B−7章 カリマンタン島

186.カリマンタン島の地政 187.資源の島
188.カプアス河流域 189.ポンティアナック市
190.中カリマンタン州
191.タンジュン・プチン公園
192.バリト河流域 193.東カリマンタン州
194.マハカム河流域 195.ブサンの金鉱
196.ダヤク人のアポカヤン

B−7.カリマンタン島(注釈と資料)
B−1スマトラ島 B−2西部ジャワ B−3.中部ジャワ B−4東部ジャワ B−5ジャカルタ
B−6バリ島周遊 B−7.カリマンタン島 B−8スラウェシ島 B−9ヌサトゥンガラ列島 
B−10マルク諸島 B−11新パプア州


B−7 カリマンタン島

186.カリマンタン島の地政
 
 ジャガイモのような形をして赤道直下に横たわる世界第三位の大きな島が「カリマンタン
(Kalimantan)島」である。植民地時代にヨーロッパ人はボルネオ(Borneo)島と呼んでいた。ボ
ルネオの名は早くから交易で栄えていたブルネイ(現在はカリマンタン島の東北部にある独立
国)の名にちなむものである。
 インドネシアは独立とともにカリマンタン島と改名した。カリマンタンの語源はkali(=河)mas
(=黄金)intan(宝石)で“宝石の河”である。マレーシア側ではボルネオ島と呼んでいる。従っ
て世界地図ではカリマンタンとボルネオの両名が併記されている。日本の地図では「カリマンタ
ン島(ボルネオ島)」の表記であるが、英米の地図では逆の「ボルネオ島(カリマンタン島)」が
一般的である。⇒カリマンタン島探検(絵画) ⇒カリマンタン島
 島の北側のマレーシアとインドネシアは分水嶺のイラン(Iran)山脈が国境となっており、イン
ドネシア側が島の3/4を占めている。この島に国境があるのは、植民地帝国のオランダとイギ
リス勢力争いの結果の“縄張り”の線の跡である。
  カリマンタン島のマレーシアとの1782kmの長い国境の唯一の懸案個所は東カリマンタンの海
上のシパダン(Sipadan)島の帰属問題(注1)であった。1824年の英蘭協定(→276)では曖昧
(あいまい)なまま英国が実質支配を行いマレーシアがそれを引き継いだ。両国は国際司法裁
判所に決定を委ね、2002年12月にマレーシア領という国際裁定をインドネシアが受け入れ長
年の懸案事項は一旦は円満解決(注2)した。
 2005年になってマレーシアがシパダン島沖のアンバラット(Ambalat)海域の石油開発利権を
シェル石油に認めたことから、インドネシア国内の反発から反マレーシア運動が高まり、海軍も
有事体制に突入し一時緊張状態が続いた。
 そもそもマレーシアとの問題はマラヤ連邦がボルネオ島のサラワク、サバ、ブルネイ(注3)
シンガポールを併合してマレーシアの結成(→383)を図った際にまでさかのぼる。当時のスカル
ノ大統領はマレーシア構想は英国の植民地体制を維持する彌縫策(びほうさく)であるとし『マ
レーシア粉砕!』を怒号し戦争の一歩手前まで行ったが、サラワク州、サバ州の住民はマレー
シアを選択した。
 その後、スハルト大統領になってインドネシアはマレーシアと和解し今は両国の関係は安定
しているが、東カリマンタンの海上は何かの折には紛争する可能性がある。
 サラワク州においてもサバ州においても石油・ガス開発や森林開発で労働力は恒常的に不
足傾向にある。国境の山脈はそれほど高くないのでインドネシアから山を越えてダヤク人(
624)が働きに行く。海からは船をしたてブギス人(→617)が出稼ぎに行く。マレーシアの不法滞
在インドネシア人問題(→691)生じている。

