B−11 新パプア州
インドネシアの最東部に位置するイリアン・ジャヤ(Irian Jaya)州はイリアン島の西半分を占
める。インドネシアではイリアン島というが、世界地図ではニューギニア島である。ヨーロッパか らの航海者が最初にこの島に来て原住民に接した時、かれらの黒色の肌がアフリカのギニア の黒人に似ているとして「ニューギニア(New Guinea)」と命名した。いかにも植民地的な命名で あるのでインドネシア併合後はイリアン・ジャヤに変更した。
イリアンの語源はビアック語の「日出る所」、ジャヤは「偉大な」の意味である。スカルノ大統
領が造ったシンカタン(→964)は「IRIAN=Ikut Republik Indonesia Anti Nederland=反オランダ でインドネシアと共に行く」である。近年の分離独立を主張する運動への宥和(ゆうわ)策として イリアンに代えて、2002年よりパプア州(注)に改名された。
何れにせよパプア(ニューギニア)島の全面積は785千kuでグリーンランドに続く世界第二の
島である。西半分のインドネシア領の422千kuだけでも日本の総面積を上回り、インドネシア 国土の20%を占める。
オランダがティドレ島(→229)のスルタンの主権を取り上げた際にティドレ王国の覇権が及ん
でいたニューギニア島もついでにオランダのものとしたが、険しい地形、 異形の民族に恐れを なして近づけず長い間放置されていた。⇒ニュー・ギニア高地の部族
しかし19世紀のヨーロッパ諸国の植民地争奪戦において、島の東半分にはドイツとイギリス
が進出し、西半分がオランダ領と彼らの間で勝手に植民地の縄張りを決めた。
第二次世界大戦後、オランダの東インド植民地はインドネシアとして独立したが、イリアンが
インドネシア領になるには複雑な経緯があった。1949年のハーグ協定(→330)でオランダがイ ンドネシアの独立を認めた際には、ニューギニア領はインドネシアの領土から除外されており、 その帰属は後日の協議事項とすることで妥協した。
その後スカルノ大統領の率いるインドネシアは新興独立国として植民地解放の旗手をもって
任じ、バンドゥン会議(→458)の高揚をバックに、独立時からの懸案であった【イリアン解放!】 をスローガンに国内統一をはかり、国際世論に訴えた。 ⇒美しい自然
インドネシアの戦争も辞さない強硬姿勢は反植民地の国際世論の支持を受け、1962年オラ
ンダは行政権を委譲し、1969年に正式にインドネシアに併合され26番目の州となり、ここにイ ンドネシアの【サバン(→084)からムラウケ(→242)まで】という念願の東西5100kmの国土が実 現した。インドネシアにとっては念願の領土であるが、イリアンの住民は"蚊帳の外"に置かれ ていた。
現在の位置
インドネシアは東に向って脈動している国であり、次のような言い方がある。ジャワ島・スマト
ラ島は《過去の島》、カリマンタン島・スラウェシ島は《現在の島》、そしてイリアン(パプア)島こ そ《未来の島》である。イリアンにはインドネシアの未来がかかっている。
ニューギニア島の森林資源もほとんど手をつけられずに残っている。鉱物資源では石油、ガ
ス、銅が発見されているが、その他の資源の調査もこれからである。ニューギニア島は険しい 山地と広大な湿地で人口密度(5人/ku)は極めて低く、原住民以外の居住は海岸周辺部に限 られていた。
問題はインドネシア人と原住民の間の隔絶した壁である。そもそもニューギニア島の原住民
はパプア系民族であり、モンゴロイドの一般のインドネシア人とは別系統の人種であり、一部 の海岸部を除きインドネシアとは文化の共通性も全くない。
原住民の中でも言語、文化を異にする様々の部族が分れて住んでおり、地理的、自然的条
