インドネシアの島の中である意味で最も有名なバリ島はジャワ島の東に連なっている。その
面積は5561kuと四国の1/3くらいの大きさであるため、17,508あるというインドネシアの島々の 中で注意して地図を探さないと分らないような小さな島である。
バリ島の特徴は中央部にそびえる火山である。伝説によるとバリ島の始めは平であった。そ
れでは神が鎮座する場所がないということで山地が付け加えられた。こうして生まれた島の大 きさに不つり合いの大きな火山は島の恵となっている。火山は水源地であり、火山は肥沃な土 壌をもたらす。水田耕作の最適の条件は豊かな農業に支えた。
火山の連なりは中央より北寄りにある。このためジャワ海(北側)からバリ島を見ると高い山
が海岸までせまっており、急斜面で平地は少ない。これに対して山の裏になる南側は勾配が 緩やかに開けた地勢となっている。バリ島の地政からはインド洋が前面でジャワ海が裏面にな る。イスラム教を崇めるマレー世界の表海道のジャワ海に対して背を向けている姿勢はバリ文 化の“隠れ里”化を招いた。 ⇒バリ人の信仰
バリ島が小スンダ列島の一島であるにもかかわらず文化的には他の島から隔離されてかく
も固有の文化を維持しえたのは、@バリ海峡の潮流と、A島を取り囲む珊瑚礁とあいまって、 Bジャワ海に閉ざしたバリ島の地政であろう。
インドネシアの約30の州の中ではジャカルタ州、ジョグジャカルタ州に次いで小さいが、人口
は3百万人弱であり、人口密度は約500人/kuであり、山の多い島の面積の割には過密であ る。
バリ島の産業は観光とおもわれがちであるが、観光は一部にすぎず、バリ人の大多数は昔
も今もやはり農業で生活している。大地の豊穰な生産力がかれらの宗教、芸術、文化に花を 開かせた。
バリ(Bali)の語源はサンスクリット語のワリ(Wali)といわれる。ワリとは「捧げる」の意味であ
る。イスラム以前の東南アジア海域を席捲したヒンドゥー教(→719)はこの小さい島に逃れてバ リ独特の文化を醸(かも)し出した。バリ人の生活は宗教と不可分である。
1930年代にヨーロッパから芸術家がやってきた。バリ島が世界に紹介されるに従いバリ島は
ユートピアとして知られるようになった。そして今日も観光の島として全世界からバリ島に何か を求めてやってくる。⇒村の祭り
そしてバリ島へきた人はある限りの形容句でもってバリ島を表現してきた。いわく「地上最後
の楽園」「活きた博物館」「神々の島」「天にもっとも近い島」「不思議の王国」「神と華の島」「妖 精の島」「祈りの島」「恍惚の島」「神と芸術の島」「地球の臍(へそ)」「祭りと芸能の島」「陶酔の 島」「悪魔の島」「癒しの島」……と限りなく続く。
現在の位置
現在のバリ州8県の行政区画は王国時代(→265)の領域を引き継いでいる。豊穰な南部に
小王国が割拠しており、その一つであるバドゥン王国を引き継ぐバドゥン(Badung)県は東西10 qに対して南北80qと細長い。
そもそもバリ島の道路は棚田に沿って南北に延長している。渓谷を流れる川は自然境界を
なしている。現在でも東西を結ぶ道路の発展は遅れている。かつて王国時代に隣の国を訪問 するには一度海に出て船で移動して川筋を遡るという方法であった。
バリ島は高山の存在にもかかわらず島全体の土地利用率は70%と驚くほど高い。この中でも
南部は最も生産力の高い水田耕作の地域である。バリ島の人口もここに集中しており、政治、 経済のみならず文化の中心となっている。⇒デンパサール市
「デンパサール(Denpasar)」はバリ州の州都であるが、人口は高々10万人であろう。インドネ
シアの都市を人口の順番に並べるならば三十数位というところである。しかしその名前はイン ドネシアのみならず世界中で知られている。それはバリ島の国際空港のある地名としてであ る。日本の若い女性には首都ジャカルタの名前よりデンパサールの名前の方がよく知られて いる。
バリ島は豊かな南を下にして北に拡がる扇型に見える。デンパサールはその扇の要の位置
にあり、バリ島の中心として急速に拡大したのは地図からも明らかな地の利である。
インドネシア独立後、デンパサールがバリ州の州都となった際にバドゥンという王都の名は改
名(バドゥンは県名として残っている)された。デンパサールの語源は「北市場」という安っぽい 名前である。従って地元民にはデンパサールより由緒あるバドゥンの名前の方が依然として親 しみがあるようだ。
何れにせよ昨今のデンパサールの街自体は車やバイクの喧騒が溢れており、ジャカルタと
変わるところはない。メイン・ストリートの名もガジャ・マダ通とかディポヌゴロ通とかジャカルタと 同じ名である。⇒チャトゥールムカの彫像
デンパサールは活気は溢れているが最もバリ島らしくない所である。バリ島を訪れる観光客
もデンパサールではバリ博物館、アート・センターを訪れる程度である。
植民地時代に蘭印政庁はバリ島行政の統括出先機関を主要航路のジャワ海に面した北海
岸のブレレン(→183)に設けた。しかし当時からデンパサールはバリ島全体の経済の中心とし て重きをなしており、インドネシア独立後にバリ州都となるやバリ島のみならずインドネシア全 土から人々が集リバリ島の政治・経済の中心になった。
現在の位置
デンパサールの都心の官庁街に「ププタン(Puputan)広場」と呼ばれる一角がある。チャトル・
ムカ(Catur Muka)という四面の顔のある守護神の像が目立つ。かなり広い芝生の広場には 子供が遊び、祝日には屋台が並ぶ普通の広場に見える。
しかしこの広場はかつて存在したバドゥン(Badung)王国の王宮前の広場である。1906年9月
