日記よりU

05.4.29− 05.6.14 郵政民営化
緊急入院
05.5.21− 一庫公園 05.8.29− 緊急入院U
05.5.28 05.7.4− 05.9.8−
皮膚科
05.6.10− 05.8.4 05.9.15− 05.10.13−

                            

                              黄色の枡はグーグルから「外山きよ子」の検索で出た結果

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05.10.13

13日
爺さんの敷布や掛布や寝間着など午前と午後、二回洗濯をする。
かぶれが少し増しになると左の肩と言っても背中から首までこり、耳無し法一のように膏
薬を貼り、その臭いで気分が悪くなった。
五時半電話が鳴り出ると切った。小山が空き巣が入るのは夕暮れが多いと云っていた
ので気持ちが悪かったが三十分ほど遅らし、近くのコープに行った。
レジに並んでいると隣の奥さんに会った。前に切られたとき、隣の奥さんではと小山が
云っていたが、整形に行きコープに寄られたのでは、それで空き巣が恐く、うちが居る
か電話で確認されたのではと、誰でも恐いのは同じだとふと。
万引きなどは初犯でなくとも金額が少ない場合起訴を見送るらしく、窃盗も(2003年)
約三分の一(で三万人)は起訴猶予、起訴された場合でもその45パーセントが執行猶
予付きとか、法改正で飲酒運転のように罰金刑が付くくようになるらしいが早くそうして
ほしい。
三日一七日
前に病院の小山から電話が掛かり、主治医の先生が家族、特に次男の奥さんに話した
いことがあるのでと云うことで今日の夜の八時に次男一家が行くことになっていた。
着替えが切れていたので長男の宏も、その時間に病院に行った。
小山が、その時に退院の日が決まると云っていたので夜、帰ってきた宏に聞くと、一週
間か二週間後と云った。見た目には元気そうだったらしい。カテーテルは、もうしないの
かと聞くとしないと云う。それで、どうしてそんなに長くと云うと、日数を掛けて看ないと
判らないと、話が頼りない。そんなわけで翌日の
一八日
夜、孝に電話で聞いた。
「一つの冠はこの間(入院した日)、取り替えたが、もう一つの後からした方が、どうにも
出来ない状態で、十日程して、もう一度、検査をし、それから退院する」と云った。
「そんなら、もうあかんと云うことか? 家族に知らせたいと云われたし」と云うと、「癌と
は違うので」と云い、「先生は皆の居るところで言われた、人に依って受け取りかたは違
うが」と云った。
しかし、悪いところが直せない状態と云うのは帰っても又、発作が起こると云うことだし、
「その時は、どうするの?お前はアメリカに行くし」と云うと「ちゃんとしていく」と云った。
しかし、もう歳だし寿命なのかも知れないと思った。

十九日
遠ざかっていた死が急に近付いたような気が。しかし皆のように上手く死ねるだろうかと
友と話したことがあるが向こうがやってくれるのだ。
こちらは、何時死んでも良いようにしておくことしか出来ない。
十月二十二日
この間から二日続けてサイレンが鳴った。滅多に火事のサイレンなど無かったので放火
ではないかと思っていたが回覧板が廻ってきて、やはりそうだと判った。
(そのあと又、四五日して消防車の音を聞いた)
夕方孝に電話した。明日、病院に行ってくれるらしく、「早く検査をしてくれればよいのに
ねえ」と云ったので、「検査ってカテーテルをするの?」と聞くと、そうだと言う。
何のためにするのかと聞くと最初の日にしたところがうまく行っているか看るためだと云
う。「看て悪かったら?」
「細くなっていたら風船で膨らます」
「そうすると、どうにも出来ないと云っていたところは細くなっているだけなの?」
「そう。しかし、それは今度の発作の原因になったところではない」
とすると、それ以上、細くならないようにすればよいと云う路も残されているわけだ。
昨日までは、まだハッキリ小山の病気の状態が判らなかったが、孝の話を聞いて良く分
かり自分の死もまた少し遠のいた。
孝は今週は忙しかったらしく声がしんどそうだった。金曜日は当直だったとかで、聞くと
当直の翌日は休みになるらしい。と云っても今日は土曜日だが。
肩の凝りは相変わらず酷く、小山の部屋を掃除しているが、休み休みでないと其れも出
来ないし、パソコンも打つと肩が凝るので何も出来ない。
夜、宏が帰ってきて再度聞くと、「どうにもならないと云うところは今、触ると周囲に感染
する危険があり悪くなるので」と云う。
それで「今度、発作が起きたらやってもらえるの?」と聞くと「そう云うことだ」と。
触る(手術する)と云うことは矢張りそれほど危険なことなのだ。
「歩く練習をしているので上着を持っていってやって欲しい。検査の日は未定だが其あと
二日ぐらいで退院できるらしく、孝が行けないときは..」と頼む。


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皮膚科

十月四日
睡眠薬が切れていたので宏の車に便乗し川西病院へ行き、その後、足の指のかぶれが酷く
なる一方で畝野の皮膚科へ。
待合室はこの前来たときと比べると患者が少なくなっていた。
前は、話した人に「変骨だから止めとった方が」と云われ他を奨められたが、その時よりも若
い感じの声が診察室から聞こえてきたので代が代わったのかと思っていたが、中にはいると
同じ先生だった。しかし髪をオールバックにされていて白髪でもなく前より若く見えた。
この前来たときは女の者に向かって「足を洗わないと違うか」と洗いすぎて悪化しているのに
変骨と言われるだけあってと思ったが、今日は嫌みはなく、「接触によるかぶれで水虫は検
査したが菌がないので人に移ることはない。二週間掛かる、其れで悪化するようなら又、来
るように」と一回で良いような感じだった。
帰りに薬局で貰った副腎皮質ホルモンの入った軟膏も、小山が貰った池田病院の皮膚科の
薬と同じ含有量で、この前の半分になっていて、欲しかったものだった。(この前は初めは良
かったが軽快してきたとき、きつすぎた)
診察室に入るとき受付にセールスの人が来ていたが、先生は診察の途中に席を立たれ、
「歳を取って細々とやっていますので、こんな処で話しても時間を損するだけですよ」と声が。
受付の人が三人も居られるのに、やはり前と変わっていなかった。
しかし前は何回も行ったが、病院並に薬をゆるくされ一人の患者の来る回数を減らされてい
るところを見ると、髪は黒いが歳を取られているのかも知れない。


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緊急入院 U

「気分が悪いようなことはありませんか?」と救急車の人が何度も小山に聞かれた。
こともあろうに暫くして小山が「あゝ気分が良くなった」と云った。
「其れは酸素マスクをして貰っているからよ」と私は慌てて云った。それで
「そうです。それをすると気分が良くなります」と向こうの人も云われホットしたが。
しかし暫くして吐き気がすると言って、吐きそうになったら吐いて下さいと先程、渡された
紙袋に唾のような物を吐いたので顔が立ったが。
車が病院に入ると「今日は帰れないかも知れないので。鍵を持っている?」と電話しただ
けの宏が待っていたので驚いた。
一人の人が車に残り、二人の人が小山の寝台を押し、一緒にエレベーターに乗ったが、
小山は上がると又、こんな処で考えて云えばよいのに又、「気分が良くなった」と云った。
少し遅れて孝一家が来た。
女医さんや看護士さんが七八人、集中室の方に固まって向かわれるのが見えた。
奥さんに抱かれて祐衣ちゃんも来ていた。
夏に北海道に行ったときは真っ黒だったが色が白くなり可愛くなっている。
「直ぐにカテーテルを初められるのですか?」と私は循環器専門の奥さんに聞いた。
「色々調べ、このまゝ点滴を続けるか手術をするか決めます」と云われた。
点滴にはどのような薬が入っているのか聞くと「血管を広くする薬(筋肉弛緩剤では)や
ニトロのような薬がはいっています」と私が小山に云ったのと同じものを云われた。
合っていたのだ。血液は詰まらず、細くなっていたが流れることは流れていたらしい。
昨夜の当直は誰も来なくて良かったねえ」と私が言うと「ラッキーだった」と孝が云った。
それで「こちらの人は災難やわねえ」と云った。
宏は孝に弁護士の人に来て貰うため、見合いのようなことをする話をした。私には初耳
で「そんな話をどうしてしてくれなかったのかと詰ると「ママさんにしても何も助言を得ら
れないから」と云った。しかし家族が集まるのは久し振りで、法事で兄弟が集まったよう
な感じで、束の間和気藹々とした空気が流れた。
一度、風船が膨らまないらしいと云う情報が入り、それから大分経って先生が来られ、
「心筋梗塞もあり、最初にした処はどうも、なっていないが前に冠を入れた箇所が悪くな
っているので新しいのと入れ替えることになった」と云われた。そして其れについて「厚
生省の認可は未だ取れていないが再発しにくい薬を塗ったものがあるのですが」と云わ
れ、どちらにするか聞かれた。
「新しいのに願います」と孝が答えた。
その他にも一カ所、悪いところがあり二週間ほど入院することになるらしい。
そのあと、こちらの方に運んできますのでと看護士さんに云われ、私達は集中室の方
に移った。