件による隔絶状態から、中には石器時代そのままの種族もいる。原住民の部族間は首狩りを 応酬する敵対関係であり、同胞意識が育つ環境も歴史もなかった。
インドネシア各地からの移住民が定着するようになった。一般的なパターンは最初に進取の
気質のブギス人(→617)がやってくる。その後から華人がよろず屋をひらく。支配者はジャカル タからやってくる軍人であり、役人である。⇒移住民集落
それから政府の移住政策(→724)によるジャワ人の農民が大挙してやってくる。自発的移住
者以外に政府のジャワ農民の移住政策は当初は5年間で5.2万人の計画であったが、1993年 より年5.2万人に改められ、イリアンへの移民の増加に拍車がかかってきた。
イリアンのインドネシア化が急速に進むにつれ、パプア系原住民は追いやられ小数化しつつ
ある。イリアン生まれの住民は1971年の96%から、1990年には79%にまで減じている。イリア ンでは移住してきたインドネシア人が支配し、原住民のパプア系が最下層になるという社会構 造が出来上がり、原住民の憤懣(ふんまん)がつのる。 ⇒ミイラと原住民
パプア系原住民の高まる民族意識によるイリアン分離独立問題 [⇒D-6章 国家分裂の危
機] の背景はインドネシア人の侵略によるイリアンのインドネシア化である。移住政策に従うジ ャワ農民がイリアンの大地を蚕食しているという実態がある。インドネシア化とジャワ化は同じ 意味で使用されている。⇒ジャワ人のモスク
原住民のインドネシアに対する苛立(いらだ)ちは隠せない。ほっておけばニューギニア島は
やがてインドネシア(ジャワ)人に乗っ取られるのは避けられない。
日本の北海道のアイヌ人、アメリカのインディアン、オーストラリアのアボリジニの運命が彼らを
待ち構えている。 1996年、1998年、原住民のフラストレーションは暴動になった。イリアン州 からパプア州への名称変更程度で解決できる問題でない。
現在の位置
パプア(旧名イリアン)州の州都「ジャヤプラ(Jayapura)市」はパプア・ニュー・ギニア国(→
465)との国境からわずか22qの所にある。広い領域の中で不自然な位置であるには理由が ある。20世紀初頭、遅れて植民地争奪競争に参加してきたドイツはニューギニア島の東部を 占領し西を窺(うかが)った。これに対してオランダは1858年にイリアン北岸の探険のため戦艦 を派遣して今日のジャヤプラ付近を調査した実績を基にドイツの意図するニューギニア全島の ドイツ領土化を食い止めようとした。
オランダが東経141度線を不退転の決意の表れとしてその境界に築いた町がホランディア
(Hollandia)である。ホランディアがオランダであることはいうまでもない。インドネシア併合後、 ホランディアはスカルノプラ(Sukarnopura=スカルノの都)に改名され、その後、ジャヤプラに改 名され今日にいたっている。要するに20世紀に三つの名前があった都市である。ジャヤプラ (インドネシア語で偉大なる都)はパプア化によりさらにパプア語に改名されることもあるだろ う。⇒ジャヤプラ
第二次世界大戦中、日本軍はニューギニアを占領し沿岸に兵を配置していたが、マッカーサ
ーの率いる連合軍は1944年4月、ホランディアを攻撃し占領した。制空権、制海権を制した連 合軍の飛び石作戦に対して兵力を分散していた日本軍は効果的な防衛が行えなかった。日本 によってフィリッピンからオーストラリアに追われ、「I shall return」の名高い台詞で捲土重来(け んどちょうらい)を計り、マッカーサーは奪い返したホランディアに陣取って日本への反撃を指 揮した。フィリッピン臨時政府とオランダ東インド政庁がホランディアに存在したのもこの時期で ある。
ジャヤプラはヨス・スダルソ(注)(Yos Sudarso)湾(植民地時代はフンボルト湾)にある港であ
