15世紀末以降のいわゆる大航海時代にヨーロッパのアジア進出が始まった。その大きな動
機は香辛料の入手である。先端を切ったポルトガルのヴァスコダマ・ガマは1498年、インド西南 の胡椒海岸から大量の香辛料を海路で持ち帰り大儲けをした
しかしその香辛料の内でも丁字(ちょうじ)やナツメグというより貴重なものは、さらに東から
来ることが解った。ガマに続くポルトガルの商船はベンガル湾を横断して東に船を進め、マラッ カ海峡要衝の地であるマラッカにたどりついた。当時、マラッカ海峡中央のマレー半島側のマ ラッカ王国は交易センターとして香辛料の集散地であった。帆船時代には季節風の交差する マラッカ海峡は交易の地として地の利を得ていた。 ⇒マラッカのポルトガル遺跡
ポルトガルは丁子の産地で「香料諸島」といわれたモルッカ諸島(→224)へ航行し、香料貿易
で膨大な利益を得た。1511年、香料交易を独占するためマラッカを占領した。しかしこの結 果、イスラム商人はポルトガル支配でカトリック臭の強くなったマラッカ港を避けた。マラッカに 代わりアチェ王国(→257)、バンテン王国(→261)のイスラム教を奉じるサルタンの支配する交 易港が栄えた。⇒ポルトガル船 ⇒テルナテ島と要塞遺跡
香料産地の争奪戦では1521年にスペインが派遣したマゼラン艦隊が太平洋を東から横断す
る新航路でやってきてモルッカ諸島周辺でポルトガルと抗争が続いたが、1529年のサラゴサ条 約でスペインは補償金と引き換えに香料諸島から撤退した。
ポルトガルのアジア進出はカトリックとセットであり、その一環としてフランシスコ・ザビエルは
1546年にアンボン(→225)を訪れている。その影響で東インドネシアには現在もカトリック勢力 が残存している。しかし、ポルトガルのあまりにも濃い宗教色はイスラム王国の反発をうけ、交 易でもイスラム商人と敵対関係になった。
国力の衰退とあいまって宗教臭さの故に嫌われたポルトガルは後退した。白檀(びゃくだん)
の産地の東ティモール(→222)だけはかろうじてオランダの蚕食(さんしょく)から免れ、20世紀 末までポルトガル植民地として残った。近年の東ティモール問題(⇒D-6章)は元ポルトガル植 民地だった故に生じた問題である。
ジャカルタのトゥグー(→166)や、フロレス島のララントゥカ(→218)にはポルトガルの残り香が
ある。何よりポルトガルがインドネシアに残した文化としてクロンチョン(→984)を特記したい。パ ピア・クリステンというポルトガル語とマレー語の混成語があり、かつては東南アジア諸島全域 の共通語であったが、今では死語である。
インドネシア語の語彙でポルトガル語に語源があるものに、bola(ボール)、gereja(教会)、
pesta(祭)、tinta(インク)、jendera(窓)、bendela(旗)がある。
現在の位置
バンテン(→261)港にハウトマン(Houtman)船長の率いるオランダ商船が到達したのは1596
年であり、この1596年はインドネシア歴史において重要な意味をもつ。1510年代のポルトガル 船以来、ヨーロッパからの船は馴染みになっていたが、ここにオランダ船の到着が銘記される のは同船以来、オランダがこのインドネシアの地に進出する契機になったからである。「オラン ダ支配350年」というインドネシア史における怨み積もる慣用語の由来はハウトマンの到着を もって嚆矢(こうし)とする。 ⇒当時のバンテン港
ハウトマンの率いる4隻の艦隊はマダガスカル島からインド洋を横切ってスンダ海峡(→037)
に達した。ポルトガルの支配するゴア(インド西南岸)、マラッカを避け、直接ジャワ島に至るイ ンド洋横断の新航路である。
しかし最初のオランダ船はポルトガルの妨害にあい、バンテン王国にも警戒(注1)されて十
分な胡椒を積むことはできず、バリ島経由で帰国した。
指揮者としてのハウトマンは疑い深い性格のため人望はなく、原住民の歓迎も謀略と疑い殺
戮するという行動のため、わずかな胡椒を買い付けたのみであった。乗組員の2/3と船1隻を 失うという犠牲を払ったわりに、もうけは少なかったが、ポルトガルの発見したインド航路とは 別の新航路発見の意義は大きかった。
そもそもオランダがアジアに進出した背景は市民社会の形成による国力の興隆である。国
内の領土は狭く、資源にもめぐまれないオランダの活路は海であり、漁業や海運に進出してお り、当時のオランダは北欧の通商のセンターであった。
ネーデルランドといわれたオランダは支配国スペインから独立を求めて、1567年から武力闘
争を続けていた。この間、スペインがポルトガルを併合した際に、オランダ船のリスボン入港を 禁止しオランダを締め付けた。オランダはリスボンで香辛料を入手して北欧に売りさばいてい たからである。
スペインの妨害に対し勃興期のオランダは香辛料の確保のため自らアジアへ進出の機運が
高まった。時あたかもオランダでは東方情報に詳しいリンスホーテンが『東方案内記』を刊行し た。またブランシウス神学者はメルカトルと地図の製作に没頭していた。メルカトルは後にメル カトル図法で知られる。
オランダが最初に試みたのは北方航路の発見である。北極海経由でアジアへの航路を見つ
けようというものであるが、言うまでもなく北方航路は失敗した。
3人のオランダ商人は6人の支援者を募り、会社として東方の情報と地図を基にハウトマンを
