インドネシアの初代大統領のスカルノ(Sukarno 1901-70)は1901年スラバヤで生まれた。ジ
ャワ人でプリヤイ(→629)の家系である父がバリ島シンガラジャで教師している際に結婚したバ リ貴族の家系の女性との間の子供である。
父がスラバヤで教職の間にスカルノは父方の祖母に育てられた。インドネシアではこのような
子供の育て方は珍しくない。祖母の居たのは東ジャワのブリタル(→147)である。そこでサリナ (注1)という乳母からの感化を受けワヤンなどジャワ文化に親しんだ。
さらにバンドゥン工科大学(→108)に進む。同大学は開設されたばかりで当時の原住民が受
けうる最高の教育であり、スカルノは第一回卒業の建築学士である。本人によれば建築は工 学ではなく創造の芸術である。芸術的素質を自負しており、後年の女性遍歴も女性美探求の 止むに止まれない芸術的衝動であると開き直っている。ちなみに彼の芸術的素質は息子のグ ル(→456)に受け継がれている。
バンドゥンではチプト・マングンクスモ(→289)、デッケル(→687)の影響を受け、民族主義者と
して頭角を現わし、民族主義運動にのめり込む。卒業後、1927年民族主義の結集を計りインド ネシア国民党(→293)を組織して自ら党首となったのが26歳である。
スカルノは美男子であった、熱気あふれる巧みな演説で民族独立を国民に訴え、自らを"夜
明けの子"として民族主義を鼓舞した。組織者、先導者としてスカルノの人気が上がるととも に、オランダ植民地政庁から警戒された。
演説を行うたびに官憲から中止させられたが、1929年、秩序破壊と擾乱煽動のかどで逮捕さ
れ2年間の投獄生活を過ごす。この間の1930年バンドゥンの法廷で弁明の機会が与えられ、 この法廷陳述は『インドネシアは告発する』という冊子(注2)にまとめられた。
1931年、歓呼の声に迎えられて釈放されたが、植民地支配批判の舌鋒(ぜっぽう)はますます
鋭くなり、1932年8月再度逮捕された。当局はこの危険人物をエンデ(→218)に流刑にし、その 後、流刑先はブンクル(→099)に変更された。1941年太平洋戦争が始まりオランダがうろたえ る中で日本軍によって解放されるまで9年間の流刑生活であった。 ⇒教師スカルノ
何れにしろスカルノは他の民族主義者と異なり西欧留学の経験はないが、洋式教育を受け
た数少ないエリートである。流刑先でも古今東西の哲学、政治、経済、宗教の書を読破し思索 を重ねた。インドネシア語、ジャワ語、オランダ語のみならず英語、独語、仏語にも通じてい た。
現在の位置
日本の敗戦に合わせてインドネシア独立宣言を発し、初代大統領に選出されたが、対日協
力の戦争犯罪人というオランダ側の極印(ごくいん)に身を潜めざるをえず、大統領は象徴的君 主のような存在に甘んじこの間の政治の主役はシャフリル首相(→376)であった。
スカルノ大統領が変身するターニング・ポイントは1949年のハーグ協定(→330)によってインド
ネシアの独立が国際的に認められた以降である。対日協力者という呪縛(じゅばく)は解かれ、 世にはばかるものはなくなった。その後のスカルノ大統領は独立戦争間の隠忍自重の反動の ようであった。⇒ジョグジャを去る大統領
バンドゥン会議(→458)を成功させ世界のリーダーと目されるようになった。対外的にはイリア
ン解放(→432)を怒号し、応じないオランダを帝国主義者、植民地主義者と悪罵(あくば)を極め て罵り、オランダ資産を没収した。
"1945年憲法"への復帰により大統領権限を強化した。意に従わぬ議会を解散し批判的な政
党を禁止し政敵を逮捕した。大統領に批判的な新聞を廃刊にし、モフタル・ルビス(→965)など のジャーナリストを逮捕し言論を統制した。
シャフリルも政敵として退けられた。大統領の頭越しにオランダと交渉をすすめ国際的に大
統領より有名になったシャフリルへの反発は政治路線の対立もさることながら嫉妬もあるよう に思う。共にインドネシア独立運動の同士であったハッタ副大統領は辞めた。
スカルノ政権末期では大臣を大量生産して大統領も全員の名前を知らないくらいであった。
その中でスバンドリオ外相(注)、レイメナ副首相、アイディット共産党書記長(→446)、ヤニ陸 軍参謀本部長などお気に入りはスカルノ大統領官邸に詰め、クラトン(→121)政治といわれジャ ワ王国時代に戻った感があった。⇒スカルノ像(絵画)
歌のうまいことがスカルノ王宮常連メンバーの資格であった。メガワティの幼児の回想録にレ
イメナ副首相がスカルノ家の執事か家庭教師のように描かれている。独裁化の行き着くところ として1963年5月"終身"大統領になった。
国民が餓えているという厳しい現実への対策は「インドネシア・バニャック・マカナン(インドネ
シアにはいっぱい食べ物がある)」という歌を作詞しメロディをつけて連日ラジオで放送した。し かし革命のロマンでは国民の空腹は満たされなかった。
スカルノ大統領は思想的には民族主義者であったが、政策は著しく革命的であった。しかし
体質的には極めて保守的であり、やり方は権威主義的で国王のようであった。好色、好戦、浪 費、容共の4つがスカルノの特徴であり欠点であった。
現在の位置
9月30日事件(→384)の発生を知ったスカルノ大統領は何事かを予期して共産党の根城のハ
リム空港に身を寄せたが、クーデター鎮圧の情報などが錯綜する中でボゴール宮殿(→113)へ 移動した。大統領の当日のこの行動は不可解であり謎(注1)である。デヴィ夫人(→363)が悔 やんでいるように、もしこの時に大統領官邸に戻りクーデターを収拾したならばインドネシアの 政局は変わったかもしれない。
数日後の虐殺された将軍への同情から国民の弔意を集めて行われた葬儀にも出席しなか
った。クーデターを起こした共産党とグルであると疑われることにより大統領は追い詰められ た。以降もスカルノは大統領として政局の収拾を図ろうとしたが、共産党を擁護の姿勢を崩さ なかったため、反共産党の盛り上がりの中で、不動と思われた大統領のカリスマ性も地に落ち た。
翌年の3月11日、大統領官邸をデモ隊に包囲され、逃げた先のボゴール宮殿へ押しかけて
きた軍の幹部に力つきてスプルスマル文書に調印(注2)した。以降、スハルト将軍に実権を委 譲させられてからは政治から閉め出された。新聞記者を集めては「スハルト将軍に任せてい る」などと虚勢からの大言壮語も無視された。
大統領に1966年の独立記念日の演説(→974)の機会が与えられた。スカルノは自己の政策
を正当化し共産党をかばったため国民のブーイングは高まった。公然と大統領非難が行われ る中で終身大統領の称号返上を強要され、翌年2月には大統領を解任された。スハルト将軍 が大統領代行に任命された。
元大統領の余生はボゴール宮殿で幽閉状態(注3)にあったが、病気治療を理由にジャカル
タのヤッソ宮殿に出かけることが許された。ヤッソ宮殿はデヴィ夫人の館であったが、彼女は インドネシアへ戻ることが許されなかった、と言っている。
