改定作業中
バリ島の面積は四国の3/1程度の大きさであり、インドネシア国土においては0.3%以下であ
る。人口においてもせいぜい1%台にすぎない。そのバリ島がインドネシア内外で知られている のは観光名所のためだけではない。
バリ島の存在の特殊性はインドネシアの中でバリ島だけがヒンドゥー教(→719)を奉じている
ことである。東南アジア島嶼部をおおうイスラム教徒の海の中でヒンドゥー教のバリ島は孤島 のような存在である。このようなバリ島の特殊性はインドネシアの歴史そのものと深く係わりあ いがある。
ジャワ島のマジャパヒト王朝(→248)はヒンドゥー教のもとに栄えたが、15世紀に西からイスラ
ム教がジャワ島を席捲するや東に逃れてバリ島を乗っ取った。現在のバリの上層階級は自分 等はジャワ島から移ってきたマジャパヒトの末裔であると意識している。
いわばバリはイスラム化以前のジャワであるということができる。しかしバリは古代ジャワの
単なるコピーではない、バリ固有のものでもある。
人口の圧倒的多数を占めるバリ農民はバリ島在来の民族である。彼らはジャワ島から来た
支配者の宗教を受け入れてヒンドゥー教徒に改宗した。バリ島では表面的にはヒンドゥー教が 優先して見える。しかしバリのヒンドゥー教は在来のバリ・アガ(→660)のアニミズムと融合し、イ ンドやジャワのものと異なる"バリ・ヒンドゥー教"となった。
南太平洋に通じて見られる年齢序列に基づく身分的ヒエラルキーによるバリ・アガの平等社
会の原理は今日でもバリ村落の慣習などに生きている。
バリ社会は二つの矛盾する社会原理からなる。一つはヒンドゥー教以前のバリ・アガの平等
主義原理である。もう一つはヒンドゥー教原理に基づくカースト制である。この二つの原理は、 @バリ・アガのアニミズムの基層の上に、Aヒンドゥー教がある、という重層構造になっている。 言い方を変えるならばバリ社会は南太平洋社会とインド社会が衝突した結果の融合の産物で あるといえる。
当初、オランダがバリ島の存在に気がついた時に、ジャワ島と異なる異様な文化を持つバリ
島におどろおどろしいものを認めて敬遠した。支配しようとした時にププタン(→172)の抵抗にあ い面食らった。その後、西欧の学者がバリ島の文化価値をもてはやすようになり、バリ島の名 が全世界に知られるようになった。
ギアツ(→978)という世界の著名な文化人類学者がバリ社会を調査し『劇場国家』を発表し
た。今なおバリ島に多くの社会学者が滞在してフィールド活動に余念がないのはこのようなバ リ社会の特異な成り立ちがあるからである。
注釈と資料-641 ⇒595.バリの村落
現在の位置
ヒンドゥー教を奉じる社会では安定と秩序が最優先する。人体に頭、胴体、手足があり各々
の与えられた機能があるように、人間社会も分化した機能からなる。カーストとは啓示によって 定められた人間の生まれによる分化であり、カーストにより安定と秩序が得られる。カーストは ヒンドゥー教と不可分の関係である。
カーストはポルトガル語が語源であり、インドではワルナ(warna)という。ワルナの意味が
「色」であることは人種(肌の色)による社会差別を宗教にすり替えたもので近代社会の受け入 れられるものではない。
バリ社会はインドとはかなり様相を異にしているとはいえヒンドゥー教に基づくカースト社会で
ある。最高位ブラフマナ(Brahmana)は祭司(→869)である。次はシャトリア(Satria)で王族であ る。その次のウェシア(Wesia)は士族/商人である。この上位3カーストは貴族の意味でトリワン サ(Triwangsa)という。
バリ人の90%はスードラ(Sudra)という平民層である。スードラはカーストの外という意味のジ
ャバ(Jaba)ともいう。しかしバリ社会のカーストはインドとはかなり異なる。インドのようにカース トに対応した職業の分業(注1)もない。カーストの異なる者との共食も行うし、結婚も皆無では ない。インドのカーストの陰惨なまでの厳しさと比べるとバリ社会のカーストの生ぬるさが特筆さ れる。しかしカーストは外来者の目につきにくい形で生きている。
戦前の西欧人のバリ島滞在記(注2)ではカーストをめぐりバリ人の間で起きる混乱を観察し
ている。西欧人に招かれてお互いのカーストが判らない複数のバリ人がいる場合、彼らの間で はお互いに座る位置を尋ねることで相手のカーストを探る。そしてカーストの高い者が椅子に 座り、低い者は床に腰を下ろして安穏(あんのん)が生じる。
カーストが明らかになって会話する言葉が決まる。バリ語ではジャワ語(→633)と同様に上位
の者から下位の者への言葉と下位の者から上位の者への言葉は別になっている。後者は上 品な敬語であり、前者はぞんざいな言葉である。
一般にバリ人も肥えた人を見かけることは少ないのは人口圧力から食料をつつましやかにし
か得られないからであろう。日本人よりは少し小柄であるが、バリ人の体格の良い人のカース トは高いように思う。
今日ではブラフマナ出身のバーテンダーもいるし、スードラ出身の県知事もいる。職業と直結
