F−8章 華僑と華人 
666.鄭和の艦隊 667.紅河事件
668.蘭芳公司 669.鉱山労働者
670.白手起家 671.西のユダヤ人
672.衣錦還郷 673.同郷会館
674.チャイナタウン 675.建源財閥の盛衰
676.独立後の華僑 677.華僑から華人へ
678.華僑の国籍 679.同化政策
680.華人への差別 681.ボブ・ハッサン
682.1998年5月事件の受難 683. 華人パワー
684.華人の行方

F−8.華僑と華人(注釈と資料)
F-1 インドネシア民族の出自  F-2  インドネシア人の民族性  F-3 稲作共同社会   F-4 諸民族とその社会
F-5 ジャワ社会とジャワ人 F-6 バリ社会とバリ人 F-7 少数民族  F-8 華僑と華人  F-9 異邦人として
F-10 インドネシア人の信仰心  F-11 宗教の並存  F-12 変動する社会  F-13 現代社会の様相



改定作業中


F−8 華僑と華人

666.鄭和の艦隊

 中国とインドネシアの交流が中国側資料に現れる南方の記載は5世紀頃からである。「室利
仏逝」のスリウィジャヤ王国(→255)に続き、「三仏斉」(マラッカ海峡の王国)、「訶陵」(ジャワ
島の王国)が登場する。ジャワ島は「闍婆」と記されていたが、元代頃より「瓜哇」になった。こ
れらは交易、朝貢などの友好関係であったが、侵略行為として現れたのが蒙古襲来(→246)で
ある。指揮官は蒙古人であっても兵は中国人であった。
  次に現れたのが鄭和艦隊である。中国の南海への膨張政策として"明"の永楽帝(注)の時
代の1405-33年間に7回にわたり南海遠征が行われた。第1次は62隻からなる艦隊に1隻の
乗組員は約450人、総計2万7千人が乗り込んだ。
  船は長さ140m、幅58m、マスト9本、今日の船に換算すると2000トンという当時では世界最大
の巨大船である。7次まで派遣され、船隊はアフリカ大陸に至るまでの航海をおこなった。アメ
リカ大陸にも鄭和艦隊が到達したという説もある。ジャワ島は鄭和艦隊の支隊の渡航先であ
り、1405年にスマラン(→134)を訪れて以来、スマランは鄭和の東南アジアにおける基地の一
つになった。遠征は侵略ではないが国威発揚の示威行為であり、遠征された方にも交易という
実益を伴ったことが味噌である。
「鄭和(Cheng Ho 1371-1434)」について特筆すべきことは彼が雲南省出身のイスラム教徒で
あったことである。スマランの鄭和を祭った「三宝廟」は中国式寺院であるにもかかわらずイン
ドネシアのムスリムの信仰も寄せられている。 東南アジアの華僑にとって鄭和は母国の栄光
の証として三宝廟のみならず中国寺院において孔子や関羽などとともに祭神の一人になって
いる。
 鄭和の遠征をきっかけに中国人の南方への進出が本格的に始まり、ジャワ島沿岸に中国か
らの商人が移住するようになった。15世紀末に勢力を得たジャワの交易都市のドゥマック王国
(→249)はムスリム系中国人が支配する港市であった。
  中国の歴史は大陸においては北や西・南への膨張の歴史である。しかし南海への膨張は平
和友好裡に行われた。当初の15世紀頃の中国人の移住の異郷との国際交易を行う商人とし
て歓迎されたのである。交易に従事する中国人は富裕な階層であった。後に苦力(本章)として
大量に押し出してくる華僑とは文化も異なった。
  しかし永楽帝以降の中国皇帝は海外への覇権の拡大に関心を待たず、朝貢貿易で満足し
た。中華思想によれば海外は化外(けがい)の地であり、用があって先方が訪れてくれば会って
やる、という態度であった。後に、オランダが清の皇帝に紅河事件(次項)で中国人の犠牲者を
出したことを詫びた時、皇帝の返事は「余は価値のない者の運命には関知しない。これらの者
は富を求めて国を捨て、祖先の墓を放置したのである」といった。

