アンボン(→225)で起きた歴史にいうアンボン事件は二つあり、その両方に日本人が深く関わ
っている。最初の1623年のアンボン事件は香料貿易を巡るオランダとイギリスの対立である。 アンボンで英国側の日本人傭兵の七蔵という侍(さむらい)の怪しげな行動を口実にオランダ側 は英国の商館員と日本人を捕えて拷問にかけて、オランダ要塞奇襲計画を捏造し、英国人商 館員10名、日本人9名、ポルトガル人1名を処刑した。⇒アンボンのVOC
この事件はオランダが香料貿易を独占するための謀略として英国の世論は沸騰した。残念
ながら日本側の資料にはアンボン事件は存在していない。従って徳川幕府が抗議したという事 実はない。太平洋戦争中に日本軍は【南進の先駆者 ここに眠る】という碑を城跡に建てたが、 戦後オーストラリア軍が撤去した。
日本人の南方進出は江戸時代初期に始まっていた。1620年にアンボン島で銀鉱が発見され
たことから、作右衛門以下22名の日本人がバタビアから派遣された。日本人は技術者として 評価されていたらしい。出身地は平戸、長崎、唐津、肥前、筑後で平均年令は28歳である。 1632年には63名の日本人がアンボンにいたとい記録がある。
もう一つのアンボン事件は太平洋戦争開始直後である。連合軍からアンボンの守備を任さ
れたオーストラリア軍は蘭印軍と異なり日本の侵攻に激しく抗戦した。ようやく征圧した日本軍 はオーストラリア軍の捕虜を不法に処刑した。この事件は日本ではあまり知られていないが、 やられた方のオーストラリアではよく知られている。
戦後、勝者となったオーストラリアは軍事法廷で日本人を裁いた。この裁判を扱ったオースト
ラリア映画『アンボンで何が裁かれたか? 原題 BLOOD OATH(血の誓い)1990年制作』があ る。その映画では日本側の最高責任者はアメリカの横槍で裁判を免れる。最も悪そうな現場 指揮官は追い詰められて切腹する。
結局、オーストラリア軍事法廷は通訳をしていた良心的なキリスト教徒の日本兵を銃殺にす
る。日本人の誰かを血祭りにすることで一件落着にする。裁判といいながら日本人に対する血 の復讐以外の何ものでもなかったという問題提起の映画である。
以上2回のアンボン事件の当事者はイギリス・オランダ・日本・オーストラリアの外国人であ
り、住民とは関係のない支配者同士の殺戮の事件であった。しかし1999年2月から始まった宗 教対立のアンボン事件(→737)はインドネシア人同士のキリスト教徒とイスラム教徒の間の痛 ましい殺戮である。
現在の位置
鎖国以前に東南アジアで名をあげた日本人としてタイの山田長政がよく知られている。関が
原の戦い以降、失業した武士は日本人傭兵として東南アジアへ進出し、東インド会社(→272) にも重宝された。1618年、スルタン・アグン王(→337)がバタビア城を包囲した際、篭城(ろうじょ う)軍500名のうち日本兵が20名いた。1628年のマタラムとの戦争の際も70名の日本人の傭兵 隊がいた。兵に限らず大工や左官の契約移民の記録がある。同じ頃、アンボンでは英国側に も日本人傭兵がおりオランダに処刑されている。
徳川幕府が寛永16年(1639)に発したキリシタン禁教・鎖国令によってヨーロッパ人の血を受
けた混血児は日本から追放された。既に寛永13年に長崎在住のポルトガル人と混血児287名 のアモイ追放に加え、寛永16年に混血児11名がジャワ島へ追放(注1)された。
その中にエンゲレスの娘"まん"9歳と"はる"15歳の名前がある。はるの手紙がジャガタラ文
といわれる。「日本こいしや、あらこいしや、なつかしや、こいしや、こいし・・・」と望郷を切々と 訴える文は享保4年(1719)刊行の西川如見(注2)の『長崎夜話草』で紹介された。あまり名文 すぎるので偽作という説が有力である。⇒長崎のおはるの碑
歌謡曲の『ジャガタラおはる』のジャガタラとはジャカルタのことである。ちなみに「ジャガイモ」
の語源もジャガタラからもたらされた芋にちなむ。
日本追放の運命を辿った日本人の故郷の縁者にあてた商品の積み荷の依頼文の手紙等が
長崎県の郷土博物館などに展示されている。
日本を追放された"おはる"はバタビアの名士と結婚し、四男三女に恵まれ、十数名の奴隷
に囲まれて大邸宅に住んだ特権階級である。哀調あふれる歌詞から不幸な女性と思い勝ちで あるが、後のカラユキサンとは異なる。
おはる以外にも同じように追放され、ヨーロッパ人と結婚し恵まれた生涯を送った者がいる。
遺産争いがこじれて訴訟先のオランダで亡くなったというしたたかな女性(注3)もいた。ちなみ に"おてんば"の語源はオランダ語である。
1639年の鎖国令によって祖国との関係が絶たれた日本人は新たな渡航者もなく日本人の血
脈は南国の大地に溶解した。
日本の鎖国時代においてオランダ商館のある長崎の出島は、いわば唯一の世界への窓で
あった。長崎のオランダ商館は東インド会社VOCのバタビア商館(→274)の出先であった。従っ てオランダから長崎への人の派遣もバタビア経由であった。⇒長崎の出島
東インド会社が解散してオランダ直轄支配に切り替わった際、日本の役人にこの間の難しい
経緯を説明しても商権を失うリスクだけであるので江戸幕府には東インド会社が存続するがご とくみせかけた。
英国のラッフルズ(→276)がジャワ島を征服した際に、英国と日本の交易復活のためにオラ
ンダ船を装って船を長崎へ派遣したが、幕府の役人にオランダでないことを見抜かれて追い 返されたというエピソードがある。
現在の位置
鎖国から解放された明治以降、日本人は東南アジアに堰(せき)を切ったようにあふれ出た。こ
れら日本人の海外渡航は貧しさの故であり、南方で成功したいという一旗組であった。あるい は結果的には棄民であったのかもしれない。
その日本人の海外渡航の先駆けとなったのは「カラユキサン(語源は唐行)」といわれる売春
婦である。例えばある資料によればジャワ島の在留邦人の断片的な数字として1897年(明治 30)の125名の内100名は女性である。その職業が記されていないのは書くのがはばかられる ためである。
カラユキサンは主として九州の天草、島原の貧困家庭の女性であった。当時、三池炭鉱の
石炭が中国や東南アジアに輸出されていた。三池炭の積出港は島原半島の口之津である。 石炭船の積荷の隙間に紛れて密出航した。
シンガポールから東南アジア各地にカラユキサンが配られるチャンネルがあり、東南アジア
の都会にも田舎にもカラユキサンは居た。モームの小説にも日本人の売春宿と売春婦が東南 アジアの風景として描かれている。⇒シンガポールの新聞
山崎朋子著『サンダカン8番館』というカラユキサンを取り上げたルポタージュが知られてい
る。マレーシアのサバ州のサンダカンは当時は北ボルネオ会社の所在する新興都市である。 このボルネオ島の東端の英国領にさえ8番館という大きな数字の番号を掲げるほどの日本の 女郎屋があり、カラユキサンが居たということである。東南アジア各地の都市では似たようなも のであった。
台湾銀行のバタビア支店、スラバヤ支店の開設時はカラユキサンの故郷への仕送りで営業
