世界史で"香料(スパイス)諸島"として知られる「マルク(Maluku)諸島」はスラウェシ島とニュ
ーギニア島の間にある小さな島々の総称で、この地域一帯の州名である。
独立前はモルッカ(Moluccas)諸島の名が有名であったが、は現地の読みのマルク諸島に統
一された。語源の「moluk」も「maluk」も地方語の「重要な」という意味である。海の名前だけは モルッカ海のままである。
ウオーレシア(→039)といわれるアジア大陸とオーストラリア大陸の間の海に浮かぶ島々が世
界歴史において注目を集めたのは香料(→056)である。丁子(ちょうじ)はハルマヘラ島沖のテ ルナテ島、ティドレ島、モティ島、マキャン島と連なる小島が原産地である。肉ずく(ナツメグ)は 南のバンダ諸島が原産地である。いずれもこの地域にしか産出されない天の恵みの特産物で あった。⇒テルナテ島
香料諸島という優雅な呼び名は広い意味ではインドネシアの島々の全体をさす美称でもある
が、狭い意味では香料の中でも特に貴重な丁子とナツメグの採れるマルク諸島の中のさらに 限られた島々が正確な意味での香料諸島である。
この香料を求めて、1522年ポルトガル(→270)に続き、以降ヨーロッパ諸国が香料貿易の支
配権をめぐって鎬(しのぎ)を削ったが、最終的にオランダが制覇して今のインドネシア地域が オランダ領東インド植民地へと拡大するきっかけとなった。世界史の桧舞台に登場し香料で脚 光をあびたのは少数の島々であり、今日では歴史の彼方に埋没している。
その他の多くの島も含めてマルク諸島は一般に地形は険しく平地がなく米の生産ができない
ためサゴヤシ(→770)を主食にしている。住民の生活はこの数百年あまり変化もなく、現在では インドネシアの経済発展の中で取り残された後進地域である。⇒アンボンの町
モルッカ海、セラム海、バンダ海、ティモール海、アラフラ海にある島々からなるマルク州の陸
地面積に対して、海域の拡がりはカリマンタン島全体に匹敵し、広大な領域に拡散する島々に は幾多の民族、部族が割拠している。
住民の宗教はプロテスタント、カトリック、イスラム教、アニミズムが混在している。あえていう
ならば王は同じ龍の卵の一つというビクサガラ(Bigusagara)神話が地域共通の文化であった。
そこへ近年になってジャワ人やブギス人(→617)、ブトン人(→209)の移住があり、住民間の緊
張が高まった。最近のアンボンに端を発した宗教対立による暴動(→737)はマルク州のあちこ ちの島に飛び火をした。地域毎(島毎)に宗教事情が異なり、複雑な地域事情が問題の背景 にある。北部が北マルク州として1999年分離独立した。
現在の位置
「アンボン(Ambon)島」はセラム島の影のような位置にあるので見つけにくい。島の大きさも
48km×28kmの佐渡島程度であり形も似ている。香料の原産地でもないアンボンが恵まれてい たのは港である。奥深いアンボン湾にアンボン港があった。
またアンボン島の位置はモルッカ海とバンダ海の接する所であり、モルッカ諸島の丁子、バ
ンダ諸島のナツメグの両方の生産地の中心として香料貿易のセンターとして発展した。今日も 東インドネシアの交易センターである。⇒アンボンの町 ⇒アンボンの町
マレー人やマカッサル人に加え中国、インド、アラビアの商人に続き、ヨーロッパから最初に
ポルトガル人が来た。続いてこの地へ来たオランダとイギリスがアンボンの支配を巡って争っ た。1623年に起きた「アンボン事件」とはオランダがイギリスをこの地から放逐するための謀略 であり、オランダの強攻策に屈したイギリス側は香料貿易から手を引くことになった。
その後、香料貿易は衰退したが、オランダにとってアンボン人という植民地支配に必要な兵
士や警官などのマンパワーの供給地になった。“傭兵”が主生業になり、オランダの植民地支 配においてアンボン人は特殊な位置を占めた。
マルク諸島はマレー系(→563)とパプア系(→626)の人種混合地帯である。散在する島々に小
集団の部族が割拠していた。この中で香料を産出する数カ所の島だけが、周りの島とは特異 な変遷をたどってきた。その代表が狭い意味のアンボン人である。
