B−8章 スラウェシ島

197.K字型の島 198.スラウェシ島の人文地理
199.南スラウェシ半島 200.旧名ウジュン・パンダン市
201.ロッテルダム要塞 202.ボネ/ブギス人の故郷
203.秘境タナトラジャ 204.トラジャ・コーヒー農園
205.バダ谷の石像 206.K字中央のポソ湖
207.ミナハサ半島 208.マナド市
209.ブトン島

B−8.スラウェシ島(注釈と資料)
B−1スマトラ島 B−2西部ジャワ B−3.中部ジャワ B−4東部ジャワ B−5ジャカルタ
B−6バリ島周遊 B−7カリマンタン島 B−8.スラウェシ島 B−9ヌサトゥンガラ列島 
B−10マルク諸島 B−11新パプア州



B−8 スラウェシ島

197.K字型の島

  「スラウェシ(Sulawesi)島」の面積は19万kuでインドネシア第4位の大きさの島であるが、複
雑怪奇な地形はK字型に例えられる。東南アジア多島海の十字路のようにも見える。この辺は
《ヒマラヤ造山帯》と《環太平洋造山帯》の地球を覆う表皮の皺取り個所であるため、島はねじ
れて変形し海岸線は長い。また、周りの海も深く、海底の地形を表す濃淡の色取りは込み入っ
ている。活火山は11あるが、北スラウェシ半島に集中している。島全体は急峻な山岳地形で平
地は少ない。最高峰ランテマリオ(Rantemario)山は非火山で3455bであり、3千bの稜線が
5kmも続く。⇒スラウェシ島の山岳   ⇒複雑な海岸線
 スラウェシ島にはアジア系とオーストラリア系の両系統の動物が共存している。数からはアジ
ア系が優勢であるが、黒クスクスのようなオーストラリア系の有袋類がいる。生物学者のウォ
ーレスはバリ島とロンボック島の間にある動物相の差異からウォーレス線(→080)の延長を島
の西のマカッサル海峡に引いたが、さらにスラウェシ島の動物相を調べウォーレス線を島の東
側に引き直した。
  ウォーレスを混乱させた複雑な生物相については島の形成過程に起因する。スラウェシ島は
250万年前頃にスンダ(アジア大陸)棚とサフル(オーストラリア大陸)棚の別々の棚の島どうし
がぶつかって一つの島になったと推測される。
  その後の地球の歴史に繰り返された氷河期に水位が下がってもスラウェシ島は再び大陸と
陸続きになることがなかった。大陸から隔離されて孤立していたため独特の動物が見られる。
127の在来哺乳類のうち79種はスラウェシ島固有種である。これは虎や豹のような大型肉食獣
がいない閉鎖環境で独特の進化をしたためである。スラウェシ島の生物相はカリマンタン島よ
りフィリッピンや小スンダ列島やマルク諸島との方に相対的に近い。
 スラウェシ島で特に有名なバビルサ(babirusa)はインドネシア語のバビ(豚)・ルサ(鹿)で「豚
鹿」の意味である。イノシシ科の動物であるが、犬歯が発達した牙が顔面の皮膚を破り顔から
突き出している。これが角のように見えるので角のある猪である。見かけは獰猛(どうもう)そう
であるが、実はおとなしい草食動物である。⇒バビルサ
 アノア(anoa)という体調1b弱の犬の大きさの水牛はスラウェシ島にしかいない生きものであ
る。離島では大きい動物は小さくなるという“島の規則”(→067)がある。
 ウジュン・パンダンから北東40kmのバンティムルン(Batimurung)は蝶の愛好家には垂涎(す
いぜん)の地として知られた清流の谷である。乾季にも水の絶えない滝や鍾乳洞がある水辺に
多種の蝶が群がっている。しかし蝶の採集家に加えプロの販売業者が乱獲したためウォーレ
スが紹介した当時は270種いた蝶が約半分になっていると警告が出されている。

