D−5章 イスラムと国家

417.国体論争 418.ムスリムの妥協
419.イスラム政党の潮流 420.ムスリムの苛立ち
421.イスラム法と整合 422.イスラム原理主義
423.国営宝くじ事件 424.モニトール事件
425.福祉正義党の躍進

D−5.イスラムと国家(注釈と資料)
D−1国家の仕組み D−2スカルノ体制 D−3スハルト体制 D−4ダッチロール政局
D−5.イスラムと国家 D−6国家分裂の危機 D−7政治家列伝 D−8国際関係



D−5 イスラムと国家

417.国体論争
  
 ヨーロッパや日本の歴史においても宗教と政治の間に確執はあったが、いわゆる政教分離
の後は近代国家としての道を歩む。しかしながら、イスラム教の場合は国家との関係は様相を
異にする。
 サウジ・アラビア、イランなどに見られるように宗教は国のあり方そのものである。これはイス
ラム教国が遅れているといったことではなく、イスラム教そのものが確固とした一つの法体系を
有するためである。
 イスラム法を前提とするこれらの中東の国ではイスラム教を国家宗教としており、国家の存
在そのものがイスラム法に抵触しない範囲に限定される。欧米や日本では婚姻、相続などの
世俗的なことは〔国家=政治〕の守備範囲である。これに対してコーランでは婚姻の成立、遺
産の分配など事細かく定められている。イスラム国家では〔国家=宗教=政治〕であり、イスラ
ム法=コーランがオールマイティである。 ⇒イスラム教徒
 オランダ植民地支配下で被支配者である原住民のムスリム(イスラム教徒のこと)であること
の自覚が民族意識の覚醒となり、イスラム同盟(→287)としてやがて独立運動を担う主翼の一
つに発展していった。⇒インドネシア大学モスク
  しかし独立運動がある段階に達し独立が現実問題となりかけたところでイスラム教が国民の
90%近くが奉じる宗教だけに、イスラム教の位置づけは国の在り方は《イスラム国家》or《世俗
国家》をめぐる大問題となった。
 1930年頃、〈ムスリムの指導者〉と先鋭的民族主義者である〈ナショナリスト〉は民族運動の
主導権を巡り激しく対立した。ムスリム指導者の代表ナシール(注)とナショナリストの代表スカ
ルノとの間の論争が名高い。スカルノはエンデ(→218)に流刑中であり、そこから発信された彼
の主張は『エンデ書簡』として知られる。
 両者の論点の第一はイスラム法の解釈で、ナシールはコーランの定めるイスラム法を絶対
的なものとしたのに対し、スカルノは時代と環境の要請に応じて弾力的なものとした。第二は政
教の関係で、スカルノの「政教分離」の主張に対し、ナシールは「政教一致」でもって反対した。
 またインドネシア以前のイスラム教徒の国で政教分離して近代国家としての体裁を整えたト
ルコをスカルノは評価したが、ナシールは見解を異にした。
 ナショナリストとしてのスカルノは敬虔なイスラム教の信奉者でありイスラム教を頭から忌み
嫌うナショナリストではなかった。また一方、ナシールの方も独立後にマシュミ党(次次項)の党
首として首相を務めた政治家であり、観念的宗教家ではなかった。両者の論争の結論はなく、
インドネシアのある限りエンドレスに続けられるであろう。
注釈と資料-417  