船主代表とする船団を派遣することにした。1595年、オランダ北部のテセル(Texel)より3隻の 商船と1隻のヤハト船(注2)からなる武装船団が出港した。
オランダ船団がポルトガル、スペイン、イギリスと異なるところは王室が関与せずにあくまで
民間の事業であったことである。
現在の位置
オランダでは9名のアムステルダムの富裕な商人が集まり、発起人となって1594年に"遠方
会社"を設立し、出資金29万フルデンで4隻の船を建造した。同社最初の事業が1595年に出 港したハウトマンの航海であった。
ハウトマン船長の成功に刺激されて多くの航海会社が乱立した。航海の都度、会社が結成さ
れ、これらの会社は複数の商人が取締役になる共同勘定であった。投資資金は取締役の出 資に加えて、一般からの応募もあったが、一般出資者は持分だけで経営の参与は許されなか った。航海が終わる都度、清算して解散する仕組みであった。
1595年から1601年の間に65隻が15船団に分かれて東インドへ出航した。乱立された先駆会
社の間で競争が激しくなり、帆船のため航海時期が集中することから現地では仕入価格は上 がり、ヨーロッパの市場では売上価格は低下し、利益確保が困難になった。
過当競争の弊害が顕著になったため、1602年に連邦議会の決議によって統合したものが"
オランダ東インド会社"である。1600年に設立された英国東インド会社に次ぐ株式会社である。 "複式簿記"を本格的に採用したことでも知られる。⇒バタヴィア港
ヨーロッパ史における《東インド》とはインドの東という意味ではない。ヨーロッパから見て西に
あるアメリカは《西インド》であり、東になるアジアはインド、中国、日本も含めてすべて東インド である。
東インド会社の正式名は「総オランダ特許東インド会社」であり、VOC(De Vreenigde
Nederlandse Oost-Indishe Compagnie)として知られる。会社に対して21年間の有効の特許状 が下付されアジア貿易の独占が認められた。株式会社であるが、その権限は条約締結、自衛 戦争の遂行、要塞の構築、貨幣の鋳造などを含み、あたかも独立国家のように強大なもので あり国家の中の国家であつた。
会社の株式は7%を重役が所有し、残りは一般に公開された。取締役60名(後に73名)から選
ばれた17名が最高決議機関であった。17名は資本金比例で都市に割り当てられ、アムステル ダムが8名を占めた。
彼らはレヘントといわれる都市貴族的門閥に属しており、会社の幹部であるとともに議会の
有力者であり、会社が民主的に進化する途は閉ざしていた。交易実務は選ばれた総督に任せ られた。 ⇒VOC役員会 ⇒VOCの株券
株式会社であるから利益が目的である。会社の利益配当は300%という高配当もあったが、
船が難破した際は配当0もあり、1602年から1798年の間の平均値は18%であった。
VOC(注)はバタビア(→274)を拠点としてアジア、アフリカの交易との独占を許された。最盛
期のVOCはインドネシア以外にはセイロン(スリランカ)、台湾、ケープ(南アフリカ)に領土を有 し、タイ、日本、イラン、イェーメン、広東に商館を構えていた。鎖国時代の長崎の出島での貿 易相手として日本史でも馴染(なじ)みの存在である。
現在の位置
ポルトガル、スペインに続いて英国、オランダが香料貿易に進出してきた。英国のフランシ
ス・ドレイクはアメリカからテルナテ島(→228)へ1579年に到着していた。ヨーロッパでは強力で あったスペインに対抗するため英国とオランダは同盟していた。オランダが独立(1581年)し、英 国がスペインのアルマダ(無敵艦隊)を破(1588年)ってからは、英国とオランダはライバル関係 になった。以来、オランダと英国は香料貿易の支配権をめぐり鎬(しのぎ)を削る中でアンボン事 件が起きた。⇒VOC時代のアンボン
1623年、香料集散地のアンボンで英国側の日本人傭兵の行動に疑問を持ったオランダ側は
英国の商館員と傭兵の日本人(→345)を捕えた。拷問にかけてビクトリア要塞(注)を奇襲する 計画があったと自白させ、英国人商館員10名、日本人9名、ポルトガル人1名を処刑した。オラ ンダの悪名高い強硬策として知られるアンボン事件である。
アンボン事件を契機に英国はモルッカの香料貿易から撤退し、以降はオランダが独占するよ
うになった。しかし英国の反オランダ世論は盛り上がり、ジョン・ドライテンは『アンボイナ悲劇』 を上演した。後のラッフルズ(→338)の東南アジアに対する思い入れにはオランダに対する強 い反感があった。
アンボンに続きバタビアの攻防戦(1623年)において英国とバンテン王国(→261)の連合軍に
オランダが勝って、その後、香料貿易はオランダ東インド会社の独占となり、マラッカ、ジャワ 島、モルッカ諸島を結ぶ広大な地域の通商を支配することとなった。
近代化の早かったオランダの国力は18世紀の前半までは英国の国力を上回った。英国は
オランダと競合しない北米、インドを拠点に力を増し、19世紀になってようやく大英帝国として 世界に君臨した。 ⇒当時のオランダ人に扮装
英国の香料諸島からの撤退のエピソードを紹介したい。バンダ諸島(→232)の西にルン
(Run)島という小島がある。近くのネイラッカ(Neilakka)島と併せて1615年以来、英国の拠点で あった。飲料水、食料が自給できないというハンディがあったため、オランダの圧力に屈して 1628年に引き上げた。しかし島は英国の主権下にあった。