したカースト制は崩壊している。しかしトリワンサの方が裕福であり、学校も小中高大学と進む に従いトリワンサの比率は高くなり、役人の出自もそうであろう。
カースト制が生きているのは名前である。イダ・バグース(Ida Bagus)はブラフマナであること
を示す称号である。王族ではデワ・アグン(Dewa Agung)、チョコルダ(Cokorda)、アナック・アグ ン(Anak Agung)、イ・グスティ(I Gusti)等の称号をつける。一般に身分の高い人は称号付の長 い名前を名乗っている。
注釈と資料-642
現在の位置
信仰深いバリ人は穏やかであるといわれる。平常は穏やかであるが、容易にトランス(→576)
になる。非常時にはププタン(→172)という集団トランスを行う。オランダはバリ島を征服するま では獰猛な民族としてバリ人を恐れていた。
いったんバリを征服したオランダはバリ文化の啓発に務めた。インドネシアも観光政策のた
めバリ人の洗練性をPRしている。この結果、バリ人は穏やかであるとの誤解が生じている。実 際のバリ人は9月30日事件(→384)後の混乱で自島民10万人を殺したことを忘れてはならな い。残虐性においてはヒンドゥー教徒とイスラム教徒とは変らない。
しかし一神教のイスラムと多神教のヒンドゥーの差は言動に表れるのであろう。バリ人は性
質が従順なことから植民地時代は奴隷として需要が多かった。バタビアにも早くからバリ人の 居住区があったのは奴隷として連れてきたものである。18世紀初頭にバタビアでVOCに反抗し たスロパティ(→143)はバリ人奴隷の兵士であった。
バリ女性がヨーロッパ人男性の妾に売られたのは宗教問題(注1)がないのがメリットであっ
た。カースト制度の下ではバリの支配者は平民を奴隷として外部に売り飛ばすことに呵責(かし ゃく)を感じなかった。
バリ人の特性の第一は宗教心が強く敬虔である。バリ人にとって生活そのものが宗教であ
る。宗教行為は仕事の合間ではない、宗教行為の合間に仕事を行う。"祈りの島の祈りの民" と言われる由縁である。しかし現実のバリ島は善良な人ばかりが住むシャングリラではない。 バリ王国の歴史は血で血を洗う闘争の歴史である。人を呪う黒魔術(→868)が横行している。 バリ人は宗教心が強く敬虔であることはこれらの裏面と抱き合わせである。
第二は芸術才能に優れる。音楽にしろ舞踊にしろバリ島では全島民が芸術家と思うほどで
あるが、芸術家というような気取りはなく神を喜ばせようという宗教心の発露である。しかし最 近ではその才能が生活の糧となり、観光芸能(→654)という特異な領域に発展している。芸術 と宗教が分離しつつある。
第三は独自の方向感覚を持つことである。聖なる「カジャ(kaja)」と不浄の「クロッド(kelod)」
である。山側がカジャであり、海側がクロッドである。バリ島では左右というべきところを山側/ 海側という。ということは日常行為においても絶えず山側海側を意識(注2)している。集会の 際の座席の位置も山側が上席である。汚水は海側に捨てる。寝る時は山側を頭にする。バリ 人が見知らぬ土地に行くと不安感にかられてオロオロする。不安感がこうじると病気にもなる。 位置感覚が機能しないことは自己の存在が見失われることでパリンという。
第四は独特の清浄感を持つ。人体の頭部は神の宿る神聖な場所であり、下半身は汚らわし
い場所である。バリ人にとって下着は不潔な所に接する汚物である。洗濯の際は区別しなけれ ばならない。また下着の洗濯物を乾かす際に人が通る場所を避ける。もし下着の下になるなら ば汚物をかけられたような惨めな状態になるらしい。
現在の位置
バリにおけるプラ(pura)といわれる寺院の数は2万以上といわれる。人口は3百万人弱であ
るから百人強当りに寺院が一つという計算である。何れにしろ膨大な寺院の数である。この他 に屋敷の中の祠とか四つ角とか田の中の祠までは数え切れない。
村の寺院が基本であるが、それ以外に氏族やスバク(→596)も各々の寺院を有しているので
個人は複数の寺院に属している。
バリの村は三つの共同寺院を持っており、この三つはセットになっている。
@プラ・プセ(Pura Puseh)は村の創設者の霊を祀る寺院
Aプラ・デサ(Pura Desa) orプラ・バライ・アグン(Pura Balai Agung)は
神々の集会所の寺院
Bプラ・ダルム(Pura Dalem)は死者の霊を守る寺院
村の中央にはAがある。@は山側が一般的であるがしばしば@とAは同じ場所に塀で仕切
られているだけというケースが多い。
Bプラ・ダルムは穢れる方角のクロッドの海側の墓地の隣あわせの原っぱにある。死の女神
のドゥルガ(Dulga)のため捧げられた寺院で、悪魔や魔女を祀り、災害や病気から身を守る寺 である。葬式に際してはプラ・ダルムで死者の魂を物質の穢れた身体から解放して再生に備え る。冥界、即ち地下世界の寺院であり、バリ人の深層意識の寺院である。
バリ寺院は塀で囲まれており、入口はチャンディ・ブンタル(candi bentar)というブック・エンド
