B−1 スマトラ島
全世界の島の大きさで世界第1位はグリーンランドである。第2位はニューギニア(イリアン)
島、第3位はボルネオ(カリマンタン)島、第6位がスマトラ島である。2・3位ともインドネシアで あるが、他国と共有であるため、スマトラ(Sumatera)島(注1)はインドネシアが単独で有する 最大の島である。
スマトラ島の面積は47万平方kmであり、日本の総面積(37万平方km)の1.3倍になる。インド
ネシアの陸地面積の25%を占める。
島の西側を脊梁山脈のバリサン(Barisan)山脈が貫いている。長さは1600kmで、海を経てヒ
マラヤ山脈に連なる山系であり、最北のアチェ州で最も峻険(しゅんけん)である。バリサン山 脈はインド洋側に有り、断崖となって海に臨んでいる個所もある。総じて西側は平地は少なく東 側は低地になって広がる。スマトラの主要な川はバリサン山脈に発してジャワ海へと西から東 に島を横断して流れる。最長のバタン・ハリ河(→100)は800kmある。⇒スマトラ横断赤道
プレートテクトニクス(→016)によればユーラーシア・プレート上にスマトラ島を含む大スンダ列
島がある。インド・プレートがユーラーシア・プレートの下に潜り込んだ結果、生じた皺(しわ)の 盛り上がった部分がバリサン山脈である。皺の下がった部分がスマトラ島とジャワ島の沖に並 行する海溝(かいこう)である。特にジャワ海溝(最深7045m)は深い。ちなみにインド・プレート はインド洋とインド亜大陸が乗っており、インド亜大陸を北へ押し上げてヒマラヤ山脈を作り、 なおかつ現在も造山活動が続いている。
インド・プレートのスマトラ島への圧力は北側に強いため スマトラ島は400万年前からジャワ
島に対して10-5度/100万年の割合で時計周りに回転している。その結果、列島が折れたよう な形でスンダ海峡(→037)ができ、その裂け目にマグマが浸透してきてクラカタウ山(→021)が 噴き出した。
プレートの動きに生じた弛緩(しかん)の溝がスマトラ島を縦断する大断層である。幅15kmの
セマンカ地溝(注2)がバリサン山脈に並行している。地溝の痕跡を地図で追うと南端はランプ ン州のU型の湾であり、北はアラス渓谷(→085)まで辿れる。⇒スマトラ島クリンチ山
地溝の裂け目に地下のマグマが集積して火山帯となっている。スマトラ島には約90の火山が
連なり、15が現役である。タワル山、レンブ山、シバヤク山、マラピ山、クリンチ山、スンビン 山、スブラット山、デンポ山(→102)が有名である。この火山帯は環太平洋火山帯の鎖の延長 である。爆発の盛んな火山はアチェ州のピュエトサゲエ(Peut Sague)山とカバ(Kaba)山であ る。タワル湖、トバ湖→087)、マニンジャウ湖、シンカラック湖、クリンチ湖、ラナウ湖(→027)の カルデラ湖は地溝に生じた火山の痕跡である。
現在の位置
島の中央を赤道が横断する。熱帯雨林気候が山岳地帯を除く全島を覆っており、人口密度
は低い。人の居住地は分散しているためスマトラ島の民族の構成は複雑多岐であり言語、宗 教、習慣など文化が異なる。アチェ人(→604),ミナンカバウ人(→609),マレー人(→605)、バタ ック人(→607) が主力民族であり、その他にランプン族,ルジャン(Rejang)族、クリンチ族、アブ ン(Abung)族、アラス族、ガヨ族、ニアス族などが適当に割拠している。⇒スマトラの民族
スマトラ島の地理的位置は東西交通の要衝の地に当たるため,初めはインド文化の影響が
大きく,ヒンドゥー教と仏教が優勢となり, 7 世紀にはパレンバンを都としたスリウィジャヤ王国 (→255)が栄えた。14 世紀ころから東進してきたイスラム勢力は,アチェ人を改宗させてイスラ ム王国(→257)をつくり、たちまちのうちに全島に拡がった。山岳部のバタック人だけはイスラ ム教になびかなかった。
8世紀頃、スリウィジャヤ王国がスマトラ全島に覇権を唱えたが、その後は各地に王国が割
拠した。スマトラ島が再び一つの統一政権の下に置かれたのはオランダ領東インド(→279)と してオランダがスマトラ全島の宗主権を確保してからである。⇒伝統衣装のランプン人
植民地からの解放を目指す民族主義運動が盛り上がってきた時にミナンカバウ人のムハマ
ッド・ヤミン(→296)は『アンダラス(Andalas)希望の島』という詩を書いた。アンダラスとはスマト ラ島の古称である。1922年当時はジャワ島への対抗意識からアンダラスを讃えた詩人は1928 年の第2回青年の会議(→292)に際しては『インドネシア・わが祖国』という詩を書き、アンダラ スは祖国インドネシアに昇華した。
スマトラ島は多くの民族主義者を輩出しインドネシア独立に導いた。スマトラ出身者の活躍な
くしてはインドネシア独立の歴史は語れない。疾風怒濤(しっぷうどとう)時代に多くの人材を輩 出したスマトラ島であるが、現在はスマトラ人の影がうすいような気がしてならない。
スマトラの地名の由来には諸説がある。@スマトラ島北部の港町サムドゥラ(→256)
(Samudra 蘇門答刺)が島全体を指すようになった。Aサンスクリット語に語源を求めると「su (良い)」「 matra(計測する)」になる。あるいはsamantara(境界、中間)はアジアに向かう途中 の地点の意味かもしれない。B同じくサンスクリット語のSumatrabhumi(金州、金地)ともいう。 ラーマヤナに「金の島(Avarnadvipa)」と記されており、スマトラ島は金の産地として知られてい た。
語源はとにかくとして「samatra」はポルトガル語で「突然の嵐」という意味らしい。スマトラのス
コールは激しいことで知られている。ちなみにマラッカ海峡航行の船舶は激しいスコールのこと をスマトラン・ストームとして畏怖(いふ)している。
現在の位置
スマトラ島の最北端の「アチェ(Aceh)」はインドネシアの最西端になる。しかし、インドネシア
におけるアチェの位置はインドネシアの辺境ではない。むしろ西からの文化の入口にあたり仏 教、ヒンドゥー教、イスラム教あるいはヨーロッパ文化、これらすべてはアチェ経由でインドネシ アに導入されたものである。
特にアチェは王国時代より東南アジア・イスラム世界の拠点であった。イスラムによる文化的
発展も著しく,近隣イスラム諸国の教学研究の中心的存在として多くのウラマ(→870)を集め た。東南アジアのイスラム教徒にとってアチェは「メッカのベランダ」といわれ、かつてはメッカ 巡礼(→816)船の出る港であった。⇒2004/12津波被害
スマトラ島北端の州都バンダ・アチェ(Banda Aceh)は古くから胡椒の出荷地であり交易で発
展したアチェ川河口の港町である。16 世紀以降,アチェ王国の王都として知られていた。マラ ッカ王国(→032)が17世紀にはポルトガルに占領され、後にオランダ・イギリスとヨーロッパ勢 力の下にあったために、アチェはマラッカに替わりイスラム・チャンネルの交易で賑わった。
しかし18世紀には胡椒貿易の衰退と共にバンダ・アチェ港の繁栄も失われた。1874 年バン
ダ・アチェはオランダに占領されて以降、アチェ地方侵略と支配の根拠地とされた。オランダは クタ・ラジャを公式名称としたが,独立後バンダ・アチェの名に復した。
現在のバンダ・アチェの河口港は機能を失い、地方の農産物集散の人口10万強の田舎都市
である。しかし州都としての行政機関、博物館がこの都市の偉大な歴史を物語る。
町の中央にあるバイトゥルラーマン(Baiturrahman)大モスクはアチェ人のイスラム信仰の象
徴であり、インドネシアで最も素晴らしいといわれる。しかしこのモスクを建てたのはオランダで ある。アチェ戦争で苦戦したオランダが住民懐柔のために建てたものである。
今日のアチェ州は稲作を行う農業地域である。古い歴史を有するマラッカ海峡に面した平野
部が水田の適地であり人口も多い。東海岸は歴史に登場する古い港町が並ぶ。プルラク (Peureulak)は13世紀に最初のイスラム教国が建てられた。サムドゥラ・パサイ(→256)はマル コポーロが中国からの帰路に風待ちのため5ケ月滞在した所である。アチェ王国の前身であ る。
田園風景の中に超現代的なガス・コンビナートがある。ロックスマウェ(Lhokseumawe)の近く
のアルン(Arun)に日本への輸出用LNG工場(→548)とASEANの肥料工場(→539)が操業して いる。しかしこれらの開発がもたらす富はジャカルタに吸い上げられ、アチェの富が収奪されて いるとして中央に対する不信感が強い。誇り高きアチェはインドネシアからの分離独立問題を 提起しており、D-6章(国家分裂の危機)に詳述している。