 ⇒地図、注釈と資料-186  

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187.資源の島

  一昔前のカリマンタン島のイメージは首狩族、猛毒のコブラ、樹木から群がり落ちてくる蛭(ひ
る)、マラリア蚊、熱帯の奇病などであり、ジャングルは魑魅魍魎(ちみもうりょう)の住処(すみ
か)であった。砂漠やツンドラと同様に不毛の大地として敬遠されていた。
  そのジャングルのカリマンタン島が森林資源、鉱物資源、天然ガス資源、石炭資源の宝庫で
あることが分かり、開発が進められたのは、この数十年のことである。
  火山性土壌でないので農業には不適であるが、熱帯雨林気候で日本の2倍の大地はジャン
グルで覆われている。厄介(やっかい)と思われていたジャングルも資源になった。森林は国有
地であり、勝手に伐採はできない。しかし森林の伐採権が利権となって乱開発でカリマンタン
島からジャングルが急速に消えつつある。
 インドネシア人のゴルフコンペで打球がそれて藪(やぶ)に入ると彼等は「カリマンタンに入っ
た」といって渋い顔をしたが、今はどのように言っているだろうか。
 ⇒ダイアモンドの採掘  ⇒ダイアモンドの採掘
 近代文明に巻き込まれる以前のカリマンタン島では川に沿って細々と集落が点在しており、
川の分岐点の集落で商業が行われ、下流の要衝に川全体を支配する王様か領主がいる。周
りのニッパヤシの家に比べれば立派な建物という程度の宮殿を構えて割拠するというのが東
南アジア島嶼社会の原型であった。 
 カリマンタン島のカプアス河、カハヤン河、バリト河、マハカム河、カヤン河という大河は数百
kmの内陸部の奥地まで溯れるが、山地に入ると急流と瀑布の連続である。山地では人家はま
ばらになるが、人を拒絶するほど険しくないため原住民のダヤク人(→624))が河岸にロングハ
ウス(→941)を建て焼畑農業(→882)を営んでいる。
  島全体がジャングルかスワンプ(→007)で覆われているため、ほとんど未開発である。その中
では比較的早くからマレー人やジャワ人が移住してきたジャワ海沿岸のバンジャルマシン地域
では農業開発は進んでおり人口も比較的多い。
 植民地時代になって西カリマンタンへ金鉱山とプランテーション開発の労働力として華僑が移
住してきた。このため中国系の人口比率はカリマンタン島全体で8%であり、ジャワ島の2%、スマ
トラ島の4%と比べて高い。
  いずれにしろカリマンタン島はインドネシアの外島の中でも面積に比べ人口密度は島全体で
17人/kuと少ない。このため人口過剰のジャワ島からの移住政策(→724)が進められてきた
が、原住民であるダヤク人と移住民の対立から暴動(→738)が起きている。
  今日のインドネシアの資源輸出を賄っているのはカリマンタン島であり、近年は特に石油、ガ
ス、木材、石炭に恵まれている東カリマンタンが急速に開発されてきた。 
⇒マハカムデルタの石油開発
 アチェやイリアンの独立運動の主張(→426)の理由の一つは資源輸出による収入がジャカル
タに吸い上げられることの不満である。同じ憤懣はカリマンタン各州でも芽生えつつある。資源
利権の中央と地方の配分率の見直し(→438)は避けられないであろう。
⇒地図、注釈と資料-187  

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188.カプアス河流域

 東南アジアにおけるオランダと英国の勢力圏争奪戦は1824年の英蘭協定(→276)でマラッカ
海峡を境界とすることでひとまずは決着した。しかし時代の趨勢(すうせい)は白紙であったボ
ルネオ(カリマンタン)島の領有権に及んできた。
 英国人のブルック(Brooke)はブルネイ王国から領土を切り取ってクチン(Kuching)にサラワ
ク(Sarawak)王国を建て膨張を続けた。ブルック個人の力量と才覚であっても英国がスポンサ
ーであることは明らかであり、オランダは英国のこのような動きに手をこまねいていたわけでは
なかった。そこでオランダも西カリマンタンに関心を強め積極的に介入するようになり、オラン
ダ領として確保したのが今日の西カリマンタン州である。
 西カリマンタンは18世紀にゴールド・ラッシュで急速に開発の進んだ地域である。鉱山労働者
として華僑が大挙して移住してきた。やがてこれらの華僑が団結して形成した蘭芳公司(→
668)は自治独立国の体裁(ていさい)をなすほどであった。⇒カプアス河の金採取
 ゴールド・ラッシュが終わってからも西カリマンタンに移住した華僑には農業に従事する者も
多く中国人の村が分散した。ジャワ島では華僑の土地保有は禁じられたが、土地の豊富な西
カリマンタンでは多数の華僑の農民が存在した。この結果、今日の西カリマンタンの住民構成
は華人系15%と他地域と比較して突出(注)している。
 1950年代から共産党は中国系住民を中心にマレーシア側にも勢力を延ばし国境地帯でゲリ
ラ活動を続けてきたが、9月30日事件(→384)以降は両国から追討されて息の根を止められ
た。インドネシア・マレーシア両国にとって共産党ゲリラが最後まで跳梁(ちょうりょう)した所で
ある。西カリマンタン州への旅行は入州と出州とも管理が厳重であり、観光客がウロウロする
ことを好まなかったのは共産党ゲリラ以来の治安問題の後遺症らしい。
  マレーシアのサラワク州とは地続きであり、両国の国境の山脈は険しくないので交流の障害
にならない。しかもその国境地帯がカリマンタン島の原住民であるダヤク人(→624)の故地であ
る。現在もダヤク人のイバン(Iban)族は両国にかけて居住しているが人口数としてはマレーシ
ア側が多いらしい。経済的に裕福でイバン族の固有文化が尊重されているマレーシアの方が
居心地がよいのかもしれない。
 近年、サンバス(Sambas)県で生じた先住民のダヤク人と新住民のマドゥラ人(→614)が対立
する民族紛争事件については別項目(→738)を参照されたい。⇒カプアス河
  カプアス河上流シンタン(Sintang)県の奥地にレバン・ナド(Leban Nado)という部族がいる。
彼らはマジャパヒト王国(→248)のロゲンデル大臣の従者として土着化した12組の夫婦の子孫
であると言い伝えている。川沿いに21の村を作り、ロングハウス(→941)に居住し焼畑農耕を行
っている。生活様式の外見は近辺のダヤク人と変らないが、プヤン・ガナ(Puyang Gana)という
神を崇める宗教を信じ、一般のダヤク人に対して選民意識を持っている。
⇒地図、注釈と資料-188 