1667年のブレダ(Breda)条約によって英国はバンダ地域のすべての利権(実際はルン島の
こと)を放棄した。その代わりに英国がオランダから得たものはマンハッタン島である。ニューヨ ークの中心のマンハッタン島の今日の価格はバンダの小島とは天地の差があることは言うま でもない。マンハッタン島の譲渡により、それまでのニュー・アムステルダムの地名はニュー・ヨ ークに改名された。
当時、英国とオランダは抗争中であり、英国は海戦で敗れ、ロンドンの火事やペストで厭戦
気分にあった。オランダが優位な状況な中でオランダはあえて北米の拠点を捨ててまでモルッ カ諸島に固執した。
現在の位置
オランダ東インド会社(VOC)はバンテン港に拠点を設けていたが、バンテン王国(→261)の
掣肘(せいちゅう)を逃れるため、90km東のチリウン河口のジャカトラ(今のジャカルタ)の地に転 進し自らの拠点を築いた。当時のジャカトラはバンテン王国に従属する領主が存在する小さな 港市であった。
VOCは1613年に商館(注)を設けたが1617年に放火された。1618年、河口の入口に倉庫と
建物を築き砦にした。チリウン川に沿って町並みを区画し、バタビア(Batavia)と改名した。バ タビアの語源はオランダのラテン語名のバタビィにちなむ。
VOCはバタビアを東インドの本拠地とした。堀で囲まれたバタビア城は300b四方の中に四
隅に要塞を構えて外からの襲撃に備え、2〜3千人の兵士が常駐した。事実、バタビアは敵に 囲まれていた。バンテン王国はバンテン港を袖にしたバタビアを憎み、商売のライバルである イギリスと共同してバタビアを攻撃したが、VOCはしのいだ。
バタビア城最大の危機は1628年と1829年の二回の中部ジャワから遠征してきたスルタン・ア
グン(→337)の率いるマタラム王国の大軍に包囲された時である。第4代総督のクーン(→336) は必死の防戦により商館存亡の危機を逃れた。 ⇒バタビアにあったクーン総督像
以降、バタビア商館はヨーロッパ勢からも現地勢からも脅かされることなく東インドの拠点とし
て中国、日本への交易にも拡大し、バタビア商館の存在は不動のものとなった。
今日の大ジャカルタの起源は300b四方のバタビア要塞であった。初めは教会、公会堂、事
務所、監獄、兵舎、兵器庫などすべてが要塞の中にあり、商館の従業員の住居や倉庫も設け られたが、要塞の中では手狭であったので隣接地に町が形成されるようになった。
バタビアはバンテンと同様に当時の航海に重要な季節風の交差する地点で、マラッカ海峡と
スンダ海峡の両方をにらんだ海上交通の要所である。海に開かれた地点で地元の商人のみ ならず中国人、インド人、アラビア人等の集まる国際交易都市となった。
VOCのバタビア統治は民族別にカピタン(capitan)を任命し、カピタンに統御させる間接統治
であった。家事使用人にはアフリカやインドから奴隷が連れてこられた。後にバリ人が取って 代わるようになった。ジャワ人やスンダ人は地元勢力との内通を恐れて意図的に避けられた。
市街の建設はオランダの都市に倣(なら)っておこなわれた。ただしバタビアは泥砂地である
ため、石さえも船で搬入した。町は塀と堀によって囲まれたコタ(→156)には今日もオランダの 雰囲気を残している。 ⇒バタビア市街図 ⇒VOC時代の倉庫
VOCの当初の営業活動は香辛料をヨーロッパへ持って帰ることであった。オランダの通商
支配が拡大するにつれ、ケープタウンからインド、セイロン、中国、日本のアジア各地の拠点に "商館"を配置し、バタビアはVOC全商館貿易の総元締めであった。これらの商館を結ぶ中継 貿易の利益も莫大なもので、中でも長崎商館は稼ぎ頭であった。
現在の位置
当初の東インド会社(VOC)が求めたのは通商の独占権のための《点と線》であり、《領土》そ
のものには関心はなかった。しかしインドネシアの地に打ちこまれたバタビア商館という"くさび "が「オランダ領東インド」の濫觴(らんしょう)であった。
VOCはマタラム国王に豪華な土産物を贈呈した。もっと欲しがると金を貸し、担保にジャワ海
沿岸都市の商権を求めた。借金が返せなくなると会社は貿易独占の特権を手にした。さらに 借金の代償としてジャワ海沿岸の領土が会社の支配下になった。
初めは領土に関心のなかったVOCも次第に領土支配による徴税、独占販売に魅入られるよ
うになった。マタラム王国はジャワ海沿岸部の領土から次第に内陸部へ蚕食された。永積昭 教授はVOCが「陸にあがる」と表現している。
ジャワの直轄地は維持コストの面からも"株式会社"の範疇(はんちゅう)をこえる存在(注)にな
った。
1799年、破産状態になったVOCは解散し、会社の直轄地は「オランダ(蘭)領東インド(Dutch
East Indies)」としてオランダ国が直接支配する植民地となった。
19世紀は英国・仏国を含めたヨーロッパ勢は植民地獲得に走り、世界地図の各所に領土を
拡大することが国威の発揚となった。そのための手段は常備軍による武力征服である。オラン ダから兵士がリクルートされたが、オランダの人口の少ないため白人ならば誰でもよかった。 蘭印軍にはヨーロッパ各地の様々な国籍の兵士がいた。
最下級の兵士には原住民の傭兵をあてた。ジャワ人ではなく、外島のキリスト教徒のアンボ
ン人(→622)、ミナハサ人(→620)を兵士としてジャワ島へ連れてきた。別の民族を番犬に仕立 てる民族の分割統治は英国のインド統治のグルカ兵が著名である。