20日、この広場は王国がププタンによって果てた所であることが広場の名前の由縁である。
オランダがバリ島侵略(→280)に乗り出した頃、バリ島内では小王国(→265)が乱立してい
た。その一つであるバドゥン王国はオランダに逆らったが、味方するはずの王国には裏切られ 援軍の当てもなくなった。蘭印軍に包囲されてもはやこれまでと覚悟した時、王宮はにわかに 静まりププタンの準備が始まった。⇒ププタン記念碑
金銀刺繍(ししゅう)の華美な衣装を身につける。宝石をちりばめた先祖由来のクリス(→935)
を取り出す。やがて金の傘(→788)をさしかけた王を先頭に王族、貴族が女性、子供も従えて ガムラン(→910)の演奏とともに蘭印軍に向かってくる。異様な形相の集団である。
銃をかまえる軍の指揮官は停止を命じるが、もとより制止を無視して行進を向かってくる。恐
怖にかられた兵士は発砲し、先頭の一団は倒れる。しかし倒しても倒しても屍(しかばね)を踏 み越えて新手が現われる。男の後ろからは恍惚(こうこつ)になった女の一団が来る。クリスと 槍を手にした子供も向かってくる。
ラジャ(王)の遺体の上に王族の遺体が覆いかぶさる。また新たな一団が現われて同じこと
が繰り返される。傷ついた者を殺す役目の王宮側の僧を殺せば誰かがその代りを勤める。
これは戦闘ではない、集団自殺である。殺戮(さつりく)が終わった時、宝石と金銀が散らかる
中で華麗な衣装をまとった死骸が累々と横たわる。王弟のいた別の王宮と合わせてその日の 犠牲者は4千人といわれる。⇒ププタンの跡
ププタンでもってバドゥン王国は滅び(注1)バリ王族の名誉は保たれた。ププタンは王族の
威厳ある死に方である。国の滅びの荘厳な儀式であり、バリの美意識の最たるものである。
バリの小王国には篭絡(ろうらく)されたもの、内紛で自滅したものがあり、すべてがププタンで
もって絶えたわけではない。最終的に1908年にクルンクン王国の抵抗もププタンでもって終わ った。そしてバリ島にオランダの植民地支配が確立した。
ププタンの戦闘に参加したオランダ兵の驚愕はいかばかりであったか。またヨーロッパにププ
タンの惨劇(注2)が伝えられるやオランダは轟々たる非難をあびた。
その後のオランダのバリ島支配は旧体制をそのまま復活して温存することであった。植民地
行政がジャワ島と比べるとマイルドであり、腫物(はれもの)に触るようにバリ文化を尊重した。こ れもププタン恐怖の後遺症であろう。
現在の位置
バリ島の東南端はくびれて先は「ブキット・バドゥン(Bukit Badung)半島」になっている。くびれ
た所が観光客の蝟集(いしゅう)するクタ(Kuta)海岸であり、空港もここにある。
ガジャ・マダ(→335)が上陸したという伝説を持つクタは元は小さな漁村であった。西が海に開
けているため夕日が美しい。浜辺には外国人観光客がだらしなく寝転がっており、観光客を上 回るマッサージ屋やビーチ・ボーイ(→879)が客に群がっている。
狭い海岸通にはホテルやロスメン、レストラン、土産物屋、ブティックがひしめいており、北隣
のレギャン(Legian)、スミニャック(Seminyak)、ジンバラン(注)にまでつながってしまった。車、 バイク、歩行者で通は雑踏を極めている。 世界中から観光客が集まり、インドネシア中から出 稼ぎ者が集まる。金のため人々の目はギラギラしている。ヒッピーが集まった頃ののどかな雰 囲気は消えた。⇒クタビーチの夕日
スハルト時代の開発政策に従いブキット・バドゥン半島の一画のヌサ・ドゥア(Nusa Dua)地域
に外国資本によるリゾート型ホテルが誘致された。世界に名の知られた星印が一杯のホテル を国賓などが利用する。
広い敷地には花壇の花がヨーロッパの公園のごとく咲き乱れる別天地である、地元の住民
から検問所で隔離された“租界”のような場所でバリの喧騒から静穏を保っている。とってつけ たようなバリ風の建築様式であり、門や彫像の装飾品が配置してはあるものの奇麗すぎて場 違いの感が強い。バリ島にありながらグアム島やサイパン島と変わる所がない。本当のバリが 好きな人はこのようなホテルを避けるであろう。
高級ホテルは地元バリ人の雇用の増加が期待されていたが、実際の従業員はジャワ人が
進出している。ジャワ人の方が外国語が得意という言葉の問題もあるが、バリ人従業員はオ ダラン(→645)休暇が多すぎて労務管理上困るからである。
高級ホテルもこの数年に一挙に増え過ぎた、その上に加えてテロ爆破事件の後遺症のあお
りを受け、客足は遠のいている。
バリ島の南端のブキット・バドゥン半島の最先端に「ウルワトゥ(Ulu Watu)寺院」がインド洋か
らの荒波の打ち寄せる70bの石灰岩からなる断崖絶壁の上にある。真っ青のインド洋に転げ 落ちんばかりで息をのむばかりの荘厳な風景である。夕日が美しい。⇒ウルワトゥの断崖
ウルワトゥ寺院はバリの寺院の中の格式高い6大寺院の一つである。ブサキ寺院が《山の寺
院》であるならばウルワトゥ寺院は《海の寺院》である。悪さのすぎる猿が難点である。
海まで崖を下る細い道があったが、エレベーターがついたそうである。下には派手な格好の
若者が集まるサーフィン愛好者のメッカである。インド洋からサーフィンに適した5~6mの大波 が押し寄せる所である。
現在の位置
観光客にとってバリ島の魅力の一つは海辺のリゾート・ホテルである。「サヌール(Sanur)」、ク
タ、ヌサ・ドゥアがリゾート地として選ばれたのは砂浜が美しいことである。マングローブの茂る 熱帯の海岸には砂浜は意外に少ない。⇒サヌール・ビーチ
一部の漁民を除くとバリ人は海岸には住まなかった。リゾート地に適した海浜はバリ人にして