当初はポルトガルの影響でカトリックに改宗したアンボンの住民であるが、オランダ治世にな
ってからはプロテスタントの影響の方が強くなった。
近年の日本とアンボンの関わり合いは太平洋戦争である。アンボンは太平洋戦争の開始直
後と終了直前と二度の戦禍を被っている。歴史的に由緒ある町であるが、空襲で破壊された ために往時を偲(しの)ぶ建造物は少ない。⇒ヴィクトリア要塞
アンボン有数の歴史的遺産は香料戦争の頃のヴィクトリア要塞であり、軍隊の駐屯地として
現役であり、植民地宗主国に代わりインドネシア軍が治安のためにいる。広場には愛国者パ ティムラ(→226) の像がある。高台にはオランダに反乱したチアハフ(Tiahahu)の像がある。チ アハフは父の遺志を引き継ぎオランダに反抗した女性である。
1999年2月、アンボンでキリスト教徒とイスラム教徒の対立から60名が殺害され、町が破壊さ
れる事件があった。ローカルの問題に見えるが、インドネシア全土の宗教不寛容の時代の始 まりであり住民の表情は戦地のように厳しくなってきた。
かつてアンボンは"アンボン・マニセ(=アンボンの平和)"といわれたように多くの民族が平和
に暮らす島であり、街角からは軽快なリズムのアンボンの歌が流れていた。ラグラグ会(→891) で人気の高い『アヨ・ママ(ayo mama)』『ノナ・マニス(nona manis)』『ゲペ・ゲペ(gepe gepe)』な どはテンポの爽快なアンボンの歌である。
現在の位置
東インドネシアの拠点であるアンボン島のに覆い被さるような格好で「セラム(Seram)島」が
ある。小さくても拓けたアンボン島と大きいが遅れたセラム島と対照的である。しかしアンボン 人はセラム島を“母島”として畏敬している。
セラム島は東西に細長く延び,セラム海峡によりアンボン島と隣接する。面積約 1 万 8000k
uは四国と同じ大きさである。島の人口約 11 万人、行政の中心は北岸のワハイ(Wahai)であ る。地形は山がちで東西に山地が走り,最高点はビナイヤ山(Binaija 3055m)がある。南西部 海岸には多くの湾入があり、山地は密林に覆われる。
アンボン島から距離は近いにもかかわらず地形の険しさのため未開発であったが、近年にな
って手付かずの森林資源開発のためアンボン島対岸のワイサリサ(Waisarisa)にジャヤヤンテ ィ・グループ(→507)の大規模な合板工場が稼動している。100haの敷地に5000人が働いてい る。
セラム島の原住民はプロト・マレー系(→565)のメラネシア的要素の濃い「アルフル(Alfur)族」
である。山中に住むためオラン・グヌン(=山の人)といわれる。海岸には他民族も混住する。 言語的にはオーストロネシア語群(→563)のアンボン・ティモール語系に属する。
一般にスラウェシ島東部からマルク諸島の内陸部に住む土着民は全てアルフル族といわれ
る。アルフルの語源はポルトガル語の「森の人」という意味である。アルフル族とはイスラム教 徒でない人びとをよぶ総称で野蛮人のニュアンスがある。⇒アルフル族
一例を引用すると,アルフル人はときとして病人を他の家に移し,一方,病人の寝床の上に
は枕と着物でこしらえた人形を残して置く。悪魔はこの人形を病人と思い誤り,その結果として 病人は癒えるというのが、アルフル族の治療法である。
セラム島の南側にアンボン島から東にハルク(Haruku)島、サパルア(Saparua)島、ヌサラウ
ト(Nusa Laut)島という美しい島々が続く。
マルクの英雄パティムラ(Pattimura 1783?-1817)はサパルア島の出身のキリスト教徒で英
国の傭兵であった。英国統治からオランダに返還される混乱に乗じて反乱しサパルア島の砦 を占領した。⇒パティムラの像
パティムラとは「やさしい人」という意味のあだ名で本名はトーマス・マツレシイ(Thomas
Matulessy)という。あだなの由来は捕らえたオランダ兵を処刑にした際にオランダ指揮官の子 供を首狩り族の部下から守ったからである。
サパルア島のパティムラの反乱は小規模であり、他島に影響があったわけでもない。しかし