スカルノ大統領は殺害されず、また裁判にかけられず1970年に失意のうちにボゴール宮殿で
死亡した。数多くの妻や家族の見取りもなく、孤独の中の飼い殺しであった。「ナイフによって 死ぬ」というドゥクン(→866)の予言は当たらなかった。スカルノ大統領の死因に難しい病名は あるが真の病因は江戸川柳でいう“腎虚(じんきょ)”であろう。葬儀は元大統領の葬儀らしく盛 大に行われたが、生前の名声の割には冷ややかであった。
1998年のスハルト体制の崩壊後、それまでのタブーが解禁になった。スカルノ大統領毒殺説
もその一つである。治療の薬に遅効性の毒薬が混入していたという噂が語られている。スカル ノ大統領自身の病気が9月30日事件の遠因であったことを考えればスカルノの死期を早める 必要はなかったと思われるが・・ ⇒ブリタルの霊廟 ⇒スカルノ大統領墓碑
墓地について本人はプリアンガン(→106)の地を遺言したが、無視されてブリタル(→147)に葬
られた。現役時代の数えきれない称号のうち、当初の墓碑銘には"工学技師"だけが記され た。 2001年スカルノ大統領の長女メガワティがインドネシア第5代大統領に就任した。スカルノ 大統領解任後、34年目になる。
現在の位置
スカルノは自らは女性賛美者であると自画自賛しているが、要はいわゆる“女たらし”であ
る。大統領になって以降の女性遍歴は政治がからむだけに問題があった。
最初の結婚相手は民族主義運動の師であるチョクロアミノト(→287)の娘である。スカルノが
バンドゥン工科大学入学に伴いバンドゥンで同居したが、形式だけの結婚で兄妹の関係を越え なかったらしい。彼女は後の第4代ワヒド大統領(→455)の伯母の関係になる。ワヒドがメガワ ティと従兄妹だと言ったのは政治的発言であるが親族関係はないこともない。
大学生のスカルノが引きつけられたのはバンドゥンの下宿先のインギット(Inggit)という12歳
年上の主婦であった。彼女は離婚してスカルノと結婚した。スカルノの理解者であり、投獄され ている間のスカルノの心の支えであった。エンデ(→218)、ブンクル(→099)の流刑先にも同行し た。文字どおりの糟糠(そうこう)の妻であったが、子供がなかった。
スカルノは流刑先のブンクルでは教師をしていた際に女生徒の一人と親密になった。後にス
カルノと結婚したファトマワティ夫人(Fatmawati 1923-80)である。姉さん女房のインギットはス マトラ女性に座を譲り離婚した。 ⇒インドのネール夫妻と ⇒スカルノ夫婦と子供
スカルノの女性関係は大統領の座が安定する頃になってから奔放になった。中部ジャワのソ
ロで会社経営者夫人のハルティニ(Hartini)を見染めて1953年に結婚した。イスラム教徒であ るので重婚に支障はない。ハルティニ夫人は5人の子供あるとは見えない美人である。気の強 いスマトラ女性と比べると柔和なジャワ女性に引かれたのであろう。
ファトマワティ夫人は怒って家出したが離婚には応じなかった。彼女はインドネシア誕生時の
若き大統領と苦難を共にし、"国母(Ibu Negara)"として民衆の敬愛の念も深かった。ちなみに スカルノとの間には5人の子供(→456)があった。後のメガワティ大統領がその一人である。
国軍の幹部の夫人連が大統領官邸をデモ行進し大統領の第二夫人に反対した。コーランで
はイスラム教徒は4人の妻が認められているとはいえ、国軍幹部の夫人は西欧思想の影響を 受けていた。
ファトマワティ夫人がスマトラ島出身であることはインドネシア統一の象徴でもあった。大統領
夫人がスマトラ人からジャワ人に変わることはスマトラとの政治問題が地域対立として微妙で あるだけに大統領としてもファトマワティ夫人に気を使わざるをえない。ファトマワティ夫人は官 邸を出て行ったが、第二夫人ハルティニはジャカルタの大統領官邸ではなく郊外のボゴールに 居住させることで世論をなだめた。大統領の寵愛はあるものの正規の夫人としての処遇を受 けていないハルティニ夫人に取り入ったのが共産党である。
現在の位置
インドネシアの首都ジャカルタに1985年に新設された空港は『スカルノ/ハッタ国際空港(→
851)』と名づけられた。スカルノとハッタはインドネシア独立の指導者で共和国初代の大統領と 副大統領である。⇒スカルノとハッタ
"独立の父"として空港名のように両者はペアで言われるが、一心同体であったわけではなく
時としては論争と対立の関係であった。何れにしろ両者の名前はインドネシアがある限り建国 神話として語り伝えられるであろう。
ハッタ(Hatta 1902-80)はスマトラ島のブキティンギ(→098)の生まれのミナンカバウ人(→
609)である。一族が裕福な商人であったため私費で1920年オランダのロッテルダム商科大学 に留学した。この間にインドネシア協会の指導者として留学生の中で頭角を現した。
1932年、帰国後はシャフリル(→444)とともにスカルノを盟主とするインドネシア国民党(→293)
に参加し活動を行ったが、スカルノが捕らえて以降は後継者と対立しインドネシア国民教育協 会を結成しスカルノと競合関係になった。⇒ハッタ副大統領
流刑先にも大量の本をもって移動し、勉学を怠らなかった。一族が事業を行っていたことか
ら経済学に造詣深かった。独立後のインドネシア経済において彼の唱える経済とは組合主義 でありユートピア的であり、経済政策が評価されるほどの実績はない。
太平洋戦争が始まりハッタはシャフリルとともに西ジャワのスカブミに移された。進攻した日
本軍によって救出され、その後はスカルノとともに日本の軍政に協力した。しかし日本の軍政 当局から見ると怜悧(れいり)なハッタの存在は煙たく暗殺計画もあったといわれる。
スカルノの〈ジャワ的権威主義〉に対してハッタはそれなりに〈西欧的合理主義〉者であった。
しかしハッタは西欧派に属しながらジャワ流の土着思想の理解者であることに努め、シャフリ ルのようなピュアな西欧派と比べると土着派寄りであった。このような状況で《土着派》のスカ ルノと《西欧派》のシャフリルの間の対立に、ハッタは両者の調停者の役割を果たすことが多 かった。共和国首相としてオランダとのハーグ円卓会議(→330)に臨みインドネシアの完全独 立に導いた。 ⇒インドのネルー首相と
その後、シャフリルは失脚し、ハッタ副大統領もスカルノの容共、反議会主義の方針を巡って
対立し、政権の汚職体質を批判し、ついに1956年に副大統領を辞任した。
現在の位置
スタン・シャフリル(Sutan Sjahrir1906-66)スマトラ島出身のミナンカバウ人(→609)である。ス
タンはミナンカバウ人の貴族の家系の称号である。ハッタとともにオランダ留学中からインドネ シア独立を求める政治活動に入った。
帰国以来、インドネシア国民教育協会を指導していたが、第二次世界大戦となり植民地政府
に逮捕されて流刑されていた。
日本軍の蘭印の占領により民族運動の指導者は釈放された。スカルノやハッタはインドネシ
ア独立の手段として日本の軍政に協力したが、シャフリルは日本軍は真の解放者でないとの 確信の下に一切の協力を拒否した。