地図、注釈と資料-197  ⇒016.スンダ棚とサフル棚

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198.スラウェシ島の人文地理

  スラウェシ島は植民地時代には「セレベス(Celebes)島」と呼ばれていたが、インドネシア独立
後、「スラウェシ(Sulawesi)島」に改名された。スラウェシの〈wesi〉もセレベスの〈bes〉も「鉄」の
意味で両方とも語源(注1)は同じである。ボネ湾の奥のルウ(→202)に鉄鉱山があった。
 南スラウェシ半島と北スラウェシ半島を除くと概して地形は急峻であり地味はやせており農業
生産力も低い。山中にトラジャ人(→618)の居住する桃源郷のような所もあるが、島全般に過
疎であることから中部や東部では移住政策(→724)によって移住してきたジャワ人やバリ人が
目立つようになった。⇒トラジャ人の故郷
 スラウェシ島は地形がねじれて複雑であるがごとく、そこに住む民族構成も多岐多様である。
島の民族の数は40〜50にも達するといわれる。
  海岸部のあちらこちらには港を拠点に移住してきたイスラム教徒のブギス人(→615)やブトン
人(→209)が多い。外部勢力からの侵略を逃れるため古くからの民族は山中に逃げ込み、多く
はキリスト教に改宗している。中にはワナ族(→206)のような未開の民族もいる。
  半島であっても稜線の両側には各々別個の民族が陣取り、海路で対岸との関係はあるが、
山脈で背中合せの住民との間は没交渉というのがスラウェシの民族のあり方である。
 道路ができるまでは海だけで外部世界と接触していたので港は独自の文化を保持していた。
例えば北スラウェシ半島の先端のミナハサ地方はキリスト教であり、同じ半島の中央部のゴロ
ンタロ地方はイスラム教である。
  実質的には各地域が近隣諸島との海上交易を中心にした個別の経済圏を構成している。島
の西側はカリマンタン島と、北側ではマルク諸島やフィリッピン方面と、南部ではヌサ・トゥンガ
ラ諸島とのつながりが大きい。
 島の大半が急峻な山岳地形であり陸上交通のインフラは貧弱である。住民の意識は陸とし
ての連帯の感覚は生じない、一つの島というより全く別の島が地形の方の都合でたまたま繋
がっているという感がある。島が道路によってスラウェシ島がウジュン・パンダンからマナドまで
縦断して繋がったのは比較的最近(注2)のことである。⇒海辺の造船所
 スラウェシ島の歴史において全島の統一政権が生じたのはオランダによる植民地支配であ
り、それを引き継いだインドネシア国によってである。
 人口ではジャワ島、スマトラ島に継ぐ第三の島であるにもかかわらず、島のまとまりの無さの
ため中央政権からの距離は遠かった。インドネシア独立運動においてもキリスト教徒の多い地
域は温度差があった。
  ところがスハルト大統領の後任にハビビ大統領(→454)が就任した。始めてのスラウェシ島出
身者の大統領である。本人は再選を期待したが、結果的には暫定政権でしかなかった。ハビ
ビ大統領にスラウェシ島全島の強い支持があったわけではないが、再選されなかったことにス
ラウェシ島民にわだかまりを残した。

⇒地図注釈と資料-198  

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199.南スラウェシ半島

  K字型のスラウェシ島の西南(左下)の南スラウェシ半島の面積は島の20%であるが、人口で
はスラウェシ島の70% が南スラウェシ半島に集中している。
  南スラウェシ半島はインドネシア有数の豊かな米作地帯であり、島の中では例外的に豊かな
土壌の平地であって人口密度が高い。ウジュン・パンダンの後背地はロンポバタン
(Lompobatang=膨れた腹)山麓の穀倉地帯である。ロンポバタンが豊作であるとスラウェシ島
のみならず東インドネシア全体が安定する。村は豊かな感じの高床式(→792)住宅が見られ
る。垣間見る農家の構えも立派であり、昔も今も裕福な地域(注)である。水田、畑、カカオの
森が次々と現れる。⇒南スラウェシの農村
 地図で見ると半島は緑一色の単純な地形に見えるが実際の光景は変化に富んでいる。マロ
ス北方は隆起サンゴ礁の台地の山脈がり、中国の桂林のような景観が見られる。インドネシア
の農業密度の高い所は火山の所在地であるが、南スラウェシ半島も火山系らしいが死火山で
現役の火山はない。
 半島の内陸部は高地であり気温が低く避暑地になっている。ウジュン・パンダンに近いマリノ
(Malino)はオランダ時代に開発された高原リゾート地である。マリノには日東紅茶で知られる
三井農林の茶のプランテーションがある。ウジュン・パンダン沖のサマロナ(Samalona)島は珊
瑚礁と白浜で知られる海のリゾート地である。⇒マリノ高原
 マカッサル海峡に沿う海岸線もまた白浜、マングローブ、養殖池、塩田、造船所と変化に富
んでおり、海岸の多くはエビ養殖池に転換されている。途中パンカイェネ(Pangkajene)はゴワ
王国に統一される以前の小王国の所在地であった。
  半島中央部のマカッサル海峡に面する港町パレパレ(Pare Pare)はスパ(Suppa)王国の所
在地であった。現代史ではハビビ元大統領の出身地である。
  南スラウェシ州の特色ある地場産業は造船業である。海洋民族の地盤であるだけにピニシ
船(→854)を作る造船所の村が点々としている。半島の南端部にあるタナベル(Tanaberu)海
岸には椰子の林の中に木造船の工場が延々と続く。
  スラウェシ島への人類の移住も早かったようで半島中央部に先史時代の洞窟壁画のマロス
(Maros)遺跡がある。石灰岩からなる洞窟の壁面にスプレイで吹き付けたような呪(まじな)い
らしい手形や動物が鮮やかである。約3万年前のトアラ文化(→205)といわれる先史文化であ
り、スラウェシ島最初の人類の痕跡である。一部は公開されており、近くの蝶々と清流で知ら
れるバンティムルンとの組み合わせの旅行が楽しめる。
  南スラウェシ半島に有力な民族が割拠している。半島の南端にマカッサル人(→616)、東側の
ボネ湾沿いにブギス人(→615)、付け根部分の西側にマンダル人、付け根部分の山岳部にトラ
ジャ人(→618)というのが南スラウェシ半島のおよその民族の住み分けである。
 2004年マンダル(Mandar)人の居住する地域が西スラウェシ州として南スラウェシ州から分離
独立した。州都はマカッサル海峡に面するマウジュ(Mamuju)である。
                                       ⇒地図、注釈と資料-199  

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200.旧名ウジュン・パンダン市
(ウジュンパンダン市)

