A−6 動物との共生
水田がある、ヤシの木がある、そして牛と人がいる、牛は鋤を引いているか草を食んでい
る。これはインドネシアの農村風景として絵や写真で見かける一つのパターンである。熱帯で は普通の牛に加えて水牛もいる。
人と牛の関係は色々な係わりあい方がある。ミナンカバウ人(→609)は闘牛でジャワ人に勝
ったという民族伝説を持っている。その伝説によればジャワの成牛に対してミナンカバウは飢 えた子牛を対した。しかし子牛の角に刃物をつけてあったので乳房を探す子牛に腹を切られて ジャワの牛は逃げ出したというものである。ミナンカバウ人の頭の良さを証明する逸話となって いる。
ミナンカバウの語源が“牛の勝利”であるように、ミナンカバウ人と牛は密接な関係(注)にあ
る。ミナンカバウの伝統民家(→940)の屋根の両端が尖(とが)っている。家が牛の顔であって 両端の尖った屋根は角である。家の内外の装飾も牛のモチーフである。ミナンカバウ女性の 正装時の髪型も牛を象徴している。⇒ミナンカバウ女性の正装 ⇒ミナンカバウの王宮
ヒンドゥー教のバリ島は当然であるが、インドネシア全般に牛が崇拝される動物であるのは
牛が聖獣であるヒンドゥー教時代の名残もあろう。
インドネシアの牛も水牛も農耕用の役畜である。農耕用で犂をひく以外の使い方がある。田
に水を張って数頭の牛を追い込み、牛が田の中を歩きまわることで耕すことになる。“蹄耕(て いこう)”というユニークな農耕法である。
牛は多いが肉用種ではない。従ってホテルのビフテキのような良質の肉はオーストラリアか
らの輸入であるが、インドネシアでも肉牛、乳牛飼育が試みられている。ちなみに水牛の肉は 硬くてまずいので食用には不向きである。
飲料としての牛乳が普及していないのは冷蔵設備との関係であろう。インドネシアの数ある
商売の一つに乳牛を連れて街を歩く牛乳屋があり、客が注文するとその場で牛乳を絞ってくれ る。
牛の品種改良は世界的に行われている。牛は熱帯の病原菌に弱く外来種をそのまま持ち込
むことは難しいので、外来種と熱帯の在来種の掛け合わせで新品種に置き替わっている。イ ンドネシアの牛1100万頭はセブ牛といわれるコブ牛の出身地はインドである。
マドゥラ島では牛が疾走する競牛(→921)が地域最大のイベントである。バリ島のヌガラ地方
(→184)では水牛のレースがある。何でも観光ネタになっているバリであるが水牛レースは農民 だけが楽しむ行事である。
現在の位置
牛との相違は一まわり大きい角の大きさで見分けられる。角が外向きであるのが水牛で、内
向きが普通の牛である。ジャワ語で単身赴任のことを“水牛の別れ(pisah kebo)”という。水牛 の角が外に向かって離れていても同体であるという意味らしい。
水牛は体が熱を持つと冷やすために水浴びをしなければならないので湿潤地の家畜であ
る。普段は泥の中にうずくまっているので立ちあがって歩くと泥だらけで汚く見えるが、体を覆う 泥が虻(あぶ)や蠅よけになる。⇒泥中の水牛
水田の鋤を牛が2頭で引っ張るところを水牛は1頭で引っ張る。水牛の方が牛より馬力があ
る。水牛は3年に一回しか出産しない。従って水牛は牛の二倍以上かといえば値段はそれほ ど差がないらしい。餌とかの手間の問題もあろうが肉の価値も関係ありそうだ。品種改良され た牛に対して水牛の肉は昔のままである。
水牛の肉は不味(まず)いのでもっぱら農耕用だけであり、"東南アジアのトラクター"といわ
れるゆえんである。水田も二期作が標準であるから稼働率もよい。にもかかわらずインドネシ アでも水牛に代り急速に日本製の耕運機が増えている。インドネシアでは耕運機はすべて『ク ボタ』と呼ばれる。クボタには「町の水牛」という意味(→600)が込められている。
スラウェシ島のトラジャでは水牛は葬式(→619)の捧げ物として惜しげもなく殺戮される。それ
まで大事に育てられた牛は葬式の見物人の前で首を切られる。あふれ出る血は争って竹筒に すくいとる。血がゼラチン状に固まると大変な御馳走である。
水牛はトラジャ農民の唯一の財産である。冥界(めいかい)でも現世の財産と地位が持続で
きるという信仰から、死者は冥界へ水牛を連れて行く。日本人のいう三途(さんず)の川はトラ ジャでは黄色い川という、その川を水牛が渡してくれる。
水牛の角の大きさは牛の数倍もあり、見栄えもよい。トラジャでは葬式に供えた水牛の角を
家の玄関にトーテムポールのように積み重ねて柱にする。盛大な葬式を行なった証明として家 の格式を誇る。儀式で重用される水牛は毛皮の色で価値が決まる。角の形、大きさ、色具合 も重要なファクターである。
ソロのススフナン王家(→131)のジャワ暦の大晦日(おおみそか)のプサカ巡行(→704)は白
色の聖なる水牛2頭が先導する行事がある。順路は水牛まかせである。聖牛が死んだ際には 丁重な葬儀が行われる。
観光地の土産物売りから何か買わざるをえない羽目になり、水牛の角細工のスプーンを買う
ことにした。持ち合わせが高額紙幣しかなかったのでお釣りをもらう積もりであったが、売り子 はお釣りはないという仕草で手持ちのスプーンを押し付けてきた。一抱えもあるスプーンの始 末に困ったことがある。
現在の位置
インドネシア在来の野牛であるバンテン牛は“国章”にも取り入れられている。野牛は民族の
勇気を象徴する。1900年インドネシア国民党(→293)が設立された際に党旗に野牛が採用され た。以前のインドネシア協会の党旗では水牛であった。水牛と野牛の相違は水牛の角は後向 きであり、野牛の角は前向きである。
独立の父であるスカルノのインドネシア国民党の流れをくむ闘争民主党PDIP(→407)のシン
ボルマークはバンテン牛である。演説のうまさでは定評のあったスカルノ大統領が「バンテンの ように・・・・・・・」と拳(こぶし)をふりあげると喚声があがった。
バンテン牛の見かけは飼い慣らされた普通の牛と変わりはないが、気性が荒く野生のまま存
在している。狼と犬の関係である。現状はウジュン・クロン国立公園(→116)、東部ジャワのバ ルーラン国立公園(→150)で保護されている。今日ジャワで見かける一般の牛は輸入された外 来種であり、バンテン種とは関係ない。
バリ島の牛は大型であり怒り肩が特徴である。家畜化されて気質は穏やかであるが、バリ牛
は野生の面影をとどめている。牛を聖なるものと崇めるヒンドゥー教のバリでは品種改良が忌 避されていたためらしい。
オランダ東インド会社(→272)の代表者がジョグジャカルタのスルタン(→637)へ表敬訪問に来
た。接待に虎と牛の戦いのショーが行われ、スルタンと賓客のオランダ人はクラトン(→121)の 高所から広場で行われる試合を見物した。
《虎》と《牛》はジャワにおける"力"の象徴である。ワヤン(影絵芝居)上演の際には始まりと
終り、場面の展開にグヌンガン(→905)という山を象徴するスペード型が使用される。その定型 化された図柄は左右に牛と虎が向かい合って戦いの始まる直前の姿が描かれている。日本で いえば竜虎合い争うというところである。
一般的には虎と牛では問題なく虎の勝ちと思う、オランダ人もそのつもりで見ている。しかし
スルタンの思惑は別である。
スルタンにとって虎は《外国》を意味し、牛は土着の《ジャワ》を意味する。虎は敏捷で動きは
