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クリフォード・ギアツ(C.Geertz)はハーバード大学の文化人類学者の調査チームを引き連れ
1952-54年のジャワ島の社会調査を行い、ジャワ社会の構成を次の3グループの社会集団、 即ち、@農民層、A商人層、B官吏層に分け、各グループの宗教への態度を分析に基づき 『ジャワの宗教』という書を発表した。実際の調査地は東部ジャワ州のパレ(Pare)市である が、論文ではモジョクト(Modjokuto)という仮名になっている。後にギアツはバリ島の調査も行 い『劇場国家(→978)』の著作もある。
『ジャワの宗教』の要点は次のとおりで、彼の説は大きな波紋を投げかけた。
◎プリヤイ(Priyayi)というヌグリ(→629)が基盤の官吏層とヒンドゥー的教養
◎サントリ(Santri)というパサール(→864)が基盤の商人層と敬虔イスラム教
サントリは都市サントリと農村サントリの2区分になる
◎アバンガン(Abangan)というデサ(→591)が基盤の農民層とアニミズム
階層社会においては特定の階層が特定の宗教と繋がることにヒントを得て日本の場合を私
なりに考察してみた。日本の江戸時代の士農工商ではプリヤイに対応する武士階級の精神バ ックグランドは中国の儒教である。サントリに対応する工商は仏教に帰依している。農民の崇 めるのはお天道様であり日本神道はアニミズムの純粋培養であろう。
本題のジャワ人に戻るとイスラム教 or 非イスラム教という宗教との組み合わせに社会層を
@インテリゲンチャ、A読書人、B町の大衆、C村のエリート、D農村大衆の5区分にすること によりジャワ社会は10の社会集団から構成されるとした。
社会層が異なると宗教への態度も異なり別民族のようである。アバンガンのほとんどは表向き
はイスラム教徒であるが、多くはKTPイスラム教徒(注)といわれるように名目上のイスラム教 徒にすぎない。サントリのイスラム教に対し、プリヤイとアバンガンは非イスラムのジャワ主義 で連合しサントリに対立する構造になる。
ギアツは社会集団と政党への帰属意識をも調査してそこに見られる傾向をアリラン(aliran)と
名づけた。ジャワ伝統社会は植民地支配によって箍(たが)が緩み、ナショナリズム思想に基づ く政党思想によって新しい集団が編成された。アリランとは新しい様式の統合への"流れ"のこ とである。
スカルノ時代の政治構造はプリヤイとアバンガンはインドネシア国民党(→293)とインドネシア
共産党(→381)を支え、サントリはマシュミとNU のイスラム政党(→419)を支えた。
スハルト体制下では脱政党が強権でもって政治活動はゴルカル(→393)に収斂されたが、ス
ハルト退陣後の政党の自由化により新たな再編成がおこなわれている。
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少し古い本であるが朝鮮の支配階級の"両班"について述べた『オンドル夜話(中公新書)』
を読み、隣国にありながら日本の武士とは異なる不思議な社会階層の存在を知った。ジャワ のプリヤイについて調べると両班との共通点が多いようである。両者とも"文"の尊重ということ で日本の武士階級とはやや異なる。
プリヤイの語源は「王の弟」という意味でジャワ宮廷の貴族層である。スルタン・アグン(→
337)時代までは武人であった支配層、国を挙げて外敵と戦う戦争がなくなりプリヤイは貴族化 した。継承をめぐる内乱は頻繁に起きても宮廷の権力闘争の延長であった。
ジャワの支配層にとってはソロ(→130)やジョグジャカルタ(→120)の王宮が世界の中心であ
り、そこが「ヌグリ(negeri)」であった。ヌグリには「王都」の意味がある。そうでない世界の一つ はパシシル(→136)という海岸地帯であり、もう一つはヌグリの外縁部であった。パシシルはサ ントリの地域であり、ヌグリの外縁部はアバンガンの地域である。ヌグリに帰属するのがプリヤ イである。
プリヤイという用語そのものには宗教的な意味はなく身分的な社会階層である。プリヤイは
ジャワの洗練された文化の担い手であり、エリート意識から他を差別する精神構造の持ち主で ある。このような意味で"士農工商"が生きている。
アメリカの文化人類学者ギアツのジャワ社会を宗教との関連から分析した「ジャワの宗教」に
おいてプリヤイはサントリ、アバンガンと対比される文化類型の一つとして、その文化的素養は インドのヒンドゥー哲学にあることを指摘した。
オランダによる植民地体制の確立によってプリヤイは王宮貴族から行政官僚に転じた。オラ
ンダは県知事のブパティ(Bupati)、同補佐のパティ(Patih)以下のジャワ人の官僚組織を利用 する間接統治よってジャワ支配を行った。
オランダの植民地支配の反省から倫理主義(→283)に基づいて設立された医学校、師範学