現在の位置
アチェの北端の先のウェ(Weh)島という小島に「サバン(Sabang)」の町がある。古い火山島
で奇岩など風景はすばらしいが、アチェ王国時代は流刑地であった。バンダ・アチェから約2時 間のフェリーが就航している。
インドネシアの広い国土をいう時「サバンからムラウケまで(Dari Sabang sampai Merauke)」
という。メラウケ(→242)はイリアン(パプア)州南岸の最東端である。このようにサバンの地名 はインドネシア国土の象徴的な意味を持つことから、インドネシア独立運動において民族主義 者の胸中の襞(ひだ)に訴える地名であった。⇒サバン湾
植民地時代にオランダへ留学したインドネシア人の民族主義者が帰航にあたり最初に目に
するなつかしの祖国がサバンであった。その感激は次のように述べられている。
サバンはマラッカ海峡の入口として戦略的にも重要な地点である。帆船から汽船への変遷に
オランダは貧しい漁村であったサバン港に目をつけた。セイロン(スリランカ)島のコロンボとシ ンガポールの中間に位置する石炭の補給基地としてである。オランダは石炭の補給のためス マトラ島に炭坑を開鉱した。サバンには水の補給のための設備やドックも造った。マラッカ海峡 の入口を固める要塞も築いた。
かつての汽船時代のサバン港は石炭の補給地としてマラッカ海峡の南端のシンガポールと
肩を並べる存在であった。今日のシンガポールは世界の十字路として狭いながらも都市国家 として繁栄を誇る。一方、現在のサバン港は石炭倉庫の面影を留める古い建物が残っている だけの時代の波に取り残された町にすぎない。この差の生じる所以は立地条件の差だけでは なく、政治の問題もあろう。⇒現在のサバン港
1970年にサバンを自由貿易港とし貿易の振興を図り、賭博の解禁も試みられてサバン港は
一時的に賑わった。しかしバタム島(→534)優先の政府措置のため自由貿易港は1986年に期 限切れとなり、サバンは再びうら寂しい田舎町に戻った。アチェ州の振興についてジャカルタが 本気でない証拠としてサバン港の衰退があげられてきた。アチェ独立問題(→437)への対応と して、ワヒド大統領によってサバンは再び自由港になった。
第二次世界大戦で島を占領した日本軍はインド洋から攻めてくる連合軍に備えてオランダの
築いた要塞を強化した。島の大きさの割に駐屯した日本兵の数が多く過剰警備と食料不足か ら発生した軋轢(あつれき)の後遺症があり、かなりの間は日本人には行きにくい雰囲気があっ たといわれていた。
今、サバンで最も期待されているのは観光である。古い火山島であるため海底の変化がす
ばらしい。スポットはイボ(Iboih)海岸の対岸のルビア(Rubiah)島である。
現在の位置
アチェの内陸部はスマトラ島の背骨であるバリサン山脈(→081)が海に没する前の褶曲を
全部ここで引受たような険しい山岳地帯である。3千bをこえる山並みの狭間(はざま)にガヨ (Gayo)高原とカルデラのタワル(Tawar)湖がある。⇒タワル湖
ガヨ高原を根拠地とするガヨ族はバタック人(→607)の支族であり、アチェ人とは別の民族で
あるが、アチェ人の影響を受けてイスラム教に改宗した。20世紀初めは1週間の徒歩旅行で ようやく辿り着けるような秘境であったが、現在ではスマトラ縦貫道路(→845)の開通により数 時間のドライブである。秘境であったガヨへアチェ人、ジャワ人、ミナンカバウ人、華人などが 移住してきたためガヨ族は小数派になりつつある。
ガヨ高原とカロ高原を結ぶ「アラス(Alas)渓谷」はスマトラ(セマンガ)断層の末端である。アラ
ス渓谷にはアラス族が居住しており、ガヨ族と同様にバタック人系であるが、アチェから浸透し てきたイスラム教に改宗している。ここでも交通の便がよくなり、他民族の流入でアラス固有の 文化が滅亡の危機にある。⇒アラス川の筏下り
アチェ戦争末期の指導者のチュッ・ニャ・ディン(→341)はアチェ人である。世故たけたアチェ
人の大勢が既にオランダに帰順していた際にアチェ戦争末期の戦いをジハード(聖戦)の兵士 として支えたのは山間のガヨ族やアラス族などの朴訥(ぼくとつ)な部族である。彼らはアチェ人 以上にアチェ的であった。太平洋戦争の沖縄戦における沖縄の人を思い出した。
アラス渓谷のブランケジェレン(Blangejeren)は女子供を含めた村人が皆殺しにされた所であ
る。転がる死屍(しし)累々(るいるい)を舞台装置の小道具にしたオタンダの戦闘勝利記念写真 はヨーロッパでも轟々たる非難をあびた。オランダはその跡に砦(とりで)を築いたが、兵士は 死者の亡霊に夜な夜な怯(おび)えたという。⇒アチェ戦争
ルセール(Leuser)山(3466m)は非火山でアチェ州の南部にある。険しい山中はオランウータ
ン(→071)やスマトラ虎(→067)やスマトラ犀(→069)やスマトラ象(→068)が生息している密林で ある。ルセール山からアラス渓谷にかけて国立公園に指定され、大型哺乳類や鳥類が保護さ れている。
人跡未踏地には動物のみならず未だ文明に接したことのない短身の未開部族がいるという風
説もあった。昔の話であるが、オランウータンの毛を全部剃って新人類の発見と売り込んだ詐 欺師がいたそうである。
ルセール山国立公園の所在地は北スマトラ州とアチェ州にまたがるが、メダンから入るのが
便利である。公園内のブキット・ラワン(Bukit Lawang)ではオランウータン孤児の野生復帰のリ ハビリが行われている。
現在の位置
トバ湖北方に広がる「カロ(Karo)高原」はシバヤク(Sibayak 2094m)山、シナブング
(Sinabung 2451m)山の活火山に囲まれた土壌の豊かな高原である。カロ・バタック族(→607) 30万人が農業に従事している。キャベツやジャガイモなどの高原野菜はベラワン港(→089)より シンガポールやマレーシアにも輸出される。
カロ高原中心地にあるブラスタギ(Berastagi)は1330mの高地にあり年平均気温 20 ℃と冷涼
な気候であり果物の町である。ゴルフ場やキリスト教各宗派の教会がある。避暑客が馬に乗っ て遊んでいる。丹精をこめた花壇を爽やかな風が駆け抜ける。
ブラスタギの町の起源は1912 年,メダン在住のオランダ人のためのジャガイモ栽培が成功し
たことから、植民地時代にメダンの避暑地のみならずシンガポールやマレー半島の欧米人の 高原の保養地として開発された。⇒ブラスタギの夕暮れ
リゾートホテルが建設され、当時の小説によると金と閑を持て余したプランターの若い人妻
が不倫にふける舞台(注)であった。今日も年配のヨーロッパ人客が多いのは植民地時代へ の"センチメンタル・ジャーニー"であろう。
私が遭遇したブラスタギでの小さな事件はスハルト全盛の頃であった。メダンから乗車してい
たハイヤーが高台のホテルに向っている際に、どこからか続々と現れた高級車に取り囲まれ るようにしてホテルに到着した。ホテルに入りロビーには満艦飾(まんかんしょく)の勲章をつけ た年輩の高級軍人が着飾った夫人を連れて屯(たむろ)していた。どうやら高級軍人OBの集 会に来合わせたことが分かった。
思い出すにあの時の我方の車の運転手の顔は緊張で強張(こわば)っていた。運転手にして
みれば神戸で暴力団組長の葬式の列に紛れ込んだのと同じ恐怖感であったのであろう。ちな みにインドネシアでは車のナンバープレートで軍関係の車は識別できる。
軍人連中は夫人を連れて上機嫌で友人との再会を喜び合っていた。将軍達の堂々と肥満した
体躯は痩せた一般のインドネシア人とは別人種のように見えた。
ホテルは板張りの天井の高い戦前を思わせる様式であった。箱根の“富士屋ホテル”に入っ
た時にブラスタギのホテルを思い出した。
バタック人の中でカロ族は最も伝統的な文化を伝えている。リンガ(Lingga)村ではカロ・バタ
ックの伝統様式の反り屋根の伝統民家(→939)があり、トバ湖へ行く観光客が立ち寄る観光地 となっている。ガイドの案内するままに伝統民家の階段を上って暗い室内に入った。囲炉裏(い ろり)の火が見えるだけで誰もいないかと思ったら、次第に目がなれてすぐ側の足元に老婆が うずくまっていたので驚いた。⇒カロ族の伝統家屋
大人は農作業に出かけているようだった。村には子供が遊んでいたが観光客が来ても無関
心であった。インドネシアすべての観光地では物売りの攻勢にたじたじとなるはずであるが、カ ロ族のあの村は一体何であったのかと今でも気になる。
現在の位置
メダン(→089)から延々と登り坂を上り詰め、外輪山の峠から眼下の大火口原に広がる水色