⇒鄭和の艦隊
⇒鄭和像
⇒中国のプレゼンス

注釈と資料-666  135.三宝寺院

⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


667.紅河事件

17世紀にバタビアに距をかまえた東インド会社(→272)は荷役や家事を行う労働力に不足した
が、スルタン・アグン王(→337)の包囲された恐怖に懲りて原住民(ジャワ人やスンダ人)を城壁
内へ入れなかった。アフリカから奴隷の移入を奨励し、後にはバリ島、スンバワ島、フロレス島
などが奴隷の供給源になった。
奴隷だけでは不足する労働力確保に困ったバタビア総督クーン(→336)は当面の必要ならば
中国沿岸から人を攫(さら)ってくることを命じた。強制的移住とは別に商人が移住するようにな
り、バタビアの中国人は1629年には2千人から1720年には10万人になり、オランダ人と共生し
ていた。
 1740年10月、バタビアで中国人虐殺事件が発生した。殺された中国人は3千人〜1万人とい
われる。この事件が「紅河事件」といわれるのは中国人の血でバタビアの運河が赤くなったか
らである。「タナ・アバン(Tanah Abang=赤い土地)」というジャカルタの商店街の地名(→864)も
紅河事件の名残らしい。
 紅河事件は浮浪中国人が増加してバタビアの治安が悪くなるなどの社会問題を生じたので
東インド会社は浮浪者をセイロン島(注1)へ強制移住させようとした。しかし先にセイロン島へ
送られた中国人が逃げて帰り、セイロン島での虐待が噂になっていた。
 セイロン島へ送られることでパニックになった中国人は反乱の烽火をあげてバタビアを包囲
した。中国人の反乱に今度は要塞の中のオランダ人がパニックになり城壁内の中国人を連行
して虐殺した。これら中国人は商人であり、町の外で反乱した浮浪者とは関係はない。にもか
かわらず日頃の反中国人感情を誘発し虐殺へと爆発したものである。
 この事件の余波は中部ジャワに拡大した。かねてから東インド会社に反感を抱いていたマタ
ラム王国のパク・ブウォノ2世(→251)は中国人の反乱の報に接して中国人と合流すべく中部ジ
ャワでオランダに叛旗を翻した。中国人とジャワ人の共同戦線(注2)はジャワ歴史においても
奇異な連合であったが、中国人側の壊滅であえなくも崩壊した。

 オランダのジャワ支配の本格化において中国人は微妙な存在であった。ジャワ人を含むマレ
ー系原住民の海の中でオランダは原住民の敵意を恐れていた。このような状況でオランダに
とって中国人の存在は原住民の反感のバッファーの役割を担った。オランダ支配に対する原
住民の憤りを転嫁するには中国人はあつらえ向きの重宝な存在であった。
 東インド会社は中国人に徴税の請負や阿片の販売の特権を与え、会社の手先として甘い汁
を吸わせた。植民地体制において中国人は《外来東洋人》として法と身分を《原住民》と区分す
る分割統治を行った。
 東インド会社時代からオランダは原住民支配において中国人を利用するだけの関係であり、
中国人の存在にオランダ自身が脅威を感じれば中国人は容赦なく抹殺されたという歴史のエ
ピソードが紅河事件である。

⇒華僑(絵画)

注釈と資料-667  

 ⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


668.蘭芳公司

華僑が"自治政府"をつくるというインドネシア華僑の特異なケースが西カリマンタン州のポンテ
イアナックの近くマンドル(→189)にあった。華僑によって建設された「大唐」という社会組織が、
あたかも共和国(注)のような存在であったことである。初代大統領にあたるのは「羅(ら)芳(ほ
う)伯(はく)」という広東州出身の客家人(本章)である。
 ボルネオ島の西カリマンタン地方は18世紀中頃より金ブームにわいた。地元のスルタンは金
の採取を事業とするため中国から労働者を招いたが、そのうち中国人のボスが地点毎にスル
タンから金の採取許可書をもらうという形で金の採取を請け負った。併せて鉱区内の自治も認
められた。
 中国人は共同で事業を営むために"公司(コンス)"を設立した。現在でいう有限会社「Co.
Ltd」である。中国の公司の歴史は15世紀に華南の鉱山開発が始まりといわれる。商人や山
師が資金や物資を集めて事業を行う、能力という現物出資もあった。
 公司は供出額が持分出資の株となる。仲間から経験と統率力のある者を互選して長にす
る。会計、職長も互選し、4ヶ月任期の輪番制の民主主義的運営である。採掘した鉱石は税、
共用費、長の取り分を控除して残りを出資に応じて配分する。この公司制度によって華南や雲
南の中小の鉱山の開発がおこなわれた。
 西カリマンタンでも同じ公司方式で金山が開かれた。当初は乱立していた公司は統合され、
その中で群を抜くものが蘭芳伯の率いる「蘭芳公司」であった。蘭芳伯の下に4万人の中国人
を結集し、農民も会員に入り米を供出した。原住民20万人も蘭芳伯の保護下に入るようにな
り、後にはスルタン自身も蘭芳に保護を求めたといわれる。
 蘭芳伯は会員に選出されて指導者となり、蘭芳伯の死後も同様の手続で指導者が選出さ
れ、1777年から1884年までオランダに併合されるまで100年以上蘭芳公司は継続した。蘭芳公
司は実質的に民主主義に基づく蘭芳共和国であり、蘭芳伯は大統領と同じであった。フランス
革命以前に既に民主主義国家がボルネオ島に存在していた。蘭芳公司は異国における中国
人の治外法権地域であったのみならず、民主的制度の始まりという点からも評価される。
 ボルネオ島の西岸がヨーロッパ植民地帝国間の勢力争いのエアポケットにある間の一時現
象であるにせよ蘭芳公司の存在は華僑のバイタリティを示す事柄として注目される。
 バンカ島(→104)やマレー半島では欧米資本によって開発された錫鉱山に伍して華僑の公司
組織によって錫鉱山が開かれた。出資に基づく会社組織であるが、ややもすると自治組織で
あることが中国人の悪名高い秘密結社(→673)の土壌と警戒された。
  今日でも西カリマンタン州における中国系住民の比率が高いが、農業を営む者も多いようで
いわゆる華僑問題は顕著でない。近年の西カリマンタンにおける民族暴動(→738)は《プリブミ
(ダヤク人)》vs《新移住民(マドゥラ人)》という形であり、中国系が標的となるインドネシア一般
の図式と異なる。