のような割れ門(注1)がある。邪悪なものは通り抜けできないように狭くなっている。割れ門は 段の上にあり、門の内側は衝立(ついたて)のような壁がある。邪悪なものは階段や曲がること が不得手であるから侵入しにくくしている設計である。
第一の門を越えた内側は中庭になっている。祭りの儀式の準備などを行う。次に第二のコ
リ・アグン(kori agung)中門がある。この門も狭いが割れ門ではない。この中の境内が重要な 儀式の行われるところである。
門の正面にメール(meru)という神を象徴する塔がそびえている。格の高い寺院ほど数は多く
なる奇数(注2)である。インド由来の聖なるものは必ず奇数である。ヤシの葉でふいてある が、長持ちするようにトタン板を被せたものもある。
塔の上部は神様が降臨する神座である。そういえば椅子に見えないこともない。神はお祭り
の時だけ天から戻ってくので常時は留守である。境内には日本の神社の末社のように各々の 神のための祠がある。
舞踊は目的に応じて行われる場所が異なる。神への奉納舞踊は奥庭で行なわれる。神と人
もついでに楽しむ舞踊は中庭である。神と直接関係のない芝居などは寺院の外の広場であ る。
現在の位置
神々は常時は天におわされ、寺院の記念日に天から降臨される。その降臨の日が「オダラン
(odalan)」といわれる祭り日である。オダランの3〜4日間、神々は村に滞在されるので村人は 丁重なもてなしをしなければならない。
バリ島の人々は村のみならず氏族やスバク(→596)の寺院など数個の寺院にも属しているの
でその数だけオダランがある。年に一度といってもバリ暦(→646)では210日に一回の割合で回 ってくる。従ってバリの村ではお祭りの準備をしているか、お祭りの最中か、お祭りの後片づけ のどれかの状態といわれる。ホテルや観光案内所には近辺の寺院のオダランを記したカレン ダーがある。
村人は祭りが近づくと準備に取り掛かる。まず寺院の庭に櫓(やぐら)が建てられる。神々が
祖先を連れて天から降臨される場所である。村には家毎にペンジョール(penjor)という竹の幟 (のぼり)がたてられる。竹は布を巻いて飾られ、竹の先端は椰子の葉の切り細工の飾りが吊 るされるため弓のようにしなっている。
天と地をつなぐ竜を表しているというベンジョールは道の両側に順序よく並べられる。神々が
ルルクールに着陸するための誘導灯の役目である。豪勢な七夕の飾りの商店街の雰囲気に 似ていなくもない。炎天下のバリの空の凧(たこ)は日本の季語となじまないが、凧上げは天か ら降りてくる祖先の霊のお迎えであり、大の大人が遊んでいるわけではない。
家の入り口には神々を迎える供物台が置かれる。供物としてバビ・グリン(焼豚)やサテ(→
766)の御馳走が用意される。
お供えの果物や菓子はきれいに組み立てられてガボガン(→931)になる。着飾った女性の頭
上にガボガンをのせて行進する。ガムラン楽器が先導して傘(→788)をたて、揃いの晴れ着を 着て村内を練り歩く。寺院の周りを所定の数だけ回ってから寺院に入る。男性はウドゥン(注) という鉢巻を締めて行列を行う。寺院では香木が焚かれ神前舞踊が奉納される。お参りする 人は僧侶から聖水で清められる。
寺院の外庭ではガムランの演奏にあわせてレゴン舞踊やトッペン、影絵芝居が奉納される。
寺の外では屋台やおもちゃ屋やゲームの店が出る。アルジャ(→916)という芝居も開催され賑 やかな雰囲気に包まれる。
オダランは個々の寺院の祭りであるのに対してバリ島全体の祭りはガルンガン(Galungan)と
いわれる。ガルンガンは最高神が先祖の霊全員を連れて地上に降りてくる行事であり日本の お盆にあたる。ガルンガンには町へ働きに出かけていた者も帰省する。学校も3日間は休み になる。
先祖の霊が地上に滞在されるのは10日間であり、この間は毎日先祖の霊の接待にこれ努
める。11日目にクニンガン(kuningan)という懇(ねんごろ)な送別のもてなしの儀式をうけて先祖 の霊のご一行が無事に天に御帰還されてお祭りは終わる。
現在の位置
バリの暦は複雑である。第一のヒンドゥー暦に由来するサカ(Saka)暦は月の運行によるもの
で日本の旧暦と同システムである。バリ祭日の最大の行事であるニュピ(Nyepi)というサカ暦 の新年はインドネシア国家の祝祭日になっている。3月下旬で雨季の終わる頃である。ニュピ は迎える準備がたいへんで忙しい。3日前に川か海で身を清める。ニュピの前日はムチャル (mecaru)という冥界の大掃除の日である。冥界を追われた悪霊は地上に現われ、害を及ぼ す恐れがある。このため盛大なお供えを四つ角やあらゆる所に供えて悪霊には機嫌良く退散 してもらわなければならない。
大晦日の夜は夕方になると金物をたたいて悪霊を追い出す。悪霊は大きな張りぼてのオゴ
オゴ(ogo-ogo)という人形に集められる。松明(たいまつ)を持って爆竹やドラが加わり賑やかに オゴオゴの行列を組んで練り歩き、最後に人形は海に流される。東北のネブタ祭りに似てい る。日本マンガのキャラクターのオゴオゴが現れたそうである。