みれば方角として不浄の地(→643)である、現実問題としてはマラリア蚊が多く居住地域になり にくかった。このことがリゾート地をバリ社会から隔離された場所とした。
インドネシア独立後サヌール海岸に本格的リゾート・ホテルが建設され、引き続いて大ホテル
が進出した。クタの乱開発の反省から土地の使用が制限されているため、クタのような喧騒は ない。従って陸の孤島ともいうべき所でホテルのゴージャスな雰囲気にひたることができる。そ のかわり値段は高い。
ホテルによっては熱帯植物が息苦しいまでに咲き乱れる構内にバンガロー風のコッテージが
配置されている。コッテージと言っても冷房はついている。
サヌールの本格的ホテルは日本の戦時賠償(→362)によって建てられたバリ・ビーチ・ホテル
を嚆矢(こうし)とする。バリ人は異教徒が建てた10階建ての高層ホテルに浜辺に乗り上げた戦 艦を見るような不愉快な気分になった。何故ならバリ人にとって高い場所とはアグン山のように 神が鎮座(ちんざ)する所である。アグン山の爆発のためホテルの建設工事が中断されたのは アグン山が怒ったからである。
不評のバリ・ビーチ・ホテル以来、バリでは椰子の木の高さ以上の建物は禁止された。景観
の確保といわれているが、高所を聖所とするバリ人の心の深層の問題であろう。
1993年1月20日、バリ・ビーチ・ホテルは火災によって焼けた。この火事にまつわる不思議な
話を紹介したい。火事前に女神ロロ・キドゥル (→949)の代理人というマンクゥ師からホテル側 に女神専用の部屋を常時キープするようにとの申し出があった。神秘的交信で彼女の指示を 受けたということで委任状などがあるわけではないのでホテル側は無視した。女神側は再度、 猶予の期限を申し出るも無視された。その結果、起きたのが火災である。ハシゴ車がないので 高層建物も丸焼けになったが、死者は出なかった。それ以上不思議なことは彼女の指定した 部屋だけが焼けなかった。⇒女神専用2401号室
ホテル側はホテルの名前をグランド・バリ・ホテルに変えると同時に経営者は心を入れ替え
て、代理人をホテルの専従にし、ロロ・キドゥル女神に尽くすことにした。申し出どおり327号室 を従者用に、コッテージ2401号室を女神の専用とした。
女神専用の部屋は見学が可能である。見てきた人の話によると部屋には香がたかれてお
り、調度品は彼女の好みの緑色一色である。毎日の食事がルーム・サービスで運ばれ、緑色 の着替えの衣服も用意してある。怒りっぽい女神の部屋であるから物見高い野次馬気分の見 学は後難の恐れがあるので止めた方が無難である。
現在の位置
デンパサールから「ウブド(Ubud)」は直線距離にすると20q 強にすぎない。しかしその距離
を隔てるだけでいい知れない安らぎが生じる。ウブドこそはバリ文化の心臓部であり、バリ文 化を世界に発信する震源地である。⇒ウブドの街角で
ギャニアール(Gianyar)県に属するウブドが今日のバリ芸術のメッカになっているのは歴史
上の経緯がある。オランダ(蘭印政庁)がバリ島に進出してきた際にギャニアール王国はオラ ンダと同盟し他の王国を滅ぼしたという芳しくない過去がある。この結果、ギャニアール国はオ ランダ治世下でも旧体制の延長が許容された。
滅ぼされた王国、生き延びた他の王国では国王とは名ばかりでオランダに権力はもとより権
威も富も奪われた。このため芸術や工芸品の職人はスポンサーをなくし、ギャニアール国へ移 住を余儀なくされた結果、ウブドがバリ文化の中心地となった。
現在、ウブド周辺のギャニアール県の村々の名は伝統芸術と伝統工芸品で知られている。
著名なものを列挙するとガムラン(→917)とバリ舞踏のプリアタン、バリ絵画のバトゥアン、銀細 工のチュルク→930)、木彫りのマス(→933)、竹細工のスカワティ、染織のギャニアール、石彫り とバロンダンス(→954)のバトゥブラン(→930)などである。
ウブド付近は古代においてもバリの中心であった。その証はゴア・ガジャ遺跡やイエ・プル遺
跡などマジャパヒト王国に侵略される以前のバリ最古のペジェン王国(→264)の遺跡にも富ん でいることである。⇒ウブドの市場
近年になってウブドが知られるようになったのは1920年代にスピース(→995)などの西欧の芸
術家がウブド住み着いてアトリエを設けたことにより、バリ人の絵画芸術が飛躍的に発展する 契機になった。この結果、ウブドは特に絵画で有名である。
現在、ウブドにはいくつかの美術館がある。一つは王族チョコルダ・ケデ・アグン・スカワティが
新美術のパトロンになり収集した絵画を基に今日のプリ・ルキサン(Puri Lukisan)美術館となっ ている。もう一つは画家自身の収集によるネカ(Neka)美術館である。1996年にオープンしたア ルマ美術館(ARMA=Agung Rai Museum of Art)はアグン・ライ夫婦のコレクションに基づくも ので総合的に充実している。
ウブドは美術館を見るだけで一日はかかる。しかし人がウブドに滞在するのは美術館巡りで
はなくバリ文化にふれるためである。バリの田園風景と芸術の国際情報が共存するのがウブ ドの魅力である。
表通りから少し離れたレストランではウブドの渓谷とその向こうに広がる棚田の景色を望め
る。ウブドはゆっくりとバケイションを過ごし、近辺のどこかで行われるお祭りやお葬式に参加 する所である。 ⇒アユン川のラフティング
ウブドのパサール(市場)はインドネシア各地にある市場と同じである。狭い通路には雑踏と
商品の山で歩きにくい。他所と異なるのは外国人のホームステイ滞在者が野菜などの日用品 を買っている光景が日常的であることである。