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189.ポンティアナック市
(ポンティアナ)

 「ポンティアナック(Pontianak)市」は西カリマンタン州の州都である。人口35万人はカリマンタ
ン島では有数の大都会である。赤道が市内を通っており記念碑がある。世界地図を見ても赤
道直下の有数の都市である。⇒赤道記念碑
 カリマンタン島を東から西へ流れるカプアス(Kapuas)川の延長は1100kmに達する。この地
域の交通は河川によっている。ポンティアナックは支流の小カプアス川にあり、西カリマンタン
の交通の要衝として内陸部に入る河川バスのターミナルである。
 ポンティアナックは地域のビジネス・センターであることから日本との経済的関係も密接であ
る。今でこそ日本人がシッパーとビールを飲みながら商談をしているという光景も珍しくもない。
しかし戦後のポンティアナックは日本人のインドネシアで一番近づきにくい場所であった。むし
ろ生命の危険さえある所であった。⇒ポンティアナック市
 それは1943年12月のポンティアナック事件といわれる太平洋戦争中の忌まわしい事件のた
めである。日本への謀反(むほん)を諜ったとして当地の支配者や有力者が処刑された。その
他に多くのインドネシア人が裁判もなく日本刀で斬殺された。
 近郊マンドル(Mandor)の砂鉄採掘の跡地の人目につきにくい場所が処刑場であり、慰霊碑
が建てられている。
 事件の背景はカリマンタン島の歴史が浅いことであった。そもそも西カリマンタンに人が移住
するようになったのは18世紀の金の発見に伴うゴールドラッシュ以降である。ポンティアナック
が建設されたのもそれ以降であり、ダヤク人以外は全員が他所からの移住民であった。
 オランダは西カリマンタンを蘭領東インドに組み入れたものの利用すべき土着の伝統的政治
権力もないのでオランダの権威の下にアラビア人(→688)をスルタンに据えて統治させたが、要
員不足から放置されていたのが実態である。
 このためオランダ植民地政庁の支配統制は緩く経済的にはシンガポールに直結しており新
開地の自由さがあった。今日でもポンティアナックの住民構成は中国系住民が多く60%も占
め、キリスト教徒が多い。このようなことから“小シンガポール”といわれる。
 従って日本軍が占領してオランダを追い払ってもインドネシアの他の地域ほど地元住民に感
謝されたわけでもない。日本が来てかえって住民支配が厳しくなったことから反日機運が胎動
していたらしい。⇒ポンティアナックのクラトン
 インドネシア独立後の独立戦争においても西カリマンタンには穏やかでない行動があった。
オランダはインドネシア共和国に対抗するため、西カリマンタンに傀儡(かいらい)政権を作り
上げた。ハーグで行われたオランダとの独立交渉ではインドネシア共和国に加えて傀儡政権
も参加し、西カリマンタン自治地域のスルタン・ハミッド2世(→330)は傀儡政権のリーダーであ
った。
注釈と資料-189  ⇒308.ポンティアナック事件

