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 世相心理事例集
2001/9/9
 『小林よしのり-戦争論』2
 -左翼に関する大錯誤-

ライン 
 小林よしのりさんの「戦争論」の続き。小林さんの「戦争論」は現代日本の状況への批判,怒りから出発している。小林さんはやっぱり嫌いではないのだが,しかし,その左翼論は完全に大錯誤に陥っている。まずそこから始めよう。
《左翼に関する大錯誤》
 小林さんは第2章で,「マルクス主義の影響のある者=左翼」,「無意識に人権などの価値に引きずられ,反権力・反国家・市民主義になる者=サヨク」とし,この2つを地続きで同じ勢力のようなパターンで捉えているように見える。だが,私のように相当な関心を持って,旧ソ連や中国の共産党の権力の奪取,統治の歴史を見てきた者には何だか変である。小林さんの言う「サヨク」は私などの政治知識ではリベラリストのことであり,歴史が示すのはマルクス主義者がリベラリストを利用して権力を奪取し,その後,マルクス主義者の統治が安定するにつれ,リベラリストが権力から追放されるというパターンである。地続きのものではない。リベラリストはマルクス主義者も含めて,他の政治勢力の言論,結社の自由,参政権を守ろうとする本来的な感情を持っていた。お人好しである。だが,マルクス主義者はそうではない。自分が少数,弱体の時は,リベラリストの言論,結社の自由,参政権も守ると主張し,「統一戦線」なるものを組もうと提案する。しかし,実は,マルクス主義者は性悪な傲慢であり,他の勢力の言論,結社の自由,参政権などを守ろうという本来的な感情を持たない。協力の感情はなく,利用の感情があるだけである。それはただの方便であり,しかも危険なことに,マルクス主義者は口先では絶対に他の政治勢力の「言論,結社の自由,参政権も守る」と言い続けるのである。事実では,他の政治勢力の「言論,結社の自由,参政権など」を決して守らず,むしろ圧殺し続けるのに,口先では,たとえば憲法などでは高らかに「言論,結社の自由,参政権など」を守ることを歌い上げるのである。マルクス主義者は二枚舌であったし,今も中国や北朝鮮の支配者は基本的に二枚舌であるにちがいないと思う。
 日本人には「本人が言ってるんだから信用しようよ」という体質がある。日本人は相手の行動が完全に言葉を裏切っているのに,なおも,行動から判断して絶対に信用しないという決断ができない人が多いのである。つまり,日本人全体が本来,リベラリスト的なのである。「日中友好」などと言われると,中国の支配者の行動を忘れる。中国の支配者は国民の選挙で選ばれたのではない。また,すでに独立した国家領域を持つ台湾の近海へのミサイルぶちこみは侵略予備行動である。それらを忘れる。アメリカは中国の二枚舌に緩急自在で対応している。日本の対応はリベラリストのお人好し的である。本当は,口先では,中国いい国素敵な国と言いながら,現実では,いかにして中国の誤った統治行動,外交行動の軌道を修正するかだけを模索するというような対応が必要なのである。中国との関係での問題はこの辺にある。
 小林さんもこの辺を理解しているようには見えない。現在,周辺国家と戦争して,一方的に勝利し,大量の利益を得る戦争などあり得ない。戦争も,冷戦も避けるべきである。何にも「グレート」なことはない。大東亜戦争は正しかったなどと言っているひまがあったら,中国の二枚舌を平穏に,持続して,指摘し続けるべきである。ただし,政治家が「お前は二枚舌だ」などと言ってはいけない。一介の個人である私などが,中国を二枚舌と言っても何の問題もないが,政治家が言うのはわざわざ喧嘩を売っていることになる。「友好」的な態度で言葉を裏切る事実を指摘するだけでいいのである。
 小林さんはさらに第20章で次のように言う。「左翼は『国のために』よりも,『人権のために』『平等社会のために』が上位に来るだろう。さらに『反戦平和のために』。21世紀は国家がなくなってしまったほうがいいと考える」。「世界を人権や平等で平板化させようという情熱は,ポルポトの虐殺を生み,スターリンの粛清を生み,中国の文化大革命を生む」。