⇒羅芳伯 
⇒カリマンタン島の金採取

注釈と資料-668  
 
⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


669.鉱山労働者

華僑は全て商人であると思われているが、始めから商人であったのは恵まれた華僑であり、
中国人が最初に東南アジアに華僑として群をなして大量に現われたのは錫鉱山やプランテー
ションの「クーリー(kuli)」といわれる肉体労働提供者(注1)としてであった。クーリーの語源はタ
ミル語の"雇われた人"である。漢字の「苦力」が用いられるようになってからは中国語のように
なった。輸入語の漢字表現の傑作である。
  英国の黒人奴隷廃止条令は1833年である。禁止された奴隷労働の後釜が中国人苦力であ
る。奴隷同様に連れて来られた者もあり、苦力貿易が黒人奴隷に代わるものとして盛んになっ
た。中国から華僑として大量に流出するようになったのはアヘン戦争(1840-42)で中国国内が
乱れ、広東省、福建省で貧民が溢れたことが中国側の押し出し要因となった。
苦力を合法化したい英国は1860年の北京条約で中国人の海外移住を認めさせ、以降、中国
人の南方移住が増加した。大量に調達された鉱山労働者は"移民"というよりは海外への"棄
民"であった。
 一方、植民地支配下のインドネシアでは鉱山の開発とゴム園の開拓には労働力が不足して
いるという華僑の受入要因があった。人口の相対的に希薄なスマトラ島やカリマンタン島は華
僑の労働力によって開発されたものであり、特に錫鉱山(→550)の開発は華僑の歴史と密接な
かかわりを持っている。
 錫資源に恵まれた南スマトラのバンカ島(→104)、ブリトゥン島は半農半魚の小数のマレー人
が自給自足で住む島であり、鉱山開発に必要な労働力が不足していた。そこで目をつけられ
たのが中国南部の過剰人口である。"契約華工"という契約の形態はとっているが、実質は奴
隷労働(注2)に等しかった。攫われるようにして連れてこられた華僑は迫害を受け、また苛酷
な労働に反発し暴動を起こすこともあった。
  かれらの弁(べん)髪(ぱつ)が豚の尻尾に似ていたことから中国人は"猪仔(子豚の意味)"と軽
蔑され、文字どおり子豚のように売買された。まさに苦力貿易の商品として多数の華僑が南方
へ送りこまれた。
  英国の支配するマレー半島で錫資源は豊富に存在した。華僑の移出元の香港と移出先のシ
ンガポールが英国の支配下にあったことから、鉱山労働のための苦力として華僑の移住は大
掛かりであった。オランダ領東インドもそのシステムに組み込まれていた。
マレー半島のゴム園(→881)労働者には華僑とインドのタミル人が引き当てられた。鉱山労働
は体力が必要な厳しい肉体労働であるが故にもっぱら華僑であったが、一方、ゴム採取は早
朝の作業で人手を要するが鉱山労働との比較で肉体的にはそれほど厳しくないので、より低
コストのインド人が導入された。
  この結果、マレー半島では現在でも人口の半数近くを中国系とインド系が占めており、マレー
シアの民族問題はインドネシアより根は深い。マレーシアでは目覚しい経済発展の中で民族問
題の軋轢(あつれき)を吸収してきたが、経済が行き詰まると予断を許さない。

⇒植民地時代の錫の採掘
⇒クーリー

注釈と資料-669 

 ⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


670.白手起家

 清朝は明の残党の鄭成功の財源を絶つため「遷界令(せんかいれい)(注1)」によって福建、
広東の沿岸の住民を内陸部へ強制移住させたが、1684年遷界令解除による南方交易の再開
に伴い、華南から東南アジアへの出稼ぎ者が増加した。しかし東南アジアの華僑といわれる中
国系住民の移民は19世紀の『清』末になって生じた大量の移民のことである。
華僑は出稼ぎのため商人や労働者として大挙して東南アジアに渡航してきた。ちなみに"僑"
の字は仮住まいという意味であるように華僑進出の分野で目立つのは"三把刀"といわれる包
丁、髪鋏、裁ち鋏を使う料理人、床屋、仕立屋である。理由は金属の道具以外の元手のかか
らない職種であった。世界にあまねくいきわたる中華料理レストランには超豪華なものもある。
しかしどのレストランも起源をたどればみすぼらしい屋台同様の店であった。彼らは辛苦しな
がら節約して貯めた資本を元手に行商から露天商にはい上がり、やがて店を構え、さらに拡
大していく。「白手起家」とは「徒手空拳の素手から財産を築く」という意味で、成功した華僑一
代の人生の過程である。
オランダの植民地支配構造の中で華僑は次第に流通部門を牛耳るようになった。このような
華僑の商業における成功の原因には下記のようなことが挙げられる。
   @プリブミ(→474)における経済観念の立ち遅れ、
   A華僑自身の経済的助け合いの組織化、
   B土地の持てない華僑に農業の生計手段がなかった
   C植民地政庁の間接支配としての華僑の便利使い、
 「凡是海水所到的地方、就有華僑(海水の至ところ華僑あり)」というように東南アジアに進出
した。東南アジア各地に華僑のいない所はなく「一本のヤシの木の下には3人の華僑がいる」
といわれるほどである。
  東南アジア以外にもアメリカやヨーロッパなど地球上のありとあらゆる所に移住して活躍して
いる中国人が華僑である。華僑の定義にもよるがその総数は3千万人(台湾・香港を除く)、そ
の80%という圧倒的多数が東南アジアに居住しているといわれる。
  シンガポール(→463)は華僑の国である。マレーシア、タイ、フィリッピン、ベトナムなど各国で
各々の華僑の存在が問題化している。東南アジアではミャンマーには華僑問題に代わり"印僑
問題"がある。どちらも同質の問題である。
 華僑が南方に居続けたのは東南アジアが魅力的な場所であったからである。華僑の経済的
素質は南方の原住民を上回っており、このため故郷の中国ではただの農民であった者も東南
アジアでは商人となって財を蓄積した。
 インドネシアの中国系住民の正確な数字はない。国家統合の観点からインドネシアは一つの
民族、すなわちインドネシア人しかいないからである。一般的には総人口に対する比率は3%程
度で5~6百万人(注2)といわれる。しかしその存在は社会、経済、政治、外交などいろいろな分
野に係わり、3%をはるかに上回る問題である。