素早いが、割と諦め易く引き下がるのも早い。一方、牛の動きは鈍重であっても内なる力を秘 めている。この結果、耐久力に勝る牛が最終的に虎にうち勝つのが通常である。熱帯の虎は やや小柄という事情もあろう。
意外な成り行きに唖然とするオランダ人を眺めることで日ごろは東インド会社の政治圧力に
屈し、卯建(うだつ)の上がらないスルタンの欝憤(うっぷん)ばらしになる。
現在の位置
東西に広がる列島においてジャワ島、バリ島の農耕役畜は水牛の風景である。しかしロンボ
ック島から東は馬の風景になる。農耕用家畜は自然生態のウォーレス線(→080)と関係ない が、湿潤の西から乾燥の東への移行に伴う農村風景の変移である。
インドネシアの自動車以前の交通はドカル(dokar)という馬車が交通機関として広く行き渡っ
ていた。馬車は地域あるいは型(注1)によりベンディ(bendi)、デルマン(delman)、アンドン (andong)、サド(sado)などと呼ばれた。
映画で見る西洋の馬車と異なり小柄の馬の引く二人乗の可愛い馬車である。この馬はスン
バ馬といわれ、スンバ島(→220)の在来種を外来種と掛け合わしたものである。柄は小さいが 熱帯の気候に適応した馬である。
スンバ島在来の純粋種の背丈は1bにもみたない小型であるため「クダ・アンジン(犬馬)」と
いわれる。しかし体重の2倍の荷物を運ぶことができる。スンバ馬の純粋種は250頭で絶滅が 心配されている。スンバ島の騎馬戦儀式→219)に活躍する馬もスンバ馬の血を引き小柄であ る。⇒馬車
熱帯地方の在来種で暑さに強いスンバ馬はインドネシアの各地で馬車として不可欠の交通
手段であったが、自動車の普及で見かけなくなった。しかしジョグジャカルタ、バリ島のクルンク ン(→177)、タンクバン・プラウ山麓のレンバン(→109)などの観光地ではまだ健在であった。
小さな馬車は庶民の乗り物であったが、クラトン(→121)や博物館で展示してある植民地支配
者や王侯の乗る馬車は4頭の大きな馬が引く豪華な馬車であった。乗車の際には天蓋(てん がい)のような日傘(→788)を持った従者を従え、高貴な人の馬車であることを誇示した。
東南スラウェシ州のムナ(Muna)島の“闘馬”では2頭の馬が棒立ちになって闘う伝統儀式が
ある。西部ジャワのスメダン(→110)には「クダ・ロンゲン(kuda ronggeng)」という音楽に合わせ て踊る馬がいるそうだ。
人が踊る方は「クダ・ルンピン(kuda lumping)(注2)」はジャティランまたはジャラナンともいわ
れる。竹と藁で編んだ馬に人がまたがって踊る。ジャワ各地で行われるが、東部ジャワのクデ ィリ(→144)辺が本家らしい。マレーシアの伝統芸能の出し物にもクダ・ルンピンがあったからと ジャワ人がマレーシアへも持ちこんだのであろう。⇒クダ・ルンピン ⇒クダ・ルンピン
日本で似たようなものは子供の遊具か運動会の競技に見かけるが、インドネシアでは馬にま
たがっているのは成年の男である。娯楽ではなく儀式である。
初めはガムラン(→911)の音楽にあわせて規則正しく疾走しているが、次第に騎手の呼吸が
荒くなり暴れ馬になる。やがて騎手はトランス状態(→576)になる。体を硬直させて倒れる。息 を吹きかけると意識を取り戻し、また踊り出す。その過程は演技とは見えない。酒も飲まずにト ランス状態になれることに伝統儀式の重さを感じる。
現在の位置
イスラム教で豚が禁じられているため山羊(やぎ)の出番が多い。山羊、インドネシア語でカン
ビン(kambing)は放し飼いにされており町中でも見かける。山羊肉のサテ・カンビンはサテ・ア ヤムとともにサテ料理(→766)のポピュラなメニューである。
イスラム祭日の犠牲祭(→815)は山羊が生贄(いけにえ)としてささげられることから“カンビン
受難の日(注1)”という。ラマダン明けの富者からの喜捨(→815)は山羊の頭数で示される。祝 日が近づくと多数の山羊や羊が都会に連れてこられて犠牲になる。
山羊は小心者、怠け者をあらわす。「Kambing hitam(黒山羊)」はスケープゴートの意味で動
詞になると「非難する、悪者にする」という意味になる。列車などの座席の「kelas kambing(山羊 クラス)」は最低クラスである。山羊にはろくな意味しかない。
山羊に関して次のような諺(ことわざ)がある。「Anak kambing tidak anak harimau(直訳:山羊
の子供は虎の子供にはならない)」。日本の諺の「蛙の子は蛙」である。
西部ジャワでは雄の羊を闘わせる「アド・ドンパ(adu dompa=闘羊)」という競技がある。2頭
の羊は頭からぶっつかって角を突き合わせて押し合う。角が衝突する時は激しい音がする。数 回繰り返すと弱い方が逃げ出す。強い羊を持つことはスンダ農民の誇りである。庵原哲郎氏 によればアド・ドンパの囃子唄(はやしうた)が「ジョケット(joged)」という踊り(注2)の起源らし い。
ボゴール宮殿(→113)では鹿が放し飼いにされているが、野性の鹿も森林に生息している。
関が原の戦いの頃、日本は世界でも有数の金銀の生産国であった。その日本の金銀を得る ための東インド会社(→272)からの日本への輸出品は東南アジア各地から集荷した鹿皮であっ た。当時の日本で鹿皮は武具として鎧(よろい)や鉄砲の弾入れなどに使用される軍需品であ ったが、徳川幕府の鎖国下で天下泰平が訪れて鹿皮の需要が減ったため、東南アジアの鹿 は今日も健在である。⇒ボゴール宮殿の鹿
インドネシア語の小鹿の意味の「キジャン(kijang)」はトヨタ社のインドネシアで組み立てられ
るジープ車の愛称名である。キジャン製のミニバス(→841)が増えるにつれ、ミニバスのことを メーカーや車種と関係なく全てキジャンといわれるようになった。
「カンチル(kancil)」はネズミ鹿またはマメ鹿といわれるように体長30〜50cm、体重2kg強で兎
の大きさの小鹿である。鹿に似ているが分類学上では鹿とは別系統である。カンチルはインド ネシア民話に賢い動物としてしばしば登場する。代表的な話はカンチルが鰐(わに)をからかう 話で、日本神話の『因幡の白兎』とストーリーは同じである。ワヤン・カンチルという子供のため の動物話のワヤン(→907)がある。
バビルサ(→197)は「豚鹿」という意味である。角(つの)と牙(きば)があり、鹿とも猪ともいい
がたい動物である。アジア大陸とオーストラリア大陸の接点であるウォーレシア(→017)にある スラウェシ島在来の珍獣種である。
現在の位置
イスラム教では犬は悪魔の手先とされている。特に犬のなき声が嫌われているので番犬は
少ない。その代りジャカルタではちょっとした邸宅はガードマンを雇い深夜の警備を行ってい る。仮に番犬が導入されると多くの失業者が発生する。犬は悪いということにしておいた方が 雇用問題からも無難なようだ。
犬猿の仲ではないが、インドネシアでは猿に人気のある分だけ犬は分が悪い。人と犬が散歩
を楽しむという風景は一般的でない。ジャカルタの高級住宅街では外国人が犬を飼うが、メイド (→887)が最も嫌がる仕事は犬の世話である。
イスラム教徒でないミナハサ人(→620)、バタック人(→607)、トラジャ人(→618)は犬を食用
(注)にする。イスラム教徒からは信じられない行為である。「犬を食べる奴」というのがミナハ サ人やバタック人に対する最大の蔑称(べっしょう)である。食生活をも規範する宗教は豚や犬 といえど民族対立の導火線になりうる。
