C−5章 日本の占領統治
298.太平洋戦争 299.ジョヨボヨ王の予言
300.ジャワ占領 301.3A運動
302.大東亜会議 303.南方特別留学生
304.プートラとジャワ奉公会 305.ロームシャ/労務者
306.ヘイホ/兵補 307.農民の反乱
308.ポンティアナック事件 309.ペタ/郷土防衛義勇軍
310.ブリタルの反乱 311.独立養成塾
312.独立準備委員会 313.遅すぎた独立承認
314.日本の敗戦 315.青年グループの台頭
316.レンガスデンクロック事件 317.独立宣言の起草

C−5.日本の占領(注釈と資料)
C−1ジャワ王朝史 C−2地方王権 C−3オランダ支配史 C−4民族意識の形成 
C−5.日本の占領 C−6独立戦争 C−7人物列伝 C−8日本との関係史



C−5 日本占領統治

298.太平洋戦争

 第二次世界大戦に突入前の日本が敵意を持つ国に包囲されている閉塞(へいそく)状況を
ABCD包囲網といった。Aはアメリカ、Bはブリティッシュ(イギリス)、Cはチャイナ(中国)、Dは
ダッチ(オランダ)である。オランダとはオランダ植民地の蘭印政庁のことである。
 日本が中国との戦争打開のために行った仏印侵入が、かえってアメリカの反発を招き、1941
年8月のアメリカの対日石油輸出禁止宣言にBCDが従った。
  石油がなくなれば軍艦、飛行機は動かすことは出来ない。日本は、@アメリカの脅しに屈し
て中国から撤退する、or Aアメリカと戦争する、の選択肢しか残されなかった。
  日本が行った選択はAである。出来るだけ速やかに南方を占領して資源を獲得しアメリカと
の長期持久戦に備えることとした。日本にとって南方の豊かな資源は垂涎(すいぜん)の的であ
った。インドネシアに最も期待したのは石油と飛行機製造の原料であるボーキサイト(→552)
ある。
 大陸政策を優先していた日本が東南アジア地域に目を向け、"南進論"を国策として明確に
したのは1936(昭和11)年である。東南アジアを日本の利益圏として進出を図った。日本は戦
争に訴える前に平和的手段による資源確保の努力はした。
 1940年9月、日本政府は小林一三商工大臣を代表とした使節団を蘭印政庁のバタビアに派
遣した。日中戦争継続中の日本は石油、ボーキサイト、錫、ゴムの南方の資源が不可欠であ
り、その確保を目指すものであった。⇒小林一三
日蘭会商といわれる外交交渉で72万トン石油輸入について合意したものの日本の欲しい数量
と差がありすぎた。石油開発に日本企業の参入を求める交渉も受け付けられなかった。日蘭
会商は外交ゼスチャーであって始めからダメモト交渉であった。
 艦船と航空機の燃料のジリ貧を図るABCD包囲網の中で日本が打った起死回生の、結果的
には「やけくそ」の手が1941年12月8日の真珠湾攻撃であった。連合軍に宣戦布告を行い真珠
湾の攻撃と同時にマレー半島に上陸し、破竹の勢いで南下し、1942年2月15日、シンガポール
を攻略した。⇒日本占領軍の枢軸国歓迎
 第二次世界大戦の開始とともにオランダはドイツに破れ、オランダ領東インドはロンドンの亡
命政府下にあったが、現地の植民地政庁が日本に刃向かうには弱体であった。連合軍として
米英の支援はあったが、実際の援軍はアンボンなど東インドネシアに配置されたオーストラリ
ア軍だけであった。
 日本が本当に占領したかったのは蘭印であり、蘭印の資源、特に石油であった。1942年1月
24日バリックパパン(→193)、2月15日パレンバン(→102)を占領し、渇望していた石油基地を手
に入れた。
 ⇒地図、注釈と資料-298  

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299.ジョヨボヨ王の予言

 1941年12月8日、太平洋戦争開始に続く日本の蘭印侵攻は落下傘の降下に始まった。翌年
1月11日、海軍がスラウェシ島のマナド(→208)に、2月14日、陸軍がスマトラ島のパレンバン(→
102)を落下傘部隊が占領した。ジャワ島の攻略は1942年3月1日に始まり9日には全島を占領
した。⇒「空の神兵」降下 ⇒「空の神兵」降下
 鮮やかな日本の進攻はインドネシアの住民からジョヨボヨ王(注)の予言の実現として歓迎さ
れた。ジョヨボヨとはクディリ朝(→245)の国王であり、王の編纂したパラダユダ(→947)の深遠
なる言辞が予言としてジャワ人に銘記されてきた。
 「わが王国はどこからか現れる"白い水牛"の人に乗っ取られるであろう、彼らは魔法の杖を
持ち、離れた距離から人を殺すことができる」の予言通り、ジャワは魔法の杖(=鉄砲)を持っ
た白い肌の人(=オランダ人)に支配された。
 その予言の続きは「白い人の支配は長く続くが、やがて北からの"黄色の猿"の人が白い人
を追い出し、とうもろこしの寿命の間、この地を支配した後に"ラトゥ・アディル(正義の神)"の支
配する祝福される治世がくる」という。「天から白い布をまとって降りてくる」という落下傘部隊の
予言もあるらしい。
  日露戦争で日本が勝って以来、インドネシアをオランダの軛(くびき)から解放してくれる黄色い
人とは日本人であろう、とジョヨボヨの予言が密かにささやかれはじめた。日本(NIPPON)には
「Nanti Indonesia Perang Pula Orang Nederland(インドネシアはオランダ人と戦うだろう)」という
シンカタン(→964)が流布(るふ)されていた。
 このような願望と期待の中で日本の戦勝は見事であり、それまでの絶対支配者であったオラ
ンダ人が黄色い人の日本軍に敗れて捕虜になる有様は植民地でそれまで信じられてきた白
人優位の神話を目の前で根底から覆すものであった。
 日本軍は進攻に際し、後に国歌となったインドネシア・ラヤを放送した。オランダに政治犯とし
て捕えられていたスカルノ、ハッタ、シャフリル等の民族主義者は日本軍によって釈放された。

 ちなみにジョヨボヨ王の予言は日本軍によるオランダ撃退の予言が的中したばかりではな
い。ジョヨボヨ王の予言は今日も信じられている。予言の内容は「黒い蟻が清めた灰に卵を産
む」とか「孔雀が鰐を淫する」というような比喩(ひゆ)である。含蓄に富む比喩であるので色々な
解釈が成り立つ。⇒日本の軍票
 ジャワの救世王ラトゥ・アディル信仰(→339)もジョヨボヨ王の予言に基づく。ちなみにジョヨボヨ
はインドネシア独立に続く指導者の名前を【NO-TO-NE-GO-RO】と予言しているという。
 SukarnoとSuhartoと的中しているが、しかしそれに続く3代目ハビビ大統領、ワヒド大統領も
NEではなく、ジャワ人にとって暫定大統領でしかなかった。次に選出されたメガワティ大統領の
MEはNEに近かったが、2004年の選挙で破れた。
注釈と資料-299

