自民党憲法改正草案
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 世相心理事例集
2008/7/3
 『大江健三郎という党派・2』
   -戦争の惨敗局面への鈍い想像力(笑)-

                 
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 まず、この裁判の原告、被告共に、集団自決という事実があったことは認めている。判決は、梅澤さん、赤松さんお二人の集団自決への関与を「推認」したが、しかし、お二人が住民に銃剣を突きつけて自殺を強制したとは言っていない。また、すでにサイパンなどで、降伏後の強姦、拷問、侮辱、虐殺などの「地獄」への恐怖と惨敗による絶望などによって住民の自殺は少なくなかった。命令などしなくても、住民の自発的自殺の可能性は低くはなかったのである。さらに海上特攻艇による自爆体当たり攻撃という自殺戦法が準備され、一部で実行されたことからしても、また守備隊にしてからが、食料も兵器も不足した中で、アメリカ軍を迎撃しようとすれば、意図するとしないとにかかわらず、自殺的な玉砕戦法になるほかなかった。では、周辺の住民も同じ戦法に巻き込まれるほかないし、おまけに食料や武器まで不足していれば自殺したくもなるであろう。といって降伏を肯定する思想は「生きて虜囚の辱めを受けず」の日本軍にはなかった。
 渡嘉敷島、慶良間島における約700人と言われる集団自決はいわば不可避の必然であったように思われる。これは戦争に惨敗することによって生じる「地獄」の一つの現象であって、後知恵だけでごちゃごちゃ言っても無意味であろう。
 渡嘉敷島、慶良間島の約700人の集団自決について、「沖縄ノート」の大江は言う。「生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の「部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食料を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ」という命令に発するとされている」(この命令は上地一史著『沖縄戦史』からの引用である。)
 ここでは守備隊は、まるで兵器は思う存分戦闘できるほどあり、また食料も余裕があって悠々と生きていける状況にあったと言わんばかりである。守備隊自体が自殺的な玉砕戦法を取るしかなく、明日の食料さえ乏しかったという状況は書かれていない。守備隊は自分たち自身だって生きていけるかどうかという極限状況にあった。では陣地から住民を追い出して、何とか谷間ででも生き延びてくれと言おうが、いさぎよく自決せよと言おうが、大差はない。
 こういう「自殺関与」を犯罪、あるいは戦争犯罪と呼ぶのは極めて不適切である。
 次に大江は言う。「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである」。むちゃくちゃである。「この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場」だって?。1で書いたように、それはカルネアデスの舟板の状況、あるいは救命艇状況と呼ぶべきであって、犯罪現場などではないのである。梅澤さん、赤松さんお二人は、「血なまぐさい」殺人や銃剣を突きつけた自殺の強制をしていない。「酷たらしい」のは戦争の惨敗局面そのものであって、お二人の決断には特に「酷たらしい」ものはない。自分たち守備隊自身や住民の、自殺的な玉砕戦法や文字通りの自殺という選択しかない極限状況に追い込まれて、ある決断を下しただけである。それには「重い」という形容がふさわしく、「酷たらしい」などという形容はふさわしくない。
 大江はノーベル賞まで貰った小説家のくせに、極限状況における決断というものの不可避性、必然性というものがわからない。何でも思う通りになると思っている。刑事的に言って、そこでの彼らの行動は正当行為や緊急避難に当たり、犯罪性は乏しい。
 そして、大江は、梅澤さん、赤松さんお二人が生き残ったことをネタに「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題」を語る。だが、これは話が違う。後で降伏するのなら、自殺的な玉砕戦法の覚悟を決めていなかったのなら、もっと早く全員で降伏すればよいものをとは言える。だが、人間は一筋縄ではいかぬ。玉砕するつもりが、戦っているうちに死ぬのがバカバカしくなることがあり、それは自殺するつもりが、自殺の準備をしているうちに死ぬのがバカバカしくなることがあるのと同じだ。
 しかも、ここでの最大の問題は、大江が特殊例普遍化という日本の左翼および右翼の識者の共通の重大な誤謬推論に陥っていることである。ここにある事実は、本土の日本人である梅澤さん、赤松さんその他の守備隊の軍人の多くが生き残り、沖縄人である両島の住民の約700人が集団自決したということだけである。「沖縄の民衆全体(大多数)の死を抵当にあがなわれる本土の日本人全体(大多数)の生、という命題」なんぞ成立するわけがない。この言い方を仮に認めたとしても、成立するのは「沖縄の渡嘉敷島、慶良間島の約700人の死を抵当にあがなわれるその両島の守備隊の人たちの生、という命題」でしかない。小説家のくせにそんなどんぶり勘定でものを言ってよいのか?。いや小説家の多くは、社会評論すると、何だかたちまち特殊例を普遍化する癖がある。大風呂敷を広げて普遍的な様子で語らないと、指導者づらができないからであろう。この世には、こういう小説家が多すぎるのであり、学者までもが小説家の真似をしている。