領土の取得のためには武力に加え、内紛を利用した。争いの種がなければ火種をつけて煽
動もやるというのが、オランダに限らず植民地帝国の常套手段であった。王位継承に介入して 御しやすい王を盛り立てる。王位継承戦争になれば状況によっては調停者面をして王国を分 割し分け前をとる。⇒バタビア(1750年)
「分割して統治せよ」に従い、マタラム王国は4王家に分割された。パイの好いところを削り、
小さくなったパイが温情で残された。王侯領といえど統治はオランダ人の理事官が把握してお り、機会あるごとに口実を設けて賠償金をふんだくった。
支配地からの収奪を第一とする政治機構は住民に対する封建的権力は強化され、旧組織
が利用された。ジャワ支配は旧地方領主がブパティ(Bupati)という県知事に任命され、配下の プリヤイ(→629)を束ねていたが、オランダ人理事官による指導監督を受けた。
植民地体制では支配者のオランダ人と最底辺の原住民社会の中間階層に華僑が存在して
支配機構に寄生していた。これら3つの民族は別個の社会を形成し、他の社会とは没交渉で あった。このような社会構造は"複合社会"といわれた。⇒ダーンデルス総督
当初のオランダ領はVOCから引き継いだジャワ島に限られていたが、最終的にはインドネシ
ア全域に拡大し『オランダ領東インド』植民地へと巨大化した。
現在の位置
ナポレオンの率いるフランス軍がヨーロッパ中を掻きまわしていた頃、ナポレオン戦争の余
波はアジアにも押し寄せ、オランダはナポレオンに屈したためオランダ(蘭)領東インドはフラン スの支配下になった。フランスと敵対する英国のインドのカルカッタにあった英東インド会社は ラッフルズの提言のもとに、1811年、インドの軍隊を動員してバタビア(前々項)を占領し、蘭領 東インドは英国の支配下(注1)に入った。
この計画はラッフルズがインド総督のミントーを説き伏せて推進したもので、現地の独断専行
にロンドンでは苦り切った。とにかくアンボン事件(→273)で一度は撤退した香料諸島への英国 の捲土重来(けんどちょうらい)であった。
オランダの植民地政策を憎んでいたラッフルズはジャワ副総督としてジャワへ乗り込み税制
改革、奴隷制の廃止などに成果をあげた。ラッフルズの実際の統治は民生を配慮するヒュー マンな観点を有していた。またラッフルズ個人の素質であるが、学術面においても目覚しい活 躍をした。ただしジョグジャカルタの王宮を攻め、反抗的であったスルタンを廃嫡(はいちゃく) するなど帝国主義的手法はオランダと同じであり、インドネシアにおけるラッフルズの治世の評 価は高いわけではない。⇒ラッフルズの肖像画
ナポレオン没落後のヨーロッパの正常化に伴い、ラッフルズの反対にもかかわらず、1816年
ジャワ島は再びもとのオランダに返還された。イギリスとしてはフランスを牽制するためにはオ ランダを敵に回さないという高度の政治判断の結果であった。もっとも英国は別途セイロン(現 在のスリランカ)、ケープ植民地をオランダから巻上げるために東インドだけは返さざるをえな かったのであろう。
ジャワ島を引上げロンドンに戻ったラッフルズは東南アジアへの執心絶ちがたく英国支配下
のスマトラ島のブンクル(→099)に戻った。彼はスマトラ全島の支配をもくろんだが、ヨーロッパ 情勢から許されなかった。英国としてはオランダの既得権益は侵さないという制約の下でラッフ ルズが目をつけたのがシンガポール島である。
ラッフルズの再来に備えてオランダはスンダ海峡(→037)、バンカ島(→104)、パレンバン(→
102)、リアウ諸島(→094)の防衛に手を打っていたが、マレー半島のジョホール王家に属するシ ンガポール島は盲点であった。
ラッフルズはシンガポール島を占拠し短期間に市街地を建設し居住者を送り込み、シンガポ
ールが英国の拠点であることを既成事実にしてしまった。ラッフルズの専断に始めは困惑した 英国も東南アジアの拠点のみならず中国への航路の確保を意図していたため、シンガポール は絶好の地であることが結果論として分かった。⇒シンガポールのラッフルズ像
その後、1824年の英蘭協約によってスマトラ島側のイギリスの権益地のブンクルとマレー半
島側のオランダの権益地のマラッカは交換された。両者の勢力圏の境界線(注2)をマラッカ海 峡とし、シンガポール島が英国の主権下にあることをオランダは認めた。
現在の位置
スルタン・アグン王(→337)の包囲を脱して以降、VOCは策略と武力でマタラム王国を思うが
ままに蹂躙(じゅうりん)した。ジャワ北岸の商権を取り上げマタラム王室を内陸に逼塞(ひっそく) せしめたが、ジャワ側の抵抗もあった。
17世紀末のバリ人奴隷のスロパティの反乱(→143)はオランダ支配に対し兵を挙げた最初
の叛乱であった。マラタムの元国王アマンクラット3世はスロパティに同調したが、VOCは王室 を恫喝して反乱者を孤立させて難を免れた。
1740年、VOCに対する華僑の反乱である紅河事件(→667)の報を聞いたパクブォノ2世(→
251)はVOCに奪われた特権を取り返す好機とばかり叛旗を翻した。しかし華僑の反乱はたち まち鎮圧され、マドゥラ軍の援軍を得たVOCに屈し、パクブォノ2世は謝罪して王位を認めても らった。マタラム王国に距離のあるマドゥラ島の領主(→263)を番犬代わりにしてジャワ王室を 牽制した。後にはアンボン人(→622)やミナハサ人(→620)をオランダ側の傭兵にし、民族別分 割統治による植民地支配の範となった。