オランダは捕らえられアンボンへ連れてこられたパティムラはヴィクトリア要塞の前の広場で処 刑されることによって全マルクの英雄になった。アンボンの飛行場、大学もパティムラの名が付 せられている。
現在の位置
「ブル(Buru)島」はバンダ海にある面積9600ku,人口約 2 万の島であり、アンボン港から8
時間かかる貨物船が唯一の交通手段である。兵庫県と大阪府を併せた広さで大きいといえば 大きいが、インドネシアでは数多くある島の一つにすぎない。ある時までは多分、名を知られる こともない島であった。⇒ブル島の原住民
1965年の9月30日事件(→384)の反動で共産党は徹底的に弾圧された。共産党員でなくて
も同調者を含め大量の政治犯を生み出した。幹部は処刑されたが、連座した共産党員とシン パは裁判もなくタポル(注1)としてブル島に送られた。その数は1万人以上であったといわれ る。以来、ブル島は悪名高い“監獄島”であった。
内陸は密林に覆われ、海岸線は一般に単調でサンゴ礁に囲まれ,安全な錨地に乏しく、住
民は内陸部にアルフル系が居住し、海岸部には付近からの島から移住民が散在する程度で ジャワ人にとっては異境の人々であった。
文学者のプラムディア・アナンタ・トゥルもブル島に送られた。そこで生まれた大作が『人間の
大地』4部作(→975)である。初めは物語を口頭で同室の者に語った。貴重なタイプライターか ら紙一枚を惜しんで執筆された。世界的に名を知られていたプラムディアだけに与えられた特 別待遇である。⇒ブル島でのプラムディア
収容所建物の中の生活は自由であったが、島を出ることはできないので島全体が監獄であ
った。収容者が苦しんだのは餓えと病気である。食料の配給も十分でなく自活のため開墾させ られたが、都会のインテリ出身者にきつかったことはいうまでもない。監視兵の食料の生産も 囚人に割り当てられた。
囚人は未決状態で将来の見通しもないままほっておかれた。反抗する者は穴を掘った井戸
の特別の檻(おり)に入れられ迫害された。スハルト体制の人権無視が欧米の新聞で報道され 国際世論の非難をあび、政治犯は徐々に釈放され、最終的に1979年に監獄は廃止された。 釈放されても身分証明書には元政治犯の記号「ET」が明記されているので就職も差別され た。収容以来、家族とも縁が切れ、十数年のブランクは埋め戻すべくもなく釈放されても故郷 へ戻らずにブル島に残留した者もいるという。
ブル島の収容所の跡にはジャワ島からの移住者が入植している。釈放され喜んで故郷に戻
る知識階級がいる一方、その島へ自発的に移住してくる貧しいジャワ農民もいるのがインドネ シアの実態である。
プラムディアがブル島で書き溜めた中から慰安婦の物語(注2)が発表された。日本の占領
中の1944年に200人あまりのジャワの女性がブル島に送られ、地下要塞の工事にあたってい た男達の性の犠牲になった。ブル島に残留していた女性からの聞き取りである。
現在の位置
丁子(→056)の原産地である「テルナテ(Ternate)島」とティドレ島は世界地図はおろかインド
ネシアの全体図でも探しても芥子粒(けしつぶ)のような存在である。各々島の直径6q、面積 30kuという火山島であり、日本でいえば桜島と同じ程度である。⇒テルナテ火山島
海の中から突き出しているようなテルナテ島の中央のガマラマ山(Gamalama 1721m)は活火
山であり、5百年に70回以上の噴火を数えている。
ハルマヘラ島沖に点在するテルナテ以下の島々が丁子の原産地の島で、もともとモルッカ諸
島といわれた。そのモルッカ諸島の名前が地域全体に拡大したものである。
丁子という特産品の経済力でもってテルナテ王国を築いていたが、貪欲なヨーロッパの航海
者が丁子を求めてこの地へきた頃は、丁子の販売を独占するテルナテ王国は丁子の財力を 基にして東インドネシアに覇権をとなえた。
しかしその後はポルトガル、スペインに続き英国、オタンダが現われ、ヨーロッパ諸国の入り
乱れる戦いとなり、王国自体が翻弄(ほんろう)された。最終的にはオランダが勝ち残り香料貿 易を独占した。
丁子の原木もオランダ東インド会社の厳しい管理をかいくぐって持ち出され、アフリカで植樹