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418.ムスリムの妥協

 ムスリム指導者とナショナリストとの間の国体を巡る論争はパンチャシラ(→365)に収斂(しゅ
うれん)していったといえる。パンチャシラは憲法の前文に明記されており、その五原則のうち
最大の問題となったのは第一項目の『最高神への信仰』である。
 これはいわばイスラム教とナショナリズムの妥協である。始めはこの"神"はイスラム教の《ア
ラー Allah》であることが明示されていた。討議の過程でイスラム教と限定されない《一般の神
Tuhan》となったが、一神教が前提とされている。
 パンチャシラは第一に神への信仰を唱えることにより宗教の優先を明らかにしたが、この神
はイスラム教に限らず、キリスト教、ヒンドゥー教の神も同列である。憲法では国民の約90%を
占めるイスラム教もあくまで宗教の一つにすぎない。
 とにかくインドネシアの独立に伴う国の理念はスカルノの政治的産物ともいえるパンチャシラ
に表される。ナショナリストであるが西欧帰りではなくイスラム教の匂いのかなり強いスカルノへ
の人格的信頼のもとにパンチャシラの理念が成立したものである。
 結果的にはイスラム教の強い要請にもかかわらずイスラム教を国教にすることを排除し、一
時、案文化されていた『大統領はムスリムでなければならない』とした規定も最終段階で削除さ
れた。⇒モスク
 宗教への尊厳を明示することの妥協でもってインドネシアは世俗国家を選択し、パンチャシラ
はジャカルタ憲章(Piagam Jakarta)として独立前にまとめられた。しかし「イスラム教徒はイス
ラム法に従う」というムスリムの義務を明記したジャカルタ憲章の文言は土壇場の制憲会議で
憲法に採用されなかった。⇒ソロのモスク
 日本の敗戦の中での独立という非常時であったため、問題を先送りした形で結果的にはナ
ショナリストがイスラム教を押し切ったということになる。しかし、この後遺症はその後も何かの
機会あるごとにイスラム教側からの憲法改正要求(注)の根拠となっている。1959年の憲法復
帰問題の際もイスラム側からこの問題を持ち出し政局が混乱し、スカルノ大統領によって議会
は解散された。
 世俗国家であることを受入る見返りとしてイスラム教には懐柔策は講じられた。宗教省が設
置され、多くのイスラム教関係者が公務員としてムスリムのための仕事をしている。例えばメッ
カ巡礼は宗教省がすべて手配を行う。〈宗教省〉は全宗教をカバーし、予算は宗教人口比例ら
しいが、実態は〈イスラム省〉である。予算面でも優遇され国防治安省の軍人、教育省の先生
についで国家公務員の多いのは宗教省である。⇒中央モスク
 公立学校では週2時間の宗教の時間があり、イスラム教の教師を擁している。一般の教師
は教育省の所属であるが、宗教教育の教師は宗教省の所属である。
 しかしイスラム原理を重んじる原理派(→422)にとっては世俗国家としてのインドネシア共和
国は認められないものであり、過激派ダルル・イスラム(DI)の反乱(→332)の埋火(うずみび)は
消えていない。
注釈と資料-418  

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419.イスラム政党の潮流

 イスラム政党の政治に対する姿勢から《近代派》と《保守派》に大別されてきた。近代派と保
守派といっても複雑なので定義が明確でないと混乱を伴う。このことはインドネシアのみならず
イスラム教国全般に言えることである。
  インドネシアのイスラム近代派(改革派ともいう)はイスラム教本来に戻るべきという近代イス
ラム改革運動としてムハマディヤ(Muhammadiyah)が1912年にジョグジャカルタで発足し、王室
のメンバーも運動に参加した。敬虔なムスリムの多い西ジャワ、スマトラ島、スラウェシ島など
外島のイスラム教徒にその支持層を拡大した。  ⇒ムハマディヤ高校 ⇒ムハマディヤ大学
 ムハマディヤの主張は昨今のインドネシアのイスラムはコーランから逸脱しており、ムスリム
の不幸はそこに起因する、従って原典に帰ってアッラーの教えを正しく学び、広め、実践するこ
とによって個人の幸福と安寧および社会の福祉、民族と国家の繁栄がもたらされる、というも
のである。
  一方、保守派は世俗国家を受け入れるもので政治面においても必ずしもイスラム教の立場
に固執しない。サントリ(→630)はジャワにおいては熱心なイスラム教徒であるが、ムハマディ
ヤのより原理的なイスラム教徒に対しては保守派という位置付けになる。
  日本占領期の1942年、イスラム教徒はマシュミ(注1)を設立しインドネシアのムスリムの大
同団結を行った。独立後の1945年11月にマシュミは政党組織に改組された。
しかしその後の政治路線を巡る近代派と保守派の対立から、1952年に保守派のNU=ナフダト
ゥル・ウラマ(注2)が分離独立し、残ったマシュミは近代派イスラム(ムハマディヤ)の立場をよ
り一層に明確にした。両者の実力はNUの4000万人、ムハマディヤの2800万人といわれる。
  ムハマディヤとNUの間には依然として溝があることは事実であり、政治活動のみならず日常
生活においても両者を対比した加納啓良氏の面白い観察を要約すると、背広を着てインドネ
シア語のコーランを読むインテリがムハマディヤであり、ジャワの民族服を着てアラビア語のコ
ーランを呪文のように唱える富農がNUである。 ⇒Kudusのモスク
  ギアツ(→978)は両者のイスラム観を比較してムハマディヤはピューリタン的でプラグマティズ
ムと合理性であり、NUはシンクレティズム的で慣習とスコラ主義であると対比している。
 スハルト政権下においてイスラム政党は政治の表舞台から遠ざけられたが、スハルト政権崩
壊によるレフォルマシ(→406)の中でイスラム政党は復活した。1999年の総選挙においては在
来のPPPに加えNUの系統の国民覚醒党(PKB)、ムハマディヤの国民信託党(PAN)、月星
党、正義党(PK)等が雨後の筍(たけのこ)のように出てきた。 ⇒金曜日
 暫定政権のハビビ大統領はイスラム色が濃厚であったが、1999年の大統領選出においては
イスラム政党の合従連衡からNUのワヒド大統領を選出した。以降もイスラム政党の動向はイ
ンドネシアの政局に大きな影響を与えるようになった。
注釈と資料-419  ⇒408.イスラム政党の復活 