⇒中華レストランで
⇒マナドの中国寺院

注釈と資料-670  

⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


671.西のユダヤ人

 19世紀末頃より華僑の移住は苦力以外の職種も求めて、あらゆる地域に拡大した。華僑が
東南アジアへ渡航する費用は借金であった。現地に着いた華僑はその返済のため必死に働
いた。このように彼らは初めから貨幣経済に巻き込まれていた。
彼らは政治との係わりを避け、その分だけ経済(商業)に集中したことから、華商ともいわれ
る。【西のユダヤ人・東の華僑】といわれてきたようにユダヤ人と華僑には共通点(注)が多い。
  @時代と地域は異なるが不本意ながら祖国を離れる
  A商業や金貸しで身をたてる
  B移住先に同化しない、忠誠心がない、選民意識or中華意識が強い
  C受け入れ先で嫌われ、迫害される歴史を持つ
  D常時、逃避策に余念がない
 ユダヤ人の出自は遊牧民であり、華僑の出自は農耕民であり、両者はもともと商業民でな
い。しかるに彼らが商業において成功したのは理由がある。彼らは移住先で差別されてきた、
土地の保有は認められないから農民にはなれない、まして公務員になれるわけはない。彼ら
がはい上がる道は商業しか選択の余地がなかった。
 東南アジアにおける華僑の経済分野への進出を見ると彼等は先天的に経済観念に優れた
民族と思い勝ちであるが、敵意ある民族の中で孤立しているという置かれた状況が彼らをして
経済に敏感にならざるをえないようになった。つまり後天的なものである。
 二級公民として法的には現地人以下の存在であり、彼らに植民地政庁から与えられた職種
に徴税の請負人、アヘンの製造・販売などがあった。これらの嫌がられる職種は儲けも大きか
った。植民地体制は華僑を楯代わりにし、自らを民衆の憎悪から守った。
華僑はいわば植民地統治の"汚物処理屋"(戴 國輝「華僑」)にさせられた。ユダヤ人はユダ
ヤ人にしかなれないように、華僑は華僑でしかありえないような追い詰められた状況に置かれ
た。
 貯めた金を基に華僑は商業に進出した。商業が華僑に適しているという要素もあるが、商業
は政変などで危険が差し迫る場合でも容易に金だけ持って逃避できる。政治的に不安定な立
場に置かれた華僑が商業・金融に留まるのはいわば生活の知恵であった。
 未だもってインドネシアの華人問題が華僑問題でありうるのは彼らの経済力である。もし彼ら
がそれほど経済で抜き出ていなかったならば、人口が3%の民族の一般問題にすぎない。華人
問題の難しさは独立前から華僑がインドネシア経済を牛耳(ぎゅうじ)っていために、妬(ねた)ま
れて憎悪を受けることにある。
 華僑の歴史は1740年の虐殺事件(本章)に始まる迫害の歴史でもある。社会不安、政治不安
の際にスケープゴート(犠牲の羊)にされるという役割は今も変わらない。1998年5月事件(→
403)でも中国系住民への迫害が行われたことは生々しい記憶である。