の湖面の景色は感動的であった。スマトラ島北部の標高900mにある「トバ(Toba)湖」は琵琶 湖の二倍もある世界最大のカルデラ湖である。サモシル(Samosir)島を入れると1740kuで琵 琶湖の3倍になる。水深529mである。トバ湖集水面積3440kuには30万人が居住している。
巨大なトバ湖を作った大爆発(注1)の規模はクラカタウ火山(→021)の100倍といわれる。複
合火山の中央になるサモシル島は温泉の滝などに火山活動の症状が残っている。荒々しい不 毛の山であるが、全バタック人の心の故郷であり死者の魂の宿る所である。
バタック人の伝説ではかつてドロク・リヒトという高山があった。バルー・サニアン・ナガという
女神が人間の男に騙された時に、怒りで火山が噴出してリヒト山が揺れ動き、嵐で渓谷が浸 水して湖になった。住民は今も湖を司る女神を"竜"として恐れ、船頭は湖に供物を捧げてから 出航する。 ⇒トバ湖
湖岸にあるサモシル島の名所は船でめぐる。アンバリタ(Ambarita)村には石の椅子が円形
にあり、そこで裁判が行われた。近くにある石のまな板は処刑を行う首切台である。首を切ら れた遺体はその場で食(→608)べられた。⇒サモシール島
トモク(Tomok)の王家の墓にあるワリンギン(→050)の樹の下にシダルブタ(Sidarbuta)王の
立派な石棺がある。石棺には王の彫像と王妃と護衛の彫刻がついている。400年前といわれ るが、彫像の印象は現代の美術をも思わせる。石棺の形のそり具合が船であることは興味深 い。
船に乗ってあの世に行くというのはバタック人に限らずインドネシア文化の基層にあるらし
い。古代エジプト文化との共通点を指摘するユニークな説(注2)がある。
湖岸の小さな村のバタックの伝統家屋(→938)や瀟洒(しょうしゃ)な保養施設が湖の風景に溶
け込んでいる。湖畔のプラパット(Prapat)は保養避暑地としてメダンやシンガポールの熱帯の 低地から涼を求める白人によって植民地時代に拓かれた。1949年1月、独立戦争の最中にオ ランダに逮捕(→327)されたスカルノ大統領はプラパットに軟禁されたことがある。
インドネシアの観光地としてバリ島、ジョグジャカルタに続いてトバ湖に人気が高いのは避暑
地としての高地の爽やかな気候とスケールの大きな風光明媚な火山地形であるが、それ以外 にバタック人の作り出した個性強い文化の存在が大きい。⇒トバ湖畔
観光客は伝統家屋やシガレガレ人形(→919)の特異な文化に触れ、夜はホテルで声量のあ
るバタック人の歌謡と器楽演奏を楽しむ。土産物にはウロス(ulos)というバタックの手織り布、 カチャビー(kacapi)というギター等がある。
手作り民芸品のバタックのカレンダーは1年分の記号が並んでいる。解説書によると種を蒔く
日、休息の日など数種の記号が繰り返し現れる。
現在の位置
17世紀、マレー人(→605)の領主がデリ川の24km上流のメダンに居を構えて「デリ(Deli)」の
スルタンと名乗った。デリとはデリスルダン(Deli Serdang)県の地域であるが、広義には北スマ トラ州の東海岸地域一帯を指す。デリ地方はオランダ植民地時代にプランテーション(→505)で 飛躍的に発展し今日も重要な地域である。インドネシア有数の大都市になったメダンはその中 心である。
1863年オランダ人のニーンハイスがタバコ農園を始めて以来、同地のタバコは葉巻に優れ
ており、デリの名は煙草の産地として世界に知られるようになった。さらにタバコに加えてゴム (→561)のプランテーションが発展した。
内陸部の丘陵地帯に拡がる土地はほぼ無人であるから入手は容易である、資本はヨーロッ
パ・アメリカから調達できる、問題は労働力であった。もともとこの地方は沿岸にマレー人(→ 605)の村が点在する程度の人口の希薄な地域であった。⇒小さな町で
同じ事情にあったデリ対岸のマレー半島では英国植民地であったため中国とインドに労働力
が求められた。これに対してオランダには自領の植民地にジャワ島という人口過剰の地域が あった。スマトラ島では島内各地に加え華僑労働力にも依存してきたが、ジャワ人、スンダ人 等のオタンダ領内からの移住者が多かった。
マデロン・ルーロスヌフ著(→972)の『クーリー(Coolie)』はジャワ島出身のクーリーの生涯を
描いた小説である。だまされてスマトラ島に連れてこられ、初めは出稼ぎのつもりであったが生 涯ジャワへ帰ることができず、結局はスマトラの土となる一生である。
このように急速に発展したメダンには世界各地から集まった人種が見られた。新開地の常と
してがさつであり、悪名高い“メダン華僑(注)”が跳梁(ちょうりょう)した。
太平洋戦争後、植民地体制は崩壊したが、マレー半島は中国人とインド人が人口の半数近
くを占めていたため複合社会(→686)のまとまりの悪さを露呈した。これに対してスマトラ島のデ リでは同じ労働移民であってもインドネシア人として結束が可能であった。
しかし一方では労働者として支配階級に対して階級意識が先鋭化していた。トゥビン・ティン
ギで日本軍との武器争奪戦(→323)があり、またスルタンが処刑されるという事件もあり、デリ などスマトラの新開地は荒々しい歴史を経ている。
メダン国際空港はポローニャ(Polonia)空港という。語源はポーランド人の経営する農園であ
った事にちなむ。インドネシアの国際空港は国家英雄の人名であるが、どういうわけかメダン だけは例外である。
マラッカ海峡に面する外港ベラワン(Belawan)はデリ地方の物産の輸出港である。植民地時
代にはヨーロッパ向けの客船が就航する華やかな港であった。
現在の位置
スマトラ島北部の「メダン(Medan)」は人口190万人(2000年)、スマトラ島最大の都市であり、
インドネシアでも4番目の都市である。インドネシアで経済的に重要な北スマトラ州の州都であ る。メダンは"広場"という意味であり、かつてアチェ王国とデリ王国の間で戦いの行われた広 場であることにちなむ。
メダンは今世紀になってゴムのプランテーション(→505)などスマトラ島の資源開発とともに急
速に発展したもので、植民地時代に東インド政庁のスマトラ島支配の拠点となった。オランダ 植民地時代のメダンは急成長の新開地として、アメリカ西部劇の新開地さながらのガラの悪い 町で評判はよくなかった。世界各地からあらゆる民族の移住してきた町で“人種の博覧会場” のようであった。 ⇒メダンの市街
インドネシアの大都市で地域の民族伝統から束縛されない二つの大都市があるといわれる。
すなわち始めから終わりまでインドネシア語が話される都市である。一つは首都ジャカルタでも う一つがメダンである。その他のスラバヤ、バンドゥン、ウジュンパンダンの都市ではインドネシ ア語の挨拶が終わると会話は地方語になる。
メダンの都心にはプランテーション・ブームの時代に金をあかして建てられたコロニアル風の
瀟洒(しょうしゃ)な建物の町並みと鬱蒼(うっそう)と茂った街路樹の風景が残っている。自動車 やバイクの喧騒さえなければ1930年代へのタイム・スリップである。かつて日曜日に訪れた際 のチャイナタンの妙な静寂さが印象的であった。
独立後もメダンは発展し人口は増加し続けた。周辺部に行くほど無計画に拡大しゴチャゴチ
ャとしている。スハルト政権末期のメダン暴動では華人の商店や工場が襲われた。
メダン市内の観光スポットとしてかつてのスルタンの宮殿が公開されている。立派な建物に比
較して展示品はありきたりである。スルタンの直系はジャカルタで議員ということである。独立 後の北スマトラを襲った革命運動で各地のスルタン家は処刑されたが、どういうわけかデリ(メ ダン)のスルタンは免れたらしい。⇒メダンの宮殿
宮殿の裏手に廻ると目立たない一画に人が居住している様子が窺われた。後で調べるとサ
ルタンの支族ということであるが、洗濯物などの雰囲気は庶民のものであった。
メダンの数少ない名所の一つはワニの養殖場である。餌に与えられた生きた鶏をワニの群
れが争い求める。日本から視察にきたどこかの市長が噛み付かれたことがある。見ていて気 持ちが悪くなるだけである。ワニ皮のお土産目的ならとにかく好き好んで行く所ではない。
⇒地図、⇒注釈と資料-089
現在の位置
古代スマトラ島に栄えたスリウィジャヤ王国(→255)は王国所在地のパレンバン(→101)やジ
ャンビ(→100)から仏像などが発掘されているが、大帝国にしては遺跡が少ないのはスマトラ島 の厳しい自然下で土に還元されたからであろうか。
数少ないスリウィジャヤ王国時代のスマトラ島にある遺跡は、@北スマトラのパダン・ラワス、
