D−3章 スハルト体制 
384.9月30日事件 385.クーデター未遂
386.50万人殺戮 387.3月11日大統領令
388.政権発足の合法性 389.旧秩序から新秩序へ
390.マラリ事件 391.軍事政権の鎧
392.開発独裁 393.ゴルカル/政府与党
394.国軍との綱引き 395.KKNのシンボル
396.50人請願グループ 397.7月27日事件
398.1997年シラケ選挙 399.通貨危機の衝撃
400.政権への執着 401.ハビビ副大統領
402.暴動の列島連鎖 403.首都騒乱
404.スハルト辞任

D−3.スハルト体制(注釈と資料)
D−1国家の仕組み D−2スカルノ体制 D−3.スハルト体制 D−4ダッチロール政局
D−5イスラムと国家 D−6国家分裂の危機 D−7政治家列伝 D−8国際関係



D−3 スハルト体制

384.9月30日事件

  1965年9月30日の深夜、ウントゥン(Untung)中佐の指揮する大統領親衛隊(注)が陸軍の幹
部の自宅を襲ってどこかえ連行した。翌10月1日の朝7時の国営放送で革命評議会が全権力
を把握したと伝えた。しかし、陸軍予備軍司令官スハルト将軍が共産党の影響下にない直属
部隊の実権を把握し、間髪入れずに反撃を行った。この結果、反乱軍はその日の夕方までに
鎮圧されてクーデターは失敗した。
 9月30日事件といわれるクーデター未遂事件の全貌は明らかにされていないが、クーデター
を仕掛けたのはインドネシア共産党とされている。この事件がきっかけとなってスカルノ大統領
は政治権力を失い、また、インドネシア共産党が壊滅し、それまでのインドネシアの政治の流
れを逆転させることになり、ひいては東南アジアの政治の流れにも連動した世界史的事件であ
った。⇒9月30日事件 ⇒9月30日事件
 事件前までスカルノ大統領は政治勢力を結合した挙国体制をナサコム体制(→380)と称し、
終身大統領として独裁化を進めていた。しかし、これらは本来相いれない勢力の集合であり、
スカルノ大統領のカリスマ性の下にかろうじてバランスを保つにすぎなかった。この中でも〈国
軍〉と〈共産党〉の対立は先鋭化していたところへ大統領の健康を巡る不安から一触即発の状
態にまで緊張は高まっていた。
 特に共産党側はスカルノ大統領の個人的庇護(ひご)のもとに勢力を伸長させてきただけに
不安感が強く、大統領生存中にクーデターによって国軍にダメージを与えて共産党の基盤の
強化を計ろうとし武装蜂起したが失敗した。それが9月30日事件であるといわれる。
 事件後、共産党のクーデター陰謀が暴露されるに及んで数ケ月の間、共産党に殺害された
将軍の報復を求め、反共産党デモが荒れ狂った。学生やイスラム関係者がリーダーとなって
いたが、国軍がバックアップしたことはいうまでもない。
 共産党員狩りの狂気は燎原(りょうげん)の火となってインドネシア国内に燃え広がり、殺害さ
れた者の数は定かでないが、多い推定では50万人ともいわれている。{共産党≒中国≒華僑}
という住民の反華僑感情が煽られて多くの中国系住民が巻き添えになった。
 スカルノ大統領は事件当日、わけの判らないままにクーデター側の占拠する空軍ハリム基地
に身を寄せたことが致命的な失敗となった。この共産党寄りのあいまいな行動のため国民の
信頼を失い窮地に陥ることになった。
 その後の国軍との権力抗争の中で共産党を弁護するスカルノ大統領は次第に孤立し、治安
維持の権限をスハルト将軍に委ねざるをえず、権力を順次はがされて失脚した。
  9月30日事件の国際的意義は東南アジアの大国が容共国家から反共国家になり、国際問題
のトラブルメーカーが国内問題に専念するようになったことであ
注釈と資料-384
 
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385.クーデター未遂

  9月30日事件に関しては謎が多くすべてが解明されているわけでない。第一にクーデター計
画がお粗末すぎたことである。スカルノ宮廷政治の裏面では共産党と国軍幹部の対立は権謀
術策を弄し、ポスト・スカルノをめぐり水面下の駆け引きから両者の武力対決は避け難いもの
になった。
  共産党はスカルノ大統領の健康の衰えから在任中に共産党への政権移譲を実現しようと焦
っていた。共産党の指導で農民を武装させ第5軍として、国軍に対抗しようという計画(注1)
スカルノ大統領に吹き込んでいた。中国共産党が武器の提供を準備していた。
  一方、国軍幹部は将軍評議会が開催されていたが、将軍評議会を共産党撲滅のための戦
略を練っていると共産党は警戒してした。将軍評議会の設立目的、実際に共産党打倒計画が
存在したかどうかは明らかにされていない。⇒殺害されたヤニ将軍
  10月5日の国軍記念日に軍が首都に集結する時期に国軍の実力行使があるとの噂が広まっ
た。その前に先手必勝とばかり共産党分子が先に仕掛けたのが9月30日事件である。
  共産党側に万全の準備が整えられたとは思えない。一部の共産党系軍人(注2)の暴走に党
に引きずられた節もある。クーデターの首謀者としてはお粗末な実行計画であった。
  もう一つの9月30日事件の不思議はスハルト将軍の対処があまりにも機敏でありすぎたこと
である。事件の本当の仕掛け人は軍部であり、共産党は罠(わな)にはめられただけという論も
ある。あるいは米国CIAの謀略説(注3)もささやかれてきた。
  スハルトの率いる戦略予備軍は首都ジャカルタを管轄していた師団とは別組織で、少数精鋭
で最新兵器で武装されている。クーデター側は少数の戦略予備軍司令官を過小評価していた
というよりは、スハルト将軍は敵対しないと錯誤したのでないか。 ⇒スハルト将軍
  予備軍司令官スハルトにとり、まさに9月30日事件は千載一遇のチャンスであった。自叙伝
(日経98/1月)によると10月1日朝5時に隣人の知らせで何か異変が起きたことを知ったスハ
ルトは共産党の実力行使であると"直感"して予備軍司令部に駆け込んだ。
 クーデター側は朝7時の国営放送で革命評議会が全権力を把握したことを告げたが、スハ
ルトは直属部隊を動員して大統領官邸や放送局に陣取るクーデター派を追い出し、夕刻には
クーデターを鎮圧した。バンドゥンから共産党色のないシリワンギ師団の軍(注4)を動員して首
都を奪還し、共産党が陣取っていたハリム空軍基地も制圧した。
権力構造から陸軍を駆逐する共産党のクーデターにスカルノ大統領がどこまで関与していた
かは疑問である。スカルノ大統領は直接の参画はなかったが、計画があることは知っていたら
しい。当夜は連絡を待ち続け落ち着きがなかったといわれる。
 9月30日事件の全貌は明らかでないが、結果的に誰が一番得をしたかというとスハルト将軍
である。スハルトは陸軍の仇敵である共産党を壊滅させたのみならず、陸軍の上層部が一掃
されたことにより国軍を代表して全権力を掌中にする地ならしができた。
 注釈と資料-385  165.ルバンブアヤ村、450.9月30日事件のスハルト
 