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420.ムスリムの苛立ち

 1955年のインドネシア最初の総選挙はイスラム教政党の得票が注目された。その結果は多
数ある政党の中でマシュミとNUのイスラム教政党はインドネシア国民党(→293)に続いた。しか
し90%に近いイスラム教徒の存在にもかかわらず、マシュミとNUを併せても40%と過半数を制し
えないところがインドネシアのイスラム政党の限界であった。
  スカルノ大統領の政局運営においてNUは与党的存在になったが、マシュミは野党としてスカ
ルノ大統領に反発した。さらにスマトラの反乱(→378)にマシュミの指導者が同調したためマシ
ュミは1960年に解散させられた。  ⇒メダンのモスク
一方、NUはスカルノ体制に妥協し、ナサコム(→380)の下で三本柱の一つとして宗教勢力を代
表した。しかしナサコムの実態は共産党に傾斜し、政治勢力としてのイスラムは大きく後退し
た。
 このような状態で9月30日事件(→384)が勃発してスカルノ体制はイスラム教学生のカミ(学生
行動戦線)からも大きく揺さぶられて崩壊し、共産党に代わってイスラム勢力が復活したかに
見えた。しかしこれも結果的には共産党が全滅するまでの一時的現象にすぎなかった。
 スハルト政権の基盤が確立するに従い、次第にイスラムは政治の権力構造の蚊帳(かや)の
外に置かれた。マシュミもNUは本来の宗教活動に専念することにし政治活動に距離をおい
た。 ⇒イスラム指導者
  1973年にイスラム教政党を合併した開発統一党(PPP)となった。名前のごとくイスラム教色
を抜き去っている。与党のゴルカル(→393)に対して官製の野党の第一党であったが、選挙毎
に得票率は低下(1982年/28%→87年/16%)した。スハルト体制のもとで政治勢力としてのイス
ラム教は一時利用されただけで、結果的にはさらに後退したといえる。
  ジャワ人のクバティナンといわれるジャワ神秘主義(→707)はインドネシアの宗教において曖
昧(あいまい)な存在である。スハルト大統領は中部ジャワ出身のジャワ人の例にもれずクバテ
ィナンの影響が強く、クバティナンを「宗教」ではなく「信仰」として認めた。インドネシアでは宗教
とは一神教だけである。クバティナンは信仰という公認であっても敬虔なイスラム教徒にとって
面白くなかった。
  スハルト体制下の脱イスラム政策はクバティナンの公認問題以外に、婚姻法の問題(次項)
ある。婚姻を国家管理の改革案に対してコーランに抵触するとしてイスラム側は抵抗し、体制
側もそれなりの妥協を行ってきた。
  スハルト大統領の在任中の業績に対する評価は厳しくならざるをえないが、イスラム問題だ
けを取上げるならば宗教という政治の埒外(らちがい)の思想集団を国家の管理下においた類
まれな政治家といえる。 ⇒中央モスク
  パンチャシラ体制(→366)においてイスラム教の逼塞(ひっそく)状態が続いた。インドネシア人
のイスラム教への信仰心が衰えたように見えたが、密かにイスラム教への信仰は全般に深ま
っていた。再びイスラム政党が胎動を始めるのはスハルト大統領辞任後である。
注釈と資料-420  