A中央スマトラのムアラ・タクス、Bムアラ・ジャンビである。
@の北スマトラ州のパダン・ラワス(Padang Lawas)はバルムン川の上流である。広々とした
草原に16の遺跡が残っている。ほとんどが煉瓦(れんが)積みのため崩れそうになっており、イ ンドネシア考古学当局によって修復作業が行われている。碑文から11〜14世紀に密教信仰の センターであったことがうかがわれる。Bムアラ・ジャンビはジャンビ州の項にゆずる。
スマトラ島の古代遺跡の中で最も保存のよいAのムアラ・タクス(Muara Takus)は「リアウ州
カンパル(Kampar)河」にある。11〜12世紀のヒンドゥー遺跡であるが、9世紀頃から建てら れたらしい。74m四方の砂岩壁で囲まれており、かつては都市の一部を形成していた。基盤が 砂岩で上部は煉瓦作りのため損傷が激しく、6個のチャンディのうちマリガイ(Mahligai)仏塔1 個のみが残る。⇒ムアラ・タクス
次はカンパル河の古代から一足飛びに現代の話題である。カンパル河のコトパンジャン・ダ
ム(注)は高さ58b、有効貯水容量10億トン、発電容量11万kwの電源開発と潅漑のプロジェクト である。資金は2.5億ドル(当時のレ-トで340億円)であり、標高900bの高地に拡がるリアウ州と 西スマトラ州で14村、1.5万人の農民の移住を余儀なくされた。⇒コトパンジャン・ダム
一般にインドネシアのダム・プロジェクトは世界銀行プロジェクトで工事施工は日本企業という
ケースが多いが、コトパンジャン・ダムは初めの調査段階から日本のODAプロジェクトであっ た。
ダム建設はインドネシア各地で水没地の住民から反対運動を受けているが、コトパンジャン・
ダムについてはインドネシア政府側の対応に見切りをつけた反対派の農民はジャカルタの日 本大使館に工事取りやめの直訴(じきそ)を行い、日本へも代表を送ってきた。
日本側の再調査によってもスマトラ象(→066)の生息地という自然環境問題も提起された。
ODAのため地元の農民や自然環境が脅かされているとの批判が高まり、日本側は住民の同 意を得ること、象のための移転地の確保などをODAの条件とした。
反対派の意見を考慮した日本の条件であるが、インドネシア政府からは主権を侵害するもの
だという反発を引き起こす。日本としてはインドネシア政府と農民/環境論者の間のジレンマの 中でODAそのものの在り方が問われている。ハザマ(株)を施工者として1993年着工した。
交通不便な場所のため放置されていたムアラ・タクスの仏教遺跡も水に浸かるらしい。この
ため、盛り土をして貯水池の浮かぶ遺跡として観光地にする計画である。
現在の位置
スマトラ島の東側の2/3は地図では緑で表示されている平地であるが、熱帯の平地とはジャン
グルに覆われたスワンプ(→007)で人の居住を排斥する所である。そのスマトラ島中央部東側 のリアウ(Riau)州は日本の本州の半分近くの大きさであるにもかかわらず、人口は470万人に すぎない。
飛行機がジャングルの中へ不時着するかと錯覚するようなところに「プカン・バル(Pekan
Baru)」がある。スマトラ島の中央であるが、海抜は6mで河港がある。水量の多いシアク (Siak)河は海岸から160q遡上した内陸部でも5千トンの船の航行が可能である。町の名 「Pekan(市場)Baru(新)」のごとく河港の交易の町である。シアク河の通商を支配するシアク王 国(→258)の拠点として栄えた。⇒プカンバルのシアク河 ⇒シアク王国の宮殿
19世紀後半以来、西スマトラのコーヒーや石炭の物産をマラッカ海峡側に運ぶ中継基地が
町の起源である。今日もスマトラン・ハイウエイ(→845)が西スマトラ州からプカン・バルに通じお り、物流の拠点である。
このプカン・バルがジャングルの中の交易地としては不つり合いに大きいのは石油の町のた
めである。急速に発展し人口1万人(1946年)から現在21万人(1986年)にまで増加した。人口 構成はムラユ人、ミナンカバウ人、バタック人、ジャワ人、華人と特定の民族に偏らないコスモ ポリスである。⇒リアウ州の河畔
今日のプカン・バルはリアウ州の州都として河港の旧市街の郊外に計画的に建設された官
庁街である。新市街は街全体が小奇麗である。石油の富が染み渡ったようにゆったりとして裕 福な感じがする。心なしかジャカルタと比べると人の眼も穏やかな感じである。
インドネシアの石油生産の拠点は第二次大戦前の南スマトラ州のパレンバン周辺からリアウ
州に移った。リアウ州の最も代表的なミナス油田(→092)はインドネシア最大の油田であり、世 界でも有数の規模である。
ミナス油田をはじめこの地域に広く利権を持つカルテックス社CPI(→535)はインドネシアの
欧米企業の国有化(→475)の際にも踏み留まった会社である。ミナス油田に恵まれたCPIはプ カン・バルの町づくりのスポンサーであり、学校からスポーツ・スタディアムまで社会還元に努め ている。
郊外のルンバイ(Rumbai)にCPIの従業員の居住する区域がある。そこには西洋風の住宅が
整然と並んでおりインドネシアにありながら別世界である。インドネシア人と白人が一緒にスポ ーツをしている。広大な敷地はフェンスで囲われており入口を固めるガードマンの検問を受け ないと入れない。現代に残る“租界”ではないか。
CPIのような米国の大企業の海外進出には地元と同化という考えは微塵もないように見え
る。米国をカルチャー毎そのまま持ってきて現地に移植する。下手な同化策を図るより現地と の軋轢(あつれき)はむしろ少ないという経験則に基づく割りきりだろうか。
現在の位置
プカン・バルからマラッカ海峡に面するデュマイ港まで250qである。地図で見るとスワンプ
(→007)を示す低地マークのついた緑の中の真っ直ぐな道である。しかし、実際はヘアピンカー ブの山越えもある。道路がよく交通渋滞はあるはずがないが、片道3時間のドライブはぐったり とする。
低い丘の続くところでは地図どおり真っ直ぐな道であるが、上がったり下がったりする様子は
さながらジェットコースターである。道路が丘の上の時、見晴らしがよくなる。はるか地平線の 彼方にまで見えるジャングルの低い山並が大きな波のようになって見渡す限り拡がっている。
この道路の沿線が油田地帯である。【最初の井戸】と称する看板が道路わきにある。アメリカ
映画でなじみのドンキーといわれる汲み上げポンプが動いている。この型の人目をひく大きな 装置は今では使われていないが、旅行者の記念写真撮影用に特別に保存されているようであ る。⇒記念撮影 ⇒ミナス油田
方々の井戸から集められた石油は道路わきに並行して敷設されているパイプで積み出し港
のデュマイまで送られる。日本ではミナス原油は高流動点油のためパイプの周りを断熱材で 保温をするが、熱帯の地ではそのような装置は不要である。ただし太陽熱の吸収のためか、 塗料の節約のためか、黒の塗装はコールタールのようである。⇒オイル・ロード
そもそもこのパイプラインは太平洋戦争中に日本軍が油田の開発(注1)のため資材と労働
力を総動員して突貫工事を行って完成した。原住民のサカイ族(→566)の反乱を押さえながら 工事を強行したが、石油が実際に積み出される前に太平洋戦争は終結したといういわく付き のものである。
類似の挿話を一つ。日本軍は西スマトラ州のオンビリン(Ombilin)炭鉱の石炭を島のマラッカ
海峡側に運ぶため、プカン・バルまで220kmの鉄道を建設した。ロームシャ(→305)や連合軍捕 虜を酷使して1945年8月15日に竣工した。石炭は一度も運ばれず、敗残の日本軍の集結に使 用されただけで廃線となった。現在、この線路は跡形(注2)もない。
第二次大戦後、カルテックス社CPIはヘリコプターを動員して石油開発を進め、並行して石油
輸送のためパイプを敷設した。パイプ沿いに道路は油田資材輸送のためであるが、国道とし て一般に解放された。従って走っている車の多くは石油会社【CPI】のマーク入りである。
油田の中の道であるから当初は原油を流して道を固めたということである。今でも石油の副
産物であるアスファルトを惜しげもなく使っている。クーラーのため閉めきった車の中まで石油 の臭いがただよってくる“オイルロード”である。
石油発見以前からあると見える落ち着いた雰囲気の農家もある。このあたりの人家の前の
石油パイプラインの上に乾してある餅(もち)のようなものはタピオカ((→560)らしい。近代産業 との奇妙な併存である。
現在の位置
ジャングルの中から忽然(こつぜん)として周りの景色と調和しない異質な石油タンクの光る