が成り立ったという。トコ・ジュパン(→348)はカラユキサン相手の商売から始まった。
女工哀史の時代を経て勃興した日本の資本主義は今や押しも押されもしない世界有数の経
済大国である。今、東南アジア全体が巨大な経済力を有する日本の商品の海に浮いているよ うなものである。
この日本の経済発展の基礎となったのは"女工"に表される明治時代の日本の安い労働力
であった。綿製品をダンピングまがいで輸出して日本は工業社会にのし上がった。そういう意 味で輸出されたのは日本女性の汗と涙である。しかし実は女性の肉体そのものも輸出されて いた、それがカラユキサンである。
今日の東南アジアにおいてカラユキサンの痕跡を留めるのは日本人墓地の一画である。そ
こには墓碑らしい石が無造作にある。熱帯の容赦ない炎天は石をも焼き付け、黒く変色してい る。たまに刻まれた文字らしいものは風化して解読困難である。明治とか肥前とか弐拾歳とか トメなどの字の一部がかろうじて拾い読みできる。⇒からゆきさんの墓
今、東南アジア各地では卒業旅行とか称する日本の女子学生の華やかな姿が国際空港、高
級ホテル、リゾート地に溢れている。彼女らはちょうどカラユキサンと同じ年頃である。この両 者を隔てる年数は百年にもみたない。
現在の位置
カラユキサンと同時代に東南アジアへ出た日本人は見世物師とか家事従業員であったが、
もっとも羽振りのよい日本人は女郎屋の大将である。神坂次郎著『波乱万丈』にシンガポール で名をはせた椛山(かばやま)伊平次の生涯を記している。
狭い日本からはみ出た人々は小さな商売を始めた。裸一貫でジャワ島へ行商人として渡り、
初めはカラユキサン相手の商売から次第に住民相手に広がる。行商から始め、勤勉がむくわ れやがて店舗を構えるようになる。
これらの日本人の店はトコ・ジュパン(Toko Jepang=日本人の店)といわれ、正直者の店とし
て人気が高かったのは住民に親切であったからといわれる。華僑は原住民に無愛想な商売を しており、詐欺(さぎ)同然のあくどいものがあったことの裏返しであろう。華僑の地盤へ後から 入り込んできた日本人は仕事に励んだ。
特に薬の行商は歓迎された。皮膚病、眼病の薬が効いたからである。従者もつれて服装も
きちんとしていた。ジャワ人には礼儀作法をわきまえない人間は軽蔑される。
トコ・ジュパンは薬品、雑貨、衣料、陶器、自転車、床屋、写真館、運送店などを営んでおり、
太平洋戦争前には7〜8千人の日本人が東インド(蘭印)に在住していた。当時の日本人の進 出は蘭印のあらゆる街に万遍(まんべん)なく散らばっており、少し大きな町には華僑の商店に混 じって1〜2軒のトコ・ジュパンがあった。岡野案蔵は成功者の代表であり、ジャワの主要都市 に「千代田百貨店」を構えていた。⇒スラバヤのトコ
日本人の南方進出の背景には当時のアジア主義の南進論があるだろう、あるいは日露戦争
の勝利で日本人の評判も上がったのが幸いしたかもしれない。しかし実際に海を渡りやってき たのは国家権力とは無関係の庶民であった。
これとは遅れて日本の大商社もスラバヤ、バタビアに進出してくるようになった。大会社の場
合はかつてグダン(gudang=倉庫の意味)であったビジネス街に大きな店を構える。殖産会社な どの産業資本に続き外交官、銀行、船会社、商社も進出してきた。⇒スラバヤ航路の旅順丸
グダン族は転勤で日本へ帰ることの決まっている人であるが、カキリマ族に帰る予定はなか
った。しかしカキリマ族といえども日本国籍を残したままであり、妻は日本から迎え子供は日本 人学校へやった。意識としては出稼ぎであり、移民ではなかった。
東インド植民地における日本人の位置付けは初めは"東洋外国人"として華僑やアラビア人
と一緒であったが、1899年にオランダとの協定で法的にはヨーロッパ人と同等の地位が与えら れた。日本の経済的進出も目覚しく、植民地は日本の国威から日本人を名誉白人として受け 入れざるをえなかった。
現在の位置
糸満(いとまん)は沖縄本島の南西端にある漁港の町である。糸満の追い込み漁というのは
数十名の漁夫が潜水して泳ぎながら叩(たた)きのようなものをヒラヒラさせ、一方では海底をた たいて音をたてて魚を脅し、海底の地形と潮の流れを利用しながら1000bの遠方から魚群を 200bにも拡げられた網の方向へ追いやる漁法である。⇒現在の糸満漁港
戦前の漁法であるので素潜りである。泳ぎもしらない農村の少年を年季奉公と引き替えの前
借り金で集め、海中を潜水する訓練し漁民として育てる。この結果、50bの海底まで、5分間も 潜れるようになる。糸満の発明といわれる水中眼鏡をつけているが、肉体的に厳しい労働であ ることはいうまでもない。
糸満の漁民は出稼ぎのため早くから国内外へ進出していた。第一次世界大戦でミクロネシア
が日本の領土になったことにより南方進出に輪がかかった。漁夫にとって南の海の高い水温 はありがたいが、鮫(さめ)という危険と引き替えである。
植民地時代のインドネシアには沿岸で自家用消費のための小規模な漁撈はあったが、商品
としての魚をとる漁業はなかった。熱帯気候ですぐに腐るため魚の商品流通は限られていた。 日本人漁夫の進出は冷蔵技術とセットになっていたため地元と摩擦はなく、バタビアやシンガ ポールで消費される魚の大半は糸満漁民の供給であった。
特に東インドネシアでは海賊が横行したため海岸に居住する人は少なく、バジャウ族(→662)
という少数民族が従事している程度で地元漁業はほとんど存在しなかった。この地域へは和 歌山、広島、山口、熊本、鹿児島、高知からの漁民も出稼ぎに来た。
マナド(→208)の外港になるビトゥン港には昭和の初めから日本のカツオ漁業会社があり、カ
ツオ節を製造(注)していた。カリマンタン島マレーシア側のサバ州サンダカンの沖のシァミル (Siamil)島では日産農林系のボレネオ水産が島を借り切ってマグロの缶詰(かんづめ)や鰹節(か つおぶし)の製造を行っていた。戦前の日本漁民進出の顕彰として原耕という先駆者の記念碑 がアンボンの飛行場の近くにある。
変わった漁業は和歌山の漁民による白蝶(はくちょう)貝の採集である。白蝶貝はボタンの材料
であり、戦前はアジア全域での洋装化によりボタン需要が増えていた。ちなみに最近のボタン の原料は石油化学製品になったため白蝶貝採集は衰微している。
今日ではその証の墓がむなしく転がっている。熱帯の灼熱の太陽の下では墓石でさえ風化の
速度が速い。数十年前の墓碑の字も判読はほとんど出来なくなっている。
現在もアラフラ海に真珠養殖のために日本人が駐在している。暖かい海水の温度が真珠の
養殖に適しているが、問題は海賊に悩まされることである。
現在の位置
外部世界との関連で思い出すことの唯一のことは5歳の頃に見たビンタン・インディア
誌の中の写真についてである。父は学校長をしていた父が写真について説明してくれ た。その写真は乃木将軍と東郷元帥の像であった。日露戦争はアジアの人々を眠りか らよび覚ました。アジアの小国でさえヨ−ロッパの大国に打ち勝つことができることを、そ の戦争は示していた。アジアとインドネシアのその後の政治の発展の中で日本の勝利の 意味ははかりしれないほど大きいものがあった。