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421.イスラム法との整合

 アラビア語で法はシャリア(sharia)であるためイスラム法はシャリアともいわれる。イスラム法
は信者全員に適用する法律であり、信者達はこれをしっかり遵守することになっている。生活
上で直面するいろいろな問題はクルアン(コーランのこと)かその付属書ハーディスに問題解決
方法の主旨がしっかりと記されている。⇒高床式モスク
 結婚、離婚、養子、商売の方法、利子に関する定め、遺産相続の方法など、礼拝の方法以
外にも日常生活に密着したことが細かく規定されており、ムスリムは余計なことを考えずにイス
ラムに従って生活して行けば何の不自由もない。
  イスラム法の特異性はマホメットがアッラーから啓示を受けたものであり、人間が定めた法で
はないことである。従ってアッラーの定めた法に人間が変更を加えることはできない。イスラム
教国家はコーランの規範を法以上の至高の存在とせねばならない。
  中世のアラビアの慣習を21世紀の生活に金科玉条とするナンセンスさの指摘は異教徒の
論理であって、イスラム教徒はコーランの規程は今日も普遍性を持つ摂理(せつり)であると確
信している。 ⇒聖文コーラン ⇒聖なるコーラン
  国家とは法を定めその執行を行うことがその存在理由である。国家がイスラム法を認めるこ
とは国家中に別の国家の存在を認めることである。インドネシアはこの矛盾を克服するため
に、イスラム教徒だけにはイスラム法の適用の慣習を認める植民地時代の法体系を受け継い
できた。
  例えば婚姻についてインドネシアではイスラム教徒の婚姻(→720)は宗教マターとして宗教
事務所が扱ってきた。スハルト体制は婚姻を成文法として国法の事項としようとして「婚姻法」
を提案したが、イスラム勢力の強硬な抵抗にあった。例えば複数妻についての制限がコーラン
に反するという理由である。婚姻法に対し野党PPPは審議ボイコットなどの抵抗を行ったが、よ
うやく制定(1973年)された。スハルト体制において唯一の国会の紛糾事件として記憶される。
  婚姻法では従来、婚姻(または離婚)は宗教の一環として宗教関係事務所への届けによって
成立していたものを、結婚年齢(男19歳、女16歳以上)や複数妻の場合は本妻の同意などを
定める国法の傘がかぶせられた。
  コーランによれば妻は4人まで認められる。公務員は二人目の妻からは上司の許可を得な
ければならないという1983年の大統領令で実質上の禁止にした。ティエン夫人(→451)の強い
意向であったらしい。ちなみにスカルノ大統領は複数妻で有名であったが、スハルト大統領は
ティエン夫人のみである。
 しかし最も重要なことはイスラムの上位に国家イデオロギーを戴くことをパンチャシラ体制(→
366)として国民に強要したことである。国家原理をイスラムにするという要求は独立宣言以前
からの懸案事項であったが、スハルト体制における軍による治安対策はイスラム原理の反体
制派を沈黙させた。
注釈と資料-421 