現在の位置
英語の看板【HOME STAY】が多いのは外国人の利用者が急増していることを示している。宮
殿に住む王族の子孫も民宿をやっているという。しかし最近ではやレストラン、土産物店がに わかに増えウブドも観光公害がいわれ、クタ並みになってきたといわれる。
ウブドの名所の一つのモンキー・フォレストはその名のとおり“猿の森”である。フータン・クラ
(Hutan Kela)というインドネシア語があるが、英語名が普及したのは観光名所だからである。 Pura Dalem Agung Padantegalという寺院の境内であるが、寺院の名前は無視されてもっぱら モンキー・フォレストである。⇒寺院の猿
森には数百匹の野生の猿が観光客のくるのを待っている。わがもの顔に観光客を見渡し
時々気晴らしに女性のスカートを引っ張るところは高崎山と同じである。観光客が猿の餌を買 うと猿の攻勢が始まる。餌の売人のバリ人にはたからないから不思議である。餌はモンキーバ ナナとピーナッツがあり、安いモンキーバナナを与えても無視しピーナッツ一本に絞っている。
観光客の対応が気に入らなければ眼鏡を持って逃げるのもいる。中にはポケットから財布を
抜き出すのもいる。どうして取り返すかというと餌の売人か土産物屋に頼めば猿を呼んでくれ る。餌の売人や土産物屋と猿が結託(けったく)していると疑いたくなる。
猿がこのように増長したのはインド神話の影響で猿は正義の味方として大事にされているか
らである。ラーマーヤナ(→945)は主人公のラーマー王子が攫われた妻シンタ姫を取り戻すた めハヌマンの率いる猿の援軍を得て魔王ラワナと戦うというものである。
ところで猿ならば何でもよいということではない。ラーマーヤナの猿は魔王との戦いで尻尾に
火をつけられそのため顔が黒くなった。これが由緒正しい猿である。バリの猿を観察するに日 本猿よりやや小柄である。顔は灰色で頬髭(ほおひげ)があるが、それほど美形とも思えないし、 また態度もよくない。
日本猿君を改めて見るにズングリムックリの恰好は浮浪者風である。尻尾は太く短くおまけ
に酔っ払い顔である。時には農家の庭先に忍び込みコソ泥もやるという我が親愛なる日本猿 君は“猿品骨柄”に欠けるようだ。⇒サンゲエ寺院の猿
バリ島に猿の名所は3ケ所ある。ウブドのモンキー・フォレストの他はサンゲエ(Sangeh)とウ
ルワトゥ寺院の猿であり、いずれもノトリアスの方で有名である。サンゲエのブキット・サリ (Bukit Sari)寺院、別名『モンキー寺院』は伝説の由来がある。ハヌマンが魔王のラワナをマハ メル山(→024)に封じ込めるため山を持ち上げたところ、山の一部がサンゲエの森に落ちて以 来、猿の森となったということである。
現在の位置
バリ島東部の「クルンクン(Klungkung)市」はかつてのクルンクン王国の所在地である。同王
国はバリ王国の宗主国であるゲルゲル(Gelgel))王国を引き継ぐ由緒ある王国であった。デン パサールが東京であるならばクルンクン、ゲルゲルは京都、奈良の関係になるバリ島の古都 である。⇒クルンクン市
王国の領土を引き継ぐクルンクン県の人口16万人、面積315kuでバリ島8県の中では最も
小さく、小さい面積の半分以上は不毛のプニダ島である。
オランダ侵略前のバリ島の小王国時代にはクルンクン王国はスマラプラ(Semarapura)王国
ともいわれ、中国の春秋戦国時代の“周”のような存在であり、他の王国からは一目おかれ た。伝統ある宗主王国としてオランダの侵略に華々しい意地を見せて散った。
19世紀後半からオランダはバリの小王国を一つ一つ支配下に組み入れ、最後にクルンクン
王国が残った。1908年にオランダ軍に囲まれもはやこれまでと決した王国はププタン(→172)を 演じて見事に滅亡した。これによってオランダのバリ全島支配が完成した。
町の中心にあるクルタ・ゴサ(Kerta Gosa)宮殿が“浮かぶ宮殿”といわれるのは堀の水に囲
まれていたからである。今日の王宮は門を除きププタン戦争で破壊されたので再建されたもの であるが、堀と王宮の遺跡に古都の面影をしのぶことができる。
クルタ・ゴサの建物の一部は後に裁判所となり1942年まで使用された。裁判所時代の遺物と
して悪いことをすればどのような罰を受けるかが壁画と天井画で表されている。カマサン様式と いうバリの伝統絵画(→932)の技法によるものである。⇒天井画 ⇒天井画
クルンクンの町の南2kmにあるカマサン村はゲルゲル王国の旧跡地である。内紛で王宮がク
ルンクンに移されて以降は一寒村に落ちぶれた。しかし王族や僧侶の家系の由緒ある寺院が 村に残っているため、祭りの日には賑わう。かつての王国の所在地として伝統工芸は今日も 盛んである。特にカマサン様式絵画で知られる。
クルンクンの東のアムック湾に面したところにゴア・ラワ(Goa Lawah=蝙蝠(こうもり)の洞窟
(どうくつ))に蝙蝠(→072)の名所がある。洞窟を住みかにしているが、入りきれない蝙蝠が洞 窟外の岩壁にぎっしりと密集し地肌が見えないほどである。とまって羽根を休める場所がない のか多くの蝙蝠が昼間から飛び回っており、鳥の声と異なり哺乳類の泣き声は耳障りである。
この洞窟はアグン山の火口に通じているといわれる。蝙蝠に恐れをなして誰も入らないから
本当のことは分からない。洞窟の側にある寺院は格の高い寺院であるらしいが蝙蝠の糞まみ れで悪臭が漂う。
現在の位置
最東部のカランアセム(Karangasem)県の中央にアグン山がある。県都「アムラプラ