上記は民族主義者イワ・クスマ・スマントリ(→313)の自伝『インドネシア民族主義の源流』に記
されたものである。日露戦争の日本の勝利がインドネシア人貴族の家庭でどのように受け取ら れたか、そして青少年に与えた影響の大きさが偲ばれる。
インドのネルー首相の自叙伝にも同様の記述があったと記憶している。日露戦争における日
本勝利の感激は全アジア人共通のものであった。
マダガスカル島沖で集結したバルチック艦隊は明治38(1905)年4月、マラッカ海峡を威風
堂々と通過し、シンガポールの鼻先をヨーロッパの底力を見せ付けるがごとくアジアを睥睨(へ いげい)しながら航行した。埠頭からバルチック艦隊を眺めた人は艦隊の砲撃の的になる東洋 の小国の運命に胸を痛めた。⇒バルチック艦隊
バルチック艦隊はベトナムのカムラン湾沖で休息し50隻余の艦隊は対馬海峡に向ったが、5
月27日待ち受ける東郷平八郎の率いる連合艦隊によって日本海の藻屑(もくず)となった。この ニュースは全世界を驚かし、アジアの民族主義者は歓喜の声をあげた。
ヨーロッパ人がアジア人を支配する植民地構造は当時風靡(ふうび)したダーウィンの進化論で
〈優者=白人〉と〈劣者=有色人〉という理屈で正当化されていた。そこへアジア人の日本人が ロシア人に勝利をおさめ、白人優者神話を根底から打ち砕いた。
ジョヨボヨの予言(→299)の“黄色い小人”とは日本人のことでないかという日本待望の噂が
広まりはじめた。インドネシアにおける民族覚醒と記念されるブディ・ウトモ(→286)の結成は日 露戦争の3年後の1908年である。
今日の東南アジアは自動車や電子製品などの日本商品の洪水の中にいるようなものであ
る。かつてメイド・イン・ジャパンがつつましやかであった頃、日本を象徴する商品は『味の素』 であった。その前の太平洋戦争以前は『仁丹』であった。
仁丹が人気があったのは薬用の効果だけではない。紙袋の髭を生やした軍医の絵こそ仁丹
の人気の秘密である。東南アジアの民衆は日露戦争でロシア(≒白人)を破った日本の軍人を 仁丹の包装紙に見付けたのである。 ⇒仁丹の商標
人々は"Jintan(注)"のシンカタン(→963)に「Jenderal Ini Nanti Torong Anak Neguri=この将
軍はやがてわが住民を助けるであろう」という意味付けがされ、さらに人気が高まった。「オイ チニー」の薬売り行進曲の人気もこの一環であろう。
現在の位置
東南アジアでは第一次世界大戦後はヨーロッパの退潮と入れ替わり、日本の進出が目立っ
た。その頃日本で海外雄飛にロマンをはせる「さすらいの歌」が流行り、"南洋熱"といわれた。 日本の経済進出が目立つようになり、蘭領東インドにとって日本は最大の輸入先になった。
日本の財閥資本もプランテーションに投資機会を求めた。財閥は初めからまとまった土地を
取得するだけの資本を有しており、カリマンタン島、マレー半島のジョホール近辺には日本人 によって拓かれたゴム園が多かった。ゴム園では派遣されてきた日本人従業員が監督として 中国人やインドネシア人を雇用した。佐藤茂のように個人の力でガルット高原(→110)のパパン ダヤンに農場を開墾し野菜や果実の栽培に成功した人もある。
蘭印の約1万人の日本人社会は二重構造であった。大企業は国家の威信とともにやってき
た。一方ではトコ・ジュパン(→348)の店主はカキリマから己の才覚と勤勉を資本にインドネシア の地に根を下ろし事業を拡大して成功した人々である。
両者を包含する形で1913年にバタビア日本人会が発足した。会長はトコ・ジュパンの個人商
店主である。1925年には日本人の多いスラバヤに日本人学校が開設された。
第二次世界大戦前の日本の専横的な行動は国際的孤立に追いこまれ、ドイツ、イタリアと組
んだ。戦争が開始されるとオランダ本国はドイツに占領され、ロンドンに逃れた亡命政権にな った。日独伊の三国同盟をバックに1940年12月に再度、芳沢謙吉を派遣したが、1941年6月 に交渉は打ち切られた。日蘭会商(→298)の決裂に伴い、約5000人のジャワ在留邦人の引き 上げが始まった。
1941年12月の太平洋戦争開始によって残っていた日本人は敵国人として植民地政庁によっ
て逮捕され、オーストラリアのキャンプに抑留された。日本人に対するオランダの扱いは酷かっ た。
先に引き上げた邦人はジャワ占領軍に従軍し再びジャワ島へ戻ってきた。トコ・ジュパンの亭
主が占領軍の尖兵(せんぺい)になった。彼らは言葉、習慣に明るいことから軍属として徴用さ れた。占領軍の特権的地位を利用し悪徳を重ねる者もいたし、日本軍と住民との間にたって 住民に感謝された人もいる。
しかし結局は日本の敗戦により営々として築いた経済進出はすべて御破産となった。敗戦国
日本は小店主も大会社も小農も大農園も鉱山も工場も何もかも没収されて文字どおり裸一貫 になって日本へ引き上げた。⇒南十字星
彼らに残されたのは"南十字星"の輝きの思い出だけである。インドネシアでは南十字星を何
時も見られるわけではない。ある時季、ある時間帯に南の空の地に接する所に南十字星は輝 く。骨を埋める覚悟で長期に在留した者だけがその輝きを眼底に留めえた。
現在の位置
今村均中将の率いるジャワ攻略軍は昭和17年(1942)3月1日に三手に分れてジャワ島に向
かった。オランダは波打ちぎわでは抗戦しバンテン湾(→115)から上陸しようとした今村自身の 乗った船が沈められるというハップニング(注)があった。
上陸して何より驚いたのは日本軍を歓迎する住民の存在である。今村はそれまでの中国と
の泥沼の戦いに従事していた。そこでは住民の敵意に囲まれた中での戦闘であり、住民に心 から迎えられるといったことは中国では決して経験しえなかった。
今村は占領行政の長になり融和政策をもって臨んだ。民族主義者スカルノに治世の協力を
求めスカルノは応じた。その時に生じた二人の信頼関係は終生変わらなかった。
日本が戦争を継続するための補給基地に位置づけられたジャワ島に対して融和政策の方
がよいという今村の信念を軍の上層部は是認するも、東京の若手参謀からは今村の占領政 策は住民を甘やかすものだという批判が声高であった。
現実にジャワ島上陸時の兵力の多くは他戦場へ転進のためジャワ島を離れた。その意味で
は今村の融和政策も単なる功利計算といえるかもしれない。
今村は第8方面軍司令官としてラバウルに転身したためジャワの任期はわずか8ケ月であっ
た。一応は昇進であるが、実質は飛ばされ人事の感を伴う異動であった。しかし今村によって 始められたジャワ融和政策はその後の日本のジャワの軍政に命脈を保った。
戦後に今村はラバウルでの捕虜の取り扱いで有罪になった。オランダによるジャワでの犯罪
立件の取調べのため、今村はジャカルタのチピナン刑務所に収容されたが、インドネシア人看 守に励まされた。結局、復讐を意図してもジャワ関連では今村を放免にせざるをえなかったの はインドネシアのオランダに対する無言の圧力であろう。⇒今村均 ⇒「伝記」
今村の率いる第8方面軍は兵力をラバウルに集中して連合軍を待ち構えたが、航空兵力、
