるが,とりあえず,彼女は連日の夜遊び,外泊を両親の不合理で独善的な抑圧教育によって促されたのである。自由批判などピントが外れている。中学生程度で,連日の夜遊び,外泊をしてしまう少女の人生は相当,物騒に違いないが,しかし,それを止めさせるのに自由を批判し,自由の結果で脅迫してどうしようというのか?。まず家庭の,チンケな抑圧教育を止めさせ,夜遊び,外泊をする衝動を減弱させるべきであろう。
 その当時の飯島さんに,お前,夜遊び,外泊するな,自由は残酷だぞ,自由は怖いぞ,転落の人生が待っているぞと言っても,全く無意味であっただろう。なにせ飯島さんは家庭の中の,チンケな抑圧教育から逃げたかったのだから。今いる家庭が「地獄」なら,外も「地獄」だぞと言って,確定した「地獄」にいろというのは,何やら特権階級意識の国家公務員のような事無かれ主義のように見える。たぶん飯島さんは強烈な自我を持っていた。抑圧されたらそれがどんな理不尽な抑圧でも服従しきるということができないタイプであったのであり,身体の成長と共に,中学校ぐらいから,不合理で独善的な抑圧教育からの脱出を試みることになったのである。中学生程度の夜遊び,外泊の冒険は物騒なのだが,しかし,飯島さんにとって,飯島さんの家庭が不合理で独善的な抑圧教育の「地獄」であり,飯島さんが強烈な自我を持っていた以上,それは必然に近いものであった。
 八木さんはチンケな抑圧教育への批判を全くしない。それで事無かれ主義から,事実上「地獄」に留まるべきだったという主張をする。こういうお役所仕事的な人生論は私はあまり好きくない(笑)。それが八木さんの道徳教育論の欠陥を示唆しているのである。中学生の頃の飯島さんの,連日の歌舞伎町での夜遊び,外泊は,チンケな抑圧教育から逃げて自由になろうとしたものである。チンケな抑圧教育がなければ,発生しなかったものであり,本来家庭にあるべき適切な自由がないために,危険な自由を家庭の外に求めたのである。
 それを見て,八木さんは自由は残酷なものだとお説教を垂れる。だが,夜遊び,外泊しない子供たちは家庭の中に適切な自由や癒しがあるから夜遊び,外泊をしないのである。八木さんは,両親が適切な自由を家庭の中に定着させられなかった結果,子供が家庭の外で危険な自由を求めたのを,自由の悲劇,自由の残酷さなどと批判しているのである。八木さんは,チンケな抑圧教育の結果生じた危険な自由の追求を批判することが,普遍的な自由批判になると錯覚している。バカみたいである。
 中学生ぐらいの少年少女が,連日の夜遊び,外泊,あるいは路上徘徊,家出するに至る事情はさまざまであろう。親の虐待もあろう,親の遺棄もあろう,飯島さんの父親のような生命倫理用語にいうパターナリズム(独善的な家父長主義)による抑圧もあろう。しかし,いずれにせよ,それらは「自由を求めてさまよう」などと表現できる代物ではない。敢えて言えば,それらは家庭が何らかの「地獄」や「砂漠」になり,「『地獄』や『砂漠』から逃れてさまよう」ということなのである。
 「『地獄』や『砂漠』から逃れてさまよう」ことを単に「自由を求めてさまよう」ことと解釈すれば,それで八木さんの自由批判の材料はできるかも知れないが,しかし,「『地獄』や『砂漠』から逃れてさまよう」しかない子供たちの人生はどうなるのか?。中学生ぐらいの少年少女が,連日夜遊びし,外泊し,あるいは路上徘徊し,家出すれば,彼ら自身に万引きやひったくりや恐喝やの犯罪を行う可能性が高まり,また逆に,強姦や覚醒剤やある種の強制労働などの犯罪に巻き込まれる可能性も高くなる。これに対する実務的な対策を顧慮することなく,八木さんは,自由の「不安定さと空虚さ」「残酷さ」のお説教を垂れるのである。
 また八木さんには,路上徘徊少年少女にとって,家庭が何らかの「地獄」や「砂漠」になってしまっていることをどうするのか?という実務的な発想もない。八木さんは,これを憲法で「家族は国家の基本単位である」とか規定し,「教育勅語」とかで道徳教育すればすればよいと思っている。だが,バカげている。
 死傷に至らない程度であれ,我が子を虐待する者,我が子を遺棄する者は「家族は国家の基本単位である」と言われて虐待をやめ,遺棄をやめるか?。やめるわけがない。「父母に孝に」と言われればかえって,そうだ,我が子は父母である俺,あたしに「孝」であるべきだ,何でも服従すべきだし,奉仕すべきだ,子は俺のパチンコやチンコの自由をいっさい侵害してはならない,あたしの自分だけの時間をいっさい侵食してはならないと思うだけのことである。「父母に孝に」の後に,「子に仁に」とでも書き加えない限り,教育勅語など現代に使える代物ではない。この場合,「仁」とは,親の強者としての自己抑制と弱者である子への配慮を意味する。
 飯島さんの場合で言えば,父親に対して,そのパターナリズム(独善的な家父長主義)を自己抑制させ,飯島さんの固有性への配慮を強制すべきであった。で,これはどうすれば実現できたのか?。これは父親の道徳教育,礼儀作法教育の不合理と独善を叩きまくり,それに気づかせることによってしか実現できないはずなのである。そこからすーっと目を逸らし,自由は空虚で,不安定で,残酷だなどとお説教を垂れても無効なのである。わかるか,八木さん?。
 飯島さんの物語は,彼女の強烈な自我が,父親によって激しい否定と苦痛を与えられ,傷を負いながら,それでもなお,誰も代わりに闘ってくれはしないから自身でそのパターナリズムと闘い,家出によって脱出し,物騒な自由に曝されながら,その能力と幸運によってついに出世したという自由の勝利の物語なのである。自由批判の材料になどなるわけがない。飯島さんの人生こそは八木秀次さんの自由批判の墓場となるものである(笑)。

(つづく)