直ぐに運ばれてくるかと思ったが小山はなかなか運ばれて来なかった。
大分経って画像を見せて貰えると云うので皆、立っていった。付いて立ったが膝と足の指
のかぶれで早く歩けず見失った。
うろうろしていると、電話に出られた当直の先生が横の詰め所から出てこられ、「二階で
やっていますので」と云われたが、未だうろうろしていた。
それでエレベーターの釦を押して中に入られたので一緒に入った。
中で、「一時間ほど待ったが来られないので遅いなあと云っていたのですが遠いところか
ら来られたのですねえ。どこからですか?」と聞かれ「日生です」と答えた。
それから大分悪くなっていたらしく、「来て貰って良かった」と云われた。「ここです」と云
われ、エレベーターを降りると先生は居られなくなっていた。送ってきて下さったのだ。
降りると「菌が入るといけないので中川さんしか入れないことに」と皆、部屋から戻ってき
た。
小山は、来て貰って良かったと言われたところをみると思ったより悪かったのだ。そう云
われれば、このところ朝食が済むと1の字になって昼まで寝、昼食が済むと又、1の字に
なって夕方まで寝ていたので聞くと、「こうしている方が楽なので」と云っていたが、胸が
痛むことは時々あったのかもしれない。前の時に云ったのに、胸が痛むのが心臓と判ら
なかったのだから。今日一日の悪化ではないようなので。
孝が食事に行こうと云ったが「お腹が空いていない。それに太るのが嫌で」と断った。
「空かなくとも決まった時間に食べないと余計に太る」と誘ったが私は動かなかった。
しかし孝らが去ったあと日生のサビエが一〇時までまで空いているしと思っていたのが
時間を聞くと十一時近い。それで急にお腹が空いた。
孝はなかなか帰ってこなかった。手術はまだ一時間くらい掛かると云う。
手術が終わり連れてこられた小山は酸素マスクをしていたが、こんなときでも祐衣ちゃん
に話し掛けていた。
その日、帰って食事の後片づけが終わったのは四時だった。
                                             (終わり)
                  


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緊急入院

十月一日
朝方、足の指が治らないと零していると「さっさと医者に行ったらよいのや」と言っていた
小山が、四時過ぎ庭から覗くと手作りの小さな机の前で新聞を読みながら「胸が痛むの
や」と云った。
それで「ニトロを飲んでみたら。痛みが止まれば心臓やわ。心臓なら寝ていないと」と云
うと「どうして飲むのやったかなあ」と聞いた。
「舌の上に載せるのでは」と云ったが、飲み方を忘れるほど前の発作が遠い昔のことに
なっていた。
薬を舌の上に載せ直立不動の1の字になって寝ていた小山が程なく「痛みが止まった」
と云った。しかし、それから一〇分ほどし「又、痛みだしたので二錠目のニトロを飲んだ
」と云った。
それで「いくら何でももう少し間隔を離さないと」と云うと、薬の袋に付けていた注意書き
を見せ「これに二度飲んで聞かないときは主治医に電話するように書いてあるのやが」
と云った。(それには「発作かも知れないと思ったときは我慢しないで。30分以上の間
隔を開けてなら一日何回使用しても良い」と云うようなことも記されていた)
あれだけの猛暑だったのに小山は夏のほうが良かったと言うようなことも云う。
未だ元気そうだったので「お米も切れているし今のうちに買い物に行ってくるわ」と云う
と「未だ三錠あるから」と言うので急いて行った。
店は五百キロほどの処で、すぐ帰ってきたが,その間に三錠目を飲んだと云い、「底に
残っているようでスッキリしないのや」と言った。
それで「病院に行った方が」と云うと前に病院で発作を起こし収まらなかったことを覚え
ていて病院に行っても?」と云う。
「病院に行けば点滴に収まる薬を色々、入れて貰えるし」というと、新聞で調べ、近くの
救急病院の名前を云い「そこで看てくれるから救急車に電話するように」と今度は命令
形で云う。こんな時でも「してくれないか」とは絶対に云わない。
「そんな知らない病院に行っても何もしてくれないわ」と話しているうち、底に居座って
いたのが取れたらしく「収まった」と言ったので「薬が効いてきたのかしら」と云う。
病院に電話したり,しなければならないことが一杯あったが時間が七時になっていた。
それで「とにかく遅くなってしまったけれどご飯を炊くわ」と、ご飯だけでもとキッチンに
たった。

昨夜から別件で孝に電話を掛けていたが不在で、キャンプにでも行っているのではと小山
と云いあっていた。しかし、こんなことで再度、掛けてみた。孝が受話器を取った。
眠っていたような感じで、「起こして悪かった」と云うと当直明けだったらしく、「当直の時は
奥さんの方も家(里)に帰るので」と云った。
三回続けてニトロを飲んだことを話すと「先ず病院に掛け、その結果をこちらに知らせて」
と云ったので、その手で病院に電話した。
当直の先生に変わり、ニトロを三回飲んだが胸の痛みが残っていることを話すと、もっと詳
しくと云われ、4時20分に発作、一旦収まったが10分後に又痛み二錠目を飲み、そのあ
と、6時に三錠目を」と小山がしたメモを見ながら言ったが、それ以上は判らないので「起
きてきてくれない?」と、出てきて貰った。
今の症状を云えばよいのに小山は、「七日の金曜日に全部検査をして貰右ことになってい
て、その一週間後に結果を聞きに..」と云わいでも良いことを言った。
それで「関係のないことを云って。もう良いから退いとって」と私が受話器を取ったが、「先
の人の話を聞きたい」と云われ又、小山と変わり、あまり話すと良くないので私が取ると
「もう一回、飲めますので、とにかく安静にして大きな発作があれば又、知らせてください。
それから月曜日の朝一番に主治医の先生に電話を入れて下さい。都合によっては来て
いただく日が早くなるかも知れません」と云われ、それ以上話しても無駄なので「判りまし
た」と電話を切り結果を孝に知らせた。
案の定、小山は「動いたので、また痛み出した」と云い横になっていた。
程なく交渉してくれたらしく孝から「入院することになったので救急車に電話してゆっくりで
良いから病院に行って。もう皆を集めて貰っている。こちらも行っているので」と掛かってき
た。健康保険証やら持っていく下着屋寝間着など捜したり、あちこちの戸締まりなどしたり
もたついていると再度、孝からで「いくら待たせても良いから先に救急車に電話するよう。
出払ってしまうときがあるので」と掛かってきた。
其れで救急車に「森ノ宮まで、用意が未だなので10分ほど遅く来て欲しい」と電話した。
この前と違い、こちらの住所と電話番号を聞かれただけで、音も小さく、5分ほどで救急車
が家の前で止まった
キッチンのドアが少し開き「こちらで血圧など測ったり色々することがあるので」と云われ、
覗くと動かさないよう三人で小山を担いでいかれるのが見えた。
下着など小山が持っていったと思っていたので、未だのバスタオルとティッシュを紙袋に入
れ慌てて出た。
救急車に登ると酸素マスクをした小山が銀色の紙袋をしっかりと持ち、前の時は寝ていた
が今はその方が良いらしく、凭れるような形で寝台に座っていた
車が動き出した。そのとき小山が寝間着や下着を入れた袋を持ってきていないのに気が
付いた。担がれていたから持って出られなかったのだ。
                                          {続く)


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05.9.15−

十五日
リハビリで自転車を漕いでいるとき隣に来た男の人が係りの人に設定を頼まれていたの
で「覚えられたら」と教えてあげると「覚える気が無いから出来ない」と云われた。
それで設定をしてあげていると係りの人が来て「初めからしましょう」と、「年齢は何才で
すか」と聞かれた。「七十二才」とその人は云った。私より下なのに覚えられなくなって居
られるのだ。
リハビリを終え出ようとすると、私より少し上くらいの女の人が「折角していただいている
のに疲れました」と云った。それで係りの人が「無理をしないで疲れたら何時でも途中で
止めて下さい。何だったらソフアで休んでいかれたら」と言われた。
帰りしなドアのソバのソフアで横になって居られるその人を見て驚いた。歳は私と変わら
ない感じだが本当にしんどかったのだ。そんなことで今日は色々勉強になった。
十六日
夕方、弘への電話で「前に家を頼まれたも者」と云われるので不動産屋さんですか」と聞
くと「宝塚XX」といわれた。それで弘が宝塚の方で家を捜しているらしく「伝えておきます」
と云った。夜、帰宅した宏に聞くと「連絡先は事務所にしてあるのに」と云い、「明日、合う
ことになっている」と云う。
それで「明日は旅行に行くのでは?」と聞くと、済んでから行く」と。
不動産屋は前にと云ったので、ずっと前と思ったが、捜している感じ。
夜、孝から電話が掛かってきて、そのことを話すと「確定やな」と言った。