校の入学者はプリヤイの子弟であり、卒業者は新しいプリヤイになった。こうしてプリヤイとは 西欧式教育を身につけた知識人をも総称する意味になる。
プリヤイは植民地体制派ばかりではない。今世紀初頭より高揚してきたインドネシア民族意
識の担い手もまたプリヤイであった。インドネシア初代のスカルノ大統領も最高学府を出たプリ ヤイである。インドネシアの大学で最も優秀な学生は公務員になる。役人は「パモン・プラジャ」 という。無知なる者たちの面倒を見る人の意味である。高級公務員はプリヤイの伝統を引き継 いでいる。
現代インドネシア文学を代表するウマル・カヤムは1992年に『プリヤイたち』という小説を発表
した。植民地時代から今日までジャワ知識人一家三代の人間模様である。そこに描かれたプ リヤイとは職業、あるいは家系とか血統ではない。貧しい人々に思いやりのある高貴な精神の 持ち主こそプリヤイであると紹介されている。残念ながらこの小説はまだ翻訳されていない。
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イスラム教がジャワ島に最初に到来し受け入れられたのはパシシルというジャワ海沿岸の商
業都市であり、ワリ・ソンゴ(→712)はこれらの町を拠点としてイスラム教を布教した。ジャワに おけるイスラム教とは都市の宗教、商人の宗教であった。
パシシル(→136/7)の都会の古いモスクの周辺には「カウマン(Kauman)」といわれる塀で囲
まれた一角がある。金曜日の集団礼拝を行う40人の成人男子をモスクの側に住まわせたの がカウマンの起源である。「サントリ(santri)」といわれる敬虔なイスラム教徒はカウマンに住む ことに何よりの安らぎを覚える。
イスラム信仰を深めるためアラビア語のコーランを学習するプサントレン(→733)というイスラ
ム塾がある。サントリの語源はプサントレインで学ぶ者を指したが、今日では熱心なイスラム 教徒を意味する。
名目のイスラム教徒であるアバンガンに対する真摯なイスラム教徒のサントリはイスラムの厳
しい戒律に対して自己規制を行っており、彼らは勤勉に働き、金を貯めてメッカ巡礼に行くこと を信条としている。
スラムはジャワ農村にも浸透し、富裕な農民層ほど敬虔なムスリムとしてサントリと同じ価値
観を持つようになり、20世紀に入って「農村サントリ」という集団の存在が認識されるようになっ た。農村サントリは都市サントリより保守的であり因習を重んじる。
インドネシアのイスラム教徒の保守的とはコーランを翻訳してはならない定めを墨守し、意味
は分からずともコーランをアラビア語で唱え、教義についてはキヤイに全人格的に従うことであ る。スハルト体制崩壊後の選挙で大統領になったワヒド(→411)は東部ジャワのモジョケルトの 出身であり、中部ジャワ、東部ジャワの農村サントリの政党であるNU(→419)の支持母体であ る。
一方、イスラム改革運動としてオランダ植民地時代の1912年にジョグジャカルタにムハマディ
ア(→419)が設立された。ムハマディアのモスクではインドネシア語の説教が導入された。コー ランのインドネシア語を認め、コーランに記載されていることを理解することがコーランに戻るこ とである、とするのが改革派イスラムである。
改革派は「サントリ・モデルン(現代的サントリ)」といわれ、都市サントリが支持基盤である。
イスラム改革運動を推進し、宗教的施設のみならず診療所、孤児院など福祉施設を設立、経 営し成果をあげてきた。
ムハマディアの組織は汎インドネシア・イスラム運動としてジャワ島のみならず外島にも拡が
り、外島のイスラム教徒の政党となっている。PAN(→408)が今日のムハマディアの流れをくむ 政党である。
新しいイスラム運動を基盤にした福祉正義党(→425)という新政党が登場し、サントリとイスラ
ムの関係も多岐多様化してきた。
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アバンガン(abangan)の語源は「赤」を意味する。敬虔なイスラム教徒は白い衣を纏うことか
らプティハン(putihan)と呼ばれるので〈白〉の対立としての〈赤〉である。スカルノ時代の末期に 躍進した共産党の基盤のジャワ農民は名目上のイスラム教徒であってそれほど敬虔でない集 団はアバンガン層といわれる。「赤」は共産党はシンボルカラーである。
ジャワ農民に伝えられている訓話にパー・シデェン(Pah-Siden)の物語(注)がある。その骨
子を紹介したい。貧しい農夫パー・シデェンはつきのない男で幸運から見放されていた。一生 懸命働いても生活はよくならないので、妻は夫にぐちり、なじった。そこでやけくそになった農夫 は海岸に行き、女神ロロ・キドゥル(→949)配下のキャイ・ブロロング(Kjai Belorong)に会う。キ ャイ・ブロロングは金銭の女神であり、頼めばろくなことがないと敬遠されている。しかしパー・ シデェンはあえてキャイ・ブロロングに助けを求め、金を得るために魂を売ることを約束した。