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300.ジャワ占領

 1942年3月1日、日本軍はジャワ海海戦を潜り抜け、西部ジャワのバンテン湾(→115)、中部ジ
ャワのエレタン、東部ジャワのクラガン岬(注)の3方面からジャワ島に上陸した。日本軍の進
撃を止めるものはなく、3日ボゴール、6日バタビア、7日スラバヤ、レンバン、チラチャップを
占領した。
 8日に包囲されたバンドゥンのオランダ軍はカリジャティで停戦を申し出、9日にボールテン最
高司令官から無条件降伏の命令がラジオで全オランダ(蘭印)軍に伝えられた。
  ジャワ島にはオランダ軍に加えて豪州、英国、米国の連合軍は合計約10万人がいた。バンド
ゥンには5万人の兵を集結しており、これに対してジャワ島へ攻め入った日本軍は4万人であ
る。
 日本軍の進軍が目覚ましかったにしろ海際の戦いではかなり抵抗したオランダ軍が、一旦、
日本軍に上陸を許すと何故このように脆(もろ)かったのか。オランダは日本軍の兵力を20万人
と誤認していたといわれる。ボールテン軍司令官の上位になる英国の連合軍総司令官は既に
インドへ逃げていた。⇒日本軍 ⇒スラバヤの日本軍
  オランダが降伏を申し出た最大の理由はジャワの人民がこぞって日本軍を歓迎するのを目
の当たりにしてオランダ人は孤島に取り残されたことが分かったからである。彼らは数万人に
すぎない日本軍の背後に何千万人のインドネシア人を見た。
  オランダ軍が進軍の妨害のために道路へ切り倒した街路樹をどこからか現われた住民が取
り除いた。ご飯や果物の食料を手にした住民が沿道に集まり日本兵を迎えた。
  日本軍は解放軍のように振る舞い、インドネシア・ラヤ(→297)の音楽とともに進駐してきた
が、間もなく日本の正体は明らかになった。蘭印を占領したのはインドネシア独立を実現する
ためではなく、南方の資源確保、特に石油の入手のためであった。
 一旦、占領を完遂した日本は蘭印を軍政下におき、独立はもとより【インドネシア】という用語
(→290)にさえ慎重になった。⇒オランダ人捕虜
 日本は蘭印を直轄占領領土として軍政がしかれることになった。蘭印占領地の日本の軍政
支配は陸軍と海軍の間で地域別分担を行い、ジャワ島とスマトラ島は陸軍、それ以外のボル
ネオ島から東は海軍と縄張りを決めた。しかも陸軍はジャワ島を第16軍に、スマトラ島とマレ
ー半島を第25軍の管轄にしたことは、いわばインドネシアの三極分割であった。
 このような分断統治は日本軍部の縄張り意識の結果であったが、民族主義者が主張するイ
ンドネシア統合に水をさすものであった。民族主義運動はジャワ島を中心に進められ、蘭領全
地域を一括してインドネシア国の独立という高い理想は堅持された。
 ジャワ島司令官である陸軍の今村中将は融和政策でもって占領地に臨んだ。その意図はジ
ャワ島に対しては物資の確保が目的であり、このためには民族主義者を味方にする方がよい
という現実的判断があったのであろう。
注釈と資料-300 ⇒352.今村均将軍

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301.3A運動

 1939年ヨーロッパで勃発した第二次世界大戦の大波はアジアにも押し寄せ、南方進出を意
図した日本の工作が活発になった。日本がナチス・ドイツと同盟国であること、満州国という傀
儡(かいらい)国の実体が知られるにつれインドネシアの民族主義者の中には日本への警戒の
声もあった。しかし日本はヨーロッパの植民地帝国に対抗するアジアの国としてのインドネシア
人の思い入れは強かった。
 太平洋戦争勃発(1941/12月)とともにインドネシア・ラヤ(→297)の歌声も高らかに鳴らし、メ
ラ・プティ(→296)を旗めかせて、かのオランダを1週間あまりで下した日本軍に住民は熱狂し
た。⇒日本の技術指導 ⇒日本のポスター
 占領後の日本軍政下の宣伝部(→353)の主導のもとに清水斉によって進められた運動が3A
運動(Pergerakan Tiga A)である。【アジアの光=日本・アジアの守護者=日本・アジアの指導
者=日本】というスローガンである。この大袈裟(おおげさ)なスローガンに悪乗して精神主義を
説く日本には奢(おご)りがあった。
 解放者という触れ込みにもかかわらず一旦、蘭印(インドネシア)を占領するやインドネシア・
ラヤもメラ・プティも禁じ、日本への住民の期待は裏切られた。資源の接収、ロームシャの徴用
など帝国主義者の馬脚を現わしてきた。
 日本人の粗野な言動はすべてのインドネシア人が感じる苦痛であった。日本兵はすぐに「バ
カヤロー」とどなり、わずかのことでビンタをくらわした。これらの行為には日本的習慣をこえ原
住民への見下しを伴っていた。
 特に礼儀作法の厳しいジャワ人にとって日本人から受けた不当な侮辱は永久に消えないトラ
ウマとして残っている。人間としても日本人はオランダ人より程度が悪いと密かに軽蔑されてい
た。⇒日本軍と民族主義者
 日本軍は集会の機会に住民を整列させて日本の天皇陛下のいる東京の方角に遥湃(ようは
い)させた。いわゆる“皇居遥湃”である。イスラム教徒にとって神は唯一のアッラーであり、日
本の天皇陛下を神として認めることはできない。頭を下げてお祈りをするのはメッカの方角だ
けである。皇居遥湃の強制は熱心なイスラム教徒の反乱の原因となった。
 「日本占領時とは総括すればインドネシア人にとって次のような時代であった。
 青年達はニッポンゴを教えこまれ、トーキョに向かって遥拜し、ケイボウダン(警防団)、セイ
ネンダン(青年団)、スイシンタイ(推進隊)、ヘイホ(→306)、ペタ(→309)であった。娘たちは女
中に仕上げられた。インドネシア民族全体が"バカヤロー・ゲンジュウミン"と見なされたのであ
る」(タン・マラカ(→295)自伝Iより)
 しかし、日本軍政が必ずしも意図しなかったものであるが、結果として評価できるものもある
ことも事実である。@インドネシア語(→958)の普及、A青年団・婦人会などインドネシア人の組
織化、 Bインドネシア人の公職への登用、Cペタによるインドネシア人の軍事訓練である。
注釈と資料-301

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302.大東亜会議

 第二次世界大戦最中の1943年1月28日、日本帝国議会において東条英機首相は戦争で占
領したビルマとフィリッピンの独立承認を明らかにした。インドネシア独立についての言及はな
く、インドネシア人を失望させた。5月31日の御前会議で旧蘭領とマラヤは日本帝国の永久確
保地域とされたが、極秘扱いであり公表は差し控えられた。
  同年11月5日、東京で大東亜会議が開催された。日本の東条英機首相が主宰し、満州国の
張景恵総理、中華民国南京政府の汪精衛院長(注)、フィリッピンのホセ・ペ・ラウレル大統
領、ビルマのウー・バー・モウ首相、自由印度仮政府首班チャンドラ・ボースが一堂に揃った。
タイ国のワンワイタヤコーン殿下は代理出席である。⇒大東亜会議 ⇒大東亜共栄圏
 太平洋戦争を引き起こした日本を盟主とする大東亜会議に出席したメンバーは後に日本の
傀儡(かいらい)であったと断罪され、苛酷な運命を背負うことになる。しかし参加した当時は日
本とともにアジア解放の実現に誇りを持ったことも事実である。
 独立が認められていないインドネシアはこの会議に招かれなかった。本来は当然大東亜会
議のメンバーであるべきはずと思うインドネシアを慰撫(いぶ)するために、インドネシア代表者を
東京へ招待した。
  大東亜会議が終了し出席者が帰国した後の11月13日にスカルノはジャワ(インドネシアでは
ないことに注意)中央参議院議長として羽田に到着した。同行者はハッタとイスラム教徒代表
ハディクスモ(Hadikusumo)である。大東亜会議と日を数日ずらせたのは日本側の苦慮の策で
あった。インドネシアに対して忸怩(じくじ)たる日本は接待漬けで問題をあいまいにした。
 インドネシアの期待にもかかわらず、日本側は慎重な言いまわしで独立への言及を避け、イ
ンドネシアという用語さえタブー扱いであった。スカルノが独立要求を言いださないように根回し
をした。ジャワ代表としての日本側の扱いに同行者のハッタ(→443)はスマトラ島出身であるだ
けに面白くなかった。⇒日本語普及
 滞日17日間は連日の歓迎行事があり、昭和天皇との握手に青年スカルノは感激した。歓迎
行事の中には各地の工場見学も含まれていた。牢獄と流刑を繰り返してきたスカルノには日
本は生まれて初めての外国である。日本というアジアの国が備えた近代装備に驚いた。しかし
同行のハッタはオランダ留学の経験があり、日本の工場もそれほどないと見ており興奮するス
カルノをひややかに眺めていたであろう。
  日本が第二次世界大戦に参加し南方に進出した動機は石油への渇望であり、インドネシア
の油田を占領することであった。フィリッピンやビルマとは異なり、インドネシア占領は戦争その
ものの目的であった。
  仮に日本が民族主義者の願望である独立を認めても民族主義の盛んなジャワ島に限定し、
油田のあるスマトラ島やボルネオ島(→186)は日本領土に留めおくというのが日本の本心であ
った。
と資料-302
 