一夜あけてニュピの日は万物の休息の日である。すべての行動が禁じられ一斉に静まりか
える。人は家に引きこもり物音もたてずに瞑想にふける。夜は明かりも消す。仕事、外出はお ろか料理さえしない。この日にバリ空港に到着すると外国人といえど特別に申請しないとホテ ルへ行くことさえできない。その次の日は晴れて神から新しい光が与えられる。寺院や親戚を 訪れ新年を感謝する。そしてバリ人の新年が始まる。
バリ暦の第二はウク(Uku)暦、またはパウコン(Pawukon)暦というバリ本来の暦(注)であ
る。そもそもバリ人は周期に固執する。1日周期から10日周期まであらゆる周期がある。この 中で重要なのは3日、5日、7日の周期であり、特に7日の周期が重要である。次ぎに重要な5 日周期との組み合わせで35日(7日×5日)からなるツンペックという一周期がある。数詞でなく 神話に基づく別称があり、35日は各々の日には意味がある。例えば髪を洗う日、昼寝をしては いけない日などもある。外出も方角と暦の関係を調べなければならない。
盛大な葬式のために長い準備期間が必要なのはウク暦に従って所定の手順を経た日程を
選ぶためである。ガルンガン(→644)などバリの祭りは7日周期と5日周期の出逢う特定の日 から始まる。35日のツンペックは6回繰り返し、即ち210日でウク暦の1年である。
誕生日の祝いもウク暦で一年経過した210日に行う。ただし最初の誕生日だけでそれから後は
誕生日の祝いはしない。バリ人には210日周期で自分の年齢を数える人もあり、その人が35歳 と言っても、実は20歳である。
インドネシアの公式の暦は世界共通の太陽(グレゴリオ)暦である。イスラム教徒が大多数で
あるからイスラム暦(→819)もある。その上、バリ暦は複雑であるのでバリ人といえど分からなく なる。そこでバリで販売されているグデ・ラウィーのカレンダーは7日サイクルであるが、バリ暦 の書き込みが一杯あり、観光客にも人気がある。
現在の位置
バリ女性は美しいという評判である。インドネシア美人はマナド美人、スンダ美人が定番であ
るが、バリ美人もその一角に入っている。
女性に飢えていたヨーロッパからの船乗りが上半身裸のバリ女性を見てクラクラとした。バリ
女性のスタイルの良さは数字からも裏付けられ、身長の割には乳房が豊かである。トップレス の女性の姿にヨーロッパから来た男性は最後の楽園の映像を重ねたであろう。かつてバリ女 性が奴隷としてバタビアに連れて来られたのは需要が多かったからである。
1920〜30年代のバリ訪問の写真や図版には若い女性が野外で素っ裸になって水浴してい
る。西欧から好事家が来て写真をとりまくるので、バリ人も警戒するようになった。今日ではジ ャワ風に衣類を着けたままの水浴である。
コバルビアス(→977)がバリ島に滞在した頃の北部ではオランダ兵士の風紀護持のため女性
にブラウスの着用を命じた。しかし彼の写真や絵の女性はトップレスである。ちなみに上がフリ ーであっても貞操観念は強かった。
バリ島の女性が日常的にブラウスを着用するようになったのはインドネシア独立後である。イ
ンドネシアはイスラム教国であるから裸を嫌悪している。ジャカルタから裸のバリ島に圧力をか けたに違いない。
イスラム化する以前のジャワ人もバリ人と同じく肌を露出した姿であったことはボロブドゥール
の彫像からもうかがえる。ジャワ人の古式ゆかしい結婚式の花嫁は乳房から下を覆うだけで 二の腕は剥き出しである。ジャワ女性がイスラムの教えで日常はジルバブ(→786)で肌を隠し ても結婚式には古代の慣習が残存している。
バリ女性が美しいのは動作の観点もある。身長の半分もある供物を頭上で運ぶには重さも
さることながら姿勢よくバランスをとって歩き、振り返る時はおもむろにしなければならない。こ ういうことで舞踏でなくても身のこなしが優美になる。
ガボガン(→931)という供物を運ぶのが女性の役目となっているのは優雅さのための演出効
果であろう。美しく細工された供物、揃いの晴れ着と飾り、肩から腕をむき出した健康的な肌と いうことで皆美人に見える。バリ島では老婆になっても腰が曲がらないのも若い時に背筋を延 ばして歩いたからだそうだ。
聖なるカジャと穢れるクロッド(→643)は人体にもある。神への供え物は聖なる頭上で運ばな
ければならない。顔と上半身は念入りに化粧を行う。これに反して足元は汚れている。以前は 裸足であったが最近はゴム草履(ぞうり)になった。
バリの女性はよく働く、仕事の分担は性別に決まっており干渉はしない。女性が経済の主導
権を持ち、男性が文化の主導権を持つという形で両者は対等である。しかし一方では一夫多 妻制が認められているように女性の社会的地位は低い。
女性の地位をめぐっても《バリ・アガの平等構造》と《ヒンドゥーの差別構造》とが奇妙な組み
合わせでバランスしているのがバリ社会である。
現在の位置
女性が妊娠すると亭主は髪の毛の手入れをしてはいけない。無事に生まれると亭主の頭も小