パー・シデェンはキャイ・ブロロングと契った。それからというものは金持ちになり若い娘と結
婚した。金がなくなればキャイ・ブロロングを呼んで寝ればよかった。
ついにキャイ・ブロロングが自分の宮殿の柱にするためにパー・シデェンを連れていくと言っ
たとき、たくましい農夫の青年を身代わりに連れていかせた。10年目にまたキャイ・ブロロング が連れていくといった時はかわりに弟を差し出した。次の10年目には息子を差し出す。最後に どうしても免れない10年目がやってきた。パー・シデェンは炉の石となって焼き続けられる。こ れが貪欲(どんよく)への報いであるという説諭である。
日本人ならばドンファンでなくてもそれほど悪い話ではないと思う。炉の石ならば暖かいであ
ろう。しかし、この話はジャワ農民に対する欲深さに対する戒めとなっているのは、最後の永遠 に焼き続けられる罰に大いに意味がある。
イスラム教徒にとって火で焼かれることは地獄であり、その地獄が永劫に続くことである。ア
バンガンの農民は地獄の業火を恐れるくらいはイスラム教を敬っているが、それ以上のもので はない。
ムスリムの戒律である日々のお祈りもやらない。イスラム教徒に禁じられているヤシ酒も飲
むし、豚も気がつかない振りをして食べる。
私の住居の近くで夏休みに入ると朝6時頃からラジオ体操が始まり、かなり喧しいので夏休
み間は大変なことだと心配するが幸いにして1週間で終わる。夏休み終了前1週間になるとま た早朝のラジオ体操が始まる。多分、作文には『夏休みは朝ラジオ体操に行きました』と書い ているのだろう。アバンガンの断食とそっくりである。
彼らはKTP(身分証明書上の)イスラムといわれる。アバンガンの信条にスダヤ・アガミ・サミ・
クマオンという言葉がある。「どんな宗教でもみな同じ」という意味である。
インドネシアに30有余年、君臨したスハルト大統領は典型的なアバンガンの生まれであるが、
階層を上がりつめたがアバンガン的体臭は消えなかった。
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「ウォン・ジョウォ(wong Jawa)」はジャワ語で「ジャワ人」の意味である。この言葉にジャワ人
は言い知れない誇りを持つ。その自信は歴史と文化に支えられ、次の三つの信条となってい る。
第一に「静寂主義」であり、急ぐことを快く思わない。緩慢な行動は暑いせいばかりではなく
「一所懸命働くな、早く老けるぞ」という信念に基づくものである。変わったことをすることを恐れ る。人生を危うくするものとして5のM(mabuk 酔う、madat アヘンを吸う、madon 女、main 博 打、mangan 食べる)が注意喚起されている。
今田述著『トワン、ガンバルか?』(中公新書)によるインドネシア人の人間評価基準は、@
働いて金にならない人、A働いて金になる人、B働かなくて金にならない人、C働かなくて金に なる人、という@ABと順番によくなり、Cが最も賢い(pintar)と思っている。
彼らから見れば日本人はAの段階である。インドネシアで忙しい人はあまり尊敬されない。ビ
ジネスは中国人と日本人にでもやらしておけばよいと考え、働かなくて金になることをあこが れ、働かないことの自己弁護にしている。インドネシア人のこととしているが、ジャワ人と置き換 えてもよいだろう。
第二に「運命論者」である。ジャワ人は自分自身の行動には限界があると意識している。イス
ラム教のインシャらー(→821)の影響もあるだろう。彼らの特質を表す言葉は、@「ナリモ」あき らめの態度、不愉快なことも運命としてうけいれる。A「サバル」忍耐の態度、時期の到来を待 つ。従って鋭い議論より和解による解決を好む。B「エリン」ものごとを深く考え、行動を控えめ にして目立たないようにする。意見は述べないが不平はいう。「歩く時は上を見ないで下を向い た方がよい」というのはジャワの諺である。
第三に幸福と調和を大事にする「平和主義的」な考え方である。外面と内面の融和の考え方
にはインドから受容されたラサ(rasa)が根源にある。内面的安定を得るためにクバティナン(→ 707)にのめりこむ。
ジャワ人をよく知るオランダ人は彼等を「Het zachtste volk ter aarde」と呼んだ。オランダ語
で「世界で最も優しい民族」という意味である。ジャワ人を表すキーワードはTanggap sasmito (他者の意思を慮ること)、Tepo sliro(他者の感情を慮り自分の行為を自粛すること)である。 ジャワ人は相手の意思を確認しながら行動し、単独行動をいやがる。
最初にジャワ人に接したヨーロッパ人は「かれら信じがたいほど偽善的で、(心の中の)悪を