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303.南方特別留学生

 南方の日本の占領地域から国費留学生として約200名、インドネシアからは1943年に52名、
1944年に29名が招聘(しょうへい)された。
 選抜方法は地域で相違があったようである。ジャワ島では結果的にエリート階層の子弟が多
かったことから南方特別留学生は日本の占領地域から日本へ出された人質である、という見
解がある。南方特別留学生出身で日本で長く教職をされたアリフィン・ベイ(Arifin Bey)さんに
人質論について意見を求めたところ「スマトラ島の田舎の子である私に人質の価値はない」と
一笑された。
 倉沢愛子編著『南方特別留学生が見た戦時下の日本』はインドネシア出身の9名の元留学
生とのインタビューを編集したものある。⇒倉沢愛子著
 日本語教育を受け、日本とインドネシアの気候差を考慮して留学先に寒冷地は避けられた。
専攻によって宮崎(農業)、久留米(工業)、熊本(医学)、広島(教育)の専門学校に振り分けら
れた。2年目からは徳島(工業)、岐阜(農業)が追加された。 
 日本各地に散った留学生はその後の米国の空襲の本格化に伴い、焼け出される被害にあ
い学業どころではなかった。広島で被爆死した留学生もいた。終戦時に何人かの大学進学者
で京都にいた者は救われた。いずれにせよ日本の敗戦とともに学業途中で放り出されたこれ
らの留学生は勉学のため残留するも帰国するも苦渋の選択であった。
 同書に記載の彼らの証言に厳しい日本批判がないのが救われる思いである。むしろ戦時下
の苦しい生活を共にした日本の庶民への同情がある。多くの留学生は「日本人は親切であっ
た、差別もなかった」と多感な年齢の時期を過ごした日本へ懐かしさと感謝の気持ちを語って
いる。かなりの留学生が日本女性と結婚している。
 その後、日本との縁で日本が経済復興から東南アジア進出にする企業との鎹(かすがい)に
なった人、政府の要職を務めた人、学界に邁進した人、様々な生き方であるが、いずれも名を
成し功を遂げた人ばかりである。

 さて近年の東南アジアから日本への留学生には国費と私費がある。一時は円高で私費留学
生が生活に困っていたことが新聞で取り上げられた。これに対して日本政府から円の支給を
受ける国費留学生は経済的には恵まれている。しかし国費の留学生といえど必ずしも親日家
になるとは限らない。
 戦時中の南方特別留学生と近年の国費留学生の日本に対する親しみの較差は何故であろ
うか。その一つに受入れ側の日本人の心の問題があろう。戦時中の日本人は特別留学生に
は国民をあげて温かく接した、近年の外貨減らしの一環の発想からの留学生とは違う。
 留学生受け入れに献身的に活動しているNGOなどの日本人がいても、彼らが例外的日本人
であり、ほとんどの日本人が無関心であることが留学生には肌で分るからである。
注釈と資料-303 

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304.プートラとジャワ奉公会

 一旦占領すると日本はインドネシアの渇望する独立の問題を故意に回避した。インドネシア・
ラヤ(→297)を歌うこともメラ・プティ旗(→296)を掲げることも禁止した。
 3A運動は宣伝運動を超えて民族主義運動に利用され始めたため軍当局から批判が出て尻
すぼみになった。3A運動は占領当初で華僑やインド系、アラビア人などの献金によって賄わ
れたもので、財政的基盤もなかった。
 1943年3月、心機一転を計るためにプートラが3A運動にとってかわった。「プートラ(PUTERA
=Pusat Tenaga Rakjat)」とは民衆総力結集運動である。プートラは民衆総力結集運動の略
語であるが、「putra=青年」という意味もある。
 民衆を戦争に協力させるのが日本側の意図であり、民族主義者として著名人であったスカル
ノ、ハッタを担ぎ出した。 日本の意図とは別にスカルノ、ハッタの方ではインドネシアの民族意
識高揚のためこの運動を利用しようとし、インドネシア人だけの組織として発足した。
 スカルノ、ハッタの指導で民族主義傾向が強くなりすぎたことを日本側は恐れてプートラは1
年で解散し、発展的解消を装い1944年3月に「ジャワ奉公会(Himpunan Kebatian Rakjat)」が
設立された。⇒日本軍の軍票  ⇒日本軍兵士
 ジャワ奉公会によって村落の末端にいたるまでの華僑や日本の民間人をも含むすべての組
織が一元化された。日本の隣組組織(→597)が導入され、当時の日本の大政翼賛会を模した
戦争協力のための組織である。スカルノを総裁とすることで民族主義者を宥(なだ)めた。
 これらの組織はインドネシア人に政治参加の機会を与え、民族主義者の活躍の場の提供に
なった。オランダ植民地支配ではインドネシア人は統治組織の実権から外されており、貴族階
級に与えられたポストは名誉職であった。日本の占領下において民族主義者は初めて知事以
下の実務を伴う主要ポストに就任した。結果としてインドネシア独立後の国家の実務運営を行
う人材の養成の場になった。
 スカルノはプートラにおいてもジャワ奉公会においても米英オランダの植民地帝国と戦う日本
軍への協力を住民に呼び掛けた。そして日本のために資源は集められ、食料が供出され、ロ
ームシャ(次項)が募集された。
 当時の心境をスカルノは後に「インドネシア独立のためには悪魔の助けもかりる」という立場
であり、「日本軍は私を利用しようとしている。私はこれに応じるつもりだ。9回まで耐え忍んで
いく。最後の1回で取り返せばよいではないか」と自伝で弁明している。
 オランダ時代にほとんど牢獄で過ごしたスカルノは有名であってもその知名度は一部の層に
限られていた。そのスカルノが大衆の前に姿を現わし熱弁を奮った。直接に接しえなくても映
画によってインドネシア各地にスカルノの存在は知られるようになった。このようにしてスカルノ
は自他とも認めるインドネシアの指導者となった。
注釈と資料-304 439.スカルノ大統領 