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422.イスラム原理主義

  独立戦争の際にはオランダに対して戦った組織にヒズブラなどイスラム教徒の集団もあっ
た。インドネシア独立が見えてきた頃、イスラム教徒の過激派はインドネシアが世俗国家であ
ることに反発してインドネシアに対して敵対行為をとった。ダルル・イスラム(DI)の反乱として知
られる事件である。
  以降、スハルト体制において左の共産党、右のイスラム過激派はパンチャシラのアウトローと
して忌み嫌われ弾圧を受けてきた。共産党は物理的に壊滅させられたが、イスラム過激派は
イスラム教徒の影に隠れてしぶとく抵抗を続けた。
 スハルト体制における過激派の最初の反発は1981年のガルーダ機ハイジャック事件であ
る。次に1984年9月、タンジュン・プリオクで暴動(→167)が発生した。政府のパンチャシラ唯一
原則を批判して逮捕された4人の釈放を求めて警察署に押し掛けた1500名の群衆に当局が
発砲した事件である。いわゆるタンジュン・プリオク事件はイスラム過激派の不穏な動きに対す
る当局側の過剰対応である。 ⇒モスク(ジャカルタ)
 また1985年1月のボロブドゥール遺跡(→127)の仏像の爆破事件はイスラム過激派の仕業と
みられている。文化財保護とか観光客誘致ということで異教の偶像がチヤホヤされることへの
ムスリムの欲求不満であろう。彼等はボロブドゥールの仏像爆破以外にもBCA(→523)の爆
破、サリナ・デパートの放火などで腹いせをはらしたが、当局側の過激派とは妥協しないという
断固たる姿勢にイスラム過激派の活動は威圧された。
  ランプン州のタランサリで1989年2月、イスラム過激派と治安部隊の衝突で過激派に30名近
い死者が出た。過激派はムジャヒディン(イスラム戦士)を名乗った。
 インドネシアでは多数決でイスラム教国にできる。しかしイスラム教国はインドネシアの建国
の思想にもとるものである。インドネシアではパンチャシラ(→365)を最高の国家原理にし、パ
ンチャシラの下にイスラム教を位置付けた。スカルノ大統領のパンチャシラ理念をスハルト大
統領は引き継ぎ、パンチャシラの実践を強要した。
 イスラム近代派は合法活動にとどまるのに対し、武力闘争も辞さないというのが「過激派」で
ある。これまで安定しているかに見えるインドネシア社会の最大の不安定要因はイスラム教勢
力であろう。疎外されてきた過激派の主張が全イスラム教徒に拡大するとインドネシアの屋台
骨を揺るがすことになりかねない。⇒イスラム母娘
  果たしてスハルト大統領の辞任により箍(たが)の外れたインドネシアにおいて過激イスラムの
活動が先鋭化してきた。2000年のクリスマス・イブにジャカルタを含む8都市で教会を狙った同
時爆弾テロで多数の死傷者を出した。白装束の集団の傍若無人の振る舞いは日本の右翼と
同じく疎(うと)ましい存在である。
  2001年9月にアメリカでアルカイダによる同時多発テロの1年後にバリ島で外国人を狙った爆
破テロ事件(→751)があり、国際的に連携しているインドネシアのイスラム過激派の存在は世
界的に注目されるようになった。
注釈と資料-422  332.ダルルイスラムの反乱 