うわべの善でおおいかくす。かれらは決断を下す際にも意志が変わりやすく、また時間がかか る。かれらは非常に誇り高く、傲慢で野心的である。もっとも重要な美点はかれらが友情にあ つく、態度が丁寧なことである。彼らの間には、程度を問わず相手をののしる言葉がない」と記 している。300年前のファン・フーンス著「ジャワ旅行記」(大航海時代叢書 II-2)の記述である が、ジャワ人は昔からジャワ人である。
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インドネシアの国語はインドネシア語であるが、インドネシアで最もよく使われる言葉はジャワ
語である。何故ならインドネシアの人口の半分以上はジャワ人で、ジャワ人の日常用語はジャ ワ語であるからである。
ジャワ語もインドネシア語と同じオーストロネシア語族に属し言語体系は同じであるが、ジャ
ワ語は世界でも特異な言語として知られるのは"敬語"の所以である。敬語だけが異常進化し た言語であり、その方面ではかなり有名な日本語も敬語にかけてはジャワ語には足元に屈し ざるをえない。
ジャワ語は次のように大別される。@ンゴロ(Ngoro)は友人同士か目下の者へ、Aクロモ
(Kramo)は年長者か目上の者へ、Bクロモ・インギル(Kramo Hinggil)は特定の高位者に対す る言葉である。
@ABの各々の言語では二人称三人称の呼称を初め、単語さえも異なることがジャワ語の
特徴である。さらに細分するとCマディヤ(Madya)はンゴロとクロモを適宜配分した混合語、D 「クロモンデソ」は丁重な田舎言葉、Eボソ・クラトン(Basa Kedhaton)は王宮で使用される特殊 貴族言葉である。
このような複雑なジャワ語を正しく使うためには語学能力もさることながら相手の社会的地位
を素早く嗅ぎわける直感力を伴わなければならない。そうでないと正しいジャワ語が話せない からである。
染谷臣道著『アルースとカサール』によれば、敬語は静かな声で抑制をきかせた低く重い荘
厳な声でゆっくりと話され、短調のような陰翳(いんえい)がある。語彙は例えば「鉄」であれば、 「硬いもの」というような婉曲(えんきょく)的表現や比喩(ひゆ)的表現、あるいはサンスクリット語 やアラビア語からの借用語が多い。敬語で語りかける者の物腰や眼差しは自ずと控えめにな り恭順の意を示すものとなる。
複雑な言語も使い慣れると言外に微妙なニュアンスの表現も可能になる。何れにしろ、ジャ
ワ語の習得はジャワ社会にどっぷり漬かった者でないと至難の技である。
ジャワ人は伝統芸術の影絵芝居のワヤン(→904)を通じてジャワ語の敬語体系を学んでき
た。ジャワ語の特質は〈語り言葉〉であって〈書き言葉〉でないことである。このためインドネシア 文学の成立においてもジャワ語の入る余地はなかったのであろう。
インドネシアでジャワ人が圧倒的多数であるにもかかわらず、ジャワ語が国語にならなかっ
たのはジャワ語の非民主性の故である。ジャワでも学校教育の成果でインドネシア語は普及し ている。この場合であってもクジャウェン(→119)で上位者に話されるインドネシア語は優雅に 聞こえるらしい。
近代社会としてのインドネシア社会が発展する過程で、ジャワ語はその他多くの民族の言語
と同じ地方語の位置づけである。しかしながらインドネシア語自身がジャワ語の影響を受けて 乱れてきているという指摘(注)がある。
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ジャワ人はいつも微笑みをたたえ穏やかにゆっくりと話す。悪い話は聞かせない。人にあう
時は控えめな姿勢で軽く手に触れるだけのような握手をする。人前で足を組むことはない。腕 組や腰に手をやることも(注)も攻撃的意図を表す姿勢と見なしている。
贈り物は人がいないところで「つまらないものです」と謙遜して渡す。送ることによって相手に
恩きせがましくしてはならない。もらう方はその場で直ちに開けるようなことはしない。贈り物を 見て喜ぶのははしたない行為である。御礼も簡単に言った方がよい。くどい御礼はさらなる贈 り物を催促することに通じる。とにかくバサバシ(basa basi=社交辞令)がわずらわしい。
ジャワ人は文化の域までに洗練されている物腰がある。これを《ハルス(halus)=上品》とい
う。ハルスの反対は《カサル(kasar)=粗野》である。両者はジャワ社会のキーワードである。
このハルスはインドネシア人の中でジャワ人が最も際だつところである。ジャワのハルスの中
心は文化地理概念としてはクジャウェン(→119)といわれる中部ジャワであり、社会階層として ハルスを支えるのはプリヤイである。ハルスを最もよく表現する言葉は敬語の塊のようなジャ ワ語のクロモである。
ジャワ世界はヌグリ(→629)といわれる核があり、そこにはハルスであるクラトン(→121)があ
る。ヌグリをとりまく周辺はカサルである農村部から成り立つ。
ハルスであるジャワ人と対照的な民族とされるバタック人(→607)はカサルの代表である。ジ
ャワ人からカサルとされる外島人(→019)はジャワ人を「ソンボン(sombong)」と思っている。横 柄、慇懃無礼(いんぎんぶれい)という意味である。