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305.ロームシャ/労務者

 日本軍のジャワ島占領の目的である資源の確保には戦争継続のための労働力の確保が含
まれていた。モナス(→158)の独立記念博物館の歴史パノラマの展示において酷使されて痩せ
衰えたロームシャによって日本軍占領時代が象徴されている。
 インドネシア語でロームシャという時は「日本軍による強制労働」という意味で日本語の"労務
者"の意味とは異なっている。ロームシャは怨みの言葉、呪われた言葉としてインドネシア語に
なり辞典に記載され、インドネシアの教科書にも載せられている。
 当初、日本軍がロームシャを徴募した際には日当を支払われる勤労戦士と称揚され、ゴト
ン・ロヨン(→593)の慣行からそれほど抵抗なく受け入れられた。しかしロームシャの実態はオ
ランダ植民地時代の苦力の日当にすぎず待遇は苦力以下であった。
  スマトラ島ではジャワからのロームシャを動員してオリンビン炭鉱の石炭をプカンバル搬出の
ための鉄道建設が行われた。ジャワ島ではバヤ炭坑開坑のためロームシャが動員されたが、
食料不足と酷使のため多くが死亡した。炭坑に潜伏していたタン・マラカ(→295)はスカルノの
日本軍協力を非難している。⇒romusha ⇒スマトラ島のromushas
  ロームシャの実態が知られるにつれ応募者はいなくなったが、日本軍は公権力を行使してロ
ームシャの供出数を地域毎に割り当てた。この結果、ジャワ農村から成人男子の労働力は払
底し農産物は不作になった。その少なくなった農産物に対しても供出の割当が厳しかったため
ジャワ農村の疲弊は極に達した。
  ロームシャ徴用を厳しく実施した村長や官吏に対して日本の敗戦後、糾弾(きゅうだん)が行
われ、プカロンガン地方では何人かの村長が殺害された。
 日本の戦争においてジャワ島は食料、労働力の補給基地と位置づけられていた。ロームシ
ャは労働力の不足するスマトラ島(注)やタイ、ビルマに移送された。『クワイ河マーチ』で知ら
れる映画『戦場に架ける橋』は泰緬(タイとビルマ)間に鉄道を建設しようとするものである。映
画では連合軍の捕虜ばかりが前面にでてくるが、捕虜の数をはるかに上回る多くのロームシ
ャがジャワ島からも動員されていた。
 これらのロームシャの多くは戦争が終わっても帰ってこなかった。今日もクワイ河近辺にジャ
ワ人ロームシャが棄民さながらに生存していると伝えられる。
⇒スマトラ島の日本兵
 戦後の日本とインドネシアの戦時賠償交渉(→362)のロームシャ問題にインドネシアは日本
に補償を求めた。インドネシア側の400万人という主張に対して日本側14〜16万人と反論し
た。22万8千人という数字もある。その間の数字の差の解明はしないまま交渉妥結が急がれ、
1958年締結の賠償協定でロームシャ問題は解決されたことになっている。
 1973年インドネシア映画『ロームシャ』が製作されたが、上映は一方的に中止された。日本側
のなんらかの圧力に屈したことは公然の秘密である。
釈と資料-305  

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306.ヘイホ/兵補

 「ヘイホ(兵補)」とはインドネシア人青年から採用した日本軍の補助兵である。ジャワ占領後
も戦線拡大により日本のジャワ占領軍はニューギニア戦線(→237)などに転戦し、兵力は占領
当初の5万人から1/3に減少し兵員の不足が生じた。
  彼らは3〜4月の日本語教育と2月の軍事訓練を受け、試験に合格した優秀な人材であり、郷
土防衛義勇軍ペタ(→309)が発足するまでの間に募集された。後に独立戦争を戦ったインドネ
シア共和国軍の主流はペタであるが、ヘイホも武器を扱えるという実務経験から重宝された。
 ジャワ駐屯の日本軍においてヘイホは運転手のような補助的職務従事が原則であったが、
大砲の操作をもヘイホに任せざるをえない部隊もあった。ヘイホは日本の各部隊にほぼ均等
に配属され約1割にもなっていた。⇒heiho  ⇒heiho兵補
 部隊の配転によりニューギニア戦線やビルマ戦線にも従軍させられたヘイホもいる。戦闘に
捲きこまれたヘイホは多くの犠牲者を出した。モロタイ島では戦後訪れた日本の遺骨収集団
が日本兵の遺骨に紛れヘイホの遺骨も持って帰った。
 1989年に元ヘイホは連絡協議会を結成して日本への補償を求めた。ヘイホの提起した補償
問題とは死者への補償とか年金などではなく貯金の払い戻しである。彼等は従軍中に給料の
支払を受けたが、給料の2/3を強制的に貯金させられ、日本の敗戦によってそのまま没収さ
れた。日本政府に貯金の払戻しを要求し、1991年の平成天皇のインドネシア訪問を機会にデ
モを行い、内外の新聞記者団に実情を訴えた。その後もジャカルタの日本大使館へデモをか
けている。⇒ペタの対空砲の訓練 
 彼等は日本の軍歌を口ずさむなど日本へのノスタルジアを持つ親日家であるが、かくも長く
ほったらかしにされたことへの怨念の入り混じった複雑な心境である。
 日本政府は1958年のインドネシアとの賠償協定(→362)でヘイホなどの個人の請求権も放棄
されおり、補償問題は存在しないとしている。また、日本はODAによりインドネシアの民生に協
力している、とヘイホの要求を突っぱねている。
  日本側には払い戻さない理屈はあろうが、日本の軍人恩給の法外な高さと比べ余りにも均
衡を失しているのでなかろうか。ちなみにオランダは植民地時代のインドネシア人ニカ兵(→
318)にいまだに年金を払っているとのことである。

  インドネシアにも慰安婦問題がある。呼びかけに応じて含羞(がんしゅう)の民族からもおずお
ずと名乗り出た。NGOの招きで日本へ来た慰安婦が戦時中の体験を証言している。
  日本政府は慰安婦問題についても政府間で解決済みとの立場を固持している。といいつつ
も被害者への現実的対応として高齢者福祉施設を作るという名目で10年間に3億8千万円の
支出を決めた。インドネシアの慰安婦問題にはオランダ人女性を慰安婦にしたという別の問題
もかかえている。⇒慰安婦問題
注釈と資料-306  

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307.農民の反乱

 ジャワ占領の当初、日本軍は解放軍として歓迎された。まさに「北から黄色い人がやってきて
白人を追い出すという」ところまではジョヨボヨ王の予言(→299)の実現であった。しかしジョヨボ
ヨの予言には「とうもろこしの花が咲く頃には黄色の人も引き上げる」という期限があった。
 日本軍は1年たっても2年たってもインドネシアに居座ったままであった。のみならず占領支
配は次第に苛酷さをましてきた。特に怨嗟(えんさ)の原因となったのはロームシャの徴用(→
305)と食料の強制供出である。
 「シンガパルナ(Singaparna)事件」といわれるのは1944年2月に西部ジャワのタシクマラヤ
(Tasikimalaya)県シンガパルナ村で農民大衆が日本軍政に対して蜂起した事件である。
 反乱の謀議をかぎつけて潜入した日本憲兵を捕らえて人質にして立ち向かった。しかし正規
軍に対して手製の竹槍の武装では敵うはずもなく1時間半の戦闘で多数の死亡者を出して敗
退した。日本側にも3名の犠牲者を出した。
 指導者はキアイ・ザイナル・ムストファ(Zainal Mustofa)というスカマナ(Sukamanah)イスラム
塾の教師であり、塾生が蜂起に参加した。スカマナ塾はプリアンガンで著名なイスラム教育の
中心地であり、900名の塾生を集めていた。
 日本軍は捕えた扇動者23名を処刑し、狂信者にまどわされた反乱として他所への波及を食
い止めた。この地域は後にダルル・イスラムの反乱(→332)があったように狂信的なイスラム教
徒の多い所である。
 当初の日本の占領政策はオランダ植民地政庁が故意に無視してきたイスラム教勢力の顔を
立てた。オランダ時代に不遇であったイスラム教関係者は日本軍政の下では体制側に組み入
れられ、宗教関係者を通して人心の把握に成果はあった。
 しかし天皇陛下を現人神(あらひとがみ)と認めることの強制、皇居遥拝(こうきょようはい)は
イスラム教の教義に反し真摯なイスラム教徒の怒りをかうようになった。シンガパナル事件を
農民の反乱と総括されるが、その背後の宗教上の動機を無視しえない。
⇒戦時中の紙幣
 1944年4〜8月に西部ジャワ州インドラマユ(Indramayu)県で起きた農民蜂起のいわゆるイン
ドラマユ事件は食料供出の強制によるものである。ジャワ海沿岸のジャワ移民からなる同県は
穀倉地帯であるが、割当供出の不足を補うため籾(もみ)の供出まで求められた。
 日本の割当は米生産の7〜10%であっても州⇒県⇒郡に下達されると順次、上乗せされ最終
の農民には過大な要求になった。供出を促す村長と警官に投石することから始まった農民の
蜂起は次々に連鎖反応を起こした。
 農民の憎しみは体制側のジャワ人に向けられ日本の起用した村長が殺された。インドネシア
独立戦争の持つ政治革命的要素に繋がる事件として注目される。
注釈と資料-307  

