スハルト政権の開発政策の成果としてインドネシアの一人当り国民生産は1960代の200ドル
から約500jとなり、1997年の経済危機の前は1100ドルにまでなったが、1998年にはルピア暴 落のため640ドルとほぼ半減し、元の水準に復活するのは容易ではない。
近隣の他国との比較ではマレーシア、タイ、フィリッピンより低く、ASEAN先発6カ国では最も
低い。しかしスハルト体制においてかつての低所得国から中所得国(注)にまでランクアップし たことは事実であり、ミャンマー(ビルマ)、ベトナム、スリランカ、インドなどかって同程度であっ た他の国と比べると大きく前進した。⇒インドネシアの農村
富裕層と貧困層のギャップが極端で中間層の薄いインドネシアで平均値は複雑である。数少
ない特権階級は庶民と隔絶した世界におり、富はこのような階級に集中している。母集団が正 規分布であれば平均所得はそれなりの意味あるが、富の分布の偏りが著しい場合の平均の 意味はナンセンスである。経済開発の成果を数少ない富裕層が一人占めしても平均値は上が る。中間層の薄いインドネシアの所得の分布は富裕層に偏っている。
平均値という数字の意味する限界を認めてもインドネシア人の所得が上がったことは事実で
ある。しかし中には伝統的な職を失いかえってより貧困になる人もいる。また見かけ上の貨幣 所得の増加は個人にとって裕福になったという意識には必ずしも直結しない。その理由は職業 の転換や地域間の移住に伴う苦痛があり、労働時間が増えたとか通勤時間の増加、特に大 都市における生活環境の悪化で相殺される。
しかし経済成長の結果、失業率は低下し、インフレは抑制され国民生活は向上した。このよ
うに〈最貧国〉グループから〈中所得国〉に出世した所以はインドネシアが資源国で特に石油資 源に恵まれていたこともさることながらインドネシアの経済開発政策のそれなりの成果である。
インドネシアの貧富の差が激しいことは事実であるが、貧しい者にもそれなりの経済発展の
恩恵に浴し、貧困人口の絶対数も減少した。国民所得の向上は国民生活の改善となり目にみ える形でも表われている。街でみる乞食、浮浪者は著しく減少した。食料の自給が可能になり 餓死する人もなくなった。都会の庶民の身なりがよくなった。もちろん熱帯の国であるから衣装 代はたかがしれてはいるが。⇒零細商人
経済成長の成果は平均寿命の伸長、乳児死亡率の激減、識字率の上昇などにも如実に表
われ、32年の及ぶスハルト長期政権のバックボーンであった
現在の位置
インドネシアは資源の豊富な国である。中でもインドネシアの僥倖(ぎょうこう)は石油を算出す
ることであった。1970年代に石油価格の高騰で産油国はオイル・ブームにわいた。石油はイン ドネシアにとってブラック・ゴールドであった。石油資源国であるインドネシアの最盛時の生産量 は150万b/dであり、その7割が輸出された。中東の産油国と比べるとインドネシアの産油量も 少なかったが、有数の石油輸出国としてOPECの初期からのメンバーである。
貿易構造において石油依存が高かった頃、インドネシア経済は"オランダ病"といわれた。金
融用語のオランダ病とは過去インドネシアがオランダの植民地宗主国であったことと関係はな い。1970年代のオランダは北海のガス資源保有国であるためガス輸出により外貨収支は黒字 であり、このためオランダ通貨(ギルダー)のレートが高い目に設定される。自国通貨レートが 高いことにより一般製造業が輸出において不利になる現象である。
インドネシアでも石油による黒字のためルピアは相対的に高くなった。このため石油以外の
インドネシアの産品、特に工業製品の国際競争力が弱くなった。インドネシアとタイの経済水準 は1950年代は同程度であったが、今日では両者の格差が拡大し約2倍もの格差がついた所以 はインドネシア工業の効率化が遅れたからである。
スハルト大統領になってインドネシア経済の発展は開発政策もさることながら、石油収入の
増大がインドネシア経済を浮揚させる効果があった。オイル・ブームの僥倖によって得た資金 がインフラに投じられ、資本財の購入にあてられることによって経済近代化に貢献したことは 事実である。⇒プルタミナ本社
しかしインドネシアではオイル・ブームによる棚ボタの資金が基幹業種(注1)に投じられ、そ
の結果、国営企業の非効率のためハイコスト・エコノミー(→493)を招いた。つまりオイル・ブー ムが無ければ真面目に効率化に取組んだはずであるが、オイル・ブームの僥倖に恵まれ、多 分にして国の面子のために工業化のフルセットを目指した。国営企業による基幹産業の国内 化を図った結果、何時までも保護が必要という旧態依然の経済構造が残存した。この結果が 今日のタイとインドネシアの差である。
インドネシアがどれだけ借金してもなおかつ外国が貸しつづけるのは石油という担保がある
からである。金を貸す人がいるから無駄使いをする。浪費体質は直らないからますます借金は 増える。インドネシアでなくても身近にいる出来の悪い資産家と真面目な勤勉家の10年後、20 年後を比較すれば思い当たる例はあるだろう。資産(資源)は豊かな経済をもたらすとは限ら ない。⇒PAL・国営造船会社
過度の石油依存はモノカルチャー的脆弱を伴った。第二次石油ブーム後の急速な石油の外
貨収入の減少は国家財政にも影響を与えた。石油・ガスがインドネシアにもたらす経済的効果 は石油ブーム時から比べると著しく低下しているが、それでも総輸出・財政収入の2〜3割程 度(注2)は占めている。
現在の位置
インドネシアは独立後、プリブミ化政策によって植民地体制のもとに経済の主体者であった
華僑からプリブミに経済の実権を取り戻そうとし、ベンテン政策(→474)を講じた。輸入ライセン スをプリブミへ優先給付することによりインドネシア人の企業家を育成する試みである。しかし ベンテン政策は見るべき成果はなかった。 ⇒バンテンの胡椒取引
華僑はベンテン政策に「アリババ」といわれる方法によって従来どおり事業を継続した。「ア
リ」はイスラム教徒に多い名前である。「ババ」は中国語の「Mr」である。即ち、アリババとは表 面的にはプリブミに見えても中身は華僑であり、いわばこの隠れ蓑の下で華僑は実際の資本 を所有し経営するという経済活動をさす造語である。
ベンテン政策はプリブミによる民族資本の育成を図る政策であった。しかしインドネシア人は
名義貸をするだけで輸入ライセンスは2〜2.5倍のプレミアムで転売できたので、期待されたプ リブミ企業家は実態のない利権商人に堕した。