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423.国営宝くじ事件

 金持ちになるには二通の方法がある。一つはコツコツ貯める。もう一つは一攫千金を狙う。
インドネシア人の国民性として後者に傾倒しているが、国民性というよりは生活の貧しさの問題
であろう。1993年秋に公営ギャンブルである宝くじ(SDSB)問題が国を揺るがした。たかが宝くじ
であるが、インドネシアで宝くじとは宗教問題がからむ国家の根幹にかかわる問題であること
を実証した。 ⇒インドネシアのモスク
 1989年から開始された公営宝くじは当初からイスラム教関係者の反対のため、とりあえず暫
定期限で発足したものであるが、1993年末に期限がくるので更新しようとする政府の方針が伝
えられるや宝くじ反対のデモがインドネシア全土を覆った。
  サディキン州知事(→396)の時代にジャカルタの都市計画の財源確保のためアンチョール(→
167)に賭場が開設されたことがあるが、予定期日に閉鎖(注)した。ちなみにサディキン州知事
は一時はスハルト大統領の後継者にも擬せられた。
  公営宝くじ反対運動のデモは学生が中心であった。そのうち敬虔なイスラム教信者も反対請
願のデモ行進を行うようになった。イスラム宗教団体が反対しているのはコーランで賭博が禁
止されているからである。宝くじがコーランでいう賭博にあたるかどうかは明らかでない。しかし
インドネシアで実際に宝くじを買うのはその日の食事もままならない貧しい人である。公営宝く
じはコーランの禁じる賭博の類であるという主張は社会正義の観点からも支持された。
 当局は宝くじは社会省が管轄し収益の運用は財団(→748)に任せられており、スポーツ振
興、慈善事業など有益なことに収益を使用しているというが、資金の一部はゴルカル(→393)
流れており、スハルト大統領の息子も会計に関与していた。
 イスラム教関係者の反対はコーランに係わるムスリムの問題である。従ってこれまでの宝くじ
財源に見合うものは非ムスリムの外国人相手のカジノ開設の代替案を提案し、問題を収拾し
ようとする動きもあった。一方、学生側の反対は宗教の大義名文を掲げるもゴルカル体制に
反発する政治的動機が明らかで、反対勢力も同舟異夢であった。
 宗教勢力と学生勢力の結合によって問題が拡大することを恐れた政府は公営宝くじを廃止
するとの発表を余儀なくされた。廃案に持ち込んだ学生側も宝くじ問題を突破口として今まで
抑制されていた学生パワーの復活を期した。しかし体制側はデモの圧力に屈したことにより危
機感を抱き、その後の学生デモへの対応を厳しくした。⇒モスク(タンジュン・ピナン)
 SDSB批判のシンカタン(→964)に"Suharto Dalang Segala Bencana"「スハルトはすべての禍
(わざわい)のダラン(→874)である」という傑作があった。このステッカーを配布していた学生ヌ
ク・ソレイマンは逮捕され大統領侮辱罪で4年の刑期を宣告された。被告は判決を不服として
控訴したら5年に延期された。
  その後、パン・ハジ・スティヨソ知事(ジャカルタ州)が財源確保のため賭博復活を画策したが
実現はしていない。
 注釈と資料-423 

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424.モニトール事件

 インドネシアのカトリック系新聞社が刊行している週刊雑誌『モニトール(Monitor)』の1990年
10月15日号に人物の人気投票の結果を掲載した。好きな人物を新聞の紙面の投票用紙で投
票を募ったものである。的中者に賞金500万ルピアといううたい文句で販路拡大戦略の一環で
あった。日本の雑誌などにもよくある遊びである。⇒イスラム教徒
 ベスト50位のうち1位はスハルト大統領、2位はハビビ大臣(後に大統領)、3位はスカルノ元
大統領、10位には厚かましくもモニトールの編集長アルスウェンド(Arswendo)自身であった。
ちなみにアルスウェンドは80年代のジャーナリズムの人気者であった。日本の夕刊専門紙と
似た大衆向けの記事でモニトールの売上は大幅に増えていた。
 さてここで問題は11位の預言者(注1)ムハンマド(日本語ではマホメットという)である。そも
そもイスラム教徒にとって預言者をして人気投票の対象になることからして冒涜(ぼうとく)行為
である。しかもその順位がモニトールの編集長の後であったからイスラム教徒を激昂させた。
抗議集会とデモが相次ぎモニトールの事務所は襲撃された。
 編集長アルスウェンドは自らの過ちを認め紙面・TVで謝罪したが、イスラム教徒の怒りは鎮
まらなかった。それまでのインドネシアの街頭政治活動はなんらかの政府の意を受けた政治
活動であるのが常識であったが、モニトール事件は扇動者のいない自発的政治活動であっ
た。⇒ジョグジャのモスク
イスラムの潜在パワーにたじろいだ政府がモニトール誌を発行停止処分にすることでようやく
鎮静化した。編集長は「イスラム教を侮辱した罪」で3年の実刑判決を受けた。
 モニトールはカトリック系といっても宗教雑誌ではなく一般紙である。ちなみにインドネシアで
最有力全国紙『コンパス(KOMPAS)』もカトリック系である。インドネシアのカトリック教徒は相対
的にインテリ層であることからマスコミの関係者にはカトリック(→716)が多いといわれる。
 預言者マホメットの娘の不品行を記しているという「悪魔の詩」の英国人作家ラシュディに対
して中東のイスラム教国では死刑の判決が下され、暗殺者に狙われた著者は逃避行を続け
た。ちなみに著者は元イスラム教徒である。日本でも筑波で翻訳者が殺害されたが犯人は逮
捕されていない。この著書に対してインドネシアのスハルト大統領は不快感を表明するに留ま
っている。中東のような超過剰反応でないにしてもインドネシアのイスラム教徒としては許しが
たい冒涜(ぼうとく)として認識されている。 ⇒モスク(バンジャルマシン)
2006年2月、デンマークの新聞にマホメットが爆弾を身につけた諷刺画が掲載されたことからイ
スラム教徒を怒らせ、インドネシアでもデンマーク大使館にデモ隊が押しかけた。
 インドネシアのイスラム教は中東と比べると穏やかである。人口の90%がイスラム教徒である
とは信じられないくらいである。しかしそれで異教徒がイスラム教を甘く見てふざけの対象にし
たりするとどういうことになるのかということがモニトール事件(注2)であったといえよう。
注釈と資料-424  