日本の敗戦後、1945年8月17日、インドネシアは独立宣言(→318)を発したが、スカルノ/ハッ
タはオランダから対日協力者として断罪されていた。この時、日本との関係でクリーンであるシ ャフリルの出番となった。当時刊行されたシャフリル著『我々の闘争』は対日協力者を厳しく批 判している。⇒シャフルル首相 ⇒シャフリル
実権を掌握したシャフリルはスカルノ大統領を象徴的存在に祭り上げ、自ら実質の最高権力
者である首相・外相の要職に就き、オランダとの外交交渉の当事者となった。
しかし、シャフリルの外交交渉は国軍のみならず各政党からも軟弱な妥協として非難されリ
ンガルジャティ協定(→325)の国会での承認手続きは難航した。左派がシャフリル拉致(らち)し た際にはスカルノ大統領が救出した。⇒オランダのファンモークと
党争に破れシャフリルは首相辞任を余儀なくされたが、現実問題としてインドネシアはオラン
ダとの交渉はシャフリルに依存したため、スカルノはシャフリルを顧問に命じ外交交渉を任せ た。当時のスカルノ大統領はシャフリルに頼り切っていた。
以降シャフリルは国連においてオランダの不当を訴え、その活躍によりインドネシアは国際
的認知を得てインドネシア独立に好意的な国際世論の形成に貢献した。
政治家としてのシャフリルは議会制民主主義と西欧的個人主義の信奉者であり、インドネシ
ア社会党(→377)の指導者として知識人の支持をえたが、1955年の選挙で大敗し大衆政党と なりえなかった。しかし独裁化するスカルノ大統領に抵抗し、両者の確執は相いれない政敵と なった。
1960年にPSIは禁止され党首シャフリルは拘留されたが、病のため治癒の名目で国外に脱
出した。9月30日事件(→384)で独裁者スカルノ大統領がつまずいた後の1966年4月スイスで亡 くなった。ジャカルタに着いたシャフリルの遺骸をハッタ元副大統領が迎え、国家英雄に序せら れ名誉を回復した。
スカルノとシャフリルの不和は、オランダによる抑留中にスカルノが大声で歌を歌ったのを同
宿のシャフリルが「うるさい!」と怒鳴り付けたのが発端である、とハッタは自叙伝に記してい る。両者の関係はその程度の単純なことではないだろう。
現在の位置
ジョグジャカルタのスルタンのハムンク・ブウォノ9世(Hamangku Buwono1912-88)はマタラム
王家(→250)の高貴な身分でありながらインドネシアの独立、そして独立後の政治に直接参加 し、その果たした役割は大きかった。
オランダのライデン大学に留学し、やがて民族意識に目覚めたハムンク・ブウォノ9世はオラ
ンダからの解放をめざす民族主義運動を支持した。1945年のインドネシア独立宣言(→318)に 対し、いち早くスルタンの直轄領地も共和国に統合されることを自ら宣言した。その後のオラン ダとの独立戦争時に共和国はジャカルタを避けてジョグジヤカルタ(→120)を臨時首都とし、新 生共和国はスルタンの財政援助に支えられた。⇒ハムンク・ブウォノ9世
また、スルタン自身が共和国を代表してオランダとの交渉を行った。独立後も共和国の内閣
の要職に就いた。9月30日事件以降のスハルト政権において経済特別大臣、副大統領(1974- 78)としてインドネシア経済の建て直しにあたった。
スハルト大統領自身が無名の軍人であった当時は、スルタンの名によってスハルト体制の国
際的認知がえられたといえる。スハルト体制の確立に伴い中央から去り、ジョグジャに戻った。
インドネシアのボーイスカウト運動や体操や観光に貢献したが、由緒ある王室のスルタンとし
てジャワの伝統文化のパトロンであった。王室が育んできた宮廷舞踊(→912)は荒々しい時代 の波を生き抜き保護されている。ワヤン(→904)やガムラン(→910)などジャワ文化は王室の何 らかの庇護(ひご)の下にある。⇒クラトン・フェスティバル
ジャワの4王家(→252)のうちハムンク・ブウォノ9世のみジョグジャカルタ特別州の終身知事
として処遇された。共和国の王家に対する妥協というよりは"スルタン"の称号を持った国王の インドネシア人としての生きざまへの敬意と解すべきだろう。
スハルト大統領はジョグジャカルタ近郊の農民の子である。植民地時代のスルタンにとってス
ハルト一家の身分は月とスッポンの差である。独立戦争時代はひとかどの将校になったスハ ルト将校とスルタンの両者の接触はあった。
それから20年後、クーデターさながらに大統領になったスハルトに迎えられて副大統領になり、
スハルト体制ができあがった。この二人の人間関係はまさにドラマであり、何れ小説などが現 れるであろう。
1988年10月のスルタンの突然の死去は国民の哀悼の中に国葬をもって遇された。インドネ
シアでは時期的に近い日本の昭和天皇の崩御にも例えられている。葬式には300万人が参加 した。遺族は4人の妻と19人の子供である。肖像は1万ルピア紙幣でお目にかかれる。
1998年5月20日のスハルト打倒のジョグジャのデモの中にはハムンク・ブウォノ9世の息子で
あるハムンク・ブウォノ10世がいた。混乱する政局の中で大統領候補にハムンク・ブウォノ10世 の名前がしばしば取りざたされた。
現在の位置
日本のインドネシア占領中にアイディット(Dipa Nusantara Aidit 1923-65)という青年が日本
海軍の庇護下にあった独立養成塾(→311)に出入りしていた。彼はメダンで農園労働者の子 供として生まれ、小学校を終えジャカルタへ移った。
1939年から政治運動に入り、日本占領下の1943年に地下活動を行っていたインドネシア共
産党に入党した。日本の敗戦によりインドネシアは独立宣言を発したが、戻ってきた英国軍と 戦闘になり、英国軍に捕らわれてオランダに引き渡された。
マデイゥンの共産党反乱事件(→326)の際には獄中であり、後に共にインドネシア共産党を背
負って立つルクマン(Lukman)と獄中で知りあった。
独立戦争後、ルクマン、ニョト(Nyoto)とともに共産党を再興し、1951年に28歳の若さで書記
長になった。その背景は、@外国企業の労働者を組織化し、A中国共産党にならい農村を重 視し、Bスカルノ大統領への新体制運動への食い込み、などにより民族主義者と妥協路線を とりながら人民を煽動し、動員し、組織化して党勢を拡大してきた。⇒アイディット
スカルノ大統領はうるさい政党の掣肘(せいちゅう)を逃れるため、次第に独裁化に傾いた。
共産党だけがスカルノ大統領支持を明確にして大統領の懐に飛び込んだ。アイディットは1959 年に国民協議会の副議長に就き、1962年、国務大臣としてルクマン、ニョトとともにスカルノ政 権に入閣した。
共産党はナサコム(→380)の一翼としてスカルノ政権を担った。大統領が陸軍牽制のため共
産党を贔屓(ひいき)したのに悪乗りした共産党は『マレーシア粉砕』をスカルノ大統領に怒号さ せ、政権をとめどなく左傾化させた。この間にハッタ副大統領など多くの民族主義運動から独 立戦争までの多くの盟友がスカルノ大統領と袂(たもと)を分かった。