同じインドネシア人でもジャワ人とバタック人は異なる。ましてその他にも多くの民族がいる。
「インドネシア人の民族性は?」という質問があってもその答えは「分からない」である。何故な らインドネシアは多民族国家で、各々の民族は文化、伝統、言語、宗教、習慣を異にしており、 その多様な民族をまとめて民族性をさす適切な表現は「多様である」というより他にない。
しかしジャワ人はインドネシア人の大半を占めており、インドネシアを代表する民族である。
他の民族は各々の個性と独自性を維持しながらも、一方では人口の多いジャワ人の民族性に 収斂されていくことも否定しえない。いわばジャワ人を中心としたインドネシアの国民性が形成 されつつあるともいえよう。
日本が第二次世界大戦中にインドネシアを占領した際に初め日本軍は解放軍として歓迎さ
れたが、次第に日本軍の"カサル"が明らかになり軽蔑されるようになった。木曽義仲が京都 に攻め入り平家を放逐したが、やがて大宮人から粗野として軽蔑され、政権は1年しか持たな かった。ジャワ占領の日本軍は木曽義仲軍と同じであった。
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ジャワでは子供のことを「ドルング・ジャワ(「ジャワ人でない」の意味)」という。一人前の大人
ならば「サンブン・ジャワ(既にジャワ人の意味)」であってジャワの掟(おきて)に従わねばならな い。子供の教育はジャワ人らしくなることが求められる。粗野な子供にはウォン・ジョウォ(ジャ ワ人)らしくなれと説教する。
アリフィン・ベイ著の『インドネシアのこころ』においてジャワ人の生活哲学としてボノカムシ・デ
ィポヨノの論文から引用している8項目を孫引きして具体的事例を同書の記載に敷衍(ふえん) して説明することとしたい。
@受入(narimo):何かよくない事がおきても自分の所為(せい)でも他人の所為でもない。何
事も運命としてあきらめる自制力が求められる。ジャワ人は自分の子供が死んだことをニッコ リ笑って報告する。大袈裟(おおげさ)に嘆くことはむしろ見苦しいと考えているからである。これ はジャカルタの外国企業の西欧人の上司が経験するカルチャーショツクである。
A忍耐(sabar):ジャワ人は過激な行動をしたり、性急な要求はしない。彼らは忍耐強くがま
んしている。時間がきて問題が自動的に解決されるのを期待する。サンダン・パンガン (Sandang pangan=基本的に必要品が満たされている状態)の現状が変わることを恐れる。良 い意味では楽観的であるが、悪い意味では怠け者である。
B警戒(waspodo):知らない人に自分の方から近づくことはない。言い換えると人見知りをす
る。人が集まった時も注目されないようにふるまう。内気であり、はにかみでもあるが、余計な ことにかかわりあいたくないという警戒心の表われであろう。
C判断力(eling):初対面の場合は相手の地位を肌で判断しなければならない。ジャワ語では
相手の地位で言葉を使い分けねばならないからである。意味深長な発言から信号を読み取る 能力も求められる。この種の能力が磨かれすぎることが、インドネシアに多い汚職の原因かも しれない。偉い人が「妻の誕生日だ」といえば『お祝いを持って来い』という意味であることを察 しなければならない。上役が何を言っても返事(注)は「インギー(ごもっとも)」である。
D礼儀作法(totokromo):(次項)に記述。
E威厳(kaprajan):一かどの人物は細かいことにこだわらない。数字などはキラキラ(→581)
でよい。偉い人が契約書の文言の細かなことを言ったり、公共の場で激論したりすることはは したないことで威厳が損なわれる。
F簡素(andap asor):人目を引くような派手な恰好はしない。ちなみにバティック・シャツ(→
782)は日本で着用すれば目立つがインドネシアでは地味な服装である。
G謙遜(prasojo):自分のことは総て控えめである。従って自己主張の強いことは嫌われる。
集まりに出席しても出しゃばってはならない、後ろから座席が詰まっていくのは日本の講演会 でも馴染みのある風景である。
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正しくジャワ語が話せることはジャワの礼儀作法の第一である。そのほか礼儀作法は態度、
姿勢、表情、発言の仕方などすべてにわたっており、まさにジャワ文化は礼儀作法の文化であ る。礼儀をわきまえないことは無礼(kurang ajar)として忌避される。
例えば召使がトゥアン(主人)に物を渡す時は頭の位置を主人より低くして左手を右手に軽く
添える、というような動作は現在も生きている。
ジャワの礼儀作法では身分の低い者は偉い人の前で立って歩いてはならない。従ってしゃが
んだままの歩き方で膝行(注)する。映画で見るかぎりは、日本の体育クラブの練習で見かけ る"アヒル歩き"である。