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190.中カリマンタン州
 
 中カリマンタン州はダヤク人の支族であるガジュ(Ngaju)族を中心とした分離運動によって
1957年に南カリマンタン州から分離した。州の面積は日本の本州の2/3の広さであるが、総人
口は150万人にすぎず、人口密度は10/ku以下である。
 州都パランカ・ラヤ(Palangka Raya)は中カリマンタン州が南カリマンタン州から分離後、カハ
ヤン(Kahayan)河沿岸のパハンドゥット村に州都として新たに建設された。内陸部が選ばれた
のはバンジャル人やマレー人から遠ざかった所だからである。
 ダヤク人(→624)はカプアス河の川下地域にガジュ族、川上にオト・ダヌム(Ot Danum)族が
棲み分けている。ガジュ族は元を辿るとオト・ダヌム族から分離したものである。外来文化の影
響を受ける機会が多く、大多数はイスラム教に改宗した。住居は伝統のロングハウス(→941)
でなく、2〜3世帯同居の家であり伝統文化から脱皮が見られる。
  しかしガジュ族にとってはバンジャル人の支配する南カリマンタン州には違和感があった。ガ
ジュ族もバンジャル人の下風に立つよりは宗教は異なってもダヤク人のアイデンティティが優
先したようである。一般にダヤク人は多くの支族があり、同族意識はないといわれてきたが、
ガジュ族を中心とした民族意識が遅れ馳せながら形成されてダヤク人がマジョリティである中
カリマンタン州が独立した。

 パランカ・ラヤは広い道路とコンクリートの建物が目立つ。インドネシアでは都市計画に基づ
いて建設された数少ない都市である。他地域への交通は空路に依存している。内陸部の主要
交通路は河川である。ダヤク人には町を作らないので中カリマンタン州にはパランカ・ラヤ以
外に町らしいものはない。⇒都市設計図
  中カリマンタン州のダヤク人の60%弱はイスラム教徒、20%はキリスト教徒、20%強はダヤク人
の宗教はカハリンガン(Kaharingan)という固有のアニミズムである。カハリンガンは“生命の
水”という意味で自然を大切にする信仰である。州政府はダヤク人のアニミズム信仰を宗教と
して認めており、統計上はヒンドゥー教に分類されている。⇒カハリンガン儀式
 2001年2月、中カリマンタン州サンピト(Sampit)で民族紛争があった。ダヤク人がマドゥラ人
(→614))を襲撃して“首狩り(→625)”も行われた。この民族紛争の特徴は先住民のダヤク人と
移住民のマドゥラ人の対立であり、1996-1997の西カリマンタンの暴動(→738)と同質の事件で
ある。⇒暴動による廃墟
 近年、中カリマンタン州の開発で木材産業や油ヤシ農園(→562)の振興が著しいが、このメリ
ットは移住民のマドゥラ人が受け、土地の原住民のダヤク人が疎外されていたことからダヤク
人の怒りが爆発した。
 中カリマンタンの大半は低湿地の泥炭地である。泥炭地を農耕地にしてジャワ農民を移住さ
せるプロジェクト(→546)は鳴り物入りで始まったが、スハルト大統領の退任により頓挫(とん
ざ)している。
⇒地図、注釈と資料-190  

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191.タンジュン・プチン公園
(タンジュンプチン)
  