政治的に孤立したスカルノ大統領は一層、共産党に傾斜した。アイディットは独裁者を篭絡
(ろうらく)する術によって個人的に大統領の側近の一人として権勢をふるった。
インドネシア共産党は"インドネシア"を優先し民族主義を前面に打ち出した。折からの中ソ
対立ではソ連共産党から、中国共産党(注1)に乗り換えた。これにより華僑から資金面で援 助を受けるというメリットはあったが、インドネシア人の華僑への悪感情を考えると危険な選択 であった。⇒毛沢東表敬
アイディット書記長は歯切れのよい説明から外国の新聞記者に人気があった。小柄であった
が大統領の威光を傘に着て気取って歩いた。人相の特徴はギョロメにあった。対立する側か らは催眠術師の眼とも蛇の目ともいわれて嫌われた。
9月30日事件(→384)は共産党系の軍人が準備不足のままに突入したものといわれる。クー
デターがスハルト将軍によって鎮圧されるや、アイディットは形勢不利と見て建て直しをはかる べく空軍の用意した飛行機で共産党が地盤とした中部ジャワへ逃亡するが、1ヵ月後ソロ郊外 のサンブン(Samben)村に潜んでいるところを捕えられて処刑(注2)された。
現在の位置
メンテン地区(→161)にあるアダム・マリク美術館では趣味のよいブルジョア的コレクションが
展示されている。アダム・マリク(Adam Malik 1917-84)元副大統領が死去した後、邸宅を美術 館としたものである。しかし彼の前身は北スマトラのバタック人(→607)のジャーナリストとして独 立運動に献身した貧乏な民族主義者であった。⇒アダム・マリク
1945年の独立宣言当時は『プムダ(PEMUDA 青年の意味)』という戦闘的青年グル−プ(→
315)の指導者であった。スカルノとハッタをレンガス・デンクロックに拉致した事件(→316)の青 年グループの首謀者の一人である。現在の国営アンタラ通信の創設者の一人であり、インドネ シアの独立宣言を日本軍の目を盗んで国内外に放送した。
独立後はジャーナリストとして活躍を続けたが、転身してムルバ党(Partai Murba)に参加し
た。ムルバ党は45年世代(→319)の急進的民族主義者によって結成された政党であり、民族 主義を前面に出したことにタン・マラカ(→295)の影響が強い。
その後、ムルバ党はスカルノ大統領の独裁化を批判したためムルバ党は解散させられた。
スカルノ大統領は共産党に加担したものの、共産党と対立するムルバ残党(注1)を閣僚に取 り込みにバランスを考慮した。ちなみに同志のハイルル・サレーは大統領の側近になり副首相 になったが、9月30日事件(→384)に連座し獄死した。
マリクは駐ソ大使としてモスクワにいた当時から、中国の影響の強いインドネシア共産党に
批判的であった。帰国後も閣僚として共産党批判を行ったことが、後にスハル体制で重用され る理由である。政治家としては危険な綱渡りであった。⇒外交官アダムマリク
1965年の9月30日事件で共産党が失墜して後は外交官としての経歴を買われ外相(1966
年)、副大統領(1978年)に就任しインドネシア外交の再構築(注2)に手腕を振った。 国際的に は無名の軍人であるスハルト将軍を支えたのが国際的に名を知られていたハムンク・ブウォノ 9世とアダム・マリクである。
それまでのインドネシアの外交はスカルノ大統領の下でバンドゥン会議(→458)やイリアン奪
回など華々しいものはあった。第三世界の盟主を指向したことからマレーシア問題を契機に国 連を脱退し英米とことを構えた。共産党の影響の下に【北京=ジャカルタ枢軸外交】に傾斜す るに従い、国際的には孤立化し、アメリカなどの西欧諸国からの資金援助も途絶えた。自由主 義陣営ではかろうじて賠償がらみの個人的コネクションによって日本との関係が保たれていた にすぎない。
スハルト体制の下でアダム・マリクはインドネシアを国連に復帰させ、マレーシアと和解し、
ASEAN(→460)を発足させ、西欧諸国の信頼を回復した。しかし自由主義陣営ではない非同盟 という今日も堅持されているインドネシア外交の国策を確立した。アダム・マリクによるインドネ シア外交は連続性を維持しながら大転換を行い今日の東南アジアの安定をもたらしてといえ る。外交の功績から副大統領(1978-83)に就任した。激動の時代を巧みに泳ぎきった政治家 として異色な存在であった。
現在の位置
独立戦争を指揮し、独立後もインドネシア国軍の最高実力者であったナスティオン(Abdul.
Haris.Nasution)将軍(1918-2000)は北スマトラ出身のバタック人(→607)である。植民地軍の士 官学校教育を受けた根っからの軍人である。インドネシア独立宣言に応えて立ち上がり、スデ ィルマン将軍の築いた国軍を引き継ぎその基盤を固めた。
スカルノ大統領のナサコム体制(→380)の下でナスティオン将軍の率いる国軍は牽制勢力と
して共産党に拮抗したが、大統領が共産党に傾斜するにつれ、大統領との関係はぎくしゃくし たものとなった。⇒ナスチオン将軍 ⇒ナスティオン将軍
9月30日事件(→384)の夜、国軍の幹部が襲われた中でナスティオン将軍だけは夫人のとっ
さの機知で隣家に逃げ込んだため塀を乗り越えた際の骨折の怪我にとどまった。そのかわり 人違いされた士官と娘が犠牲になった。
クーデターはスハルト将軍によってすばやく鎮圧され、その後は〈共産党〉に替り〈国軍〉が国
政の主導権を握るに至った。そして国軍の代表もナスティオン将軍に替ってスハルト将軍にな った。ナスティオン将軍が軍のトップであるにもかかわらず前面に出られなかったのは、スカル ノ大統領に権力の委譲を迫るにはスハルト将軍の方(注)がよかった。なぜならスカルノ大統 領は怨みが積もるナスティオン将軍にたいしては頑(かたく)なであったが、無名に近かったス ハルト将軍に対しては白紙であったからである。
その後の成り行きからスハルト将軍は大統領に選出され、一方、ナスティオン将軍は国民協
議会の議長に祭り上げられた。その後、スハルト大統領によって敬遠され、両者の溝は拡大 する一方であった。スハルト将軍の出身母体が《ディポヌゴロ師団》であるのに対して、ナスティ オン将軍の薫陶を受けたダルソノなどの軍人が《シリワンギ師団》によっていたため、出身師 団の対抗意識が取り沙汰された。
スハルト体制の長期化による弊害に対してナスティオン将軍は50人委員会(→396)によって
スハルト大統領を批判してきたが、軍の超大物であるだけに捕えて牢へ入れるわけにはいか ず、公安当局の取調べや海外旅行の禁止などの拘束を受けていた。
1993年になってスハルト大統領とナスティオン将軍の二人が会見したことが大きくマスコミを
賑わせた。病気見舞という口実であるが、その二人が会って話すのは20年ぶりということであ った。ナスティオン将軍の気力の衰えを窺わせたところである。
1995年の独立50周年独立記念日の式典でスディルマン将軍(→328)、ナスティオン将軍、ス