その後のスハルト体制下の開発重視政策では華人は排除されるのでなく、華人の経済力を
活用する方針になった。外国資本の進出を認め、合弁による工業化推進策がとられたが、実 際に外資の合弁相手となるインドネシア側パートナーになりうる経済力があり、企業の運営能 力を有するのは華人であった。
スハルト体制下で事業を営む華僑はインドネシア国籍を取得し華人となり、同化政策を受け
入れて名前を改名していたので、プリブミ化ではなくインドネシア化が経済振興政策の表看板 となった。
経済における華人への差別はなくなったことからレプリタ(→477)による工業化政策に華人が
進出した。しかし1974年のマラリ事件(→390)で経済開発の成果が華人ばかりが潤うことへの 反発から体制を揺るがす暴動となった。1974年からの第2次レプリタでは許認可についてはプ リブミ優先策が講じられ、ここでまたアリババが復活した。 ⇒国内海運流通
例えば社長がプリブミの企業であっても名義上であり、実質オーナーは華人というアリババ企
業が存在する。コングロマリット(→519)という事業細分の複合体は税務対策もあるが、許認可 取得の便法もあるだろう。ちなみに現在ではアリババとはインドネシア国籍であっても実質は 昔の華僑の変身に過ぎないという意味のようである。
プリブミ優先の弊害は大統領の家族優先にすり替えられ、ファミリー企業(→492)が跋扈(ば
っこ)する拠り所となった。ファミリー企業のオーナーが外国人記者との会見で特権を指摘され ても、「放置しておけば華人企業ばかりになる。自分等はプリブミ企業である」というのが最後 の開き直りであった。
アリババは華人企業全体に対する揶揄(やゆ)であろうが、「アリサン」という言葉もある。アリ
サンの「サン」は日本語の「○○さん」で、要するに合弁で日イ対等の企業も実態は日本企業 である、との意味である。
現在の位置
スハルトが大統領になった当時、軍のスタッフは経済を知らないことから経済は専門家に任
せた。スハルト体制でインドネシア経済の復興と発展は目覚しかったのはこれらの経済の専門 家によるところが大である。
推進者となったのはウィジョジョ・ニチサストロ(Widjojo Nitisastro)、アリ・アルダナ、モハマッ
ド・サドリ(Sadli)、エミール・サリム(Salim)、スブロトなどの米国やカナダで経済学を学んだ経 済学者であり、市場重視の新古典派経済学派に属する。彼らはスミトロ教授(→476)の率いる インドネシア大学(UI)の経済学部に陣取っていた。 ⇒UI 経済学部
インドネシアでテクノクラートとは経済学専門家の特定集団の固有名詞である。テクノクラート
の多くがカリフォルニア大学バークレー校で学位を得たため「バークレー・マフィア」ともいわれ る。マフィアとは穏やかでない呼称であるが、彼らはスハルト体制に個人的スタッフとして政権 に参加し、政治的野心がないことから並みの閣僚以上に大統領への影響力を持ったことを揶 揄(やゆ)したものであろう。
そもそもUIの経済学部は1950年代にアメリカのフォード財団の援助で設立され、アメリカから
教材や教授が送り込まれた。UIの卒業生はアメリカの大学に留学した。インドネシア経済の担 い手として、これらのテクノクラートが活躍できたのは米国の大学、世界銀行、IMFを中心とす る国際エコノミストのネットワークに属しており、身内として英語でのコミュニケーションが可能で あった。経済理論もさることながらネットワークのコネが役立ったことである。
テクノクラートは国家開発企画庁(BAPENAS)を中心に財務省、商業省、鉱山・エネルギー
省、投資委員会などの経済官庁を牛耳(ぎゅうじ)った。インドネシアが開放政策で外資導入を 行いながらタイミングよく国際支援を受け、インドネシアの経済成長をもたらした。
しかし内閣改造の都度、テクノクラートは姿を消している。1993年の内閣改造でウィジョジョ、
アリ・アルダナ経済調整大臣も現役を退いたが、大統領最高顧問としてインドネシア経済の信 用をつないだ。 ⇒IT産業
一方、スハルト大統領のブレインとしてハビビ技術担当大臣(→401)が重きをなすようになり、
科学技術応用評価庁(BPPT)に陣取り技術を統括した。経済テクノクラートは国内の技術水準 を遊離したIPTN(→533)などのハビビ・プロジェクトを批判した。テクノクラートの陣取る BAPENASとエンジニアーの陣取るBPPTはいわば“天敵”の関係であった。
しかし技術オタクのハビビ大臣は1993年以降のスハルト体制では優位になり、1998年には副
大統領にまで上り詰め、国威のための技術優先の前に経済学は後退した。クリスモン(→480) の原因にはインドネシア経済のバブル化を阻止する者がいなかったこともあげられよう。
BAPENASはスハルト時代のインドネシア経済を象徴する存在であったが、ワヒド内閣によっ
て歴史的役割を終えたとして改組された。
現在の位置
2000年末のインドネシアの対外債務は約1467億ドルである。政府債務が800億ドル、民間債
務が667億ドルといわれる。政府債務は1996年の約600億ドルが1997年の通貨危機で増加し た。民間債務は金融の自由化以降、急速に増えた分で通貨危機以降は低下しているはずで ある。
世界の対外債務大国はアルゼンチン、ブラジル、メキシコ、トルコ、韓国、中国、インドネシ
ア、ロシア、ポーランドである。このうち問題のアルゼンチンやブラジルは債務不履行の瀬戸際 にあるといわれた。メキシコ、トルコに続いてインドネシアが心配であるというのが通貨危機前 の国際金融筋の観測であった。
通貨危機によってIMFを中心に緊急融資が行われ、その後のインドネシアの資金需要に対し
てはCGI(→483)の枠組みを超えて日、米、加、英、仏、豪、アジア開発銀行、世界銀行、IMFな どの21カ国、11国際機関が参加して協調融資が行われた。
返済期限の到達した政府債務についてはバリ・クラブ、民間債務についてはロンドン・クラブ
でリスケ(返済スケジュールの調整)が行われた。所詮、リスケは返済時期の猶予であり債務 金額が減少するわけではない。⇒借款反対デモ
国の借金の健全性(注1)は年返済額が年輸出額の20%以下であれば良いとされているが、
インドネシアではボーダーラインに達している。国民総生産2000億ドルの規模に対して対外債 務が50%を超えていることからもインドネシアは多重債務者である。
インドネシアに対する最大の債権国は日本である。アジア開発銀行融資もその源泉の70%は