十九日
旅行から帰ってきた宏に、家は決まったのか聞くと首を振った。金額を聞くと七〇平方で
駐車場を含め月一五万円とか。それで、賃貸では採算のため良いのが無く九十九パー
セント借りると言って出た次男が分譲を買ったことを思い出した。
二十二日
「今年はどんなのかしら」と小山と楽しむにしていた敬老の祝い品を持ってき下さった。
大きい包みだが空箱のように軽い。それで海苔ではないかと思ったが開けてみたら一
つずつ紙に包んだ煎餅だった。早速試食したが生臭い感じがして後口が悪い。
小山も同じで、京都の名菓らしいがコープの安物のお菓子の方が未だましで、商業ル
ート(スーパーなど)に乗るお菓子と云うのも馬鹿に出来ない気がした。
夜、帰宅した宏に、(いつもはビールを持っていき二階で食べる)かき揚げを揚げたのが
残っていたので「食べるか」と聞くと「食べる」と云って久し振りに下でビールを飲んだ。
それで「中古の分譲でも買えば」と家の話をすると三日ほど前、旅行から帰ったばかり
なのに弘は「明日から旅行に行く」と云った。
それで家捜しも何時のことになるやらと思った。
二十四日
膝の関節が悪化したのと指のかぶれで、よちよち歩きの幼児のように少しずつしか歩
けなくなってしまったが割引券があったので籠に二杯の食料品とティッシュの五箱入りを
買った。其れで女はこんなになっても働かなければならないのだと癌で余命半年の人が
皆の食事を配っているいる姿をテレビで見たのを思い出し腹が立った。

二十六日
指のかぶれが良くなっていっていると思ったら又拡がった。体力が落ちた時,やられるら
しい。
新聞の集金に来られた人が膝の具合を聞いて下さり、「整形で云われたのですが足は
絶対に冷やしては。それで私はこうして夏でも靴下を穿いています」と分厚いソックスを
穿いた足を見せられた。今まで未だ若い人だと想っていたので思わず顔を見たが、そ
んなわけで今日は足を温かくすると云う治療のレパートリーが一つ増え得をした。
夕方、かぶれが我慢がならなくなり、とうとう実験的に少しだけ酢を塗った。
染みて気持ちが良かったが、爛れた箇所には悪く、一瞬に膠のような瘡蓋が出来た。
二十七日
午前中、パソコンのホームページに二つ文を入れた。午後、一眠りしたあと、宏の手洗
いのシャツを洗ったり、疲れたのでそのまゝにしていたキッチンの食器を片付けたりし
遅くなって六時過ぎ買い物に行った。
牛乳が切れているので、無理をして行ったが(小山は赤子のようで買い物一つ出来な
い)歩く度、突っかけで指が押さえられ、今日はあまりぐづつかなかった指が又、堪らず
水で洗うと悪化するので脱脂綿に酢を付け拭いた。初めて酢を付けたときは跳び上が
るような感じがしたが、今日は爛れたところは避けたので、水で拭くように何も感じな
かった。そんなわけで今は膝よりかぶれの方が辛くなっている。
二十九日
色々なものが切れていたので中央まで出る。バスで行こうと想っていたが遅くなったの
で歩いて行った。それで、少し増しになっていた被れが又悪化した。
しかし刀で切ったように、ひび割れ疼いていた踵に買ってきた指絆創膏を貼ったら、疼
きが止まった。


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05.9.8−

八日
夜の十時のニュース解説で司会者が大学教授を呼び小子化問題について話していた中で
その教授は小さい子供が一人居る、妻も働いているのでと言った。
すると古館さんが「女は家庭に帰れば」と古うい話をする人が今時、居ると古いにアクセン
トを付け云った。
エリートはエリートの人と結婚するので専業主婦より働いている女の人が上のように思い、
そう言う共働きの生活が良いように想われるのかも知れないが、私の小さい時代は、女は
皆、家庭に居て、節約し沢山の子供を育てていた。
十一日
投票する間際になって立候補者の名前の漢字を新聞で調べるため大きい虫眼鏡を使い、
格好の悪いことに其れを手に持ったまゝ外に出、気が付き引き返そうかと思ったが、足の
指が悪化するので、其のまゝ投票所に行った。それで歳を取るとそこまで惚けるのかと嫌
になった。
夜、開票速報が八時少し前から始まるというのでテレビの前に座り込んだが、スイッチを付
けるなり出口調査とかで其の結果の当確が次々と出て面白くなかった。
それでも、全ての結果を知りたいと夜中の二時近くまで見た。自民党は自民と公明の二つ
の票が殆ど入るのだから大阪も兵庫も小選挙区はみな、自民が取り、区域を小さく区切り
一つの選挙区で一人しか出ない小選挙区制度、そのものが選挙民にとっても不公平な気
がした。少しの差で投票した者の票が切り捨てられるのだから。

十三日
このところ九月になったというのに連日、三十度以上で何もする気にならない日が続いて
いた。其れが午後、一時間ほど眠ると元気が出て、一日延ばしにしていた洗濯が出来、
七時前になってったが駅前のサビエまで夕食の買い物に出掛けることが出来た。
空は暮れかけているのに未だ蒸しあつかった。
店内は地球温暖化のため冷房の温度の制限でもあるのか、入ったときのあの涼しい心
地よさがなく、干し魚も味噌漬けなども解けていた。それで欲しかったが買う気がせず、
やはり早く行かねばと思った。しかし店内を廻っているうちに八時を越えたので、残った
揚げ物が半額になり、来ただけのことはあった。
買い物が終わると八時を廻っていた。
お腹を好かした小山が首を長くして待っている気がした。そして明石にいた頃、母と子供
二人が鳥の雛のように嘴を揃えて待っている気がし、暗くなった道を急いだ日々が浮か
んできて、母のことを思いだした。
そして、この歳になれば、何事も、する気が起きるまで待たねば体が悪くなるので、今日
やる気が出て洗濯と買い物の二つも続けて出来たことが、とても嬉しかった。
しかし往きし下り坂なので一キロ歩いたのが祟り、足の指のかぶれがひどくなったので
足の悪い間は高くても近くで買わねばと思った。

十四日
J・COMからネットとパケッジになった電話料の請求書が送られてきた。
電話は殆ど掛けないので何時も合わせて六千円台なのに、一万三千円台になっている。
それで内訳を見ると、電報料金が六千六百円余付いていた。
覚えがないので宏に聞いてみようと思ったが宏は家の電話を使わないし、ZAQに問い合
わせた。「NTTから請求があったので}と云うこと、J・COMは電報は扱っていないらしく
「家族の人に聞いてみて欲しい」と云われた。
夜、宏が帰ってから聞くと、いつものことで「そんなことで掛けて」と嫌な顔をした。
そして、「朝の五時頃、顧問弁護をしているところから奥さんが亡くなられたと云う電話で
自分が家の電話から電報を入れた」と云った。
そう云えばそんな事があったような気がした。だが高すぎるので「電報がそんなに高いと
思わないもの」と云うと、「安いのはいくらでもあるが箱に入れて貰ったりすると」と云った。
「事務所ではよくくしている」とも云った。そう云う世界なのだ。
それで衆議院の当選者にずらりと一束五万円の花束が届いていた場面がテレビに出て
いたのを思い出した。
減量のためのせいもあるが、昨日も今日も冷蔵庫からちくわを二本と缶ビールを出し、其
れが夕食だったりする宏の生活も、(遅いので夕食を作れなくなっている)おにぎりで駆け
回っていた衆議院の候補者と似ているが、今はそう言う世の中なのだ。共稼ぎで遅くまで
働き、服装などは贅沢をしても日々の食事は出来合いので済ましたりする...


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05.8.29ー

二十九日。
長いこと行っていなかったリハビリに行った。働いている人が楽しそうだった。
家に居るよりも楽しいと云う意味もあって今の人は皆、外に出るのだと分かった。
この間、中山千夏が商売をしている人も店を手伝っているのだし、今時、働いていない女
の人は御姫さまくらいしか居ないと言ったので驚いたが、節約して家事に専業していた私
の年代の時代と今の時代は違うのだと思った。そう思うと私の昔も、子供の服を作ったり
画を描いたりで、良いこともあった気がした。
九月一日
車なら早く行けると思ったのが渋滞で十三まで一時間掛かり着いたときは始まっていた。
社長の挨拶の後、初めて来た人の自己紹介が始まったが、いつもは新規の人だけが話
すのが時間が余り、他のものも話すことになった。
考えても見なかったことで何を云ってよいか分からず戸惑っていると、同じテーブルのKさ
んの奥さんが立たれた。九三才かのお母さんがすぐ近くに済んで居られ、そのお母さん
に花のスケッチを奨め、それを本にしたことが元気に繋がったのか、何とか自分で立って
トイレにも行き食事もされているという話をされた。
その話が面白かったので、私も何か言わなければと云う気になり、云わいでも良いことを
べらべら喋ってしまった。皆と関連のない去年話したホームページの結果を。
それで切るところを捜しながら、なかなか切れず時間を取った。
そんなわけで、他にも同じような人が多く、休憩時間が少なくなり、陳列されてある本の
表紙を見たぐらいで昨年ほど楽しくなかった。
それに一日中、サンダルを掃いていたので足の小指を圧迫され、かぶれが酷くなった。
三日 
リハビリに行こうと思っていたのに、すっかり忘れていて、行けなかった。それで物忘れが
酷くなった気がした。