奇麗になる。妊娠期間中の亭主の浮気封じというが、由緒正しい真面目な意味付けがあるは ずである。
子供の生まれる際にはバリアンといわれる呪術師(→867)が立ち会う。呪術師は臍(へそ)の
緒と後産を戸口に埋めるのは死すべき所を意味するという。バリ人にとって生まれた所以外で 死ぬことは不幸である。埋める場所は男子は右側、女子は左側となっている。バリ人の象徴 的二元論である。
生まれた日の暦によって持って生まれた性格が一生ついてまわるとされる、バリ固有の占星
(せんせい)術がある。子供に名が与えられるがカースト(→642)によって名前のつけ方に枠組 みがある。貴族は称号付きの名になる。
庶民の名前は個人名と出生順位名から成り立っている。出生順位は男女の区別なく生まれ
た順に一番目はワヤン(Wayan)、二番目はマデ(Made)またはヌガー、三番目はニョマン (Nyoman)、四番目はクトゥット(Ketut)である。五番目以降は元に戻ってワヤンになる。家庭 では個人名でなく出生順位名で呼ばれる。こういうことでバリではワヤンとかニョマンはやたら と多い。子供は4人が同時に生まれて一組になっており、他の3人は常に本人の傍らにいて何 かの時に助けてくれるとバリ人は信じている。
また子供の名前がつけられると、その後、親は『(子供の名)のお父さん』というように呼ばれ
る。子供ができて初めて一人前の夫婦である。子供のない夫婦は名前さえ仮状態のままであ る。
子供の出生で忌避されているのは双子である。双子は村に災難が襲う前触れと信じている。
特に男女別の子供が生まれるとクルクル(→595)によって非常事態の発生が村に告げられる。 産室は焼かれ、母子は数ケ月は隔離される。来たるべき災難を追い払う儀式が続けられる。 そのための費用は親の負担である。
このように双子が忌避されるのは動物の子供の出生を連想せるからであろう。今日では当
局によって母子の健康上の観点からこのような悪習は禁止されている。
生後12日目、42日目の儀式に続き105日目(バリ暦の1年の中間)にニャンブータン
(nyambutan)という儀式を催す。ニャンブータンは先祖の霊を招き赤ん坊の体内に再生させる 儀式である。バリ人は再生観思想の持ち主である。この招魂儀礼によって初めて人間になる、 ということはそれ以前は人間でないという意味である。
赤ん坊は悪霊に取付かれやすい半人間である。ニャンブータンまでは地面に触れないように
気をつけている。いつも抱っこされているのは甘やかされているだけでなく神学上の理由があ る。不浄なる地面からの隔離である。
地面をハイハイすることを忌避するのは四つ足で歩く動物を連想するらしい。オトナン(→649)
の儀式を経て初めて子供の足は大地に触れてもよい状態になる。
注釈と資料-648
現在の位置
バリの赤ん坊は大切にされるというよりも最大限に甘やかされる。何故なら赤ん坊は先祖の
生まれかわりである。先祖の誰の生まれ変わりであるかは呪術師に伺いをたてて特定され る。赤ん坊は先祖であるから泣けば必ず誰かがあやす。親が忙しくても大家族であるから祖父 母や叔父や叔母など誰かがいる。泣き叫んだまま放っておかれる赤ん坊はいない。
仮に母親が何かの拍子に子供を叩くようなことがあれば丁重な供え物を持って氏族の寺院
にお参りし先祖に詫びる。
バリ暦(→646)の1年目の誕生日である生誕210日後にオトナン(otonan)という儀式を行い盛
大に祝われる。最初の誕生日をすぎると3回目ぐらいまでは儀式もあるらしいが、後はあまり 注意を払われることもない。そのうち複雑な暦のせいで年齢もわからなくなる。
女性の場合の初潮は盛大に祝われる。娘は正装して何度もプタンダ(→869)によって聖水で
清めてもらい、先祖に報告する。インドネシア男性の割礼儀式(→817)はイスラム教徒だけであ り、ヒンドゥー教徒のバリ男性は難を免れる。
バリの通過儀礼の慣行で珍しいのはムサンギー(masangih)という歯を削る削歯儀式であ
る。インドネシア語ではポトン・ギギ(potong gigi)といわれる。この儀式を行うことで穢(けがれ) れを脱する。バリ人は削歯をすませることをハルス(→634)の証としている。
削歯を行うのはバリ人にとって尖った歯とは動物の証だからである。そういえばバロン(→
954)にしろランダ(→955)にしろ人間でないものはむき出した犬歯がデフォルメされて強調され ている。
成人式ともいうべき通過儀式であるからいろいろと昔からのルールが決められている。娘は
3日前から別の建物に隔離される。削歯師はブラフマナ階級(→642)の者である。屋敷内の儀 礼建物に正装して寝かせる。頭は山であるカジャ(→643)の方向である。
実際に鑢(やすり)で削るのは上側の犬歯と門歯で他の歯と高さを揃える。15~30分ほどかか
り若干の苦痛を伴うという。最近は鑢を歯にあてるだけという簡略化方式もあるらしい。ただし 儀式は行わねばならない。ブタンダによって清められて終了である。
削歯儀式は謝礼、宴会、供物など出費がかさむ。従って親が裕福でない場合は大人になる