日本だからである。日本の海外協力基金(ODA)の最大の享受国はインドネシアである。インド ネシア側においても日本が最大の供与国である。しかしながら日本のODAは表面的には感謝 されても裏では“ATM(現金自動支払機)”とからかわれている。
そもそもインドネシア側からODAプロジェクトの目録が提出されるが、多くは日本の商社が下
準備したものである。日本からの進出企業にとってODAプロジェクトはおいしい事業であり、北 海道のS代議士のような輩(やから)が暗躍する。Sがインドネシアの利権に絡んでいるという証 拠を持ち合わせているわけではない。しかしあのような政治屋がインドネシア利権を座視して いるはずはないという下司(げす)[私のこと]の勘ぐりである。
日本は恩着せがましくODA資金を与えているが、日本企業のためのODAである。そしてプロ
ジェクト実施にさいしては利権がらみの不明朗な金が動く。日本のODA資金は汚職の種をばら 蒔いているだけという厳しい評価(注2)もある。 ⇒コトパンジャン・ダム訴訟
コトパンジャン・ダム(→090)日本が単独で出資したプロジェクトである。工事の主体はインド
ネシア側であるにもかかわらず、日本のODAのために貧乏になったとして日本国相手にインド ネシア側住民から日本の裁判所へ訴訟が行われた。筋違いと門前払いされるであろうが、感 謝されない日本のODAの一端を示している。
現在の位置
インドネシアの開発予算の10〜20%は別の用途に使われるといわれる。開発予算はブラック・
ホールである。資金を費やしても吸い込まれるだけである。想像できるのは600万人の公務員 の給料が公式には低くても彼らの生活が成り立つのは財務省の関与しないインフォーマル給 与があるからである。闇給与の主財源が開発予算であることは誰もが認識している。
開発予算の水漏れの規模は省庁によって差がある。多いのは内務省、移住省、森林省であ
り、予算の25%以上といわれる。公共事業省、教育省、農業省、環境省、運輸省、宗教省は15 -25%程度らしい。水漏れのプロセスはまずプロジェクト担当省庁である国家開発企画庁=バ ペナス(→476)に3〜5%を払う。プロジェクトのオーソライズの元締めへの挨拶である。海外援 助プロジェクトは2%先払いで、決まれば数%追加払いする。次ぎに金庫番の財務省に1〜2% 払う。⇒灌漑施設
プロジェクトに伴う土地は地方政府が先行取得しているので予算との差額が流用できる。土
地購入費は50〜80%が流用される。言いかえれば土地が安く手当てのついたものだけが国 家プロジェクトとなる。
コンサルタント、建設会社あるいはメーカーが契約を獲得するためには入札資格適任業者に
選考されねばならない。そのために1%未満を払う。入札業者は当局の意向のもとに談合を 行い、当局とすべての入札業者が満足するような業者選定が行われる。契約調印の際には落 札業者から約束のバックペイが払われる。
さてプロジェクトの実施に際しては中間報告書や請求書の作成に0.5〜2%が会計監査院や
支払い機関に払われる。政治家への献金も必要である。最後に監査機関が監査結果をその まま報告しないように手数料が払われる。
インドネシアでは窓口業務の手数料の上乗せは汚職と認識されているが、開発予算の流用
は汚職というよりはインドネシアの給与補完のシステムである。この忌まわしいプロセスがイン ドネシアでの事業のやり方として認知されており、システム自体は批判されない。
スハルト大統領とその一族はこのシステムに乗っかって不当に利益を一人占めしたことが国
民の批判を受けた。スハルト大統領が辞めて一族のピンハネはなくなったが、インドネシアの 汚職は健在であり、地方分権で中央から地方にもミニ・スハルトが蔓延(はびこ)るようになり以 前よりひどくなったと言われる。 ⇒汚職反対デモ
開発予算の元はODAによる外国援助である。インドネシアODA資金の最大手は日本である。
政府高官のドラ息子が高級車に乗り回しているのを見ると汗水流して駆け回る日本人駐在員 の気持ちは複雑である。
インドネシア人の心ある人からも日本の援助は基礎教育と農業技術者の派遣だけでいい、無
償にして欲しい、現金でなく現物がいい、という声がある。
現在の位置
経済的センスにおいて華人が一般のインドネシア人より秀でていることは事実である。しかし
インドネシアの代表的な華人系のコングロマリットといわれる大企業の所有者はその能力だけ で今日の地位を築き上げたものではない。彼らは政治権力に媚びることによる特権を得たに すぎない。スハルト時代は特に顕著であった。
政商の華人企業はチュコン(cukong 政商)として嫌われている。インドネシア企業のランク表
はさながらチュコンのランク表である。
チュコンの代表ともいうべきスドノ・サリムは一代にしてサリム・グループというアジア屈指の
財閥を築いた。サリム・グループの大きな特色はスハルト大統領一族との癒着(ゆちゃく)であ る。スハルトが大統領の座に座るや、ディポヌゴロ師団長の頃からの腐れ縁のサリムは丁子 (ちょうじ)輸入権の特権を手にした。サリムは権力に取り入り、スハルト一族との共同事業によ って事業を拡大した。
グループの中核であるインドネシア最大の民間銀行バンク・セントラル・アジア(BCA))をはじ
め、サリム・グループの企業の株主にはスハルト夫婦一族と家族が名を連ねた。スハルト一族 が身銭をきって出資したとは思えない。一族の役割は事業許可の特権を得ることである。その 見返りは高額の配当である。
スドノ・サリムは世界有数の資産家としてランクされるようになった。彼はインドネシア国籍を
取得したからインドネシア人である。インドネシアから世界有数の資産家が出たことは慶賀す べきである。バルセロナのオリンピックで中国系インドネシア人がバドミントンで金メダルを取っ た時はインドネシア中が興奮した。サリムが資産家ランキングで世界有数であったにもかかわ らず、インドネシア人は慶ばないのみならず嫌悪感を露にした。インドネシア人の嫉妬だと等閑 視はできない。 ⇒地方のBCA
もう一人のチュコン代表のボブ・ハッサンは森林伐採のライセンスで巨万の富を築いた。合
板協会を設立し全インドネシアの木材輸出をコントロールし、インドネシアの「森林王」とか「合 板王」といわれた。自動車や鉱山事業にも触手を伸ばした。
スハルトの退陣とともにスハルト時代のチュコンのいくつかは90年代末の経済危機を乗り切