ハルト将軍の3人が5つ星(元帥)称号を授与された。先輩を持ち上げるようであるが、授与者 はスハルト大統領である。2000年9月、ナスティオン将軍逝去の報が簡潔に報じられた。享年 82歳であった。インドネシアのほとんどの人にとってナスティオン将軍は名前も知られない過去 の人であった。
現在の位置
インドネシアに1966年から1988年まで32年間君臨したスハルト(Suharto)大統領は、中部ジ
ャワのジョグジャカルタの近郊のバンドゥル県ゴデアンのクムスク(Kemusuk)村で1921年に生 まれた。父は潅漑用水路担当の番人の子である。⇒スハルト将軍
自伝では "anak desa(村の子)"を強調しているようにアバンガン(→631)の出自である。一方
ではスルタンの落し子という風説は夫人か取り巻きの示唆で捏造(ねつぞう)されたものであろ う。関白豊臣秀吉の天皇の落し子説と同じシナリオである。
生後2年で両親は離婚したため両方の親族によってあちらこちらへとキャッチボールされな
がら育った。家族と親族の間の垣根の低いインドネシアでは彼の生い立ちが特に不幸である ことにはならない。後にファミリー・ビジネスといわれる財閥となる異母弟や諸々の従兄弟は同 じ環境で育った遊び仲間である。
自叙伝で新しいシャツを着る人への羨望を語っており、とにかく貧乏であったことは間違いな
い。その貧乏の反動が晩年の貪欲な金銭への執着になったのだろう。学資が続かず18歳で 中学校の卒業し村の銀行に就職したが解雇されている。使い込み?というのは恣意的推測で あって根拠はない。
1940年に日本の侵略に備えるため植民地政府はジャワ人からも兵士の募集を行い、応募し
たスハルトはオランダ植民地軍(KNIL)に採用された。
1942年3月、日本軍がジャワ島へ進攻してきたが、1週間あまりで降伏したため実際の戦闘に
参加する機会もなく故郷に戻った。
今度は日本のペタ(→309)の募集に志願して合格する。小隊長から中団長、大団参謀にな
る。日本の敗戦でペタは武装解除になり解散した。性格的に地味な百姓より軍隊の方が肌に あったようである。⇒独立戦争の兵士と? ⇒スディルマン将軍と
独立宣言に影響され共和国を守るためペタの幹部を中心に澎湃(ほうはい)として起きる機運
に国軍が結成され、やがてインドネシア共和国軍に編成された。彼も応じて軍教育の経験をか われてジョクジャカルタの守備隊司令官になる。⇒スカルノ大統領からの授与
ジョクジャカルタが共和国の首都であったことから政治家に接する機会が多かった。政治家
の実際の権謀術策を学んだことは後の処世術に随分と役に立った。
その後、軍人としてイリアン奪回でオランダと対決したトリコラ作戦の司令官であった。ディポ
ヌゴロ師団長と出世したが、汚職疑惑で左遷されたが戦略予備軍司令官に返り咲いた時に9 月30日事件(→384)が起き、棚からボタ餅式に大統領になった。
スハルト大統領とスカルノ大統領は何もかも対称的である。スカルノは東ジャワのプリヤイ
(→629)の子であり、ITB(→108)の輝かしい学歴である。数か国語を駆使するインテリである。 一方のスハルトは中部ジャワの名もない農民の子である。ジャワ語とインドネシア語しか話せ ないたたき上げ軍人である。スカルノ大統領は女性問題の賑やかなプレイボーイであったのに 対して、スハルト大統領の妻は一人で良き夫であった。
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豊臣秀吉は明智光秀の起こした本能寺の変を事前に知っていたのではないか、そうでなけ
れば毛利の大軍を前にあれほど機敏な行動がとれるはずがない。織田信長の一族でもなく、 信長配下の抜擢(ばってき)常務級の武将にすぎなかった秀吉の天下取りの実現の僥倖(ぎょう こう)は日本史に秘められた謎である。
スハルトと9月30日事件も不可解である。何ゆえかクーデター側から襲撃の対象にもならなか
ったスハルト将軍(当時は戦略予備軍司令管)は10月1日の機敏な対処により手際良くクーデ ターを鎮圧した。スハルトは自叙伝で「軍の大物ではないと共産党から無視されたからである」 と語っている。
このような問題提起はスハルトの大統領在任中はタブーであったが、スハルト辞任後このブ
ラック・ボックスに光りが差し込むようになった。事件の首謀者の一人で無期懲役中のラティフ (Latief)元中佐は「スハルトに事前に報告した」と証言している。
ラティフ元中佐にとってスハルト将軍はディポヌゴロ師団当時の上官である。ここから先は小
説の世界であるが、協力を求める下心の元部下のささやきにスハルトは「Yes」とも「No」とも答 えなかった。それをラティフは暗黙の了解と解釈した。
その後、9月30日事件の首謀者は処刑されているにもかかわらずラティフ元中佐だけは処刑
を免れて収監されたままであることも不思議である。スハルトがラティフを処刑できなかった理 由は何であろうか。
クーデター側の首謀者からスハルト将軍は汚職には熱心であるが、政治イデオロギーでは反
共産党を明らかにしていないので共産党陣営に抱き込めると見られていたのであろう。
ディポヌゴロ師団長時代に密輸などやりすぎて左遷されたスハルト将軍はナスティオン将軍
(前々項)の率いる国軍では傍流の軍人であった。そのスハルト将軍が一気に浮上するきっか けとなったのは9月30日事件であった。事件で襲われて殺害された軍人の多くはスハルトの左 遷に同意していたことから、事件の本質はクーデターを借りたスハルト将軍の私怨の仕返しと いうスハルト首謀説は根強い。 ⇒スカルノ大統領と
最初に権力を把握した当時は国内でも余り知られていない将軍であった。国際的には無名
の人であり、米国CIAの情報ファイルにも記録がなかったといわれる。表舞台に飛び出たスハ ルト将軍は温和な顔立ちであり国民の期待を一身にあび、国民に“微笑みの将軍”として敬愛 されるように勉めた。国外にも軍事政権を仮面でカムフラージュした。
初期のスハルト体制ではアリ・ムルトポ将軍が演出家で黒田官兵衛、高師直のごとき存在で
あった。ムルトポ将軍の下にスハルト将軍は役者として大統領の演技を続けた。1983年、ムル トポ将軍の亡き後はマクベス夫人としてのティエン夫人(次項)が代わった。スハルトは大統領 の座を確固たるものとして帝王になった。
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スハルト大統領夫人は1996年4月28日、急病でなくなった。72歳である。スハルトが農民出の
一介の軍人である時に結婚した。スラカルタのマンクヌゴロ王家(→131)につながるジャワの下 級貴族の後裔である。R.A.Siti Hartinah本名の冒頭のR.AはRaden Ajengの略で貴族の称号 (→637)である。⇒イブ・ティエン
本名とは別名のIbu Tien(ティエン夫人)で知られる。Tienをもじり"Madame Tien Percent" と
いわれた。夫人の名"Tien"はオランダ語の10であり、“10%夫人”という意味である。