る。海に迫る山、湾内の小島、背後地のセンタニ(Sentani)湖が美しく風光明媚な土地である。 マッカーサーが山の中腹に戦時にしては豪華な邸宅を築きブリスベンから妻を呼び寄せた。マ ッカーサー・ヒルという地名が残っている。⇒センタニ湖
町の人口は17万人である。州都であることから軍隊と警察と銀行がインドネシア(ジャワ)人
の拠点である。左遷され人で好きで来た人はいない。その他は食詰めて出稼ぎに押しかけた 人の吹き溜まり場になっており、地元住民を凌駕(りょうが)している。
産業としてはワニの養殖ぐらいしかない。インドネシアから職業の目途のないままやってきた
人が当面の生計を稼ぐのは金の採取である。港付近の海底の泥をすくい砂金採りをすれば、 1日0.5〜1gの砂金が得られるらしい。
インドネシアは外国からの観光客を積極的に誘致しているが、イリアン・ジャヤへ行くには旅
行許可書がいる。コースの定められている団体旅行は問題ないようであるが、個人旅行にな ると許可書の取得はかなり面倒のようだ。特にパプア・ニューギニア(PNG)との国境付近は制 限されていたが、スハルト後はジャヤプラから国境までの陸路は軍の検問が煩わしいが観光 客が行くことは可能になったらしい。
現在の位置
太平洋戦争においてニューギニア島は激戦地であった。日本は北岸を制覇したが、連合軍
はポートモレスビーに踏みとどまり反撃した。ポートモレスビーの場所は現在のニューギニア島 の東部の南岸、鳥形に見たてられる島の鳥の尻尾の下の部分になる。
動員すべき空軍・海軍がなく戦線の膠着(こうちゃく)に行き詰まった日本軍は熱帯の人跡希
な3000mを越える山脈を越えて島を北から南へ横断し、ポートモレスビーに56kmまで迫った。 オーストラリア東海岸はその先である。
しかし補給体制を無視した無謀な作戦は失敗し、戦局は転じて1943年の後半からは東から
攻めてくる連合軍に追われて日本軍は西へ西へと敗走を続けた。白骨が道標をなすという惨 状であった。
制空権も制海権もなく陸の孤島に取り残された日本軍は武器はもとより食料・医薬品がなか
った。実にニューギニア戦線に参加した日本軍18万の内15万人を亡くした。その多くは戦闘で はなく、餓えとマラリアの死であった。連合軍から見れば日本軍をジャングルに追い込めば後 の掃蕩(そうとう)はジャングルに任せたようなものである。兵士の間で言われたのは「ジャワ天 国、ビルマ地獄、死んでも帰れないニューギニア」である。⇒日本兵の遺骨
ニューギニア戦線の主戦場は現在のパプア・ニューギニア国(→465)であるが、西部ニューギ
ニア戦線といわれた現在のインドネシアのパプア州ではホランディア、ビアック、ヌンホル (Numfor)、マノクワリ(Manokwari)、ソロンが戦場となった。
連合軍は日本軍の飛行場のある拠点を占領するや制空権を確保し、飛行場を拡大して重爆
撃機の基地とした。連合軍の目標はフィリッピンを取り返すことであり、主力はニューギニア島 からモロタイ島(→231)を経由してフィリッピンへ駒をすすめた。日本が捨て身の抵抗を図るも 所詮は蟷螂(とうろう)の斧であった。連合軍の“蛙飛び作戦”は飛行場の無いところはパスし たため、取り残されたまま終戦となり生き残った幸運な日本兵もいる。
ニューギニア戦線の激戦地の跡に日本から遺骨収集船が回航したのは1956年である。イン
ドネシア領域内の戦死者は約5万人とされている。遺骨収集は20年間にわたり4回行われ、1 万余りの遺骨は日本へ帰還した。
日本政府はビアック島に第二次世界大戦慰霊碑を建立した。他にも遺族や戦友会の慰霊団