れなくて消滅した。しかしチュコン企業とはインドネシア経済に内臓化されている仕組みといえ る。スハルトが居なくなれば新たな政権との癒着(ゆちゃく)の企業が現われる。チュコン企業の 顔ぶれに変化はあってもチュコン企業はなくならない。
ちなみにスドノ・サリムの事業はスハルト大統領の失脚後、BCAの国有化に伴いは没収され
た。本人はシンガポールか香港辺りでインドネシアから略奪した資産で左団扇(ひだりうちわ)で あろう。
現在の位置
スハルト大統領が異常なまでに権力に執着した理由はファミリー・ビジネス(注)であった。沸
きあがる世論に押されてスハルトは降板し一族のファミリー・ビジネスは槍玉に上ったが、基本 問題は解決されない。スハルト体制の中で大統領を見習い、政府高官によってそれぞれのフ ァミリー・ビジネスがごまんとある。ファミリー・ビジネスはスハルト大統領固有の問題ではなく、 インドネシア経済に巣食う弊害である。⇒公共事業投資
国の経済発展に貢献した大統領であるからファミリー・ビジネスの少々の財産をあげつらうほ
どインドネシア人の器量は狭くない。しかしスハルト自身の蓄財は度を越していた。義兄弟、夫 人の兄弟に加えて、息子の事業は数年でインドネシア有数の財閥になった。
やっかいな家族はシンカタン(→964)でPPP(Putra Putri Presiden=大統領の息子と娘)とい
われた。ビジネス界でスハルトの息子3人をまとめていうのにTOSIBAさんといった。三男のトミ ー、長男のシギット、次男のバンバンのシンカタンである。政府公認のシンカタンではないので 隠語的に使用され、ファミリー・ビジネスに対する揶揄(やゆ)である。
3人でも次男のバンバン(→526)と三男のトミーの事業が突出していた。スハルト末期に
TOSIBAさんはSOSといわれた。その心は"Sons Of Suharto"である。ビジネスマンにはSOSは 使いようで利益を得る人もいたかもしれない。国家にとってはまさにSOSであり、5月暴動の起 因になった。
彼らがビジネスの天才であるがごとく振舞っているが、あらゆる許認可がらみの事業には必
ず割りこんでくる。個別問題に大統領が指示したことはないかもしれないが、国を挙げてファミ リー企業を優先し国家を食い物にしてきたのがスハルト体制であった。
利権一族の強欲にブレーキはかけられぬ。親の背を見て子は育つ。スハルトの孫まで利権
レースに参加した。長男の息子のアリ・ハルヨ・シギットは肥料ペレット販売独占権を得た。バリ 島のビールへの課税問題でホテル側が購入を拒否したことからバリ島でビールがなくなるとい う事件があった。その背景は孫の会社がビール税徴収を独占で請負ったためである。
大統領一族の行動だけが特殊ではない。政府高官の家族は競って事業に参加し、スモー
ル・スハルト一家がインドネシア中に溢れかえっている。
ファミリー・ビジネスが批判された際にファミリー・ビジネスの進出分野は新規事業が多く既存
の事業を取り上げたものでない、あるいは新事業が華人企業に委ねられるよりプリブミにやら せる方便である、という理屈である。⇒インドネシアを覆う暗雲
放送、通信、自動車、高速道路など発展が期待される事業にファミリー・ビジネスが縁故によ
り決められたことは健全な経済の発展を損なうのみならず、為政者がファミリー・ビジネスによ って国家を食い物にする実態を目の当たりにすれば、国民の国家への忠誠は揺るがすことに なり国家存亡の問題である。
現在の位置
ハイコスト・エコノミーとはインドネシア経済の効率の悪さをバークレー・マフィア(→488)が自
嘲し、効率化の必要性を説いたものであろう。インドネシアの工業が保護段階を脱せずに高い 関税や非関税障壁に守られていることがインドネシア経済の高コスト化をもたらしていること で、その代表的事例は基幹産業である国営企業の効率の悪さである。
鉄鋼業の国営会社KS(→532)は1979年から操業を開始した。建設費が高いため固定費償却
の負担があり、低操業率のためたちまち赤字に直面した。KSは政治的理由から建設された鉄 鋼工場であり、当初から設計に問題がある上に個々の工場の建設を別々に国際入札にした ため工場間の有機的結合がなされていない、そこへインドネシア的官僚マネージメントを行え ば結論は明らかである。⇒タンジュンプリオク港
政府はKSの救済と保護を目的に輸入鋼材の集中購買制を1980年から実施した。その主旨
はKSを鉄鋼流通センターに指定し鋼材の独占輸入を認めた。この制度によってKSは輸入品 との競争を回避できるのでインドネシアの鋼材は国際水準より3割は高いといわれる。
悪名高い集中購買制は鉄ばかりでなく、石油化学工業保護のためプラスチック原料など他
の品目にも拡大した。
1982年の総代理店制度は代理店を整理統合し専門化を図ることにより、標準化とアフターサ
ービスの向上をはかるという謳(うた)い文句である。実際は代理店が政治家や官僚、軍人の 利権化して国民経済のコストアップにつながる。
インドネシアには国軍所有の企業がある。独立戦争当時から軍事予算の不足を軍に与えた
経済利権で補ってきた慣習が今日も幅をきかせている。
国軍企業は利権を取得して経営は華人に委託し利益を得てきた。事業には精米所、長距離
バス、ホテル、銀行、農園、航空、海運、外車販売がある。これらは許認可事業であり、軍が 影響力を行使する。大型プロジェクトの開発権、許認可、輸出信用など金づるになる利権には 軍のヤヤサン(→748)が加わっている。軍企業の存在はインドネシア経済のハイコスト・エコノミ ーの要因である。⇒マンパワーの荷役業務
インドネシアの製造業者の割高コストは消費者が負担する。国内は国産品愛用のキャンペー
ンで押し切っても、割高原料を使用すれば輸出競争力に劣る。国産品使用強化運動の実施に より政府の審査と称して外国援助案件の資材調達に干渉しプロジェクトの遅延化を招いた。こ れらはすべてコストアップ要因となる。インドネシアが輸出産業の育成をし損なったのはハイコ スト・エコノミーのためである。
インドネシアの製造業への不当な負担を取り除くために、1986年以降は輸入規制と特権集
団の保護は撤廃される方向にはある。輸出業種には関税を免除して国外企業と競争条件を 同一にする制度もできた。しかし制度はできても手続きの煩雑さが残る以上インドネシアの輸 出企業がハンディを背負うことは間違いない。
現在の位置
インドネシア通貨は独立前のオランダ領東インドの「ギルダー」であったが、独立によって「ル
ピア(rupiah)」が採用された。独立後の経済混乱時代にはインフレの収束のため高額紙幣の 無効という"徳政令"が出されたこともあった。高額紙幣の所有者は余裕のある華僑である、と いうプリブミ政策(→474)をかねていた。