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308.ポンティアナック事件
(ポンティアナ)

 太平洋戦争開始の当初、石油の出る東カリマンタンではタラカン(→193)などで局部的な戦闘
もあった。しかしカリマンタン島のその他では蘭印政庁所在のジャワ島の大勢の帰趨からオラ
ンダ側は抵抗を止めて、植民地軍は無傷のまま捕虜となった。これに対して進駐してきた日本
軍は兵の数は少なく劣勢であった。
 このような状況の中でカリマンタン島を統轄していた元総督のオランダ人ハガがバンジャル
マシン(→192)で反日の陰謀を画策した。しかし陰謀は事前に発覚しオランダ人や旧支配階級
が捕えられ処刑された。⇒当時のスルタン
 たまたまハガの取調べでポンティアナックの地名が出たことから、過敏になっていたポンティ
アナックの海軍特別警察隊(陸軍の憲兵隊に相当する)は疑わしそうな人物を逮捕した。いき
りたつ取調べで自白によって逮捕されたのはオランダ人はもとより華僑、インドネシア人のス
ルタン一族、医師、教師などの有識層であり、さらに拷問にかけて次々と逮捕者を拡大した。
その容疑は西ボルネオ独立運動であり、日本人を一斉に毒殺しようとする反日謀議をフレー
ムアップし47名を死刑(1943/10月)にした。
 裁判以外にも逮捕された者の多くは拷問で殺され、さらには密かに毎晩40〜50名を日本力
で斬刑にした。その犠牲者は1〜3千名と言われるが、インドネシア側では21,037人と碑に明記
し、処刑の様をレリーフにしている。⇒記念レリーフ
 ポンティアナック事件は戦闘時ではなく占領期間中の出来事である。事件の真相は海軍特
別警察隊の脅迫被害の誇大妄想らしい。普通の日本人も特殊な条件で絶大の権力を持つと
支配階級を皆殺しにまで突き進むポルポト派的発想になるという例である。
 日本の敗戦後、戻ってきたオランダによる裁判で日本側の関係者は処刑された。インドネシ
アにとっては独立戦争にたち紛れて首都から遠い地方の事件として等閑視される傾向にあっ
た。しかし独立戦争終了後のインドネシアでは残酷な日本軍政への抵抗運動として犠牲者を
評価しているのはインドネシアの歴史創造の政治的意図であろう。仮にこのようなすり替えを
認めるとしても海軍特別警察隊の罪が軽くなるというものではない。
 
  海軍の管轄する東カリマンタンのロアクール(Loakulu)でもポンティアナック事件と類似の事
件があった。日本の圧政に反発はスパイ事件とされ、虐殺された住民の死体が炭坑に捨てら
れた。
  その他にマルク州南部のババル島(→233)の住民虐殺事件がある。オーストラリアに近い僻
地のババル島は住民1万人程度の大阪府の半分ほどの小さな島である。敵地のオーストラリ
アに近かったため日本軍は神経過敏になっていた。煙草の売買をめぐるトラブルからエンプラ
ワス村で日本兵が殺された報復に500人以上の村民が虐殺された。わずかの生き残り者によ
って事件の起きた10月5日にちなみ「1944年10月5日」という歌が歌いつがれている。  
注釈と資料-308 ⇒189. ポンティアナック 

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309.ペタ/郷土防衛義勇軍

 オランダの蘭印軍にインドネシア人はいたが、アンボン人、マナド人など外島からの兵士であ
る。蘭印軍は国内治安のための軍であることからジャワ駐屯の蘭印軍にはジャワ人は意識的
に採用されなかった。しかし日本との戦争が不可避となるや蘭印政庁はジャワ人にも兵の募
集を呼びかけた。後に大統領となる若きスハルトは蘭印軍に籍を置いたが、戦闘に参加する
機会もなく蘭印軍は降伏した。
 戦線拡大に伴い日本軍は兵員の不足をインドネシア人で埋め合わせた。彼等はヘイホとい
われた。ヘイホとは兵補のことで日本軍の補助兵のことである。ヘイホの拡大には限度がある
ためジャワ人による「ペタ=郷土防衛義勇軍(注)」の設立が明らかにされた。
 日本軍の穴埋めが発想の動機であるが、一方で独立達成が裏切られことによるジャワ人の
失望感が高まるとともにジャワ人軍隊の設立は懐柔策としての意味を持つようになった。
 有識者ラデン・ガトット・マンクブラジャからジャワ人による軍の設置を請願させ、それを日本
軍が請ける形の周到な準備のもとに1943年10月、ペタ幹部候補生が公募されるや応募者が
殺到した。自らの軍隊を持つことはジャワ人の願望であった。
 ペタに先立ち柳川宗成大尉はタンゲランに青年道場を開校しジャワ青年の教育を行ってい
た。ペタの発足によりタンゲラン青年道場はボゴールの義勇軍練成隊に発展し、卒業生が故
郷に帰り大団(約500名の兵)を編成した。⇒結成されたペタ
 大団長はイスラム教学校の校長など地方の名望家であり、幹部候補生は優秀な青年が比
較的多く、その後のインドネシア国軍幹部の出自と共通している。ボゴールに幹部の訓練所が
開設され、訓練は日本の軍人があたり、訓練を受けたジャワ人の幹部が一般募集の兵士の
訓練に当たった。⇒ペタの学習
 ジャワ人には隊列を組んで歩くという規律からして始めての体験であった。日本式の厳しい
訓練であったが必死に耐えたのは祖国防衛という愛国的熱情であった。
 大団長以下兵士までインドネシア人の軍であるが、各団に派遣され日本人教官が実権を握
っており、兵器管理もインドネシア人はままならなかった。ペタへ派遣される日本人教官は不本
意でやる気のない人もいた。しかし中にはジャワ青年の意気に共鳴して真剣に対応した人が
いた。市来龍男(→358)はペタを天授の職場として献身的に没頭した。
 ジャワ島で66大団、バリ島(海軍支配地域のペタの分団)で3個大団が編成され、スマトラ島
においても第25軍によってスマトラ島民による軍が設立され、「スマトラ・ギユーグン(義勇軍)」
と名づけられた。
 日本の敗戦後、オランダの復帰とともに澎湃(ほうはい)としておきる新生インドネシア共和国
軍の創設に参加したのはペタのメンバーである。ペタ出身のスディルマン将軍(→328)は共和
国軍を率いて独立戦争を戦った。スハルト大統領もペタの中団長であった。結果的にペタは後
のインドネシア国軍幹部の人材養成機関の役割を果たした。
注釈と資料-309 ⇒354.タンゲラン青年道場