即ち攻撃力のないラバウルはパスされた。ラバウルに取り残された日本軍は持久作戦という 名の下に兵力温存のまま終戦を迎えた。結果として7万の将兵は無事に帰国できた。
似たような条件にあったニューギニア戦線ではいたずらに出撃を繰り返し連合軍の掃討作戦
にあい人命の損傷を重ねた。日本の軍人の多くは“楠公精神”といい、死ぬと分かりながら湊 川の戦闘に出かけた楠木正成の美化された故事に捉われていた。
今村はガタルカナルの現状をみて将兵の命を無駄に散らすのを避けた。ラバウルでは自給
自足が可能であったことが幸いしたが、今村のヒューマニティが評価されるべきであろう。
今村は戦争犯罪人として服役することになったが、東京ではなく自ら望んで部下と同じラバウ
ルの刑務所におもむいた。出獄後も処刑された部下の家族を訪れるだけを責務として昭和43 年、82歳で亡くなった。
日本の針路を誤った優秀な陸軍大学校出身者の中に今村均のような軍人もいたことに救わ
れる思いである。
現在の位置
ジャワ攻略の第16軍は占領地の住民に対する宣撫工作を行う目的で宣伝部を編成し、そ
の中に宣伝班を率いていた。町田啓二中佐を班長としてことから町田班ともいわれ、当時の日 本の著名な文化人を徴用していた。
顔ぶれは浅野晃(歌人)、阿部知二(作家)、飯田信夫(作曲家)、大木惇夫(詩人)、小野佐
世男(漫画家)、大宅壮一(評論家)、北原武夫(作家)、河野鷹思(デザイナー)、武田麟太郎 (作家)、富沢有為夫(作家)、南政善(画家)、横山隆一(漫画家)、倉田文人(映画監督)、松 井翠声(弁士)等の面々(注1)である。
日本陸軍の発想と思いきや、第二次世界大戦を始めたドイツのゲッペルス宣伝相の文化部
隊の成果をみてきた山下奉文将軍の進言によるものであったらしい。インドネシア占領行政を 武力によらなくても文化で統治すれば安上がりという判断があったのであろう。
戦争に批判的な文化人に対しては懲罰的徴用の意味もあったが、ジャワ人に日本文化を紹
介するという大義名分があった。宣伝班はラジオ放送、新聞の発行(注2)、演劇の指導にあ たり、トラックに資材をのせ演劇、歌、映画、漫才、紙芝居、伝統芸能を上演した。娯楽の提供 には何らかの形で戦争の意義を説かれていたことは言うまでもない。
ヨーロッパ文化を否定したもののそれに代わる日本文化を提供しようと日本映画を紹介しよ
うとしたが、貧しい農村の有様が写ると原住民は日本を軽んじるだけだということで取り止めに なったというエピソードもある。
1943年4月、啓民文化指導所(注3)を設置し、本部、文学、美術工芸、音楽、演劇、映画の6
部が置かれ、インドネシア人の部長の下に日本人が指導委員になった。そこからインドネシア 文化の担い手となった多くの芸術家が育った。例えば内海愛子著「シアネスト許泳の昭和」に よれば映画製作の起源は啓民文化指導所で許泳(日本名 日夏英太郎)という朝鮮人の貢献 があり、インドネシア映画の父といわれた。
メンテン・ラヤ通31番地に宣伝部分室があり、管理をすべてインドネシア職員に任せた。イン
ドネシア職員によって独立準備のための勉強会が開催されアンカタン・ムダ(Angkatan Muda) を設立し文化活動を行った。アンカタン・ムダは官製の組織であることに反発する青年グルー プはアンカタン・バル(→315)を形成し先鋭的な政治活動の準備を行っていた。
文筆家は現地の政策にそれほど寄与することはなかったが、日本の新聞、雑誌等への投稿
したものに以下のものがある。
吉川英治「南方紀行」、大木惇夫「海原にありて歌える」、富沢有為男「ジャワ文化戦」、寒川
光太郎「薫風の島々」、大江賢治「ジャワを征く旗」、北原武夫「雨期来る」、浅野晃「ジャワ戡 定余話」、美川きよ「南ノ旅カラ」、阿部知二「火の島」、武田麟太郎「ジャワ更紗」、佐藤春夫 「じゃかるたをとめ」、林芙美子「スマトラ」、窪川稲子「南の女の表情」、大仏次郎「スラカルタ の時計」、坪田穣治「インドネシアの子供」
現在の位置
1942年2月、日本軍第16軍はカムラン湾に集結し、敵前上陸を図るべくジャワ島に向かっ
た。佐倉丸の船上にはジャワに夢をはせる熱血の軍人がいた。柳川宗成大尉である。拓殖大 学卒業後、中野学校で特務機関のジャワ要員として教育を受けた情報将校であった。
柳川はあこがれのジャワを前にして意気に燃えた。その情熱に共鳴した同乗の熱血詩人の
大木淳夫が柳川に送った詩が『戦友別盃の歌』である。国民もこぞって共感した名高い詩であ る。
ジャワ島上陸後、柳川は先頭に立って進み、単身でバンドゥン一番乗りして日本軍は間近に
迫っているとハッタリをかけオランダ軍を降伏させたことで名をあげた。しかし戦闘が終わると このような熱血漢は組織に馴染まない人であるだけに軍としては扱いに困った。
参謀部別班で無聊(ぶりょう)をかこつうちに格好の仕事が見つけ出した。柳川はジャワ青年に
対する軍事教育をほどこすことを提案し、ジャカルタ西郊のタンゲランに青年道場の看板をか かげ、諜報・謀略活動のための現地人要員の育成を行った。
柳川の意識は中野学校のインドネシア版であったが、インドネシア人を鍛えるという柳川の熱
意に青年達は応えた。指導者になる人物が汗を流して身体を鍛えるという文化はジャワにな かった。日本の相撲を取り入れたが、肌のふれあう肉弾競技はジャワ人にカルチャー・ショック であった。ジャワ人が得た最大の教訓は「スマンガット(semangat=精神力)」である。
独立後、ペタ出身者はインドネシア国軍の幹部になり、結果的には軍幹部の人材養成の機
関の役割を果たした。ジャワ青年の意気に共鳴して真剣に対応した日本人教官がいた。市来 龍男(→358)はペタを天性の職場として没頭した。日本のペタ関係者にもインドネシアへの思い 入れが強い。民族を越えた師弟愛の交流があったが師も生徒も年老いた。スハルト大統領の 自伝に柳川の名が記されている。
第二次世界大戦のジャワ占領とインドネシア独立戦争を舞台にインドネシア独立に共鳴しイ
ンドネシア軍に加わった日本人を描いた映画(→359)『ムルデカ』の主人公島崎大尉のモデル は柳川である。映画で主人公は戦闘に倒れるが、実際の柳川は日本帰還を余儀なくされたた め独立戦争には参加していない。⇒映画ムルデカ
インドネシアへの思いいれのため1964年から家族もろともインドネシアに永住し日本料理店
を営んでいたが、1985年9月インドネシアに永眠した。拓殖大学に柳川の寄贈によるインドネシ ア関係の資料がある。
現在の位置
海軍軍人の前田精(1898-1977)は鹿児島県出身で海軍駐在武官としてヨーロッパやアジア
各国に勤務した。軍人の中では自由主義思想の持ち主であったらしくオランダ駐在の頃からイ ンドネシアの民族運動に理解と同情を持った。
日本のジャワ占領とともにジャカルタの海軍武官府の責任者になるや、吉住留五郎、西嶋重
忠といったインドネシアに思い入れのある民間人を嘱託として調査活動に従事させ、彼らを通 してインドネシアの民族主義運動とパイプを持った。この中にスバルジョ、イワ・クスマ・スマント リなど独立後の要人がいた。