しかし19世紀のディポヌゴロ王子の叛旗はオランダの心胆を寒からしめた。王子はオランダ
の植民地支配に対して立ち上がり、1825〜1830年にジャワ中部から東部で戦われ、「ジャワ戦 争」といわれる。被支配者であるジャワ人が王族を指導者として、支配者であるオランダと戦っ た反植民地闘争である。
当時、オランダ人農園の進出によりジャワ島は農地まで侵略され、社会は動揺していた。中
部ジャワではコレラの流行(1821年)、ムラピ山の噴火(1822年)があり、物価の上昇で人民の生 活は困窮し社会不安が増大していた。しかるべき指導者の登場だけが待たれる状況であっ た。⇒ディポヌゴロ騎馬像 ⇒ディポヌゴロ像
ディポヌゴロ王子はオランダが道路建設のため行った土地収用をめぐる宮廷内の紛争をき
っかけに反オランダを明らかにした。オランダとしては王族を舐めていたが、ディポヌゴロ王子 の言動に不安を感じたオランダ側の先制攻撃で戦争が始まった。
一度ディポヌゴロ王子が立つやラトゥ・アディル(→339)の出現としてイスラム指導者や宮廷
内の現状不満派の貴族や兵士が集結し、ジャワ挙げてのオランダへの反乱の色彩をおびた。 宗教指導者キヤイ・モジョ(Kyai Mojo)も参戦し、宗教戦争の側面もあった。
ジャワ反乱軍はオランダ人やオランダ側の中国人、王室をも攻撃した。しかしオランダ側が
要塞を設けて近代武器で反撃するや次第に反乱側は不利になり、貴族を始め、戦争指揮者ス ントット(注)やキヤイ・モジョの離反が相次いだ。それでも5年間のゲリラ戦を続けることができ たのはジャワ民衆の支持があればこそである。
17世紀のジャワ王位継承戦争はジャワ王室の内輪もめにすぎなかったが、19世紀のジャ
ワ戦争の意味は異なり、植民地確立を目指すオランダと抵抗するジャワ人の間に死者20万人 を出した総力戦であった。
現在の位置
交通の不便な時代はインドネシアからメッカ巡礼(→816)を行うことは非常に困難なことであっ
たが、スエズ運河の開通に伴い、汽船がインド洋を行き交うようになりインドネシアのムスリム のメッカ巡礼が容易になった。
19世紀のメッカではイスラム教の中で復古主義を唱えるワッハーブ派によって厳しい戒律が
聖地を支配していた。たまたまこの時期にスマトラ島から巡礼に出かけたミナンカバウ人3人 の巡礼者は聖地メッカを支配するイスラム教の厳しさに感動した。
彼らは生まれた時から馴染み信じてきた故郷のイスラム教はメッカの正統のイスラム教から
かなり乖離したものであることを悟った。1803年、故郷に戻って3人のハジはイスラム戒律の 強化運動を始めた。それがパドゥリ(Padri)である。イスラム改革派のパドゥリは宗教を優先さ せ、ミナンカバウ社会伝来のアダット(→588)という慣習を攻撃した。このことは伝統のミナンカ バウ社会を維持しようとする保守勢力の反発を招いた。⇒西スマトラのモスク
《慣習派=黒派》と《改革(パドゥリ)派=白派》の間のミナンカバウ内部の対立はやがて武力
で争うようになった。これがパドゥリ戦争(1821-45)の端緒である。村の有力者は慣習派を支持 していたが、改革派に押され気味になったことから、当時、西スマトラを支配していた英国に支 援を要請しその介入で一時的安穏を得た。⇒植民地軍
その後、1824年の英蘭協定でスマトラ島はオランダの支配下に変更された。オランダも両者
の争いに介入して慣習派を支持したが、宗教に鈍感なオランダはモスクを汚すような失態を演 じ住民全体を敵にするに及び、パドゥリ戦争は宗派間の宗教戦争からオランダの植民地支配 に対する反植民地民族抵抗戦争の様相をおびだした。
結合したミナンカバウ人は名門の出身で尊敬されていたボンジョル地区の指導者イマム・ボ
ンジョル(Imam Bonjol 1772-1864)を統率者としてオランダ支配に抵抗を再開(1834年)し、戦闘 は熾烈を極めた。⇒イマム・ボンジョル
最終的には、植民地政庁は兵を増強して近代兵器を使用して反乱軍の立てこもるボンジョル
砦を攻めた。力つきたイマム・ボンジョルは降伏し、西スマトラは完全にオランダの支配下に入 った。捕えられたイマム・ボンジョルはディポヌゴロ王子(→340)と同じくマナドに追放されそこで 客死した。
パドゥリ戦争は《宗教戦争》に始まり、《民族抵抗戦争》として終った。その後も若干の抵抗は
あったが、西スマトラにオランダの植民地支配が確立した。しかしスマトラ島のパドゥリ戦争に よる抵抗はアチェ戦争(→281)に引き継がれたともいえる。
オランダに刃向かつたイマム・ボンジョルはインドネシアの国家英雄としてジャワのディポヌゴ
ロと並び称される。ジャカルタのメンテン地区の《ディポヌゴロ通》は《イマム・ボンジョル通》に繋 がっている。
現在の位置
オランダが植民地帝国にいたる経緯はバタビア・マカッサル・アンボンという点と線の支配か
らジャワ島を領土化し、スマトラ島、スラウェシ島、ボルネオ(カリマンタン)島、さらにニューギ ニア島へと面の支配へと変革をとげ、オランダ領東インド、即ち、今のインドネシアの領域が地 図上に明確化されていった。
オランダ領東インドになる地域には大小の王国の主権国家が存在していた。これらの王国を
オランダ領にした手法をパターン化すると
(a)廃絶された王国を列記するとアチェ王国、バタック王国、ミナンカバウ王国、シアク王国、