(Amlapura)市」はアグン山の噴火口から16kmしか離れておらず、溶岩が流れ出す方向にあ る。1963年の噴火の際も町のすぐ近くまで溶岩が押し寄せた。厄払いのため、町の名はカラン アセムからアムラプラと改名された。
バリ小王国時代のカランアセム王国がロンボック海峡を越えて東に向かわざるをえなかった
のはアグン山の溶岩の圧力であろう。王国の最盛期は対岸のロンボック島(→212)、スンバワ 島(→214)にまで勢力を拡げていた。しかし19世紀になってオランダはバリ王国に侵略の手を 伸ばしてきた。
ロンボック島の分家がププタン(→172)で散ったのを座視せざるをえなかったカランアセム王
国はいち早くオランダと提携してバリの他の王国を攻める側に立った。オランダに攻略される 過程でバリ小王国の王宮のほとんどは破壊されたが、アムラプラの王宮はバリ島で現存して いる唯一のものであることはオランダ協力への報奨であろう。⇒水の宮殿
アムラプラの町は標高100mの高台にあり海を見下ろす美しい町並みである。赤レンガを多
用し、ヨーロッパ風建築様式を取り入れた王宮の建物は美しい。バリ南部の喧騒から隔離され たようであり、交通が不便な分だけ訪れる観光客は少ない。
東の海岸のチャンディ・ダサ(Candi Dasa)は新興のリゾート・ビーチである。クタ、サヌール、
ヌサ・ドゥアの人混みとハイコスト化(要は日本人が乗っ取ったということ)に嫌気がさしたオー ストラリア人が愛する静かなビーチであったが、ここもまた年々人が増えてきた。バリ島の観光 客もリピーターが多くなるとバリ東部も観光地化しつつある。⇒チャンディ・ダサ
この地域はインドのガンジーの影響を受けたグドン・バグス夫人がガンジーの思想を実践す
るために開いたアシュラムがあった。ガンジーの説いた物質に惑わされない質素な生活を目 指した合宿所がアシュラムといわれる。アシュラムのメンバーによってそれまで見捨てられてい たチャンディ・ダサを修復し、近辺を整備したことが観光地として発展する契機になった。
バリの最東端にスラヤ(Seraya)山がある。高さは1174mにすぎないが、海に突き出た島のよ
うな山である。スラヤ山のルンプゥヤン(Lempuyang)寺が海の女神であるロロ・キドゥル(→ 949)の寺院として注目されるようになった。
バリ島にも南海の女王ロロ・キドゥルの神話が伝えられた。ロロ・キドゥルはバリ島が気に入
り、サヌールのホテル火災事件以来グランド・バリ・ホテル(→174)を定宿としている。女神にふ さわしい寺院がルンプゥヤン寺とされたのであろう。
スハルト体制崩壊後の選挙活動でメガワティ(→456)が1998年にバリ島を訪れた際にルンプ
ゥヤン寺に詣でて必勝を祈願した。その効験により選挙で彼女の率いる闘争民主党は第1党 になり、2001年に大統領になった。
現在の位置
バリ島の東端にある標高3142mの「アグン(Gunung Agung)山」はバリ最高峰である。火をふ
く聖なる山である。標高3142mは1963年の噴火以前の数値であり、噴火の際の爆発で実際は 100mほど低くなっている。
1963年2月19日、数日前からの予兆の後にアグン山は爆発した。1350年以来久しく絶えてい
た爆発であった。麓のブサキ寺院ではちょうど100年毎の大祭を終えるばかりであった。人々 は祭りそのものが爆発の原因でないかと畏れた。
爆発の際の火砕流の熱雲で1500人が窒息死し、流れ出した溶岩は麓の村を埋め海まで達
し、8500人が家をなくした。不思議なことにブサキ寺院だけは溶岩の流れから免れた。降灰は 全バリに被害をもたらしバリ島の農地の1/3は壊滅し不作のため飢饉となり、多くの農民が他 の島に移住した。世界から救援の物資が寄せられたが、島民はその援助を拒み、神の怒りを 鎮めるため贖罪(しょくざい)苦難の途を選んだ。
日本からの直行便がバリ島にさしかかると左手に広がる聖なるアグン山の山塊の威容に見
とれると同時に無事通過に安堵(あんど)を覚える。もし迂闊(うかつ)なパイロットがアグン山の真 上を通過しそこで便所??????、アグン山の怒りを招けばどうなるか。1974年4月パンナ ム機がアグン山に激突した。バリ人にいわせればこれは単なる事故ではない、飛行機がアグ ン山の怒りにふれたそれなりの理由があるはずである。
アグン山は単に高いだけではない。アグン山は"聖なる"ものとして存在する。アグンは「偉大
な」という意味である。バリ人の信仰の山でありバリ人によればアグン山は世界の中心であり 彼らの例えによると世界の臍(へそ)である。
バリではアグン山の方角は聖なる方角のカジャ(→643)である。屋敷内の配置はアグン山の
方角に家の社(やしろ)が設けられている。寝る時にバリ人は頭をアグン山の方角にする。偉い 人はアグン山の方に座るのがカースト(→642)の仕来りである。アグン山を崇めるのはバリ人 の身についた習性である。
アグン山の中腹の千bのところにあるブサキ寺院はバリ・ヒンドゥー教(→719)の総本山であ
る。ブサキ寺院を正面から眺めるとその背景にアグン山が鎮座している。午後になると雲がか かり全容が見えることはない。裾野の稜線だけを残して隠れたアグン山を背景に黒づくめのブ サキ寺院が朦朧(もうろう)と浮かびあがる。見えないアグン山は一層、神々しさを増す。墨絵 の世界に幟(のぼり)の色が一際鮮やかである。
現在の位置
バリ島寺院の総本山として全バリ人によって信仰されてきた「ブサキ(Besakih)寺院(注)」は
聖なるアグン山の約千bの中腹にある。ブサキ寺院といわれるが、実は一つの寺院ではなく 30以上の寺院の集合体である。⇒ブサキ寺院(antarin.net)