 はて?これは何だかとんまな話に聞こえる。まず国家がなくなるほうがいいなどと考えているのはリベラリストであり,マルクス主義者はそんなこと,本当は考えていない。レーニンが「国家と革命」で書いているのは,国家を担う前の白日夢にすぎない。また,ポルポトの虐殺,スターリンの粛清,中国の文化大革命が,『人権のために』『平等社会のために』行われたというのは変である。人権=自由権や生命権と平等権は矛盾するということは保留しても,『平等社会のために』だけを残しても,それでも変である。大体,極度の不平等は流血の闘争を招くから,ほどほどに平等にすべきであると考えれば,『平等社会のために』はそれほど悪質なスローガンとは思えない。しかも,ポルポト,スターリン,毛沢東は全部マルクス主義者であるから,二枚舌を使う。批判するのなら,かれらの本音を設定してからのほうがよい。
 かれらの本音は次のようなものである。
 まず無産無権の下層階級(貧農,労働者階級,被抑圧人民)という存在が,かれら自身の,指導能力がありながら不遇であるという感情に親和する。下層階級は大量に存在したし,また失うものが少ないから,闘争的であり,これに依拠すれば権力を奪取できるかも知れない。というより,政治的社会的に不遇であるかれら自身が依拠するものはそれしかない。下層階級の力で不平等を転倒して,現在の上層階級を下層にたたき落とす。旧上層階級を下げ,旧下層階級を上げて,なるべく平等に近くするというのではない。そんなマルクス主義の革命はあった例がない。マルクス主義の革命は社会の成員全体に何らかの共通な拘束,法規範を与えようという革命ではないのである。人権とは無縁である。市民革命=人権の法規範を掲げ,しかも,それを曲がりなりにも守りきったのは唯一アメリカの独立革命だけである。マルクス主義,共産主義の革命は現在の上層階級を下層に引きずり落とすだけである。階層ピラミッドを逆立ちさせようとする革命なのである。下層階級であったことが価値になり,人権などは価値にならない。旧地主や旧資本家の人権が守られた例はない。そういう無法な慣行が,やがて下層階級自身の首を絞めるに至るのである。
 さて,マルクス主義者が運良くいちおう権力を奪取できたとする。ところが,社会は逆ピラミッドでは運営できない。下層階級という大量の集団それ自体が社会を運営することはできない。さすれば,その下層階級の前衛であるマルクス主義者の組織が権力を奪取し,社会を運営することになる。マルクス主義者には他の政治勢力と自分たちを共通に拘束するもの,法規範というような観点はない。世界についての自称全知全能の者,下層階級の自称前衛である自分たちが自分たちの指導能力を思うがままに振るえる権力が欲しくなる。かれらはもともと,指導能力がありながら不遇であるという権力感情から出発している。いや権力感情の弱いマルクス主義者もそこそこいるのだが,無法な権力の世界が出現した時,そこでの勝利者はより強い権力感情を持つ者,暴力を平気で使える者になっていくのである。
 以前の大学における全共闘運動のリーダーは多数がマルクス主義者であった。その時,リーダーシップを握ったのは,より権力感情の強い,より大胆に暴力的であれる,より堂々と無法者であり得る人や組織であった。従来からある法規範は,あるいは社会的な活動のあり方も,半分以上は社会の運営上,必要で妥当なものである。下層階級に権力を与えよ,下層階級に正義ありという観点は,法規範も社会的な活動もぐちゃぐちゃにする。
 これがマルクス主義者の本音である。『人権のために』『平等社会のために』などを本音扱いしては,マルクス主義を完璧に見誤ることになる。小林よしのりさんは完全にマルクス主義の知識不足,経験不足である。マルクス主義に「世界を人権や平等で平板化させようという情熱」などない。かれらが「人権」を価値にしたことは一度もない。「平等」を価値にしたこともないと言ったほうが正確である。かれらは不平等のまま,上層と下層をひっくり返そうとしただけである。そして,いったんひっくり返した逆ピラミッドは社会の重力の法則によって,上の広い部分がどんどん下に沈んでいき,また,ただのピラミッドになったのである。しかも,前のピラミッドの上層階級より,もっと無教養で不寛容の上層階級,共産党支配を作り出したのである。