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310.ブリタルの反乱

 ペタ(郷土防衛義勇軍)は日本軍の不足を補うものとして組織化されたジャワ人の軍組織で
あるが、5万人の規模に達し駐留する日本兵の数を上回るようになった。訓練を受け武器を持
ったジャワ人の軍隊が日本に叛旗をひるがえさないという保証はなく日本にとってペタは"獅子
身中の虫"になりかねない存在であった。
 日本の講じた予防処置はペタを州毎に設立して連携させないように分断し中央の統一組織
は設けていない。このため募集した兵士はその地域のペタに所属し地域をこえる人事交流を
避けた。スカルノなどの民族主義者はペタの指揮命令系統には関与できなかった。
 しかしジャワ人自らの軍としての自覚が高まるにつれ、日本軍への従属に問題意識を持つよ
うになるのは時間の問題であった。終戦時のレンガスデンクロック事件(→316)は日本が制御
しえないペタが存在していたことの証明であった。また日本軍が敗戦とともに慌(あわ)ててペタ
の解散を命じたのはペタに対する潜在恐怖である。
 
 時は少し遡り終戦半年前の1945年2月14日未明、クディリ州(現在の東部ジャワ州)のブリタ
ル大団のスプリアディ(Supriyadi 1923-45)小団長の率いる小隊(100余名)が兵営を出て日本
人を襲い数名を殺害した。日本軍は慌てて人望のあるインドネシア人の大団長を担ぎ出し処
罰はしないと説得した結果、反乱した兵士は兵舎に戻った。反乱軍は一両日で瓦解(がかい)し
首謀者のスプリアディは逃亡し行方不明になった。⇒ブリタル大団 ⇒スプリアディ
 ブリタルのペタの蜂起は日本軍にとって衝撃であった。"飼い犬に手を噛まれた"というのが
日本軍の実感であった。ブリタルの反乱の直接の原因はペタの幹部に対する日本人指導官
の傲慢(ごうまん)がいわれている。日本兵が階級が上のペタの幹部に敬礼しないことはジャワ
人の誇りを著しく傷つけた。
  相次ぐ食料の供出、ロームシャの徴用にジャワ島では次第に反日感情が醸(かも)し出されて
いた。もし反乱者がこれらの大義名分を明らかにし、他のペタと連携していたならば、反乱は
飛び火しジャワ全島に拡大したかもしれない。たまたまブリタルの反乱は発覚を恐れた首謀者
が準備不足のまま突入した暴発であったため容易に鎮圧された。
 独立後のインドネシアでは日本の圧政に対する蜂起としてブリタルの反乱を高く評価してい
る。反乱の首謀者のスプリアディは生死不明のままインドネシア共和国初代のインドネシア軍
司令官に指名される名誉を得た。⇒スプリアディ記念館?
  ブリタルはスカルノ大統領の故郷である。大統領は後に自叙伝で「ブリタルの反乱は自分の
黙認の下に行われたが、当時の状況では大の虫(ジャワ全島のペタ組織)を活かすためには
そ知らぬ振りをしなければならなかった」とその苦悩を述べている。
 反乱者がスカルノと示し合わせていた思われる形跡(注)はある。スカルノ大統領の例の自
己顕示だけではなさそうだ。
注釈と資料-310  147.ブリタル市  

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311.独立養成塾

 かつての日本の軍隊について《陸軍》は頑迷固陋(がんめいころう)で保守的、《海軍》は進取
英邁(しんしゅえいまい)で開明的というのが一般的評価であり、この評価はなかば神話化して
いる。しかしこの神話も正しくないケースがあり、その例がインドネシア(蘭印)の占領政策であ
ろう。⇒ペタの兵士   ⇒ペタ出身のスディルマン
 独立の願望について陸軍は理解し、なんとかかんとかいいながらその実現を計った。これに
対して南太平洋の戦場にある海軍は終始インドネシア独立に反対した。
 インドネシア独立に消極的であった海軍の中での特殊な存在はジャカルタの海軍武官府で
ある。武官府は海軍の補給等に関する陸海軍調整のための出先機関であるが、陸軍管轄の
ジャワ島で陸軍に対等に渡り合う海軍の代表であった。
 このため武官府は規模の割には絶大な権限を持っており、しかも直接ジャワ島の統治には
責任がないというフリーな立場から陸軍に睨まれた民族主義者を庇(かば)うこともあった。
 海軍武官府は調査部を設けインドネシアに熱い思いを持つ日本人を集め、彼らを通してイン
ドネシア民族主義者とパイプを持たせ、「独立養成塾(Asrama Indonesia Merdrka)」のスポン
サーとなった。何かの時に役にたつという長期投資(あるいは捨金)のつもりで資金を投じたも
のであり、陸軍の統治に逆らうつもりはなかった。海軍というよりは武官府代表の前田精少将
の個人プレーであったらしい。
 小磯声明を受けて設立された独立養成塾の運営は一切口を挟まずインドネシア人に任さ
れ、独立養成塾では軍事教育は護身術程度でカリキュラムも文科系が重視され、政治史はス
カルノ、経済学はハッタ、シャフリルはアジア史と社会主義を講義した。
 治外法権の租界のような海軍武官府の存在が民族主義者のサロンの役割を果たし、聖域
の感があった。独立養成塾で独立後への活力を充電したといえよう。
 独立養成塾の長となったスバルジョ(Ahmad Subarjo 1896-1978)は西部ジャワの貴族出身
の弁護士である。ライデン大学在学中にインドネシア協会(→291)で活躍した。独立後は初代
の外務大臣になった。スバルジョは日本敗戦の夜のレンガスデンクロック事件(→316)の際に、
独立宣言をめぐりスハルト/ハッタと青年派が対立して暗礁に乗り上げた時に両者を仲介し
た。独立宣言を起草場所に海軍武官府の前田邸を提供し、独立宣言の演出者として活躍し
た。
 武官府と関係の深かったイワ・クスマ・スマントリ(Iwa Kusuma Sumantri 1899-1971)も西部ジ
ャワの貴族出身の民族主義者である。ウィカナなどの共産党の指導者も武官府に出入りし
た。独立後のインドネシアで"海軍派"という人脈を形成するほどであった。
 後の1965年の9月30日事件でPKI(→381)側のウィカナ、アイディット(→446)、ロックマンは独
立養成塾と関係があった。一方、PKIを弾圧したスハルト将軍などの国軍の幹部は日本陸軍
の肝いりのペタ出身者である。《海軍》が育てた共産党とそのシンパを《陸軍》が育てたペタが
弾圧したという図式になる。
注釈と資料-311  

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312.遅すぎた独立承認

【1943(昭和18)年2月】東条首相はジャワ島を訪問し歓迎を受け、戦争遂行への現地住民の
協力を求めた。独立については何もふれずにインドネシア人を失望させた。資源の豊富なイン
ドネシアはできるだけ長く日本の領土にとどめておきたいというのが日本の本心であった。
 【43年8月】東条内閣はフィリッピンの独立を認めた。
  【43年9月】インドネシア人の政治参与のため諮問機関としてジャワに中央参議院を設け、ス
カルノが議長に就任した。議員の半数に民族主義者が登用された。
【43年10月】東条内閣はビルマの独立を認めた。
 【43年11月】東京で大東亜会議が開催され、日本傘下の大東亜共栄圏の諸国が出席し
た。独立国でないインドネシアは外された。併せてフィリッピンとビルマの独立承認のセレモニ
ーが東京で開催された。
大東亜会議後、インドネシア懐柔のため日本政府はスカルノ議長、ハディスクモ・イスラム教徒
代表、ハッタ中央参議院議員を日本に招いた。しかし独立の話は故意に回避された。
 【44年9月】戦局不利の中でインドネシア人の民心をつなぎ止めるため小磯内閣は「将来、
東インド(インドネシア)に独立を与える」という小磯声明を発表した。この際にもインドネシアと
いう用語の使用を用心深く避け、時期も明確にしなかった。その心はあわよくばジャワ島の独
立だけを認め、資源の豊富なスマトラ島など外島は切り離して日本の直轄領土にとどめること
が本心であった。
 【45年3月】日本は独立準備調査会の設置を発表する。すでに南方と日本の補給線は断た
れていた。独立の要望を無視して戦争への協力の継続は限界があった。⇒独立調査会?
 【同年4月29日】独立準備調査会が正式に設立され、委員70名が発表された。国旗・メラ・プ
ティ、国歌・インドネシア・ラヤの使用が許可された。
 【6月1日】5月28日から始まった独立準備調査会においてスカルノが国体としてパンチャシラ
を提唱し、インドネシア国家の骨格が示された。
 【6月22日】ジャカルタ憲章によりインドネシア現行憲法の骨格が固まった。
 【7月10日】独立準備調査会第2回会議が開催された。
 【7月17日】日本は最高戦争指導会議においてできるだけ早い時期にインドネシアの独立を
認めることを決定した。⇒ペタ・ジャワ義勇軍
 【7月21日】日本の南方軍は独立地域にマレー半島を除くことを確認する。
 【8月7日】インドネシア独立準備委員会が設立された。独立はカウント・ダウンに入った。独
立は小磯声明の1周年にあたる9月7日を予定していた。
 【8月9日】インドネシアからスカルノ、ハッタ、ラジマンの3名が南方軍総司令部のあったサイ
ゴンに発った。
注釈と資料-312  365.パンチャシラの創造