貴族社会では子供に対しても父親の前では膝行が求められた。プラムディヤ・アナンタ・トゥ
ール著の大河小説『人間の大地(→975)』では西欧教育を受け遊学から帰省した主人公が貴 族の父親に対して膝行を余儀なくされた屈辱を自我の目覚めとしている。しかし近代社会の発 展とともに膝行は廃れて見かけることのなくなった。
シーボルトはバタビアを経由して日本へ来た。そのシーボルトが江戸城で将軍に"お目見え"
の時は、時代劇映画で馴染みの礼儀作法を強制されなくても目撃したはずである。シーボルト 日記にはジャワのクラトン(→121)と江戸城の礼儀作法の比較のコメントがありそうでないのは どういう事情であろうか。
現在でも主人と召使の関係は毅然としている。彼ら同志の会話のジャワ語を理解できなくて
も話し方、態度からどちらが主人でどちらが召使かを見誤ることはありえない。事務所の上司 と部下の関係も同様である。
召使が主人にものを渡す時は下から差し出さなければならないので、茶もこのようにして注
ぐ。仮に主人が寝転がったまま茶を所望した場合に下から茶を注ごうとするとアクロバット的に なりまさに漫画である。
外国人も主人である限りジャワ人の召使に礼儀作法をしつける社会的責任がある。ところが
ジャカルタの高級住宅街では日本人駐在員宅で勤めた女中は評判がよろしくない。これは礼 儀作法の教育がなっていないからである。一昔前まで日本人も礼儀の正しい国民といわれた ものであるが、今では家の中の躾(しつけ)もできなくなった。その点ジャワ人は今でも礼儀正し い民族である。
ジャワ人にとってインドネシア独立とはジャワのハルス(前々項)が外島のカサルに屈する一
種の社会革命でもあった。封建主義に連なるような慣習は西欧風合理主義に押されて姿をひ そめた。しかし称号(次項)などのように堅持されているものもある。
ジャワはインドネシアに吸収解消されたという側面もあれば、ジャワがインドネシアに拡大発
展した側面もある。ジャワの礼儀作法はこの両面から見た場合どのように評価するべきだろう か。
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インドネシア独立は一種の民主制を伴う社会革命でもあった。王制の廃止、身分制度の廃
止などの民主主義を意図する民族主義者の思想は人の呼び名にも反映し、初代大統領にな ったスカルノは民衆から親しみをこめて「ブン・カルノ(Bung Karno)」といわれた。日本語では 「同志カルノ」と訳されている。シャフリル(→444)はブン・クチル(Bung Kecil)で"kecil"は"小さい "という意味である。シャフリルは小柄であった。
しかし独立後、時間が経過すると次第にクラトン(王宮)の封建制の遺物が復活してきた。ス
カルノ大統領自身が母の家柄から貴族の伝統的称号であるラデン(Raden)をつけるようにな り、さらに晩年には数知れない称号(注1)を奉られるようになった。
恭(うやうや)しい称号は封建社会の遺物のように思うが、今日のインドネシアにおいて軍隊の
階級とか学位などの現代風の称号が定着している。特に学位は学歴社会を反映し本人は名 刺にも明記して名乗る。フォーマルな呼び掛けは称号を伴わなければならない。当人へ手紙を 出す際には称号を落としては失礼になる。ジャワ人は日本人と同様に名刺のやりとりが盛んで ある。名刺には称号が麗々しく記載されている。
称号には細かなルールがある。学位の例では名前の前の称号はDr(博士)、Ir(Insinyur工系
学士)などである。名前の後の称号はDrs.(Doctorandes)は学士でその後に専門分野が付け 加わる。S.H(Sarjana Hukum法律学士)、S.E(Sarjana Ekonomi経済学士)、M.A(文系修士)、 M.Sc(理系修士)である。あるだけの称号を勲章のように規則に従って名前の前後に並べる。 学位の起源はインドネシアではなくオランダである。オランダの持ち込んだ風習のうちジャワの 体質に馴染むものは後生大事に墨守されている。
インドネシアの称号の中の最高位は国王を意味する『スルタン』と『ラジャ』である。ラジャはヒ
ンドゥーにちなむ王の意味であり、スルタンとはアラビア語の統轄者(注2)である。スルタンは カリフが授ける称号であったが、イスラム教の布教とともに改宗したそれまでの王はスルタンを も併せて名乗るようになった。
インドネシアのスルタンはジャワと外島(→019)では格が異なる。ジャワのスルタンはマタラム
王朝の正当な後継者の称号であり、王家が分裂した際にスルタンの称号はジョグジャカルタ家 (→252)が引き継いだ。ちなみにスラカルタ家はススフナン(→131)の称号である。両者は同格 ということであるが、ススフナンの方が格は高いらしい。
スルタンの称号の授与の元締めはマホメットの後継者であるカリフである。初めは貴重であ