⇒チャイナタウン(1949年)
⇒中国寺院で ⇒天上聖母

注釈と資料-671 

 ⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


672.衣錦還郷

香港の郊外の海を臨む所に"望夫山"という山があるらしい。赤ん坊を背負った女性の形をし
た岩の形から名づけられたものという。海外へ出稼ぎに出かけた夫の帰りを海を見ながら待
つうちに岩になった、という話である。
  華僑の理想は"衣錦還郷"であり、2〜3年働いて多くは故郷に戻った。祖先の墳墓の地から
離れることは中国人の倫理に反していた。"落葉帰根(注1)"といって移住先で死ねば棺(ひつ
ぎ)に入れられて船で中国に帰ることが願望であった。しかし中には現地で妻を娶りインドネシ
アを生活の本拠地とするようになり、故郷に戻らずに"落地生根"になった者が今日の華人の
父祖である。福建では「華僑が10人おれば、3人は死に、6人は海外に残り、最後の1人だけが
帰郷する」といわれた。
 華僑の出身地である僑郷は広東、福建、潮州、客家、海南島に大別される。さらに福清、 福
州、興化、広西、三江を加えて10幇ともいう。歴史的には福建省がもっと早い時期から海外に
開かれており、交易の先進地域であったことから海外への進出も早かった。福建にならってま
わり地域が流動化した。後から行く華僑は地縁で先に移住した同地域出身の華僑について行
くので自然とかたまり、同郷会館(次項)を設立する。
 ところで中国語とは漢字の文字は共通であるが、発音は地方で異なる。その差は方言であ
るにしてもほとんど理解しあえないため中国人同志が話す際には筆談である。地図で見ると広
東省と福建省は隣接しているが、言葉の差は東北弁と九州弁の差以上といわれる。
【福建幇】福建人は世界の華僑の主流であり、インドネシア華僑出身地の最大手でもある。特
に?南語、厦門語を話す南部の?州、泉州の出身者がメジャーである。同じ福建省でも東部は
福州人、中部は興化人として別のグループに区別されることがある。ちなみに日本の福建省
出身者は福州が多い。
【潮州幇】行政区分では広東省の東部になるが、言語的には福建人に近い。仙頭港から旅た
った潮州人はタイ華僑の主流である。
【広東幇】広東省の広州の出身者を主力としマレー半島に多い。インドネシアではバンカ島(→
104)の鉱山労働者に多い。
【客家幇】広東省東北部の山岳部に居住する。華北から移住し文化の優越感から先住民と一
線を画している。中国国内で差別されてきたことにより逞しさを鍛えてきた。東南アジアの客家
出自ではリークアンユー・シンガポール元首相が著名(注2)である。
【海南幇】海南島北部の海岸地方、文昌東部の出身、元は福建人である。
インドネシア華僑の出自は約半数を占める福建人が主流である。広東人、客家人と比べると
海外移住の歴史は長く、福建人にはそれなりのノーハウが定着している。後からきた広東人、
客家人は遠慮のノーハウがないので物議をおこしやすい。東南アジアの華僑問題では広東
人、客家人が多数を占めるマレーシアの方が暴動リスクが高いはずであるが、経済的繁栄が
これらのリスクを風化させている。

⇒バタビア
⇒家族の移住

注釈と資料-672 

⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


673.同郷会館

 チャイナ・タウンに目立つ立派な建物は「会館」といわれるものである。会館は華僑の互助組
織のための拠点でいわば華僑の経済・文化センターである。華僑は何らかの形で群れる。そ
の第一は出身地別の同郷会館である。「福建会館」「広東会館」という省単位の広い地域から
府、県、村など多岐多様である。
 中国という国家から見放された形で海外に進出した華僑に、渡航先の政治権力の保護があ
るわけでない、頼りにするのは彼ら自身の団結だけであった。華僑は同郷人からなる組織に
入り会員間の助けあいを行った。この郷土別の華僑の団結の強さは、いわば当時の中国の
国家の弱さと反比例した。
  華僑が一人くるとその後、血縁、地縁の者が続々とやってきて"幇(はん)"という排他的集団
を作る。同じ姓を持つものによって組織される宗族組織は同姓会館、宗親会といわれる。例え
ば「林氏公会」とか「陳氏社」というものである。中国人は同姓は祖先が共通と考えているので
結びつきは強い。
 中国人はまた同業者で「米商公会」というような同業会館も設立する。華僑は出身地と職業
の関係は密接であるので同業会館といっても同郷的性格が強い。
 その結合がさらに強化された組織が"洪門(ホンメン)"といわれる"秘密結社"である。必ずし
も同郷人とは限らないが、地縁、血縁の繋がりから自ら同郷人の組織になる。孫文の辛亥革
命を支えたのも政治的秘密結社である。結社の組織として広東人の「義興公司」、福建人の
「太伯公会」、客家人の「海山会」「和光社」などがノトリアスの方で名高い。
 秘密結社は、血をすすりあって結社員になり、同志に対して特別の便宜をはかる、結社員の
不利益に対して必要ならば暴力もふるう。近年では闇世界の組織は"蛇頭"として世界に進出
し中国マフィアとして恐れられている。
 
 1900年にバタビアでリーキムホックなどによって中華会館が組織された。全ジャワの華僑を
統合する団体で学校の設立などに力をいれた。本来は全体的にまとまりがないはずの全華僑
の団結は植民地におかれた華僑の民族意識の反映である。
  中華会館の発足は原住民であるプリブミを刺激し、イスラム同盟(→287)を発足させ、インド
ネシア民族主義運動へ向わせる契機となった。
 近年における華人企業家の主導による東南アジア経済の繁栄は目覚しい。華人企業の繁
栄のバックには国境を超えて結びつく華僑ネットワークがある。同郷会館が拡大発展したもの
である。福建人、広東人を超える中国人としての同胞意識から連帯の動きが経済活動の資産
になっている。「中華総商会(注)」という華人の国際的財界組織がある。
 東南アジアの中国系住民は福建人、広東人など華南の子孫であるが、現地生まれの世代は
同化政策の強制もあり父祖の言葉は失ったが、華人の共通語としてマンダリン(北京官話)に
統一されつつある。

⇒中国寺院

 ⇒チャイナ・タウンの入口(植民地時代)