「アンジン(Anjing=犬)!」はインドネシアの罵声である。「ばか野郎」と怒鳴る感じで使用さ
れる。植民地時代にミナハサ人は“オランダの犬”と陰口をいわれた。
1998年5月のスハルト退陣の契機となった連日のデモのプラカードに「スハルトは犬だ」という
のがあった。豚よりましであろうが、為政者に対する最大限の侮蔑(ぶべつ)であろう。
バリ島に来ると犬が多いことに気がつく。村人の祭りの支度の重要な仕事の一つは供え物の
御馳走を犬に食べられないように見張りをすることである。
バリ人は悪霊(あくりょう)にも毎日チャル(→931)という供え物を用意する。神への供え物と比
べると粗末な扱いで地面に置くだけである。犬は蹴飛ばされないように距離を保ちながらチャ ルを配る人の後ろをついて歩く。結局チャルは犬の餌である。⇒バリ島の犬
これらの犬は野良犬である。しかし犬の方で勝手に縄張りを決めている。従って飼い犬では
ないが、いつも餌をやる犬が特定される関係になる。噛みついたり吠えかかったりすれば殺さ れるから犬の方でもバリ人にはおとなしくしている。その代わり外国人には敵意剥き出しで吠 え掛かる。外国人のバリ島の夜の散歩は犬に要注意である。
西欧の愛犬家がバリの犬を見て虐待されていると怒る。確かに鶏(→073)と比べるとその冷
遇はあからさまである。バリ人は犬に餌(えさ)は与えるが、その扱い方は好きでないがやむを えず付き合っているというバリ人の悪霊への対応と共通している。悪霊とはブタ(→931)といっ て目に見えない存在というが実体は犬のことではないだろか。⇒バリ島の野良犬
一般に熱帯で見る犬は皮膚病にかかっており精気がない。ゴーギャンのタヒチ島の絵でも犬
は隅の暗い所にいじけた姿で描かれている。犬は温帯から上の動物であって熱帯では愛され ていない。
現在の位置
イスラム教徒にとって犬は悪魔の手先であるが、異教徒の愛玩用、狩猟用の犬にはそれほ
ど抵抗がないようであり存在は許容されている。悪魔そのものとして徹底的に忌避(注)され、 存在そのものが許されない動物が「豚」である。
アラビア人はイスラム教が出現する前は豚を食べていたに違いない。マホメットが豚を禁じた
のは当時の衛生事情などのそれなりの理由があったであろうが、何故豚が駄目であるのか合 理的説明はない。なければマホメットの単なる好みにすぎない。コーランが禁じているという理 由だけで豚を不当に迫害している、と非イスラム教徒は思うが、コーランを絶対視するイスラム 教徒には議論の余地もないことである。
インドネシアで豚が飼われているのは非イスラム教徒の地域だけである。スマトラ島のメダン
からトバ湖へ車で行くとバタック人(→607)の農村の風景は変わらないのに何か変化がある。よ くよく見ればそれが豚であることに気がつく。イスラム教徒の地域からキリスト教徒の地域に入 ったということである。
豚はイスラム教徒から隔離されていたが、華僑としてインドネシアへ来た中国人はイスラム
教徒のすぐ近くで豚を飼った。このことがイスラム教徒の感情を逆なでにしてきたし、今なお続 いている問題である。
シンガポール国民の2/3以上は中国系住民であり、中国人の食生活に豚は不可欠である。
しかしシンガポールの狭い国土ではマレー人のイスラム教徒も多数居住しているため養豚業 は支障がある。リアウ諸島(→094)の無人島で養豚業が事業として成立しているのはシンガポ ールへの輸出用である。
仏教国のタイ、キリスト教国のフィリッピンでは華僑問題の問題の程度はイスラム教国と比べ
ると比較的小さい。豚が宗教タブーでないことが中国人の現地住民への融和を容易にしてい るからである。⇒ミナハサでの手土産
猪はインドネシア語で「バビフータン(babihutan=森の豚)」といわれるように豚として認識さ
れている。イスラム教徒にとって猪は豚であるから触ることはもとより見ることさえ避けようとす る。このため猪が農産物に与える害は無視できない。ところが近くにキリスト教徒がいると猪を 食料に捕獲してくれるのでイスラム教徒は農作物の被害が減る。バタック人のイスラム教徒と キリスト教徒の集落が平和共存しているのは猪のおかげといえるであろう。
ヒンドゥー教徒のバリ島では豚は黒色の毛に覆われており、どのような改良種か腹が地面に
つかえるほど肉がついている。どの農家でも豚を飼育しており、その世話は女性の分担であ る。ガルンガン(→645)の御馳走になる。⇒トラジャの豚
現在の位置
虎はアジア大陸の南北に分布する猛獣である。南限の虎がマレー半島からスマトラ島、ジャ
ワ島、バリ島のジャングルに拡がっていた。
一般論として同種の哺乳類は寒いところほど大きく、暑いところでは小さくなる。体熱の発散を
防ぐためには単位当たりの表面積が小さい方が有利である。従って哺乳類は大型化すること によって耐寒適応を行ったというもので“ベルクマンの法則”という。人も北ほど大きくなる。もう 一つの法則は“島の規則”である。島に隔離されるとサイズの大きい動物は小さくなり、小さな 動物は大きくなる。⇒スマトラ虎
両法則の相乗でスマトラ島、ジャワ島の虎は全長250p位で、4mもあるシベリア虎と比べると
小型である。バリ島ではさらに小さい。インドネシアの象、犀も大陸のものより小型である。人 間についてはサイズもさることながら精神についても言えそうである。日本には“島国根性”と いう言葉がある。
虎の折角の毛皮もジャングルでは暑いことと思う。しかし、実際には毛皮は必ずしも防寒ば
かりではなく防暑にも有効らしい。何故なら毛皮に覆われていない象やカバは絶えず水浴びを して体を冷やさなければならない。
植民地時代の白人は大勢の勢子(せこ)を動員し、彼らの生命のリスクの上に自らのスリル
を楽しむという豪華なスポーツが虎狩であった。マレー半島側ではあるが日本の徳川侯爵もス ルタンの虎狩の仲間であった。
虎が、今、絶滅の危機にあるのは虎狩のせいばかりではない。開発という名のもとにおける
人の進出が虎の生息地を包囲し、その輪を縮めていったものである。バリ島では1930年代に 絶滅した。ジャワ島の虎はウジュン・クロン国立公園(→116)で保護されていたが、1980年には 絶滅が確認されている。現在インドネシアの虎はスマトラ島の限られた保護区で1000頭程度が かろうじて生息している。⇒サファリ公園の虎
インドネシアの文学者モフタル・ルビス(→965)の著作に『虎!虎!(Harimau Harimau)』があ
る。その大筋は、村の男がグループで樹脂(じゅし)採取と狩りのためにジャングルに奥深く入 り、人食い虎に遭遇する。虎はグループを追跡し、毎日、誰か一人が虎に襲われる、襲われた 男には襲われるだけの理由の前科がある、残った男達は良心の呵責(かしゃく)の意識から次 は自分の番でないかと脅えながら必死の逃亡の旅を続けるというものである。
この小説において虎とは単なる獰猛な野獣ではない、罪ある者に正義の鉄槌(てっつい)を
下す“閻魔(えんま)大王”である。人はかねてからジャングルは虎によって支配される闇の世 界として畏れ遠ざかってきた。今、ジャングルから虎が消え、人はジャングルを畏れなくなっ た。
そしてジャングルが急速な勢いで破壊されていく。もしやして虎はジャングルのひいては地球