核になるパナタラン・アグン(Panataran Agung)寺院を中心としてバリの各王国や有力な氏族
は寺域の中に各々の寺院を維持した。この中では由緒あるクルンクン王国が最も良い場所を 占めている。
ブサキ寺院の歴史は10世紀にさかのぼり、その場所はヒンドゥー教がバリに広まる以前か
らバリ人にとってアグン山信仰のための聖所であった。
ジャワ島経由でインドからもたらされたヒンドゥー教にも聖山メールの思想があり、バリ人の
山を崇める山岳信仰(→699)の上にヒンドゥー教が重なった。重層信仰(→695)はいわゆるバ リ・ヒンドゥー教の特徴の一つである。ブサキ寺院はアグン山と不可分である。
堂々とした石門、ヤシの葉でふいた何百というメールという層になった塔が山のスロープを奥
へ奥へと高く拡がり、山体にすいこまれるばかりである。黒色の寺院にブーゲンビリアの赤い 花の取り合わせが印象的であった。平地と比べ肌寒かったのは高地のせいばかりではなく、 あたりに漂う厳粛な霊気が身を引き締めたのだろうか。⇒ブサキ寺院
祭りでない日は人影もまばらである。参道には丁子などの農産物が乾燥のため筵(むしろ)に
拡げられている。しかし1年に50回あるという祭りの日には赤、黄、白、黒の色鮮やかな幟(の ぼり)がはためき境内の広場は人で溢れる。盛装して供え物を運ぶ美しい行列行進がバリ中 からやってくる。昔は山道をもろともせずに徒歩で来たが、最近ではトラックが愛用されてい る。バリなりの近代化といえよう。
1979年、ブサキ寺院では百年に一度の“十一方位祭(Eka Dasa Rudra)”が取り行われた。
十一方位とは東西南北の4方角とその中間の4方角、それに上と下と中央という全方位であ る。全方位とは即ち宇宙であり、善悪のすべてという意味である。
この祭りのハイライトにはスハルト大統領も出席して42日間にわたってバリ島の全島民が参
加して盛大に行われた。実は十一方位祭は1963年のスカルノ大統領の在位中に既に実施さ れたが、祭りの最中のアグン山の爆発のため、やり直しになったものである。
オランダがバリ島を侵略して王国に代わってバリ島を統治した間、ブサキ寺院はパトロンを
失い放置されていた。10年になる1917年にアグン山の噴火に伴う地震でブサキ寺院に被害 が生じた。この地震は宇宙の秩序を破壊したオランダに対する天罰であるとバリ人は考えた。
オランダは文化財保護の名目で資金援助を行なってブサキ寺院を再建し、バリ人の精神世界
を取り込むことで支配者として認められように努めた。
現在の位置
ブサキ寺院、ティルタ・エンプル寺院→010)、ウルワトゥ寺院、ウルン・ダヌ寺院、タナ・ロット寺
院、ウルン・ダヌ・バトゥル寺院、バトゥカウ寺院、タマンアユン寺院、プナタラン・サシー寺院、 サクナン寺院、ペジ寺院などがバリ島観光案内に出てくる著名な寺院である。
これらの寺院は村の寺院とは異なり王国鎮護の寺院であり、プナタラン(Penataran=国家)
寺院といわれる。国家寺院の中でも格が高いものが6大寺院(注1)といわれる。ブサキ寺院 はその中でも別格であることはいうまでもない。
異教徒の外国人観光客も寺院拝観はできる。ただし肌の露出は覆わなければならない。特
に女性のショート・パンツは拒否される。黄色の帯(おび)紐(ひも)を腰に巻きけるのは斎戒(さい かい)沐浴(もくよく)の証(注2)である。その帯紐の借り賃が拝観料代りである。
「タマン・アユン(Taman Ayun)寺院」はデンパサールから18qのムングウィ(Mengwi)にある。
ゲルゲル王国(→265)時代に存在したムングウィ王国(1891年滅亡)の国寺として創設された。 ブサキ寺院につぐバリ島第二の格を有する寺院である。堀に囲まれた広い境内は公園のよう である。⇒タマン・アユン寺院
「ウルン・ダヌ・バトゥル(Ulun Danu Batur)寺院」はアグン山のブサキ寺院に対応するバトゥ
ル山の寺院である。1917、1926年のバトゥル山は爆発し寺院は危うく難を逃れた。お告げによ り元のカルデラの内側から外側に移動中であった。
「バトゥカウ(Batukau)寺院」はバリ第3の高峰バトゥカウ山(2276m)の南山麓にある。緑に覆
われた休火山に抱かれた寺院らしい安らぎがある。
その他をまとめると「ベジ(Beji)寺院」はシンガラジャにある。壁面のレリーフが見事である。
「プナタラン・サシー(Sasih)寺院」には“ペジェンの月”といわれるドンソン文化(→981)の青銅 の銅鼓を保存している。「サクナン(Sakunan)寺院」はサヌール沖の小島のスランガン (Serangan)島にある。バロン・ランドゥン(Barong Landung)という大きな仮面人形で知られてい る。
風光明媚な海の絶景との組合せで有名なのはタナ・ロット(Tanah Lot)寺院とウルワトゥ寺院
である。伝説の高僧ニラルタ(Nilarta)はゲルゲル王国時代にジャワから招来され、タナ・ロット 寺院やウルワトゥ寺院を建立した。ブキット・バドゥン半島の最先端のウルワトゥ寺院(→173)は 既に述べた。
タナ・ロットはデンパサールから西へ30qであり、海辺の寺院として著名である。インド洋に突
き出た岩島の崖の上に寺院がある。西に広がるインド洋が背景にした夕日は絶景である。落 日に輝く海と空をバックにした岩島と寺院のシルエットの光景を見るだけでもバリ島へ行く価値 がある。⇒タナ・ロット
大空と大海原の合うところくれなゐに染め日の沈みゆく 澤部孫壽氏歌集より
現在の位置
バリ島の火山は島の北側にあり南へは緩やかなスロープとなっている。この南に拡がる火山