経済の混乱が続いたスカルノ大統領の末期のインフレによる物価上昇率は年600%に達し
た。スハルト大統領以降は経済成長に伴い通貨も安定した。物価上昇率は数年を除くと一桁 に留まった。一桁台ということはインドネシアの通貨史において奇跡的な安定である。インドネ シアは第一次・第二次の石油危機(石油生産国ではオイル・ブームという)の際のドル収入が インドネシア通貨の基盤であった。 ⇒1ルピア(1961年)
しかしオイル・ブーム時の35ドル/bの石油価格は1986年には10ドル/bに値下がりし、石油依
存の経済は低迷した。非石油(ノンミガス)の輸出奨励が図られたが、石油依存の経済から輸 出指向経済を目指すにはオイルで支えられた割高ルピアが足枷(かせ)となった。
1983年3月に28%、1986年9月に31%のインドネシアの対ドル通貨レートの切下げは外貨事情
が差し迫っている時でもなかっただけに驚きで迎えられた。
通貨の切下げは輸出競争力の強化につながるが、一方では対外債務のルピア換算額が増え
ることであり、輸入産業にとっては大きな痛手であるため、果断をもって実施しないと経済へ悪 影響を与える。
ルピア切下げによってインドネシアの工業製品の輸出が増えたという結果から見れば通貨切
り下げは成功した。輸入産業にはインドネシア経済効率化転換へのショック療法となった。
ルピアは米ドルに対して為替の切り下げに加え、円の対ドル切り上げのため、円に対しては
一層の下落となる。この結果、インドネシアのバチックや木彫りなどの民芸品の土産物もルピ アではそれなりの値上がりはしているが、円からみると大幅の値下げであった。このレートでイ ンドネシアの繊維産業の輸出競争力は増しメイドイン・インドネシアの衣類が日本のスーパー にあふれるようになった。
1990年代になってインドネシア通貨への信頼がまし、外国資本は争ってインドネシアへ進出
した。その結果、国民所得の向上、インフレ率の低下をもたらしインドネシアの90年代のインド ネシア経済の好調をもたらした。⇒偽札の摘発
しかしながら1997年夏に始まった通貨危機は経済の実態とは関係なく投機筋の思惑に翻弄
されてルピアの大幅下落になった。インドネシアの金融当局の管理できない変動は経済混乱 の悪循環を招き、ルピアの最安値は16000ルピア/ドルにまで達し、インドネシア経済は破綻し かけた。
その後、インドネシアの政権の安定に伴いルピア高になり7000〜8000ルピア/ドルで安定す
るようになったが通貨をもてあそぶ国際投機筋が存在する限り予断は許さない。
現在の位置
1995年、建国50周年を記念してスハルト大統領の肖像の5万ルピア紙幣がインドネシア銀
行(BI)により発行された。石油精製工場、天然ガス工場、高速道路が描かれ肖像画の下には 「インドネシア開発の父スハルト」と書かれている(注1)。裏面にはスカルノ・ハッタ国際空港(→ 851)の説明と共に、離陸するガルーダ航空(→850)が描かれ開発政策の成果が誇示されてい る。⇒スハルト紙幣
しかしスハルト大統領の不名誉な退任後の1999年6月より5万ルピア紙幣の肖像はスパラット
マン(→297)に交代し、2000年7月以降はスハルト紙幣の通用禁止になった。権勢者の凋落を 象徴している。ところがスハルト紙幣は流通期間の短かったので希少価値があり、コレクター の間で人気が高く5万ルピア以上で取引されているらしい。切手も同じである。
現在の最高額紙幣は1999年11月に発行された10万ルピア札である。デザインは建国の父ス
カルノ大統領とハッタ副大統領である。
仮に2003年8月のレートでは1万円は約70万ルピアである。両替すると10万ルピア札70枚の
紙幣は財布にも入りかねる。大金持ちになった気分になれる。ちなみに買い物で高額紙幣で の支払はお釣が誤魔化されるリスクがある。
支払に便利なように銀行で1万ルピアに代えると 紙幣は数える便宜のため両替所で10枚単
位にホッチキスで留めてある。使用する際にはホッチキスを剥がすので紙幣は穴だらけであ る。紙幣をホッチキスで留める慣習はインドネシア以外には見慣れない。インフレの後遺症で あろうか。 ⇒値下がりのルピア
家具など少し値がはる買物は"0"の数に気をつけないと単位を1桁勘違いすることがある。
このため高額の商品の価格には「Juta」が用いられる。「Juta」とは百万のことであり、略して 「JT」である。商品でなくサービスもJT単位である。ちなみに駐在員のKITASの更新手数料は 2JTであるが、チャロ(→878)に頼むと14〜15JTになり、不快感がわくほどの巨額数字である。
低額紙幣は真っ黒に汚れている。病原菌の固まりのように見える。潔癖症の人は紙幣に触
る時はティッシュを介する。ドル札も通用するが、汚れていたりすると銀行でも受け取りを拒否 される。あるいは交換率を下げられる。
物価に関連してスンバコ(Sembako)という言葉がある。スンバコは生活に必要な9種類の食
品等を表し、Sembilan(9)Bahan(物)Pokok(重要)の略語である。9品目とは@.Daging,ikan(肉 /魚)、ATerigu(小麦粉)、BBeras(米)、CKedelai(豆)、DMinyak(油)、EGula(砂糖)、F Margarin(マーガリン)、GGaram(塩)、HTelor(卵)と記したものがあったが、この他には唐辛 子、鶏肉、牛乳や石油という説もある。
要するにスンバコとは生活必需品(注2)という意味で9の数字の意味はなく、日本で法律を
全部併せて六法全書というように形骸化したのであろう。
現在の位置
インドネシアの絶対的な資本不足のため市中金利は10%以上と金利水準が高く、為替の安定
も見込まれた時代には高金利を求めて多額の資金がインドネシアに集まった。集まった資金 の運用先が土地やビルなど不動産に偏っていたことは日本のバブルの再現であった。これら は銀行間貸付の短期債務であり、通貨が安定している時には問題はなかった。
銀行の放漫経営の結果が1997年に始まった通貨危機による打撃である。タイに始まるアジ
ア通貨の不安はインドネシアに波及し、ルピアに対する不安感が強まり一斉に短期貸付外債 の回収を始めた。 ⇒街角の銀行
外銀への返済資金を集めるためにドル買いが始まり、ルピアは急速に下落した。暴落するル
ピアで対外民間債務のルピア換算額は膨らみ、銀行はたちまち経営危機に陥った。