の“守護神”であったのかもしれない。
虎のインドネシア語(=マレー語)ハリマウである。「ハリマ王」といわれた日本人(注)スパイ
が日本軍のマレー半島の攻略時に活躍した。
現在の位置
野生象のいるスマトラ島(注)の開拓地では象に困っている。これには理由があって象に言わ
せると人間が象の領域まで入ってきたからである。象は山地や沼地を嫌い平地を好む。えてし てこのような場所は移住民が開拓のため入植するのに適したところである。象の生息地と開 拓地は競合する。⇒スマトラ象
このために象の保護地を設けて開拓地から隔離することとしている。そこへ引越をしてもらう
ためには相手が相手であるから軍隊も動員することになる。しかし象はしばらくすると元の所 にまい戻っている。通路は封じてあるからどうして戻ったのか判らない、判るのは象の脳味噌 は伊達に大きくはないということである。
象の被害とは、例えば開墾(かいこん)したプランテーションの10m以上のヤシの木が数十本
も一晩のうちに見事に引き抜かれる。ヤシの根のところに象の好物があるという意見もある が、単なる腹いせに過ぎないらしい。
もっと腹を立てると象は直接に村に集団で殴り込みをかけてくる。建物を壊して畑を踏み潰し
て引き上げる。象が走ると人より早いから農民は小さくなって踏み殺されないように祈るだけで ある。動物園で見る象からは想像できない荒々しさである。⇒象の破壊活動
しかしいくら象が暴れても、所詮、人間にはかなわない。このため象は保護動物に指定され
てはいるが、〈象の保護〉か〈人の生活〉かの問題提起はインドネシアでも頭が痛い。コトパンジ ャンの水力発電プロジェクト(→090)も野生象の保護問題がネックになった。
インドネシアでは象の家畜化のノーハウが途絶えていた。ランプン州のウァイ・カムバス(→
103)では象の保護地に指定され、教育センターでは象にサッカーなどの競技を教えて観光資 源にする計画が進められている。
アフリカのサバンナ地帯では機関銃を持った大規摸な密猟団が“象牙”のために象を大量に
密殺した結果、野生象が急速に減少し世界的な問題となり、ワシントン条約で日本でも象牙は 厳しい輸入禁制品となった。
機関銃を持った密猟団というような事態はインドネシアの治安面からは考えられない。インド
ネシアの治安が悪くなったといっても軍の武器が横流しされるアフリカの国々と比べるとましで ある。アジアのインド象の系統はアフリカ象と比べると耳が小さいが、象牙も小ぶりではあるの で商品価値は劣る。
ヒンドゥー教では象はガネーシャ(→953)という智恵の神として崇拝を受けている。知識の殿
堂である国立博物館(→159)の前庭にタイから送られた象の像がある。バンドゥン工科大学(→ 108)の紋章にも象が使われている。タイでは象は王様の優雅な乗り物にもなっている。アチェ では白象が尊ばれている。
インドネシアに限らず東南アジアでは象への宗教的崇拝が潜在意識としてあることが救われ
る。
現在の位置
世界の犀(さい)を分類するとジャワ犀、スマトラ犀、インド犀、黒犀、白犀の5種になる。イン
ドネシアにはジャワ犀とスマトラ犀の二種がいる。ジャワ犀は角が一つであり、スマトラ犀は角 が二つである。スマトラ島にはどちらもいる。両者とも体重が1d以下平均体長は3m、高さ1. 5mで世界の犀では最も小さな部類である。スマトラ犀は特に毛深いので猪と間違えるくらいで ある。⇒ジャワ犀
西洋には架空の聖獣としてユニコーンという一角獣が神話に登場する。処女を象徴する幻想
の動物として語り伝えられてきた。マルコポーロは中国から故国への帰路は海上ルートによっ たが、スマトラ島で見た犀について『東方見聞録』で次のようにのべている。
「この地方には象よりやや小型の一角獣が多数に棲息(せいそく)している。この一角獣は額
の中央に非常に大きな黒い角を持つ動物である。その頭は野猪と同じく常に伏し目になって大 地に向かっている。見るからに恐ろしげなる動物であってヨーロッパで空想されているような一 角獣とはおよそ似ても似つかぬものである。」
さて実際の犀は草食性であるが、硬い皮膚に覆われているから恐れるものがない。図体の
割に目が小さいのでよく見えない。従ってなんでもかんでもやたらに猛進して攻撃するから“猪 突猛進”より危険である。
犀の交尾は1時間も続き、3分おきに射精するらしい。精力絶倫であり、発情期も年に7〜8
回もある。これを知った人が犀にあやかろうとした。ゼラチン質の犀の角を削って粉にする。そ の粉末は純金より高いといわれた。睾丸(こうがん)や、爪なども角の代用品になり、血液も売 れるらしい。
漢方薬の精力剤として犀の角に対する中国人の信仰は強い。実際は犀の角にそれほどの
効力があるのかどうかは今日では厳しいご法度(はっと)の品であるため入手は困難であり、 その効き目を確かめる術(すべ)はない。
犀の角の供給源は東南アジアのみならずアフリカにも及び、国際的に犀の保護が行われる
ようになった。スマトラ犀は200〜300頭程度、ジャワ犀はウジュン・クロン国立公園(→116)で保 護されているが、現在(1992年5月)は63頭の生息が確認されているにすぎない。果たして“バイ アグラ”は犀を絶滅から救う切り札になりうるだろうか。
東カリマンタンにバダック(badak)というガス田(→548)がある。バダックはインドネシア語で
「犀」という意味である。地名の由来はこの地に犀が横行していたのではない。もともとカリマン タン島に犀はいない。地図に記されたガス田鉱区の地図が犀の形に似ていたことにちなむ命 名である。
現在の位置
スンダの民話の「ルトゥンカサルン(Lutung Kasarung)」は異母姉にいじめられた美しい末妹
が薬で容貌まで変えられて山中に追放される。姉から無理難題を言われても猿に助けられ る。姉は妹を捕らえて猿と結婚せよ、と命じる。妹は喜んで応じる。すると猿は王子に変身す る。メデタシメデタシ。
ヒンドゥー教のハヌマン猿神(→952)の影響で一般にインドネシアでは猿は大事にされてい
る。特にヒンドゥー教の生きているバリ島ではモンキー・フォレストなど数カ所の猿の聖地があ り、外国人から見れば傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に振舞っているが、間引きして数を減らすと いう発想はなさそうである。⇒バリ寺院の猿
インドネシアの猿のうちブタオ猿とカニクイ猿が人間の生活領域に最も近い。ブタオ猿は体格
はよい、尻尾が豚のように短いことの命名である。日本猿とは親戚関係になり、悪さもするが、 仕込めば役にたつ。
ブタオ猿の子供を特訓し熟したヤシの実をねじることを教える。樹に登らせて熟した実に触れ
た時に下から言葉か、あるいは紐で「ねじれ」と合図すれば器用にヤシの実をねじって落とす。 よく働く猿を所有していると人間以上の収入を稼ぐから左団扇(ひだりうちわ)である。
猿を最大限働かせるには樹の上り降りが時間のロスであるので樹から樹へ飛び移るようにし
つける。その際に紐が首に絡んで窒息することがあるので紐を噛み切れという合図で逃れるこ とまで教える。首に絡まなくても紐を噛み切って逃げればよさそうであるが、ブタオ猿は律義(り ちぎ)であるから主人の指示がないかぎり紐に繋がれている。
カニクイ猿は尻尾が体長より長い。マングローブに住み、雑食性で蟹を食べることからの命