の裾野には階段状に水田が重なっている。途中にクプクプ(Kupukupu=蝶々)亭というレストラ ンがある。渓谷と棚田の眺望に歌心もわいてくる。
椰子の木の並び立ちたる渓谷に一筋白く川の流るる
美しき景色飽かずに眺めつつ昼食取れば涼風の吹く (澤部孫壽氏歌集より)
南側から登り詰めたところがペネロカン(Penelokan)である。そこは広義のバトゥル(Batur)
山の外輪山の一角である。初めてペネロカンに着いた時、すり鉢の縁の稜線であることが分 かる。そこから見えるのは内側に20km幅のカルデラが一望される絶景である。パノラマカメラで も収めきれない雄大な眺めに人は立ち止まり動かない。ちなみにペネロカンは"展望所"という 意味である。炎天下でも通り抜ける風はさわやかで肌寒い。
すり鉢の中に拡がる草原の中央はゴツゴツした黒い溶岩の岩山は新しい活火山である。狭
義のバトゥル山であり、その高さはまだ1717bである。外輪山のアバン(Abang 2152b)山の 方が高い。⇒バトゥル山 ⇒バトゥル山
カルデラの東南側の1/3には水色の湖が拡がっている。キンタマニ(Kintamani)村(注)にちな
んでキンタマニ湖ともいわれる。バトゥル湖の方が正式の呼称のようであるが、日本人にはキ ンタマニ湖の方が覚えやすい。声を出して読んでみればわかる。
活火山のバトゥル山は1917年に爆発した。火口原の中の村の1千人が犠牲になり6万人の
家が失われたが、不思議と村の寺院は助かった。村は再建され人が舞い戻ったが、1927年に 再び爆発した。今度は寺院も埋まったが、最高神だけは無事であった。
神の座を高所に移し人々はまたもやそこで生活していた。1963年の爆発で村は寺院とともに
火口原の外に引越した。
人々はバトゥル山にしがみついて生活する。このような危険な所でも人が執着するのは高原
野菜作りのためである。野菜というのは温度が適温でなければならない。村は野菜作りで比較 的裕福らしい。あるいは観光業にも精を出している人もいるだろう。
バトゥル湖の彼方の片隅に集落らしいたたずまいがかすかに望見される。トゥルンヤン族の
住む村である。火口原の中でも爆発の難を免れる位置にある。トゥルンヤン族はバリ・アガ(→ 660)といわれる人々である。
複式火山であるバトゥル山の標高千bの外縁部のペネロカンからキンタマニを結ぶ道は観
光道路であると同時にバリ島を縦断する幹線道路である。外縁部の高所にテゲ・コリパン (Tegeh Koripan)寺院があり、最高所(1745b)の寺院からは絶景の眺望が得られる。しかしな おその上にあるのがテレビ中継所である。
現在の位置
「ブレレン(Buleleng)」といわれるバリ北部は山陰に位置し観光で賑わう南部とは対称的
(注)である。しかしこの北海岸地方もバリ島の表玄関であった時期があった。オランダ時代は 植民地の島々を結ぶ交通は船舶である。⇒シンガラジャ市街地
その主要航路はジャワ海の【バタビア⇔スラバヤ⇔マカッサル】を結ぶものあり、ブレレンが
その幹線に面していた。戦前に執筆されたバリ紀行の多くはブレレンへの上陸から始まる。
蘭印政庁のバリ島侵略(→280)とその後の支配の橋頭堡(きょうとうほ)はブレレンであった。ブ
レレンの総督はバリ島のみならずバリ島以東の全小スンダ列島の統治者であった。今日ブレ レンという名はシンガラジャ(Singaraja)という町の港の名前であると同時にブレレン県として北 部一帯の県名になっている。兵庫港・神戸市・兵庫県という関係と同じである。
ブレレンは文化的にも島の南にある多くの王国とは異質なところがある。例えば寺院の様式
も祠(ほこら)だけでメール状の塔がない。
19世紀の中頃からオランダによってバリ島では最初に西欧文明がもたらされた。シンガラジ
ャは王国時代のみならずオランダ統治時代の古都にもなる。このため外国人、即ち異教徒の 比率も高い。日本で例えるならば長崎の趣がある。
シンガラジャに“ロンタル本”の古文書館がある。バリ島に“紙”が導入されたのはオランダ時
代以降であり、それまでの文書はロンタル(lontar)という種の椰子の葉を35×3p程度の大き さに切り揃えたものに鉄筆で刻み煤(すす)を塗り込み紐(ひも)で綴じたものである。
古文書館にはロンタルに記されたバリの歴史、文学書が収集されている。これはオランダ植
民地統治の置き土産のようである。文字はカウィ語(→968)であるのでプダンダ(→869)のよう な限られた人にしか読めない。
シンガラジャから島中央の山地を横切りデンパサールを結ぶ幹線が標高2千米を越える地
にブドゥグル(Budugul)という保養地がある。近くのブラタン(Bratan)湖はブラタン山のカルデラ 湖である。標高1500mの避暑地である。
湖畔から突き出た小島にウルン・ダヌ(Ulun Danu)寺院がある。水の女神デウィ・ダヌ(Dewi
Danu)を祀る優しい寺院である。深い緑に覆われた山と湖をバックにした絵のような美しい光 景である。特に朝霧で少し霞んでいる光景ではどんな下手なカメラマンでも芸術写真が撮れる ことは請け合いである。 ⇒ウルン・ダヌ寺院
近辺にはハンダラ(Handara)ゴルフ場がある。高地なので気候はさわやかである。東南アジ
ア有数のゴルフ場として評判が高い。自然の地形を活かした緑豊かなコースで湖に打ちこむよ うなナイス・ショットが出れば一生の思い出になる。
ちなみに私は面白くないからゴルフは40年前に止めた。従ってバリ島まで来てゴルフをやり
たがる人を理解できない。しかしながらハンダラ・ゴルフ場だけは別らしい。
現在の位置
バリ島はバリ海峡を隔てジャワ島と対面している。海峡の巾は3qにすぎないが、速い潮流と