パレンバン王国、バンテン王国、バリ王国、バンジャル王国、ゴワ王国である。攻め入るオタン ダに歯向かい武力戦争となって滅びた王国もあったが、多くは策略と陰謀で廃絶にした。
(b)ジャワのマタラム王国は形骸化(けいがいか)されて存続した。英国の基本的にbによるマ
レー半島支配と比べるとオランダ支配はaが多く植民地支配が熾烈(しれつ)であった。
武力や策略で王国を潰す一方、bのために"簡易宣言"という方法がとられた。簡易宣言とは
次のような内容の植民地政府と地元の土侯(注)の間で結ばれた条約である。
○土侯はオランダ領東インド政庁の主権を認める、
○土侯はオランダ以外の外国と政治的な関係を持たない
○土侯は東インド政庁から課されるすべての義務と命令に服する
オランダは田舎スルタンを持ち上げこの地に宗主権を持つアチェ王国とシアク王国から開放
し、土地に主権がある領主にした。この領主と土地の貸借契約をして合法的に土地を取得し た。これによってゴムの大規模なプランテーションが開発され領主も潤った。
ジャワ島でスルタンはマタラム王朝の由緒ある称号であるが、植民地時代のスマトラ島やカ
リマンタン島ではオランダによっていくつかの傀儡(かいらい)のスルタンが擁立された。
19世紀のヨーロッパ諸国は植民地領土の拡大に狂奔した。これは市場の確保という〈経済
的動機〉のみならず、地球の裏側にまで国旗を掲揚し国威を世界に高揚するという〈政治的動 機〉が強くなり、アジア・アフリカが植民地帝国主義の餌食となった。
植民地争奪戦においてオランダは早くから東南アジア島嶼部に進出していたという優位性か
ら、20世紀当初には今のインドネシアの地域をオランダの植民地として編成し、自らの本国の 数十倍の面積と人口を有する"東インド"に植民地帝国として君臨した。
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蘭領東インドの歴史においてバリ島がオランダの完全支配下に入ったのは20世紀(1908
年)になってからである。それまではオランダにとってバリ島とは特産品はなく奴隷の供給地で あった以外はさして魅力のある島ではなかったので放置されていた。
しかしライバルの植民地帝国である英国がシンガポールを拠点にオーストラリア、ニュー・ジ
ーランドを結ぶ航路としてロンボック海峡に関心を持つ様子が見られたため、オランダとしては バリ島を防衛せざるをえなかった。
たまたまバリ島近海での難破船の荷物をバリ人が拾得する事件があった。バリ人の慣習に
よれば難破船の荷物は"海からの贈り物"であるが、オランダとしては黙認するわけにはいか なかった。賠償金を払えという植民地政庁の命令に「槍の先で賠償金を払ってやる」の回答を 受けて待ってたとばかりバリ島への侵略を開始した。
バリ戦争といわれる3回にわたる遠征(@1840-43年 A1848年 B1849年)を行った。第1回
でオランダの宗主権を認めさせた。しかしブレレン王国が不服従を明らかにしたので、第2回 の遠征軍を派遣したが、手痛い敗北を受けたため、12,000人からなる第3回の遠征を行った。
ブレレン王国、カランアセム王国のロンボック海峡に面する王国を制圧した。バリの覇権が
及んでいたロンボック島へもササック族(→213)のバリ人支配に対する反乱に乗じてオランダ が進出しロンボック海峡を確保した。
オランダはバリ島に一応の覇権を立てたが完全に制圧したわけではない。バリ南部の王国
のうちいくつかはオランダに懐柔されたが、小王国相互の対立から当時、ギャニアール王家が 周りの王国から嫉妬のため圧迫されて亡命していた。
バリ王国の中には懐柔された王国、あるいは降伏して牢に繋がれたのを恥じて自殺した王と
様々であるが、この中で劇的なものはププタン(→172)として知られるバドゥン王国とクルンクン 王国の終末(1908年)である。
オランダは敵対する王家は滅ぼしたものの、その後は再び王家を復活させて身分的特権を
認知した統治機構をそのまま残し、伝統的村落社会を保存しようとした。カースト制度(→642) もオランダ支配の下でむしろ強化されたという。⇒オランダ支配下
宗教や文化に対しても保護しようとしたのはバリ島征服での"野蛮人オランダ"の悪名を気に
したププタンの罪滅ぼしであろう。しかし文化保護主義で望んだオランダも奴隷制と妻妾を生き たまま火葬の際に殉死するムサティア(→651)だけは止めさせた。これもバリ島侵略を正当化 するためのポーズであるとも言える。
アヘン貿易の掌握など経済面の搾取には熱心であったが、外国人による土地の収用を禁じ
たのでジャワ島のように大農園制度は発達しなかった。
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19世紀半ば頃、オランダとイギリスの勢力関係が拮抗しており、アチェ王国は両者の勢力の
バランスの中で独立を維持できた。王国の経済的基盤は胡椒の生産であった。1824年の英蘭 協定の結果、マラッカ海峡を境界としてスマトラ島はオランダ、マレー半島は英国に縄張りを決 めた。スマトラ島全島がオランダの勢力圏となったが、アチェ王国の現状維持が認められ、独 立国家としてトルコにも大使館をおいていた。
東南アジアへの進出は英国に加えてフランスがインドシナ半島に進出してきており、ドイツも