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386.50万人殺戮

  9月30日事件を契機としてインドネシア国内は大量殺戮の嵐が吹き荒れた。10月から半年の
間に殺された数は正確には分からない。少なくて10万人、多くて200万人までの諸説がある。
平均的な50万人の数値が一般に流布されている。政府の公式発表(注1)は87,000人である。
共産党は物理的に壊滅させられた。 ⇒PKIとスハルト(書籍)
 当時わずかに漏出してくる情報では中国系住民が被害者と伝えられた。インドネシア共産党
(PKI)のバックにいた北京政府への反発とインドネシア人の生理ともいえる反華僑感情が混然
となり、都市部ではPKIの疑いという口実で中国系住民は殺害された。現に多くの中国系住民
が命からがらインドネシアを脱出した。
 しかし殺害された50万人のほとんどは農村のPKI党員もしくはその同調者の農民である。殺
戮の最も激しかった東部ジャワのクディリ県、バニュワンギ県、中部ジャワのクラテン県であ
る。死骸はまとめて穴に掘り込まれたが、クディリではブランタス川に切断して投げ込まれたた
め、しばらくは川魚を食べる人はいなかった。ジャワ島以外ではバリ島殺戮がひどく、北スマト
ラでも殺害があった。⇒PKIの狩り立て
 これらの地域の農村では9月30日事件以前にPKIは土地のない貧農を煽動して共産党の勢
力を拡大し、農地解放をめぐり地主である富農と貧困農民が対立していた。中国の共産化に
習い政敵を多人数で取り囲み吊るし上げなどの恐喝を加えた。富農に対する誘拐や暗殺など
日常的に発生しており、PKIは武装蜂起の準備をすすめていた。
 9月30日事件の首都でのクーデター失敗の顛末(てんまつ)が伝えられたのはこのような時で
あった。それまでPKIにやられぱなしの勢力が中央の動向を受けて攻守(注2)所を替えた。
 ジャワの農村には階級対立に加えて宗教対立があった。富農層は一般にサントリ(→630)
いわれる熱心なイスラム教徒である。一方、貧困農民はアバンガン(→631)といわれる名目だ
けのイスラム教徒であり、共産党員やその同調者は宗教的憎悪も受けていた。50万人の大量
の虐殺は国軍が扇動し、実際に行動したのはイスラム教徒というのが一般的である。PNI(→
293)やキリスト教徒は加害者、または被害者というように地域によって事情が異なった。
 同じジャワ島でも西部ジャワでは殺戮は少なかった。西部ジャワではダルル・イスラム(→
332)の苦い経験があるため国軍はイスラムの暴走にブレーキをかけたからである。
  大量虐殺のあった中部ジャワ、東部ジャワ、バリ島はワヤン(→904)文化の濃厚な地域であ
り、マハーバーラタ(→946)に親しんできた。マハーバーラタは骨肉の争いは一族縁者全てを巻
込む。同族の忌まわしい対決は神の定めたストーリーで人間は如何ともしがたい。18日間の
決戦でパンダワ側が勝ち、コラワ側は殲滅(せんめつ)される。
  9月30日事件後の殺戮応酬は10,11,12の3ヶ月がピークであり、終盤はあっけないほど一方的
であった。共産党についた人々はコラワ側であることを自覚し、従容(しょうよう)として死につい
たのだろう。まさにパラダユダ(→947)を地で行くような事件であった。
  注釈と資料-386  

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387.3月11日大統領令

  9月30日事件でもって政局が一度にひっくり返ったわけではない。スカルノ大統領は共産党を
庇(かば)いつつ、なお"独立の父"の威信でもって切り抜けようとした。一方、国軍幹部は大統
領に反対する世論をバックに大統領を退陣に追い込むべくこの両者の必死の権力抗争の綱
引きが続いた。 ⇒スカルノとスハルト
 それまでどのような難局をも潜り抜け立ち直ってきたスカルノ大統領のカリスマ性も今回は神
通力を失った。大統領にそれまで弾圧されていた学生、知識人、イスラム関係者も反スカルノ
側に与し国内は騒然とした。イスラム系学生によりカミ(注1)が形成されてデモ活動に繰り出
し、反共産党活動が一気に盛り上がった。
 スカルノ擁護のデモも繰り出したが、反共の大音声の前に影が霞んだ。スカルノの強気の発
言にもかかわらず大統領の闘いは孤立無援で次第に譲歩を重ねた。
 スハルト将軍は1965年10月14日に陸軍司令官(注2)に任命され、11月には治安秩序回復
司令部(Kopkatib)を設置し、自ら司令官となった。クーデターの素早い鎮圧で国民の人気が増
してきたスハルト将軍がのし上がってきた。
  ところでスハルト将軍は職業軍人であり、政治人間のスカルノ大統領にそれほど面識があっ
たわけではない。大統領としてはこれまでの付き合いから一筋縄では御しにくいナスティオン将
(→448)よりは、政治的に未知数であるがジャワ人であるスハルト将軍に賭ける気持ちであ
ったろう。
 しかし大勢は大統領に退潮であった。1966年2月21日スカルノ大統領は内閣改造を発表する
が、共産党シンパとして標的にされていたスバンドリオ外相(→440)を含む顔ぶれであったた
め、カミは反発し、2月24日の就任式に大統領官邸を取り囲んだ。その混乱の中で大統領親
衛隊の発砲によって死者(注3)が出た。激昂したカミに対して軍は沈静化させるより、手をこ
まねいていた。
  1966年3月11日、大統領官邸はデモ隊に取り囲まれ、危機を感じたスカルノ大統領はヘリコ
プターでボゴール宮殿(→113)に逃れた。慌ただしい逃走であったので同行したスバンドリオ外
相は靴を履く間もなかった。
  バスキ・ラフマット(Basuchi Rachmat)、モハマッド・ユスフ(Mohammed Jusuf)、アミール・マフ
ムッド(Amir Machmud)の3人の将軍がボゴール宮殿へ押しかけ面会を強要し長談判が行わ
れた。宮殿の密室でスカルノ大統領に政治権力の放棄を迫った。力つきた大統領は後にスプ
ル・スマル(注4)といわれる『必要と思われる一切の処置を取る権限をスハルト将軍に委譲す
る』という文書に署名した。   ⇒スプル・スマル
 翌3月12日、スハルト将軍は共産党の非合法化を告知し、内外にインドネシアの政権はスハ
ルト将軍に代わったことを国内外に誇示した。終身大統領スカルノからスハルト将軍への政権
の委譲は時間をかけながら"禅譲(ぜんじょう)"の形を整えたものの実質的には軍部によるク
ーデターであった。3月11日をもって名実伴にスハルト体制が始まった。
 注釈と資料-387 

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388.政権発足の合法性

  スカルノ大統領が政権をスハルト将軍に委ねたスプル・スマル(→387)といわれる『3月11日大
統領令』文書については当時から奇怪な噂があった。スカルノ大統領が署名したという文書を
実際に確認した人がいないことである。
  文書の所在は行方不明であると当局は説明してきた。そこで生じる憶測は文書は実際には
存在しなかったのでないか、あるいは記載内容が異なるのでないかという疑いである。 仮にス
プル・スマルの内容が公表されている通りとしても治安維持に関する処置への権限であり、共
産党の非合法化まで行うのは拡大解釈でないかという疑問である。
 インドネシアでは言葉の頭文字をとったシンカタン(→964)による造語が頻繁に行われる。造
語は新聞などが勝手に造るのではなく当局側にコントロールされている。それにしてもこのスプ
ル・スマルは意味深長である。 ⇒スマル像
 なぜならスマル(→906)はワヤン(→904)で馴染みのあるスーパーヒーロであり、ジャワ人に最
も人気のあるキャラクターである。このような造語への配慮にも窺われるように《スカルノ》から
《スハルト》への譲位は芝居がかっている。
 スプル・スマル以降もスカルノ大統領は大統領職を放棄(注)したわけではない。その後も「大
統領は自分でありスハルトは補佐役にすぎない」と外国の新聞記者に虚勢をはり波紋を巻き
起こしたりした。しかし権力を行使する手段を奪われて裸になったスカルノ大統領は無視され
た。
 1966年6月20日国民議会で3月11日令が承認された。1966年7月にスカルノの終身大統領の
称号は剥奪された。スカルノ大統領派は内閣から追放され、新体制による政治が進められ
た。
8月の注目された独立記念の演説では執行部の政策を批判したことによりさらに窮地に追い
詰められた。1967年2月国会でスカルノ大統領の解任が決議された。それから先の元大統領
(→441)は幽閉同然であった。
 1967年3月の国民協議会でスハルト将軍は大統領代行に任命され、ハムンク・ブウォノ9世
(→445)とアダム・マリク(→447)がスハルト支持を明らかにした。スハルト将軍は1968年3月にイ
ンドネシア第2代大統領に就任した。
  以降再選を重ね1998年に退任まで32年間のスハルト体制が続いた出発点はスプル・スマル
である。スハルト大統領在任中は5年毎の国民協議会は3月11日(スハルト政権にとって意義
ある日)に開催され大統領に推挙された。
  スカルノ初代大統領からスハルト大統領への権力の移行は強引であるが合法という形はとら
れており、ジャワ流のムシャワラ(→594)の実践にも見える。時間がかかったのは中部・東部ジ
ャワの師団、海軍や空軍にはスカルノ支持勢力が根強かったためである。もし事を急げばスカ
ルノ派のクーデターもありえた。国軍の人事異動でスカルノ派(親共産党)の勢力をそぎながら
慎重にスハルト体制を築き上げた。
 注釈と資料-388 