前田自身がこれらの人物と日常的に接したわけではない。給料と調査費を与え、自由放任
にすることで民族主義者の活動は活発になった。その際、海軍武官府関係者という身分が陸 軍の軍政の下で聖域の役割を果たした。
彼らの活動の中で特記されるのは独立養正塾である。インドネシアの独立後の人材育成を
行うことを目的とするスバルジョ提案の独立養正塾を後援した。教育カリキュラムはすべてイン ドネシア側の自主性に任せられていた。
独立後の新生インドネシアにおいて独立養成塾の出身者グループは“海軍派”といわれる人
脈を築く一勢力をなしていた。後の共産党幹部に独立養成塾の出身者が多かった。
独立宣言時(→317)の8月15〜17日の前田の活躍はインドネシア独立秘話として語られてい
る。倒幕軍の江戸攻めを前にした勝海舟の役割のように思う。孫引きであるがド・フラーフとい うヨ−ロッパの学者も次のように述べている。
「崩壊のまぎわに勇敢にふるまったのは前田ただ一人である。彼はインドネシア共和国を建
設することによって敗れる祖国のためにつくそうとした。日本占領中の数少ない魅力的人物で ある」 スバルジョ著「インドネシアの独立と革命」
前田は組織上の立場に恵まれていた。海軍武官府が東京と直結していたのに対して陸軍は
[サイゴンの南方軍総司令部]⇒[シンガポールの第17方面軍]⇒[ジャワ16軍]という組織上 のクッシヨンが多すぎた。このため日本の敗戦という決定的瞬間においても情報不足の陸軍 はインドネシアの動きに機敏な対応ができなかった。しかしこの立場の差も前田の功績を過小 評価することにはならない。⇒独立宣言起草館として保存
戦後の前田は経済的にも失敗して不遇であった。1958年スカルノ大統領が初めて日本を訪
問した際に病床の前田を見舞った。その後、健康を回復した前田は招かれて一度だけインド ネシア独立記念祝典に出席することができた。ナラリア勲章を受賞した。またメンテンにある前 田邸は独立宣言文起草博物館(→161)として公開されている。
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三浦襄は明治21年生まれの仙台の人である。両親は熱心なクリスチャンで本人もクリスチャ
ンであった。太平洋戦争前にスラウェシ島に渡り、そこからバリ島に転住し自転車の輸入販売 の【TOKO MIURA】を営んでいた。
しかし商売は店員に任せて本人は住民の世話にバリ島中を駆け回り人望を得ていた。牧師の
父の「南方に行ったら住民の利益のみを考えよ」という戒めの実施者であった。
バリ島民はヒンドゥー教の信仰の厚いことで知られる。宗教は異なっても敬虔な信仰から生
まれる誠実さは普遍のものとしてバリ住民に受け入れられたのであろう。
日本兵に恐れをなしたバリ人も「三浦さんがいる」ことに安心した。日本の軍政期間は日本軍
と島民の間に摩擦が生じることは避けられなかったが、多くは習慣の相違、言葉の不自由さに 起因するもので現地に詳しい三浦がこの両者の間に入り多くの島民が助けられた。
日本の古武士を思わせる風貌であり、バリ島民の愛称は「白髪のおじさん」であり、「バリの
父」であった。地元の人には「トアン・ブサール(Tuan besar)」と最大の敬語で呼びかけられた。
日本軍の派遣隊長も三浦をたて、三浦の推挙するプジャが知事になった。人をえた人選によ
って日本の軍政下のバリ島はインドネシアの他の地域では見られないほど平穏に推移した。 ちなみにプジャはインドネシア独立準備委員(→312)のバリ代表となり、太平洋戦争後はオラン ダの勧誘を拒否したため投獄された。
三浦は日本の占領はインドネシア独立のための手段であると信じきっていた。それでもって
日本の厳しい軍政の受入を島民に説得してきた。
しかし日本の敗戦によって独立の約束が反古(ほご)になるや、徹頭徹尾謝罪の言葉でもって
バリ中を回った。「日本人は戦いに負けると自決するとバリ人に教えた。ところがこの度は天皇 陛下の命令で自決することができない。それではバリ人に嘘をついたことになったので日本人 を代表して自分が自決する」と釈明した。⇒三浦襄の墓
三浦の決意は誰にも止められなかった。バリでは火葬である。土葬のために必要なセメント
を手配した。心配をして集まる住民を追い払い従容(しょうよう)として拳銃で己を打ち抜いた。9 月7日の夜であった。9月7日は日本が約束した独立が実現する日であった。
葬儀は日本式で行われた、参列するバリ人は王族以下1万人もいたという。日本人が一人
で行ったププタン(→172)であった。その後も彼の墓には花が絶えない。日本人が訪れて慰霊 祭を行うと今なおバリ人が集まる。
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東京都港区の芝の愛后山の麓に青松寺(注1)という立派な寺がある。その寺に吉住留五郎
と市来龍男を顕彰する石碑がある。その碑にはスカルノ大統領の文言がインドネシア語と日本 語で記されている。⇒青松寺の顕彰碑
独立は一民族のものならず全人類のものなり 1958年2月15日
Kemerdekaan bukanlah milik sesuatu bangsa saja, tetapi milik semua manusia
碑はインドネシア独立のために命を捧げた日本人の顕彰の碑であり、2名の名が記されてい
る。吉住留五郎と市来龍男(次項)はインドネシア独立戦争に参加しインドネシアの地で不帰の 客となった。
大木の下の木陰の碑にはうっすらと苔(こけ)がついている。近くにある爆弾三勇士もインドネ
シア独立の志士も同様に遠い過去の出来事として歴史の風化を示している。青松寺では大掛 かりな改修工事が行われたが、石碑がどのようになったか気がかりである。
戸川幸夫著「昭和快人録・知られざる戦史」(1964年)による吉住留五郎の略歴は38歳
(1911-48年)の生涯である。山形県のかなり裕福な農家の五人兄姉の末弟に生まれた。教師 と対立して中学を退学させられたのは直情的性格のためである。農民運動に関係したが、彼 にとって所詮、日本は住みにくく悶々としていた所へ遠縁の紹介でジャワ島に渡った。
ジャワ島では農園などの職歴をへて町田泰作の下で『日蘭商業新聞』の記者となり、ようやく
本懐の場をえた。折からの日本の南進政策の意を受けて来たるべき日本の進出のための事 前工作として華僑に対して好日化対策を行い、東インド政庁から危険人物として国外退去させ られた。
太平洋戦争勃発とともに単身密入国を計るがバンカ島(→104)で逮捕されてオーストラリアの
アデレードの収容所に抑留された。その間にオランダが加えた虐待は彼の健康を蝕み、オラ ンダに対する吉住の憎悪は増幅された。その後、民間人の相互交換でシンガポールに戻さ れ、ようやくジャワ島に帰還した。
はじめはスラウェシ島で海軍の特務機関に配属されたが、後にジャカルタの海軍武官府の
前田精武官(→355)の下で嘱託となり、この間に西嶋重忠やインドネシアの民族主義者達と知 り合い次第にインドネシア独立運動にのめりこんだ。彼の経歴から窺われるのは思想的なも のというよりは、"行動の人"といわれるように思い込んだら命懸けという性格的なものが彼の 原動力であった。⇒スラバヤ(1948年)