名であるが、マングローブに限らず内陸部にもいる。
インドネシアのいろいろな種類の猿の中に鼻が異常に発達した猿がいる。日本語では「天狗
猿」という。オスの鼻が8〜9cmも垂れ下る。大きな鼻は発生信号の音響効果のためらしい。天 狗猿のいるジャングルでは奇声に驚かされる。オスの体重20kgに対してメスは10kgである。棲 息地はカリマンタン島の低湿地であり水泳が得意である。天狗猿は見かけより敏捷であるが、 樹から樹へ飛び移る際にしばしば転落して死ぬ。マングローブの開発で急速に減少しており、 保護動物に指定されている。⇒天狗猿
インドネシア人は天狗猿を「Orang Belanda=オランダ人」と呼んでいた。オランダ人の鼻が大
きいからである。しかしこの命名には植民地時代のインドネシア人のオランダ人への屈折した 感情があるような気がする。オスの性器は常時硬直していることからスケベエであると信じられ ているからである。ちなみに太鼓腹であることを補足しておく。
スラウェシ島は早くから孤立していたため他の島にはない猿の進化が見られる。尾のない猿
とか警戒心の全くない猿、尻のピンク色が巨大化した猿など珍種が多い。
現在の位置
人に最も近い類人猿のオランウータン(orangutan)は「orang hutan=森の人」という意味で
世界の言葉になったインドネシア語である。カリマンタン島やスマトラ島のジャングルの樹上で 静かに暮らしている。“森の人”というより“森の哲学者”というおもむきである。オランウータン という名称には奥深いジャングルに居住する人に似た動物への畏敬の念があったのであろ う。ある伝説によれば神に対する不敬行為をはたらいた人々が言葉を奪われて森林に追放さ れて、その子孫がオランウータンになった。⇒オラン・ウータンの木登り
ゴリラ、チンパンジー、オランウータンは類人猿として馴染みの動物である。他の類人猿と比
べオランウータンは毛が赤茶色であることから“赤い類人猿”ともいわれる。近頃の日本女性 連中の髪の毛はオランウータンに似せている。
ゴリラは狂暴であり、怒らせば危険である。チンパンジーは騒々しく嫉妬心が強い。これに対
してオランウータンは大人しい。幼児の頃は人間の子供のように甘える。飼育すると人間の子 供であるような錯覚におちいる。
妊娠期間は9ヶ月かかり、出産後も育児に年数がかかり、8年ほどしてようやく親離れする。
子育ての間は妊娠しないので、メスの生涯の子供の数は最多で4〜5頭である。オスの体重は 90kg〜140kgで、メスはその半分である。対面位で性交できるのはオランウータンとホモサピエ ンスだけである。
樹上生活のため腕が発達し足は退化しているが、地上を歩くこともできる。蜂蜜の採取に木
の枝を適当な大きさに折って使うなど道具の利用もできる。母親から生活方法を学習しながら 成長する。単独行動であるが、母から離れてからも母子、兄弟姉妹の関係は継続する。同じ グループという社会関係もある。⇒オランウータン保護地
インドネシアのオランウータンは1997年にはスマトラ島15,000、カリマンタン島に25,000いたと
推定されているが、その数は目にみえて減少しており、10年以内に絶滅するとの警告も出され ている。
もっと残酷なのは赤ん坊を育てる母親を射殺して子供を取り上げ、ペットとしての売買が絶え
なかったことである。国際的キャンペーンの盛り上がりでワシントン条約の中でもオランウータ ンの密輸は厳しく罰せられるようになり、不法飼育はようやく影をひそめた。
インドネシア政府ではオランウータンを保護するようになったが、減少を食い止めるのが精一
杯である。森林伐採で親からはぐれた子や密輸が発覚して戻された子供を育ててリハビリを行 って森林に戻すことが行われるようになった。
現在の位置
太平洋戦争前に当時バタビアといわれた今日のジャカルタを訪れた詩人の金子光晴は『マレ
ー蘭印紀行』で町の印象を蝙蝠(こうもり)に託している。
ものの色が仄かな色調とかわって薄明かりのなかに浮かび、さまよう頃、蝙蝠の数は十から
二十、二十から三十、五十、百、千、二千と、ふえていき、あたまの上の紫ガラスのような空の 透明のなかに、うす黄ろいゴムのようなはねをひらいて、はねの根元を重そうにきっくきっくと 鳴らせながら、むらがったり、くずれたり、あつまったり、又かけちったりして、蚊を追い回す。
(中略)すえくさい夜気のなかを、濡れて粘りのある翼が、うすいゴムが益々ふえ益々、ひろが
ってゆく。 (中略)全バタビアは蝙蝠の街となる。幸運の象徴。夜党の紋章。切抜画のなかの切 抜画、人間よりもっと、私に語ることの多いジャワの民衆。
蝙蝠を見かけるのは日没の直前である。熱帯の日は釣瓶(つるべ)落としに暮れる。日中と
夜の区別が明確であり、夕方という曖昧(あいまい)な時間は瞬間的でもある。その短い移行時 間帯に現われるのが蝙蝠である。⇒たそがれ(絵画)
詩人の鋭い感性には熱帯の生暖かい夕暮れの象徴として蝙蝠はあつらえ向きであろう。蝙
蝠は不潔で気味の悪い動物として誰からも好感はもたれていない。しかし中国人が例外的に 蝙蝠を好むのは蝙蝠そのものの姿よりは「蝙蝠」の読音が「福」に通じるからである。
インドネシアの蝙蝠で有名な所はバリ島のゴア・ラワ(→177)とボゴール植物園(→114)であ
る。ゴア・ラワは「蝙蝠の洞窟」という意味であるように洞窟などを住処(すみか)にするが、そう でないのもいる。
ボゴール植物園に裸の高い木がある。その高い枝の先に黒いものがぶら下がっているのが
フルーツ蝙蝠である。昼は寝ているが、時々羽根を動かしているのは団扇(うちわ)の代りで体 を冷やしている。フルーツ蝙蝠は種類の大きな蝙蝠であり大きい種類は羽根を拡げると1.5 b、重さは15sにもなる。⇒フルーツ蝙蝠
フルーツ蝙蝠の命名の由来はぶら下がる姿が果物のように見えるからだと思ったがそうでは
なく、この蝙蝠の食性が植物、特にフルーツにあるからである。食料は森の中の野生植物が 豊富であるから栽培種が襲われることはない。大きな果実は果汁を吸い取るが、小さなものは 種のまま食べて排便するので種を撒き散らすという効用がある。
マナドやテルナテ島、トラジャのレストランでは蝙蝠料理があるらしいが、一般には蝙蝠を食
用する習慣はない。何でも食材になる中華料理でも蝙蝠料理はあまり聞かない。ジョグジャの 宮仕え人が給料不足を補うため夜中に蝙蝠の捕獲を副業にしているというTV番組があった が、誰が食べるのかは分からなかった。
現在も町中に蝙蝠はいるが、金子光晴ほど気にならないのはジャカルタが都会になったため
であろうか、それとも食べられたのだろうか。
現在の位置
人口数十万人のジョグジャカルタ(→120)のような都市でさえ田舎の面影を残していることを
感じるのは、早朝、アザーン(→809)の呼びかけに起こされ、ホテルの露台に出て耳をすますと 人々が眠りから覚めたらしいざわめきの中で雄鶏(おんどり)がけたたましく熱帯の朝を告げる 声を聞く時である。⇒放し飼いの鶏
一番鶏に続き、二番鶏、三番鶏がすぐ近くから、あるいは遠くから時を告げる。雄鶏の声に
かつて日本の朝もこのようであったことを思い出す。記憶を辿ると50年以上も前のことであろ うか。半世紀も経てばタイムトンネルの中の出来事のようである。