その心は政府ビジネスには夫人の主宰するヤヤサン(→748)に10%の寄付を強要されるとい
うことである。ジャカルタのビジネス界で周知の事実であったが、オーストラリアの新聞でファミ リー・ビジネス(→492)の記事に併せて「10%夫人」が紹介され、激怒したインドネシアはオース トラリア政府に陳謝を要求した。
民営の新聞記事に対して政府に陳謝を要求するのは筋違いであり、オーストラリア政府は無
視した。オーストラリアからの観光客の入国を拒否するまでの外交問題にまで発展したが、時 間の推移とともに有耶無耶(うやむや)になった。"10%夫人"はインドネシアでは厳しいタブーで あるということだけが残った。密かに囁かれたのは10%夫人ならとにかく、晩年はマダム・フィフ ティ・フィフティにまでスケールアップした。
大統領夫人として国政人事の壟断(ろうだん)をしたことからインドネシアのN0.2といわれたこ
とはさておいて、夫人の事業にTMII公園(→164)、スハルト博物館、スハルト霊廟(→132)があ る。最初は自分の父や弟の事業をバックアップしたが、子供の成長に伴い玩具を与えるように 事業を与えた。 ⇒ファースト・レディ
かつて隣国の大統領が政治失脚して亡命した際に大統領夫人の贅沢の証として靴のコレク
ションがTV放送され、その日暮らしの貧しい国民は怒りを新たにした。しかし自分の子供のた めに独占事業をコレクションする大統領夫人と比べると靴のコレクションなどは実に可愛げが あるとことがわかる。
夫人の死によってスハルト一族の利権の調整者がいなくなった。その結果、一族の利権漁り
に歯止めがなくなり、閣僚人事はネポティズムに暴走し、ついにスハルト大統領は政権を投げ 出さざるを得なかった。夫人の死後2年後である。夫人が生きていればスハルトの暴走は止め られたという説もある。
しかし夫人の正体は亭主を悪の道に追い込んだ"マクベス夫人"である。もっと早く死んでおれ
ばインドネシアはもっと良かったであろう。
一族の中では亡命もせず、裁判にもかけられず平安の死を迎えたことは慶賀すべきことであ
ろう。そんなはずはないと願望を込め息子の銃弾で死んだという噂(→586)がある。夫人の醜 悪な面の写真を見ると腐った平家蟹を連想する。男女を含めて6人の子供は母親に似ず、美 男の父親似であったことは幸いであった。
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スハルト大統領には3人の息子と3人の娘と計6人の子供がいる。息子の次男のバンバン(→
529)と三男のフトモ(→544)はビジネスに進出し事業を営んでいるので記述はそちらに譲る。そ れでビジネス界がどれだけ迷惑であっても政治に出てこられるよりは国に与える被害は少なか ったという意見があることを付記しておく。
長男シギット(Sigit Hardijanti)は博打(ばくち)が好きで外国で大負けし、国営企業が尻拭きを
させられた。その息子のアリ(スハルト大統領の孫)はバリ島のビールや学童の靴納入の利権 商売に熱心であった。⇒スハルト大統領の子供
長女のシティ・ハルディヤンテイ・ルクマナ(略称トゥトゥット)は事業も営む傍ら政治にも野心
がある。大統領夫人のなくなる前から大統領に随行しマスコミにも登場していた。大統領に代 わって外国訪問や社会活動など目障りであった。
1996年4月29日の大統領夫人の葬式にも長男をさしおいて遺族代表として挨拶した。その後
は母に代わり大統領の第一の側近になった。結婚しているが亭主とはうまくいっていないらし い。もし彼女が亭主とうまくいっておれば事業や政治に励む必要がないから、その方がインド ネシアのためにもハッピーであった。
女史は高速道路建設、製紙、貿易などの事業を行う一方でゴルカル(→393)の副総裁の要職
を努め、1996年のスハルト大統領6選の際に副大統領候補といわれていたが、ハビビが副大 統領に就任したが、何れトゥトゥットが大統領になると信じられていた。
第7次内閣の閣僚人事はこの女が仕切ったらしい。不倫相手と噂の高いハルノトを大臣にす
るほどの心臓の持ち主である。自らは社会大臣に就任した。5月事件で政府の建物で焼き討 ちにあったのは社会省だけである。焼き討ちする方は社会省が憎かったのではなく大臣への 腹いせである。社会省も迷惑である。⇒トゥトゥト
スハルト退任後はチュンダナ(→161)に逼塞している様子(注)であるが、パパの一件が片付
けば(死亡or無罪)子供の留学にかこつけて海外へ逃亡するだろう。海外に莫大な資産を隠し ているはずであるから悠々自適に暮らせるはずである。
次女ティティの婿のプラボウォ・スビアント(Prabowo Subianto)1952生まれである。インドネシ
ア経済の発展のスミトロ・ジョヨハディクスモ博士の息子である。1994年に大佐から准将に、 1995に准将から少将へと軍隊内でも異例の昇進であった。
始めは軍人の妻であるからビジネスも自粛していたようであるが、亭主との関係がよくないら
しく遅れ馳せながらビジネスに手を出しかけたところでパパの退任となった。プラボウォの兄弟 がしっかりと利権に食い込んでいる。⇒プラボウォ将軍
スハルト退任劇の際にこの女は亭主がスハルト大統領のために行動しなかったと不作為を
詰り、以降、関係が修復不可能になったと伝えられる。
三女は結婚相手が農学者であり、ダーティ・ビジネスに関係ないかと思ったが、ジャカルタ沖
埋め立て事業に首を突っ込んでいた。
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スハルト大統領辞任後インドネシア国内の騒動が広がった。 民族=宗教対立が経済的破
綻の中で激化したものである。これらの事件の直接のきっかけは何者かが扇動したものであ る。扇動者と目される者はパンチャシラ・ムダの指導者のヨリ・ラエヤイ(Yorry Raweyai)であ る。彼はイリアンジャヤ出身の元水夫で51歳になる。世界的に通用するゴロツキでスハルト大 統領お抱えのNO.1殺し屋である。アルカポネを尊敬しており、自分のゴッド・ファザーはスハル トであると崇めている。⇒スハルト報道
パンチャシラ・ムダは1959年に共産党青年部組織に対抗するため軍によって設立されたとい
う歴史がある。スハルト体制の下でゴルカル青年部の別働隊として選挙活動で勇猛を奮った。 メガワティ下しの7月事件(→397)などに蛮勇を奮いスハルトの私兵として働いた。
辞任後のスハルトやその息子の自宅に出入りし、スハルト支持を高言している。彼の意図は
民族間のぎくしゃくした関係に油を播き火をつける。火は燃え広がり大火事になる。現政権に 統治能力がないことをあからさまにする。当初は不名誉な辞任のスハルト大統領の評価を高 らしめ再出馬をも求める世論を創り出す意図といわれたが、その後は現政権にスハルト訴訟 を断念させるための揺さ振りと見られる。
タイム誌(1999/5/24)がスハルト大統領の不正蓄財は150億ドルに達し、密かにスイスから90