  「ウジュン・パンダン(Ujung Pandang)」のウジュンは「岬」、パンダンは「松」の一種である。ウ
ジュン・パンダンの位置はスラウェシ島のK字の左下の最先端で陸から辺鄙(へんぴ)であって
も海からは西にジャワ海、東にフロレス海、北にマカッサル海峡、南にロンボック海峡とまさに
インドネシア海域の中心である。
  独立戦争時代にオランダに捕らえられた民族主義者が獄中から友人への思いを作詞作曲し
た『アンジン・マミリ(anging mamiri)=微風の町(注)』はインドネシア全土に紹介され、ウジュ
ン・パンダンは"微風の町"と言われるようになった。絶えまない微風は帆船航海の絶対必要条
件であり、海路の町のシンボルであった。⇒ウジュン・パンダン
 地政学における位置の重要性は航空時代においても同じである。ウジュン・パンダンは人口
120万人とインドネシア第7番目の大都市である。南スラウェシ州の州都であるのみならず、東
インドネシアの中心都市として人と物の流れはウジュン・パンダンを経由する。
 「マカッサル(Makassar)市」の名は1971年にウジュン・パンダンに改名された。マカッサル、ブ
ギス、マンダル、トラジャの多民族の州都として中立の名が選択されたようである。ただしマカ
ッサル海峡、マカッサル港はそのままであった。⇒ウジュン・パンダン港
  しかしながらハビビ大統領になって1999年にまた元のマカッサルに戻された。ウジュン・パン
ダンの地名には住民感情の機微(きび)があったのかもしれない。為政者が都市の名前を変
更しても定着するには時間がかかるだろうから本書ではウジュン・パンダンで通しておく。

 かつてこの地にはゴワ王国(→267)が支配していたが、香料貿易の支配をめぐりオランダ東
インド会社VOC(→272)との戦争で破れた。ゴワ王国全盛時代の王が16代ハサヌディン王で
ある。VOCと戦ったということでインドネシアの英雄である。従ってウジュン・パンダンにはハサ
ヌディン空港、ハサヌディン大学等々がある。
 ゴワ王国の残党が立ち上がる都度、VOCは王国の遺産を徹底的に破壊し、再建後はオラン
ダ風の町になった。以降は世界各国からの商人が訪れるコスモポリタンの町として栄えた。従
ってウジュン・パンダンは現在もヨーロッパ風の町並みが残る美しい町である。日本人観光客
は少ないが、欧米の観光客に人気がある。⇒マカッサル海峡の日没
 ウジュン・パンダンの最大の見物(みもの」)はマカッサル海峡に沈む夕日である。ロサリ
(Losari)海岸からの夕日は絶景であることで知られる。夕方になると海岸にゾロゾロと人が集
まってくる。プンヒブール(Penghibur)通りにはワルン(→858)が並ぶ。 
 海峡に沈む真っ赤な夕日に雲が染まる。海面は黄金の波が揺らぐ。釣瓶(つるべ)落としのよ
うにあっけなく太陽は水平線の彼方に消える。残照を受けた赤色の雲もピンクになり、やがて
色は消えて熱帯の一日が終わる。
⇒地図、注釈と資料-200 616.マカッサル人

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201.ロッテルダム要塞

  「ロッテルダム要塞」はゴワ王国の砦跡に築かれ、マカッサル海峡を臨み港とウジュン・パン
ダン市内を見渡す要衝にある。VOC(→272),オランダ植民地時代の支配の中枢であり、オラン
ダ人は要塞を堀と幅2m、高さ7mの壁で囲み、当初はその中で生活した。
 かつては海に面していた要塞も埋めたてられ、海から50mも内陸になる。ウジュン・パンダン
の発展とともに壊されて今日では要塞の壁は一部を残すだけである。敷地は公共建物用地と
なり、オランダ時代の建物が博物館(注)など文化施設に転用されている。⇒博物館
 要塞の中に反乱を起こしジャワ戦争(→277)を戦ったディポヌゴロ王子(→340)がオランダ植
民地政庁に捕えられて晩年の26年間にわたって幽閉された建物がある。子孫が市内に生存し
ているという。郊外にある彼の墓は今日もお参りの人は絶えない。ロッテルダム要塞はウジュ
ン・パンダン有数の旧跡だけに観光資源として活用が計画されている。
 ところでロッテルダム要塞の名前はいうまでもなくオランダ時代の命名である。独立前のオラ
ンダ領東インドの各地にはオランダにちなむ命名がありふれていた。独立後はインドネシア語
に改名され、ロッテルダム要塞もウジュン・パンダン要塞と改名された。しかしウジュン・パンダ
ン要塞よりロッテルダム要塞の方がとおりがいい。⇒ロッテルダム要塞
 見方を単純化すればインドネシア独立戦争は【ジャワ・スマトラ島連合軍×ニカ(オランダ植
民地政庁)】の戦いであった。その時スラウェシ島は心情的にはインドネシアを支持したが、蚊
帳(かや)の外で高見の見物をしていた。スラウェシ島にとってインドネシアの独立とは支配者
がオランダからジャワに変わるだけという意識が払拭(ふっしょく)しえなかったのであろう。
  独立後、ジャワ島やスマトラ島ではオランダにちなむ命名はすべて徹底的に破棄された。そ
の中でスラウェシ島のロッテルダム要塞だけは何故か昔のままで通用する。たかが要塞の一
つの名前にすぎないが、インドネシアの複雑さを反映していると思う。