 たとえば,スターリンの粛清は生前のレーニンに「粗暴すぎる」と自らの権力感情の強い人格を見破られ,下層にたたき落とされそうになったスターリンが,その死後「人民の敵」(実は自分の敵)というスローガンによって,自分に逆らう指導者たちや集団を徐々に慎重にたたき落としていくプロセスにすぎない。おおぜいの人民が「人民の敵」を密告するのが人権か?平等か?スターリンだけが価値である所に人権も平等もない。小林さんは自分の価値を『国のために』というスローガンに置くが,戦後のソ連の政治犯は多く「国家中傷罪」という罪名で裁かれていたことをご存じか?。スターリン主義に反対する人たちは『国のために』ならない奴ということで投獄され,処刑されていたのである。
 たとえば,中国の文化大革命は,劉少奇など周囲の指導者たちに隠居させられそうになった毛沢東の奪権闘争である。「造反有理」はやはり不平等のまま転倒のスローガンであり,周囲の指導者たちを下層に引きずり落として,再び自分を最上層に押し上げようとしただけの革命である。以前,最も無権無産の貧農に依拠して中国革命を成功させた同じ手法で,さらに革命後の自分への個人崇拝をも利用しながら,無権無産の学生紅衛兵の無法に依拠して自分の権力を奪い返そうとしただけなのである。みんなに人民服着せるのを平等と言うか?それは画一だろう。紅衛兵にはたしかに壁新聞など表現の自由が与えられた。だが,それは毛沢東に逆らう周囲の指導者をたたき落とす内容だけの表現の自由である。毛沢東だけが価値である所に人権も平等もない。ただし現代中国の支配者は文化大革命を中止させた人たちの系列だから,少しましかも知れない。
 たとえば,ポルポトの虐殺は,平等路線か?。若い女性はみんなおかっぱ頭にせよというのを平等とは言わない。それも画一にすぎない。ポルポトは,貨幣と商業を廃止して都市をゴーストタウン化し,農村の人民公社に国民を収容し,物資を「平等な」配給制にした。これは平等か?。彼は農村の貧農に依拠し,豊かな農民,都会人,知識人たちを大量虐殺した。従来の権利や財産における上層,中層階級を引きずり落とすどころか,大量に地獄へ投げ込んだ。一般にマルクス主義の革命は上層と下層の転倒を行うのに,血迷ったポルポトは上層,中層の滅亡を図ったのである。そのせいで平等の根幹である活動の機会の平等が失われ,経済活動はがたがたになり,国家全体を極貧の状態に落とし込んだ。これは平等への情熱というようなものではない。食糧やその他の生活手段の分配まで,人民公社を通じて,自分たちの手に握ろうとする汚らしい権力感情の発露にすぎないのである。人権への情熱など論外である。あるわけがない。自分の指導能力,社会イメージについてのサディスティックな衝動,邪悪な権力感情というものであろう。ポルポト派の幹部が美人と見れば愛人にしたがったというのもこれに類する。精神病理学の対象ではあっても,人権も平等も関係ない。
 小林さんのマルクス主義批判はピントが外れている。共産主義が『人権のために』『平等社会のために』を目指したなどという観点から,共産主義批判をするなんて奇想天外である。二枚舌のうそ以外で共産主義が「人権」を重んじたことなどない。共産主義にとっての「平等」とは,下層階級,およびその自称代表の共産党による権力奪取,上層階級の無権無産化,投獄・追放・殺害,場合によっては上層中層階級の大殺戮なのである。そして,そのプロセスを通じて,指導能力があるのに不遇だった自分たちの強い権力感情を解放するのである。それが左翼であり,かれらの目的は断じて全体的な平等の実現などではない。そこを見なければ,トンデモ政治学になってしまう。
 いまや本来の左翼はベルリンの壁の破壊以来,東欧共産主義諸国,ソ連邦の非共産主義化によって,勢力は大衰退している。複数政党制が名目だけのものではなく実質的に機能し始め,全知全能の指導能力を自称していた共産党の独裁が終わり,混乱を伴ってはいるが,不能率と粉飾の,共産党国家の命令による計画経済が市場経済に換えられた。共産主義がその社会状況に魅力を欠いていたために相次いだ亡命を防ぎ,他国の体制の転覆を狙っている秘密を守るための国境閉鎖も終わった。当然,言論の自由の圧殺も基本的に止んだ。共産党の支配ではなく,法規範の支配への転換も進行しつつあるだろう。共産主義で残っているのは北朝鮮,部分的「改革解放」を語ってはいるが中華人民共和国,そしてキューバぐらいのものである。マルクス主義経済学者,政治学者の顔は見たくても見れなくなってきている。したがって,小林さんが左翼をどう評価しようと現実にはたいした問題ではないかも知れない。