までほっておかれ結婚式に併せて行われる。経費節減のため長女の結婚に併せて姉妹全員 が同時に削歯するやり方もある。仮に削歯儀式なしで死んだ場合は火葬の前に歯を削る。
歯の尖っていることと同時に白いことも禽獣の"犬"を思わせるらしい。従って歯を染める目
的(注)もあってキンマ(→834)が普及していた。キンマの習慣はなくなり今では白い歯はバリの 日常風景である。
削歯儀式はバリ島以外の南太平洋の島々にも伝えられている。歯を削る人生通過儀式がム
ンタウェイ島(→657)でも行われる。バリ島の削歯とは反対で歯を削って三角型に鋭くする。何 れにしろイスラム教徒は削歯を行わない。
注釈と資料-649
現在の位置
ヒンドゥー教徒の結婚における厳しいタブーはカースト(→642)である。特にカーストの上の女
性は低い男性とは結婚できない。しかしその逆のカーストの下の女性と高い男性の結婚は問 題がない。前者は男性の精液で女性が汚される、これに対して後者は男性の精液で女性が清 められる、という理屈(注)である。変な理屈のようであるが、日本でもアメリカでも強姦事件が 問題になるなり方は同じ論理のようである。
カーストの高い女性は結婚相手に恵まれる機会が少ない。このためブラフマナ(→642)の女
性のかなり多くは結婚しないまま生涯を終える。日本の皇族の女性には斎宮(イツキノミヤ)のよう な制度があったのも同様の問題への対処策であろう。
しきたりやタブーに従わない結婚は古今東西を問わずどこにも生じる。昔は男女共殺された
が、最近では女性の方が実家から勘当される程度に緩和された。
貴族の結婚相手は全島へと横断的に拡がるのに対して庶民の結婚は内婚といわれる親族
である。女性に一番望ましい相手は父方の従兄弟である。次に父方の一族である。身内であ るほどよい。実際にはこのような結婚ばかりではない。そこで歓迎されない結婚は"掠奪婚"と いう形式をとる。
男女の間で事前に話はついている。内々に示し合わされた上で女側の親の留守に男とその
友人達が娘をさらいにやってくる。しばらくして娘の行方不明に気付いた親は娘探しを始める。 このために村のクルクルという合図太鼓が打ち鳴らされ村人が召集される。
二人は男の親の家か第三者の家に匿われている。従ってこのへんは始めから捜査の対象
からわざと外される。要は探すふりだけである。しばらく時間をおいて男の親側からの挨拶が あり、やがて結婚は既成事実として認められる。芝居がかった手続きは劇場国家(→978)の名 にふさわしい。
結婚の儀式は伝統衣装であり、僧侶により聖水を花婿花嫁にふりかけて清められるだけで
ある。儀式の派手なバリにしては簡素であり、葬式と比べると著しくバランスを欠く。要するに 結婚式は手抜きされている。
結婚すれば妻は夫に従い夫の家の空き地に新しい家を作り生活を始める。女子は結婚に際
しては実家の方の祖先とは訣別して夫側の寺院との関係になる。神々には夫が一家を代表す る。祖先の寺院というのは男系の祖先である。
結婚してクルナン(kerunan)という所帯を持ち、晴れて一人前のバンジャール(→595)のメン
バーになる。バンジャールの基本単位は夫と妻である。適齢期になっても結婚しない者は人の 扱いにならない。村の一員になることで村の付き合いの義務が課される。妻は女性のメンバー として村に属する。
ヒンドゥー教社会では女性は差別されており一夫多妻が認められている。一方、バリアガ(→
660)の東南アジア社会の女性は対等であり、祭では主役でさえある。
現在の位置
ヒンドゥー教であるバリ人の葬式はガベン(Ngaben)といわれる火葬である。ヒンドゥー教によ
れば死者の魂は火葬(注1)で清められて初めて死体から離れることができる、したがって火 葬されないかぎり死者の魂は行き所がない。墓場は葬式で火葬されるまでの死体の仮置場に すぎない。
葬式は最終的には骨灰が水に流されるまで、儀式次第が暦に従って定められる。その間に
死体が発する腐臭もバリ人は気にしない。しかし最近では衛生上の問題もあり、当局によって 3週間以内という期限が定められている。
本番に備えて荘重なパゴダ(火葬塔)が組み立てられる、カーストの身分によって長短があ
る。最高は十三層で10m以上になる。火葬塔はバリ人の宇宙観を示している。基礎台の亀と 蛇は地下界を表し、上の塔は天界を表す。
死後から葬式まで連日、ガムラン音楽や御馳走が振る舞われる。葬式の当日は死体は死者
の寺院からバデ(bade)に移され、そろいの衣装の大勢の若い衆に"神輿"のように担がれて 威勢よく火葬場に向かって進む。死霊が戻れないようにグルグルまいをして目を暗ます。葬式 の邪魔になる電線は除けてもらう。
火葬場は聖なる《山側》と反対側の不浄なる《海側》の村の外れにある。パゴダの下の大きな
張りぼての牛の体内の腹の所に棺(ひつぎ)は収められて火が付けられる。棺が燃えると生焼 けの死体が現われる。魚を焼くように表裏をひっくり返し、薪が加えられて完全に燃焼される。 火に清められた死者の魂は牛に導かれて天国に行く。