億ドルを移したという記事には国内外ともに驚いた。スハルトが蓄財していることは誰も知って いたが、具体的な巨額を世界で最も有名な雑誌が記したからである。ちなみにフィリッピンのマ ルコス大統領の蓄財は6億ドル強である。
スハルト自身は外国に隠し口座があるという疑いに対して「もしあれば没収してもよい」と開き
直っているが、国民の誰も信じていない。本当の所有者が分らないよほど巧妙に隠しているに 違いないと思うだけである。
このような大金をどのようにして蓄財したかというと、スハルト大統領在任中にスハルトの財
団へ政府と契約する企業からの契約金の一定割合寄金の大統領布告を出す。スハルト一族 の反論は財団はスハルトが理事長であるが大統領の私物でない。寄金は法的手続きに基づ いているから違法でない。これがスハルト側の言い分であろう。
スハルトの個人財産の不正蓄財の判明分について起訴されたが、健康を理由に出廷を拒
否した。地裁は元大統領の健康状態は出廷にたえられないと公訴を棄却した。直前に証券取 引所爆破事件があり、スハルト一族が仕掛けたとされている。一族は起訴妨害のためマルク 州の暴動を扇動し、テロのスポンサーとなって社会不安を煽っている。
2001年7月、最高裁判事のシャフィウディンは暗殺された。一連の裁判でまともな判断しただ
けである。一族はテロで国家を恐喝しており、国軍内にもスハルト同調者がいる。ワヒド政権も メガワティ政権もスハルト一派を恐れていたに違いない。⇒まだ生きている
時間の経過とともにスハルト問題は風化し、当局側の期待するスハルト問題の最善の解決
は本人が早く死ぬことである。
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1998年正月から日本経済新聞に連載された自叙伝でスハルト大統領はハビビ(Habibie 1936
- )とのそもそもの馴れ初めを紹介している。それによると1950年、当時29歳の若手将校の スハルトはインドネシア独立直後の地方の内乱(→378)の鎮圧のためスラウェシ島に派遣され た。ジャワ人の軍隊は地元から歓迎されたわけでない。その中で夫人がジャワ人のある家族 だけが親しくし、男手の軍隊の世話をやいた。ちなみに父親はブギス人(ゴロンタロ族?)であ る。その家族は夫婦に子供がおり、スハルトは利発な男の子を可愛いがった。その男の子が 14歳のハビビである。⇒ハビビ大統領 ⇒天才の誉れ
ハビビの実父が亡くなってからスハルトが"足長おじさん"になった。国民の間にはスハルトの
隠し子であるとの噂も流れた。彼は秀才の誉れ高くITB(→108)卒業後、ドイツに留学し、航空 工学の博士号を取得した。その筋の専門家としてドイツのメッサー・シュミット社に迎えられ、 1974年に同社の副社長になった。
スハルトの贔屓(ひいき)がドイツの民間会社にまでおよぶことはなかろうから、彼自身が逸材
であろう。ドイツでの名声が高まり、1974年当時のプルタミナのストー総裁に口説かれてインド ネシアに引き戻され、1976年にIPTN(→533)の総裁に就任した。
1978年に研究技術担当国務大臣となり、さらにバタム開発庁長官、PAL(造船)総裁、BPPT
(技術応用評価)庁長官、1989年に戦略産業庁長官など幾多の要職を兼任した。
ハビビ氏がスハルトに寵愛を受けた理由は大きなプロジェクトを打ち上げたことである。バタ
ム島開発、通信衛星はまだまともなプランであったが、原子力発電所、スンダ海峡トンネル、マ ラッカ海峡の架橋などは政治家ではなく金銭の計算できない科学者の発想であった。「子供が そのまま大きくなったような技術オタク」である。
技術テクノラートの頂点にいる人であるが、ハビビは政治的に重要な存在になった理由は、
国軍が強力になりすぎることへの牽制もあり、スハルト大統領の意中には軍への対抗馬として ハビビが位置づけられたのであろう。⇒スハルトのバイクに同乗
1993年の副大統領の人選では結果的にはトリ・ストリスノ国軍総司令官(→394)が下馬評どお
りに副大統領に就任した。その際もスハルト大統領の意向(明言しないので臆測をよぶ)はハ ビビであった。それまでのハビビは政治基盤はなくスハルト大統領のお気に入りというだけで あったが、イスラム教関係の団体でイスラム教活動に熱心にやったのは政治的野心があった からであろう。
ハビビはスハルト大統領を“SGS(大天才)”と呼んでゴマをすった。スハルト大統領の健康問
題が懸念されたハビビの薦めでドイツの病院で検査し、健康が確認された。これもハビビのお かげと感激した。
公職在任中は新聞、雑誌、テレビでエネルギッシュな行動が紹介され、インドネシアの最も多
忙な人であった。退任後は特許収入でドイツで悠々自適らしい。
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インドネシア第4代大統領アブドゥルラフマン・ワヒド(Abudurrahman Wahid)はNU(→419)の設
立者の孫である。アブドゥルラフマンが本人の名でワヒドは祖父の名前である。長い名前は家 柄のよい証であるが、日本の新聞は短くて覚えやすいワヒド大統領と呼んでいる。通称の別名 のグゥス・ドゥル(Gus Dur)は"小さな王子"という意味である。
ワヒド大統領の家系はワリソンゴ(→712)に連なるジャワの名門である。ワヒド大統領が自分
の祖先には中国人の血が入っていると言ったのは、イスラム教をかかげるNUからの大統領に 不信感を抱く中国系住民への懐柔の意味もあろうが、15世紀のイスラム教のジャワ布教当時 は中国人もイスラム教にかかわっていた。
1940年東ジャワのジョンバンで生まれた。プサントレイン(→733)で学び、卒業後はカイロのイ
スラム大学、イラクのバクダッド大学でイスラム神学を学んだ。イスラムの学者で、目はほとん ど見えず病弱。それでもワヒドはインドネシアで最も尊敬され、愛されている男の1人で「生きた 聖人」と仰ぐ国民も多い。
インドネシア語のほか、ジャワ語、英語、アラビア語、ドイツ語を流暢に操る。あまりに静かな
口調のため、話が聞き取れないことがあるものの、頭脳は明晰で人を引きつけ、機知に富ん だ話し手であった。
1984年にNUの総裁に選出され、1989年、1994年に再選され、次第にイスラム界において影
響力を増した。ワヒドを警戒したスハルト大統領はNUの人事に介入しワヒドを外そうと試みて 失敗した。ワヒドはスハルト体制に批判的であり、1996年のメガワティ女史のPDI党首解任の7 月事件(→397)について公然と政府を批判した。
スハルト体制崩壊後の選挙ではNUの政党である民族覚醒党(→408)を率いて戦った。だが
世俗を超越した宗教家で、意表を突く発言の多いワヒドが"政治家"になるというのは、およそ 想像を絶する事態だった。結果は第4位で12%台の支持しかなかった。その彼が"瓢箪から駒 "のように第4代大統領になった経緯も、国民の支持を失い辞任に追い込まれた経緯も意外で あった。