されて独占は崩れた。さらに丁子の需要が減るに従い、世界史を動かしたこれらの丁子の島 はであるが、現在はモルッカ海の普通の小島に戻った。時たま火山が鳴動し、地震が頻発す る以外は静かな島に住民8万人が暮らしている。
丁子以外に何の産物もなく食料さえ移入せざるをえない島であるが、最近は観光客が増えて
きた。香料の歴史に思い入れがある遠来の西欧からの観光客が多い。ヨーロッパ各国が築い た5ケ所の苔(こけ)むした砲台が兵(つわもの)どもの痕跡として観光資源となっている。
かつての香料で沸いた島の繁栄はスルタンの西洋風宮殿のクダトン(kedaton)に縁(よす
が)をとどめている。現在は博物館になりマコタ(mahkota)という王冠が初代スルタン・アワール (Sultan Awal)王の髪の毛とともに展示されている。髪の毛は不思議な力を具えていると考え ているので生きているがごとく花や水のお供えを絶やさない。
先代のスルタンは内務省の高官となり、スルタン位を継いだ息子は中央政府の役人であっ
た。スルタン位は廃止されても由緒ある王国の子孫は尊敬されている。1983年ガマラマ山が鳴 動を始めた時は元スルタン家の子孫が故郷に帰った。王冠を被り船で島を巡る由来の儀式を 取り行うと噴火は止み平静になったという。⇒テルナテ島の暮し
島間の対立抗争という今日的話題にも事欠かないが、次項のティドレ島に譲る。近年の宗教
紛争(→737)でハルマヘラ島からのイスラム教徒の避難民で人口が急増している。
19世紀の生物学界に波紋を生じた「テルナテ論文」というのがある。インドネシアを旅行して
いたウォーレス(→080)がテルナテ島に滞在した。島に滞在中に執筆しそこから投函した論文 を受け取ったダーウィンはそこに記された「適者生存による進化論」を自説と同じであるとして 共同で学界に発表した。
現在の位置
ティドレ(Tidore)島とテルナテ島の両島を隔てる距離は1km,船で15分にすぎない。両方とも中
央に火山のあるいわば双子島であり、ティドレ島の面積が少し大きい。
どちらの島にも移住してきたマレー人の王国があり、イスラム教を奉じていた。両島とも丁子
(→056)の特産地であり、テルナテ島とティドレ島の夫々の王室は覇権を争ったライバルであ り、『ロミオとジュリエット』の家の関係である。⇒テルナテ島の要塞からのティドレ島
両島の経済的基盤は丁子貿易であり、膨大な収益を背景にテルナテ王国(→269)の覇権は
ハルマヘラ島北部・スラウェシ島・ヌサトゥンガラ諸島西部と海域の北と西に及んでいた。これ に対抗するティドレ王国の覇権はハルマヘラ島南部からティモール島・ニューギニア島と南と東 方面という棲みわけがあった。ソア・シウ(Soa Siu)が王国の所在地であったが、王室は1905 年に22代で絶えた。⇒ティドレ島
ニューギニア島がティドレ王国の覇権下にあり、パプア人奴隷がティドレ島に多数居住したた
めティドレ島民は肌色が黒いといわれる。後にインドネシア独立時にイリアンの帰属問題(→ 432)がオランダと紛糾した際にインドネシアの主張の論拠はティドレ王国の勢力がイリアンに 及んでいたことである。
島中央に聳えるキエマタブ(Kiematabu 1730m)山は活火山で1968年に爆発を起こしてい
る。ソア・シウの町の半分は溶岩で埋まったが、その後再建された。ティドレ島の南にマレ (Mare)島、モティ(Moti)島、マキアン(Makian)島の小さな火山島が連なる。マキアン島では 1988年に火山爆発があった。
最初にヨーロッパから現れたポルトガルは丁子買付の独占を図り、テルナテ王国と悶着(も
んちゃく)がありテルナテ島から追い出された。それを迎え入れたのがティドレ島である。しかし テルナテ島がポルトガルと縁りを戻すや、ティドレ島はスペインと組んだ。その頃スペインから 派遣されたマゼランの船隊が太平洋を超えてティドレ島にきた。次にオランダと英国が現れイ ベリア半島勢力を駆逐した。この間にヨーロッパ諸国と両島の合従連衡(がっしょうれんこう) は目まぐるしい変遷を経た。結局、最後に香料貿易を独占支配したのがオランダである。