 中カリマンタン州の「タンジュン・プチン(Tanjung Puting)国立公園」は中カリマンタン州のジャ
ワ海に突き出た岬である。スワンプ(→007) の低湿地が熱帯雨林の動植物自然保護のリザー
ブ地として国立公園に指定された。⇒キャンプ・リーキイのオランウータン
 30万haの面積はオランウータン、テング猿などの絶滅の危機にある動物のための保護地で
ある。しかし地方出先機関の公認・黙認の森林伐採が進入しており、実際にリザーブされてい
るのは指定面積の1/3程であるという指摘がある。
  近年ではタンジュン・プチン公園は野生のオランウータンの保護で知られるようになった。そ
の契機は観察研究のためにアメリカから乗り込んだビルーテ・ガルディカス(Birute M.F.
Galdikas)という女性の研究者である。彼女は夫とともにキャンプ・リーキイ(Camp Leakey)に小
屋を作り野生のオランウータン研究のため生態調査を行った。 
  彼女はスワンプの多いジャングルを這いずりまわり、はじめは野生オランウータンからストー
カーと見なされて妨害を受けたが、次第にオランウータンから観察者として許容され、20年間
以上キャンプ・リーキイに定住してオランウータンの研究に没頭した。
  オランウータンへの愛情は高じて保護地を木材伐採の侵入者から守ると同時にペットとして
飼われているオランウータンを森へ戻す運動を始め、自宅がオランウータンのリハビリ・センタ
ーになった。研究、飼育者への説得、政府機関への陳情、育児(自分の児と数頭のオランウー
タン)とまさに八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍である。⇒オランウータンの孤児?
  ビルーテ・ガルディカスは20年以上のオランウータンとの付き合いから『Reflection of Eden 
日本語題 オランウータンとともに』という本を書いている。
 原題の『エデンの反映』のエデンとはユダヤ神話によれば人類の始祖であるアダムとイブが
住んでいた楽園である。それから人は火を起こし、道具を作り、武器を作り、戦争をし限りなく
悪の道へ転落していった、とエデン時代の人類をオランウータンの世界に見た人である。
  今日、タンジュン・プチン公園のキャンプ・リーキイは交通、施設も改善され、野生のオランウ
ータンを観察できる観光スポットになっている。オランウータンが人間から感染しないように健
康検査を実施し、人数を限定して観光客に開放している。
  野生のオランウータンが自分が育った施設へ食料の補給もかねて遊びにきている。そこから
先はオランウータンの気分次第であるが、観光客と握手したり手をつないだりした写真をとっ
たりできれば観光客は満足して帰る。
  そもそも野生動物の保護と観光は際どいバランスの上にある。世界が認めるオランウータン
の最高権威者であるビルーテ・ガルディカス博士は野生のオランウータンを直に知ってもらうこ
とはエデンの時代の遠い親類への愛情となり、彼らを絶滅の危機から救う途であると確信して
いる。
  ⇒地図、注釈と資料-191  ⇒071.オランウータン

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192.バリト河流域

 近代にいたるまでカリマンタン島は人口の希薄な未開の地として放置されていた。しかしこの
カリマンタン島にも有力な王国が栄えていた。現在の南カリマンタン州の「バリト(Barito)河」流
域一帯で、そこにはバンジャル(Banjar)人が割拠してバンジャルマシン(Banjarmasin)王国を
形成していた。
 今日も南カリマンタン州はよく拓けており、広大なカリマンタン島の中では見落とすほど面積
の小さい州であるが、人口は多く人口密度はスマトラ島の平均値並みである。近年では森林
資源利用の合板などの工業が盛んである。
 州都バンジャルマシンは人口 53 万 5000 (1996年)であり、バリト河の支流マルタプラ
(Martapura)川に臨み,河口から 38kmの地点にある。バリト河は潮の干満を利用して外洋船
の航行が可能であり,バンジャルマシンはバリト河全流域の物資の集散地である。周辺地域
はカリマンタン島で最もよく開けた地域で道路網も整備され,米,ゴム,石炭,林産物などの集
散が盛んである。空港もあり,ジャカルタから 1 時間余で連絡できる。
 町の中を縦横に水路が巡り水上交通が発達していることから"東洋のベニス"にも例えられ
る。ただしこちらのベニスは熱帯の河川の例によりコーヒー色の水である。クロトク(klotok)とい
われるモーター付ボートが右往左往しており、ランティン(lanting)という民家が河の上に突き出
ており、河中心の生活が営まれている。
 パサル・テラプン(Pasar Terapung)という水上マーケツトが賑わうが、バンコックと異なり観光
客らしき者はあまりみかけない。⇒水上マーケット(htliono) ⇒水上マーケット
 毛色の変わった観光名所は郊外のチェンパカ(Cempaka)の宝石採掘場である。泥をすくい
上げて洗い流せば比重の重いサファイアやダイヤモンドが残る。166カラットのダイヤモンドが
採掘されたことがある。

 南カリマンタン州の住民の大半はバンジャル人である。バンジャル人の出自はダヤク人(→
624)がマレー人(→606)やジャワ人と混血したものである。マレー人の影響で改宗した熱心なイ
スラム教徒である。バンジャル語はマレー語の方言であり、隣接するダヤク語の影響は少なく
むしろジャワ語からの借用語が目立つということである。
 バンジャルマシンの農地は対岸のジャワ島からの移住した農民によって開発された。人口過
疎の地への移民にはジャワの政争で敗れた亡命者もいた。ジャワ文化の影響は強く、バンジ
ャル人の意識はジャワへの親近性が強い。
 1860年、バンジャル戦争によってバンジャル王国がオランダによって解体されてからバンジ
ャル人は東南アジア島嶼に散らばった。カリマンタン島の東部、西部のみならずスマトラ島など
の思いがけない所でバンジャル人の村を見ることができる。低湿地のスワンプ(→007)の開発
についてはバンジャル人にはノウハウがあることが、移住に積極的な民族となったようである。
⇒地図、注釈と資料-192 
 