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389.旧秩序から新秩序へ

  スカルノ大統領が学生、知識人層、宗教関係者から飽きられたのは必ずしも共産党寄りの
政治上の問題だけではない。独裁化の常としてスカルノ体制に対する反対意見はすべて弾圧
され、自由な言論活動が禁止された。政敵はもとより、モフタル・ルビス(→965)などのスカルノ
を批判した言論人は投獄された。文化においてもレクラ(→990)という共産党系の文化組織が
国の文化を壟断(ろうだん)した。
  マレーシア対決(→383)の掛け声は軍事的緊張をもたらし、国連脱退のスタンドプレーは国際
的孤立を招いた。米英の資本主義国家をネコリン(新植民地主義)と悪し様にののしるスカル
ノ政権に外国からの経済支援は途絶えた。
 1965年の9月30日事件はインドネシア現代史における政治事件のみならず社会的、文化的
にも時代を画する事件であった。共産党が支援するスカルノ独裁政権の崩壊によってインドネ
シア人の精神衛生さえよくなった。
 インドネシアではスハルトが実権を握ることになり、新体制は新秩序による政治を掲げ、新政
権をオルバ《ORBA=新秩序》と称した。オルバと対照するため以前のスカルノ時代をオルマ
《ORLA=旧秩序》と称し、スカルノ体制を全面的に否定した。⇒スハルト大統領
  スハルトの登場によってインドネシアの新しい時代が国民の期待とともに始まることとなった。
新時代を表すオルバは国民に歓迎された。国民がどれほどスハルトに期待したかは当時の新
聞の漫画では共産党のみならず旧体制の既得権者を一掃する実力者としてのスハルト将軍
が願望をこめて描かれている。
  ハムンク・ブウォノ9世(→445)、アダム・マリク(→447)の政治家がスハルト政権の支持を明ら
かにして政権に参加した。ハムンク・ブォノ9世が内政、アダム・マリクが外交とスカルノ体制の
軌道修正を行った。 
  スハルト政権の箔(はく)をつけるため、軍事政権でないことの証明のためにも両者の存在は
不可欠であり、その後ハムンク・ブウォノ9世は1973-78年、アダム・マリクは1978-83年にスハ
ルト政権の副大統領を務めた。⇒ハムンク・ブウォノ9世
 国際的に無名のスハルト大統領に代わって両者ともインドネシアの国際的に知られた政治
家である。両名の尽力によってインドネシア新体制の国際的認知を容易にし、途絶えていた海
外からの経済支援が再開された。
  スハルト体制による開発政策の推進によって経済は明らかに良くなった。米英の関係は正常
化し、IGGI(→483)などによる外国からの資本援助によってインドネシア経済は息を取り戻した
が、一方では開発独裁(→392)という新たな問題を生じた。
  期待されたスハルト政権であるが、馬脚を現すのにそんなに時間はかからなかった。国民は
スカルノ大統領による〈カリスマ性容共独裁政権〉がスハルト大統領による〈軍事性反共独裁
政権〉になっただけであることが次第に分かってきた。見せかけの民主主義、実態は軍事独裁
という強権体制が国民にのしかかってきた。
注釈と資料-389  

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390.マラリ事

  9月30日事件以後、スハルト将軍は1966年3月に大統領代行に選出され、翌1967年に独立以
来2回目の12年ぶりの国政選挙が行われ、現体制の国民の支持が明らかであるとして1968年
に正式に第二代大統領に就任した。5年後の1972年も国軍の有力者同士の牽制のため、結
果的にスハルトが再選された。
 スハルト体制の変遷を振り返ると二期目の1974年の1月15日に生じたマラリ事件(注1)はス
ハルト支配への揺さぶりであり、この危機を乗り越えたことでスハルト体制は強化され、インド
ネシア内外を問わず誰も予想しなかった長期政権のステップとなった。
 マラリ事件は日本の田中角栄首相が国賓として東南アジアを訪問しジャカルタに到着した際
に起きた。日本のオーバープレゼンスが東南アジア全体に反日感情を醸し出しており、田中首
相一行はすでにタイのバンコックでも反日デモの洗礼を受けていた。しかしジャカルタの様相
ははるかに深刻であった。
 反日のスローガンのデモが町にあふれていた14日夕方、田中首相のハリム空港到着ととも
に騒然とした状況になり、翌15日に頂点となりジャカルタ中央のタムリン通にある日本大使館
はデモ隊の投石を受け、日章旗が引きずり降ろされた。
 学生が主導する反日デモの抗議運動に便乗した暴徒がチャイナタウンの店の掠奪、放火を
行う暴動となった。1000台余りの日本製自動車が破壊され、トヨタ・アストラ社(→522)の本社ビ
ルが放火された。首都機能が麻痺する暴動となり、死者8人、負傷者55名、逮捕者820名をだ
した。 ⇒マラリ事件 ⇒マラリ事件

 国民の期待で出発したスハルト政権であったが、その後、政治における民主主義の限界、開
発政策による経済発展の成果の華僑・華人への集中、外国資本(その代表が日本)の横行へ
の苛立ちと反感から"新秩序"に対する欲求不満のガスが充満していた。日本の田中角栄首
(注2)の訪問がそのガスにマッチの火をつける契機となった。
 マラリ事件の真相は国軍内の権力抗争というのが定説である。スミトロ将軍は国軍司令官と
して国軍を背景に政治的野心を持っていた。これに対して大統領側近のムルトポ、スヨノ大統
領補佐官などのアスプリ(Aspri)派が国軍と対立した。アスプリ派の日本経済界との癒着(ゆち
ゃく)が目にあまるものがあり、アスプリ派批判のためスミトロ派によって反日デモが仕掛けられ
たらしい。
 しかしアスプリ派はスミトロ派の動きを察知して逆手にとり逆襲に出た。アスプリ派の扇動に
よって反日デモは暴動に拡大し制御できなくなった。
 大統領後継の最有力候補であったスミトロ将軍は治安責任者として解任された。この事件に
よってスハルト大統領は国際的には面子を失ったが、国内ではスミトロ将軍を蹴落とし権力基
盤を確固たるものにした。スハルト大統領が国軍のトップ人事に介入し軍を私有化するように
なったのはこの事件以降である。
 注釈と資料-390 

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391.軍事政権の鎧
 
  スカルノ政権のナサコム(→380)という政治バランスは共産党の壊滅、イスラム勢力の後退で
軍部のみが残った。9月30日事件で国軍が政権を取り、スハルト将軍が大統領に就いた。国
軍にしてみればスハルトはその持ち駒の一つであり、大統領職は軍の幹部で持ち回りという意
識であったであろう。
  ところが一度、大統領になるや政権を離そうとしないスハルト大統領の去就をめぐる軍部内
の権力抗争がマラリ事件であった。権力抗争をしのいだスハルト大統領は軍事政権の基盤を
固め、長期政権に向かった。
  当時の世界情勢においてインドネシア以外にも多くの軍事政権が跋扈(ばっこ)したのはアメリ
カを盟主とする自由主義陣営からは反共でさえあれば軍事政権も国際的認知を得ることがで
きたからである。⇒軍人スハルト
  スハルト政権の内閣では軍人は国防大臣以外にも主要ポストを占め、当初は閣僚の半数以
上が軍人であった。軍人は州知事の大半を占め、県・郡などの下部組織の要職も軍人が固め
た。軍は職能集団であるゴルカル(→393)を政党に組織化し牛耳(ぎゅうじ)った。
 外国大使、国営企業の社長も軍人出身者が占めた。個体として大使や社長に優秀な元軍人
もいるが、実態は天下りポストであった。スハルト体制は実態として軍事国家であり、軍の横暴
の源泉は軍人の二重機能(→373)の理念にあった。二重機能の名において国軍は将軍を濫造
し、利権を漁り政権を私物化してきた。
  国軍に割り当てられる政府任命議員には国軍の主流になれなかった人に与えられる名誉ポ
スト的役割があった。したがって国軍議員の中には正論を穿く人もいた。しかし所詮は体制維
持のためのガス抜きにすぎなかった。巷間でささやかれたジョークは『以前は大臣が100人い
た。今度は将軍が100人いる』であった。
  スハルト大統領が権力抗争に勝ち抜き、長期政権を維持しえた背景にはムルトポがいた。ス
ハルトの子飼いの軍人ムルトポ(注1)はスハルトのディポヌゴロ師団当時からの配下であっ
た。9月30日事件でスハルト将軍が実権を握るやその側近(アスプリ)としてマラリ事件(→390)
などの裏面工作にあたった。
 軍の情報機関が重用され特殊工作部隊が組織された。1983年から86年にかけて、街に蔓延
(はびこ)るプレマンなどのアウトローが何者かによって射殺され、刺青の死体が放置される事
件が相次いだ。いわゆるペトルス事件によって法的手続きなしに5千人から1万人が闇から闇
へ葬られた。いわゆる"街の清掃プロジェクト"は特殊工作部隊によって実施されたものであ
る。スハルト大統領は後に自伝で「彼らの死は当然の報いであり、みせしめだ」と自らが指示し
たことを誇っている。⇒スハルト体制批判の外国漫画
 1984年のムルトポの突然の死は謎(注2)であるが、その際にムルポト直属のならず者も一
緒に整理されたらしい。ならず者がいなくなり街は平穏になったが、法治国家でない恐怖を市
民に知らしめる効果は大きかった。
注釈と資料-391  