終戦になりタンマラカ(→295)に共感(注2)しインドネシア軍に身を投じる。軍の経験もないが
市来の訳した『陸軍歩兵操典』をもとにインドネシア軍の指導を行う。肺を冒されていた吉住留 五郎は血を搾るようにして『インドネシア独立戦争の戦略戦術』という書を表した。オランダに 対抗するためにゲリラ戦を展開すべきであるというのがその主旨である。
1948年8月10日、東ジャワのブリタル近郊のセゴン山中で息を引き取る。アリフ(Arif)こと吉
住はブリタルの英雄墓地に多くのインドネシア兵士に囲まれて葬られている。
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インドネシア独立戦争の1949年1月9日早暁、東部ジャワのスメル山麓のダンピット(Dampit)
でオランダ軍の兵舎を襲うゲリラ隊の隊長アブドゥル・ラフマンは頭と肩に貫通弾を受けて倒れ た。半年もすれば休戦で1年もすれば得られたであろうインドネシアの完全独立において自分 の居場所がないであろうことを予感した者の捨て身の攻撃であった。アブドゥル・ラフマンは市 来龍男という日本人である。⇒青松寺の顕彰碑
後藤乾二著『火の海の墓標』に従って市来龍男(1906-49)の生涯を辿ってみる。市来は熊本
県人吉の出身で明治39年(1906)に貧乏士族の家に生まれた。父は他所に家庭をこしらえて出 奔したため、母親に育てられた。
落ちぶれた下級士族の絵に描いたような貧困を打開すべく昭和3年(1928)年、22歳の時、同
郷の南洋成功者の伝手(つて)をたどり、スマトラ島に渡る。日本で習得した技術をもとに写真 館で働いた。後に西部ジャワのバンドゥンに移った。⇒植民地下のバンドゥン
トコ・ジュパン(→348)の店員として住民に接する。植民地社会の中でインドネシア人に対して
優越感をもつ日本人である自分に違和感を抱く。やがて彼はスンダ人女性と同棲する。当時 の日本人社会からの"おちこぼれ"であった。
彼がインドネシアにのめり込むようになった動機は当時マレー語といわれたインドネシア語の
持つ魅力(注)に引かれたためである。日本人社会とは縁を断って『インドネシア・日本語辞典』 の作成に没頭する。⇒インドネシア語
折しも勃興するアジア主義者の影響を受けた日本語の『日蘭商業新聞』がバタビアで発行さ
れており、市来龍男はその記者となった。アジア主義者の人脈の末端に自己の思想の安住場 所を得た。ここで生涯の盟友となる吉住留五郎と出会う。
「日本によるアジア諸民族の解放」を主張する論調はオランダ当局に警戒されて、日本へ帰
国した際にジャワ島への再入国を拒否(1938年)される。
太平洋戦争勃発後は占領行政のため陸軍の嘱託としてジャワ派遣軍とともにジャワに戻っ
た。しかし彼はすぐに日本の軍政に失望する。何故なら日本が植民地を解放するというのは占 領するための方便であった。
彼が任されたことはインドネシア語の権威者としてインドネシア語整備委員会の常任委員とし
てインドネシア人との共同作業で外国語のインドネシア語への言い換えの仕事であった。
失意の中で市来龍男は柳川宗成(→354)が養成したインドネシア人による軍であるペタ(→
309)に情熱を傾ける。日本軍に充たしえないものをインドネシア人の軍に賭けたのであろう。 市来は日本の『陸軍歩兵操典』をインドネシア語に訳し教科書としてインドネシア軍を指導し た。
太平洋戦争終了前から日本軍を離れた市来はアブドゥル・ラフマンというインドネシア人にな
る。ダンピットにある【日本人の墓 NO.1】が市来龍男の墓とされている。
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インドネシア独立戦争に身を呈して参加した日本兵はジャワ島とスマトラ島の両方にいる。独
立戦争の主戦場はジャワ島であり、終戦時の駐留日本兵もジャワ島の方が多かった。しかし ながら実際にインドネシア軍に参加した日本兵はスマトラ組に顕著である。
その理由はジャワ島の当初の占領部隊はニューギニア戦線などに転戦し、別の部隊が進駐
してきた。これに対してスマトラ島の日本軍の第25軍はマレー攻略からスマトラ島を占領した 部隊がそのまま終戦を迎えたことからスマトラ島駐在の兵は現地に親近感を持つ機会が多か った。もう一つはスマトラ島攻略の日本軍の主力は近衛師団であった。近衛師団は特別の師 団であり、全国から選ばれた兵士が入団した。エリート師団の兵士には責任感、使命感がより 強かったのではなかろうか。⇒インドネシアに帰した日本兵
太平洋戦争の終了によって日本の約束したインドネシア独立は反古(ほご)となった。オラン
ダの出方から独立戦争は必至と見たインドネシアは日本兵に参加を呼び掛けた。インドネシア 軍は日本軍の持つ武器、弾薬を求めたが、何より渇望したのは実戦闘の経験者であった。軍 隊訓練を受けている日本兵は先達であった。インドネシアの呼びかけに応えて独立戦争に身 を呈した日本人は800人とも1000人ともいわれる。
その一人である宮山滋夫がインドネシア独立戦争に参加するため離隊した際の置手紙を記
す。 (出所 木下迪介氏資料による)
敢えて大命に抗して独自の行動にい出んとす
言うなかれ敗戦の弱卒天下に用なしと
生を期して米英の走狗たらんよりは微哀に殉じて火による虫とならん
天道は正義にあり 歴史の赴くところ正義にあらずして何ぞ
敢えて不遜の行動に出ずるゆえん 乞うご容赦あらん事を 戦友諸君
インドネシアの思いがけない軍事抵抗にてこずったオランダはインドネシア軍は日本軍人が
指揮しているに違いないとにらんだ。日本人には特別の懸賞金がかけられ、逮捕された日本 人は処刑された。
2001年に公開された日本映画『ムルデカ MEREDEKA(独立の意味)』はインドネシア独立戦
争に参加して犠牲となった日本人を描いている。インドネシア独立に身を捧げた日本人がいる という事実も押し付けがましくすればインドネシア人の機微にふれるようでインドネシアでの評 判はよくない。インドネシアでは対抗上"CA BAU KAN"という反日映画を製作した。
インドネシア訪問の国賓はしばしばカリバタ(Kalibata)英雄墓地に参拝する。墓地はジャカル
タ郊外のパッサルミングー街道に近い製靴工場のあった広い敷地にある。
この墓地に葬られているのは独立戦争に倒れた英雄である。勲章を有する者が入る資格あ
り、壁に金色のインクで名前が記されている。3400名の中に日本人13名が葬られている。イン ドネシア全土では41名という。
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独立戦争が終了とともに独立戦争に参加した元日本兵戦士にも故国へ引き上げる機会はあ
った。しかしインドネシア国籍を取得してインドネシア永住を決意した者もいる。
幸運にも独立戦争を生き残った人はインドネシア人と結婚し、国籍を取得しインドネシアの人