近代工場の風景が現われる。ミナス油田からのパイプの終点のデュマイ(Dumai)はマラッカ海 峡に面する港町である。石油ターミナルにプルタミナ(→531)の石油精製工場(15万bd)があ る。
デュマイ港といっても岸に平行してバースが並ぶだけであるが、港の前面には島があり水路
も狭い。水深も十分でないので絶えず浚渫しなければならない。大型タンカーは旋回も不自由 である。こうしたことからデュマイ港に入港可能なタンカーは10万トン級であり、中東航路の2 0万トン級以上と比べると小さい。⇒石油搬出のデュマイ港
CPI(→535)とプルタミナの整然とした石油施設の区画の外にデュマイの町がある。船員相手
の仮設のようなベニヤ板作りの店舗が西部劇の新開地よろしく並んでいる。保税地区というこ とで流通経路はよく解らないが中国製の陶磁器が安い。
かつてデュマイはマレー人(→605)の住む半農半漁の寂しい村であった。マングローブ(→
006)とジャングルが隙間なく続くこの近辺の沿岸では、デュマィは人間がかろうじてとっかかり を持つ唯一の個所である。デュマイが石油積出港になった所以であろう。
石油製品のうちガソリンや灯油などは小型タンカーで国内や近隣諸国に運ばれる。井戸から
そのままの原油は大型タンカーでほとんどは日本向けである。デュマイ港から約10日で日本に 着く。石油扱量の減少に備えて、一般港への転進のため新バースも建設された。
デュマイ港のもう一つの存在意味は国境の港である。マラッカ海峡の最狭部になるため、対
岸のマラッカ港に渡るフェリーが出る。約40km、3時間の船旅である。マレーシアに出稼ぎに行 く人は延々と長距離バスを乗り継いでデュマイ港まで来て、ここからマレーシアへ船で渡る。こ れが最も交通費が安い出国である。外国へ向かう国際港であるが、港の雰囲気は瀬戸内に 数多くある船着場とそれほど変らなかった。⇒フェリーのデュマイ港
ところでインドネシア人が海外に出る場合は出国税がかかる。ジャカルタから飛行機だと飛
行機代に税金100万ルピア(外国人の場合)を払わねばならない。船であると出国税の方も50 万ルピアと安く設定してある。
ちなみに入出国手続きであるが、日本人が空路でシンガポール入国の場合の手続きは驚く
ばかり簡単である。しかし船でバタム島(→536)からシンガポールへ入国した際には外国人とし てインドネシア人の列に並んだが、同じ国かと思うほど検査が厳しかった。
スハルト政権の末期にマラッカ架橋なるプロジェクト(→034)を大統領の次女ティティ(→452)
が打ち出した。具体的な地点については明かにしなかったが、デュマイ近辺の島でならざるを えないことは地図を見ればあきらかである。
そのココロはスハルト・ファミリーに土地を献上すれば橋をつけてやるということらしかった
が、その後いかが相成り候や。
現在の位置
1511年、マレー半島にあったマラッカ王国(→032)がポルトガル(→270)によって滅ぼされた
時、王国の残党はマレー半島先端のジョホール(Johor)に逃れて勢力を保った。ジョホール王 国はリアウ諸島に拡散しリアウ・リンガ王国やビンタン王国を名乗った。オランダ・イギリスの勢 力が増すに従い、交易から駆逐された王国の生業は海賊まがいであったが、マラッカ王国の 栄光を引き継ぐムラユ世界がこの海域を中心に展開していた。
リアウ(Riau)州はスマトラ島の中央部に位置し、しかも日本の1/3の広大な面積を占める。マ
レー半島の先端から南シナ海に拡がるナツナ諸島(→040)もリアウ諸島である。本土に島々が 付随しているように見えるが、歴史上の経緯は逆である。島に陣取るリアウ王国の覇権がスマ トラ島本土に及んでいたということである。州都も当初はビンタン島のタンジュン・ピナンにあっ たが、石油が発見されスマトラ島本島の石油の位置づけが高くなり、1958年にプカン・バルに 移転した。
本来はシンガポール島も無数にあるリアウ諸島の一つである。英国のラッフルズ(→338)がシ
ンガポール島を強奪(ごうだつ)し、既成事実としてオランダに事後承諾を迫った際に、英国領 はシンガポール島に限定した。このためシンガポールの目の前のリアウ諸島はオランダ領とし て残り、後にインドネシアに引き継がれた。⇒バタム島の中心街
リアウ諸島はシンガポール海峡(→035)に面し、シンガポール、マレーシアに接する地政学的
に重要な地域である。リアウ州は資源保有州(→438)として対中央(ジャカルタ)の問題がある が、もう一つリアウ州内の〈リアウ諸島〉対〈スマトラ本島部〉という問題があった。
リアウ諸島の住民は支配層には移住してきたブギス人(→617)の血も濃いが、基本的には沿
岸マレー人であり、移住民が多くなったスマトラ本島と異なる。シンガポールという大スポンサ ーが近くにおれば土砂さえ輸出して金になる。
バタム島開発(→536)という国家プロジェクトもあり、ナトゥナの天然ガス資源もあり、リアウ諸
島の経済基盤は恵まれている。ミナンカバウ人(→609)やジャワ人の牛耳るプカン・バルへの 違和感があったのだろう。
リンガ(Lingga)諸島はリアウ諸島の南にある。ジャカルタからプカン・バルへの飛行機の窓か
ら眼下に見たリンガ諸島の光景は思いがけないものであった。島々の背骨の岩石が同方向に 並列して透明の海の中に続いている。海面下の岩も一目瞭然である。海上の船からは単なる 島にしか見えないであろう。平面的な地図からも読み取れない自然の造形美が飛行機からの み眺められた。 ⇒リンガ諸島
海の底まで透き通るような海水に浮かぶ緑に覆われた島々を見ていて『客船ブラックシー応
答なし』という早川文庫の小説(注)を思い出した。
現在の位置
リアウ諸島の中心である「ビンタン(Bintang)島」はシンガポール海峡を隔ててシンガポールと
向かいあう。国境はあるが、フェリーで1時間内の距離であることから大都市近郊型果樹農園 や養鶏場などが見られる。
西隣のバタム島ではインドネシアとシンガポールの共同でバタム島開発(→536)が進められ、
続いてバタム島の東隣のビンタン島開発が着手された。工業団地を造成して企業を誘致しよう とするものであるが、ネックは水の確保である。⇒タンジュン・ピナン
シンガポールからの観光客のためにトリコラ(Trikora)ビーチにホテルも増えた。マレー文化
あふれるタンジュン・ピナン(Tanjung Pinang)を買物客が散策している。売り出し中の観光スポ ットはマングローブ観光である。地の利を活かしてハワイを上回るリゾート地計画がサリム財 閥(→523)によって進行していたが、一族の逃亡で中断された。
ビンタン島はリアウ諸島の最大の島であり、海峡の要衝の地であることから海賊の根拠地で
あった。マラッカ王国がポルトガルに占領されて王国はジョホールに引越してきたが、ビンタン 島に拠ったリアウ王国も勢力を伸ばした。
マラッカ海峡をめぐるオランダ、英国、アチェ王国、ジョホール王国、リアウ王国の覇権争い
の中で、次第にヨーロッパ勢が優位にたち、リアウ王国は英国にシンガポール島を割譲(かつ じょう)させられた。年金と引き換えに通商(海賊行為と紛らわしい)も禁じられ、以降のリアウ王 国はイスラム教と文化に専念しマレー文化のセンターとなった。
そもそもリアウ王国には文化(注1)の伝統があり、18世紀のラジャ・ハジ(Raja Haji 1725-
84)は『マレー史』を編纂した。孫のラジャ・アリ・ハジ(Raja Ali Haji)はマレー語史と文法の辞書 を編纂した。インドネシア語の基となるリアウ・マレー語(→606)の本家である。
ビンタン島のタンジュン・ピナンの鼻の先にあるプニュンガット(Penyngat)島という直径1km、
周囲2kmの小島がリアウ王国の“奥の院”である。1911年にオランダの圧力でリアウ国王はシ ンガポールへ亡命を余儀なくされたが、
島にはラジャ(領主)の歴代の墓があり、モスク、王の館がある。中世マレーがそのまま凍結
されている。ジャワ文化がクラトン(→121)で培養されたがごとくマレー文化はプニュンガット島 で培養された。⇒プニュンガット島
リアウ諸島のガラン(Galang)島とレンバン(Rempang)島日本人にとって怨念(おんねん)の島
である。地図で探し当てるとビンタン島の西方にある。緑が少なく赤土の剥き出しの島である。 最近、地域開発のためバタム島から橋が架けられた。
第二次世界大戦後インドネシアに多くの日本兵がいたが、進駐してきた英国軍によってこの