がやってきた。戦死した肉親や戦友を弔うためである。入れ替わり立ち替わり団が訪れて立派 な慰霊碑が建てられた。建てる方には建てねばならない論理がある。もちろん、地元へは金一 封持参による丁重な断りもしているだろう。
地元の住民にとって慰霊碑とはどのように見えるだろうか。ビアック島の地震(→041)の後、
慰霊碑の無事だけ確かめにきた慰霊ツアーもあったという。慰霊碑がもたらす対日悪感情も 喚起すべきであろう。日本側の関係者が年老いて慰霊碑の面倒が見切れなくなるのも時間の 問題である。既に放置された慰霊碑が風化しつつある。
現在の位置
ニューギニア島西端のドベライ(Doberai)半島(注)はオランダ領時代には地図上の形状から
オランダ語でフォーヘルコップ(鳥の頭)半島と呼ばれたが、ドベライ半島と改称された。住民 はティドレ王国(→269)時代からの交流のせいでパプア系とマレー系との混血である。内陸部 の部族と異なり言葉はオーストロネシア系(→563)である。
鳥の頭の目の位置になるソロン(Sorong)の人口の増加は目覚ましい。サフル大陸棚(→
016)の石油探索の基地であり、西部のクラモノ(Klamono)油田からソロン港まで送油管が敷設 された。また近海は豊富なマグロ漁場のため、日本のマグロ漁船の基地でもある。イリアンに も熱帯林伐採の波が押し寄せソロンが拠点になっている。
鳥の肩の所になるビアック(Biak)島は珊瑚礁と熱帯魚で知られている。淡路島の約3倍でイ
ンドネシアでは小さな島であるが、今日はジャカルタとアメリカを結ぶ国際線の立ち寄る国際空 港である。関西新空港との直通便をあてこんで★の多いリゾートホテルが建設されたが、開店 休業らしい。⇒ビアック島
ビアック島は飛行機によって発展した島であり、飛行場の起源は太平洋戦争にさかのぼる。
隆起珊瑚礁の地形による平坦地であることから長い滑走路が得られたため日本軍は飛行場 を建設した。ところがこの飛行場を最大限利用したのは連合軍である。
連合軍はビアック島を戦略上の重要地点と認め、1944年5月に島に上陸し、激しい戦闘が行
なわれ日本の兵士が1万人以上も戦死した。現在も戦争の残骸が見られる。日本軍のたてこ もったゴア・ジュパン(日本人の洞窟)という壕もある。
西部ニューギニア戦線に投入された連隊は山形県出身者が多かった縁で山形県とイリアン・
ジャヤ州の文化交流が続けられている。
1998年7月にビアック島でOPA(→433)旗を掲揚したパプア系原住民の村が国軍によって掃
討され、100名以上の死者が出た。スハルト政権崩壊後、東ティモール(→430)とアチェの弾圧 (→437)は反省されたが、イリアンでは強硬策(→434)が続けられている。
鳥の顎(あご)にあたるボンベライ半島にはロックアートといわれる岩に描かれた不思議な絵
がある。ベラウ湾の入口と下顎のカイマナ(Kaimana)地区である。
ベラウ湾の方は30kmにわたる海岸の崖に人や動物の絵が描かれている。人骨があることか
ら墓であるらしい。石灰岩に赤、黒、白の色彩が使用されている。カイマナは様々なステンシル 画である。舟で海からしか近づけない所である。
どちらも交通不便なところであり、ロックアートが描かれた時代や目的は定かでなく、学術調
査もこれからである。
現在の位置
1936年、ニューギニア島中央のジャヤウィジャヤ山脈の上空を飛行中の探検家がバリエム
川沿いの盆地に碁盤の目のような地形を発見し耕地でないかと疑った。トリコラ山など周りは 4000mを越える山に囲まれた幅15km、長さ60kmの盆地はスケールの大きい大自然の中の隠 された谷であった。⇒ダニ族の耕地
陸路からは接近不可能の地であったため、探検家アークボルド(Archbold)が水上飛行機で
最も近くの湖へ着陸したのは1938年である。以後、内陸部の探検には水上飛行機が活躍す る。