虎視耽々と機会を窺っていた。ヨーロッパの植民地帝国の分捕り合戦の中でオランダはアチェ 王国が他のヨーロッパ勢に屈してマラッカ海峡を支配されることを恐れた。
1873年、オランダはスマトラ島支配の最終仕上げとしてアチェ王国に侵略した。その前にオラ
ンダは英国に干渉させないように1871年スマトラ条約を結び、アフリカの黄金海岸を英国に譲 り準備を整えた。⇒植民地軍兵士
オランダの侵略にアチェ王国はスルタンの下に結束して撃退したが、12月の再侵略に王都
は占領され、スルタンは病死した。ウレーバラン(Uleebalang)というアチェの領主層はオランダ の宗主権を認めることで旧権力の保証と引き換えに1878年に降伏した。
1884年イスラム教の指導者であるチック・ディ・ティロ(Cik Di Tiro 1836-91)が聖戦(ジハード)
を唱え宗教関係者を糾合し、農民を組織して立ち上がりゲリラ戦を展開した。彼はアチェの勇 士の一人としてゲリラ戦を指揮して死亡した。第2期アチェ戦争である。
スヌック・フルフローニェ(C.Snouck Hurgronje 1857-1936)というオランダの学者はアチェ社
会とイスラム教を研究し、アチェ社会はウレーバラン貴族層と宗教指導者が対立関係にあるこ とを明らかにした。植民地政庁は彼の助言に従い、貴族層を分離させ味方にすることによりア チェを弱体化した。スヌック・フルフローニェはオランダ有数のイスラム学者であるが、アチェ人 からは憎悪されている。
1903年に蘭印軍はウレーバラン層を降伏させ、1904年ガヨ・アラス地方(→085)を征服し、ア
チェ軍指揮者の女傑チュッ・ニャ・ディンを捕らえたことでアチェ戦争は終わりとされている。し かしアチェの抵抗はその後も1912年まで継続した。
アチェは独力で抵抗し30年にも及ぶ「アチェ戦争(1873-1912)」を戦った。アチェは胡椒の産
地であり、その資金でもってシンガポールで武器を調達した。後半のオランダとの戦いは反植 民地戦争というよりは宗教戦争であった。アチェ人は精悍かつ勇猛な民族としてオランダ人の みならず、その傭兵として参加したアンボン人、ジャワ人などの肝に銘ずるところとなった。
第二次世界大戦後、オランダはインドネシアに戻ってきたが、アチェへは一歩も入れなかっ
た。
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これらの熱帯作物を確保するために導入されたのが1830年に開始された「強制栽培制度」
である。この制度はジャワ農民に農地の20%に指定した作物を植えさせ、政府は指定した価格 で作物を買上げるというものである。“強制”の修飾語は第三者の命名で植民地政庁の用語 は単に「栽培制度」である。
最初に東インドネシア会社が直轄地として入手した西ジャワのプリアンガン(→106)で農民に
コーヒーの栽培を試験的に実施させてよい成果を得た。味をしめたオランダはプリアンガン方 式としてジャワ島全体へ拡大した。本格的な実施は1830年、東インド会社を引き継いだオラン ダ東インド総督になったヨハンネス=ファン=デン=ボス(注1)(Bosch)によって始められた。
江戸時代の"五公五民"という苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)と比較すると20%は一見穏やかな制
度に見える。しかし人頭税など本来の税とは別である。また作物の買上げ価格が安いのはも ちろん、ジャワ人貴族の封建支配によるピンはねに加え慣れない作物であるため農民の指定 作物に費す時間と労力は20%どころではなかった。
さらに作物を指定場所まで運ぶ労力などで農民に多大の負担をかけた。もちろん農民の得
たわずかな金銭収入は別途に地租として召し上げられた。東インド政庁直営コーヒー園もあっ たが、強制栽培地と比較すると成績が悪かった。
植民地政府が指定した栽培作物はコーヒー、砂糖きび、藍その他に茶、煙草、綿花、胡椒で
あるが、コーヒーが代表作物であった。砂糖、藍は水田に栽培され、米の生産に影響を与え た。藍のような不運な作物を指定された農民は生活に困窮してやがて倫理主義(→283)が唱え られる所以となった。
いずれにしろこれらの熱帯商業作物は大量にヨーロッパへ輸出されてオランダに莫大な利
潤(注2)をもたらした。これによって得た膨大な利潤は東インド植民地政庁の負債のみならず オランダ本国の負債も償うものであった。⇒スマトラ島
1830年、オランダ本土の南部からベルギーを分離独立させた痛手にもかかわらず、アムステ
ルダムの煉瓦作りの古い町並みとそれを写す運河の静かなたたずまいの歴史の重さ感じさせ る風景は、この国がかつては世界の一流国であったことを偲ばせる縁(よすが)である。これを 支えたのがジャワ農民の膏血(こうけつ)であった。
強制栽培制度はジャワの村落共同体にも影響を与えた。植民地政庁は村長に権限を拡大し
て行政機構に組み入れ、村長を通して指定作物の栽培を強制した。もちろん村長には多大の 収入を与えたが、村長と村民の間は遊離し村落共同体は分極化に向かった。
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強制栽培制度がもたらしたものとしてジャワの農業発展という面もある。結果的にジャワ島の