注釈と資料-673  

⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


674.チャイナ・タウン

 世界各地にある「チャイナ・タウン」はエキゾチックな文化の香りを放つ所であり、サンフラン
シスコや横浜・神戸では観光の名所になっている。チャイナ・タウンは外国に存在するからその
意味がある。当然のことながら上海や北京はいうまでもなく、香港、台北もチャイナ・タウンとは
言わない。華僑の進出が一番大規摸であった東南アジアこそチャイナ・タウンの本場といえ
る。
 チャイナ・タウンは自然発生的でなく、為政者が厄介なものは隔離するため中国人の住む地
域を指定したことに起源を発するケースが多い。中国人はチャイナ・タウンに固まって居住する
ことで周りの住民の敵意への防御にした。
 もちろん中国人は商売熱心であるから自然と都市の商業の中核であり、チャイナ・タウンとは
下町とか商店街の意味である。異郷に住む中国人のかもしだす独特の雰囲気が異国情緒の
ある魅力ある場所となっている。ジャカルタ旧港のコタに隣接したグロドックはチャイナ・タウン
として発展してきた所である。
 インドネシアのチャイナ・タウンは世界の他の都市のチャイナ・タウンと比べると何かが違う。
それは漢字の看板(注)がないことである。インドネシアでは漢字の使用は禁止されている。し
かしチャイナ・タウンの一角の廟には〔金徳院〕というような漢字の額や目出度い文字の赤い紙
が貼られているのは宗教として黙認されていたからである。
  華人の宗教は公式には仏教であるが、儒教・仏教・道教の3教の融合したものであり、インド
ネシア語で「クレンテン(kelenteng)」といわれる中国寺院の廟内には釈迦、孔子、観音菩薩、
関羽帝などの諸像が一堂に会している。
 日本人にはなじみがないが、特に福建人に人気があるのが「媽(ま)祖(そ)」とい女性の神であ
る。媽祖は人々を苦難から救う、特に海難から守る航海の神様である。福建省媚州島の林黙
娘という実在の少女が父を溺死から助けたことから海神となり、さらには広州では天妃、天上
聖母、天后聖母ともいわれるようになった。
 廟にきて線香を供える若い婦人もいる。一方、より多くのみすぼらしい老人が所在無さげに
たむろしている。彼らは華僑の中の落後者に違いない。華僑としてインドネシアへ来た者はす
べて成功したわけでなく、多くの華僑は民衆の中に埋没している。
 原住民の敵視の中で華僑は必死になってアイデンティティを維持しようとした。@僑校、A僑
報、B僑団の"僑社三宝"は華僑であることのシンボルであった。「僑校」とは華僑の子弟がい
く中国語の学校である。「僑報」とは漢字の新聞である。「僑団」とは主として出身地域による同
卿会である。
 同化政策のため、僑校、僑報、僑団などが禁じられた後遺症により、インドネシアのチャイ
ナ・タウンの様相は一般に知られる東南アジアのチャイナ・タウンとは外見のみならず深層にお
いても異なったものとなっている。 

⇒チャイナ・タウン(バタビア時代)
⇒パサル・バル(バタビア時代)

⇒スラバヤの中国寺院

注釈と資料-674  157.グロドック

⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


675.建源財閥の盛衰

 かつてスマラン(→134)に存在した「建源(Kian Gwan)公司」はインドネシアのみならず東南ア
ジアで最富豪の華僑財閥として知られていた。建源公司を率いた黄仲涵と親子三代の生涯は
栄華を極めた華僑の19世紀後半から20世紀の半ばまでの家族史でもある。
 黄仲涵の父の黄志信は1835年、福建省同安県に生まれた。その頃、中国の清は末期症状
を示しており、太平天国の影響を受けた反清運動が起こり黄志信も参加するが政府軍に破
れ、帆船に乗りジャワ島に逃れたのは1858年である。
 華僑には通行や居住地が制限されていたため、自由な経済活動を行えるヨーロッパの企業
と比べるとハンディを背負っていた。それにもかかわらず多くの華僑企業は勤勉を資本に成長
したが、その中から建源公司は抜き出てきた。
 スマランで小売商から始めて財を築き、1863年に建源公司を設立して貿易に乗り出しジャワ
から砂糖、タバコを輸出し、中国からは干し魚や絹を輸入した。強制栽培制度が順次廃止され
て、自由貿易と自由競争が唱えられるようになり、建源公司はこのような社会変化に乗じて急
速に発展した。
 建源公司が飛躍的に発展したのは黄仲涵(Oei Tiong Ham ウイ・チョンハム)という後継者に恵ま
れたからである。黄仲涵は1890年に24歳で会社の経営を父から譲られて以来、事業を拡大し
蘭印各地のみならずヨーロッパにも支店を開設した。
 積極的に砂糖の生産と貿易に進出し、第一次世界大戦後の砂糖値上がりで巨額の利益を
得て"ジャワの砂糖王"といわれた。ゴムやコーヒーなどの熱帯産物の生産を拡大するとともに
銀行、保険、海運に進出した。阿片も扱ったといわれる。
 建源公司の利益に目を付けた植民地政庁は特別税の徴収を嵩にかけて企業の買収を迫っ
たが、黄仲涵は植民地政府の要求を拒絶してシンガポールに移住した。1924年にシンガポー
ルで死亡し、死後スマランに埋葬された。
 黄仲涵の8人の妻に26人の子供がおり男子は欧米の大学に留学させた。黄宗宣、黄宗孝を
指導者とし、多くの事業のうちゴム経営で多額の利益を得て"ゴム大王"の称号も得た。しかし
太平洋戦争の勃発による日本の占領、その後のインドネシア独立で華僑財閥の置かれた環
境が激変した。
 建源公司はインドネシア化を進めようとしたが、指導者の突然の死亡で対応が後手後手とな
り、1961年7月、スカルノ大統領の排華政策のもとに経済法令違反と重大脱税を理由に幹部
は逮捕された。建源公司はインドネシア政府に没収管理され歴史を閉じた。
 今日インドネシアの華人企業の多くは同族経営である。巨大になっても同族である限りは限
界がある。政治権力との距離も難しい。
スハルト政権の下で巨万の富を得たサリム・グループ(→523)はインドネシアには借金の担保
の資産だけを遺し実質資産を事前に海外逃避させる形で1998年5月の激動を乗り切った。建
源財閥の盛衰は前車の轍(わだち)であったのであろうか。