 ゴワ王国当時はウジュン・パンダン南郊のソンバ・オプ(Somba Opu)が王国の中心であっ
た。今日では内陸部に後退し海から距離があるが、当時は香料の集散地としてソンバ・オプの
港名は世界に知られていた。幅20mの石の遺構が残っているだけであるが、開発という名の
破壊に対して保存が叫ばれている。
 ソンバ・オプから川を遡った所のカレ・ゴワ(Kale Gowa)に由緒あるモスクとゴワ王族の墓が
ある。16〜17世紀の宮殿の所在地でもあり、古い墓は1605年のものがある。最も有名なの
はハサヌディン王(→267)のものである。
 奇妙なのはゴワ王国のライバルであったブギス人のボネ王国アル・パラカ(→268)王の墓もあ
ることである。アル・パラカ王は自分の墓地をボネの故地でなくゴワ王族の墓域に割り込んだ。
ゴワ王国を破った王の意識は南スラウェシ半島の統一者であったことらしいが、気分を害した
マカッサル人によって破壊されたことがあるらしい。

⇒地図、注釈と資料-201  ⇒267.ゴワ王国

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202.ボネ/ブギス人の故郷

  K字型スラウェシ島の下の二つの半島に挟まれたボネ湾一帯がインドネシアのみならず東南
アジア各地に進出しているブギス人の故郷である。南スラウェシ半島中央部のボネ湾に面する
ボネ(Bone)県、ワジョ(Wajo)県は平野に恵まれ人口密度も高く、水田耕作以外に漁業、養殖
業、マングローブ林業、塩業を行っている。
  ボネ県のワタムポネ(Watampone)は旧名ボネが改名されたものである。乱立するブギス人
王国を統一しゴワ王国を倒し、南スラウェシ半島に覇権をうちたてたボネ王国の所在地であ
り、アル・パラカ王の彫像が建っている。⇒ワタムポネの街
  アル・パラカ王はインドネシア正史では国賊扱いであるが、ボネではブギス人の英雄である。
ボネ、ワジョ一帯にはボネ王国に統一以前に分立していた小王国の遺跡が散在している。
 当初、ボネ王国とオランダ東インド会社VOC(→272)はマカッサル人のゴワ王国(→267)を共
通の敵とすることから同盟してゴワ王国を打ち破ったが、その後はボネ王国の勢力が拡大し
たため、VOCはボネ王国を警戒するようになった。
  1859年、オランダの意に従わないボネ王国は攻撃されボネの町は徹底的に破壊された。一
旦、ボネ王国は廃絶されたが、1930年にオランダによって復興が許可された。ワタムポネに再
建された王宮は木造の高床式の堂々たる建物であり、マラッカ(→032)の王宮を模した博物館
と似ている。
 南スラウェシ半島は石灰岩台地があり鍾乳洞(しょうにゅうどう)も多い。最大のマムプ
(Mampu)鍾乳洞には人の形をした奇妙な形の鍾乳石があり、宮廷の廷臣が王女の呪いを受
けて石になったという鍾乳石にちなむ伝説がある。
  半島中央のワジョ県の県都シンカン(Singkang)は旧王族の支援もあってブギス伝統文化を
最もよく伝えている。伝統様式の舞踊、音楽が保存されている。シンカンは近辺では養蚕業が
盛んであり絹織物で名高い。インドネシアの絹織物はシンカン製である。
  ボネ湾の最奥部ルウ(Luwu)地区は全ブギス人共通の先祖であるサワリガディング
(Sawerigading)の伝説の地である。マタナ湖に近いチェレカン(Cerekang)は古代ルウ王国の
あった所と推測されている。鉄製品が生産されていたらしい。
  ルウはブギス人の故地でありルウからボネ湾全体に広がった。しかし現在のルウでは山から
下りてきたトラジャ人(→618)が多い。⇒ボネ湾
  ボネ湾奥にあるパロポ(Palopo)は南スラウェシで最も古いモスクがある。1950年の独立戦争
(注1)終了後も南スラウェシではダルル・イスラムの反乱(→332)の指導者カハル・ムザカル
(注2)はジャカルタの中央政府に武力でもって敵対したため、長期間にわたり南スラウェシを
社会不安に陥れ、特にルウ地区に大きな被害をもたらした。敬虔なイスラム教徒が多いことが
ダルル・イスラムの土壌であった。
                          注釈と資料-202  ⇒268.ボネ王国615.ブギス人
 
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203.秘境タナ・トラジャ

  「トラジャ(Toraja)人」はブギス語で"山の人"という意味であるようにスラウェシ島の山中に
住むプロト・マレー系民族(→565)である。約100万人で水稲農耕を行う。
 タナ・トラジャとはトラジャ人の居住地域を指す。高度800mの山間の開けた所にトラジャ人の
本拠地がある。“天空の町”という意味のランテパオ(Rante pao)が中心都市である。マカレ
(Makale)が行政の中心である。⇒ランテパオ市
  南スラウェシ半島の付け根からヘアーピンカーブの坂道をよじ登る自動車道路が拓かれるま
ではトラジャ人の祖先がたどったサダン(Sadan)川沿いの徒歩道のみであった。
 トラジャで最も特徴ある光景はトンコナン(→939)という船の舳(へさき)のように反った美しい
屋根のある民家である。ランテパオから近いケテケス(Kete Kesu)村は観光地になっており、
入村料を払い保存されているトンコナンを見ることができる。
  トンコナンと米倉が整然と整列している様は写真で見慣れた光景であるが、人は住居にこれ
ほどまでにエネルギーを傾けるのかとその偉容に圧倒される。
 そもそもトラジャ人の人家は山襞(やまひだ)に隠れるように散在していたのを、オランダ時代
にトンコナンを一個所に集中させたのは税金を取りやすくする意図であったと思われるが、結
果的には今日の観光資源になった。⇒トラジャの村 ⇒トラジャ族の村