オランダは香料の生産と貿易をアンボン島に集中し、テルナテ島とティドレ島のどちらも置き
去りにされたが、両島のライバル関係は今なお続いている。マルク州の行政区分はテルナテ 島とティドレ島は大きなハルマヘラ島を分割してそれぞれ別の県であった。
1999年に北マルク州がマルク州から分離独立した。早速、州都をめぐってテルナテ島とティド
レ島の鍔(つば)ぜり合いが始まった。妥協案として新州都を建設することになっている。その 地点についてテルナテ島のソフィフィ(Sofifi)となっているが、一方では新州都はハルマヘラ島 に建設という情報もある。
ティドレ島ではヨーロッパ各国が築いた朽ち果てた要塞が今では観光名所になっている。テ
ルナテ島の方も同様であり、テルナテ島の方が有名であり、空港もテルナテ島にあることから 観光においてもティドレ島の不利はまぬがれない。
現在の位置
スラウェシ島とニューギニア島の間にスラウェシ島より小さくて相似形のK型の島が「ハルマ
ヘラ(Halmahera)島」である。別名ジャイロロ(Jailolo)島ともいう。面積 18,000ku、大きさは四 国ほどで北マルク最大の島である。火山帯はティドレ島⇒テルナテ島⇒ハルマヘラ島北部へと 連なりいくつかの活火山がある。⇒ジャイロロ火山
人口20万人は島の大きさにしては少ないのは全体に熱帯雨林に覆われた険しい地形と湿地
帯のマラリア蚊のためである。人口の 70 %までは北半島に集まり,ことにモルッカの歴史的 中心であるテルナテ島・ティドレ島対岸の西海岸に多い。
住民はモルッカ諸島を中心とする先住民アルフル族であるが、民族の分布が地図に斑模様
で示されるように民族も文化もマレー系とパプア系の移行地帯といえる。各民族が独自に伝統 文化を維持しており、民族学の宝庫である。
トベロ(Tobelo)族などの北部ハルマヘラ語はパプア系の言語である。語順は日本語と共通す
るらしい。高床住宅(→792)に居住し,主食は山野に自生するサゴヤシ(→770)の澱粉を調理し たものである。その他にバナナ、オカボ、アワ、モロコシ、タロイモ、ヤムイモなど根菜農耕(→ 602)の島である。
ハルマヘラ島の宗教は土俗信仰に重なる形でキリスト教が普及している。島北部からモロタ
イ島にかけてカトリック(→716)の教会が目立つ。1546年にザビエルは布教のため、ハルマヘラ 島からモロタイ島を訪れている。その時の改宗者の子孫であろう。⇒ザビエル
太平洋戦争の際に日本軍の基地(注)がカオ(Kao)にあった。カオ湾には日本軍の輸送船が
爆撃されたままの格好で漁礁になっている。開発とは無縁のように見えたハルマヘラ島にも近 年、シナール・マス社(→525)のバナナ農園やバリト・パシフィック社(→526)の合板工場などが 建設された。⇒太平洋戦争の遺物
人口が少ないため他地域から移住民がやってきた。新しい移住民はイスラム教徒である。
旧住民のキリスト教徒の村と新住民のイスラム教徒の村が互いに干渉することなく適当な距離 を保ち平和に共存していた。少なくとも2000年までは。
アンボンの宗教対立暴動 (→737)の影響を受け、ハルマヘラ島にも宗教紛争が押し寄せた。
イスラム教徒がキリスト教徒の村を襲い住民を殺害し住宅を放火した。その報復にキリスト教 徒がイスラム教徒の村を襲い、対立はエスカレートした。
イスラム側がスハルト元大統領の私兵ともいわれるパンチャシラ・ムダ(→453)などのならず
者を送り込んで挑発する形である。非体制派のキリスト教徒の方の被害が多く、難民となって キリスト教のマナド(→208)に逃亡している。その逃亡する船が転覆する事故もあった。北マル クの宗教対立の暴動もイスラムの扇動者によって引き起こされたというのが通説であるが、こ の闘争の裏にはハルマヘラ島の金鉱開発の利権の取り合い、テルナテ島とティドレ島の王国 以来の積年の覇権争いなど諸々の要因が絡んでいるらしい。
)
現在の位置
太平洋戦争終結の際、インドネシアは戦場にならず無害であったという錯誤がある。確かに
ジャワ島、スマトラ島は日本軍が占領のまま終戦になった。しかし実際は東カリマンタンでは連 合軍はバリックパパン(→193)を攻撃し占領した。またアンボン島やティモール島は激しい空襲 を受け町は戦災で破壊された。