九月四日 
蒸し暑い日が続き足のかぶれが痒くてたまらず水で何度も洗ったが、悪化していくようで
氷で冷やしたり絆創膏貼ったりすると少し収まった。
五日
冷蔵庫の食べ物が尽きたので仕入れに行くついでに一週間振りにリハビリに行った。
足を揉む機械を掛けていたとき、隣に居た人が八三才と云われ思わず顔を見た。
そう云われるとそう云う気がするが元気そうだ。
「七〇台は良いが八〇台になると何をするのも嫌になる、口だけは達者だが。其れが無
くなれば、お終いで」とその人が云い、良いことを聞いたと思った。

交友さんから、この間の会合の写真が送られてきたが、去年のと比べ、これが自分顔な
のかとなのかと泣きたくなった。
それで気持ちが萎え、孝がパソコンに入れてくれたデジカメの写真を開けた。
その写真はそれほど悪くなく、それで良いのも悪いのも自分の顔だと思った。
その中で、結婚式の写真がその日の朝、宏が予約しておいてくれたセットに行ったおか
げで、いつまでも見ていたいほど良かったので、外に出るときは自分ででもセットをして
いけばと、この歳になって思った。
七日
二週間分しか貰えないので睡眠薬が切れ、薬を辞めようと挑戦したが熟睡できず体調
まで悪くなったので、宏の事務所に行く車に乗せて貰い病院に行った。
それで往きしの二キロは歩かず助かったが、残暑がきつく、足のかぶれは少し悪化した。
郵便受けに入っていた民主党の年金手帳になった宣伝が、良く分かりアイデアが面白か
った。


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05.8.25ー

八月二十五日
夕方、気が付くと首が左に回らなくなっている。
変わったことと云えば草むしりを少したくらいで全く原因が分からない。
板のようになった左肩と首にかけ湿布膏薬を貼り、一寝すると肩から背中に掛けての凝り
はとれたが、今度は全く首が動かなくなっている。
頭への血液の通りも悪くなっている感じで前にも少し廻らなくなったことがあるが、その時
とは感じが違う。それで十時のニュース解説も今日は聞けなかった
八月二十六日
朝、治っているかと思ったが全く。悪くなる一方で整形に行く。
X腺の結果、首の筋肉と靱帯が痛んでいると云われ薬を貰う。頭の一部分が時々、チクリ
と痛んだが、其れは黙っていた。昼食の後、貰った消炎剤を飲み首に膏薬を貼ると夕方、
大分良くなった。薬は朝夕二回なので夜は調子が良かったので抜いた。
そのせいか一眠りし起きるとまた、初めほどでないが首が凝っている。
八月二十七日
日曜に孝と一庫公園に行くことになっていたので、首のことは祐衣ちゃんが楽しみにして
いるのが不意になってもと電話しなかった。
そんなわけて気持ちは不安だったが、折角誘ってくれたのだし、どうにかして行こうと思っ
た。幸い、消炎剤を飲むと元気が出て、行ける自信が出てきた。

一庫公園は駐車場が満杯で踏切の付いた入り口に五台ほど並んでいて二十五分待ち、
やっと入れる。
この前来たときは水の上流の木陰で休んだが、毛虫が落ちてくると云うことで今日は下
の広場上で休むことになり、テーブルと、私と小山のために持ってきてくれた椅子が組み
立てられる。
そこで「紙コップは?」と裕美子さんが云った
そのとき初めて私は朝、電話で自分が云ったことを思い出した。
「紙コップが一っぱいあるから大きなポトルを買ってきて」と。
そして紙コップを持ってくるのを忘れてきたのだ。
それで孝に小さいのを売店まで買いに走らすことになってしまった。
今日の御弁当はお握りと巻き寿司とさつまあげなどだった。
食後、広場に席を取ったことが幸いして裕美子さんと孝がバドミントンを始めた。
それが楽しそうで「私も打たせて」と変わって貰った。
然し目が悪いため羽がきらきらと前まで近付いてくるのは見えるが進みたりず、受けら
れたのは一度だけだった。
それでも楽しく今の若い人は幸福だなあと思った。自分が何も運動をしなかったことが
悔やまれた。そして小学生の頃、寒い冬の日でも半袖にブルマーで体操をさせられたこ
とが起因して運動嫌いになったのだと小山に零した。
小雨が降ってきたので樹の下に移動したら尺取り虫が糸を垂らし、ぶらさがってきたの
で下に降りれば蟻の餌になるため手を持っていくと、難儀し口を左右に動かせ糸をたぐ
り寄せながら少しずつ元の木の枝の上に登っていった。
今日は「水の流れ」には一度しか行かなかった。それも一人で
杖を付いて二百メートルを一往復した。


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郵政民営化

八月十三日
盆に小山の弟が来たとき話したのだが9年前、今の家を購入するため定額貯金を引き出し
に行ったとき、月末で郵便局の自販機に長蛇の列が並んでいた。
そこで「お金が出ません」と苦情が出た。局員が一万円札百枚の束を一束入れた。
然し、直ぐになくなり機械は止まった。
その度に一束入れられたが(一束しか入れられなかった)、それを見て皆は雪崩のように向
かいの銀行に引き出しに走った。
私の引き出しも三日ほど後にしてしてくれるように云われた。期日が迫っていたので、その
日、全額貰えるか不安になり「百万円でも今日、貰えませんか?」と聞いた。
そのときバイトの子だが「其れが無いのよ」と囁いた。
郵便局の預金総額は五大銀行の預金を寄せた額だと聞いていたが道路に使われたのだ
ろうかと思った。
その他にも、その何年か前、定額が満期ななったときだった。
継続を奨められたが断ったのに郵便局の人が四人ほど来て長時間話し、継続の印鑑を証
書に押された記憶がある。満期にになった者がどっと出る時期で、一度に引き出されては
困る事態事態があった感じだった。
それから十五年くらい経っている。誰も郵政に手を付けなかったのだ。

そんなわけで私は郵政民営化には賛成だけれど、今回は弟も市会を辞めたし、自分の意
志で投票することに決めているが、ニュース解説を聞く度に気持ちが変わり、選挙の日ま
で迷うのではと思う。


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05.8.4−

八月四日
七月二六日より家族で北海道に旅行、八月四日、伊丹空港からハイヤーでに帰ってくる。
予定より早く六時過ぎに家に着いた。
雨が時々降ったのか全滅していると思ったゼラニュームが青い葉で迎えてくれた。
旅行の間中、頭を離れなかった空き巣も入った形跡がなく、冊子などが良く来るので気に
なっていた郵便物も思ったより少なくホットした。
出発の前日に歳暮に戴いた白桃を冷蔵庫の野菜室や上に入れてきたのも気掛かりだっ
たが、熟して食べ頃になっていて、ホットした。只、何時も戴き楽しみにしていた漬け物が
賞味期間が少ないため返品され申し訳ない気がした。
帰ってくると私は一番にパソコンのところへ行き宏は仕事のことが気になるのが、その足
で大阪の事務所に車で出掛けた。
翌八月五日
十一日の結果を聞きに川西病院へ。午後一時の予約で山下から一キロの木陰のない炎
天の路に血管の水分が減り流れにくくなったのか途中、頭がキリリと痛んだので病院に
着き次第、売店に缶コーヒーを買いに走った。
その日、血液検査もして貰ったが数値も悪くなく、CTの結果も、悪いものは出来ていない
と云われた。それから孝からは聞いていたが今月で病院を辞め開業することになったと
先生が言われ驚いた。
その時私は何を云ったか忘れたが「とにかく三ヶ月の予約をしてくださり名刺を貰い「又、
遊びに来て下さい」と云われた。大学に居るのかと孝のことを聞かれたので奥さんが勉
強家でアメリカに付いて行くことになったと話したが「奥さんも医者で?」と知られなかった
らしい。折角、肝臓に関しては腫瘍が出来ても、小さいうちの見付け採って貰えると安心
して居たのに、そんなわけで何だか悲しい一日になった。
開業されるのは平野からバスの向陽台で、遠いため川西に留まることになると思うが、
孝にも聞いてみようと思った。
八月六日、旅行中の下着の洗濯をした。
八月七日、旅行中の宏のおしゃれ着を洗うが、この頃から旅の疲れが出てくる。両足の
小指と薬指のかぶれが、酷く苦しむようになる。
そんなこともあり暑さや忙しさで八日か九日に行こうと思っていたリハビリも又、悪くなれ
ば行くとして止めることに決心する。