 キリスト教徒に改宗しているが、アニミズム(→696)の伝統を残すトラジャ人は今日も葬式の
ために生きるといわれる。トラジャの葬式の際には、まず遠方からの客のための宿泊設備が
建てられる。葬式の都度、立て替えられたが最近は恒久的な設備になったらしい。葬式行事
は舞踏、闘牛、トラジャ式ボクシングなどの多くの余興が数日間にわたり行われる。
 葬式のハイライトは死者に捧げる水牛の屠殺である。殺される水牛の数が死者の身分と葬
式の豪華さを表す尺度である。最近では伝統どおりの葬式があると観光ツアーが訪れる。小さ
な葬式もホテルの掲示板に案内があり観光客が訪れる。断崖の絶壁にある髑髏(どくろ)の並
ぶ墓地や死者の身代わりのタウタウ人形(→922)も観光対象である。
 タナ・トラジャは政府の厚い支援で観光の拠点とするべく道路が拓かれ飛行場もできた。観
光地として人気が高くなってきたが、伝統のトラジャ社会も急激に変貌している。
 山の彼方から望まれるトラジャ民家の風景はかつては桃源郷に着く感があったであろう。し
かし今日では車やあらゆる乗り物が行き交うインドネシアのどこにでもある喧騒の都市になり
つつある。それでも何か華やかな感じがあるのは観光都市としての側面であり、町の地図を見
るとホテルとロスメン(→852)がぎっしりとある。
 トラジャ人にはタナ・トラジャに居住するサダン・トラジャ族以外にママサ(Mamasa)トラジャ
族、バステム(Bastem)トラジャの支族があり、これら部族の集落はサダン川と別河川系の山
地にあり観光地から外れているためトラジャの伝統が原型のまま残っている。

⇒地図、注釈と資料-203  618.トラジャ人619.トラジャの葬式

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204.トラジャ・コーヒー農園

 インドネシアのコーヒーのブランド名で名高い「トラジャ・コーヒー」はトラジャ地方の産品であ
る。強い日差し、昼夜の温度差の開き、しかも平均20℃の気温、年間2000〜3000oの雨量、
肥沃な熱帯高地の弱酸性土壌が香りの良さで知られるアラビカ種の生産地に適している。
 第二次世界大戦で一時トラジャ地方でのコーヒーの生産が途絶え幻のトラジャ・コーヒーとい
われた。日本のキーコーヒー社がトラジャ・コーヒーの復活を期して、パダマラン山中に530ヘク
タールの直営コーヒー農園を経営し100万本のコーヒーの木を植えている。日本では「トアルコ・
トラジャ」のブランドで知られている。ちなみにトアルコはトラジャ・アラビカ・コーヒーのシンカタン
(→964)である。
  以下は日本から派遣された駐在員のインターネットのホームページに掲載されていたコーヒ
ー農園の様子を基に記したものである。 ⇒コーヒー農場
  日本人管理職の下の農園の作業員はトラジャの農民である。稲作との兼業者も多い。時計
も持たない農民に農園従業員としての時間厳守を守らせるために、回りに響く大音響のスピー
カーで毎日定時に時計代わりに同じ音楽を流すということである。音楽にあわせて田圃から農
園へ出勤となる。
  トラジャ人はインドネシア人の中では勤勉なことで知られる。しかし日本から派遣された駐在
員から見るとまだトラジャ人従業員には問題がある。特に男性は葬式(→619)と闘鶏(→832)
トゥアック (→837)の3つに熱中すると仕事がおろそかになる。
  男性の奮起対策として女性を特訓して男性の仕事と思われていた運転手に採用したが、期
待されていた効果は疑問であった。何故なら女房の稼ぎが良くなれば、亭主はその分だけ遊
ぶというのが大方の結果である。この傾向はトラジャ人に限らず全インドネシア人の亭主に共
通の問題である。⇒タナトラジャの景観
  トラジャ・コーヒーのブランドは厳重な品質管理によって維持されてきた。しかし従業員には日
本の会社の潔癖症ともいうべき品質へのこだわりは理解されにくい。QC(品質管理)は日本の
工業製品の質を高めた。農産品に異物が混じらない方がよい。しかしコーヒー豆の中に一つ
や二つの不良豆が混じることをも排除する日本人のパラノイア的QC病はどこまで理解されて
いるかは分からない。
 トラジャ・コーヒーは手頃なインドネシア土産である。トラジャ・デザインが施された竹筒に入っ
たものがあった。手彫りの細かな模様の竹筒はそのまま民芸品である。ところが日本の税関
の検査が厳しかった。麻薬類の新規運搬方法の疑いを受けたらしい。
  最近のトラジャ・コーヒーのお土産は機械で完璧にパックされたもので潤(うるお)いがなくなっ
た。キーコーヒー社のトアルコ・トラジャ・コーヒーは【TOARCO】と明記してある。したがって空港
の土産物店などの単なるトラジャ・コーヒーはトアルコではない。念のため。
注釈と資料-204  559.コーヒーと茶
 