古今東西を問わず鶏は神秘的な生き物である。鶏の声に従って漆黒の闇に明かりがさし、
東の空に太陽が昇る。いわば太陽が遣わした先触れの使者である。インドネシア人に限らず 人類が鶏を天と地を結ぶ生き物と見なしたのは当然である。日本でも鶏は崇められた。鶏の 埴輪は馬の埴輪に次いで多い。洞窟に隠れた天照大神(あまてらすおおもかみ)を外からは やし立て、天の岩屋(いわや)戸を開けさせ、昼が戻る日本神話においても鶏鳴は象徴的意味 を持つ。
声高らかに時を告げる鶏の声も良し悪しがあり、インドネシアでは声のよい鶏を豪華な鶏舎
に飼い大事に育てる。アヤム・ブキサール(bekisar)という野鶏の血をひく鶏の声が特によいら しい。
苗を植えるばかりになった水田の収穫を祈願する儀式に鶏がその場で首を切られて捧げら
れる。都会の鉄筋コンクリートの高層近代ビルの起工式にも犠牲の鶏の血が捧げられその上 に柱が打ちこまれる。
ジャワ人が愛好する伝統のワヤンの上演(→905)の際に生きた鶏が供えられ、ワヤンの上演
の成功を祈る。トラジャ人の伝統家屋トンコナン(→940)の玄関の上を覆う装飾のデザインには “太陽と鶏”が重要なモチーフである。鶏に何か神秘的な存在を信じるのはインドネシア民族共 通の感性である。
放し飼いの鶏は庭先を徘徊している。鶏は地面ばかりでなく屋根の上もテリトリーである。見
るからに野性味を残しており、その精悍な顔つきは伊藤若沖の絵である。今日の日本の養鶏 場の白色レグホンの顔を見ていると鶏に野性味がなくなったように日本人の顔からも野性味 がなくなった。⇒鶏を愛撫する人
腹を空かせた野良犬がいると鶏が捕まらないかと心配になる。しかしインドネシアにはそんな
間抜けな鶏はいない。動きは素早く追いかければ木や屋根に飛び上がり簡単には捕まらな い。捕まえるのは夜中に相手が鳥目でマゴマゴしている時に限る。
鶏の知能は高くないが、剥(む)き出しの闘争本能を持つことから闘鶏(→832)が生まれた。バ
リの男は鶏を子供のように慈しみ育てる。大の男が口移しで鶏に餌をやっている風景もある。 愛する鶏に男の情念を伝え強くなってほしいからである。闘鶏は鶏を神に捧げる儀式が娯楽 化したものである。
現在の位置
食物が高温のため腐敗しやすい環境において、鶏は生きたまま輸送され、料理される直前
まで生きているので、これほど新鮮な肉はない。地方の道路建設の調査団で移動を続けた人 が、毎日毎日、移動先の村長から鶏の料理を御馳走になった。日本のブロイラーと異なり鶏の 味がするが、さすがに、連日続くと閉口したという。⇒おてがるアヤムゴレン
ジョグジャの名物に【NYONYA SUHARTI】という「アヤムゴレン(ayam goreng)から揚げの鶏
肉」の店がある。マリオボロ通(→122)のワルン(→858)の店がおいしいと評判になり、客足が増 えてチエーン店を展開するようになった。店名の「NYONYA SUHARTI(スハルティ夫人)」は経 営者の夫人の名前である。お金ができると亭主は別の女性ができて離婚した。やがてスハル ティ夫人と元亭主の二人が別々に【NYONYA SUHARTI】の店を構えての味の競争でさらに人 気が高まった。ジャカルタにも支店があるが《元本妻系》《元亭主系》のどちらであろうか。
バリ島の水田には必ずと言っていいほど家鴨(あひる)がいる。朝夕、家鴨がピラミッド型の
軍団で整然と群れをなして行進する行列は写真集や絵葉書にもなっているインドネシアの中で も特にバリ島の風物詩である。
家鴨にとっては孵化して最初に見る動くものが親である。“刷り込み”といわれ鳥類一般の習
性であり、後で教育しても変えられないらしい。従って生まれたばかりの雛(ひな)に竿の先に 白い布をつけてヒラヒラさせるとその後は布を親と信じてついて歩く。毎日繰り返せば親である ことは確固たるものになる。
毎朝、竿を持って家鴨を連れ出し田に放つ。田に竿を立てておけば家鴨は勝手に“親”の側
で餌を探す。夕方に迎えに行き竿を持って帰れば家鴨はついて帰る。ということで家鴨の管理 は容易である。家鴨の団体はリーダーに統率されている。インドネシア語の家鴨の動詞形 (注)は「付和雷同する」の意味である。⇒家鴨の集団
家鴨は田んぼの中をバシャバシャと歩き回り、田に住み着く虫などをついばんでいる。農薬
のかわりに虫を駆除してくれる。その上、家鴨が餌を探し動き回ることは田の土をかき混ぜ通 気をよくし耕す効果があるので、家鴨農法が盛んである。
しかしスバク(→596)の規則によると田植え直後の数十日は家鴨を田に放つことが禁じられ
ている。苗を痛めるからである。梅雨時に一斉に田植えをする日本とは異なり、バリ島では潅 漑に合わせて田植えは順次行われるので家鴨を放つ場所の心配はない。
家鴨は肉、卵が料理になり、農耕にも役立つという有用な家禽である。
現在の位置
ジャワ人の男たる者はクリス、妻、家、馬、小鳥の5つを持たねばならぬ。クリス(→702)、
妻、家は説明不用であろう。馬は最近ではバイクか車である。この中で小鳥にご不審の向きも あろうが、ジャワ語の小鳥のブルング(burung)は男性の性器をも意味する。理由は形そのも のが男性の象徴に似ているからである。すなわち小鳥を持つことは男性であることの誇示であ る。従って小鳥の世話をするのは男性の役目である。
犬や猫をペットにする習慣が一般的でない代わりにジャワ人は小鳥を好む。コーランのどこ
かにペットは小鳥であるべしと書いてあるらしい。ジャカルタは小鳥屋の店が並ぶ「pasar burung=小鳥市場」という一角が賑わい、またジョグジャカルタにも「Jalan Burung(小鳥屋 通)」という通があり、鳥以外の生きた動物も売っている。⇒小鳥屋通
ちなみに中国の広東で生きた動物を売る店があれば料理の食材であるが、インドネシアでは
ペットの販売である。かつては鳥屋通りでオランウータンや極楽鳥などの禁制の動物も堂々と 売られていた。
ジャワ人の好むのはプルクトゥトというチョウショウ鳩で日本の鳩より少し小さい。鳩の『クルゥ
クルゥ』という声はジャワ人の心を“スナンsenang(心地よい)”にする。特に鳥は姿よりは声の いい小鳥が好まれる。このためどうすれば鳥の声がよくなるかを競っている。声のよくなるメニ ューはタマネギ、ニンニクに野生のニガウリを刻むということである。
全国大会のコンクールで優勝するような鳥の声はカセットテープで市販されている。鳥に聞か
せる教材である。血統書付きの鳥になると高級乗用車が買えるほどの値段がつくらしい。タイ 人も声のよい鳩を愛玩する。従って小鳥の声を競うアセアンの大会もある。
都会でも田舎でも住居の一角に国旗掲揚か鯉のぼりの竿とおぼしき柱が立っているのはそ
こに鳥篭をつるすためである。毎朝、鳥篭を掲げ、毎夕、それを下ろすのがジャワ人亭主の日 課である。
バリ人のヒンドゥー思想によれば人が死ねば魂を肉体から解放せねばならない。火葬により
魂は天に上ることができる。昇天の目出度い儀式である葬式の火葬(→651)の際に鳩が放た れる。鳩は肉体から開放され飛び立つ霊の象徴である。
インドネシアでも中華レストランのメニューに鳩料理があるから、食用の鳩が飼われているら
しいが、鳩の食用は一般的でない。しかし中東のイスラム教徒は鳩を飼って食用にする。写真 で見る鳩舎は土製の建物で上の方に鳩の出入口がある。インドネシアにも似たものがあり、古 い建物で玄関や窓が閉め切って上部が鳥の出入口の穴がある。中華料理のツバメの巣の採 取のための養殖である。