った称号も19世紀頃はオスマン帝国に貢物する程度で簡単に名乗れるようになった。スマトラ 島、カリマンタン島など外島ではスルタンが乱立(注3)された。
植民地政庁はスルタンを擁立し持ち上げて外島支配を拡大した。既存の政治権力を利用す
るというオランダの植民地統治政策の一環であった。しかし植民地政策に歯向かうスルタンは 容赦なく廃絶された。
現在の位置
年上の男性への呼び掛けは父の意味の「バパ(bapak/pak)」である。年上の女性には母の
意味の「イブ(ibu)」であるように親族名称が代用されている。家族関係と社会関係が混乱して いるというよりは、むしろ故意にダブらせているのであろう。
ちなみに夫から妻への呼び掛けは「Adik/dik(妹の意味)」であり、妻から夫への呼び掛けは
「Abang/bang(兄の意味)」であるように夫が妻より年上が一般的である。母方の従兄妹結婚 は他のインドネシア人にもあるが、弟・姉の関係の従兄妹結婚はタブーらしい。
双系社会であるジャワ人の家族関係の基盤は夫婦関係である。建前は夫の方が主たる稼
ぎ手であり、対外的には夫が代表することになっている。しかし経済的に実権を握っているの はどうやら妻側である。
ジャワ人の家族が外見的には核家族のように見えてもそこには夫婦とその子供以外の者、
例えば兄弟姉妹の夫婦とかその子供などが同居していることが多い。富裕な家族ほど大きな 枠組みの提供が可能になる。
ジャワ人の家族関係は西欧の家族社会学の枠組みでは処理しえない。西欧の排他的家族
に対してジャワでは家族と親族の区別が厳密でない。自分の子供も兄弟姉妹の子供も全部プ ールして分け隔てなく育てられている。
子供の上下は年齢で区別される。「集うておれば食足らずとも苦しからず」というジャワの諺
は社会のみならず大家族が受容されるゆえんである。
家という概念がないから遺産相続もジャワ古来のアダット(→588)による男女差別のない均等
配分と男性優先のイスラム法が適宜ミックスされている。年老いた親の介護もケースバイケー スで一般的なルールはない。
家族関係の規範が弱くルーズであるのはジャワ社会のみならずインドネシア社会ひいてはオ
ーストロネシア系(→563)民族共通の現象である。ジャワ人を含めてインドネシア人と結婚する 日本人は男女を問わず多く、日本社会の国際化でこれからも増えるだろう。日本人とインドネ シア人との国際結婚もしばしば破局に直面するが、最大の原因は本人同士の問題より家族関 係である。
戦後の新民法の浸透により日本人の意識では夫婦と子供だけが家族である。それ以外は
親類であり、親類のつきあいも3親等、4親等程度どまりである。
インドネシア人と結婚した日本人には連れ合いのわけの分からない人が親類と言ってもたれ
かかってくるのが耐えられない。先方は日本人の家庭は裕福だから親類の面倒を見るのは当 然のことと思っている。
インドネシアの会社組織における上下関係は家族関係に準えられる。子供が父親を敬うが
ごとく部下は上司に接しなければならない。その代わり父親が子供に対するがごとく上司は部 下に対応することが期待される。家族的経営、年功序列、終身雇用という日本的会社文化を 最も受けやすい民族であろう。
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ジャワ人に限らず双系社会(→568)では家という概念がないので、家名である"姓"はなく名前
だけである。ジャワ人の男性の名前にはSで始まりOで終わるものが多い。二人の大統領のス カルノ(Sukarno)、スハルト(Suharto)ともジャワ人である。女性はSで始まり I で終わることが 多い。
Sの発音はサンスクリット語で"聖"という意味に通じる。このようなことでインドネシア人の名
簿を見るとSの部が非常に多く、全体の1/3近くを占める。電話帳はSubroto、Sartono、 Sumantono、Soroamijoyo、Suryopranoto、スナルト、スハルジョ、サリモ、ストヨ、ステジョ等々 で数センチの厚さになる。その他Widono、Pusfosufondo などが典型的ジャワ人の名前である。 ちなみにジャワ人とそりの合わないバタック人もSで始まる名前が多い。
スハルト政権末期の実力者、スハルト大統領、ハビビ副大統領、ハルトノ調整大臣、ハルモ
コDPR議長の4人をまとめて「Hahahaha」のシンカタン(→964)を流布(声を出して読んでみる)し て侮辱罪で起訴された人がいる。Ha のつく名前も案外と多そうである。
双系社会のため「姓名」の「姓」はなく、名前だけである。ジャワ人やスンダ人の名前は1~4語
からなるが、通常は2~3語が一般的である。その名前の語の中に父親と共通する言葉がある が、これは父親の「茂男」に対して息子が「茂一」というようなもので全部名前である。
スカルノもスハルトもこれで名前の全てである。スカルノ大統領の名前はSにマハーバーラタ