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193.東カリマンタン州

 東カリマンタン州はマカッサル海峡に面し、面積は20万kuもあり、日本の本州に匹敵する広
さである。人口は少なく、沿岸部にマレー人(→605)、内陸部にダヤク人(→624)が棲み分けて
いた。
  18世紀頃より対岸のスラウェシ島からブギス人(→615)の東カリマンタンへの移住が顕著にな
った。オランダとの抗争によるスラウェシ島の荒廃のためブギス人の故郷を脱出して新天地に
向った。ワジョ(Wajo)出身のブギス人がサマリンダを築き、クタイ王国 (→266)も乗っ取り、東
カリマンタンはブギス人の植民地のようになった。
  過去、クタイ王国が存在していたのは金銀、宝石など貴重な物資の供給地であったからであ
ろう。現在でも東カリマンタン州は木材、石炭、LNG、石油などの資源が産出され、インドネシ
アの資源輸出のうち約1/4は東カリマンタンからといわれる。木材や石油・ガスなど豊富な資源
に基づく産業の発展で経済発展が目覚しい。東カリマンタン州は国家財政からも重要な州であ
る。⇒バリックパパンの日没
 人口増加も著しく内陸部から多くのダヤク人が沿岸部に下りてきて職をえて、そのまま居着
いているが、加えてジャワ島やスラウェシ島からの大量の移民で人口は10年で倍増し、原住民
のダヤク人やマレー人を凌駕(りょうが)しつつある。
  州都サマリンダはマハカム河口にある材木などの物産集貨の町であるが、州の最大の都市
は石油・ガス資源開発の拠点として発展してきたバリックパパン(Balikpapan)である。
 石油の開発・生産のため小型飛行機が活用されていることからバリックパパン空港はインド
ネシアで最も離着陸の多い飛行場である。現在、石油、ガスの生産はマハカム・デルタ沖の海
底に移っており、バリックパパンが開発拠点である。⇒バリックパパン市街地
  第二次世界大戦において日本は石油への渇望からバリックパパンを素早く占領した。日本
占領期間3年余りを経て反抗に転じた連合軍は1945年6月、艦砲射撃でバリックパパンを攻撃
してきた。ここに投入された連合軍はオーストラリア兵である。カリマンタン(当時はボルネオ)
島は激戦地になった。
  利あらずと見た日本軍はバリックパパンを撤退してサマリンダに集結することになった。海岸
を避けて内陸部の道を日本兵はたどった。ジャングルの中の小道は餓えと病気に倒れた敗残
の日本兵の墓標の並ぶ“死のサマリンダ街道”といわれた。⇒オーストラリア軍の進軍
  戦後、完成した115kmのバリックパパン・サマリンダ自動車道路は東カリマンタン唯一の本
格的道路である。ソ連が設計し着手したが、途中で日本が引き継いで完成した。 
 東カリマンタン州の北部のブルンガン地方はとマレーシアのサバ州に接する。ブルネイから
イスラムの影響を受けたブルンガン王国がタラカン(Tarakan)にあった。インドネシア独立とマ
レーシア対決の混乱の中で消滅した。
  タラカンは石油を産出することから、第二次世界大戦中の攻防の焦点であった。その後、石
油は枯渇したようであるが、新たに石炭が取って代わった。
⇒地図、注釈と資料-193  