飛行機からの「バリエム(Baliem)盆地」の景色はヨーロッパの農村ように見えるほどである
が、実際に住んでいるダニ族はペニス・ケース(→790)以外は素裸で鉄を知らない石器時代の 人であった。石器と木材の道具だけであるにもかかわらず、ダニ族は農業に優れており耕作 地は整然としている。
土地が肥えており、主要作物は根菜である。特にサツマイモの栽培に適していたこと、1600m
の高地でマラリア蚊がいないことから、盆地の人口は当時で5万人、現在は10万人で人口密 度は相当高い。⇒ペニス・ケースのダニ族
第二次世界大戦中にニューギニア島が戦場になった際に偵察飛行に出かけた米国の飛行
士は暇にまかせて"シャングリラ"との評判がたったバリエム盆地を偵察した。戦後、米国でキ リスト教布教団が編成されたのも豊富なデータのおかげである。
最初の宣教師は落下傘で降りた。後はアメリカ式物量作戦によって7ヶ月で飛行場ができ
た。高地に最初に進出してきたのは政治権力ではなくキリスト教である。布教は困難を極めた が、改宗の成果は現れ、部族戦争と殺した相手を食べることだけは止めるようになった。飛行 場がオランダの行政の拠点となり今日のワメナ(Wamena)の町になった。
1963年にニューギニアがイリアンと名を変えてインドネシアに併合されて以降、政府は学校
や医療所を建設し住民の福祉のアップに努めている。もっとも学校はインドネシア語を教える のが最大の目的であった。
インドネシア併合の過程で1977年に住民はインドネシア支配に反乱した。伝統的な戦闘ダン
ス(→924)を誇示して威喝(いかつ)したが、銃の威力にはいかんともしがたく降伏した。その際 にインドネシア軍がいかに住民を残虐に扱ったかがノーマン・ルイス著『東方の帝国』に記され ている。その後遺症はイリアン独立問題として尾を引いている。
石器時代の住民へインドネシアの政治支配とともに自動車や学校やあらゆる物が飛行機で
持ちこまれた。イリアンの治安問題から外国人に閉ざされていたが、近年は“シャングリラ”の 宣伝文句にのって観光客もやってくるようになった。
バリエム盆地は徒歩によるならば海岸から1ケ月はかかるというたいへんな所であったが、
自動車道路の建設が進められている。
現在の位置
20世紀になるまでニューギニア島の地図の中身は真っ白であり、世界の探検家は挙って内
陸部を目指した。雪のある山の噂は飛行機で確かめられた。世界に冠たる英国の探検隊が ニューギニア島の最高峰登頂に関心を持つや、オランダは国の威信をかけて自国領の最高 峰登頂計画に参画した。⇒ニュー・ギニア島の雪嶺
1909年にロレンツ(Lorentz)はウィルヘルミナ(Wilhelmina 4732m)山の雪線に達した。山名
はオランダ女王の名にちなむ。1913年にオランダ隊はウィルヘルミナ山の登頂に成功した。現 在はトリコラ(Trikora)山(注1)に改名されている。
赤道近い位置(赤道の400km南)にもかかわらず標高 4500m以上は"雪"が降る。しかも万年
雪になるから氷河もある。オランダ領時代は「スネーウ(雪山)山脈」と呼ばれた。
探検隊のポーターにはカリマンタン島のダヤク人(→624)が重宝された。彼らは暑さのみなら
ず寒さにも強かった。ダヤク人は始めて見る雪に興奮した。首狩り(→625)の罰に刑務所代わ りにポーターをさせられたものである。
その後、ニューギニア島の最高峰はカルステンツ(Carstensz)と呼ばれる山群にあることが
分った。1923年にヌガプル(Ngga Pulu 4860m)峰に登頂したが、1962年になって最高峰はジャ ヤ峰(Puncak Jaya 4884m)であることが確認された。カルステンツは17世紀に島の中央の 高山に雪があることを始めて報告した白人の名にちなむ。⇒カルステンツ山群