IMFはインドネシア支援の条件に以前から経営に問題ある銀行の清算を求めた16行には大
統領次男のアンドロメダ(Andromeda)銀行と異母弟プロポステジョのジャカルタ銀行などのファ ミリー銀行が含まれていた。
銀行危機に際して中央銀行の特別融資とともに1998年1月に銀行再建庁(IBRA)が設立され
た。54銀行がIBRAの管理下に入った。ちなみにバリ銀行も国有化されたが、その際の不明朗 な資金の流れでハビビ大統領の再選が阻まれた。
チュコン(→491)として悪名高かったサリム・グループ(→523)のBCAも免れなかった。インドネ
シア最大の民間銀行BCAはスハルト大統領の失脚に伴い取付けにあい閉鎖した。1998年5 月、IBRAの管理下に入り国有化された。⇒預金払出の行列
それでサリム財閥も破綻したかというとそうではない。サリム一族の財産は国外に移転され
ていた。悪意をもってリムのビヘイビアを解説すればBCAは国庫から資金を出させ、リムの事 業につぎ込んだ。グループ内の操作でインドネシアの企業は赤字にし、グループの国外事業 に利益を出す。儲けは国外に移転してあったからインドネシアの自分の銀行や企業が破綻し ても高みの見物であった。インドネシアの銀行や事業は担保価値のない人のフンドシであり、 本当の自分の金はシンガポールなり香港なりに逃避していたから資産以上の不良債権を抱え た銀行というドンガラだけがインドネシアに残った。
IBRAの再建策によって13の民間銀行が国有化後4行に整理され、67の銀行が凍結・清算さ
れた。国営商業銀行も同じく経営危機にあり、4行あった国営銀行は新銀行のマンディリ (Mandiri)銀行に統合された。
銀行への国有化、資本注入、特別融資などの資金源は国債であり、その発行累積残高は
430兆ルピアという超天文学的数字である。
破綻した銀行のリストを見るとコングロマリット(→519)系銀行が軒を連ねている。結果的に見
ると1980年代に進めた早すぎたインドネシア金融自由化政策は無防備のまま国際金融の波に さらすことであった。インドネシア金融の破綻という大きな禍根を残した。
現在の位置
インドネシアはIMFに支援を要請し、1997年11月5日に100億ドル規模の融資を約束し、その
他に世界銀行45億ドル、アジア開発銀行35億ドルの支援をコミットした。国際機関による180億 ドルに加え、補完準備として日本(50億ドル)、シンガポール(50億ドル)、米国(30億ドル)など 計162億ドルの支援が約束された。
IMF融資を受けるに当たって一連の経済政策の実施が条件とされた。その条件はプログラム
と称し、インドネシアの場合は金融政策についても存続不能な金融機関の整理(注)を求め た。また、インドネシアの農産品の輸入・販売独占と価格規制の3年間での原則廃止、上場企 業への外国投資家の49%の所有制限廃止、外国投資家に業務領域の拡大など広範囲の規制 緩和や対外開放措置が含まれていた。
IMFの要求に対してスハルト大統領は受け入れざるを得なかった。これでルピアの下落は止
まるはずであった。韓国やタイではIMFの支援が明らかになったことで下落は止まったが、イン ドネシアではその後もさらにルピアは下落した。
スハルト大統領はIMFのプログラムに署名はしたが初めから実施するつもりはなかったのか
もしれない。大統領は身内の銀行閉鎖が含まれていることを知らずに署名したともいわれる。 インドネシア側が知らぬ顔をしてIMF御託(ごたく)と反対の予算案を作った。
IMFのプログラムは当面の通貨を安定させ、経済の構造を改革するものであったが、インド
ネシアでは経済より不安定にした。不良銀行の整理の噂は健全な銀行にまで取付け騒ぎをも たらした。石油への補助金廃止は国民の物価上昇反対運動をもたらした。
国民にはIMFのビヘイビアは国民にばかり犠牲を押し付けるように見えた。IMFのシンカタン
(→964)はIni Milik Famili(これはファミリーのものだ)はIMFへの反感がスハルト体制への反感 と直結する政治問題へ発展した。⇒IMFへの抗議デモ
結果から振り返るとIMFのインドネシアに対する経済構造改革要請の談判は強引であった。
火事で駆けつけた消防車が燃え盛る火を前に出火原因を究明し防火管理を約束するまで放 水をしないというのと同じ理屈である。
この結果、通貨危機という出火は経済危機という大火となりスハルト大統領は退任を余儀な
くされたのみならず、インドネシア経済は破滅し容易なことでは立ち直れない打撃を受けた。
この間の経緯はIMFの見通し誤りというよりはアメリカの謀略の臭いさえ窺える。某説によれ
ば、アメリカはIMFを隠れ蓑にしてインドネシアという一番弱い所を見つけ出し、突出するアジア 経済潰しを意図的にやった。鈍重のマンモス化した日本を泥沼に追い遣り、小癪な韓国をつき 落とし、中国の出鼻を叩いた。
アメリカが中南米という厄介(やっかい)な荷物に苦しんでいるように、アジア(特にインドネシ
ア)を日本の荷物にしようという魂胆である。確かに日本がアジアに手をとられて身動きできな くなっている間にアメリカは世界経済の主導権を取り戻した。
現在の位置
スハルト体制下の開発政策による経済成長は一方では色々な歪みをもたらした。都市の過
密問題、環境破壊、公害などの社会問題を引き起こし、これらの問題は現代社会の様相とし てF-13章を設けた。国家資金がジャカルタと周辺の西部ジャワ州のインフラ整備へ集中的に 投じられた結果、経済発展の恩恵を受けたのはジャワ島であり、外島(→019)は発展から取り 残されがちであった。 ⇒援助に群がる人
スマトラ島やカリマンタン島では石油・天然ガスや森林資源の富がジャワ島に収奪されている
という意識が強まり、資源保有州の憤懣が高まった。天然ガスを産出するアチェ州の分離独 立の要求の背景である。
分配の問題があるにしろ資源のある地域は何がしの分与があったが、これといった資源の
ない“東インドネシア”では貧困から脱却は困難であり、地域間格差問題が顕在化した。インド ネシアの一人当たり所得の最も少ない地域は東ヌサ・トゥンガラ州、マルク州である。イリアン 州は資源豊富であるにもかかわらず住民の所得は最低レベルである。世界の“南北問題”は インドネシアでは“東西問題”である。⇒貧困の東インドネシア
インドネシアの地域間経済格差は拡大の傾向にあるため、政府では東インドネシア対策が行
われている。例えば税制で特別措置が講じられており、外国資本誘致のため東インドネシアへ の投資には出資比率の緩和、インドネシア化移行時期の延長などの優遇策がある。