となった。このような人に対して様々な感慨をこめて"ジャピンド(Japind=日系インドネシア人) と言う言葉があったが、今では死語のようである。
石井正治著『南から』はちょっとした行き違いから残留日本兵となり、独立戦争に参加してイ
ンドネシアの土に同化することを決意した人の自伝である。故国日本とインドネシアの間に揺 れ動く葛藤の中で幾多の辛酸をなめながら成功した。
その他の人の自伝、評伝に次のようなものがある。@後藤乾一著『火の海の墓標』、A栃窪
宏男著『二つの祖国を生きた』『日系インドネシア人』、B早川清著『忘却の青春』である。@は 日本の占領下で果たせなかったインドネシア独立への贖罪、Aは独立運動への共感と意気、 Bは混乱期の偶然、と各々理由は異なる。
元日本兵には事業にも成功し悠々自適の人もいる、その日の生活に困る人もいる。しかし年
老いた"元日本兵"は年々減っていくことだけは確実である。帰らなかった日本兵の中には帰 れなかった日本兵もいたであろう。
長洋弘氏は日本人学校に勤める傍ら『帰らなかった日本兵』を訪ね、その写真集を刊行し
1995年林忠彦賞を受賞した。元日本兵の額に刻まれた皺(しわ)の襞(ひだ)は年月の重さであ った。写真展は日本とインドネシア各地を巡行され多くの人の心を捉えた。
1979年日本人残留者180名によって「福祉友の会(Yayasan Warga Persahabatan)」が結成さ
れた。一匹狼的な決意でインドネシアに残留した人が会に参加するようになったのも時の流れ である。
会員の代表は当時の吉良大使から夕食の招待を受けた。大使からの招宴はヤヤサンに対
する故国の認知として出席者は感激した。
その後、年老いた元日本兵の残留者に軍人年金の一時金が交付されたのは戦後数十年も
たってからである。すでに日本人でない彼らへの年金法の壁の障害を乗り越えるには関係者 の並々ならぬ尽力があった。
その経緯を伝える福祉友の会「会報」の几帳面な手書きは彼らにはインドネシア独立に寄与
したという誇りとともに、"脱走兵"という汚名の自責に苦しんでいたことが記されている。日本 政府からの一時金は金額の多寡の問題でなく何よりも晴れて日本政府に認められたという喜 びが窺われ、読む人の胸を打つ。
会の設立と運営に尽力をつくしてこられた乙戸昇さんは2000年12月に急死された。インドネ
シア名"Kumpul N.Otsudo"として家族に見守られインドネシアに土に帰された。享年82歳であ った。多くの人が温厚な人柄を偲んでいる。合掌。
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日本語学校ミエ学園(Lembaga Pendidikan MIE Gakuen Kursus Jepang)はジャカルタのテベ
ット地区にあるモルタルの3階建ての建物である。1994年10月に開校し、日系二世、三世や日 本で就業するインドネシア人が日本語の習得に励んでいる。
この学校は一人の女性の尽力によってできた。小倉みえさんは築地に割烹料理店を経営し
ており、矍鑠(かくしゃく)として毎日みずから店頭で働いている姿からは年齢が信じられない。
宝塚スターなることを憧れたというだけの長身である。美人であったことは半世紀以上前の
写真を見なくても十分に分かる。もし戦争がなければ華やかな人生を送れた人であろう。
彼女の学校の寄贈は女手一つで営々として築いた資産からであり、分限者の慈善行為では
ない、まして老夫人の気まぐれではない。彼女はインドネシアに御礼を返したかっただけであ る。何の御礼なのか。何が彼女をしてそこまで駆り立てたのか。
彼女は戦時中、海軍の募集に応じて新天地を求め、スラバヤ(→140)の海軍クラブの事務員
に応募した。東京でも戦争の影響による生活困難は重苦しくのしかかっていた頃である。多く の輸送船が米国の潜水艦に攻撃される中で昭和19(1944)年1月に佐世保を出帆しインドネシ アに奇跡的にたどり着いた。
スラバヤは日本海軍の第二南方派遣特別根拠地隊があり、南方に作戦を展開する海軍の
補給基地であった。海軍給養施設もあり海軍将兵の休養と慰安のための直営の食堂・料理店 を設けていた。彼女にとっては物資は溢れるばかり豊富にあり、内地から来ると天国に見え た。しかしそこは明日をも知れぬ兵士がつかの間の時を過ごした場所である。日本の若い女 性の姿を焼き付けて死に赴いた軍人もいたであろう。
彼女は日本人のみならずインドネシア人にも誠心誠意対応した。このためインドネシア語を
学習した。死を覚悟し荒れる日本将兵の前に身を挺してインドネシア人の従業員を守ることも あった。
戦争が終わり、幾多の困難を越えて昭和21(1946)年8月に帰国した。そこで見たのは上野駅
の浮浪児の集団であり、パンパンといわれる女性の群れであった。
死んだつもりになって働いた。昭和25(1950)年に始めた旅館業は小さいながらもビルとなり1
階の割烹料理店には海軍やスラバヤ関係者の溜まり場になった。
祖国の復興に伴い事業も定着してもなお満たされない心の空洞にインドネシアが蘇(よみが
え)った。インドネシア滞在は彼女の最も多感な青春の2年半にすぎない。その間に起きたこと は天国と地獄であり、全生涯の濃縮であった。彼女の青春の証、存在の証がインドネシアであ った。⇒マネジャー・スサント氏 ⇒「ミエさんの戦争」
1993年、インドネシア人の教育のために奨学基金2200万円を提供した。身内やファンの多く
が同調した。さらに日本とインドネシア架け橋になる人材の育成のために福祉友の会(前項)が 受け皿になり設立したのが冒頭の日本語学校である。
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1958年1月20日、日本とインドネシアの賠償協定はジャカルタで藤山愛一郎、スバンドリオ両
外相の間で締結され、4月15日批准書を交換して発効した。日本が戦争中にインドネシアに与 えた損害を償うものである。
賠償金総額223百万ドル(当時の円換算で803億円)を物資か役務で提供するものである。そ
の他に焦げ付き貿易債権177百万ドルの放棄、経済協力借款4億ドルを加えると総計約8億ド ルの規模である。
スカルノ大統領は反植民地を怒号するも、足元を支える経済が脆弱(ぜいじゃく)であり反西
欧の言動から欧米の資金援助はなく外貨の欠乏は深刻であった。賠償交渉は1951年から始 められていたがインドネシア側は経済事情の悪化で引き伸ばしが許されなかった。
当時、スカルノ大統領は地方の反乱(→378)に直面していた。イリアン問題のこじれでオラン
ダのKPM(→475)がインドネシア海域から船舶を引き上げた。島嶼国家インドネシアは島間の 海上輸送が停滞し、軍事行動のみならず経済活動に支障をきたした。
当面緊急を要する案件は船舶であり、浮かびさえればどんなボロ船でもよいというインドネシ
ア側の弱みがあった。これがインドネシアが当初要求175億ドルを取り下げて冒頭の賠償協定 に踏み切った理由であろう。
鉄鋼商社の木下産商は賠償資金で船9隻の輸出を締結した。9隻のうち5隻はよくもインドネ