人口が600万人から950万人に増えたことはジャワ島の農耕地開拓により生産力がアップした からである。しかし、強制栽培制度がジャワ農民の疲弊をもたらしたことも事実である。強制栽 培の作物のため米つくりは後回しになり、1843-48年には中部ジャワで米不足のため多数の 餓死者を出すに至った。⇒ジャワ人支配階級
このような植民地の悲惨な状況にオランダ国内からも批判が生じた。ムルタトゥーリ(→970)
が自らの植民地官吏の経験を基に植民地の収奪の実体を暴露した『マックス・ハーフェラー ル』という小説はオランダのみならずヨーロッパの有識者に衝撃を与えた。
国家重商主義から民間自由主義への経済の転換期であったこともあり、強制栽培制度は
1860年代より利益の上らない作物から順次廃止された。
次に1901-1927年間の開明的植民地政策として知られるのが倫理主義政策である。オラン
ダの進歩的思想の下院議員ファン・デーフェンテル(van Deventer 1857-1915)がその主導者 であり、オランダはジャワ農民に対して“名誉の負債”を負い、植民地住民への倫理的責任と 道徳的義務があるというものである。1898年に即位したオランダのウィルヘルミナ女王が1901 年議会開院式で宣言した。
“名誉の負債”とは直訳で日本では馴染みのない言葉であるが、その意味は法的には支払
義務はないが、紳士は道徳的に負債と見なすものである。例えば賭博で素寒貧にした相手に 勝者は少なくとも帰りの電車賃を恵んでやるくらいのことはしなければならない、という負債で ある。
ジャワの農民を死ぬほど搾取しておいて名誉の負債としか思っていないところは植民地帝国
の植民地帝国たる所以以外の何物でもないが、植民地からいかに純益をあげることだけに専 念していた純益政策による当時の植民地支配の実態からは画期的な開明思想として評価され た。⇒オランダ支配(漫画) ⇒ススフナン
倫理主義実践ための具体策は、@キリスト教の布教、A権力分散、B住民の福祉、C教育
である。そもそもオランダは宗教(注)よりも金儲けの優先する国であったことは日本の島原の 乱の時の行動からも明らかである。このオランダも倫理主義政策の一環としてキリスト教の布 教に助力した。もっともキリスト教の布教は原住民の分断統治の一面を持っている。
権力分散とはバタビアの東インド政庁に権限を委譲することで原住民への権限委譲ではな
い。植民地原住民への福祉も搾取の度合いから見れば雀の涙ほどである。
それまでのオランダの教育の考え方は愚民政策を旨としたが、その原住民にもようやく教育
の機会が与えられようになった。しかし教育を受けた原住民に芽生えたものは、民族意識であ り、やがて植民地からの独立という時代の流れは留まることのない奔流(ほんりゅう)へと発展し た。
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オランダ人はオランダ領東インドは世界に誇る模範的植民地であると自負していた。オラン
ダ人は心の底から彼らの"東インド"を愛していた。多くのオランダ人は退役後、バンドゥンかマ ランに小奇麗な家を持つのが念願であった。あるいは高原の涼しいプンチャクに別荘地を持て ば暑さも解決できる。暗いオランダの冬を思えば東インドは太陽に満ち溢れていた。
東インドのオランダ人とマレー半島の英国人のパターン化した生き方を比較すると、一般に
英国人は植民地の勤務を終えるとサッサと祖国へ帰り、自らの文化を墨守した。オランダ人は 現地の風俗、習慣を取り入れた。オランダ人と現地女性との混血児は英国人の現地女性との 混血児より多かったに違いない。現地の住民がトゥアン(→886)として敬(うやま)ってくれたの は、それなりのことをしてやったという自負があった。⇒スマランのラワン・セウ
しかし植民地社会は変化しつつあった。被支配者である原住民の虐(しいた)げられていると
いう怒りは民族意識の形成となり、民族意識に目覚めた知識層によって、また、階級意識に目 覚めた労働者層によって、あるいは、不服従運動の農民によって、大きな潮流となってオラン ダ植民地体制を脅かした。⇒オランダ建設の灌漑設備
1930年代には極東では日本が台頭しアジア民族の解放を呼び掛けた。第二次世界大戦の
勃発により1942年3月、日本軍の攻略に蘭印軍は一週間余りで降伏し、オランダ領東インド(蘭 印)政庁はオーストラリアへ遁走して亡命政権となった。
1945年8月、日本の敗戦によりオランダはニカ(→318)と名を変え戦勝国の一員として意気
揚々として良き東インド時代への復帰を求めてインドネシアに戻った。トゥアンが戻ったと歓迎 されることを期待していたが、従順であったはずのインドネシア人はかつてのトゥアンに白い目 を向けたのみならず、武器を持って追い出しにかかった。
日本人が間違った教育をして彼らを悪くした、としか認識しえなかったオランダはインドネシア
の独立宣言を無視したが、インドネシア人はひるまなかった。独立を目指すインドネシア人に 対してオランダは植民地帝国の悪の権現として国際的に糾弾され、ハーグ協定(→330)のイン ドネシア独立は承認された。オランダ領東インド植民地の瓦解(がかい)により350年のオランダ の栄光は失われた。
民族自決のナショナリズムの高揚、植民地解放の大義は第二次世界大戦後の世界の奔流
となり、インドネシアはその後のヨーロッパ諸国の植民地下にあったアジア・アフリカ諸国の相 次ぐ独立の先駈けであった。
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