地域振興のため若干の近代的な合板工場やリゾート・ホテルが東インドネシアに建設された
が、従業員の多くはジャワ島からの出稼ぎであり、所詮は蜃気楼のような存在である。
ジャワ島の中でも地域格差が目立つ。植民地時代は中部ジャワや東部ジャワが経済的先進
地域であったが、スハルト体制下ではジャカルタとその周辺地域が急速に発展し、ジャワ島の 中でも中部ジャワや東ジャワと逆転しその格差は拡大しつつある。
工業化への集中投資のため都市は発展したが、農村は取り残された。都市と農村の格差是
正のため地域開発として導入されたのがインプレス・プログラム(Impres Program)である。イン プレス・プログラムとは大統領令によって定めた特定事業について村単位の地方自治体が策 定したプロジェクトの実施にあたっては、州政府をパスして直接に地方自治体(→371)に開発 補助金を供与するシステムである。 ⇒ニューリッチ
この制度は地方における計画立案、実施能力のレベルアップになる。一村当り150万ルピア
(1988/89年)の村落への交付は地域振興の有効なインセンティブ(注)となったが、農村の貧困 問題の抜本的解決にはなり得るほどのものではなかった。
ちなみに資金が銀行送金によって直接に末端自治体に振り込まれるということは、州・県を
通して交付されると最終目的の所に着くまでにピンハネされて目減りするというこれまでのイン ドネシアの官僚システムの慣行の是正というメリットもあった。スハルト政権の政策の中では光 っている。
現在の位置
インドネシアの労働人口は9千万人の規模であるが、雇用労働者として認識されているのは2
千万人で労働人口の20%台にすぎない。また完全失業者として把握されているのは僅か2〜3% という少なさである。
統計が整備されていないのでこの辺の数字は資料によって大きく異なる。また就業という概
念が国によって異なる。西欧諸国と比較すればインドネシアの就業の範囲が広く、西欧の失業 者もインドネシアでは就業者に含まれる。定義の異なる失業率であるから国際比較自体がナ ンセンスである。
あいまいな就業はインフォーマル・セクター(→729)に整理される。つまりインドネシアの労働
事情は〈インフォーマル・セクター〉と〈雇用労働者〉の二重構造である。後者については労働組 合により権利は保護されている。スカルノ時代に政党毎に乱立していた労働組合はスハルト体 制の下で1973年に統合され、全労働組合は全インドネシア労働組合(SPSI)に一元化された。 組合を体制下に組み入れることで労働問題が起きないことをPRし、外資のインドネシア進出を 促す意図があった。⇒溶接作業の労働者
スハルト時代の労使関係はパンチャシラ(→366)労使関係といわれ終身雇用と労使協調を推
進するものでゴトン・ロヨン(→593)の発展として労働者と使用者は生産面、利益配分面、責任 分担面で協調しようというものであった。
しかしスハルト体制の崩壊とともに労働をめぐる勢力関係は様変わりした。レフォルマシ(→
406)によって政権に参加した闘争民主党が選出した労働大臣になると労働組合の要求を何で も聞き入れた。スハルト体制下の1997年に制定された労働法は労働者の権利の保護が十分 でなかったため、スハルト政権倒壊後はレフォルマシという名の下に労働組合は乱立し、ストラ イキが続発した。
インドネシアの外資系工場は比較的恵まれた条件にあるが、さらにタカるため不法ストライキ
を行う。ストライキも暴動事件にまで煽る煽動者が表われ、インドネシアの労働界に何でもあり のアナーキをもたらした。 外資のインドネシアへの新規進出のみならず復帰が停滞している理 由の一つは労働法が未整備であったことである。
その後。新労働法が制定され労働問題の基盤整備はできたが、賃金割高問題が残ってい
る。インドネシアでは労働者が生活に必要な金額をUMR(upah minimum regional=最低賃金規 定)として州別に算定し公表する。違反企業には罰則が課せられる。スハルト体制では外資導 入のため賃金を抑制する傾向にあったが、レフォルマシ以来、闘争民主党の影響でUMRも労 働側寄り(注)に定められている。
外資にとっては中国の天安門後遺症が薄れてきた。積極的に外資導入策に転じた中国との
質を加味した労働コストの比較においてインドネシアの不利が明らかになりつつある。外資が インドネシアに腰が引けるのは労働組合にも原因がる。
現在の位置
ジャカルタ郊外にある日系資本の工場は朝礼によるラジオ体操から始まる。代々の日本人ト
ップが嫌がるインドネシア人に規律をもたらすために営々として築き上げた成果である。インド ネシア企業の中で日系企業の目立つことは日本人の清潔好きである。ある合弁会社では5S を提唱している。「5S(注)」とは即ち、整理・SEIRI(Sortir=Pemilihan),整頓・SEITON(Atur= Keterraturan),清掃・SEISO(Sapu=Kebersihan),清潔・SEIKETU(Bersikan=Bers dan Rapi), 躾・SITUKE(Disiplin Diri=Etiket dan Ketertiban)の重要性である。
工場を美しくするという発想はインドネシアにはないらしい。そのような金があれば本社を立
派にし、社長室を豪華な調度品で飾る。会社の信用度は工場よりも社長室の調度品を見て決 まるのがインドネシア流である。そもそもインドネシアでは経営者は客を案内する時以外は工 場を訪れることはない。
インドネシアの工場で気になることは労働者が床の上に直に作業工具を置いて、俯(うつむ)
いて作業をしたがることである。バリ島の木彫りの作業場と同じである。伝統工芸品の製作な らば口を挟む余地はないが、工場でもこのスタイルを持ち込もうとする。日本人の目から見る と、窮屈で不自然な作業姿勢に見える。恐らく作業動作も鈍く、てきぱきとした行動とりにくく、 労働衛生上も問題があると思われる。従って経営者が改善案を提案すると労働者から猛反発 を受ける。もっと楽な作業スタイルを提案しても頭から反対する。
職場の作業改善啓発のためQC運動もおどしたり、すかしたりしてなんとか定着してきた。成
績優秀な工員を表彰してもっと頑張れと激励すると受賞者は「そんな無理なことできない」と泣 き出したという小話がある。⇒事故注意
「お客様は神様です」を文字通り直訳してインドネシア人に言ったら敬虔なイスラム教徒が蒼