八月十二日
最後のホテルを出るときに杖が見当たらず「戻ってきますよ」と西尾さんのお母さんに言
われたが日が経つので諦めていた。その杖を宏が持って帰ってくれた。
事務所に届いていたのだ。折り畳みのを買いに行かねばと思っていたが、今のは長期
入院で歩けなくなったとき小山が買った病院推奨の杖のため、丈夫で使いやすかった
ので、とても嬉しかった。
八月十三日
「明日は帰るのか」と昨夜聞いたとき分からないと答えた宏が今朝、出掛けに聞くと、
帰ってきたばかりなのに「今晩から旅行に行く」という。
どこへ行くのか聞いても分からないと行く先は未だきめていないらしい。
北海道から帰ってから「旅行は止めて家でも捜せば」と口癖のように云っていたが聞い
ていなかったのだ。
お盆に小山の弟が来るのでリビングに掃除機を掛けたり、ついでに時分の部屋にも掛
けたり久し振りに掃除をしたら悪かった体調が良くなった。
八月十五日
お盆で小山の弟とお姉さんが神戸の方から来た。
もう遠くへ行けなくなっているので近くのコープでお寿司を買った。巻きはウナギの入っ
たデラックスなのが売っていたので其れと鯖のバッテラと普通の巻きが好きなので其れ
を買った。毎年のことだがお姉さんがちらし寿司のパックを沢山持ってきてくださった。
去年の巻きもそうだったが源ちゃん寿司のお寿司は昔ながらの味で外で食べるのより
味が良く、今日のもかやくも沢山入っていておいしかった。
其れが一パック三百円とかで「何でも安く買えるところも良いですねえ」と私は云い、
「お盆なので生ものはいけないと思って」と姉さんも言い訳のように云われ、
「こんなおいしいものが食べられるなんて」と公務員だった小山の弟もいつもの口癖で
昔に返ったような一日だった。
北海道のホテルでのグラス一っぱいが八百円もしたフルコースのホテルの食事より私
にはこちらの方が合っていて、今年は小山もおとなしく皆の会話も弾み、お姉さんに曾
孫が出来たと云うのも目出度く良いお盆だった。


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05.7.4−

七月四日
朝食を食べた後、爺さんの部屋を覗くと寝ていた。それから昼まで寝て居て昼食を食べる
と又、寝ていた。それでいよいよなのだと思っていると夕方起き上がって座っていた。そし
て夕食を食べるとテレビを見ていた。其れも今までは夜遅くまで見ているときがあったが
10時には消灯して寝ている。それでも、いつも宏が家を出るまでは起きているので宏に
は元気なようにポーズし、私には弱っているようにポーズしているのか知れないと思った
が、歳を取れば弱っていくのかも。
私も検診の結果が二三日前に来たがコレストロールも少し高かったし要精検のもあった
りで、あちこちが悪くなっていくようで休憩する時間が多くなった。
七月五日
保健センターから大腸癌の結果が送られてきた。一昨年、陽性で精密検査を受けたが便
が残っていたため結果がよく分からず腹を立て、昨年も今年も提出しなかった小山が結
果を聞いた。それで「どうもなかった」と云うと「それなら俺も大丈夫や、お前と同じものを
食っているから」と云ったので呆れた。水を飲まないため三日に一度の便秘の腸と、の
べつまくなく間食し、その度に便通があり小川のようにサラサラ流れている私の腸とは仕
組みが違う」と説明したが、其れも分からない感じだった。
七月七日
寝ていると、もう駄目なのかと思うが起きてくるとぴんぴんしていて、その寝ている時間が
だんだん多くなっている小山を見ていると、其れも上手な死に方と言うか死んでいく生き
方かもしれないと思う。眠っている間に身体が快復し、その回復する時間が段々多く掛か
るようになって行く... それで何年間か同居していた母親のことを思いだした。
終日寝ていたが、運動のため夜は食器を洗って貰っていた。母は「寝ている方が楽だ」と
云っていたが食事の時は起きてきたしトイレも自分で行った。それに食事も皆と同じもの
を食べていたので世話が掛かると思わなかった。それで死ぬまでには、私もまだそんな
期間があるのではと思った。小山は心臓が悪いから別だが。
リハビリに行くと後が疲れて、その日は何も出来ないので運動量を減らそうと思うしのだ
が、行くと頑張ってカルテ通り自転車も10分間漕いでしまい、全ての運動器具もしてしま
う。

アクセスが少なくなったのでサイト登録に挑戦した。はじめヤフーに挑戦したが第一段階
として合うカテゴリを捜さねばならず、「文学」を選択したが、其れは確当せずで合うのが
無く諦めた。それで他の検索サイトに挑戦したが、うまく行かず、インフォスィークスで受
付終了と出て驚いた。その上、infoseekが楽天なのに又、驚いた。そのあとに一ヶ月経
過してキーワード検索で検索できない場合、連絡するようにとあり、登録がうまくいかな
い場合の理由が列挙されていた。
その中で、METAエレメントの文字数が1000バイト以上ある場合と云うのが気になり、
パソコン用語辞典で調べたが、よく分からなかった。しかし登録が出来たことはラッキー
だった。それでインフォスィークスから外山きよ子で検索すると他のと同じで四つ出てき
た。外山弁護士事務所でも検索したがインフォークスでは、ホームページまでは出てこ
なかったので、私の一ヶ月後もあまり期待できないと思った。
七月十一日
超音波とCTの検査に川西病院へ宏の車に便乗して行った。あとで眼科に行くので再来
器にカードを入れているとき先生が代わられていることを知った。
それで超音波を待っているとき隣に腰掛けている人に、「良い先生でしたのに」と、その
話をすると「良い先生は引き抜かれる。残っているのは...」とその人は想像で云った
ので聞こえないかとハラハラした。
名前を呼ばれ入ると前田先生は部屋の隅の机の前で腰掛け仕事をして居られ、若い子
で、いつもよく診て貰う肝臓は少しだけで、腎臓ばかり見ていた。
あとで結果を聞くと、どうもないように云われたが前田先生はたまに覗きに来られただ
けなので、CTに陰があれば、どうなるのかと思った。(CTに陰があっても、部位が表層
の場合、超音波に写るので超音波が異常なければ陰は血液の乱れと云うことになる)
この前もそうだったが、入る前に「前田先生ですねえ」と念を押していた人もあり、完全
に安心できなかった。
眼科で待っているとき私が手に持っていた猪名川保険センターの封筒をみて「猪名川の
人ですか?」と話し掛けられ、眼の先生が赤ちゃんが産まれるために退職されたことを
知った。帰りにトマトに寄りぐるぐる回ったので疲れた。今、腎臓ばかり診て居られたの
は結石でも又、出来たのではと思った。


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一庫公園

六月二十六日
一庫公園に行く日で「途中で御弁当を買っていて遅くなった」と昼前、次男一家がやって
きた。それで、そのまゝ車に乗り込んだ。私が「奧さんは?」と孝に聞くと「ここに」と後ろ
の席から裕美子さんが答えた。おとなしいので乗られたのが分からなかったのだ。
「奥さんて何?」としきりに祐衣ちゃんが言葉の意味が分からず覚えようと聞いた。
「ここを右に回って」と小山が言い一週間前に妹と通った道を車は進んだ。
いつも通る長いトンネルを潜り一庫ダムによって出来た知明湖に架かる鉄橋を渡たると
「駐車場が満杯と書かれている」と孝が云った。
「どこかに置いておけば」と私が言い「炭焼き小屋の横にでも」と小山が言ったが、ゲイト
で遮断機が降り通行止めになっていて三台、車が止まっていた。
「こんな所で渋滞するなんて」と私が言うと「一台一〇分程待てば降りてくる」と孝が云っ
たが「出る人があるかしら」と水の中から出ようとしなかった連中を見ていた私は心配だ
った。しかし孝の云った通りで程なく上から一台降りてきた。
それで嬉しくなって拍手した。五分ほどして又、一台降りてきた。今度は孝と祐衣ちゃん
も拍手した。そこから駐車場まですぐだった。
車から降りると、この前は長く思った道が、それ程でなく、途中、祐衣ちゃんが昔懐かし
い噴水になった水飲み場でつま先を立て背伸びをし器具に口を付けて飲んだので「汚
いよ」と云ったが、祐衣ちゃんは、そこまでしか届かなかったのだ。
私達は流れの始まりに向かって途中から草を踏み上った。
その側の木陰に、孝が回り道して引きずって来た手押し車の中からアルミのテーブルと
椅子のセットを「地面が濡れていたらと持ってきた」と云いながら引き出し組み立てた。
テーブルの上に御弁当が拡げられた。「お茶は一人一つずつある」と祐衣ちゃんが500
CCのボトルを皆に配った。
「お握りは二つずつで。コレはたらこ、コレは梅干しコレは..」と裕美子さんが説明した。
御弁当の折りは洋食と和食のがあり、手前にある和食のを摘んだが昔の駅弁のように
濃い味付けで一つ一つがおいしく、さすが阪急、裕美子さんの選んだものだと思った。
「祐衣ちゃんはハンバークが好きやなあ」と孝が云ったので見るとハンバークを頬張って
いる大きな口が見えた。
食事のあと少し休憩したが、孝と一緒に水の中に行った祐衣ちゃんが帰ってきて又、出
掛けていったので、無しでも歩けるのだが万一のことを考え杖を持って後を追った。
私が杖を付いて水の中を歩いていると祐居ちゃんが来て取り上げ杖を左右に付いて歩き
回り離さないので私は杖無しで歩いた。男の子は一才くらいのも膝までのパンツを水滴
が垂れるほど水浸しにして駆け回っている。
二キロメートルの長さの流れを一往復して帰り暫くすると祐居ちゃんは又、裕美子さんと
遊具の沢山ある「守の遊び場」まで出掛けていった。
私は妹と往ったので木陰で腰掛けているのが心地よく動けなかった。それから流れは大
分長い間、止められていたが祐居ちゃん達が帰って来る前に再開した。
孝はどっどっと上から流れてくる水を「遅いなあ」と眺めていたが私は見に行くのも億劫で
そこが心地よく椅子に腰掛けたまゝでいた。
祐衣ちゃんと裕美子さんが帰ってきた。祐衣ちゃんが又、水の方に行ったので がめつい
私は折角来たのだしと再度、後を追い一往復した。
帰り、何か買っていこうかと云うと「お前、お腹が一杯で食べられないなあ」と孝が由美子
さんに云い「カルピスがあったから其れを飲んで帰る」と冷蔵庫を覗いたのか私に云った。
帰ってから来客用のカットグラスに氷を入れカルピスをそそぎ妹が持ってきてくれたおか
きを出した。器や氷で、カルピスも何時もと違っておいしかった。
今日は曇っていて、滅多に出ることの無くなった私達にとっては最高の日だった。それに
戸外の空気の良い木陰に長時間浸っていたせいか、身体が違う身体になった気がした。
それで「この日生も空気が汚くなったみたいねえ。幼稚園の通園路に信号が付いてから
向こうの路を通っていた車が、こちらの路を通るようになったせいと違うやろか」と小山に
話した。それから何日か経って私は小山が水に浸らなかったのに気づいた。