 「沖縄の渡嘉敷島、慶良間島の約700人の死を抵当にあがなわれるその両島の守備隊の人たちの生、という命題」。ここで言えるのは、やがて自分たち守備隊が降伏する気なら、始めから住民全員に降伏を勧めるべきであったということだけであろう。だが、神ならぬ身、すべてを見通すことはできない。
 大江はどうしても梅澤さん、赤松さんお二人を故意の殺人(自殺強制)者に仕立て上げたいらしく、さらに言う。「生き延びて本土にかえりわれわれの間に埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう」。
 「この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていない」だって?。梅澤さん、赤松さんお二人が贖うとは、先に全員で降伏すればよかったということだけであり、アメリカ軍を鬼畜だと思い、捕虜になることは凌辱を受けることだと思っていた自分の思想を覆すことであろう。
 しかし、大江はそういう購いを求めてはいない。「この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう」。プッ。
 「この個人の行動の全体」とは、大江にとっては、故意の殺人(自殺強制)であり、それが「いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているもの」とは日本人全体が沖縄人全体に故意の殺人(自殺強制)を行おうとしているということになる。フザけるにも程がある。本土の日本人たる私には、俺がいつ沖縄人を殺害(自殺強制)したのだ、その頃、俺は無力な赤ん坊として母親の乳を飲んでいたのだ、属人責任はないと怒る権利があろう。
 「かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう」。大江の言うことは、本当にでたらめである。もし梅澤さん、赤松さんが故意の殺人(自殺強制)やその他の犯罪をしたのなら、彼らが属人的に責任を負わねばならない。もし彼らが犯罪をしたのなら「なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? 」などとは言わせてはならない。二重人格者でもあるまいに、私と身体で分離された彼の中に「かれの内なる我々自身」なんぞいるわけがない。彼らのしたことに私たちは責任が全くない。
 大江のような団体主義思考の識者は数多くいる。日本人全体の沖縄人全体への差別というような発想をするために、安易に自分の内に他人を、他人の内に自分を想定するのである。
 大江は特殊例を普遍化する一方、自分が選び取った特殊例をいわば絶対化し、そこに視野狭窄する。大江がこの文章を書いた当時、まだ生きていた渡嘉敷島の守備隊長故赤松嘉次・元大尉を誹謗中傷する。
 「慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」。
 だが、判決では、銃剣によって自殺を強制した事実はないことが確定している。「住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑した」というのも、惨敗局面という極限状況での戦闘態勢の維持の努力であって、正当行為や緊急避難に当たり、犯罪とみなすことはできない。どうせ自分たちも投降したのだから、始めから住民も含んで全員で投降すればよかったとか、どうせ自分たちも捕虜になったのだから、始めから全員で捕虜になればよかったのだとかは言える。また陣地内に住民を収容して、もし大多数が死んで、隊長が生き残ったら、陣地などに収容するからだと非難されただろうし、スパイとして処刑せずに、陣地の弱点を知られて大多数が戦死して、隊長が生き残ったら、無能な軍人として非難されたであろう。神でない私たちにはすべてを見通すことなどできるはずがないのだ。大江のような口先男が、後知恵で言えるだけのことである。
 大江は日本人の沖縄人差別というところに関心があり、それゆえに、沖縄での事件を絶対化し、そこに視野が狭窄し、軍隊が住民を保護しないとか住民をスパイ容疑で処刑するとかいう似たような事件が惨敗局面のサイパンや敗戦前後の満州でも発生したであろうし、また惨敗局面になれば、世界のあらゆる戦争において似たような事件が発生したであろうということに思いが及ばない。なさけない話である。