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392.開発独裁

  当初は選挙におけるスハルト体制の与党であるゴルカルは1971年選挙で63%の得票率で第
一党になり、1977年、1982年と選挙毎に漸次得票率を上げ全27州において完全制覇を行い、
1987年選挙のゴルカルの支持率は74%にも達した。
 スハルト体制の基盤は当初は知識人、学生層、イスラム教関係者など軍以外にも幅広い層
に支えられていたが、次第に軍人色が濃くなってきた。それにもかかわらずゴルカルの支持に
見られるようにスハルト体制が不動のものとなったのは経済発展を図る開発政策のそれなり
の成果があったからである。
 スカルノ時代のインドネシアの一人当り年間所得はインド、バングラデッシュ、ミャンマー、ス
リランカといった国と同程度で100ドル程度であったが、90年代初めに500ドル程度に増加しフ
イリッピンと余り差がなくなった。
  経済危機(→480)前は1000ドルにまで上がった。貧富の差が問題であるとか、石油の高騰に
恵まれただけとかいう意見もある。しかしインドネシア経済のパイが大きくなり、国民のすべて
がなにがしかの分け前に与ったのは事実である。
 米が自給できるようになり、餓え死にする人がいなくなったことの意義を過小評価してはなら
ない。"人民の胃袋"との対決において〈建国の父であるスカルノ〉は敗れ、〈開発の父であるス
ハルト〉は勝ったのである。⇒開発の父

  韓国の朴政権、台湾の蒋介石・蒋経国親子、これらの政権は軍事強権でもって民主主義勢
力を圧迫し、在任期間中は人権抑圧の反民主主義として海外の進歩派からは袋たたきにされ
た。シンガポールのリー・クワンユー首相にしても軍事国家ではないが、権力の独裁化のため
には選挙や報道について講じた手段は軍事政権並みである。
  しかし経済の観点からこれらの国を見るとアジアの4匹の竜(英国植民地の香港を加える)と
して褒め称えられた国であり、強権政権の下において経済がテイクオフし、目覚しい経済発展
を成し遂げた。
  低開発国が先進国に追いつくためには経済発展に集中することが効率的であり、そのため
には民主政治を犠牲にする独裁政権も必要悪である。道路やダムを造るために先進国と同じ
ような民主的手続きを踏んでおれば時間を浪費するだけである。既に道路もダムも出来上が
っている先進国の論理はインフラ経済基盤のない国への適用に無理がある。
  低開発国に求められるのは政治的安定の上に急いで道路やダムの建設を強力に推し進め
る政権である。葬りさられたスハルト政権もインドネシア歴史において経済発展に寄与したとい
う観点から評価されることであろう。 ⇒戯画スハルト王
  欧米からとかく批判されるアジア全体の人権問題についても「アジアにはアジアの人権の考
え方があり欧米のものとは別だ」と開き直りの弁はそれなりの実証を伴っている。
注釈と資料-392  487.国民所得の向上
 
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393.ゴルカル/政府与党

  ゴルカル(GOLKAR)は職能グループ(Gologan Karya)の略語であり、婦人団体、運転手組織
などのあらゆる職業組織を網羅している。本来、ゴルカルは文字どおりの職能グループである
から政党の意味はない。
  スカルノ大統領時代からゴルカルは国会、地方代表とともに国の最高機関である国民協議
(→370)の構成メンバーとして政治思想に基づく政党とは異なる形で国民の意思を代表する
ものと見なされていた。政党を国民の代表と認めたくない人の発想である。
 スハルト体制において国軍はゴルカルを与党として選挙で支持を得ることにより、政局の安
定を画策した。ゴルカルは公務員、国営企業の職員が中核となって組織化が推進され、既成
政党を越えた存在として国民議会の選挙に参加した。⇒ゴルカルの活動
 政党政治の行き詰まり、西欧的な議会制民主主義への違和感という点においてゴルカルは
日本の太平洋戦争前の大政翼賛会と発想が似ている。

 政治運営の試行錯誤の結果、西欧型の議会制民主主義は風土にあわないとしてスカルノは
指導される民主主義(→379)を唱えた。スハルト体制はスカルノ体制の否定から出発している
が、政党政治による議会制民主主義という西欧的なものに対する忌避の姿勢は、スハルトとス
カルノは同じ穴の狢(むじな)である。⇒ゴルカル印
 そもそも平穏・安定を志向するインドネシア人にとって、スカルノ時代、9月30日事件など政治
の動乱を経て、国民は政治アレルギーから政府誘導のままにノンポリに陥った。
 スハルト大統領は選挙に示された国民のゴルカル支持に基づいて1992年には六選を果たし
た。ゴルカルの得票率は漸次上昇した仕掛けは公務員はあらゆる手段を使いゴルカルの集
票に努めたからである。
  日本の選挙で郵政賊や道路賊が跋扈(ばっこ)する程度の生易しいものではない。軍も警察
も含め全官庁がこぞってゴルカルへの集票をやった。当時のゴルカルはABCといわれた。A
はABRI(インドネシア国軍)、Bは官僚(Bureaucrat)、Cはチュンダナ(→161)がゴルカルを操っ
ているという意味である。⇒ゴルカル本部
  選挙においても野党の候補者は政府の審査を受け、政府が気に入らない有力な野党候補を
リストから外すなど当局の選挙への干渉は露骨であった。ゴルカルの選挙は俗にブルドーザ
ー作戦といわれる。八百長選挙でゴルカルは圧倒的勝利をえた。
  スハルト体制においてゴルカルに対抗する野党の生存は許された。1973年、乱立していた政
党は政府の指導でグループ化され、一つはイスラム系の「開発統一党(PPP)」である。インドネ
シアのイスラムの多様性から政治活動への求心力はなかった。
  もう一つは「インドネシア民主党(PDI)」である。PDIはムルバ(→295)、PNI(→293)、キリスト教
系政党の寄り合いであるため、内紛が絶えず、しばしば政府が仲裁をした。スハルト体制にお
けるインドネシアの野党は政府によって管理された官製野党であった。
注釈と資料-393  