ニューギニア島の中央を東西に貫く脊梁山脈は西部ではスディルマン(Sudirman)山脈,中
部ではジャヤウィジャヤ(Jayawijaya)山脈、東部ではウィスムトィ(Wismurti)山脈と連なってい る。全山系を通してマオケ(Maoke)山脈ともいわれる。西部と中部は4000m以上であり、ジャヤ 峰はスディルマン山脈にトリコラ山はジャヤウィジャヤ山脈にある。
イリアンの山系は火山でなく山塊である。300万年前の第三紀の若い褶曲山脈で山脈であ
る。地球の歴史からみれば若い成長盛りの山脈で、1インチ/年という驚異的スピード(計算し てみると100年で2.54mである)で伸びている。
スディルマン山脈の僥倖(ぎょうこう)というよりは不幸は金銀銅の豊かな鉱脈があったことで
ある。1936年に山脈の高地で銅が発見されたが、ジャングルの中に屹立(きつりつ)する人跡 未踏の高山の資源を掘れるとは誰も思わなかった。しかし土木工学の進歩は不可能を可能に した。
フリーポート社(→534)によってジャヤ峰に隣接するエルツブルグ山は露天掘りで山容はえぐ
られて無残な姿になっている。現在の採掘の主力はグラスブルグ山に移っている。金銀銅の 鉱脈は他の峰に続いているらしい。イリアンの山が鉱山会社によって根こそぎ破壊されてい る。
ジャヤ峰を含む一帯はロレンツ(Lorentz)国立公園(注2)としてユネスコの世界文化遺産に
登録されている。フリーポート社操業の鉱山は世界自然環境破壊の最有力候補であろう。
現在の位置
イリアン・ジャヤは金銀銅の鉱物資源にめぐまれている。現在稼働しているフリーポート社の
エルツブルグ鉱と「グラスブルグ(Grasberg)鉱」は3000bの高地にあるため、近くの平地のティ ミカ(Timika)に空港がある。ティミカにシェラトン・ホテルがあるのも鉱山町故である。その奥に あるトゥンバガプラ(Tembagapura)が鉱山のベース基地である。トゥンバガプラはインドネシア 語で「銅の都」という意味である。
ティミカからトゥンバガプラとの間の約100kmの道路が建設されている。距離は短いが急坂と
カーブの連続でよほどの運転技術でないと谷底に落ちること必至らしい。精鉱は道路脇のパイ プによるスラリー輸送で海岸のアママパレ(Amamapare)に通じている。そこから世界各地に積 み出される。日本は搬出先の大手である。
同鉱の1.7万人の従業員に加えて2万人の人が生活している。これらの人はインドネシア人で
あってもジャワ島などから移住してきた人であり、地元のパプア人もいるが10%程度にすぎな い。日本でいう企業城下町というよりはアメリカ西部開拓時代の砦である。約700人の白人の 住む芝生のある高級住宅はヒドンバレーという高地にある。多分、シャングリラかと錯覚するよ うな存在であろう。
何気なく見ていた雑誌に掲載(注)された航空写真は衝撃であった。イリアン最高峰ジャヤ峰
の氷河の下に鉱山があり、その下は熱帯ジャングルである。赤道直下の露天掘りの鉱山の大 パノラマが展開される。しかしこのパノラマは自然破壊のスケールの大きさを誇示するもので ある。⇒衛星からの採掘サイト
環境破壊・自然破壊の深刻さは航空写真からもうかがえる。鉱床を覆う岩石は剥ぎ取られて
谷を埋めている。鉱山からの土砂は川を汚染し鉱滓から有毒成分の浸透し下流の生態系を 破壊し住民の生存を脅かしている。
アイクワ(Aikwa)河口は繁茂したはずのマングローフ(→006)はなく地面はむき出しである。
所々に前衛芸術のような立ち枯れの木が残っている。鳥獣も魚もいるわけがない。熱帯の“三 途(さんず)の川”はかくなるものかと思わせる風景である。
会社に反対する住民には軍隊が出動して弾圧してきた。鉱害問題と人権問題で糾弾(きゅう