2島に収容(注2)された。独立戦争の最中に日本兵をインドネシアから引き離しておくことは日 本兵への安全配慮のようであるが、不毛の島に自給自足で餓えさせるという日本への陰険な 復讐であった。ソ連が日本兵にシベリアで行った仕打ちの陰に隠れているが、英国の日本兵 に対する仕打ちも銘記されねばならない。
現在の位置
スマトラ島に並行してインド洋に浮かぶニアス諸島、ムンタウェイ諸島(→657)がある。「ニアス
(Nias)島」は京都府ぐらいの大きさでスマトラ本島シボルガ(注)からから100q離れているにす ぎない。しかし近寄りがたい地形、そこに住む首狩り(→625)の野蛮な風習の民族の存在はこ の島を隔離した状態に保って近年に至った。
ニアス族はプロト・マレー人(→565)で石の文化、成人式の走り高跳び、船型家屋など固有の
個性ある文化で知られている。インド文化やイスラム文化を受ける前のインドネシアの原文化 がニアス島で純粋培養されている。言語学的にはオーストロネシア語群(→563)であるが、スマ トラ島の民族の言葉との関連は少なく、むしろスラウェシ島の民族との言語、ポリネシアの言葉 との関連も指摘されている。⇒ニアス島の伝統集落
島の文化は北部、中部、南部で異なっており、また、村々が固有の文化を保持しており、相
互に首狩りを行う敵対関係であり、島全体の統一政権はなかった。
ニアス族の社会構造は貴族と平民からなる身分社会であり、最下層に奴隷がいた。厳しい
身分社会であり、奴隷は人の扱いを受けない、村の中にさえ住めないという差別である。ニア ス島の支配者にとって奴隷は家畜並みの意識しかなく外国の商人に島の住民である奴隷を平 気で売り飛した。ヨーロッパ人がニアス島に近づくようになったのは奴隷入手のためである。
英国のスマトラ島の拠点であるブンクル在任中にラッフルズ(→338)は奴隷貿易を止めさせる
ためニアス島へ調査団を派遣したが、首狩り族への学問的好奇心もあったであろう。ラッフル ズは『スマトラ誌』を著述したが、出版のためブンクルで船積みされた原稿は船火事で消失す る不運にあった。もし焼けなかったならば『ジャワ誌(→969)』に匹敵する『スマトラ誌』にニアス 島のどのような記述があったであろうか。
当初は奴隷貿易で続いてキリスト教宣教師の布教活動によって外部文明と接触するようにな
り、ニアスの伝統文化は急速に失われた。ニアス文化の活力がなくなったのは、キリスト教の 布教と外来統治権力の法令で儀式に必要な人の頭の採取が禁止されたからである。
"石の文化"といわれる石造の構築物も新たに作られることもない。屋根のみならず居住部
分を含めての船型の高床式住宅も少なくなった。今のニアス島は観光客に伝統文化の残骸を 見せ物にするのが生業となっている。⇒伝統文化ショー
民族文化面で非常に興味のある島であるが、ニアス島を訪れる観光客はサーファーが多
い。インド洋から押し寄せる波は島の近くで大陸棚のためにうねりが高くなり、6mの高さの波 が押し寄せる。世界有数のサーフィンの適地であるとのことである。
2004年12月のスマトラ島沖地震(→028ex)に続き、ニアス島で2005年3月にM8.7の大地震が
あり、「ニアス島地震」と名づけられた。スマトラ沖地震と同じプレートの接点に起因の大地震で ある。⇒地震被害
現在の位置
スマトラ島中央のインド洋側にある西スマトラ州の本拠はダラット(Darat)といわれるバリサン
山中にある。パダン高原ともいわれるダラットにはマラピ(Marapi 2891m)山、シンガラン (Singgalang 2897m)山の煙たなびく活火山がある。マニンジャウ湖とシンカラック湖のカルデラ 湖の澄んだ水を渡る風は赤道直下でも爽やかである。風光明媚な景色にミナンカバウ風の個 性ある伝統建築を配すれば素人でも素晴らしい写真がとれる。 ⇒パダン高原の耕地
ダラットは火山性の豊かな土壌に恵まれた農業や金の産出地であったことから経済活動が
盛んであり、進取的な住民の気質を涵養してきた。アガム盆地、タナダタル(Tanahdatar)盆 地、リマプルコタ(Limapuluhkota)盆地にはミナンカバウ人が居住しており、ミナンカバウ文化 を育んできた。
ミナンカバウ人は母系社会(→610)という世界でも特異な社会形態で知られている。かつまた
ミナンカバウ人は熱心なイスラム教徒である。母系社会と父権性の強いイスラム教の併存は 奇妙な現象であるが、アダット (→588)が優先することでなんとか折り合いをつけている。
オランダの植民地支配に対する民族抵抗戦争であるパドゥリ戦争(→278)においてミナンカバ
ウ人はオランダを苦しめたが、時は下ってインドネシア独立の民族主義運動においても主導的 役割を果たした。⇒ミナン高原
ミナンカバウ人の進出先は政治、経済、文化などあらゆる方面の知識階級の人材も輩出し
ており、特に文学、ジャーナリストの分野では突出している。
「パダン(Padang)市」はスマトラ島のインド洋側の最大の港である。パダンの語義は「平地」
の意味であるが、町の後ろはバリサン山脈が迫っている。植民地時代に鉄道と道路が建設さ れてからスマトラ島の豊かな産物を積み出すために急速に発展した。現在のパダンはスマトラ 島第三の人口を有する商工都市であり、西スマトラ州の州都である。
インドネシアの都市中央の商店街に櫛比(しっぴ)する華人の店はパダンにも存在するが、ミ
ナンカバウ人の前では影が薄いようで喫茶店が目立つ程度である。
パダンには西スマトラ州博物館があり海のリゾート地もあるが、ミナンカバウ人の故郷である
ダラットへの入口に位置する。沿岸から道路でも鉄道(注)でもパダン高原にいたる90kmの行 程は海岸から高地へのつづら折りの道であるが、海、山、川が織り成す景色はすばらしい。
現在の位置
ダラットのアガム(Agam)盆地はミナンカバウ人(→609)の故郷である。このアガム盆地にあ
る美しい町が「ブキティンギ(Bukittinggi)」である。町を見下ろす小高いブンド・カンドゥン公園 (注)の時計台は全インドネシア人によって共有されている心象風景である。人口8万人の小さ な町であるにもかかわらずインドネシア人の心に刻まれた町である。⇒シンボルの時計台
ブキティンギはアガム高地の中央部にある小さな町だ。マラピ山とシンガラン山の麓の突端
にある町で、北側を取り囲んでいるブキット・バリサン山脈の支脈が見える。ここからかなり離 れているが、東の方角にサゴ山が見える。霞がない時には金の出る山として伝説で有名なパ サマン山がはるか遠く北西に遠望できる。渓谷と山脈、周囲に見えるブキット・バリサン山脈は ブキティンギの町の景色をとても美しいものにしている。ここの気候は涼しく夜は寒いほどだ。 色々な草花があちこちに咲き乱れている。海岸地帯から観光に来る人たちはよくここを"バラ 園の町"と呼んでいた。
ブキティンギはインドネシア共和国臨時政府の仮首都であったことがある。独立戦争当時の
1948年12月19日、オランダはインドネシア共和国の首都のジョグジャカルタを飛行機でもって 急襲し、スカルノ大統領とハッタ副大統領を拉致(→327)した。談判を一挙にけりをつけようとい うオランダ側のあせりである。
しかしスカルノとハッタは捕えられる前にブキティンギにいるシャフルディン・プラウィラヌガラ
(→378)に臨時政府を樹立して中央政府を引き継ぐように電報で指示していた。従ってオランダ が捕えたスカルノとハッタは正副大統領の権限は委譲しており、インドネシアの統治権の権限 がないと主張しオランダとの交渉を拒否した。
オランダはブキティンギの非常時内閣との交渉の手掛かりもなかった。オランダの採った強
引な手段は国際的な非難を受け、結局スカルノとハッタを釈放せざるをえなかった。半年余り でインドネシアの主権はブキティンギからジョグジャカルタに返還された。
ブキティンギ郊外のセマンガ地溝(→028)の断層の崖に日本が占領時に築いた防空壕の跡
がある。ここでロームシャ(→305) 3000人が虐殺された、というレリーフがあった。西欧人観光 客目当ての名所作りのつもりだったらしいが、事実無根であるという日本側の抗議で撤去され た。⇒断層による断崖
コタガダン(Kota Gadang)は小さな村であるが、ミナン人の秀才を輩出したことで名高い。現
在も人は住んでいるが、近辺からの留守番だそうである。
現在の位置
スマトラ西岸の「ブンクル(Bengkulu)州」の人口は120万人、面積は21千ku、山地が多く貧し
い州である。州都のブンクルもこれという特徴のない普通の町である。ブンクル州はルジャン (Rejang)族が多いが、ブンクル市はマレー人が多い。
ブンクルの特記されるのは歴史である。英国はオランダとの香料交易支配をめぐる戦争で敗