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313.独立準備委員会

 インドネシア独立宣言の経緯で日本の影響を過大視することは問題である。しかし日本の同
意の下で進められていたインドネシアの独立準備がすべて無駄になったわけではない。1945
年4月末に独立調査会(後に独立準備調査会に改名)のメンバー70名が発表された。ジャワ島
のみならずインドネシア全地域からの代表が網羅されていた。
 第1回独立準備調査会は5月末に5日間開催され、6月1日に委員長スカルノによってパンチャ
シラ(→365)が発表された。
 第2回独立準備調査会は7月10日から開催され国家の領域、形態、政治機構、市民権、イス
ラムとの関係を討議し、16日に憲法草案が作成された。
 日本軍政の下でインドネシアの独立は人民の強い意志によってそれなりに進められていたと
ころへ、1945年8月15日、日本の敗戦の報が伝えられた。その第二次世界大戦直後の大混乱
の中でインドネシアの独立宣言が発せられた。15、16、17日の3日間はまさに疾風(しっぷう)怒
涛(どとう)の日としてインドネシア歴史に銘記されている。
 無条件降伏の受入によってそれ以降、日本は連合軍に現状維持を命じられた。従って直前
の8月11日に日本の南方軍総司令部がスカルノを招いてインドネシアに与えた独立承認は日
本の敗戦によって反古(ほご)になった。
 しかしインドネシアでは9月の独立を目指して独立準備調査会は独立準備委員会へと進み、
8月18日の予定で召集されていた。8月15日には交通事情の悪い当時は遠方の者はすでにジ
ャカルタに到着していた。
 16日深夜の独立宣言の起草の場には独立準備委員会のメンバーも関与していた。また17日
10時からの独立宣言は独立準備委員会のメンバーを前にしていた。何もかにもが用意されて
いたからこそ臨機応変に対応できた。
 翌18日、独立宣言発布により独立準備委員会は新しく独立委員会として(注)でスカルノ大統
領とハッタ副大統領が選出し、引き続き憲法を制定した。《イスラム国家》or《世俗国家》という
国体を巡る論議はすでに尽くされており、5原則のパンチャシラとして憲法の前文に折り込まれ
た。⇒マカッサルの日本菓子店
 独立宣言後に相次いでこれらの処置が容易に実施されたのは独立準備委員会ですでにイン
ドネシアの国体は論議され、ジャカルタ憲章(→418)としてアウトラインは出来上がっていたから
である。8月19日、独立委員会は中央政府12省、地方行政8州の設置を決定し、8月29日に閣
僚、知事が任命された。
  慌ただしい中で一気呵成に独立宣言は発せられた。その後のすばやい対応がインドネシア
独立を既成事実にした。インドネシアの独立は太平洋戦争直後のどさくさまぎれではない。予
め準備されていたことの必然の履行であった。
  その数日間は戦勝国である連合国側からの指示もないという権力の空白期であったことも幸
いした。
注釈と資料-313  355.前田精海軍武官 
 
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314.日本の敗戦

 【1945年8月11日】インドネシアを代表するスカルノとハッタはサイゴンの郊外のダラトにあっ
た日本軍の南方軍総司令部から招かれた。
独立承認は伏せられたまま旅立ったが、そこで思いかけず南方軍総司令官寺内寿一元帥か
ら独立を認めるセレモニーが行われた。制空権、制海権も奪われ東京への交通が確保できな
い状況で日本は南方軍総司令部が代わってインドネシア独立承認を告げた。1カ月後の9月7
日が独立日に予定された。
日本の好意により独立を与えるという恩着せがましい形態であったが、ようやく念願のインドネ
シア独立を手にしてスカルノ一行は充たされた思いであった。シンガポール経由で帰路につ
き、シンガポールでマレーの民族主義者などと接した情報から戦争は日本の敗色が濃いという
感触は得た。しかしそれが目前であるとは思わなかった。
 【8月14日】スカルノ一行は意気揚々とジャカルタに到着した。空港で出迎える人を前にイン
ドネシア独立は「今やとうもろこしの花の咲く前である(→299)」と独立承認を慶ぶ報告が行なわ
れた。しかし一行を迎えるインドネシア人に白けたものがあった。原爆の投下、ソ連の参戦に
よって日本の敗戦がせまっていることは知る人には知られていた。
 【8月15日午後】日本敗戦の噂がインドネシア人の間に流れた。不安になったスカルノは事
実を確かめるため陸軍の軍政監部を訪れたが、幹部は面会を避け「独立への援助ができなく
なった」と伝えられた。⇒スカルノ
異様な雰囲気を感じたスカルノは海軍武官府の前田少将(→355)を訪ねた。前田は正式な通
知を受けていないので受取次第知らせると約束した。しかしその苦悩に満ちた表情は日本の
敗戦を窺わせるに十分であった。
 【8月15日夜】帰宅したスカルノを待ち構えていたのはハエルル・サレー、スカルニ、アダム・
マリクという青年グループであった。かねてから青年グループはスカルノとハッタが進めていた
日本との話し合いによる独立は与えられた独立であるとして批判していた。彼らは日本の敗戦
という事態の転換においては即刻の独立を迫り、日本との武力衝突も辞すべきでなく、ジャカ
ルタのペタに対する武装蜂起の指示を求めた。
 しかしスカルノは独立直前までこぎつけた既成事実を無視する青年グループに対して断固と
して拒否した。負けたとはいえジャワの日本軍は無傷である以上、兵力のないインドネシアは
対抗しえない。日本から正規の通知のない段階での行動にスカルノは慎重であった。青年グ
ループに対する感情的反発もあった。最後は「やれるものならやってみろ」とさえ言いはなっ
た。ハッタも同様であった。
 【8月16日未明】青年グループは就寝中のスカルノ一家を起こし、日本軍が行動をおこしス
カルノの身体に及ぶ危険が迫っており、対策会議に参加してほしいとして家族もろとも車で連
れ去った。
 注釈と資料-314