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394.国軍との綱引き

  スカルノ大統領時代は陸・海・空・警察の4軍並列であったが、スハルト大統領が行った改革
は国軍司令官が陸、海、空軍に警察を掌握し指揮権を一元化した。国軍は巨大勢力となり、
共産党を抹殺し、イスラム勢力をも圧倒し、スカルノ時代のナサコム(→380)の三竦(さんすく)み
の牽制関係から軍部だけが突出した。以降のインドネシアは陸軍主導の軍事国家であり、ス
ハルト大統領は軍の出身で軍事政権の頂点にいた。
  見方を変えるとスハルト大統領も当初は国軍に担がれた神輿(みこし)であった。国軍の中にも
勢力争いはあり、マラリ事件(→390)は神輿の担ぎ手同士の内輪もめであった。以降、スハルト
大統領の個人的権勢が強まるにつれ、軍に対して人事権を嵩に次第に優位に立ち神輿が指
図をするようになった。⇒スハルト大統領と国軍
  軍事政権でありながら次第にスハルト大統領個人の独裁政権に変容していくことである。そ
の過程は大統領の軍部に対する巧妙な人事政策である。マラリ事件で失脚したスミトロ将軍に
続き、スロノ国軍副司令官やユスフ国防大臣などが大統領候補として名が取り沙汰されやい
なや対抗馬とならないように巧妙な方法で左遷された。
  スハルト大統領が国軍最高幹部の人事権を把握するようになってからの特徴は国軍の最高
位にジャワ人とイスラム教徒を回避することである。“ナンバー2”となって大統領の地位を脅
かす恐れがあるからである。当時からインドネシアにおける大統領になるための3要件は、@
軍人、Aイスラム教徒、Bジャワ人であるといわれてきた。
  例えばパンガベアン(Panggabean 1922- )は国軍司令官、政治治安調整相を歴任し初期ス
ハルト体制の軍事最高位であったが、バタック人(→607)のキリスト教徒であったため、大統領
の後継者にはなれなかった。 
  1983年にそれまで陸軍主流でなかった情報機関出身のムルダニ(注1)を重宝して国軍司令
官にした。 彼はキリスト教徒でユーラシアン(→685)の混血であった。彼は辣腕(らつわん)を発
揮して国軍機構の改革し、国軍組織を単純化して国軍司令官の権勢を築いた。
 ムルダニはイスラム教徒弾圧のタンジュン・プリオク事件(→167)の当事者である。ムルダニ
の国軍の掌握が完璧になると豪腕に不気味なものを感じたスハルト大統領は、1988年に国防
治安大臣に左遷して軍の指揮権を外した。ムルダニのクーデターを恐れたからといわれてい
る。 ⇒ムルダニ将軍 ⇒トリストリスノ副大統領
 また、は将来が嘱望される若い軍人を大統領秘書官として派遣させ、大統領の子飼いにす
ることであった。以降の彼らは出世街道を驀進(ばくしん)し軍の幹部に就任した。トリ・ストリスノ
副大統領(注2)やウィラント国軍司令官(→414)は大統領秘書官の経歴を経ている。
 将軍達にはライバルを立て競わせることで分断化した。人事で軍を操縦しても軍の中からス
ハルト多選を疑問視する声はでる。そこでスハルト大統領はにわか仕込みの熱心なムスリム
(注3)になってイスラムを取り込み軍を牽制した。       
注釈と資料-394  374.国軍の組織
 
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395.KKNのシンボル

  スハルト政権末期の頃から言われ出したKKNとはKolusi(馴れ合い)、Korupsi(汚職) 、
Nepotisme(縁故)の略語である。KKNはインドネシア社会の癌(がん)であることは誰もが認め
るところである。しかしながらKKNの言葉の風靡(ふうび)の原因はスハルト体制の象徴としてで
あった。
  “KKN打倒”との主張には当局側も弾圧できない。じつは"スハルト体制打倒"をいい代えたも
のであり、KKNはスハルトの身代わりに生み出された言葉である。
  汚職(→749)はインドネシア社会の病根であってスハルト大統領個人の問題ではない。しかし
大統領とスハルト一族の略奪の凄まじいばかりである。大統領を見習うことで汚職はスハルト
体制に蔓延(まんえん)していた。 ⇒戯画・スハルト体制
  スハルト一族もさることながら大統領個人の蓄財はヤヤサン(→748)といわれる財団である。
スハルトの支配していた財団の代表的なものはスプルスマル(Supersemar)財団、ダルマイス
(Dharmais)財団、ダカブ(Dakab)財団、その他にも自立福祉財団(YDSM)、永遠の事業財
団、希望財団、蓮華の花財団等々である。財団の名目は貧しい家庭への奨学金供与とか孤
児への援助という立派な看板を挙げている。
  国営企業は収益の5%をこれらの財団への寄付することを法令で定めた。高額所得者や民間
企業などからも強制的に徴収した。確かに集めた金の一部は看板どおりに使用されてであろ
う。しかし財団の会計は不透明であり、多額の資金の運用先がファミリー・ビジネス(→492)
チュコン企業(→491)に流れた。大統領一族は利権に食らいつき、国家を食い物にしていた。
  縁故はゴトンロヨン社会(→593)の派生である。偉くなった人に一族が群がり、その余得が一
族に及ぶことは家族主義(→573)美徳である。ゴルカルの役員や国民協議会議員に大統領の
息子やその妻も名を連ね、スハルト大統領の縁故人事は目に余るようになった。
 ティエン夫人は軍の人事へ関与するようになった。一時はスハルト大統領の後継者として評
判の高かったウイスモヨ・アリスムナンダル(Wismoyo Arismunandar)将軍はティエン夫人の義
理の弟である。1992年陸軍戦略予備軍司令官から陸軍参謀次長に、1993年陸軍参謀長に就
任し次は国軍司令官と軍の最高ポストが用意されていたが、突如引退を余儀なくされてスハル
ト後継者への道はなくなった。 ⇒KKN戯画
 失墜の理由は女性問題のゴシップでティエン夫人の忌諱(きい)にふれたからといわれる。後
継者候補になったのも降ろされたのも夫人の思惑であり、インドネシアのNO.2の存在を示し
た。
  スハルト大統領は人事の神様にように巧妙な人事によって国軍を自家薬籠中(やくろうちゅう)
物にした。この中でも特に注目されたのが次女の娘婿プラボゥオ(→452)であった。後継者と目
せられただけに人事の都度、プラボゥオの昇進が話題になった。
  注釈と資料-395  451.スハルト夫人 
 
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396.50人請願グループ

  スハルト体制が強化されるに従い、次第に軍事国家、独裁国家の様相が明らかになる。
1978年にはスハルト3選に反対する学生のデモがあったが、踏み潰された。体制への批判も
声が小さくなり、ついにはほとんど聞かれなくなった時にかろうじて批判の命脈を保ったのは
NGO活動(注1)などエリート層の良識派である。
 その中で「50人請願グループ(Petisi 50)」はパンチャシラの一方的解釈(→366)と偏向に対
する請願という名のスハルト体制批判の声明を行った。 さらに1990年5月に活動を再開、ス
ハルト大統領の退陣、言論の自由など6項目の嘆願書を国会へ提出し、50人請願グループ
の存在を顕示した。もちろんインドネシアの新聞などのメディアには報じられていない。
 声明に署名した50人にはイスラム関係者、学生、知識人、政治家もいる。政治家にはナシ
ール(→417)、ハラハップ(Harahap)など歴代の元首相もいる。主力は高名な退役の元将軍グ
ループに相乗りしたものである。
 スハルト将軍は僥倖により大統領になったが、大統領になってもおかしくない軍人は他にも
大勢いた。50人請願グループはそのリストともいえる。とりわけ同じ穴の狢(むじな)であるべき
ナスティオン将軍(→448)、ダルソノ将軍(注2)など元軍人からの民主主義を求める批判はス
ハルト体制に耳障りであったろう。 スハルト体制誕生のスプル・スマル(→387)の時の立役者の
将軍の一人もメンバーである。 ⇒ナスティオン将軍
  署名者は公的地位を追われたり、経済活動を制限されたり、出国を禁止された。騒擾(そうじ
ょう)事件が起きればその黒幕として取調べられた。彼らは体制内批判派でスハルト体制の転
覆を意図したものでない。スハルト体制の横暴がひどすぎるので改良を勧告したにすぎない。
しかしこれらの先輩、同僚ともいうべきメンバーに対してスハルト体制が行った回答は軟禁す
ることであった。1993年になって少し緩和されメンバーも公式の場に姿を見せるようになった。
 
 その他の請願署名の著名人数名を紹介しておく。元ジャカルタ特別州知事のサディキン
(Ali Sadikin)は海軍の出身であり、スカルノ大統領時代に海軍大臣を経歴している。9月30日
事件以降は陸軍が主導権をとる中で海軍出身というハンディにもかかわらず、10年間首都の
知事を務めた。ジャカルタの近代都市への転身は彼の功労とされている。名知事として特に中
産階級に人気が高かった。1977年にはスハルトの第三期目に代わって大統領候補に推す動
きもあった。アリ・サディキン
 元警察軍司令官フグン・イマン・サントソは規律に厳しく汚職のない人物であった。高級外車
の密輸事件を捜査した背後の大物を明らかにしようとして解任された。引退後は音楽の趣味
を生かし演奏活動を行っていたが、50人グループに参加以来TV放送から締め出された。
  注釈と資料-396  
 