⇒スマランの大覚寺
⇒黄仲涵

注釈と資料-675  

 ⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


676.独立後の華僑

独立戦争の間の共和国閣僚には中国系の名前を見いだすことができる。彼らが経済関係の
要職に就任していたことは華僑の経済的な才能がそれなりに評価されたものであろう。
 一般の華僑は独立戦争に際しては対立に巻込まれないように政治的に中立の立場をとった
者が多かった。しかしインドネシアが独立戦争を勝ち取り政治的独立を確保すると華僑への風
向きは変わった。インドネシアはオランダからもぎ取った政治の独立の次は華僑から経済の独
立を勝ち取らねばならないと考えた。
 植民地経済に寄生していた華僑はオランダがいなくなることにより自然消滅することが期待
され、排華政策が講じられたが、政治とは異なり華僑から経済を取り戻すことは容易なことで
はなかった。
  1959年に主要な華僑の企業や銀行が国有化された。建源財閥(前項)の破綻もその一環であ
る。高い外国人登記料が設定され、1960年には外国人の地方での商業禁止が布告された。
外国人とはインドネシア国籍のない華僑のことである。この布告により地方で商業を営んでい
た華僑は店も商品も投げ売りして店を閉じた。結果として華僑の都市集中を招いた。
 次に出された華僑を追い撃ちの金融政策は高額紙幣だけを1/10に減額するというものであ
る。当時、店も商品も売り払い紙幣に替えていた華僑が最大の被害者であった。丸裸にされた
華僑はインドネシアを引き上げ中国に帰国した。
  国が管理する貿易はベンテン政策(→474)といわれ、許認可がインドネシア人にだけ与えら
れて華僑は排除された。新生独立国インドネシアにおいて外国人である故に居場所を失くした
華僑はインドネシア国籍の必要性を痛感するようになった。しかし仮に華僑がインドネシア国
籍を取得しても居住権を保証されただけで、経済政策ではノンプリブミ(非現住民)という差別
扱いであった。
 華僑の多くはインドネシア国籍を蔑視して中国籍に執着していたが、祖国中国には1949年、
共産党政権の中華人民共和国が成立した。華僑には共産党支配の中国に失望が高まり、見
ず知らずの台湾という選択肢にも抵抗があり、帰すべき祖国がなくなった。
華僑がインドネシア国籍を取得しようとした頃には、国籍取得にはいろいろなハードルが設け
られ、三代以上のインドネシア居住の証明までも求められた。スカルノ大統領は民族主義者と
して華僑を排除する"排華政策"を講じた。
 その後、スカルノ大統領によって中国共産党の支配する北京政府との外交関係が強化され
ていくことが華僑にとって頼みの綱であった。共産党だけを頼りに独裁化するスカルノ大統領
の下で多くの華僑が左傾化したのは左翼政治思想の主義主張への共感というよりはインドネ
シアで生存するための支配者への阿諛(あゆ)迎合であった。
共産党政権であっても偉大なる祖国はかれらの後光であった。しかし9月30日事件(→384)で
中国との外交関係が凍結されたことにより、中国(北京)を向いていた華僑は一層の窮地に追
い込まれた。  