だん)されるフリーポート社はNGO関係者など外部からの訪問者を警戒している。ティミカから 鉱山に向かう道路は会社の私道であるから一般の車は通行できない。検問が数カ所あり外来 者を締め出している。まるで「007の映画」に出てきそうな超悪党の要塞である。
そもそもイリアン・ジャヤは石器時代の原住民の住む所にいきなり近代経済社会が暴力的に
侵入してきた。ティミカ空港の建設にも部族が動員された。会社が支払った労賃がコンビーフ 缶詰だけであったので"コンビーフ空港"といわれる。
現在の位置
ニューギニア島は巨大な島であるから所により気候も異なる。北部と中部山岳地帯は年間
8000ミリにも達する膨大な雨量にみまわれる所もある。これにひきかえ島の南側はオーストラリ ア大陸の影響を受けることから雨季と乾季の明確な熱帯サバンナ気候である。
島の南側の地図の広大な緑印はマングローブやスワンプの湿地帯に見えるが草原も多い、
といっても決して住みよい所ではない。平地であるため100kmの内陸部まで潮の影響を受け る。拠点のアガッツ(Agats)は泥の上の町である。彫像で有名なアスマット族(→665)の村への 入口である
20世紀まで文明に浴することのなかった地であり、首狩り族や食人族の横行する土地であ
った。キリスト教の布教で首狩りと食人の蛮行は止めたらしい。1961年にアスマットの原始芸 術に魅せられてその収集に訪れていたアメリカのロックフェラーの御曹司(注1)が行方不明に なった。鮫の犯人説もあるが、人に食べられたという噂が広がった。
ムラウケ(Merauke)は国境の町である。太平洋戦争中も日本軍占領から免れた唯一の蘭印
の領土としてオランダ国旗がはためいていた。インドネシア独立後、イリアン解放運動において 【サバン(→084)からムラウケまで】とイリアンが不可分なインドネシア国土であるいうスローガ ンがあふれた。日本でいう「北は北海道から南は沖縄まで」と同じ愛国の心情表現である。
ディグル(Digul)河の上流のボーフェン・ディグルはインドネシア語の「タナ・メラ(Tanah
Merah)」で知られる。オランダ植民地時代に設立された政治犯収容所(注2)として悪名高い。 タナ・メラはインドネシア語で「赤土」であり、共産主義者をも意味した。⇒ディグル河
1926-27年に共産党は準備不十分なまま蜂起(→288)し、結果的には大量の逮捕者をだした
だけで基盤の脆かった共産党は壊滅した。共産党の自滅は勝手であるが、結果的には盛り上 がってきた民族主義運動の機運に水をかける暴走であった。
共産党員も含む多くの民族主義者の逮捕者を収容した所がタナ・メラであり、収容者は3千
名にも達した。マラリアなどの猖獗(しょうけつ)の地であり多くの政治犯がそこで病死した。タ ナ・メラの名は独立運動の象徴となった。
後に独立したインドネシアの指導者となるハッタ(→443)とシャフリル(→444)などの民族主義
者もここに収容されていた。政治犯は3グループに分けられていた。一般の収容者は最低限 の食糧は与えられた。釈放の見込みのあるグループは軽作業を行いながら賃金を得た。反抗 的グループは水も不便なさらに山奥の僻地で自活をさせられた。
ハッタとシャフリルは特別待遇であった。この大物の二人は途中でバンダ島(→232)に移され
たのはタナ・メラがあまりにも悪名高いだけに、ハッタとシャフリルがそこで死んだ場合のインド ネシア人の憤激(ふんげき)を恐れたからである。
独立後、インドネシア民族主義者のイリアン(ニューギニア島の西半分)併合への頑(かたく)
なまでの固執は多くの民族主義者がそこで亡くなったという情念である。
現在の位置
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