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397.7月27日事件

  長期独裁政権スハルトに立てついてきたのは因縁(いんねん)の人物である。1965年9月30日
事件(→384)でスハルトが引きずり降ろした前大統領スカルノの娘メガワティである。
 ゴルカル体制の下で野党は完全に飼いならされていた。野党人事についても政府の干渉を
受けてきたが、政府の油断に乗じて1994年にPDIでメガワティ女史が党首になるというハプニ
ング(注1)が生じた。
 スカルノ一族は政治から遠ざかることで生き長らえた。時代の経過する間にスカルノの悪名
は風化し、野党PDI(→393)は1987年選挙にスカルノ一族を担ぎ出して成功を収めた。PDI党首
になったメガワティは1998年の大統領選挙(注2)出馬を表明した。
 対立候補なしの満場一致で選出されるのを慣例にしてきた当局はスハルト大統領の名に傷
がつくのを恐れて強引にメダンでお手盛りのPDI総会を開催させた。遠隔地メダンで当局側の
意に沿う党員を集めた党総会でメガワティ党首を解任した。
 首都ジャカルタではPDI人事への政府介入に反発するメガワティ支持派が連日デモを行って
いた。1996年7月27日早朝、メダンの党大会の解任決議無効を訴えるメガワティ派の立てこも
るジャカルタのPDI本部事務所は襲われた。襲ったのはPDI新党首スラヤディ(Suryadi)派であ
るが、実態はプレマン(preman=チンピラ)を率いる特殊部隊である。これに憤る群衆でジャカ
ルタ市内は騒然となった。⇒抵抗するメガワティ
 政府は7月27日事件を口実に直ちに民主化運動の弾圧を行った。1997年5月の選挙に備
え、メガワティ派と体制外の野党のPRD(民主人民党)を壊滅させる意図である。PRDは学生を
主とするスハルト体制批判の政党である。PRDが事件の黒幕にいるとしてブディマン・スジャト
モコPRD議長を逮捕した。
 内外の批判に応えた公式発表は強制排除により死者5名、行方不明23名であるが、他にも
多くの活動家が行方不明であった。行方不明とは特殊部隊に拉致(らち)されたことはインドネ
シアの常識である。たまに行方不明者が解放されることがある。解放された者は何があったか
を決して話さない。語らない理由を詮索するのはインドネシア音痴である。
 行方不明になっていた活動家の一人ピウス(Pius)は人権委員会の要求により釈放された。
ピウスはヨーロッパに亡命してから特殊部隊に誘拐され行方不明期間中の拷問について証言
した。誰もが予想していたようなことで目新しいことはなかった。しかし西欧諸国は改めてスハ
ルト政権の暗黒ぶりにショックを受け、スハルト政権への嫌悪感が一層強まった。
 インドネシア人の見た白昼夢のワヤン(→904)は、非道の魔王によって毒殺された前王の娘
が成長してS大魔王に対決を挑む。健気な娘は蟷螂(とうろう)の斧を振りかざすが大魔王はい
とも軽くひねりつぶす。第一巻の終わりである。大魔王によって押しつぶされたかに見えたが、
慢心の大魔王に驕りの間に娘が生き返った。引き続いて第二巻の始まりである。       
                        注釈と資料-397  456.メガワティ 

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398.1997年シラケ選挙

 PDI党首を解任されたメガワティ女史は1997年選挙の候補者名簿にも拒否された。新党結成
も拒否され、PDIに投じられていたメガワティ票の行く先がなくなった。選挙ボイコット運動や野
党PPPとの共闘も当局に妨害された。抗議すれば都度逮捕者を出した。白けた選挙が1997年
5月に予定通り行なわれた。
 スハルト体制のインドネシアでは3政党しか認められていなかった。まず与党のゴルカル(→
393)は本来は政党ではない。
 民主党(PDI)と開発統一党(PPP)が政府公認の野党である。政府が管理しやすいように既
存政党のイスラム系をPPPに、それ以外をPDIに編成したものである。当局にとって、本来、野
党などは邪魔なだけであるが、パンチャシラ体制の受け入れを条件にガス抜きの効用も兼
ね、民主主義制度をみせかけるため存在を許容されてきた。従ってメガワティのような危険な
野党になる存在は芽はのうちに摘み取られた。
 政府の管理するインドネシアの選挙は面白い規制が多い。例えば選挙運動の際も政策論議
は国を分裂させるから政見を言ってはならない。要は与党ゴルカルに利権はあっても政見らし
きものはないので野党と比較されないためである。
  政党支持者の間で衝突が生じないようにと政党別に選挙運動の日が割り当てられる。投票
の一週間前に選挙運動を終える。頭を冷やして投票に行くための冷却期間である。この間に
裏面工作をやる。⇒スハルト戯画像
 運動期間中は政党のシンボルマークの旗と政党カラーが全土に漲る。カンパニュー(注)とい
う選挙騒動である。若者が人が鈴なりになった車を連ねて行進する。自党の旗やカラーをつけ
ていない車を威嚇する。暴走族まがいの運転で交通事故が起き、死者が続出する。カンパニ
ューの馬鹿騒ぎが選挙運動に限って認められたのは真面目な政党活動より危険が少ないとい
う判断であろう。要するに選挙のお祭り化である。
 公務員は職場で投票した。休日に居住地で投票できるようにしてほしい、という何ともいじら
しい要求でさえ無視してきた。字が書けない人に選挙権を行使させるという大義名分の下に針
で穴をあける投票方法は開票集計作業を故意に複雑にしている。複雑な開票作業は不正の
温床である。
 ゴルカルの得票率が低いと政府はその地域に仕返しをするのがこれまでの慣習であった。し
たがって地方機関の首長は自分の栄進のためにも日常業務として選挙対策に専念した。
 1997年の選挙は従来にもましてひどかった。選挙忌避感が漲(みなぎ)るにつれゴルカルは自
党への投票よりもっぱら棄権防止を呼びかけた。選挙近づくとジャカルタの都心ではヘリコプタ
ーによる武器を帯同した軍の降下訓練デモンストレーションでもって国民を選挙に行くように威
(いかく)した。選挙へ行かしさえすれば開票結果はどうにでもなるということらしかった。そして
5月選挙の結果は投票率は高く、ゴルカルの得票率は以前よりも増えた。結果はゴルカルの
圧勝とメガワティ抜きのPDIの惨敗、PPPの現状維持である。
 注釈と資料-398  

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399.通貨危機の衝撃

  1997年選挙の空しさにもかかわらず、ゴルカルの圧勝を国民の信任をえたとしてスハルトの
大統領7選は既成事実になった。何もかも順調に見えたスハルト基盤を揺るがしたのはクリス
モン(注1)といわれる通貨危機に始まるインドネシア経済への痛撃である。
  暴落するルピアに対してインドネシアは10月にIMFに救援を要請し、IMFのカムドシュ専務理
事は金融支援を発表した。1998年1月15日、IMFの資金援助の条件として、経済の構造改革に
関する協定が調印された。スハルト大統領が署名している傍らで、立会人のIMFのカムドシュ
専務理事が腕組みして見下ろしている写真はインドネシア国内はもとより世界中に報道され
た。
  歴史の証人として後世に残るいくつかの写真がある。私は日本の敗戦を象徴する2点の写
真を思い出す。1945年9月2日、日本は東京湾に米国戦艦ミズリー号に呼び付けられ、日本全
権代表の時の外務大臣重光葵は、砲にまたがって見物する鈴なりの水兵に見下ろされる中
で、降伏文書に調印した。
 もう1点は昭和天皇がマッカーサー元帥を訪れ二人が並ぶ写真は新聞の一面に掲載され
た。礼服姿の天皇の隣に日常の軍服姿で手にパイプを持ったマッカーサーの並ぶ写真であ
る。身長の差はもとより勝者と敗者を象徴するものであった。⇒屈辱の調印
 元に戻るとIMFとのスハルト大統領の調印の写真は日本の降伏調印の写真と同じくらい象徴
的であった。カムドシュ理事は腕組みして見下ろしていたが、インドネシアでは腕組みはカサル
(→634)な攻撃の姿勢として忌避(注2)されている。IMFの理事がそこまで知ってやったのか、
本当に知らなかったのかは分からない。
  大統領が身を屈して署名している有様は降伏文書さながらであった。インドネシア国民が不
可侵と信じていた元首の惨めな格好は"落ちた偶像"であった。
 屈辱の怒りに燃えたのか、初めからその気であったのかスハルト大統領はIMFの突きつけた
条件である大型プロジェクトの棚上げや補助金の中止を本気で実施するようには見えなかっ
た。発表された政府予算案はIMFの勧告に逆らうものであり、国際金融筋でインドネシアへの
政治不信感はつのり、ルピアはさらに低下した。
 アジアを連鎖反応的に襲った通貨危機であるが、タイ、韓国ではIMF支援が明らかになると
下落は▲30%程度で止まった。しかしインドネシアでは大統領選出の日程とあいまってインドネ
シアの通貨危機は▲85%にも達し、他国とはかけ離れた暴落となった。通貨の下落は金融危
機となり銀行の取付け、企業の倒産、失業者の増大と経済危機に拡大し、政治危機から社会
危機の様相を帯びるようになった。
  経済危機と政治危機のスパイラルアップで止まらないルピアの下落は国民の生活を覆し、各
地で暴動が発生した。振り返れば、初代スカルノ大統領を倒したのは経済であった。そして再
びインドネシア大統領は経済によって足元を掬(すく)われた。
 注釈と資料-399  ⇒480.経済危機