現在の位置
東インドネシア、特にニューギニア島のジャングルにいる有名な鳥は極楽鳥である。求愛の
豪華絢爛の乱舞で知られている。ふさふさとした黄色の羽毛は深緑の樹上では黄金色に見え る。極楽鳥の乱舞はスペクタルそのものである。もちろん見たのはビデオであるが、実際に見 た人が極楽鳥と命名したのも肯ける。ちなみに日本語では"風(ふう)鳥(ちょう)"という別名があ る。インドネシア語ではチュンドラワシ(cenderawasih)である。
極楽鳥の羽根は東インドネシアの各島に伝わる戦士の踊りの頭飾りに使用されていたが、1
9世紀のヨーロッパ宮廷の夜会衣装として貴婦人の帽子に極楽鳥の羽根を飾ることが流行と なり西欧に大量に輸出され、たちまち絶滅の危機に陥った。 ⇒禁制の極楽鳥
保護のため輸出が禁止されてからも土産物に秘かに剥製(はくせい)にして売られていた。輸
出入の検査逃れに折り畳むと剥製は案外小さくなる。数羽を組み合わせて作るので一つの剥 製のために数羽の極楽鳥が犠牲になった。
しかし需要がある限り密猟がなくならないということで、輸出入禁制品として取締はさらに厳し
くなっている。象牙と同じで輸出側で取り締まることができない場合は輸入側で取り締まる方が 効果的である。
極楽鳥といえば美しい羽根であるが、ニューギニア島の原住民は極楽鳥の肉を食べる。手
当たり次第の派手な交尾から精力絶倫の鳥と思われおり、あやかりたいからである。
ジャカルタのタマンミニ公園(→164)の鳥舎に極楽鳥がいる。何がしのチップを渡せば飼育員
が呼び寄せ極楽鳥が肩に来て留まり記念写真を撮る。金網の中で見る限り面相は普通の鳥 である。メスが相手ならば見せる華麗な羽根の舞踊もホモサピエンスのオジサンへのご披露 はなかった。
サイチョウは“犀鳥”と書く。大きい嘴(くちばし)の上に角冠という突起物がある。名前の由来
は突起物が犀の角に似ていることによる。サイチョウ科は熱帯に40種ほどになる。インドネシ アに生息する大型種は全長1mの大きさもある。
羽が硬く金属のようである。従って飛行する際には「カタカタ」という機械音のような音をたて
る。白い大きな嘴、黒と白の派手な羽など鳥の組立て玩具のようである。うるさいのは羽音の みならず声もである。馬鹿笑いのような奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)な鳴き声であるが、サ イチョウの声を神の声として崇め畏れている部族もいる。⇒サイチョウ
毎年同じペアで1羽の雛を育てる。子育て期間はオスがメスの分の餌もせっせと運ぶという
模範的鳥類である。2001年の日本で大ヒットしたアニメ映画『千と千尋』の湯婆婆の乗物がサ イチョウであったのが印象的であった。
インドネシアでは東部へいくほど色鮮やかなインコやオーム(注)が生息している。ペットとして
飼われており輸出もされている。ジャワ人は声のよい鳩の方が好きであるが、インコやオーム のペットも増えている。
現在の位置
ヤモリは日本の温暖地域でも見られる約6cmの大きさの爬虫類である。そもそもは熱帯・亜
熱帯の生物であるのは人とともに南から移住してきたからであろう。人のいないところにはいな い。ヤモリは漢字で「屋守」または「守宮」と書く。単なる当て字であろうが、家の守り、宮の守り という意味が込められていることに気がついたのはインドネシアのヤモリを知ってからである。
インドネシアの住宅では屋内の壁や窓にヤモリを見かける。地方ではホテルの室内にもい
る。手足が吸盤(きゅうばん)になっているので天井に逆さまに張りつくことができる。天井に張 り付いた状態で小便をすれば引力の法則により下に居る人に降りかかる。たまにはヤモリ自 身が天井から落ちてくる。深夜、就寝中にヤモリが顔に落下して以来、ノイローゼになった人も いる。⇒天井のヤモリ君 ⇒ヤモリ
仮に姿を見なくても鳴き声を聞くことは多い。始めは大きな鳴き声にどのような鳥かとキョロ
キョロして犯人がヤモリであることを教えてもらう。
ヤモリのインドネシア語の「チュチュ(cecek)」はヤモリの鳴き声からの命名である。そのヤモ
リより鳴き声も姿も数倍大きい爬虫類が「トッケイ(tokei)」である。これも鳴き声からの命名で ある。
トッケイは30cmを越える大型のヤモリである。手足に吸盤があるので壁や天井を徘徊して害
虫を餌にするので人にとって有益な動物である。普通は屋根裏に潜んでいるので姿を見ること はないが声は聞こえる。
2〜3百メ−トル先からでも聞こえる大声であるから初めて聞くとびっくりする。1〜2秒おいて
数回なき声が繰り返される。トッケイが鳴き始めると人は耳をすましてその数を数える。トッケ イの声は幸せを呼ぶとされている。続けて7回(地域によって数字は異なる)鳴くと人はにっこり とする。一般に奇数が好まれる。
バタック人の伝統家屋の装飾文様にも蜥蜴(とかげ)のモチーフが見られる。ダヤク人(→
624)の祖先像の彫像には蜥蜴が密着している。トラジャ人の伝統民家(→939)には蜥蜴の彫り 物や絵で装飾される。これらの蜥蜴はトッケイであろう。屋根裏に居付くことから家の守り神と してシンボル化されたものである。⇒バタックの装飾文様
ところで日本語の「蜥蜴」の語源はインドネシア語の「トッケイ」という。日本にはトッケイはい
ないが、南方から渡来してきた民族は蜥蜴を見てトッケイと名付けたのが蜥蜴の語源という珍 説がある。
トッケイのなき声は低音歌手といわれるほどすばらしいが、その分だけ面相が悪い。怪奇な
顔をしているのでトッケイの唾液を飲むと醜い顔になると信じられている。従って三角関係のも つれなどで捨てられた男が娘に復讐するにはトッケイの唾液を採取して何らかの策略でもって 娘に飲ませればよい。危険物のため市販はしていない、念のため。もう一つ、雷の鳴る時に張 り付いたトッケイは次に雷がなるまで離れないそうだ。
現在の位置
水にいる爬虫類で危険なのは鰐(わに)である。以前はインドネシアのいたるところの河や沼
に鰐が生息しており、不用意にマンディ(→803)中の人が襲われた。ジャカルタにオランダがバ タビア商館を築いた頃のチリウン川(→155)には鰐がいた。
インドネシア民話にも鰐はよく登場する。小賢しい鹿や猿に「仲間の数を数えてやる」とだまさ
れて橋代りなるという民話がインドネシア各地に散在している。日本の『因幡の白兎』とどこか で繋がっているはずである(→1000)。
鰐が水中から潜望鏡のように目だけを出して獲物をうかがう様は狡猾(こうかつ)であるが、
岸辺に丸太のように転がって寝ている様はあまり尊敬される恰好ではない。獰猛であるが、ど こか間抜けであるというのが鰐の民話におけるイメージである。
最近では鰐も養殖されている。ワニ皮の輸出が目的であるが、生皮は輸出禁制品になった。
丸太やラタン(→558)などの原料での輸出禁止と同じく、ワニ皮もハンドバックやバンドに加工し て輸出しようとするものである。絶滅のおそれがあるためワシントン条約によってワニ皮製品 は禁止されている。養殖の証明書がないと日本への持ち込みはできない。
ニューギニア島まで行けば鰐はまだ健在である。今日も人食い鰐の出現が話題になることが
ある。ニューギニア島では鰐を神の使いとして崇める部族も多い。