ワヒド大統領の最大の問題は健康であった。糖尿病と腎臓疾患を患い脳卒中の発作を二度
も経験し、介添人なしでは歩くこともできなかった。不安は的中し、在任中に午後のインタビュ ーや会議では居眠りをした。
加えてその時々の「国会は幼稚園なみ」「閣僚の中に汚職大臣が3人いる」の発言は放言癖
として物議をかもし出し、国民に不信感を植え付けた。
「スカルノ大統領は女にクレイジーであった、スハルト大統領は金にクレイジーであった、ハビ
ビ大統領は単にクレイジーであった」とワヒド大統領がインドネシアの歴代の大統領を評した。 その後、付け加えられたのは「ワヒド大統領は本物のクレイジーである」とか「ワヒド大統領は 周りをクレイジーにする」である。
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初代大統領のスカルノの晩年は不遇であった。輝かしい政治的な業績にもかかわらず彼の
政治路線は抑圧され後継者もないまま死亡した。スカルノの名が持つカリスマ性を警戒した当 局によってスカルノ大統領の子供達は政治から遠ざけられていた。もし政治にかかわればス ハルト体制によって暗殺されたであろう。
スカルノ大統領の遺児(注1)は長男グントゥール、長女メガワティ、次女スクマワティ、三女ラ
チマワティ、末弟グル・スカルノ(Guruh Sukarno 1953- )の計5人兄弟である。デヴィ夫人(→ 263)の娘もいる。
長女メガワティのフルネーム(Megawati Soekarnoputri)にはプトゥリ・スカルノ(スカルノの娘)
が付け加わるように故スカルノ大統領の娘である。母親はファトマワティ(→442)であり、1944年 に産まれた兄グントゥに続き1947年ジョグジャカルタで生まれた。メガワティのメガは"雨雲"の 意味である。
メガワティがチキニ小学校在学中の1957年11月30日に父兄参観日にスカルノ大統領が訪れ
た際に爆破事件が起きた。大統領暗殺未遂のチキニ事件である。大統領の女性問題で別居 中の母に代わり、父スカルノ大統領の外遊に同行し、メガワティは幼い時から政治に巻き込ま れていた。
しかし1965年の9月30日事件(→384)以降スカルノ一族は、忘れられた日陰の存在であった。
メガワティは1968年空軍将校と結婚するも夫は1971年に航空機事故で死んだ。1973年タウフィ ック(注2)と結婚した。彼は国民党(PNI)の幹部として活躍したが、ガソリンスタンド経営の実業 に転業していた。石油独占の国営公社プルタミナ(→531)での石油営業の利権には何らかの 政治的配慮があったであろう。
彼女は父親の失脚後は普通の主婦であったが、時の推移とともにスハルト体制の下でスカ
ルノ大統領の子供というネーム・バリュは逼塞状態の野党には魅力であった。スハルト体制に おいて落ち目の野党のPDI(→393)が起死回生策としてスカルノの子供を担ぎ出した。
1987年の選挙ではメガワティと兄弟が担ぎ出されてスカルノ・ブームを引き起こした。野党の
選挙活動は都市の若者に共感を与えた。スカルノの子供は国会議員となり、PDIは26から40に 議席を大幅に増加させた。1992年の選挙でPDIはさらに大幅に得票を増やし、1993年にメガワ ティはPDI党首になった。
選挙民の大半はスハルト体制以降の生まれである。ちなみにインドネシアの選挙権は17歳で
ある。スハルトにはうんざりしている彼らにとってスカルノの名は魅力的であった。その娘がPD Iを率いるということで、今度こそはと1997年の選挙が期待された。
ガソリンスタンドの女将さんが前歴であるからメガワティの政治手腕が評価されたわけではな
い。スハルト以外なら誰でもよいという現状打破の渇望がみなぎっており、その受け皿がメガワ ティであった。
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2004年11月APEC会議、ASEAN首脳会議において身長177cm、体重84kg堂々たる体躯の新
顔があった。インドネシアの新大統領ユドヨノである。一般に日本人より小柄のインドネシア人 の中ではユドヨノの体格は飛びぬけ立派である。
フルネームのスシロ・バンバン・ユドヨノ(Susilo Bambang Yudhoyono)が長すぎるのでSBYの
略語が定着している。1949年生まれの東ジャワ出身、退役軍人の一人息子、1973年陸軍士官 学校を主席で卒業後、米国ウェズスター大学に留学、国軍のエリート(注1)であった。蔵書2万 冊という読書家であり、インテリとの評判が高い。
1998年の5月事件当時は国軍の社会政治担当の参謀長であった。スハルト下野後、軍のエ
ースとして政界に転じ1999年にワヒド内閣の鉱業エネルギー大臣に就任、2000年の改造内閣 で政治・社会・治安担当調整大臣に就任したが、2001年6月に解任された。2001年8月発足の メガワティ政権では政治・治安担当調整大臣に返り咲いた。ちなみにインドネシアの調整大臣 とは並みの大臣より位が高く、政治・治安担当調整大臣は副大統領に次ぐNO.3である。
メガワティ大統領はポストスハルトの本命と期待されたが、彼女のやったことは自己の権力
維持のための利権のばら撒きだけであった。汚職は利権とともに全国の組織の末端まで蔓延 (まんえん)した。汚職の蔓延は治安の悪化を誘発し、治安の悪化は海外からの投資を逡巡さ せた。
国民の期待を裏切ったメガワティ政権に対して世論調査の結果はスハルト時代の方が良か
ったというSARS症候群(注2)が高まった。国民の心底に潜在していたSARS意識はクリーンな イメイジを伴う国軍のエースのユドヨノに転化された。スハルト時代の国軍に対するアレルギー もユドヨノという個体の強調でうやむやにされた。
メガワティに代わる力のある大統領としてユドヨノへの期待が高まるとメガワティ大統領はユ
ドヨノをインナーサークルが疎外し重要な情報を伝えないなどの意地悪が報道されるとユドヨノ の人気がさらに高まった。
ユドヨノは期待にこたえて大統領選挙出馬にあたっては民主党を結成し4月の総選挙では7.
45%の得票率を得た。5月の大統領選挙では既成政党からの副大統領としてのパートナーの勧 誘を拒み、自らを大統領候補として副大統領候補にユスフ・カラ(Jusuf Kalla)と組んだ。
既成政党の政治基盤はないためTVのメディアをフルに活用した。ユドヨノの選挙運動は失業
率の低下と汚職の撲滅を訴えるだけであったが"ユドヨノ旋風"を巻き起こした。ちなみにメガ ワティ大統領はマスコミを嫌ったし、尊大な振る舞いはマスコミからも嫌われていた。 9月の大 統領決選投票においてメガワティ側の議会勢力の2/3を占める既成政党の包囲網を破って 60%以上の得票率で前大統領を破った。人気投票で大統領になったユドヨノの真価が問われ るのはこれからである。
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