その中で「モロタイ(Morotai)島」は連合軍の主力が通過した戦場である。マルク州の最北部
のモロタイ島は元々生産力も人口も少ないインドネシアの辺境の島である。不幸であったのは 太平洋につき出した位置である。
マッカーサーの率いるアメリカ軍はニューギニア島北部沿岸沿いに日本軍を壊滅させて、モ
ロタイ島を中継点としてフィリッピンに向かった。オーストラリア軍はモロタイ島から連合軍の別 働隊として東インドネシアを攻略した。⇒連合軍艦隊
連合軍は蛙飛び作戦で主要な拠点の島だけを攻撃し、制空権・制海権を確保して途中の島
はパスした。モロタイ島に連合軍が主力でもって押し寄せたのは1944年9月15日である。日本 軍は近辺から動員しモロタイ島を死守すべく激烈な戦いとなったが、戦力の差はいかんともす べなく、犠牲者5000名を出し連合軍によって占領された。
早速、オランダは蘭印臨時政府をモロタイ島に設け一時的賑わいはあったが、戦線はフィリ
ッピンに移動し、モロタイ島は元の密林に覆われた平穏な島に戻った。今日も戦闘の遺跡が 放置されたまま生々しく残っている。⇒モロタイ島の住民
終戦から29年たった1974年にモロタイ島に潜んでいた残留日本兵が地元の軍に捕らえられ
た。彼を捕らえるためにインドネシア軍は遠巻きにして『君が代』のテープを流した。音楽に思 わず直立不動になった所を押さえられた。
ほぼ同時期に発見されたグアム島の横井庄一さん、ルソン島の小野田寛郎さんほどには騒
がれなかったのは理由がある。日本名は中村輝夫というが、台湾原住民のアミ族である。アミ 族名はスニオン、中国名は李光輝という。
太平洋戦争中に高砂族といわれる台湾のアミ族などの原住民から義勇軍が募られ、インド
ネシアに送られた。彼らが熱帯気候に強いことに加え、マレー系民族(→563)である高砂族とイ ンドネシア人の文化の共通性もあったため、彼らを介した方が原住民工作が容易であった。高 砂族は日本軍の南方政策に重宝な存在であった。
発見された時、元日本兵の日本国籍はなくなっていた。台湾では本土から進駐してきた蒋介
石政府は高砂族のスニオンに李光輝という名をつけ行方不明の扱いになっていた。3通りの 名前の数は元日本兵の置かれた複雑な政治関係を物語っている。
当時の日本は中国との国交復興で微妙な時期であった。歓迎もされずにひっそりと故郷の
台湾に送り返された(注)。
現在の位置
バラバラになった手足胴体の中で返り血をあびた虐殺者が立っている。褌(ふんどし)とチョ
ンマゲ姿は見間違うはずもなく日本人である。端の南蛮風俗の西欧人の存在が虐殺の命令者 であることを暗示している。この異様な絵は「バンダ(Banda)諸島」の中心のバンダ・ネイラ島 にある小さな博物館の歴史展示(注1)である。
バンダ諸島はバンダ海のいくつかの小さな島からなる陥没火山島である。火山の爆発と地
震の多いこれらの島々は高級香料のナツメグの原産地であった。
16世紀以降、ポルトガルに続きオランダ、イギリスがやって来てナツメグを求めたが、交易に
関心の薄い住民は生産の増加に非協力的であった。VOC(→272)のクーン総督(→336)がナツ メグの独占と採取量の増加を計るために行った荒々しい策は技術を伝えるほどの数の住民を 除いて殺戮するか他の島へ強制移住させた。アラフラ海のカイ島にはバンダ島を温情で追放 された住民の子孫が居住する村がある。⇒ナツメグの実
一方、ナツメグの増産のためバタビアで植民者を募集し、不足する労働力は他所から奴隷を
連れてきた。その政策実施のため日本人の傭兵(→345)が島の原住民を殺戮したというのが 冒頭に記した絵の背景である。
今日、バンダ諸島は静かな眠りの中にある。島が香料で沸いたことを思い出させるのは1611
年築城の海へ向けたベルギカ(Belgica)要塞である。要塞の大砲は外部からの侵入者ばかり でなく島の居住者にも向けられていた。
白人の植民者の豪華な住居も荒廃したまま放置してある。植民者は富の限りを使ってヨーロ
ッパから取り寄せた調度品はいうまでもなく大理石などの建築資材も輸入したものであるだけ に何かむなしい。