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205.バダ谷の石像

  マカッサル海峡に臨むパル(Palu)は恵まれた地形にある港湾である。港湾としての適性を日
本の海軍が見つけて基地としたことからその後、急速に発展して中部スラウェシ州の州都とな
った比較的新しい町である。内陸部はカリリ(Kalili)族が占拠しており、海岸部にはブギス人が
移住してきているのが、州の民族模様である。
 パル南方のパル河流域にロレ・リンドゥ(Lore Lindu)国立公園にスラウェシ島固有の動物が
保護されている。動物もさることながら興味ある文化遺産がある。公園に近いブソア(Besoa)
谷、ナプ(Napu)谷、バダ(Bada)谷は不思議な石像の存在で知られる。村民は彼らの先祖が
来る前からあったというだけで記録的には手掛かりのない有史以前のものである。勿論、なん
のために作られたか解らない。⇒パダ谷の石像
 バダ谷の石像のパリンド(Palindo)といわれる代表的な像は4mもの大きさがある。人面は千
里の万博記念公園に聳える岡本太郎の太陽の塔の顔である。その他に猿などの動物や性器
のものもある。大きさは1~4bにわたるものがバダ谷10km四方に14個ある。制作時期は紀元
前3千年前という説もあるが、1千年前の頃のものらしい。
 謎の石造彫像の似たものはバリ島にもあるが、バリ島では他の文化遺産が余りにも多すぎ
るのであまり注意されていない。スマトラ島のパスマ高原(→101)にも石像彫像の遺物がある。
厳しい熱帯気候では多くの石像も風化し、たまたま残ったのがこれらの石像であろう。
  バダ谷の石像はたまたまスラウェシ島の辺境に残されてきたが、もとはインドネシア全体に
拡がっていた文化でなかろうか。太平洋の孤立した島々に謎の石造物があり、その中で最も
有名なのはイースター島の人物と人面の群像である。スラウェシ島の石像も広くはオーストロ
ネシア文化(→563)の基層の一環であるかもしれない。
 バダ谷の石像は日本の明日香村にある文化的ルーツの不明な猿石や性器の石像との共通
性も指摘されている。そういえばバダ谷の石像の写る背景の景色が飛鳥のたたずまいと似て
いるような気がする。
 文化的関心の高まる像であるが、石像のある地域は1年のうち9ケ月は雨季で道が難渋する
という辺鄙(へんぴ)な所である。しかもマラリアと肝炎(かんえん)の巣窟(そうくつ)であるから
観光客が訪れることは少ない。

  南スラウェシ州のマロス洞窟(→199)から紀元前6000年頃の石器が発見された。その洞窟遺
跡壁面の人の手形を吹き付けた絵やイノシシの絵は狩猟の成功の呪いであるらしい。これら
スラウェシ島の先住民の文化はトアラ(Toala)文化(注)と称されている。⇒マロス洞窟遺跡
  スラウェシ島内陸部にいる原住民はダヤ(Daya)族と総称されているが、その中に中央の険
しい山地にトアラ文化を担ったトアラ族という原住民が存在しているという説があるが、確認は
されていない。バダ谷、プソダ谷の石像とトアラ文化の関連は分からないが、後継文化かもし
れない。  
⇒地図、注釈と資料-205  700.巨石信仰

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206.K字中央のポソ湖

  K字型スラウェシ島の上部の窪みであるトミニ(Tomini)湾(注1)に面するポソ(Poso)で1999
年末以降、キリスト教徒とイスラム教徒が対立する宗教暴動が断続的に発生し、2000人の犠
牲者をだした。⇒宗教暴動の跡
 ポソ地方ではキリスト教のパモナ(Pamona)族とイスラム教のブンク(Bungku)族が共存して
いた。そこへブギス人やマカッサル人のイスラム教徒が移住してきて均衡が崩れたことで緊張
が高まった所へ扇動者が送り込まれてきた。宗教対立に加えて州都パルからの分離独立を目
指す東スラウェシ州の主導権をめぐる地域対立もからんでいる。北マルク州の騒乱(→230)と
似た構図である。
  ポソから内陸に遡った515mの高地に広さ14×36kmのポソ湖がある。四方から半島が押し寄
せて出来た中央のくぼ地であるから深さが440mもある。インドネシアに珍しいカルデラ湖でな
い湖である。この湖は世界で二番目の透明度といわれる。生物の繁茂する熱帯の地でどうし
てこれだけの透明度が保てるのだろうか。
 かつて海であったため純淡水魚がいない。漁業の振興のため鯉などの外来の在来種が持ち
こまれたためポソ湖固有のかなりの魚種が絶滅したらしい。ネス湖のネッシーのように怪獣が
いるという噂がある。長さ12m、重さ20kg、胴体が人間の胴ほどのお化け鰻(うなぎ)がいるくら
いだから怪獣がでてきても不思議でない。⇒ポソ湖 
 とにかくコーヒー色の川を見慣れた目を洗うばかりの美しい湖である。湖畔のキリスト教会の
ある風景は赤道下であることを忘れさせる。既に宿泊施設のあるテンテナ(Tentena)はスラウ
ェシ縦断のハイウェイが通過することになれば絶好の観光地点になろう。
 トミニ湾にあるトギアン(Togian)島は珊瑚礁のある海のリゾートである。東スラウェシ半島の
バンダ海側にはバンガイ(Banggai)島が過疎地のリゾート地である。
 スラウェシ島のボネ湾を囲む右側の南東半島はウジュン・パンダンなどのある南西半島と比
べると対照的である。南東半島は岩石が多く土地は痩せている。島の中央部から半島にかけ
て多くの部族が散在しているが、人口も少なく開発が遅れており、南西半島との格差は大き
い。
 過疎地であることから移住政策(→724)による移住者を受け入れておりスラウェシ島中部に
はバリ人の移住村が散見される。バリ島移住民の村は割れ門(→644)のようなバリ独特の建
築のため目立つ。
  開発が最も遅れている中央部から東部の山中にはいくつかの未開部族が存在している。そ
の一つのワナ(Wana)族は総数600人であるが、独自の言葉を話す。
 幾つかの家族が集まって非常に小さな集まりで生活している。吹き矢や弓矢による鳥や獣の
捕獲、シンコン(→560)や米を作って生活している。住居は、5〜6m四方くらいの広さで、丸木で
建て屋根は木の葉っぱで葺いている。文明からかけ離れた状態であり、ほとんど裸で暮らして
いる。カリマンタン島山中のプナン族(→663)と共通点が多い。
⇒地図注釈と資料-206 