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315.青年グループの台頭

 経済的自立もなく政治的自立だけを求める独立についてはインドネシア人の中にも時期尚
早という意見もあった。これに対してスカルノは「鍋釜がなくても結婚できる。結婚してから鍋釜
を揃えればよい」と振り切った。
 スカルノなどの民族主義者は日本の戦争遂行に協力する見返りとして独立を迫り、願望どお
りオランダ領東インド(蘭印)を一丸としたインドネシアの独立が現実のものとなってきた。スカ
ルノは指導者としてイスラム教との国体をめぐる関係、ジャワ島と外島(→019)のギャップの調
整など大きな問題を独立準備調査会で一気呵成に解決した。
しかしプムダ(Pemuda=青年)といわれる若い世代は、より性急に独立を求め反日的な言動
を行うようになった。スカルニ(Sukarni)、アダム・マリク(→447)、ハエルル・サレ(Chaerul 
Saleh)、ウィカナ等の青年がグループ(注)を形成していた。バンドゥンでは別のグループもあっ
た。
 独立準備調査会は青年代表をも取り込もうとしたが、出席していた青年のメンバーは日本が
政体について意見を述べたことに日本の干渉であると怒り退場した。青年グループにとっては
40歳台のスカルノ、ハッタも年老いた保守主義者であった。これら長老の支配する独立準備調
査会も日本によるお仕着せにしか見えなかった。⇒スカルノ・ハッタ像
青年グループにとって独立とはアメリカの独立がそうであったように、独立とは与えられるもの
ではなく奪い取るものである。彼らは"革命"を求めた。
 スカルノやハッタは日本の敗戦という思いがけない事態に直面したが、予定どおり独立準備
委員会の手続きを経て独立する以外のことを考えられなかった。しかしそれまで出番を封じら
れていた青年グループは日本の敗戦を知るや直ちに立ち上がろうとした。
 青年グループは今こそ天祐(てんゆう)の時と考え、ジャカルタ地区のペタ(→309)のカスマン
大団長に武装蜂起を迫ったが、カスマンはスカルノの命令を要求した。青年達はスカルノの自
宅に押し掛けて直ちに武力蜂起の指示を迫った。
 スカルノは青年グループの主張を拒否した。「敗れたとはいえ日本軍は武力を保持したまま
現に存在している、インドネシア側に武力はなく素手同様であり、歯向かえば壊滅されるだけで
ある、寺内南方軍総司令官は既に独立を認めているのに今あえて武力蜂起する意味はない。
何故、数日が待てないのか」というのがスカルノの言い分である。ハッタも同意見であった。
注釈と資料-315  295.民族主義社会主義

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316.レンガスデンクロック事件

 「レンガスデンクロック(Rengasdengklok)」はジャカルタから東80qにある。外見はどこにでも
あるインドネシアの普通の町である。今日ではレンガスデンクロックの名はインドネシア独立に
深く係わった土地として銘記されている。
 8月16日未明、青年グループは独立を強行するためスカルノとハッタを家族(注1)ごと車で拉
致して連れてきたのがレンガスデンクロックのペタ(→309)の兵舎である。
 民族主義者の影響を受けたスチプト中団長がペタを指揮していたレンガスデンクロックは、
急進派青年グループの巣窟となっており、共和国の最初の解放区となる準備が密かに進めら
れていた。 ⇒レンガスデンクロックの記念館
 青年グループは日本軍の影響の及ばない所でスカルノとハッタに即時独立を強要する意図
であった。事件のもう一人の主役はスバルジョである。海軍の前田武官(→355)からスカルノ、
ハッタの両者が行方不明であることを告げられたスバルジョは二人の居所を探し出し、青年グ
ループの監禁から救出するためレンガスデンクロックに向った。
 スバルジョが到着した頃、青年グループとスカルノ・ハッタとの激論の対立が続いている最中
であった。スバルジョは始めは青年グループを説得しようとしたが、放置すれば青年グループ
による武装蜂起がもはや止められず、即時に独立宣言を行うという動きは防止できないと判
断した。
 両者の調停をスバルジョが行った。16日に予定されていた独立準備委員会に出席のためジ
ャカルタに集合している各地域代表の支持と日本軍部の承認を得て、17日に独立宣言を行う
ことになった。後にスカルノはこの判断を是認しているが、ハッタは強要されたこの事件を不愉
快としていた。
 一行がジャカルタに戻ったのは16日の深夜であった。連合軍より現状維持を厳命されてい
た日本陸軍の幹部はインドネシア独立宣言の動きとの係わりあいを避けた。当時の幹部は知
らぬふりが陸軍の誠意であったと述べている(注2)。スバルジョの口利きで海軍武官府の前
田少将は独立宣言起草の場所として自らの官邸を提供した。
⇒独立宣言起草記念館
 レンガスデンクロックで行われた長老派(スカルノとハッタ)と青年派の間の激論にはいろい
ろな評価がある。もし長老派の主張が容れられておれば、後にオランダがそうでなくても執拗
に繰り返した「インドネシアの独立は日本のお手盛りだ」という主張に対抗することは困難であ
ったろう。
 またもし青年グループの主張どおり即時独立を宣言し権力奪取のため武力行使を行えば治
安に責任を負わされた日本軍との間の流血は避けられなかったであろう。
 結果的には17日の独立宣言は日本の関与しないインドネシア人の意志によるものであっ
た。日本の武力干渉もなく整然とした秩序のもとに独立宣言は発せられた。置かれた困難な
状況の中で最善の選択であったろう。
 注釈と資料-316  

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317.独立宣言の起草

独立宣言。 私達インドネシア人民はここにインドネシアの独立を宣言する。
       権力委譲その他に関することは十分な配慮をもって迅速に行う。
                         ジャカルタにおいて。
   05年8月17日。   インドネシア民族の名において。 スカルノ・ハッタ


 独立宣言はわずか数行の文書である。皺だらけの一枚の紙は国宝の中の国宝として首都ジ
ャカルタのモナス(→158)の独立記念博物館に鎮座している。独立宣言を読み上げるテープの
故スカルノ大統領の声を聞くインドネシア人はいつもとは異なる真剣な表情である。
 レンガスデンクロックから戻った16日夜、スカルノとハッタは軍政監部総務部長の西村少将
を訪れ独立宣言の承認を迫ったが、連合軍の指示を盾に拒否した。かくなる上は日本の承認
なしに独立宣言を行う以外に道はなかった。
 起草には海軍武官府の前田武官邸が提供された。ありうるかもしれない日本陸軍の妨害を
排除できる場所である。スカルノ、ハッタ、スバルジョという長老派に青年派も加わった。その
中で問題は権力の"委譲"という言葉である。スカルノの筆跡と推測されている原稿には権力
の「奪取」と「委譲」という言葉が添削されている。奪取はクーデターを主張する青年グループで
ある。最終的にはスカルノが委譲で押し切ったという。
 スカルノとハッタが署名しているが、その署名者の資格はこれまでの独立準備委員会の名を
使用することは日本の与えた独立に繋がる。青年グループにはこれまでの日本軍政下の既成
事実をご破算にして当日の会議の出席者全員の署名という主張もあった。そのへんの議論の
収斂が『インドネシア民族の名において』である。
 日付の"05年"は日本の【皇紀2605年】である。この事実がインドネシアの独立における日
本の影響力の証拠として云々する見方があるが、真相は疲労困憊のどさくさの中で年号まで
の熟慮する余裕はなく時間ぎれとなったらしい。西暦はオランダの遺物として拒否されていた。
インドネシア暦元年とすべきであったというのが起草に参加した有識者の反省である。
 日本では忌まわしい記憶とともに忘れ去られた皇紀の年号(注)が、インドネシアではレリー
フになり公開(→161)されている。インドネシアの国のある限り保存されるであろう。歴史とは皮
肉な結果を残すものである。⇒独立宣言のオリジナル ⇒独立宣言文草稿
 モナス(→158)に展示してある独立宣言の文書はコピーであって本物は金庫の奥深くにしま
われているらしい。9月30日事件(→384)で権力構造から遠ざけられたスカルノ大統領はこの独
立宣言書を自宅に持ち帰り隠した。
 自分が署名した文書であってもインドネシアにとって“国宝”である。この文書を"質"にして時
のスハルト政権をゆすったというエピソードが伝えられている。政府は取り戻すのに苦労し、そ
の機会にレプリカが作られた。
注釈と資料-317 ⇒161.メンテン地区

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