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425.福祉正義党の躍進


 インドネシア人の90%近くがイスラム教徒であってもイスラム教を国教とすることはできない。
仮に多数決でそのようなことを決めればキリスト教徒は分離独立を図りインドネシアは解体す
る。インドネシアの不幸のみならず東南アジアに混乱をもたらすだけだ。
  このことをよく理解する初代スカルノ大統領、2代スハルト大統領によってイスラムは手綱を
かけられインドネシアの国体は護持されてきた。
  国際情勢ではイスラム化の動きが閉じ込められたことによる閉塞感から原理派が跳梁する
基盤となり、2001年9月にニューヨークでWTIテロ事件が起きた。1年後にはバリ島で外国人を
標的にしたテロ爆破事件(→751)が起きた。その背景にジェマ・イスラミアの存在が明らかにな
った。当局の厳しい取り締まりにもかかわらず2003年8月マリオット・ホテル、2004年9月オース
トラリア大使館前と爆破事件が続いている。 ⇒反米デモ ⇒イスラム過激派
 この中で注目されるのが福祉正義党(Partai Keadilan Sejahtera⇒ PKS)というイスラムの新
政党である。
 スハルト辞任後の1999年のリフォルマシ総選挙においてイスラム政党は復活して既存のPPP
に加え、国民覚醒党(PKB)、国民信託党(PAN)、月星党が参加したが、その中で正義党
(Partai Keadilan⇒PK)が初めて登場し1.5%、6議席をえた。
 2004年の総選挙では党名を福祉正義党と改めてヒダヤット・ヌル・ワヒド(Hidayat Nurwahid)
を党首として目覚しい選挙活動の結果、全国では7.34%で第6位であったが、ジャカルタでは22.
3%を獲得し第一党となった。
 福祉正義党はイスラム学習を行う大学生、エリート層から出たイスラム政党であり、既成のイ
スラム団体とは基盤が異なることが注目される。そもそもスハルト体制後半の1980年代には大
学生の政治活動は厳しく制約されていたが、真摯な宗教活動は自由であったことから、学生の
知的エネルギーがイスラムに向かった。
 学生や卒業生はコーランを学びイスラムの原点に戻り、大学のモスクを拠点としてダッワとい
う宣教活動、タルビアという勉強会で勢力を広げた。学外ではヌルル・フィクトリ財団経営の予
備校、塾の経営で成功して経済的基盤をえた。
 イスラム政党であるが、クリーンであること、若者のボランティア活動など真摯な社会奉仕活
動が知識階級のみならず大衆の共感をえて首都ジャカルタでは目覚しい成果をあげた。PKS
は既存のイスラム組織とは別の若い世代のイスラム政党である。イスラム原理派といわれる
過激思想ではなく、平和手法によるイスラムの開拓である。
 2004年の大統領選挙においてPKSはユドヨノを支持し、ユドヨノ政権の与党となり、ヒダヤッ
ト・ヌル・ワヒドは国民協議会議長に選出された。議会制を通してあるがPKSはイスラム国家を
目指すことを党是とする。
 PKSはイスラム過激化のガス抜きとなるのか、あるいは原理に固執し過激派に転向するの
か、PKSの動きに注目したい。
  注釈と資料-425 

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D-5 イスラムと国家(注釈と資料)
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