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207.ミナハサ半島

 スラウェシ島のK字型の頂点のミナハサ(Minahasa)半島は火山が連なり、先端はクラバット
山(1995m)、ロコン(Lokon 1579m)山、ソプータン(Soputan 1830m)山の火山が列をなしてい
る。それほど高くはないが、名だたる活火山である。⇒ロコン山
  半島の先のカランゲタン(Karangetang)島のアピ・シアウ(Api Siau)山の活動がもっとも激し
い。スラウェシ島の活火山11はすべて北スラウェシ州にあり、環太平洋火山帯の最もアクティ
ブな所である。
  ミナハサ県が険しい地形にもかかわらず土壌は肥沃で農業生産力は高いのは火山のおか
げである。豊かな水田の広がりは農業で栄えている民度の良さを物語る。米はもとより、野
菜、丁子(ちょうじ)の生産でインドネシアでは有数の富裕な農村地帯である。トンダノ湖
(Tondano)は高原であるため気候もすごしやすく史跡にも富む景勝地である。加えてオランダ
時代にミナハサ人は優遇を受けたことから農村にいたるまで西欧化されている。
  ミナハサ人の心の故郷は標高700mのトンダノ湖を囲むカルデラの地域のトンダノ、トモホン
(Tomohon)という町(注1)にある。トンダノ、トモホンはマナド美人の原産地であることを両町
の学校帰りの女学生を校門の外で観察した人が確認している。ただし妙齢のマナド美人はジ
ャカルタ、スラバヤ、ウジュン・パンダンに出て行くので故郷には案外少ないらしい。
  西暦700年頃、半島にスワワ(Suwawa)という王国が存在していた。トンダノ湖の南西にワト
ゥ・ピネバトゥンガ(Watu Pinebetengan)という線刻模様の巨石がある。
 1808年のトンダノ戦争はミナハサ人がオランダに反抗したものである。その後オランダはミナ
ハサ人を懐柔(かいじゅう)し、ミナハサ人はアンボン人(→622)と並び植民地体制で特別待遇を
うけた。数少ないミナハサ人のインドネシア独立の英雄はサム・ラトゥランギ(Sam Ratulangi)
(注2)である。⇒村の境界
 マナドの近郊ロタック(Lotak)にスマトラ島のミナンカバウ風の建物(→938)がある。オランダ
に反乱したイマム・ボンジョール(→278)が生涯を終えた地であることを記念したものである。従
者の子孫により今日もミナンカバウの風俗が残存している。
  またトンダノ湖近くのカンプン・ジャワ(ジャワ人村の意)はディポヌゴロ王子(→340)がこの地
に幽閉された当時に従臣が住みついた所である。

 北スラウェシ半島の中央部のマルク海側にゴロンタロ(Gorontalo)というマナドに次ぐ港町が
ある。住民はゴロンタロ族である。この地域はかつてテルナテ王国(→269)の支配下にあったこ
とから、宗教はイスラム教である。
  2000年に北スラウェシ州からゴロンタロ州が分離独立した。キリスト教が支配的な北スラウェ
シ州の中ではゴロンタロ県の宗教がイスラム教であることの違和感があったのであろう。   

⇒地図、注釈と資料-207  620.ミナハサ人

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208.マナド市

  北スラウェシ州の州都の港町マナド(Manado)は植民地時代に拓かれた町である。スラウェ
シ島のミナハサ半島の先端のセレベス海側にある。人口は35万人の港町である。モルッカ海
側にはビトゥン(Bitung)港がある。 ⇒マナド港
  首都ジャカルタから見るとマナドはインドネシアの辺境の位置になるが、国境をこえた観点か
らはフィリッピンを睨(にら)んだ南太平洋の拠点であり、位置に恵まれた商業都市である。日本
からジャカルタ経由でマナドは遠いが、日本から直行便が運航すれば最も近いインドネシアに
なる。
  マナドの表記はManado or Menadoが使用(注1)され、日本語表記もマナド、メナド、ムナドと
ある。ミナハサの代表的都市はマナドであることからミナハサ人=マナド人、ミナハサ語=マナ
ド語のようにミナハサとマナドは同意味で使用されている。
  町にはキリスト各宗派の教会が多く、ジャワの町とは異なる雰囲気がある。近辺にはブケナ
ン島 (→042)など竜宮城のような珊瑚礁の海に恵まれた観光地がある。近いうちに日本から
の直行便が再開されるであろう。⇒マナド市街地
 マナドの語源は日本語の港(ミナト)といわれる。マナド近くのサワンガン(Sawangan)にある1
7世紀頃の外国人墓地の着物姿の彫像は日本人と推定される。鎖国令の前には多くの日本
人が東南アジアで活躍していた事実(注2)は銘記されるべきであろう。