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194.マハカム河流域

 カリマンタンの語源“宝石の河”は「マハカム(Mahakam)河」のことである。マハカム河は“雲
にのった豹”といわれるイラン山脈から東に流れマカッサル海峡に注ぐ。流域は昔からダイヤ
モンド、金、アメジストなどの特産品で知られていた。燕の巣、猿の胆石など中国人の渇望する
品の原産地であったため、これらの品と交換された中国の立派な陶磁器(→703)が流域のロン
グハウス(→941)無造作に置いてある。
  今日では木材が流域の最大の資源である。マハカム河口から60q遡った所にサマリンダ
(Samarinda)がある。ブギス人(→617)によって築かれた町である。サマリンダでも河幅は5qも
あり外航船の航行が十分に可能な大河である。マハカム河の流域の木材は筏(いかだ)にして
河を下りサマリンダはその集散港であった。⇒マハカム河 ⇒マハカム河
 1983年以降は木材のままの輸出は禁止(→556-7)されているので木材の搬出量は減った。
代わって木材を加工する合板工場や製材工場で賑わっている。
  歴史的に由緒ある町はテンガロン(Tenggarong)である。テンガロンはサマリンダのさらに39
qの上流にあるかつてのクタイ王国の所在地である。
 テンガロンの王宮は東カリマンタン州立ムラワルマン(Mulawarman)博物館になっている。ク
タイ王国の遺産に加えて、大層立派な建物は近年の石油、ガス、木材、石炭の資源で潤う東
カリマンタン州の経済力であろう。⇒マハカム河 Jatan HP

 東カリマンタンのサマリンダの南60kmにあるムラワルマン(Mulawarman)大学の演習林に隣
接する熱帯保護林はブキット・スハルト(スハルトの丘)と名づけられている。面積は270kuであ
る当時のスハルト大統領への表敬からの命名であろう。
  熱帯ジャングルといえど実は本当の原生林は少ない。森林火災(→742)が起きるのは東カリ
マンタンの森林が多い。人が近づける所の森は一見ジャングルに見えても焼畑農業の二次
林、三次林という。森林の伐採で人の手が奥地へ浸透していき、自然のままの本当の原生林
は貴重な存在となり、滅失することさえ懸念されるようになった。日本の援助で建てられた研究
所と宿泊設備があり、研究者が常駐している。
 インドネシアが自然林の保護地区を定めたことは、それ以外の森林を伐採する意図でないこ
とを切望したい。とにかくそこでは世界の研究者によって生態系の観察、熱帯林の研究がすす
められている。
  スハルト政権時代に開発の名のもとにインドネシアの森林はボブ・ハッサン(→681)という悪名
高いチュコン(→491)に伐採権を与えてしたい放題にさせた。この結果、インドネシアの原生林
は著しく減少した。ブキット・スハルトの命名は公私のけじめなど考えたこともない御人の名で
あるから、ムラワルマン大学の演習林が一族に乗っ取られてジャングル観光のビジネスになる
ことが心配されたが、1998年5月の政変による退任以降の消息(注)は明らかでない。 
注釈と資料-194  ⇒266.クタイ王国
 
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195.ブサンの金鉱

  カリマンタン島は黄金の島である。マハカム河下流のクタイ王国(→266)が黄金を寄進したと
いう碑文がある。今日も上流では土砂を河の水で洗い、ザルを手にした原始的な方法で非合
法の金の採集が行われている。⇒マハカム河の金採取
  スハルト政権の末期にマハカム河の流域の「ブサン(Busang)」で良質の大金鉱を発見された
というニュースが流れた。世界最大規模の金の埋蔵量で時価は250億ドルにもなるという発表
に世界中はびっくりしたが、カリマンタン島ならばありえそうだった。
 発見したのはカナダのカルガリーの名もない鉱山会社であり、スハルト一族(→452)の長男シ
ギットと組んでいた。ちなみにカルガリーは山師の町として名高い。金鉱の大発見の分け前に
与ろうとカルガリーの別の大物山師の会社と組んで大統領一族の長女トゥトゥットが割り込んで
きた。外国企業がインドネシアで事業を行う際にはローカル・パートナーが必要である。彼らは
貪欲(金を出さずにシェアだけを要求する)であるが、許認可を円滑に取得する効用がある。
  カナダでは山師会社同士がいがみ合いの訴訟となり、スハルト政権の大臣や官僚どもが分
け前のおこぼれに与るために右往左往した。
 スハルト大統領の家族の中でもいがみ合いとなり、これまでと異なりティエン大統領夫人
(→451)も収拾できなくなり、家族の執事のような役割を果たしてきたボブ・ハッサン(→681)
調停を頼んだ。⇒強欲親娘
  ボブ・ハッサンの調停案は、利権の半分はスハルト大統領のヤヤサン(→748)の取り分とし、
残りを家族に分配分した。ボブ・ハッサンの取り分は忘れずにある。
 実際の金の採掘はカナダの山師を排除してフリーポート(→534)社というアメリカの鉱山会社
にやらせするというものである。フリーポート社はイリアンで銅採掘を行っており、環境破壊と人
権蹂躙の悪名で知られていた。
 いよいよ事業化に乗り出す段になってとんでもないことが分った。金の含有量の多いブサン
の試掘サンプルは紛い物という疑いが出た。確認のためサンプルの責任者であるフィリッピン
人の鉱山技師を連れて現地へ行くヘリコプターからその技師はジャングルに墜落死した。死因
は自殺ということになっている。
 サンプルは偽物であることが明らかになり、過熱したブサンの金騒動は一度に覚めた。とこ
ろが元の山師の会社は既に高値で株式を売却していた。馬鹿を見たのは何が何でもと鉱山会
社の株を争って買った連中である。
  “捕らぬ狸の皮算用”で欲の皮のつっ張ったスハルト大統領一家が恥をかいたのはいうまで
もない。その後、体験学習の成果としてインドネシア政府は外国企業の鉱山プロジェクトの申し
出は以後、厳重に審査することを言明した。インドネシア人はブサン金鉱の話を忘れたがって
いるが、スハルト大統領時代の寓話(ぐうわ)として記憶にとどめたい。
注釈と資料-195  551.金銀銅