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400.政権への執着

  インドネシアでは押されて大統領になるというポーズをとり、スハルト大統領も踏襲してきた。
しかし七選に対してはスハルト自らがこれまでになく再選の意欲をあまりにも露にしたことはイ
ンドネシアの政情不安を予測させるものであった。
 スハルトが一応曲がりなりにも選挙というプロセスを経て大統領を続けてこられたのは、スハ
ルト以外の人が大統領になった場合、政治的不安によってせっかくうまく成長していた経済が
停滞することを恐れる気持ちが国民にあったことは事実であろう。大統領になるべき人が他に
いないからやむを得ない、という消極的選択を余儀なくされた結果である。
 しかしスハルト大統領が故意に後継者を育てなかったのは歴代の副大統領をみればわか
る。第2期(1973年)の副大統領のハムングブウォノ9世(→445)、第3期(1978年)は外交官のア
ダム・マリク(→447)はスカルノ体制の混迷の後始末をして政権から去った。
 問題はスハルトの独裁体制の次第に整った第4期(1983年)以降の副大統領である。文官を
据えるという配慮もなくなり、第4期の副大統領ウマル・ウィラハディスクスマ(Umar 
Wirahadikusumah 1924− )は45年世代(→319)の軍人で陸軍参謀総長、会計検査院長官を
務めた政治野心のない人畜無害の退役軍人である。勲章代わりに副大統領候補になって本
人もびっくりしたはずだ。
 次の5期(1988年)は側近として仕えてきたスダルモノ(Sudharmono 1927− )前官房長官で
ある。軍人出身であるが、法務畑のため実戦畑の経験がなく師団長の経歴もなかった。ゴル
カルを組織化しスハルト体制を支え、大統領の信望は厚かったが、国軍の主流である作戦派
との折り合いがよくなかった。
  スハルトは6期(1993年)もスダルモノを副大統領に再選したいという意向であったが、スダル
モノに対する軍の反発が露であった。大統領も妥協して国軍の意向にかなうトリ・ストリスノ国
軍司令官を受け入れた。
  トリ・ストリスノ自身は副官としてスハルトに仕えたことが、国軍司令官になれたのであり、個
体として権力欲があからさまでないことがスハルトに受け入れられたのであろう。
  大統領にもしものことがあることに備えて軍のプレッシャーを受けた妥協人事である。 トリ・
ストリスノが軍の最高位から副大統領に転じたことにより、スハルト⇒トリ・ストリスノの軍部に
よる政権の移行は円滑化が予想された。
 スハルトの健康の衰えは明らかであったが、5年たって第7期(1998年)になっても大方の期待
を裏切りさらに再選の意向を明らかにした。副大統領候補にトリ・ストリスノをも替える意向が
明らかにしたが、国軍が軍人候補を出さなかったのはスハルトと一蓮托生を避けたのであろ
う。 ⇒かげりの大統領
  スハルト大統領は娘のトゥトゥット(→452)を後継大統領にしたがっていると慮った取り巻き連
中が娘を担ぎ出そうとしたが、ハビビを副大統領候補に指名したのは後継者というよりは娘へ
の道を拓く中継ぎが本心だったようだ。
  注釈と資料-400 

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インドネシア専科目次D 政治D-3 スハルト体制


401.ハビビ副大統領

 一般選挙の翌年の1998年が大統領選挙である。しかしこれまでは与党ゴルカルの勝利を受
けて対立候補もなく、与野党全員一致でスハルト再選を支持してきた。したがって選挙といって
も5年毎に行われるスハルト大統領就任の儀式にすぎなかった。
 スハルトが再選の意向を明らかにしたため、大統領円満にスハルト大統領に辞めてもらうに
は万策つきた感があった。大統領が死ぬのを待つだけとなり、副大統領の人選に関心が集ま
った。これまでと異なり、副大統領候補に関心が高かったのは、大統領が任期中に退任すれ
ば憲法では副大統領が大統領になるからである。
  国軍は前回1993年にはトリ・ストリスノ国軍司令官をゴリ押しに送り込んだが、1998年には静
観をきめこんだ。スハルトという“泥船”に一緒に乗るリスクを避けているように見えた。
 副大統領候補の選定はスハルトの恣意に委ねられた。巷間(こうかん)に噂された候補はハル
ノト情報大臣、ハビビ科学技術大臣、ギナンジャール開発企画庁長官などとともにスハルトの
長女トゥトゥット(→452)も有力な候補であった。
 最終的にスハルトが選択した候補者がハビビ科学技術大臣である。ハビビの名は五選・六
選の際にもダークホース的存在であった。スハルトの気に入りであったが、軍部に受け入れら
れないのはとにかくとして、国民の人気もなかった。⇒大統領と副大統領 ⇒新旧副大統領と
 軍人でなく文民のハビビの副大統領選出をインドネシアの民主化というわけにはいかない。
ハビビはよくてスハルト家の家宰(かさい)、科学技術のほら話でボケ老人を幻惑するスハルト
の幇間(ほうかん)というのが国民の大方の評価であった。スハルトはもう一期がんばって次期に
娘を大統領にするための地ならしのつもりらしかった。
 欲ボケ老人と幇間という最低の組み合わせに国民は失望した。海外も呆れた、その結果、
副大統領候補がハビビであることが明らかになるとルピアはさらに14%下落した。スハルト・ハ
ビビ体制にインドネシアの行く末を案じた結果である。 ⇒落ちた偶像
 ハビビ自身にも黒い噂が付きまとった。旧東ドイツの海軍の艦船100隻を軍に相談もなくまと
めて引き取ったが、10億ドルの修繕が必要であっただけに軍部を怒らせた。胡散臭(うさんくさ)
い金のやり取りがあったらしい。この記事が原因でテンポ誌が発禁(→752)に追い込まれた。
 インドネシアの大統領の条件は次の3点、軍人、ジャワ人、ムスリムであるといわれてきた。
ハビビは軍人でない、またジャワ人ではなくスラウェシ島出身である。ムスリムであることだけ
が条件に該当する。振り返ればハビビはICMI(→405)を主宰しイスラム教に熱心であったのは
ムスリムであることを政治的に最大限に利用しようとしたのであろう。
  ハビビ副大統領は後に大統領になり、再選されることなく政界を去った。最近では優秀な大
統領であったとの評価も出てきたが、インドネシア大統領になるための外島出身者への壁は
厚かった。
 注釈と資料-401  454.ハビビ大統領