  日本に最も近いインドネシアというマナドの位置から太平洋戦争においても攻略の拠点となっ
た。戦争勃発後の1947年1月11日、日本は海軍落下傘部隊によってマナドを攻略した。2月に
は陸軍落下傘兵はスマトラ島のパレンバン(→102)に降下した。
  パレンバンは石油の基地であり、オランダが石油設備を破壊する前に一刻も早い占領を急
いだ。落下傘部隊による急襲の現実の成果があった。パレンバンと比較するとマナド急襲には
それほど戦術的価値はありそうにないが、大きかったのは心理的効果である。
空から鳥のように降りてきてオランダを撃破した落下傘部隊は“神兵”であった。ジョヨボヨの予
言(→299)の実現の演出である。インドネシア人に与えた衝撃は大きく日本軍待望の気運が盛
り上がった。
 植民地時代にミナハサ人はオランダと癒着(ゆちゃく)していたため、独立後のインドネシアと
の関係は微妙であった。その風潮の中で生じたのが北スラウェシの反乱である。そもそもこの
反乱は西スマトラを主要舞台とするプルメスタの反乱(→378)の一環であった。
 スラウェシ島ではマナドを拠点としたためインドネシア政府軍は1958年2月にマナドを爆撃し6
月に占領した。最終的に北スラウェシの抵抗(注3)が終わったのは1961年である。それ以降
は中央とはさしたる問題は表面的していない。
  しかし仮に今後、イスラム教徒がインドネシア国体のイスラム化を目指して蠢動(しゅんどう)
するならばキリスト教徒が多数のマナド(北スラウェシ州)は微妙な存在になるだろう。
注釈と資料-208  

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209.ブトン島

  東南スラウェシ州の州都クンダリ(Kendari)は南東半島東岸にある港市である。クンダリ湾に
臨み,周囲を山に囲まれた波静かな良港をもつ。トラキ(Toraki)族の地であるが、都市では移
住してきた外来人がはばをきかせている。
  太平洋戦争中の日本人の戦記にはクンダリが頻繁に出てくる。日本軍はオーストラリアに対
抗するためクンダリに飛行場を作った。現在もインドネシア空軍の基地がある。
 「ブトン(Butung)島」はスラウェシ島の東南半島に接した島である。面積 4200ku,人口約 
25 万。南北に細長く,狭いブトン海峡を隔てて西のムナ(Muna)島と接する。そのブトン島にあ
るバウバウ(Baubau)は人口5万人余りの港町である。⇒ムナ島の闘馬
  かつてバウバウはマカッサル港と香料諸島を結ぶ海上交通の中継の要衝であり、ブトン人の
ウォリオ(Wolio)王国があった。王国はジョホールから来た女王を開祖とする15世紀にさかの
ぼる伝説がある。後にイスラム教に改宗した。
 通商を生業とし海上に勢力を拡大していたゴワ王国(→267)、テルナテ王国(→269)の強力な
王国をオランダが骨抜きにしてことから、その隙間にウォリオ王国の勢力が伸張しブトン人が
東インドネシア海域に進出するようになった。
 ブトン水道を見下ろす丘に要塞があり、珊瑚(さんご)の石積みの外壁が丘の麓を囲み、その
延長は3kmもある。インドネシア各地に散在する要塞遺跡はヨーロッパ人の建造であるが、ブト
ン要塞は土着のウォリオ王国の建造(注)という見解がある。⇒城壁の遺跡
オランダは1906年に王国を併合し名目の自治権だけを与えた。38代目の最後のサルタンは
1960年に亡くなったが、子孫は現存している。王国の遺物が博物館にある
  バウバウは西の季節風に対し安全な港である。今日も東の海に向かう小さな小型帆船の集
結地である。各駅停車のローカル線のターミナルの趣がある。
 ブトン人は200万人といわれるが、ブトンにいるブトン人は43万人で残りは他の地域に移住し
ている。マルク州への移住したブトン人は70万人もいる。
 数世代を経過しても近年のアンボン事件(→737)でキリスト教徒と対立し5万人のブトン人のイ
スラム教徒が故郷へ戻ったと伝えられる。東ティモールのインドネシア人難民(→694)にもブト
ン人がいた。
 
  村井吉敬著『ヌサンタラ航海記』は故鶴見良行門下の一行が小型船でウオーレシア(→039)
の島々をめぐる航海記である。鶴見良行著『辺境学ノート』は本人の旅日記である。鍛冶屋列
島(→872)という名からして興味ありげな島々を回航する船旅である。
  ウオーレシアの島々ではブトン人の交易船の活躍が目撃されている。ブトン人商人が持って
いく商品はパラン(parang)といわれる山刀、グチといわれる陶器製の水壷、ポリタンク、どうい
うチャンネルがあるのか日本から仕入れた古着などである。島ではコプラ、ロタン、オウム、フ
カヒレ、ナマコなどの商品と交換される。
 ⇒地図、注釈と資料-209 

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B-8 スラウェシ島(注釈と資料)
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