 だが,左翼的発想は依然として残存している。ただし,左翼の発想は,小林さんの言うような『人権のために』『平等社会のために』ということではない。「人権」もほどほどの「平等」も,社会の安定した円滑な運営のためには絶対に必要なものである。全否定してはいけない。
 残存する左翼的発想の問題点は次のようなものである。
 まず最初の問題は,@革命を,権利や財産において最も下層とみなす集団による,上層集団の引きずり落としであると事実上定義していることである。左翼には本来的に法規範,あるいは倫理規範がない。上層集団,あるいは自らの敵に対しては,いかに犯罪行為をしても,すべてが許容されるとみなすのである。左翼の革命は規範の革命ではない。上下の転倒を革命と呼んでいるだけである。そこで従来の上層集団は,暴行,侮辱,強盗,殺傷とあらゆる犯罪の被害にさらされる。知らないとは言わせない。そういう事実を報告している文献は少なくはない。小林さんは戦争における日本人と外国人の関係において,規範軽視に陥っているから,こういう左翼的堕落の危険は充分にある。
 次の問題は,A被抑圧人民とかプロレタリアートとか女とか非行少年とかを下層集団として設定し,その集団を主体として思考する全体主義,個人を集団の中に消滅させてしまう全体主義である。集団主体思考の全体主義。こういう左翼的発想の一種が小林さんの身体の中でも脈動している。国家=公の制度,政策,戦略などを問わずに,「国のために,公のために」を連呼する小林さんも実は左翼そのものなのである。小林さんは戦前の現人神天皇制臣民国家が肯定に値するかという疑問を一度も発していない。もちろん通常の意味では小林さんは右翼であろうが,大衆の感情に潜む集団感情を刺激し,大衆運動を通じて権力を奪取しようとする意味では左翼的発想に間違いない。
 さらに次の問題は,Bその設定した下層集団を,多数の興奮を通じて(長く続く拍手,マスゲーム)一挙に全知全能へと,絶対の正義へと神格化する手法,その集団を崇拝するか否かに人間の思想と行動の善悪を凝集する手法である。これも左翼の手法である。別に宗教の専売特許ではない。「日本人の個にも神は降臨する」などという小林さんにはこれは防げない。個人が個人である根拠,身体に立脚して,その消滅も見通しながら,断固として人と物に関わって「平凡」に生活し,自立するプロセスを歩むほかに,こういう神格化を埋葬する方法はない。
 また次の問題は,C下層が上層を引きずり落とす転倒というのは,一種の社会的な「驚天動地」の「天変地異」になるということである。「天変地異」の与える一種の興奮こそ,あらゆる革命ならぬ転倒の感性的な基礎になる。小林さんはこれを大東亜戦争に見出している。だが,「天変地異」の残酷と悲惨を思う時,左翼が二度と増えないように,上層の傲慢と下層の怨恨が拡大しすぎないように,ほどほどの平等を実現していくべきなのであり,相互的な人権の保持によって,それぞれの個人の自由な活動が展開されるようにしていくべきなのである。今の日本を「あちこちがただれてくるような平和だ」と言う小林さんは左翼的心情に陥っている。
 さらに左翼リーダーには,D社会を俯瞰して,権利や財産において最も下層とみなされる集団を発見し,その集団に自分の指導能力の過大評価,その不遇の欲求不満(積年の大怨(笑))を結び付け,その解放の手段とする傾向がある。言い換えれば,法規範から見て犯罪でしかないものを,下層集団の転倒(革命?)行為とみなし,支持し煽動することである。いや最下層集団を発見し,それを支援すること自体は悪くはない。ほどほどの平等へ,全社会集団の活動機会の均等化へという観点さえあれば。悪いのは,上層と下層の単なる転倒を革命とみなすことである。小林さんにはこういう危険はないはずであったのに。
 結局,個人の生き方の可能性と国家体制の関わりを問わずに左翼,共産主義批判などできるわけがないということなのである。

(つづく)