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402.暴動の列島連鎖

  1996年7月27日事件(→397)のやり場のない憤りからインドネシア各地で暴動事件が続い
た。1996年10月、東部ジャワのシトゥボンド(Situbondo)、12月、西部ジャワのタシクマラヤで
は些細なトラブルをきっかけにイスラム教徒がキリスト教会や華人の商店を襲った。昔からの
インドネシアにおける為政者への憤懣表示のパターンである。
  通貨危機による経済危機が国民の生活を脅かすにいたり、政治問題は経済問題と相乗して
列島各地に暴動が相次いだ。街には「物価を下げろ」というプラカードがあふれた。大統領選
出という政治問題の時期に「物価を下げろ」とインドネシア人が物価にこだわるのは、生活が
追いつめられているからである。フランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃に向かう暴
徒も「パンをよこせ」と叫んだ。
 しかしインドネシアのプラカード(注)には単なる物価以上のものをこめている。インドネシア語
の物価はハルガ(harga)である。ハルガに"スハルト一族"の意味をこめている。その心は
「SUHARTO dan KELUARGA」である。言いたいのは「スハルトと一族を引き降ろせ」ということ
である。⇒学生デモ   
 1997年3月11日のMPRでスハルト大統領の再選とハビビ副大統領を選出した。従来型の大
統領と副大統領選出のセレモニー的MPRはこれが最後となった。
スハルト大統領が副大統領にハビビを指名したこと批判はあっても軍人でないという事実は一
つの見識であった。しかし3月14日に発表された内閣の顔ぶれを見て国内も国外も驚いた、と
いうよりは呆れた。特記すべきは娘のトゥトゥット(→452)の社会大臣とボブハッサン(→681)
経済大臣になったことである。まさに第7次腐臭内閣であった。
  首都ジャカルタでは厳戒警備体制で学生デモは足止めされた。ジョグジャやソロの大学のデ
モではスハルト退陣が公然と叫ばれるようになった。スハルト打倒のスローガンは地方から中
央へ怒涛のようにジャカルタの大学に押し寄せた。
  IMFの勧告(→497)に従い、1998年5月4日、政府はガソリンや電気代を値上げを発表した。こ
れに反発した暴動がまずメダンに発生し各地に連鎖した。インドネシア側の抗弁にもかかわら
ず、IMFが政治的配慮もなく経済改革として石油価格の値上げを迫ったのはスハルト大統領引
きずり落としのアメリカの策略であるという説もある。⇒商店の略奪
 5月政変の一連の流れにおいて石油価格引き上げは大きな衝撃であった。物価の値下げ要
求はやがて【レフォルマシ(REFORMASI=改革)】を求めるプラカードに変わった。日本では保
守政党でさえ年から年中、改革を唱えているが、インドネシアでは現体制の変更を意味する改
革という用語はタブーであった。
  華人系の商店もREFORMASIのスローガンを看板代わりに掲げた。その意図はデモ隊への
迎合であり、略奪を逃れる免罪符のつもりであった。
 32年前スハルトの出現とともに唱えられたオルバ=新体制(→389)の呪文は色あせてレフォ
ルマシ一色に置き換わった。
注釈と資料-402  

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403.首都騒乱

 【5月12日】ジャカルタに私立の名門トリサクティ大学(注1)でレフォルマシ(改革)要求のデモ
を行った。デモの勢いとして校外に若干はみ出すことは警察当局と事前の了解があった。
 そこへ突如現れたのが治安部隊である。治安部隊は警察とは別組織で陸軍の戦略予備軍
の下にあって特別の訓練を受けたエリート部隊である。銃を水平に発射し学生4人(6人という
情報もある)が射殺された。⇒暴動の死者
 これを見た学生・市民はいきり立ち、伝播して暴動化した。トリサクティ大学での治安部隊の
発砲の様子はTVで伝えられた。インドネシアのTVのニュース報道は規制されていたが、外国
の衛星放送が見られる状況では報道規制も効かなかった。
 【5月13〜14日】ジャカルタで大規模な暴動が発生した。焼き討ちされたスーパーを略奪してい
た民衆が火災に巻き込まれて1200名が焼死(注2)した。
 ジャカルタ暴動事件は二つの現象を兼ねている。一つはその日暮らしの貧民が商店に押し
入り商品を略奪した。スーパーで火事に巻き込まれ大量の死者を出した。
 もう一つは学生などが改革を要求する政治活動である。彼らは腐敗政権の退陣と民主化を
求める真摯な政治活動である。⇒5月暴動 ⇒ジョグジャカルタでは
 新聞やTVでは両者を区別することなく、燃えるスーパーや品物を抱える暴徒の映像が伝えら
れた。その裏には暴動を扇動して社会危機をつくりだし、治安回復を口実に政治活動を弾圧し
ようとする国軍内の一派(注3)が暗躍した。外国人の国外脱出が始まった。
 【5月15日】スハルト大統領は急遽カイロより帰国した。
 【5月18日】学生は国会で政治抗議集会を開催し、街頭の暴動・略奪への波及を抑制した。ハ
ルモコ国会議長が大統領に辞任を要求した。
 【5月19日】スハルト大統領はTV演説を行い辞任を拒否し、代わりに改革委員会を提案した。
 【5月20日】有力閣僚が辞表提出が続出し、スハルト大統領の意図する改革委員会の人選が
成立しなかった。
 この日はインドネシアでは祝日に準じる民族覚醒記念日である。1908年5月20日オランダ植
民地時代に民族主義運動の先駆者ストモは民族の自覚を促すブディ・ウトモ(→286)の第1回
大会が開催されたことにちなむ由緒ある記念日である。 ⇒学生デモ
 この日に大量動員による抗議集会が計画されていた。その政治的意図は、民族主義者の先
輩が血と汗で独立を勝ち取ったのはスハルトのような男を大統領にするためではなかったは
ずであるというメッセージであろう。
 天安門事件の再発が予想された大規模抗議集会は軍の要請により中止された。スハルト大
統領を辞めさせるという裏取引があったとおもわれる。
 【5月21日】スハルト大統領は退任し、ハビビ大統領が就任した。
 注釈と資料-403  

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404.スハルト辞任

  「長い権力は必ず腐敗する」という格言はスハルト大統領のためにあるような言葉であった。
30年は十分すぎる時間であった。国王のようになれば子供扱いの並みの大臣は大統領の顔
色を窺い、片言隻語(へんげんせきご)に意を汲み取ることに汲々とする。まともに諫言(かんげ
ん)する人はいなくなり、周りにいるのは欲ボケの家族と取り巻きだけであった。
  5月に入りインドネシア各地で暴動が発生した。5月12日のトリサクティ大学事件に続く、5月13
~14日のジャカルタの暴動は世界の新聞がトップ記事で伝えた。発展途上国首脳国会議に出
席していた大統領は予定を繰り上げ15日にエジプトから帰国したが、大統領は強気であった。
辞任説が一部の報道で伝えられたがみじんもその気配はなかった。
 さしも混乱している国内の暴動は大統領の帰国で鎮まり、治安を回復しそのカリスマ性を誇
示するつもりであった。そうすればスハルト以外にインドネシアを統治する者は他にいないこと
が明らかになる。 ⇒Monetの漫画
 しかしもはや事態は引き返せないほど進んでいた。5月18日、側近といわれてきたハルモコ
国会議長(注1)が辞任を勧告した。スハルト大統領は19日辞任を拒否し、改革委員会の設立
を提案した。内閣の評判の悪い若干の大臣の首をすげ替えるぐらいの手直しで危機を乗り切
るつもりであった。
  「私がやめるのは構わないが、憲法の規定に従って次期大統領になった人がまたこのよう
な形でやめると国家の規範が成り立たないではないか。私がやめればこういう無規範を容易
にする。だから、やめるわけにいかない」という開き直りである。
 辞めては困る主要な経済閣僚十数名が先にスハルト大統領に辞任を告げ、大統領に辞任
を勧告した。新内閣を作ろうにも名乗りをあげる者はなかった。ゴルカルまでが辞任要求決議
に加えて臨時国民協議会(MPR)召集の手続きを告げた。
  スハルト大統領が辞任を決意した決め手は軍の動向である。辞任が避けられないとしても戒
厳令という手段が残っており、国軍が全権を把握すれば意中に適う人物に禅譲し院政をひくこ
とを意図した。その意中の候補者は娘婿のプラボゥオ(→452)であろう。
当時、軍の権力を保持していたのはウィラント国軍司令官である。大統領はウィラント国軍司
令官の取り込みを図ったと思われるが、ウィラントは憲政に従い副大統領のハビビを立てる
(注2)ことを明言した。子飼いと思っていたウィラント司令官から辞任を勧告されては万事休す
であった。ウィラントの条件は大統領と家族の身体上の安全を保証するというものであったとい
われる。⇒スハルト辞任
 5月21日、テレビで辞任を告げ「これまでに過ちやいたらない点があったとしたら許してほし
い」と付け加えた。表情はいつも通りであったが、手の震えは隠せなかった。スハルト大統領辞
任は国内はもとより国外からも歓呼の声で迎えられた。後任は憲法に従い、ハビビ副大統領
が第3代大統領就任の宣誓を行った。3月11日に7選されて大統領についたスハルト最後の
政権は2ヶ月11日の寿命であった。
注釈と資料-404  

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