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05.6.14−

睡眠薬が切れるので川西病院まで事務所に行く宏の車に乗せて貰った。
車の中でホームページの文が良かったので、そちらで書いたのか聞いた。殆どと言った。
いくらしたか聞くと五十万はしなかったが四十五万以上掛かったという。
「それでもデザインが良かった」というとサンプルを見せられ、その中から選んだというが
ページ数が多いから、そのくらいしたのではと思った。
やはり近々式を挙げるらしく、「子供が産まれなくても?」と聞くと「未熟児が生まれると
云うことか」と分かっていず、まだ四十一だと云う。相手の人は若く見えるが数えで云え
ば生まれるのは一年後なので四十四になる。
今はどうか知らないが昔では最後の年だ。それに同居していないにしても籍を入れてか
ら二年近くなる。計画出産をしているのではと気になったが少しでも前進したのだと諦め
た。それで式のことは孝に知らせたのか聞くと知らせたという。話していると病院に着い
た。車を降りるとき七月の終わりから月初めにかけて開けて置いてくれと云った。
睡眠薬は着くと直ぐ貰えた。帰りに山下の駅前の店とサビエに寄った。
朝、早く目が覚め汚れが気になっていた私の部屋の雨戸とエアコンの外機を雑巾で拭き
掃除したこともあり、帰ると疲れて、鱶のように眠った。
歩いている間は膝が痛まなかったが帰って階段を下りるとき少し痛んだ。歩いているとき
より休んでいる後の方が調子が悪く病気の型が変わっているような気がする。
五時過ぎ目覚めホームページを開けると昼過ぎ入っていなかったアクセスが六つ入って
いて嬉しかった。
宏はそのうち遠ざかっていくし、読んで貰っている人だけが頼りの気がする。

六月十六日
駅の方に行く用事があり帰りにサビエに寄るため手押し車を引いていく。帰ってから買っ
た物を計ると九キロあった。それで疲れ何も出来ず、昼寝をすると、夢を見、目覚めると
八時になっていて驚いた。
夜、妹に 「梅は置くほど大きくなりシロップにするのも熟したものの方が良いが風で落ち
てくるので都合の良い日を知らせて欲しい」とメールを書いた。
そのあと孝にも「 妹が梅を摘みに来る日に一庫公園に連れて行ってくれるので下見をし
ておく」とメールを入れた。
六月十八日
シャワーを浴びリハビリに行こうとしていると今から行っても良いかと妹から電話が。
土曜日はは行けないと云っていたので掃除もしていない。それでリハビリのことを云うと
それなら昼からにしようと、又、電話すると云った。
午後、待っていると四時近く「暑いので遅らせたけれど今から出る」と掛かってくる。
待つ間もなくピンポンとベルが鳴り主人と二人で畑に寄ったのかジャガイモや玉葱、筍、
お茶やお菓子などを持ってやってきた。
一庫公園は五時までというので、直ぐに出掛けることになった。
用心が悪いので「うちのは家に居る」と云ったが「兄さんも行かれたら」としきりに妹が誘
った。そう云われ「こいつが家に居て欲しそうに云うので」と自分は行きたいような口振り
で小山が付いてきた。
代わりに妹の主人がとテレビを見て梅を摘んでおくと云われ、留守を頼むことになった。
しかし七夕の星のように一年に一度しか逢わない妹と姉妹だけの積もる話をしながら歩
けば長い距離も短く楽しさも倍増すると思っていた私は面白くなかった
とにかく気が利かないのだ。この前も何年ぶりかで弟の家に行ったとき二時間ほど独り
で喋って私は何も話せなく、気分が悪くなり後で病気になって大分、長い間、入院した。
それでも車の中では孝と行くときのため「道順だけは、しっかり覚えて置いてよ」と他のこ
とは何も出来ないが一度行った道だけは忘れないたちで頼んだ。
一庫公園に着き車を降りると小山は一人でさっさと歩き、直ぐ十米ほど間隔が空いた。
毎度のことだ。それで膝が悪いのに早足で歩かねばならず、そんなこともあろうかと杖を
持ってきたが良かったと思った。
空は少し曇っていたが、それでも暑く紫外線のこともあり私は日傘を差した。しかしいつ
の間にか傘をすぼめ落としたのかと思うと小脇に抱えていた。そんなことが何度かあっ
た。皆に付いて行くには杖を使った方が足を痛めず傘を差しては杖を付きにくいのだ。
「ともかく水の流れるところへ行きたいと」と云い、妹は途中からでも上れるのだけれど
と歩いているうちに階段を上って入れるところまできた。
そこは二百十米の流れの一番下で子供が二十人ほど居た。
裸になって泳いでいるのもあった。折角来たのだしと私は足をつけた。水は澄んで冷た
かった。
それから孫の祐衣ちゃんのために遊具の下見をしに先程通り過ぎた「森の遊び場」まで
引き返した。遊具は面白いのが色々あり一つ一つ見て回った。
ともかく今日は杖が守っていてくれた気がした。


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05.6.10−

六月十日
宏がウェブデザイン事務所にホームページを頼んだ、と云っていたので時々検索していた
が、いつも掲載されていないので、資料を送らねばならないと云っていたこともあり、まだ
出来上がっていないのかと思っていた。
それが、今日たまたま「外山法律事務所」で検索すると凄いのが出てきた。さすがプロと
思った。ウェブデザインの雑誌にも載ったらしい。レイアウトも文章も一流の感じ。
それに引き替え私のはトップページはださく、アクセスも自分が開けるばかりでこのところ
どんどん減っている。それで「悲しいお知らせとトピックニュース」と云う題で孝にメールし
一応、宏のホームページのことを知らせた。
前に宏が「他の法律事務所の頁を調べたが、今一つで、プロに頼むことにしたと云ったと
きには、其れもそうかも知れないと思ったが、そう言うセンスのある業者を選んだと云うの
が凄いと思った。それで小山にも見せてやった。
何時も梅の実が大きくなると知らせている妹にも梅の実が遅れているのを知らせるついで
に宏のホームページのことも知らせた。
六月十一日
昨夜、私がメールを送信したあと、直ぐ書いてくれたらしく一時間違いの送信時間で妹の
メールが朝、開けると入っていた。
梅を摘みに来た日、一庫ダムの公園に連れて行ってくれるらしく昨年の久安寺を思い出
、もう一年経ったのかと思った。
本田さんの川柳の本のことも書かれていたので又、メールした
六月十二日