王国時代には王が死ぬと未亡人は火葬の火に飛び込み殉死するムサティア(→955)という慣
行があった。今日でもインドでは持参金の不足する花嫁が夫側の家族に焼き殺されるという悪 習が今日も行われているという。残酷であるには違いはないが、わざわざ焼き殺すという手間 をかけるのはヒンドゥー教徒なりの慈悲心なのかもしれない。
火葬は燃料以外の出費も多いので経済的に大きな負担となる。このため貧しい人は死後と
りあえず土葬にされ、費用が整えば掘り出して火葬にする。火葬費用の見通しがたたない場 合、誰かの火葬のついでに一緒に焼いてもらう。
葬式に参加している人の顔も祭りのように晴れやかである。バリ人にとって死は必ずしも悲し
みではない。晴れて天国へ行ける目出度いことである。バリ島の葬式の見物のため観光客が やってくる。見物人が多いほど賑やかないい葬式である。
火葬後の骨はすり潰して粉にしてヤシの実の容器にいれ、海に流され水になる。水は蒸発し
て空気=風になる。ヒンドゥー哲学によれば【地・火・水・風・天】は世界を構成する基本要素 (注2)である。人の生死は輪廻の輪の一環の節目である。
ヒンドゥー教徒には死者のための墓はない。死者となった先祖の"霊"は村や屋敷内の社に
祭られており、日を定めて天から戻ってくるのがお祭りである。
現在の位置
オランダがバリ島を占領した当初、ヨーロッパから優秀な宣教師が派遣され、バリ島民への
キリスト教布教が試みられた。しかし数年間の宣教活動にもかかわらず洗礼を受けた者はわ ずか一人であり、宗教心よりも宣教師への同情心からであったらしい。しかしその改宗者はバ ンジャール(→595)から疎外された。バンジャールから浮くということはバリ人としての存在の否 定であり、絶望した改宗者は自殺したと伝えられる。
その後、バリ島でのキリスト教布教については地域事情に合わせた。デンパサールのキリス
ト教会の門はバリ・スタイルの割れ門であり、椰子の葉のメール状の塔がある。屋根の先端の 十字架がヒンズー寺院でなくキリスト教会であることを示している。バリのキリスト教はいわば バリ・キリスト教に変装し改宗者を受け入れている。
オランダ統治時代、キリスト教布教はバリ社会の破壊をもたらすという学者の勧告に従い、
当局はキリスト教の布教を禁止したこともある。しかし植民地治世以降の下でバリ島に異教徒 が増えたのは他島からのイスラム教徒またはキリスト教徒あるいは仏教徒という移住者であ り、バリ島民の改宗者は少ないらしい。
決定的であったのはスハルト政権下でバリ島を目玉とするインドネシア政府の観光政策が積
極的に進められるにつれ、観光ブームにわくバリ島へ他島からの出稼ぎ者が増え、バリ島に 居住するようになったことである。
ングラ・ライ空港から出てすぐにモスクを発見してびっくりする。クタには島外から移住してきた
イスラム教徒が多いらしい。バリ島北岸にはジャワ移住民のカンプン・ジャワ(ジャワ村)が見ら れる。モスクが目印である。今日のバリ島ではヒンドゥー教徒でない異教徒は約10%を占めると いわれる。
島外からの出稼ぎ者に対しバリ人は邸内の住居を間貸し、異教徒が村に居住するようにな
ったが、バンジャールのメンバーにはなりえない。ヒンドゥー教とバンジャールは不可分であり、 バリ人にとって宗教とは生活そのものである。
9月30日事件(→384)では中部ジャワ、東部ジャワ、北スマトラでは反共産党の軍部とイスラ
ム教徒が無宗教の共産党員の殺害を煽動した。イスラムでないバリ島でも多くの人が殺害さ れ、その数は8〜10万人という説もある。当時の200万人強の人口の4~5%にもなる。バリ島で はヒンドゥー教徒が共産党員と疑われた者を殺害した。
かくも多い殺戮の理由は共産党員は無神論者で宗教に冷淡であったからと説明される。しか
し事実は単に反共産党であるという信号を首都に送ることが動機であり、その後は昂奮した島 民は集団アモック(→575)のように殺戮に熱中した。しかもバリの殺戮は殺され方が残虐であっ たらしい。現在、島民は沈黙して事件のことは何も語らない。
バリ島の歴史を調べると世紀に一回くらい殺し合いがあった。バリ島の9月30日事件とは政
治動乱ではなく、宗教動乱でもなく、単なる血を捧げる儀式としか言いようがない。舞台一杯に 繰り広げられた「劇場国家(→978)」バリのスペクタクル(注)である。
注釈と資料-652
現在の位置
バリ人は本来的に水田耕作を営む農民である。従って王国時代の都市とは王宮のある政治
の行われる所であり、王と貴族と役人がいる所であった。都市の新しい機能として拡大する経 済のために都市に集まってきた商人は中国系、インド系という異邦人であり、あるいはジャワ 人、ブギス人などインドネシアの他の島からの移住者である。島全体にわたる商業、島を越え る他島との商業において結局バリ人はアウトサイダーである。バリ人は《文化の人》であって 《経済の人》ではない。
バリ島は今や世界有数の観光地である。世界各地からの大量の観光客とともに異質文化ま