れてアンボン港、バンテン港、バタビア港から追い出(→273)された。代わりにスマトラ島の西 岸に1695年に設けた交易拠点がブンクルである。
1824年の英蘭協定でマラッカと交換されるまでブンクルだけが英国のインドネシア地域にお
ける唯一の拠点であった。ブンクルにおけるラッフルズ副総督の活躍は別項(→338)に記して いる。ちなみにラッフルズはブンクルで三人の子供を全て病気で亡くしている。健康に良い土 地とは思われない。
ブンクルの英国時代をしのばせる建造物に1719年に建設されたマルボロ(Marlborough)要
塞がある。港を見下ろす要塞は最近までインドネシア軍に使用されていた。
ブンクルの歴史上のもう一つのエピソードは初代大統領のスカルノ(→439)である。オランダ
からの解放を求める民族主義運動のため、捕らえられて流刑中のスカルノは1938年ブンクル に移された。スカルノがフロレス島のエンデ(→218)でマラリアに罹患(りかん)したために、憂慮 する民族主義者を宥めるためである。
数少ないブンクルの観光スポットとして当時のスカルノの住居が公開されている。後に述べる
女生徒をストーカーしていた自転車もある。軟禁であるから市内を歩き回る自由はあり、流刑 中のスカルノはモスクの設計を行なった。市内のジャミック(Djamik)モスクがその作品である。 スカルノの本職はITB(→108)出身の建築技師である。
時間つぶしに教師もしており、生徒の中の目立つ女生徒がファトマワティ(→442)である。彼
女は30台後半の既婚の教師に迫られて結婚した。独立宣言、独立戦争当時の大統領夫人で 「イブ・ヌガラ Ibu negara(国母)」といわれ、後のメガワティ大統領(→456)の母である。バンドゥ ンから苦楽をともにしてきた糟糠(そうこう)の妻(→442)は身を引いた。⇒ファトマワティ
独立運動の闘士スカルノは逮捕、釈放を繰り返し通年10年に達した。そしてその最後の流刑
地がブンクルであった。太平洋戦争の勃発で1942年に日本が攻めてきた時、オランダはスカ ルノを連れてオーストラリアへ逃げるため陸路パダンに向かった。しかし混乱の中でスカルノは どさくさに紛れて脱走し、やがて日本軍に迎えられてジャカルタへ行き、3年後に独立を達成し た。⇒タマンミニのブングル館
オランダはスカルノを釈放したのではない、スカルノにかまう余裕もなく遁走(とんそう)した。
そのスカルノを迎えにきたのは日本である。歴史において“もし”の空想であるが、もしオランダ がスカルノを連れてブンクルからの逃走に成功したならばインドネシアはどのような独立の歴 史を歩んだであろうか。
現在の位置
「バタン・ハリ(Batang Hari)河」は全長800kmあり、スマトラ島最長の河である。ジャンビ
(Jambi)州の州都ジャンビ(Jambi)はバタン・ハリ河が丘陵地から低地に流れる丘陵の東端に ある。河口からは遡った所になるが、外洋船が着岸できる河港である。
上流のプルパット地域はかつて産金地帯であった。ジャンビ近辺から中国の陶磁器の遺物
が発見されており、東西貿易の拠点であったことがわかる。ジャンビは昔から地域の中心地で ある。付近にムラユ(Melayu)王国(→258)があったが、7世紀後半にスリウィジャヤ王国(→ 255)に破れ属国になったらしい。
ジャンビから20kmのバタン・ハリ河に沿いにある「ムアラ・ジャンビ(Muara Jambi)」はスマトラ
島最大の仏教遺跡である。湿地の中の煉瓦遺跡は12〜13世紀に栄えた三仏斉王都の跡と されている。チャンディの一群が発掘調査中であるが、チャンディ・ティンギは150m四方の寺苑 の中央に三段の壇があり、頂点にストーパーがあったと推定されている。さらに上流のスンガ イ・ランサットからは仏像が出土した。シンガサリ王国のクルタナガラ王(→246)がムラユ王国 に送ったものらしい。⇒ムアラ・ジャンビ遺跡
仏教を奉じるムラユ王国は姿を消すが、伝説によればテラナイ(Telanai)王子は生まれてくる
息子は国に災いをもたらすとの予言に怯え生まれたばかりの息子を海に流す。流れ着いたシ ャムで成人になった王子はジャンビを攻めて父を殺し、町を破壊して王国は滅亡した。
16世紀になってジャンビにマレー人のイスラム王国が復活し胡椒の集散地として栄え、VOC
(→272)の商館も置かれた。しかしジョホール王国やパレンバン王国との勢力争いで疲弊し、 1833年にオランダの軍事力介入に宗主権を認め、1906年に王国は完全に滅びた。今日の州 都は旧ジャンビ市街地の西側に建設された。⇒ジャンビ市郊外
河口に広がるスワンプと泥炭からなる低湿地はマレー人(→605)の居住するムラユ世界であ
った。ジャンビ州にはバンジャル人(→192)、ブギス人(→617)が移住している。ジャワ人の組織 的移住もあり、インドネシアの色々な民族の坩堝(るつぼ)である。
パダン・ハリ河の源流地のクリンチ(Kerinci)地方はバリサン山中の盆地は肥沃で人口密度
も高い。スンガイプヌ(Sungaipenuh)が中心都市である。クリンチ族が水田稲作を営む。行政 面からはジャンビ州に属するが、距離的関係から経済的にも文化的にも隣接する西スマトラの ミナンカバウ人(→609)との繋がりが深い。ミナン人と同じ母系社会(→610)とイスラム教で知ら れる。
スマトラ島最高峰のクリンチ山(3805m)は活火山であり、時々爆発するが水蒸気爆発程度で
収まっている。山頂の火口には黄緑の水が溜まっている。一帯は国立公園に指定されており、 野生動物の保護も行われている。気候は乾燥し、さわやかで風光明媚である。カルデラ湖や 温泉があり、バリサン山中のリゾート地になる条件を備えている。
現在の位置
スマトラ島の西側に脊梁山脈であるバリサン山脈が通っているため、主要河川は山脈から東
に流れる。スマトラ南部の島の膨らみが最大の所に「ムシ(Musi)河」がある。長さ520kmあり南 スマトラ州を横断して東流する。
水源地のデンポ山(Dempo 3159m)はセマンカ地溝帯(→028)の中央に噴出した規模の大き
い火山である。秀麗な形から日本人は「スマトラ富士」とよんでいる。マレー人(→605)の皇祖が 降臨したとの伝説のある聖なる山(→025)である。
デンポ山麓に広がる海抜約千メートルのパスマ(Pasemah)高原は地味豊かな地である。ラッ
フルズ(→338)がブンクルにいた頃、パスマ高原を訪れて“桃源郷”に来たようだと感激した。高 原には先史時代の古い石造物の遺跡(→700)が散在しており、早くから文化が栄えたことをし のばせる。墳墓とおもわれる石造物の内部は絵画が施されている。⇒パスマ高原
パスマ高原にある標高710mのパガララム(Pagaralam)は植民地時代にパレンバンの石油工
場の白人従業員のために拓かれた避暑地であり、果物、野菜が豊富である。現在ではインド ネシア有数の紅茶とコーヒーの産地である。農園の従業員はジャワ島からの移住民が多い。
ラナウ(Ranau)湖はラナウ火山のカルデラ湖である。外輪山スミヌング(Seminung 1891m)山
が高い。パスマ高原の支流と、南からからのスミヌング山の支流を集めてムシ河になり、東に 下りジャワ海にいたる。
かつて7世紀頃に栄えたスリウィジャヤ王国は「ナガ(→953)のパトロンとして7つの頭の蛇を
司どった」とある。7つの頭とはムシ河の支流の数とされている。ムシ河口の王国は8世紀頃ま で南海貿易の中心地として王国は全盛を誇った。交易国家としてスリウィジャヤの名は中国、 インドの歴史に残されている。
唐代に義浄という僧がインドへの往復の途中スリウィジャヤ王国の地に数年間滞在してい
る。その記録によれば王国では大乗仏教が信仰され、1千人の僧がいるという繁栄ぶりであっ た。また歴史書にはジャワ島のサイレンドラ王国(→243)の王子がスリウィジャヤ王国を受け継 ぐようなことが記されている。同じ仏教を信仰するサイレンドラ王国とスリウィジャヤ王国は同 族の関係であったらしい。
スリウィジャヤ王国の所在地は現在のパレンバン市街地の少し上流の湾曲部と見られてい
る。標高25mのブキ・シグンタン(Bukit Siguntang)(注)という小高い丘が王国の先祖が降臨し た聖地と推測されている。大帝国の所在地にしては意外に貧弱な感は否めない。ちなみにデ ンポ山もブキ・シグンタンといわれる。⇒パレンバンのムシ河
パレンバンのあるムシ河はマラッカ海峡とスンダ海峡の中間になり、両方をにらむ要衝の地
である。昔からムシ河上流で砂金が採取された。今日も流域の富が河口のパレンバンに集積 される豊穣の河である。