妹から又、返事が入っていて、本田さんが一日七十首川柳を作られることや毎月、夫婦で
ハローアサヒの川柳に応募、二十八首ほど掲載される中にどちらかが載っていることや、
初めて一年になるが川柳で特選を二つ貰ったらしく、その川柳や掲載された俳句が二首
記されていて、いずれも良く、私がなかなか弾けなかったギターを簡単に弾いた昔を思い
出し、妹は器用なのだと思った。
向こうが送信した時間を見ると12時近かったので、昼間はボランティアに行っていること
もあり、昨日、今日と続いていたので返事を書くのを差し控えた。
六月十三日
ゴミほろの所で田中さんに会う。一つ置いて隣で、隣が引っ越され回覧板を持ってきて貰
うようになったことから親しくなっていたのに、やはり引っ越されるらしく、どこに移られる
のか聞くと美山台と云われる。そんなことで色々、話を聞く。売価は相場で二千二百万円、
暮れに申し込まれ明けて売れたらしい。
今度の家は九十坪の土地を三千万円で駅の近くの清和不動産から購入、ダイワハウスで
建てて貰われたとか。
美山台は駅の近くの高級住宅地で最近、爆発的に家が建てられているので売れるのか
心配していたが、皆、清和不動産で土地を購入、積水ハウスなどで建てて貰われている
らしくい。
いくらで買われたのか聞くと、シャッターを電動にしたりで七千万ほど掛かったらしい。
今の家の後は学校の先生が入ってこられるとか。
話は変わるが隣も昨日見に来て居られたが田中さんは、その人と話されたらしく、決まっ
たらしい。自分の所は経費を入れると五千万円を超えたと、こちらも情報を提供すると高
く買われたのですねえと驚いておられた。
田中さんの新居は駅へ行く信号の所を左へ曲がったところに在るらしく、しきりに遊びに
来て下さいと云われていた。
帰りにゼラニュームの鉢を二つ上げたら、とても喜んで居られた。
今日、遅くなっていたので、いつもは湧かす風呂をシャワーで済ませリハビリに行った。
年齢が年齢なのでシャワーが使えたと云うのが嬉しく、これからはシャワーで済ませると
自信が出来た。
リハビリの後、お米やおかずを買って帰ったが、暑いのと運動で疲れた。


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05.5.28−

五月二十八日
田舎の土地の固定資産税を払うため中央まで行った。
足の指がかぶれているのでサンダルを履いて出たが二十0米ほど歩くと不安で杖を取りに
帰ろうかと思った。しかし手押し車を引きずっていたので、どうにかなると、そのまゝゆっくり
と歩いていった。そんなわけで、いくら何でもヒールの高い靴をリハビリに履いていけず、突
っかけの少し上等なのをデパートまででも捜しに行かねばと思っていると、帰りに寄ったサ
ビエの中の店で丁度良いのが売っていて助かった。
昨日、久米宏がテレビで漫画家志望の娘さんが台湾に漫画を買ってもらえる出版社を捜し
に行くドキュメントをしていた。しかし私は画を描いていたので没になった最初の画の方が
芸術的で好きだった。完成されていないと云われ読者の好むリアルな画に変えて気に入ら
れ漫画家としての道が開けたようだったが。
若い人は食べて行くためにプロを目指されるが、これから生きていく者と、死んでいく者と
は願いが違う。私はこれから死んでいく者なので、それに年金があり食べていく手だてを考
える必要も無いので、書きたいように書いているが、命も残り少なくなったので、完璧なもの
を目指すより、少々推敲不足でも少しでも多く残したいという考えに変わってきている。
今日、コンドルのドキュメントをテレビデやっていた。
コンドルは身体が重たいので気流に乗らないと飛べず気流の強いアンデス山脈の岩山の
絶壁に住んでいて死肉しか食べないため、1日百キロ飛ばねばならず、死んだ動物を見
付けるのは大変なため集団で住み、手分けして捜し、見付けた鳥が、その上で高く円を描
いて飛び、それを見たその周りの鳥たちが順に円を描き遠くのものにも知らせ一緒に食べ
る。飛び方も上手い雄が飛びやすい場所から順に、難しいところで子供達に練習させ教え
るといったもので、自分たちの生き方を子供に代々伝承してきた世界で同感した。
そのドキュメントは、その方が安全なため遠くで独りで住んでいる雛に餌を運ぶ場面もあり
しけのため五日も行けない時でも、明けると直ぐ、何も食べず、ぐったりと横になり待ってい
る雛のところへ餌を運ぶ。それを見て、どんなことをしても子供を育てる鳥の方が宏より偉
い気がした。
今日はアクセスが三つしかなかった
六月一日
私は空想で書けば小説、事実を書けばエッセイと単純に考えていた。
それで過去のことは今「自叙伝」に書いているので書けず「新作」に書くエッセイの素材が
無く書けなくなったような気がした。それが孝が小学生のときに書いた「生活ノート」(七
冊目に書いた本で日記のようなもの)の、「思っていることばかり書いて在ったことを書か
ねば」と云う教師の注釈を思い出し、そのとき自分も同じ思いだったが同時に日記は想っ
たことでも良いのだと教えられた。そして小学六年生のとき隣の組へ行けば公立を受け
られるのに他にも理由はあったが、その組へ行けば日記を書かされるので行かなかった
ことを、そのとき悔やんだことも思い出した。
そのことから、それまでエッセイは事実をを書くものだばかり想っていたが、エッセイは随
筆とも云うし、思いつくまゝ書けばよいのだと目から鱗が取れたように解った。
そう想うと、想うことなら無尽にあると自信が湧き道が開けた。
と云っても、それだけでは短すぎてエッセイに成らず、よく考えれば、その日想ったことは
その日のことだし日記ならと云う事で「日記より」の頁にも入れねば成らず、一応「日記よ
り」に、今日は想ったことを書くことにした。そして、そのことから派出、トップページに「本
の文は「エッセイ」に..」と書いているのもおかしいと思った。本の文はあくまで本の文で
リンクのこともあり、直ぐには訂正できないが、直さなければと思った。
六月六日
街の検診で中央まで歩いていく。検診は長く掛かることもあり中央まで1キロあるので杖
を持って行こうかどうか迷うが小山が「今日のような日に持っていくと紛失する」というの
で持たないで往く。
外に出ると、いつものことで足が頼りなく引き返そうかと迷うが、そのまゝ着地のとき膝を
伸ばすきちんとした歩き方で、ゆっくりと歩いていくと足も慣れて足のことを忘れ杖無しで
行けた。
身体測定の時、少しでも重くなってはとバンドと時計を外した。45キロに下がっていた。
尿の検査も血圧も正常だった。12時に家を出たが終わったときは4時過ぎていた。
サビエによって買い物をしたが帰って計ると買い物は6キロあった。
そんなわけで足の方は順調に快復しているが歩くのは1キロが限度でそれ以上は未だ。
それに突発的に痛んだり階段を下りるのが降りにくかったりで完治は?
留守の間に嬉しいことにアクセスが12入っていた。

六月七日
アクセスが昨日沢山入っていたせいか今日は4つしかなかった。
六月八日
夕方までにアクセスが1つしかはいっていなかった。もうホームページも駄目かと思ってい
ると夜10時半に5つ入っていた。6
六月九日 
久し振りにリハビリに行った。この頃、言葉を思い出せなくなった。コルセットと云うのだっ
たのか、思い出した、サポーターだった。其れを暑くなったので阪急の通販で買った膝だ
けのニーレングスのようなサポーターをしていった。それで自転車漕ぎの時は医院で貰っ
たサポーター無しではしたことがなかったので少し不安だったが10分間、漕げた。
ズボンのようなのを穿く機械をかけているとき隣の男の人に「あまり奥さんを使うと寝たき
りになられ世話をしなければならなくなりますよ」と言うと「病気にならないようにこき使う」
と云われたが、その人はご飯を二杯食べるとかで太っているのが良くないと思った。
私は毎日、おかず無しデイのようなもので、冷蔵庫にあるもので間に合わせているので、
三日に一回の買い物で済ませていると言い、それで4キロ痩せられた話をした。
しかしリハビリに行くと身体も軽く、心も外出した気分になるのだが山に登ったように、そ
の日は疲れ何も出来ない。そして小さいコーップが切れワイングラスで清涼飲料水を飲
んでいたが其れを転かし割ってしまった。宏が友人の結婚祝いの返しに貰った対のもの
で愛用していたので、生き物が死んでしまったように可哀想なことをしたと思った。安物
のが割れたときは、安物ばかり多すぎるので、減って良かったと思うのだが。それで代わ
りを捜すと景品に貰ったでかいのが在ったので、買うまで其れを使うことにした。
このところ、身体が弱ったせいか休憩するのにテレビの前に座ることが多く、今まであま
り見ないテレビを、よく見るようになった。
このところアクセスが少なく今日も朝から一つしかない。それで私のホームページも天体
の死んだ星のようになる時が来たのではと云う気がした。しかし、前に「あんたは人が聞
いていようがいまいが喋っている」と云われたことを思い出し、アクセスと関係なく書いて
いこうと決心し、今日の日記を書いた。
水を飲みたいと思ったときは遅いとテレビで言っていたので、このところカロリーのことを
考え飲まなかった清涼飲料水を買ってきているが、何時も外で喉が渇いても我慢してい
たので、これから水筒のようなものを持っていかなければと思った。