熱帯であるからいろんな種類の蛇がいる。蛇のいる牢獄へ入れる罰があったから一般には
嫌われる動物である。ニューギニア島などには祖先として蛇を崇める未開部族もいるだろう し、稲作民族では蛇を田の神とみなしている。ヒンドゥー教ではナガ神(→953)として水の神とし て敬われている。⇒蛇彫刻のヒンドゥー遺跡
猛毒の蛇もいるので人への被害もあるが、蛇の方が人にやられている。ジャングルの大蛇
は捕まえられて皮をはがれハンドバックや靴になる。中華街で生きた蛇の売り物があるのは 食材である。
コモド蜥蜴(→216)は絶滅種の恐れありと島ごと世界遺産に登録された。コモド蜥蜴を見たい
人はコモド島まで出かけなくてもジャカルタのラグナン(Ragunan)動物園に飼育されている。顔 も動作も獰猛であるが、飼い慣らされると犬と同じように係員についてまわるところが愛敬であ る。⇒コモド蜥蜴
バリ人の宇宙観によれば地下の冥界にブダワン(→708)という大きな亀がいて地上を支えて
いる。一方、食料として亀の肉を好むのもバリ人である。サヌール(→174 )の沖のセランガン (Serangan)島は亀の繁殖地である。亀肉はお祭りの御馳走であるが、乱獲によって亀が減っ てきたので現在では亀の捕獲は制限されている。最近ではセランガン島で亀の養殖をやって いる。
現在の位置
インドネシアに取材したTV番組に『蛍の木』の話があった。無数の蛍がある時季にある特定
の木に集まり一斉に点滅する光景である。蛍が夫々バラバラに点滅するのではない。点灯は 瞬間的であるが、マスゲームのように左から右に、あるいは上から下へ光の帯が流れるようで ある。漆黒の闇に奏でられる光のハーモニーは幻想的なまでに美しい。TVは蛍の集うこの光 をクリスマスのイリュミネーションに準(なぞら)え、あらゆる形容詞を駆使して感動を伝えてい た。
しかし私が蛍の木で思い出すにはニューギニア戦線(→237)で九死に一生を得た日本兵の
回想記である。戦場で多くの日本兵が飢餓や病気で命をなくした。生き延びた兵が故国へ帰る 日を待つ間に見たのが蛍の木である。蛍の光は「故国へ帰りたい・故国へ帰りたい」と戦友の 霊魂がさまよいっているようだったという記述が忘れがたい。実物を見たことはなくても、蛍の 描く鎮魂(ちんこん)の心象風景である。
インドネシアでは南スラウェシ州で養蚕が行われており、ソッペン(Soppeng)がその中心であ
る。在来の養蚕とは別の新種の生糸の製造が試みたれている。野生の蛾(が)であるアタカス、 クリキュラの繭からの生糸(きいと)が黄色である。これを"黄金の繭"として販売する事業化で ある。スポンサーはジョグジャカルタ王室(→121)である。かつての蚕糸先進国であった日本か ら技術者が派遣されている。クリキュラの繭は紫外線遮断の機能が新技術創世の観点から注 目されている。⇒スラウェシ島の蚕
蟋蟀(こおろぎ)の秋の夜に聞く「コロコロ」という鳴き声は日本人の心情に訴える。声の良い
にもかかわらず姿はアブラムシに似たうす汚い昆虫である。姿同様、排他的で縄張りを拡大し ようとする闘争心だけの根性の悪い虫である。この闘争心から蟋蟀を格闘させる遊びが生ま れた。ジャワの王宮で始まった遊びとされるが、その元は中国であろう。映画『ラスト・エンペラ ー』で幼帝が紫禁城の自室で熱中していた場面があった。
ジャワとバリの男性は子供の時から蟋蟀を愛玩する。特にバリ人にとっては闘鶏(→832)の
代替である。まずは立派な蟋蟀の篭を用意する。夜中に墓場で捕えた蟋蟀が最も素質がある と信じられている。幽霊を恐れるインドネシア人も蟋蟀を捕えるためには夜中に墓場へ行くらし い。⇒こうろぎ?
唐辛子を食べさせると蟋蟀の闘争心が高まるという。時にはアルコールもサービスする。や
もりの肉も効果があるらしい。足腰を鍛えるために篭の中にプールを作り泳がせたりもする。さ てこのようにして鍛えられて蟋蟀はいよいよ試合に登場する。集まっているのは男ばかりであ る。持ち寄った蟋蟀を突いて反応を見て闘志の具合いを調べる。あれこれ論評しながら取組 相手がセットされ賭金が調整される。
負けた不名誉の蟋蟀は釈放される。もちろんこれまでの特別待遇はなくなる。常勝の蟋蟀で
もその寿命は最長2ケ月である。
現在の位置
英国の生物学者ウォーレス(注1)はインドネシアを8年間にわたり放浪し『マレー群島』(→
971)を著した。彼は島と島の間に動物相の差に注目した。例えばオランウータンはカリマンタン 島とスマトラ島にいるが、ジャワ島にはいない、虎はスマトラ島とジャワ島でカリマンタン島には いない、ということはよく知られている。このような大型動物以外に目立ちにくい小動物に拡げ て分布状況を観察した。⇒ロンボック海峡
動物の分布には泳ぐ性質とか、既に滅びるとか、人が持ち込むなど個別の動物毎の事情が
あろう。従ってウォーレスはできるだけ多くのサンプルから島毎の共通する動物と共通しない 動物の定量的な比較を行い島の分離時期の比定を行った。その結果によればジャワ島、スマ トラ島、カリマンタン島の3島ではジャワ島の分離が最も早いという推論である。
動物地理学の権威としてウォーレスの名を不朽にしたのは【ウォーレス線】で知られるアジア
とオーストラリアの間の動物の境界線である。世界の動物区のうちオーストラリアは有袋類(ゆ うたいるい)のように特殊な地域となっている。
インドネシアはその両者の移行地帯であるが、ウォーレスはたまたま立ち寄ったロンボック島
(→212)で対岸のバリ島と動物生態に違和を感じた。さらにスラウェシ(セレベス)島で動物を観 察しオーストラリア区の動物が優勢であることを確信したことから、はアジアとオーストラリアの 動物の境界線がロンボック海峡(→038)とマカッサル海峡(カリマンタン島とスラウェシ島の間) を貫く線であるとした。 ⇒ウォーレス
その後ウォーレスはアジアとオーストラリアの動物の境界はスラウェシ島の東に訂正した。
1896年、ライデッカー(Lydekker)はサフル大陸棚の西端を境界するライデッカー線の方が適 切と発表した。1904年、ウェーバー(Weber)の検証でスラウェシ島をよく調べるとアジア的要素 も顕著であるとしてウェーバー線をスラウェシ島の東に引いた。
結局、アジアとオーストラリアの間の生物界の境界はよく分からないというのが結論である。
ウォーレス線とライデッカー線に挟まれた地域の島々はアジア大陸とオーストラリア大陸の移 行帯というコンセプトからウォーレシア(→039)といわれる。ウォーレシアとは“ウォーレスの 島々”という意味である。
両大陸の生物界を有するインドネシアは哺乳類でも500種以上であり世界の12%をしめ、固有
種も多くいる。種の多さでは世界一である。鳥類や爬虫類も同様である。
その他にウォーレスはダーウィンと並ぶ進化論で名を残している。動物の変種を観察してダ
ーウィンに宛てた論文は投函場所がテルナテ島(→228)であったことから俗にテルナテ論文と いわれる。主旨は「変種がもとのタイプから無限に遠ざかる傾向について」の“分岐の論理”と いわれるものである。
その方面の大家であったダーウィンはウォーレスの論文を受け取って驚愕した。何故ならダ
ーウィンはウォーレスと同じことを考えていたからである。この二人の人間関係は小説的(注 2)である。
現在の位置
|