原住民はオランダによってほとんど根絶やしにされたので現在の島民は移住者の子孫であ
る。白人、アラビア人、アフリカ黒人などの複雑な血統が入り交じり、島民はたいしてレベルの 変わらない生活ぶりである。
「日暮れも近いころポーチに座って前方の大バンダ島に夕日が沈んでいくのや、島の白い家
並みを見ていると限りない美しさに呆然としてしまうほどだ。」
歴史遺産をせめて観光資源にでもということで建物の維持補修が行われ、ホテルに改造さ
れている。陥没火山地形の美しい自然はヨーロッパからの航海者が"庭園の島"と呼んだだけ のことがある。何よりも美しい海が売り物の別世界である。週2回のアンボンからの飛行機だ けが俗世界とのつながりである。⇒美しいバンダ島
この事業を始めたデス・アルウィ(Des Alwi)は流刑中のシャフリルの養子になり、シャフリル
に連れられてジャカルタに移住した。外交官から実業界に入り成功して数10年ぶりに島に戻 り、私財を投じて島の開発を行った。
現在の位置
「アラフラ(Arafura)海」の所在場所については余り知られていない。中央アジアと勘違いする
人もいるが、あちらはアラル海である。アラフラ海には東からアル(Aru)諸島、カイ(Kei)諸島、 タニンバル(Tanimbar)諸島(注)がある。
アル諸島のドボ(Dobo)という町に戦前の最盛期には千人を越える日本人潜水夫(→349)が
いた。かつて日本人の存在の証は日系を誇る混血児と輸入された御影石の墓石である。墓石 も中には民家の入口の踏み石になっている。現在でも真珠養殖技術を伝える人や遠洋漁業 の基地として短期滞在の若干の日本人がいる。⇒アラフラ海の歓迎
オーストラリアに近いため雨が少なく、土壌は痩せており、農業に不適である分だけ、海に生
計を求めざるをえない。アラフラ海の幸のもたらすエビ、フカヒレ、ナマコ、真珠など海産物(→ 555)のブームでわいたことがある。都度、栄枯盛衰を繰り返してきた。
ブーム商品は略奪型乱獲によりたちまち資源は減少する。これらの商品は世界市場と結び
つくが、島の文化とは無関係である。サシ(→623)という伝統による資源保存の英知は生活必 需品でないものは除外されるのだろうか。ウオーレス(→080)が追いまわし、いくらでも捕獲した 極楽鳥(→076)やオウムも貴重生物になった。
住民はオーストロネシア語系の言葉を話すが容貌はマレー系とパプア系の混血である。宗教
はキリスト教徒が多いがイスラム教徒も増えてきた。1999年のアンボンの宗教対立はアル島 にも飛び火した。何故こんな島にまでという疑問への答えは見つからない。
政府の公式統計によればカイ、タンニバル諸島にヒンドゥー教徒(→719)がいる。この場合ヒ
ンドゥー教徒とはその他の宗教という意味でアニミズムのことである。アニミズムは公認宗教で はないからである。⇒アル諸島の民族
第二次世界大戦中、バンダ海やティモール海の島々には島の人口に不相応に多い日本兵
が駐留していた。これらの海の対岸はオーストラリアであり、からの反攻に備えるためである。 日本人が行くと懐かしがって日本の軍歌を歌い出す古老もいる。
しかし痩せた珊瑚礁の島々には食料は十分に生産できない。そこへ兵站(へいたん)思想の
大雑把な日本軍が来て食料を求めれば、住民は死活問題になることは避けられなかった。
ババル(Babar)島はティモール海にある小さな島であり、住民は好戦的で首狩り族(→625)で
あることからヨーロッパ人に恐れられていた。戦時中に島に駐留してきた日本軍とコミュニケー ションが良かったとは思えない。
1944年10月から11月にかけてエンプラワス村の住民700人が殺された事件(→308)があっ
た。日本側の資料では400人である。原因は煙草の価格交渉のもつれから日本の軍人が殺さ れ、報復を恐れた村民が結束して日本軍に立ち向かった。後日、降伏した村民も虐殺された。 日本軍は神経過敏になっており、従順でない村民は皆、敵(オーストラリア)側のスパイに見え たらしい。
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