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05.5.21ー

五二十一日
二十日、七,二十一日、十六とアクセスがあった。
二階の部屋にパソコンがあるので二階によく上がるが階段の上り下りのとき膝が少し痛む
のが気になる。平らなところは杖無しでも痛まないのだが、加齢のこともあるし、そのうち
二階に上がれなくなることもあるのだろうかと不安になる。
五月二十四日
「日常なんて朝、顔を洗って食事をするだけで、そんなことを書いても誰も読む者が居ない」
と宏が言っていたが本当に、そんなもので、特に一日中家に居る身にとって日記など読者
に失礼ではないかと思っていた。だが身内のせいかもしれないが次男が面白いと云ってく
れたので、ほんならと、このところ励むようになた。
と云っても外出するのはリハビリに行くときくらいで、ズボンのようなものを穿き電気で脚を
圧迫する機械をかけているとき、両隣の人が話し合っていて、左の人は確か私より三つ上
と前に聞いたが、カラオケが好きで老人クラブに入っていると云われた。
右の人は確か六一才と云われていたと思うが、老人と云っても赤ん坊みたいなもので、毎
日来ておられるのか、いつも見る人で、これから長い先をどうして過ごそうかと、男の者は
大抵そうだが、迷われている感じで、「そこへは歳は幾つでも はいれるのですか?」と聞
いていた。女の人は「その気なら」と云われたが、私には、自分で老人と思われれば、と云
うように聞こえた。女の人は淡いピンクと云うより柿色がかった白のブラウスを着ておられ
たが、顔の色が綺麗に見えて、自分も今度、あんな色のを着てみたいと思ったほどで、立
ち上がりしな「その服は綺麗ですねえ」と云った。それで「よう似合っている」と男の人も相
づちを打たれた。
運動が終わってカルテを見ると10回、ワンセットになっていた腹筋や背筋、脚上げなどの
トレーニングがトゥーセットになっている。前にリハビリに一時間掛かると言ったら、「私は
二時間掛かります」と言われた人があったが、採算が取れるのだろうかと又、思った。
とにかく整形は完全に直すには若返るより方法がないので、太腿もこのところ段々芯の方
だが壁のように硬くなりつゝあり、若返る薬を飲み赤ん坊になってしまった話があったが、
そこまでいかないとしても、医学も治癒を越え若返らせる方向にまで進んでいるのではと
思った。それにしても昔は子供が遊んだが今は老人が遊ぶ変な時代だ。
帰りコープに寄ったが照っていたので傘を差していったため杖無しにも拘わらず帰ってきて
買い物を計ると五キロあった。そこまで回復しているのだ。
しかし疲れていたのか帰ってから鱶のように眠った。それでリハビリもきついのかと思った
が眠った後、又、元気が出て大分、仕事をした。
そんなわけでホームページも、どこかに「文」を入れているが悲しいことに23日、8,24日
、6と減少傾向にある。

五月二十六日
時々、掛けてくる級友からの電話で同じグループだったMさんの主人が事故で山から落ち
亡くなられたとしいう。即死であったらしい。今年、海外旅行で二人並んで写された写真の
年賀状を貰って懐かしく思っていた親友だったので「独りになられるのねえ」と云うと娘さん
と一緒だという。養子を貰われたのかと聞くと離婚し戻られているとか。
それで、うちでも長男が婚約はしたものの、いつまでも家に居るので、どこも一つは何かあ
るのだと思った。その級友も同じようにリハビリに通っていることもあり身体の方はと訊くと
貧血で点滴に通っていると云う。「ご飯を食べなければと先生に云われるのだけれど」と、
独りなので作るのも買いに行くのも面倒なのだろうか?
 医者と云う者も色々な患者が来るので座っていて世間のことが分かり面白い仕事だなと
思った。そして私は井戸端会議などに興味がなかったが、其れをする人の気持ちも分かる
ような気がした。
五月二十七日
パソコンが二階にある関係で階段を上り下りすることが多く、膝を傷めてはと二回に一回は
這って上がる。そんなとき知らないうちに脚を交互に上っていた。そんなことが何回かあり、
いつかは一階段ずつ脚を揃えずとも上れるようになるのではと希望が湧いてきた。
寝ているときでも足先を上に曲げ膝の裏をのばす運動をしていたので着地の時は膝が伸
びる歩き方ができるようになった事を考え、膝を曲げる運動をすればと思った。
其れで今日は最近は半分で止めている自転車漕ぎも、十分間、終いまで頑張った。脚揚げ
も二十回、腹筋や背筋も二十回した。そんなことも影響したのか階段を降りるとき痛む膝の
痛みをあまる感じなくなっている。今日は久し振りにアクセスが十八あった。


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05.4.29ー

四月二十九日
4月30日までの回数券が残っていたので山下の駅前の店まで夕食の買いに行った。
家を出、歩き始めた途端、右足の膝下の内側が痛んだが、そのまゝ買い物に行ったら、い
つの間にか痛みのことは忘れていた。5時廻って出掛けたのに夏の下着に替えてくればと
思ったほど暑かった。
この間、多く名筍を送って戴き来年からは買ってでもと想ったが、一握りほどの湯がいた
筍が五百円以上しているのに驚いた。帰りは杖をついてだが駅の階段をぐいちで上れた
ので腰痛は歩くのが良いと言われるが膝も軽症になれば歩く方が良いような気がした。
とにかく、両足の太腿がぶれているので、まだリハビリや減量をして完全に直さなければ
又、振り出しに戻るのではと思った。
五月二日
リハビリでレーザーをかけていたら隣の奧で寝ていた人が起き上がった。背格好から隣の
奥さんではと思っていたがやはりそうだった。
自動車を運転していて衝突し全身打撲で来ているとか。若い女の子の車が曲がり角で跳び
だしてきて向こうの車はひっくり返えったらしい。
そんなことから庭の手入れも大変で、松の木を切って貰おうと頼んだら可哀想で伐れない
と云われたと云う話になった。近頃は剪定も高いので松を丸坊主にされているところも多く
結局、安くして剪定して貰われたが「意地悪なおばさんが居て、もう少しで殺されると子だっ
た」とそのオッチャンが帰りに松に云ったらしい。
帰って小山に聞くと松の剪定は一本二万円すると云う。うちは小山が見様見真似で切って
いるが切れなくなれば本職でなくても安くして貰えるところを捜さねばと云う話にこちらはな
った。

五月九日
遠縁に当たる本田さんから川柳句集が送られてきた。頁の間に文芸春秋のようにカラーの
画の上に書かれた川柳や句会の人達の序文や礼賛文、お祝い文、跋文などが挟まれ、表
紙も布張の凝った296頁の本で、新聞の編集部に居た人ならではと云う感じがした。
一通り読ませて貰い、あとがきで川柳の句会では人が作るようなものは駄目で抜けなけれ
ばと書かれていて、何度か読まなければ解らないが川柳が少し分かった気がした。
それにしても、この川柳の盛んな時代に全日本川柳協会の事務局長に抜擢され東西奔走
されているのにはに驚いた。
「エッセイU」の「日溜り」で書いた本田さんの御主人である。
五月十二日
銀行に行く用事があり中央まで出た。小雨が降っていたので傘を差さねばならず、杖無し
で、ゆっくり歩いていった。途中のポストに昨日半日掛けて書いた本田さんへの礼状を入
れた。帰りはサビエで買い物をし、膝を痛めていても女は5キロほどの糧を持って帰らね
ばならず、雨も止んでいたし傘を杖代わりにして帰った。その間、膝は痛まなかったので
又少し脚に自信が出来た。
五月十三日、昨日、中央まで出掛けたので疲れて何も出来なかった。孝から15日に行っ
ても良いかと言うメールが入っていた。
五月十四日、明日、日曜に孝が来るのでキッチンの床を蒸気の掃除機で掃除した。土曜
日だけれどアクセスが一つも無かった。

五月十六日
昨日、忙しかったので今日は疲れて何も出来なかった。
朝から四時まで何度か開いたがアクセスが無く、ホームページを書くのを止めようかと想
っていると、五時過ぎていくつか入っていて又、続けることにした。
ここは五月になっても家の中はひんやりとしていて肌寒く庭に何度も出て陽に当たった。
それでも外は日中、暑くなるので、それ以上、運動してもとリハビリも止めようかと考えて
いたがアクセスが入っていたので続けることにし、明日は朝早く行こうと想った。
五月十七日
リハビリに行ったが暑くなったせいか昨日は混んでいたらしいが、空いていた。
日傘を差さなければならなくなるし、杖と日傘と買い物と三つも持てないしと、今日は杖
無しで行った。アクセスなし。
五月十八日
アクセスが一つしかなかったので、アクセスのことは気にせず、何時まで生きていられる
か分からないし、前から書きたいと思っていた自叙伝を書こうと一太郎に書き始める。
今のところ、うまく行っているが失敗するかも知れないので、ホームページにはある程度
書けてからのせることにし。
五月十九日
 久し振りにアクセスが12、あった。(自分が開いたのを差し引いたトップページの数だ
が) それで元気が出て遅くなっていたが洗剤も切れれていたし、中央まで手押し車を押
して出掛けた。おかずを買いにサビエに寄ったときは七時を廻っていた。
買い物は三日に一度ほどしか行けなくなっているので何時も重くなるが、持って帰って計
ると手押し車でだが八キロあった。


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