 サイパンでも、惨敗局面で多くの民間人がのちにバンザイクリフやスーサイドクリフと呼ばれる崖から海に飛び込み自決し、多いときでは1日に70人以上の民間人が自殺したそうである。自殺者は総勢5000人と言われている。アメリカ軍は自殺を防止するための放送を繰り返していたが、日本軍の、アメリカ軍に降伏すれば、強姦、拷問、侮辱、殺害されるというプロパガンダのためにほとんど効果がなかったという。ただし、アメリカ軍によって集められた邦人の老人および子供の周りにガソリンがまかれ火が付けられたというような証言もあるそうだ。いずれにせよ、大江がサイパンのことを知らないわけがないのに、サイパンでの日本人の集団自決については全く何も言わないのである。
 大江にとって問題は沖縄人なのだ。集団自決の命令または推奨が日本人に対してなされても大して腹が立たない。たぶん大江は、かって日本が沖縄を植民地化したことを怒り、日本人が沖縄人を軽視しており、その意志を尊重せず、勝手に使役し、厭なことを一方的に負担させ、時には自殺さえ強制してもよい存在だと差別していると思っている。これは私が大学時代、沖縄がアメリカから返還される以前に、日本共産党=民主青年同盟系のサークルであった沖縄問題研究会の学生と話した時に感じたものと同じである。大江の沖縄集団自決への観点はその沖縄差別反対論、あるいは植民地沖縄解放論の流れの中にある。日本の植民地教育による沖縄人の劣等感とか、日本人以上に日本に忠誠心を持つ沖縄人とか、日本の沖縄に対する「中華思想」とか、要するに、大江は日本が嫌いで沖縄人に日本から独立して欲しいという暗い情念(笑)に突き動かされているのである。
 したがって、梅澤さんや赤松さんが住民に集団自決を事実、命じたのかどうかはどうでもよいのだ。大江は、日本人は沖縄人にそういうことをするのだという先入観に支配されているのである。
 大江はその当時、生きていた赤松さんが、渡嘉敷島での慰霊祭へ出席するために沖縄に行ったことについて言う。「僕が自分の肉体の奥深いところを、息もつまるほどの力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは、この旧守備隊長が、かつて「おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい」と語ったという記事を思い出す時である」。
 一体、この力みは何なのか?。事実を冷静に見れば、赤松さん達のした事は、正当行為や緊急避難で弁護する余地が充分にある。赤松さん達は住民を故意に殺害したのではない。銃剣で自殺を強制したのでさえない。極限状況の中で自殺することがあり得るかもというような気配で住民の保護に配慮しなかっただけである。兵器も食糧も不足している惨敗局面のその場で、それ以上の何ができたかと問うことなく、大江はただただ赤松さん達を故意の殺人者のように扱うのである。そして力む。
 何か非常におかしい。小説家が、合理的な疑いがいくつもあるのに、赤松さん達をあくまでも故意の殺人者、いや殺人鬼のように扱う。何の下心か?。
 「おりがきたら、この壮年の日本人はいまこそ、おりがきたと判断したのだ、そしてかれは那覇空港に降りたったのであった。僕は自分が、直接かれにインタヴィューする機会をもたない以上、この異様な経験をした人間の個人的な資質についてなにごとかを推測しようと思わない。むしろかれ個人は必要でない。それは、ひとりの一般的な壮年の日本人の、想像力の問題として把握し、その奥底に横たわっているものをえぐりだすべくつとめるべき課題であろう」。
 フザケんなよ、ぶよぶよのマヌケづらしたバカタレが。ある個人を殺人鬼扱いしたあげく、「むしろ彼個人は必要でない」と言う。むしろ必要なのは彼個人だけであって、大江のつまらぬ普遍性論など必要ないのである。梅澤さんや赤松さんの個人史こそ必要なのであって、時代錯誤の植民地独立論の当てはめなど必要ないのだ。植民地から独立したら何かよいことがあるなどという考え方はもう終わっている。
 大江は、極限状況での決断を迫られた隊長としての人間を沖縄人への殺人鬼のように扱ったあげく、「一般的な壮年の日本人」と普遍化し、すべての「一般的な壮年の日本人」を沖縄人への殺人鬼のように、いや少なくとも内なる沖縄人への殺人鬼を持った人間として扱おうとする。たぶん大江は自分もそうなんだとほざくであろう。だが、そうはいかない。お前の心が、沖縄人への差別の罪悪感に塗れていても、私たちは塗れてはいない。私たちは沖縄を植民地だなどと思ったことがない。個人として、沖縄人を差別したことがない。私たち個人として沖縄人を軽視したことはないし、その意志を侮蔑したことはないし、勝手に使役したこともないし、厭なことを一方的に負担させたこともないし、ましてや自殺を命じたこともない。いや、お前になくても、国家や地方自治体や政治家は差別している、米軍基地を大多数、沖縄において、米兵犯罪の被害を増やしている、それにお前の責任はないのかと言う奴がいるかも知れない。そんなものはない。私たちは国家や地方自治体を直接、どうこうする権利を与えられたことがないから、したがってどんな責任も義務もないのである。
 たしかに戦後の沖縄にはアメリカ軍の軍事基地が多すぎるし、アメリカ兵による犯罪被害も多すぎる。これは改善すべきだと思う。だが、それは沖縄を日本の植民地から解放せよというような観点からの話ではなく、いろんな地方自治体がなるべく均等に分担するようにするという機能的な話なのである。しかも私たちはそれをいきなりどうこうできる権力を持っていないのである。自分および身内のいろんな懸案もあり、また差別は沖縄人だけの問題ではないし、また所謂被差別集団のうち、朝鮮総連や部落解放同盟やフェミニストのように国家権力に食い込んでいる集団は今やむしろその権力をどう制限するかということが問題になっている。沖縄人は主に地域集団であり、それほどの権力を持っていないだろうから、もう少し応援が必要だろうが、しかし、大江のように力むほどの重大な課題とは思えない。