白になった。彼らにとって神とはアッラー以外になく、絶対神としての崇高なものであり、売り場 を歩いているそこらの有象無象(うぞうむぞう)と比較すること自体がありうべかざることである。 ましてお客が神様という発想を強制すればパニックになる。
インドネシアの過剰労働力の存在にもかかわらず日系企業では人材不足がいわれるのは中
間管理層の薄さである。インドネシアで優秀な大学出は政府機関に行きたがるため、管理職 の人材に乏しい。企業側で期間をかけて養成しても企業忠誠心が薄く、すぐにジョブ・ホッピン グ(転職)する。
文化の相違は最も厄介な存在である。プンリ(pungli=pungutan liar)という根拠不明の課徴金
や寄付金に悩まされる。企業のビヘイビアにおいてもA社は税金はきちんと申告し、寄付依頼 にも趣旨を問いただし納得できるものに最小限のつきあいをする。B社は税金は誤魔化してい るが、寄付依頼があれば快く支払う。インドネシアでは日本的思考のA社よりB社の方が企業 の社会的ステータスが高い。
現在の位置
スカルノ大統領の自叙伝では独立戦争については武器弾薬の調達のためにオランダの封鎖
網をくぐりぬけて密輸をやったことが得意気に記載されている。軍人でなかったスカルノは戦闘 の第一線に立つかわりに補給で独立戦争に貢献したことが言いたいのであろう。
インドネシアの貿易の問題点は昔も今も密輸である。そもそもインドネシアは世界交通の要
所に東西5100kmに拡がっており、昔から大陸や島々の間を結ぶ交易は盛んであった。インド ネシアという国が成立し、海に線を引いて国境となったが、国境を越える総ての交易を管理で きるはずがない。⇒荷役業務
東南アジア多島海を根城に航海による商業を行ってきた海洋民族にとっては交易は生活の
手段であり、密輸、密貿易とは政府が後から作った法令でもって咎めているにすぎない。
独立後もインドネシアの位置からしてもシンガポールとインドネシアは相互に重要な貿易相手
である。ところがシンガポールの貿易統計にはインドネシアの数値は公表されていない。インド ネシアが把握していない貿易があるので、シンガポールの対インドネシア輸出入の実態はイン ドネシアの公表の輸出入を大幅に上回ることは周知の事実(注1)である。
例えば古着はインドネシアの輸入禁止品目になっている。繊維産業の保護のためかと思わ
れる。しかし日本の大学や高校の校名の入ったスポーツウエアが出回っている目撃談が各種 の東インドネシア紀行に記載されている。
もしインドネシアで古着の輸入が解禁されると資本力のある首都の大手業者などが古着輸
入に乗り出すであろう。輸入禁止品であることによってシンガポールやフィリッピン経由の密輸 ルートにつながるローカルの流通の利権が保護されていると理解すべきであろう。
パレンバン近くのムシ河下流に杭上の密貿易専門のスンサン(Sungsang)という市場があり、
あらゆる商品が揃っているそうだ。インドネシアだから存在する不思議な市場である。
マレーシアやタイでは輸出産業奨励のために輸出加工区(EPZ)や輸出専用認定工場
(EPTE)の制度を設けて、外資の投資を誘導してきた。その結果、マレーシアやタイは電子部 品の加工を行い輸出する。当初は電子産業の労働集約的組立てプロセスだけであるにして も、これらの加工工程から電子産業の裾野が拡大している。 ⇒密貿易市場
遅れてインドネシアも同じ制度(注2)を設けた。労務コストではマレーシアやタイよりも優位で
ある。然るに外資がインドネシアを敬遠する理由は通関手続きの煩雑さである。関税還付の 遅延など徴税官の裁量の余地があることが汚職の温床になっている。中央官庁が高邁な理論 に基づく政策を実施しても国家組織の末端は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界である。
現在の位置
インドネシア進出する外国資本の製造業は合弁会社を義務付けられ、しかもインドネシア側
の合弁比率を段階的に引き上げ、最終的には100%インドネシア化を定めている。インドネシア への段階的技術移転が大きな目的である。例えば日系企業では日本人技術者の数が徐々に 減じて、全てインドネシア人技術者によって操業されるのが理想であるが、実際は色々なトラブ ルが生じる。⇒近代工業
技術移転が困難である理由ついて日本人駐在員の話を総合すると次のようになる。設備の
導入には設備をメンテナンスする技術が伴わなければならないが、インドネシアの技術者には メンテナンスを考えたことがない。極端に言えば機械が壊れると占い師(→866)にお払いをして もらうという発想である。メンテナンスの易しい機械を勧めても最新鋭の機械をほしがる。誇り 高いインドネシア人には謙虚に教えてもらうという姿勢がない。教えれば一応は聞くが分かって いないのに分かったという。工学部出のエリートにはパネルの操作はしても現場で油塗れにな ることを忌避する。⇒技術指導
日本側は技術設備についてはインドネシアの技術水準を考慮してインドネシアへは一世代前
の設備を設置し、インドネシアが駆使できるようになってから、次の技術に対応する設備を導 入した方がよいという判断がある。しかしインドネシア側にすれば不要になった中古設備をあ てがわれのは面白くないという意識がある。この結果、インドネシア側の要望に従って最新鋭 の設備が導入される。しかし技術レベルと隔離した設備は宝の持ち腐れになっている。
インドネシアには熟練工が少ない、いても熟練工は臨時工を教育する習慣がないので熟練
工の裾野が広がらない。臨時工が教育を受けて習熟すると熟練工の地位を脅かすからであ る。転職が多く定着率が低い、企業への忠誠心より金銭面が優先するため、いつ辞めるか分 からない臨時工の教育はなおざりになる。
このような状況の中でもインドネシアへ技術移転への努力は続けられている。大岩泰著「海
外技術協力の現場から」は国営アンタム社のポマラ・フェロ・ニッケル精練工場建設に関わりイ ンドネシア人によって操業が行われる技術移転の顛末が述べられている。森清著「旋盤ひとつ でアジアがみえる」はNGOによる技術移転の努力が続けられている。
インドネシア紙から見つけた技術移転の小話を一つ。日系メーカーが技術移転の成果を見る
ため現地技術者による開発提案の試作品を日本へ送ることを奨励した。しかし何度送っても 答えはいつも「NO」であった。そこでインドネシアの技術者は中身はを自社製品にして外観だ けを変えて送った。日本からの返事は中身はよくないが、外観は独創性があってよろしい、と いうことであった。
現在の位置
|