珊瑚礁の複雑な海底地形のため航行は難しい。海上交通の障害をものともせずにマジャパヒ ト王国(→248)以前からバリ島は海峡を経てジャワ島からヒンドゥー教(→719)とヒンドゥー文化 をそっくり移入した。⇒バリ海峡?の日没
しかしジャワ島がイスラム教に改宗してから後はバリ海峡の潮流を盾にジャワ島から隔離
し、独自の文化を熟成させた。遣唐使を廃止した日本の平安時代、鎖国令を出した徳川時代 と同じで、ジャワ島と付かず離れずの関係を都合次第で保つことができた。
しかし今日では船にエンジンが取り付けられ、航路も整備され、バリ側のギリマヌク
(Gilimanuk)からジャワ島のクタパン(Ketapang)まで24時間営業のフェリーで結ばれている。ジ ャワ島からバリ島へバスに乗ったまま15分である。ギリマヌクからの車はバリ西部は無用とば かりひたすら東へ駆け抜ける。⇒ギリマヌク港
バリ島がインドネシアに統合され、バリ海峡を超えて人の移動が行われるようになった。ギリ
マヌクではジャワ島からの移住者が増えた結果、バリ島では珍しいイスラム教徒も20%近くにも 達している。
バリ島の最西端に位置するジュンブラナ(Jembrana)県はヌガラ(Negara)を王都とする王国
の領域である。ジュンブラナはジャワ島に最も近いが、バリ島の中心から見ればバリ島の西の 辺境であった。バリ島の“本丸”は海峡とジュンブラナという緩衝地帯によって守られてきたとい える。
ジュンブラナ地方は2000b近い山地が連なる森林地帯である。原生林のまま残されており国
立公園として野生動物が保護されている。かつてはアジア大陸の固有種の虎(→067)が生息す る最東端であったが、現在は絶滅した。ジャラック・プティ(Jarat Putih)という絶滅寸前のバリ 島固有種の鳥がいる。
大河川がないので潅漑が発達していない。沿岸部に狭い農地があるにすぎない。そこでは競
牛(→921)やジュゴグ(→918)という竹製楽器のようなヌガラの伝統文化が保持されている。バリ 中央から見れば粗野な感のある素朴な庶民文化である。何でも観光の対象となるバリ島でこ の地域だけは圏外におかれてきたが、近年では競牛やジュゴグも観光の対象になり観光客が 見られるようになった。
北西部のジャワ海側の行政管轄はブレレン県に属する。平地がないことから過疎地域であっ
たが、これらの地域にも観光開発が押し寄せてきた。温泉付きのリゾート・ホテルが建設され、 超高級を売り物にするアマン・グループ(→214)のホテルもある。
沖のムンジャンガン(Menjangan)島は無人島であるが、野生鹿が繁殖している。鹿の観察ツ
アーがあるが、自然保護のため上陸時間も4時間に限定されている。島の周辺はダイビング・ スポットとして人気が高い。
現在の位置
クルンクン沖の「プニダ(Penida)島」はサヌール海岸から見える30qの距離である。しかしこ
の海峡には距離以上の隔たりがある。プニダ島は石灰岩からなるカルスト台地の島であり、豊 穰なバリ島とは対照的な荒涼とした島である。⇒サヌール海岸より(絵
雨が少ない上に潅漑もない、従って米はとれない。この貧相な島に4万人の人が生活してい
る。畑作と漁業で生活を支える住民の貧困は風采からも窺われる。これから東に連なる小ス ンダ列島の厳しい自然を暗示するような存在である。
バリ人はこのような島に似つかわしい諸悪の元締めの神様であるジェロ・グデ・マカリン
(Jero Gede Macaling)の棲家(すみか)とみなした。ジェロ・グデ・マカリンは長すぎるので単にマ カリンまたはムチャリン(Mecarin)と言われる。長い牙を持つ大魔王である。
バリ島では乾季から雨季になる頃、疫病が伝染するのはこの悪神のせいにされている。そこ
で悪神の機嫌もとるのがバリ人の思考様式である。ムチャリンのお祭りにはバリ中からプニダ 島を訪れる。プニダ島と向かい合うバリ島の南側のサヌール海岸の村では魔王ジェロ・グデ・ マカリンに向こうを張って善神の象徴としてジェロ・グデ・ルーという大きな人形が作り、両者は 夫婦として善悪のバランスを保つ。⇒オゴオゴ人形
ラーマーヤナ(→945)の魔王ラワナの棲家はセイロン(スリランカ)島であることはインドの方
角思想から見ると海の先の島は悪者の本拠地になるらしい。インドとセイロン島の位置関係 が、バリ島とプニダ島の関係に対比できるのも意味ありげである。
クルンクン王国にとってプニダ島の用途は犯罪者、政治犯の流刑地であった。日本人にとっ
ての八丈島に相当する。『ヌサ・プニダ島』という映画はバリの農民がプニダに送られながらカ ーストを越えた純愛を貫くというメロドラマであるが、バリ社会の慣習が窺われて興味深い。
プニダ島に隣接しているレンボガン(Lembongan)島はダイビング・ポイントの一つである。日
本の軍艦が放置されているのが魚の絶好のマンションになっている。第二次世界大戦中に難 破したもので魚のために沈めたものではない。
バリ島を取り巻く海の波の下には珊瑚礁を熱帯魚が泳ぐ別世界がある。しかしバリ人は海を
魔物の世界と畏れた。バリ土産にバリ人の描いた海中の絵を買った。緑黒の海中に不思議な 生物が蠢(うごめ)いている。まるで海の魑魅魍魎(ちみもうりょう)である。
バリ島を訪れる人は社寺仏閣の物見遊山の人ばかりではない。バリの海でダイビングを一
度経験するとその魅力にとりつかれるらしい。私は魚でないからダイビングなどしないし、した いとも思わないが、皆がそう言っている。海峡の潮の流れは複雑であるため事故も多い、ロ ロ・キドゥル(→949)のいることを申し添えておく。
現在の位置
|