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196.ダヤク人のアポカヤン

 オラン・ウル(orang ulu)とは「上流の人」という意味であり、河の上流のカリマンタン山地のダ
ヤク人支族の部族からなる原住民はオラン・ウルと総称される。カリマンタン島の中央の「アポ
カヤン(Apokayan)」はカヤン族、クニャー族、カジャン族等の故郷である。これらの部族は封
建身分制度を維持していること、ダヤク文化を墨守(ぼくしゅ)していることで知られる。
  アポカヤンはマカッサル海峡へ流れるカヤン川の上流の高地にある。急流と瀑布のため河
の遡行はできない。しかし一つ山を越えるとマレーシアのサラワク州、カプアス河、マハカム
河、バリト河の夫々の支流に出ることができる島の要衝である。今日では不定期の飛行機便
がある。
 始めアポカヤンにはカヤン(Kayan)族がカヤン川上流にかけて居住していたが、18世紀から
19世紀にかけてカヤン族の大勢はマハカム河流域へ移動した。サラワクに1万人、インドネシ
アに数千名が居住する。ロングハウス(→941)に居住して焼畑に陸稲を栽培する。宗教はプロ
テスタントに改宗している。⇒ダヤクの伝統衣装
  カヤン族では貴族、平民、奴隷という身分制度が保持された。奴隷は部族戦争の捕虜の子
孫である。ロングハウスは一般のダヤク人では平等主義の表われの住宅であるが、カヤン族
では中央に貴族が居住し、奴隷の居住区はロングハウスの端である。
 カヤン族の奇習はイアリングである。男も女も耳朶(じだ)に1kgばかりありそうな大きな真鍮
のイアリングをしている。イアリングというよりは分銅の重石である。耳朶が肩にまで垂れ下が
り、大きなイアリングは乳房に触れるばかりである。
 もう一つの風習は刺青(いれずみ)である。刺青は痛さに耐える男の証である。特に咽(の
ど)の刺青が痛いらしい。部族によっては首狩り(→625)の都度、刺青をふやしたという。首狩り
は1924年以降行われていないことになっている。
  ケニヤ(Kenyah)族は文化的には隣接のカヤン族と近い。初めはマレーシアとの国境アポタ
ウにいたが、カヤン族が抜けた跡のアポカヤンへ移住してきた。人口4万人であり、陸稲の焼
畑農耕を営む。ケニヤ族もピアスを行う。身分によってイアリングの穴の位置が異なる。耳た
ぶの上が貴族の証である。⇒重いイアリング
  カヤン族やケニヤ族はダヤク人の工芸品として名高い木彫り、ビーズの工芸品、背負い籠、
イカットなどが名高い。 彼らは、今、押し寄せる文明の波の中でダヤク固有の文化を喪失しつ
つある。部族が伝統で伝えてきた イアリングや刺青の文化も衰退しつつある。青年は都会の
文化に憧れてロングハウスを出て、川を下ったきり帰ってこない。
  アポカヤンの人口は減っているが、かろうじてダヤク文化が維持されている所である。アポカ
ヤンを訪れた人が“桃源郷”のように報告している。ダヤク文化を訪ねる観光ツアーが本格化
しそうである。
注釈と資料-196  624.ダヤク人

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B-7 カリマンタン島(注釈と資料)
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