の勇者のカルナ(→948)にちなむ、このようなインド古典からの引用は中流以上の家庭であ る。スカルノも大統領職を続けるうちに本人の署名は「S.Karno」と記したらしい。
しかし両大統領とも子供には長い名前をつけた。スカルノの長女メガワティ大統領(→456)の
フルネームは Dyah Pertama Megawati Setyawati Soekarnoputri である。スハルト大統領の 長女は Siti Hardiyanti Hastuti である。長い名前で姓をすりかえようとする気持ちがあるように 思う。長い名前の場合は短い通称を名乗る。スハルト大統領の長女の通称はトゥトゥット (Tutut)である。
貴族や王族は名前が長く Sampeyan Dalem Ingkang Sinuwun Kanjeng Sultan Hamengku
Buwana Senapati ing Ngalaga Ngabdurrankhman Sayidin Panata Gama Kalifatullah ingkang Kaping Sadasa ing Nagari Ngayogyakarta Hadiningrat という名前の人がいる。ジョグジャカルタ のスルタン・ハムンクブウォノ10世(→445)のフルネーム(注)である。落語に「寿限無(じゅげ む)、寿限無・・・・・・」というのがある。
名前の変更は可能である。結婚して名前がかわるのは女性に多く夫の名前の一部を取り入
れる。上流階級に多いことは西欧の影響であろう。男性の場合は不運なことが続くとその打開 のため名前を変える。父親の名前を外して簡単にすることが多い。縁起かつぎであるからスラ マタン(→705)を催すくらいの負担は必要である。
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ジャワ人、ジャワ文化、ジャワ社会を表すキーワードの「インボリュション(Involution)」という
言葉がある。英語辞書で確かめると Involve の名詞形で「巻込み、複雑、混乱」の意味に加 え、専門用語として[文法]複雑構文、[数学]累乗、 [生物]退化、[医学]退縮の意味がある。民 族学の用語としては「ある確たる型を形成したにもかかわらず、安定もしなければ新しい型に 転換することもなく、むしろその内部でより複雑化することによって展開するような文化型」とあ る。
アメリカの文化人類学者ギアツ(→978)はジャワ農村のフィールド研究からジャワ社会を評し
てインボリュションと名づけた。ジャワ農民の社会形態は人口の増加に対してより一層土地に 労働力を注ぎ生産をあげる。一見、生産量は増えているようであるが、一人当たりの生産量は 低下しており、労働力に見合うだけの収穫は得られていない。
ジャワの農業では全員が乏しきを分かち合うことで対応してきており、ギアツは"貧困の共有
化"と名づけた。「インボリュション」と「貧困の共有化」はジャワ社会の特質を表すコンセプトで ある。
インボリュションはジャワの文化現象にも適応される。文化概念としてのインボリュションとは
一見は精細であるが、実は退化であるという意味においてジャワ文化の説明により適してい る。オランダ支配下でジャワ王室は主権を取り上げられ、政治的に無能力者の存在になった。 もともと武人のプリヤイは純粋な宮廷貴族となる。することのなくなったジャワ王室と貴族層は 文化の細部精密化=インボリュションにあらん限りの精力をつぎ込み励むことでその存在を顕 示した。
ワヤン(→904)、ガムラン(→910)、宮廷舞踊(→912)など洗練されたジャワ文化の細密化をジ
ョグジャとソロの王室が競った。ハルス(上品)を極めるためジャワ語の敬語はますます煩雑で 難しくなり、繁文(はんぶん)縟礼(じょくれい)の礼儀作法が発達した。
インボリュション文化現象は日本の江戸時代にも見られる。鎖国により自ら目を閉じた徳川
幕府の下で江戸文化はジャワ文化と同じインボリュションの過程をたどった。『忠臣蔵』に見ら れる江戸城の松の廊下の作法は大名(武士の統領)に歩行が困難になるような衣類を着用さ せ、刀は装身具となり本来の用途は禁止された。関ヶ原から元禄まで100年未満の間にここま で武士は退化させられた。
日光の東照宮は気宇壮大な文化ではない。江戸時代の武家文化の精神構造は無意味な金
銀の散財、精緻(せいち)だけを目的とした退化へ向う萎縮した文化である。半世紀以上前に読 んだ岩波新書のブルーノ・タウト著『日本美の発見』を思い出した。故宮博物館の清王朝時代 の工芸品も同列である。西洋では後期ゴシック様式が該当するらしい。
日本も江戸時代というインボリュションの不幸の時代を経たという意味ではジャワ植民地時
代と同じである。日本のインボリュションは徳川家門閥維持のための自作自演であり、ジャワ のそれがオランダ支配という外圧であった点で異なる。
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