現在の位置
「パレンバン(Palembang)市」はムシ河の河口にある人口百万人を越える大都市である。ス
マトラ島ではメダン市に続く2番目の、全インドネシアでも6番目の大都会であり、南スマトラ州 の州都である。
今でこそムシ河を50km遡ったところにあるが、海抜は2mにすぎない。長年の土砂の堆積に
よるもので昔はもっと海に近かったものであろう。ムシ川はパレンバン市内でも河幅700b、水 深19bもあり外航船も航行できる。
町で最も目立つ建造物は河を横断する橋である。アムペラ(Ampera)橋(注)は日本の戦時
賠償(→362)で1964年に完成した。大型船舶の通行の際は橋の中央が開く。河の北岸の橋の 下では「パサール16」という水上市場が午前中は賑わう。⇒アムペラ橋
パレンバンは南スマトラの政治、経済、文化の中心地として流域の広いムシ河の河口にあ
り、流域を支配する商業都市である。特に石炭、プランテーション農産物の集散地であり、石 油精製、肥料工場などの産業で活気がある。
産業のうち特筆されるのは石油(→547)である。今世紀初頭より南スマトラで石油が発見さ
れ、パレンバンはその拠点であった。石油を渇望する日本(→298)は太平洋戦争に突入し、そ の狙いはパレンバンの占領であった。
当時、パレンバンにはムシ河沿いにNKPM(米国のスタンダード系)とBPM(英蘭のシェル系)
の8万B/Dの石油精製工場があった。今日の石油精製工場の規模と比べると小規模である が、当時の日本の石油精製工場の合計は9万B/Dにすぎなかったことからも日本にとっては 垂涎(すいぜん)の要衝であった。
米系のNKPMは予め用意されていたマニュアルどおり製油所を破壊して従業員は逃亡した。
BPMも日本の攻撃を予想して爆破の手順は定めてあった。しかし本国はナチ占領下にあり逃 げて帰る所のないオランダ人には製油所の破壊にはためらいがあったのだろうか、その躊躇 (ちゅうちょ)に現地従業員の不服従のサボタージュがあり、破壊工作は失敗した。
この結果、日本はほとんど無傷でBPMの製油所を手に入れた。しかし皮肉なことには数日後
の数機の飛行機による爆撃に対して防御体制ができていなかったのでせっかくの無傷の製油 所は無に帰した。
当時はリマウ油田、アバブ油田、ダワス油田、ジャンビ油田から採掘された原油がパイプで
パレンバンまで運ばれたが、近年の南スマトラ各油田は枯渇してきた。しかしムシ河の交通の 便を活かした製油所は増強されており、依然としてパレンバンは石油の町である。ちょうどパレ ンバンの上を通る[ジャカルタ⇔シンガポール]間の飛行機の窓から製油所が河岸に光って見 える。製油部門は国有化(→475)されているのでプルタミナの設備である。
現在の位置
スマトラ島の最南端に位置する「ランプン(Lampung)州」はジャワ島に対する玄関になる。ジャ
ワ島のメラク(Merak)港からのフェリーは2時間弱で突端のバカウヘニ(Bakauheni)港に着く。 フェリーは数十分間隔で24時間就航している。湾奥のバンダル・ランプン(Bandar Lampung) が州都であり、ここからスマトラ島各方面へのバスが発着する交通の要所である。
ランプン州の名はランプン族(アブン族などマレー系種族の総称)というスマトラ系の民族の
名にちなむ。しかし今日のランプンはすっかり様相を異にしている。ジャカルタから車で10時 間程度の距離であるためジャワの影響をもろに受け、ジャワ化したスマトラ島である。人口が 20年間に2.5百万人から6百万人と2倍以上に増えたのは移住民の存在である。ジャワ島に近 いためオランダ植民地時代からジャワ人が移住していたが、インドネシアになってからはジャ ワ農民の移住が国の政策として組織的に行われるようになった。
政府の移住政策(→724)ではジャワの農民は移住先で2fの農地を得ることができる。飛行
機からジャングルが開拓されて広がる移住先が見える。切り開かれた平地を貫く道があってそ の道を両側に同区画の仕切が整然と並んでおり、一角には住居らしい点がある。
2fの農地は魅力的に見えるが土地の肥沃度や潅漑の不便などからジャワ島のような生産
性はあがらないため移住民の生活がそれほど上がるわけではない。日本商社による機械化 による農園開発プロジェクト(→543)も試みられたが、結局は撤退した。
政策による移住以外に自発意志による移住もあり、これらが累積された結果、ジャワ人は原
住民のランプン人を凌駕(りょうが)し、ランプン州の90%は移住民といわれる。近年ではジャワ 島からランプン州への移住は禁止されている。
この結果、ランプン州ではジャワ島の風景の延長である。その代表は稲作である。ジャワ人
は稲作に固執し万難を排して米作りを行う。ガムラン(→910)やワヤン(→904)というジャワ文化 をそっくり持ち込んでいることはいうまでもない。
ランプン州には野生象(→068)が生息しており、ウァイ・カムバス(Way Kambas)に保護区が
設けられている。インドネシアでは象を家畜にするノーハウがなかったのでタイから調教師を招 きカンダンサリ(Kandangsari)村の象の教育センターでは特訓を行っている。ついでに象にサッ カーなどの芸を仕込み観光客が来ることを期待している。 ⇒象のショー
飼いならされた象を連れてきても象にも伝統文化による気質の差があるらしい。教育をする
のは3〜5歳の若い象が対象で期間も10年近くかかる。象も年老いてからの教育は効果がな いらしい。
スハルト政権当時の1980年代にイスラム教過激派住民が虐殺されたというランプン事件
(注)があったが、詳細は明らかになっていない。
現在の位置
「バンカ(Bangka)諸島」はバンカ海峡を隔てたムシ河口にある。最大のバンカ島は面積 1
万 1340 ku,人口約 45 万。中心都市は東岸のパンカルピナン(Pangkalpinang)である。全体 に丘陵性で最高点は標高 692m、気候は高温多湿である。
1710年にバンカ島で錫 (→550)が発見された。以来、バンカ島を中心にブリトゥン島,シンケ
プ島を含むバンカ諸島はインドネシアの「錫群島」といわれ,錫年産約2 万 9000t,世界の産 額の10 %を占める。
錫鉱はすべて露天掘りのため島の形が変形するほどであった。散在する湖が錫の採掘跡で
ある。現在は国営のタンバン・チマー(Tambang Timah)社が直営または委託により操業を行っ ている。高品位の地点は掘り尽くし近年は低品位の砂錫の利用も開発されているが、長年の 錫の不況のため活気は失せている。 ⇒錫採掘跡
もともとは半農半漁のマレー人の居住する島であったが、豊富な錫鉱が発見されて以来、華
僑が鉱山労働のクーリー (→669)として連れて来られた。最盛期には中国系の人口比率が過 半を占めた。今日も1/4は中国系であり、客家系(→672)が多い。
行政的にはバンカ諸島は南スマトラ州に属していたが、2000年、バンカ県とブリトゥン県は南
スマトラ州から分離独立し、新たにバンカ・ブリトゥン州となった。スマトラ本島の南スマトラ州と 異なる住民構成が背景にあろう。
バンカ島はジャワ島とスマトラ島の間に位置することから歴史が行き交う中継点であった。
バンカ島のコタ・カプール(Kota Kapur)で発見された碑文にスリウィジャヤ王国(→255)に従わ ない者に対する恫喝(どうかつ)を宣言し、ジャワ島に遠征することが記載されている。スリウィ ジャヤ王国の海外侵攻はバンカ島が拠点であったらしい。
19世紀始めにジャワ島を立ち去った英国のラッフルズ(→338)は捲土重来(けんどちょうら
い)を期してブンクルに戻り、オランダに対抗する拠点の候補地を物色した。その有力候補地 がバンカ島とブリトゥン島であった。ラッフルズを警戒しオランダも島の防衛を強化した。
最終的なラッフルズの選択はシンガポールの地になったが、もし、その際にラッフルズがバン
カ島かブリトゥン島に英国の拠点を設けていたならば、その後の東南アジアの歴史はどのよう に変化したであろうか。
1948年12月19日、独立戦争の最中にスカルノ大統領とハッタ副大統領はオランダの急襲に
よってジョグジャから拉致(→327)され、トバ湖畔のプラパットを経てバンカ島の鉱山会社の施 設に収容された。独立戦争中も錫鉱山はオランダが完全支配していたからであろう。
有刺鉄線で囲まれたゲストハウスへ国連の使者と世界からジャーナリストが訪れたことによ
って独立戦争は終結に向った。
現在の位置
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