でが押し寄せる。バリ社会もバリ文化は恐ろしい勢いで変化している。古きよき時代のバリ紀 行に憧れてバリ島に来た人は失望する。ヒッピーが屯(たむろ)した1970年代のバリは良かった との回想の声もある。
インドネシアの開発政策の一環としてのバリの観光開発であるからヒンドゥー教の島にイスラ
ム教徒が増えるのは防止しえない。ジャワ島やその他の島から出稼ぎの人がバリ島にやって くる。テロ爆破事件(→751)さえ楽園の島へ持ち込まれる。
景勝の海岸に大ホテルが林立するとバリ人の雇用機会が増える。当然のことながらバリ農
民は農業を家族に任せてホテル勤めをする。村の祭りの行事には駆けつけるが、ホテル側と しては"祭り休暇"が多すぎるバリ人よりは出稼ぎのジャワ人を重宝する。
商品経済の浸透により、バリ人は現金収入のよいホテル勤務の方が大事になり、村から次
第に遠ざかり終には参加しなくなる、ということが起きるであろう。農婦は現金収入の得られる 勤めで忙しくなり、自らの手作業で作った日々のお供えも店屋で出来上がりを買うようになる。 そのうち機械製品に代わるのでないか。日本の地方の祭りでは神輿(みこし)の担ぎ手がいなく なり、トラックで巡行して様を思い出す。
神への奉納から派生した舞踊も信仰よりも観光に傾斜する。ケチャダンス(→915)も観光客
へのショーになる。最近のケチャダンスでは観光化が進みすぎて、好色そうな若い女性観光客 を物色するため盗み見している男も現われる。バロン・ダンス(→954)のトランスも演技になる。 神様のための木彫りや絵画の芸術は観光客の注文に従うようになり、現在では単なるバリ土 産物である。
バリの壮大な葬儀も死者やその家族のためよりは観光客のための催しに変わってくる。観
光客の火葬見物のための滞在時間を慮り、生焼け死体はバーナーで燃きつくすらしい。
所得が増えてバイクや車がやたらと増えてガボガン(→931)の行列の傍らをバイクや車が疾
走する。排気ガスと騒音でバリ島の静謐は消え、特に都市では喧騒の島になりつつある。押し かける観光客の影響で風俗は乱れてきた。
バリはインドネシアに同化されバリでなくなるのでないか懸念する声が高まっている。一方で
は観光客は資金提供に利用されているだけであり、バリには部外者が越えられない一線があ ってバリは依然として変っていないという意見もある。
注釈と資料-653
現在の位置
バリの伝統文化のパトロン(保護者)はラジャといわれる王様達であった。小さい王国の存在
は文化に対する競争を促しその有様は「劇場国家(→978)」と名付けられた。しかし王国がオラ ンダによって政治の実権を奪われて以来、ラジャの懐具合は不如意になり、バリ文化のスポン サーがいなくなるという危機の時期を迎えた。
植民地時代にも西欧から芸術家や文化人と若干の観光客がバリ島を訪れたが、戦後の大
衆化時代となり、観光客が大挙して訪れるようになった。いわゆる観光ブームによってバリ舞 踊やガムランはホテルに出かけて観光客の前で演奏されるようになった。まさに観光客はラジ ャにかわる救世主となった。
観光客が増えるに従い、経済的な余裕に加えて観光客のために衣装も派手になる。次第に
神への奉納のための舞踏は観光客のためのショーになる。観光客誘致のための遊園地風の 商業施設も建設(注)された。
ケチャ・ダンス(→915)も遡れば数十年前のものにすぎない。しかもその演出を考えたのはヨ
ーロッパ人である。バロン・ダンス(→954)にしろレゴン・ダンス(→914)にしろ観光客のために化 粧を行い衣装を整えるようになったのも比較的最近である。観光客のためのバロン・ダンスは 特定の村の利権となっているらしい。
バリ島の田舎から多くの踊りが発掘され、改良されて観光客のショー用に改善されてダンス
のメニューは充実していく。子供まで動員されて「蛙踊り」などが演出される。観光芸能という新 しいジャンルの芸能が神と信仰の島バリで試みられている。
ここで難しくなってくるのは信仰のための活動が観光によって汚染されることである。しかしバ
リ人は観光によって収入を得、文化活動の継続が可能であり、祭りを行うための経済的支援 になるから良いのだと割り切っている。
バリ人は観光のためのショーと信仰のための儀式を意識的に使い分けしている。このため
観光客は立ち入りを禁止している儀式もある。 例えば観光客に見せ物のためのバロンとは別 に本物の伝統のバロンは香を焚いて厳重に保管している。観光客側にもショー化したわざとら しさが嫌みにもなる。
バリ文化の観光化には信仰の冒涜(ぼうとく)であるとか芸術の堕落であると危惧する声はバ
リの内外から聞こえる。バリが観光という名の下にもたらされる現代文明に犯されつつあること は時代の趨勢である。
バリの危機は何も芸能の分野に限らない。バリ社会が置かれている危機でもある。信仰や
芸術のバリ人に対して経済や生活が比肩するようになった。ユートピアを期待してバリ島へ行 った人は失望するだけである。観光客を狙った爆弾テロ事件(→751)さえ発生した。バリ島とい う異色な存在は観光を通して次第に輝きを失っていくのであろうか。
現在の位置
|