 何が「想像力の問題として把握し、その奥底に横たわっているものをえぐりだすべくつとめるべき課題であろう」だ。赤松さん達を「イスラエル法廷におけるアイヒマン(ユダヤ人の強制収容・大量虐殺を管理した責任者)」にたとえる大江の想像力などでたらめである。
 大江のような左翼およびかっての日本帝国主義の被害を恐喝、脅迫のネタにする、日本周辺の新帝国主義諸国(中国、韓国、北朝鮮)は今でも、何が何でも、戦争中の日本をナチス・ヒットラーと同等と見なそうとしているが、これはとんでもないデマゴギーである。アウシュビッツは非武装のユダヤ人の強制収容であり、大量虐殺であるが、南京は共に武装した軍隊の激しい戦争の結果である。アウシュビッツは大量虐殺のための強制収容であるが、赤松さん達のしたことは仮に集団自殺を予見できたとしても、直接にはただの住民の保護の放棄にすぎない。
 大江は、自堕落にも赤松さん達をアイヒマンと同じと見なしているから、後は何を語ってもでたらめになるしかない。
 大江は言う。「その想像力のキッカケは言葉だ。すなわち、おりがきたら、という言葉である。…まず、人間が、その記憶をつねに新しく蘇生させつづけているのでなければ、いかにおぞましく恐しい記憶にしても、その具体的な実質の重さはしだいに軽減してゆく、ということに注意をむけるべきであろう。その人間が可能なかぎり早く完全に、厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている場合にはことさらである」。梅澤さんと赤松さんにとってはとんでもない迷惑であろう。勝手に殺人鬼に仕立て上げられ、勝手に「おぞましく恐しい記憶」を持っていることにされ、「その記憶をつねに新しく蘇生させつづけ」よと言われ、そのうえ、「厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている」などと畳みかけられる。名誉棄損で訴えたくもなるだろうよ。
 「かれは他人に嘘をついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく」。大江の語り方はネットリとして、一見倫理的である。だが、その倫理的批判の対象は絶対的に日本という特殊なのであって、中国や韓国や北朝鮮に普遍化されることはない。南京の戦争をアウシュビッツと同じだと「他人に嘘をついて瞞着」するのみならず、嘘をついているうちに、「自分自身にも嘘をついて」それを信じ始めているのは中国ではないのか。毛沢東のキチガイじみた独裁の文化大革命という「おぞましく恐しい記憶」を「つねに新しく蘇生させ」ることもなく、そのうえ、「厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている」のは中国ではないのか。
 そして、この後、大江は梅澤さんと赤松さんと何の関係もないのに、ある強姦兵士を嘘つきの類例として書き、そのイメージを梅澤さんと赤松さんに被せるのである。「武装した兵隊が見知らぬ沖縄婦人を、無言で犯したあと、二十数年たってこの兵隊は自分の強姦を、感傷的で通俗的な形容詞を濫用しつつ、限界状況でのつかのまの愛などとみずから表現しているのである」。戦時中に、同じ国民の女性を強姦する兵士は何人もいるだろうよ。それで、そいつは和姦だ、「つかのまの愛」だと言うかも知れないよ。で、それがどうしたのだ?。梅澤さんと赤松さんは極限状況で住民保護をしないと決断した。だが、強姦などしていない。ところが大江は、梅澤さんと赤松さんが強姦兵士と同類のように書く。まことに大江健三郎とは凄まじいデマゴーグである。
 「かれ(強姦兵士)はその二重にも三重にも卑劣な強姦、自分たちが見棄てたのみならず、敵にむけるはずであった武器をさかさまに持ちかえておこなった強姦を、はじめはかれ自身にごまかし、つづいて瞞着しやすい他人から、もっと疑り深い他人へと、にせの言葉によって歪曲しつつ語りかけることをくりかえしたのであったろう。そしてある日、かれはほかならぬ強姦が、自分をふくめていかなる者の眼にも、美しいつかのまの愛に置きかえられえたことを発見する。かれは、沖縄の現場から、被害者たる沖縄の婦人の声によって、いや、あれは強姦そのものだったのだと、つきつけられる糾弾の指を、その鈍い想像力において把握しない」。
 強姦兵士について上のように書いた後、大江は「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう」と書く。
これで、梅澤さんと赤松さんは強姦魔の同類だ、いや強姦魔でもあるということになる。こんなデマ撒き散らして何がノーベル賞だ、ボケッ。
 しかしまあ、このネットリ、クドクドした文体は何だ、強姦魔はチンポ切れ、タマとっちゃれとかもっとさわやかに言えないものかね?(笑)。

(つづく)