シアまで航海できたと思えるような中古船で、しかも市価の3倍といわれた。その中には興安丸 という数奇な船歴を有する船もいた。
賠償は資本財の供与に重点が置かれ90%を占めた。4%が消費財、5%が役務である。当時の
日本にとって8億ドルは巨額であったが、実際の支払はインドネシアと契約を締結した日本企 業に円貨で行う方式であったため日本の外貨持ち出しにはならなかった。
日本企業のインドネシアへの売込みは木下産商(木下茂社長)、東日貿易(久保正雄社長)
の政商が暗躍し、スカルノ大統領に日本女性が人身御供として送られた。インドネシア・ビジネ スがダーティなイメージ(注1)を伴うものとなった起源は賠償協定にある。インドネシア賠償汚 職が1959年の日本の国会でとりあげられた。
賠償による供与品目にはダムや橋梁や工場などインドネシアの経済発展に資するものであ
ったが、ジャカルタやバリ島のホテル(注2)やサリナ・デパートなどはスカルノ大統領好みの賠 償物件もあった。 ⇒サリナ・デパート ⇒ホテル・インドネシア
インドネシアへの経済進出という面において、日本は賠償という名において西欧諸国とスター
トラインに並ぶ前に既に走っていた。その後の外国勢の中で日本は常にトップ・ランナーであっ た。明らかに賠償は日本のインドネシア経済進出のテコの役割を果たした。
その後、ヘイホ問題(→306)、慰安婦問題などが提起されるも、賠償問題はスカルノ大統領時
代に解決済みというのが両国の当局の公式見解である。日本のインドネシア国民に対して忸 怩(じくじ)たるものはODA経済協力ですりかえられている。
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ジャカルタの南にある軍事博物館の建物はかつてヤッソ会館といわれた。「デウィ夫人(正式
インドネシア名ラトゥナ・サリ・スカルノ・デヴィ(Ratna Sari Sukarno Dewi)とは根本七保子という 日本人であり、その弟の八曾男の名にちなむヤッソ会館がスカルノ大統領の第三夫人の邸宅 であった。
根本七保子がスカルノ大統領夫人となった経緯は、賠償協定の利権のため女好きのスカル
ノ大統領に取り入る目的で日本の政商の久保正雄が彼女を大統領に紹介した。彼女がインド ネシアに連れてこられた時にはすでに同じ目的で金勢さき子という女性がいたが、さらに若くて 美しい交代要員が現われて自殺した。
実態は"生きた人形"の贈り物であるが、その後の彼女の波乱万丈の人生は一人の日本女
性のたくましい生き方といえる。恰好の小説の題材となり、『神鷹(ガルーダ)商人』『生贄』『密 書』などが有名である。
スカルノ大統領の複数妻問題(→442)は当初から批判されていた。まして外国人である第三
夫人には国民の目は一層厳しかった。デウィというインドネシア語の名前は稲の女神(→698) にちなむ、このような神聖な名前を外国人に与えることに国民感情は複雑であった。
しかしその時にはスカルノ大統領は独裁者であり、批判の声も内に籠った。彼女の武器は美
貌もさることながらやはり日本の経済力であろう。やがて彼女はインドネシア行を取り持った人 の思惑をはるかに越え、夫人の座を確保し公的な場にも姿を現した。
大統領からインドネシア・日本親善協会会長に任命され、日本のからむ経済関連事項、特に
利権のからむ物件に口をはさむようになった。日本も国をあげてそういう彼女を利用したとい える。⇒メガワティ大統領と義母
イスラム教では4人の妻まではコーランで認められている。第一夫人(メガワティ大統領の
母)は別居していたが、共産党のかつぐ第二夫人と利権に強い第三夫人の大統領を巡る戦い は女の艶と政治勢力が交差して迫真に満ちていた。
女好きという大統領の性向の問題であっても複数の夫人は政治との係わりが深かった。スカ
ルノ大統領の絶頂時には第四夫人も存在していた。晩年にはそれ以外にもまだ少なくとも二 人(注)はいたという。脱帽! ⇒元大統領夫人
インドネシア滞在もままならなくなり海外に逃れた。その後、彼女はスペインの貴族と再婚し
て離婚した。ジャカルタの高級レストランで彼女を見かけるという話をきく。彼女がインドネシア に用があるのは隠し財産があって定期的に集金をかねて見廻りに来ていると思うのは下司の 勘ぐりである。
彼女の裸の写真集が刊行された。元大統領夫人の裸の写真にはインドネシア当局も困惑し
ている。相変わらず昼の下らぬTVに出演して存在を顕示している。
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ワヤン(→902)はジャワ芸術の至宝であるが、ジャワ語で演じられるため外国人にとって言葉
の壁が立ちふさがる。しかも古代ジャワ語である。インドネシア人でもジャワ人以外の外島出 身者もワヤンの言葉がわからないので敬遠しがちである。
ワヤンに取付かれた松本亮という日本人がいる。ワヤンとの縁はジャワ島遺跡廻りでワヤン
の上演にめぐり合い、初めてのワヤンに感動したのが始まりである。古いジャワの文化が新時 代にも躍動しつづけている様に感嘆した。以降はワヤンに没頭し、40歳からジャワ語の勉強を 始めた。
1974年、日本でワヤン上演を機会に発足した日本ワヤン協会を主宰している。自らダラン
(→874)になって影絵人形を操る。ワヤン上演を目指してワヤン協会の会員の手で日本人自 身がワヤンを演じるようになった。老若男女を問わないワヤン好きが氏の周りにおり、著名な ダランを招き日本でワヤンを上演している。
飄々とした老体の身を引きずり日本とジャワを往来している。とにかくワヤンが好きという人
柄はジャワの王侯、貴族、名あるダラン、政府の文化関係者のみならず名もないジャワの庶 民にいたるまで交友の範囲は広い。
ワヤンやガムラン、宮廷舞踊などジャワ文化を日本に紹介してきた。日本とは異質な豊かさ
を感じジャワの近代生活に毒されぬ貧しさを羨む。エコノミック・アニマルと軽蔑される日本人 の埒外(らちがい)の存在である。松本亮は収集したワヤンで家一軒分が一杯になるらしい。ワ ヤン研究の第一人者であるが、本人は学者のつもりはさらさらない。ワヤンが好きでたまらな い民間の篤志家(とくしか)を自称している。
1999年2月、72歳で松本亮はインドネシア政府より文化功労勲章を受賞している。文化交流
とか上段に構えたものでない。自然態のしからしむところである。
古都の静かな住宅地に物憂い昼下がりにガムランの練習の音が夢か幻のように聞こえてく
る。ワヤンの魅力にひかれた一日本人がワヤンの風土にどっぷり漬かった様は"桃源郷"のよ うにい心地よい。静謐な語り口にはインドネシア語はもとよりジャワ語を理解し、ジャワの歴 史、文化、習慣、社会、への造詣(ぞうけい)の深さがにじみ出る。ジャワ文化理解の必読書で ある。 ⇒日本ワヤン協会のHP
松本亮のその他の著書は『ジャワ影絵芝居考』『ワヤン(カラー新書)』『マハーバーラタの陰
に』『ワヤン人形図鑑』『悲しい魔女』『ラーマーヤナの夕映え』『ワヤンを楽しむ(カラー版)』 等々である。
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