⇒華人の住居?
⇒マカッサルの中華街(1948年)
⇒中国風食堂

注釈と資料-676  474.プリブミ化政策

⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


677.華僑から華人へ

 一般に華僑といわれるのは海外に移住した中国系住民のことである。まず定義(注1)から
整理すると狭義の「華僑」とは国籍を基にして中国国籍を保持している者に限られる。"僑"は
仮住まいを意味する。華僑に対して「華人」とは現地の国籍、即ちインドネシア国籍の取得者で
ある。その他に「華裔」とは現地に溶け込んだ華人の子孫である。華裔になるには5代目以降
という説もある。その他の用語の「華商」は華僑の多くが商業に従事しているからである。「華
族」は華裔と同じ意味である。
 "印僑"とは海外に進出しているインド人である。マレーシアの人口の約1割になる。英国殖
民地であったミャンマーや東アフリカでは印僑問題という東南アジアの華僑問題と同類の問題
がある。
 インドネシア華僑のもう一つの分類に《トトック(totok)》と《プラナカン(peranakan)》という用語
があった。新来者の意味のトトック(新客)がいわゆる華僑であるのに対して、プラナカンは現
地生まれの(華僑の)子供である。Anak(子供)という意味のインドネシア語に接頭辞と接尾辞
が付いた言葉である。日本人移民でいう"二世"である。
 華僑の親はインドネシア生まれの子弟に中国語を学ばせたのは現地の文化を見下す中華
意識(注2)があったからである。しかし一般には二世になると現地語に強くなり親の世代より
は現地へ溶け込めるようになる。プラナカンはインドネシア語しか話せないのに対してトトック
は中国語しか話せない。実際は両者の間には様々な中間領域がある。
 当初、華僑は何れ中国へ帰るつもりであるから中国籍のままであった。結果的には帰国する
ことなく渡航先で骨を埋めることになる者が多かった。インドネシア生まれの子弟になると親の
故郷である中国へのこだわりは薄れ、世代を重ねることに中国への郷愁は希薄化し完全に現
地化すれば華僑問題の終了である。インドネシア華僑の場合はこのプロセスがいささか長すぎ
ることに問題がろう。
 今日では東南アジアのどの国も華僑を受け入れている所はない。しかし、かつて華僑として
南方へ向かった福建省の人口圧力が依然として続いていることは、今日も監視網をくぐる日本
への密航の存在でも明らかである。国境を無視した往来のチャンネルがないはずはなく海外
への不法移住は今日の国際問題である。
 ちなみに"新華僑"という最近の造語は中国の開放政策実施後、海外に進出し、永住する傾
向の中国人を指していう。進出先は米国、ヨーロッパ、ロシアなど世界各地であり、東南アジア
中心の"旧華僑"と異なる。新華僑の登場により東南アジアの華僑問題は世界の華僑問題へ
とグローバル化しつつあるのだろうか。
 インドネシア語で中国は「中国=ティオン・コック(Tiongkok)」or「中華=ティオン・ホァ
(Tionghoa)」である。1976年以降、中国系住民は「チナ(Cina)」といわれたが、蔑称の意味合
いを含むので、最近では再びティオン・コック、ティオン・ホァが復活している。ちなみにマレーシ
アではチナが公式文書にも使用されており、蔑称にはならないらしい。
 

⇒ある華人
⇒成功した華僑の墓
 
注釈と資料-677  

 ⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


678.華僑の国籍

 独立したインドネシアにとってインドネシア人でない者は外国人であった。インドネシア独立に
対する華僑の国籍の選択肢は、@中国籍のまま華僑であり続ける、Aインドネシア国籍を取
得してインドネシア人になる、の二者択一であった。結局、Aのインドネシア国籍の"華人"にな
らざるをえなかったが、その過程は容易なものではなかった。
 独立国インドネシアの国籍についてはハーグ協定(→330)で属地主義が規定されていた。《属
地主義》というのは出生地、居住地が国籍の主要な条件となる。これに対して中国は従来から
《血統主義》であった。血統主義は親、特に父親の国籍に従うというものである。ちなみに日本
も血統主義を墨守しているが、国際的には小数派である。
 ここで蘭印から引き続いて"インドネシア(印度尼西亜)"に在住することになった華僑は属地
主義からはインドネシア国籍であり、血統主義からは中国国籍である、として両方の国籍があ
いまいになった。二重国籍問題として両国の外交問題の懸案事項となった。
 独立した当初、インドネシアは植民地の残存物である華僑をもインドネシア国民に組み入れ
ようとした。しかし華僑の多くはインドネシア人になることよりも中国人であり続けようとし、イン
ドネシア国籍になることを免れる手続きに殺到した。
 その後、インドネシアは一転して華僑の国籍問題の方針を変更し、華僑のインドネシア国籍
を取得することを厳しく制限するようになった。すでにインドネシア国籍を取得している者の資
格さえ取り消す処置にでた。
 1955年3月、バンドゥン会議(→458)を控えてインドネシアと北京の中華人民共和国は華僑の
国籍問題の政治的解決を図った。これによれば二重国籍者はインドネシア人としての法的身
分を認められが、18才以上の者は2年以内にどちらかの国籍を選択する。18才以下の者は18
才の時点でどちらかの国籍を選択するというものである。この結果、華僑の2/3はインドネシア
国籍を選択したといわれる。
 1965年9月30日事件(→384)のスハルト体制になって、反共産党=反北京から排華意識が強
化され、1955年の中国との条約は華僑にとって有利でありすぎるという理由で破棄された。そ
の後、時間の経過による排華意識の鎮静化により、1978年になって再び華僑をインドネシア国
籍に吸収する方針に転じた。二重国籍者の存在は国の安全を脅かすというものである。為政
者のその時々の都合で国籍問題はスカルノ政権の【許可(1945)⇒拒否(1953)】、スハルト政権
の【拒否(1965)許可⇒(1978)】という複雑な軌跡を辿る。
同化政策の推進によりインドネシアのほとんどの中国系住民はインドネシア国籍を取得せざる
をえなくなり華人となった。現在中国籍あるいは無国籍(台湾籍を含む)の華僑(注)は1割以
下といわれる。
 血統主義を奉じてきた中国も1980年に外国に定住する中国人が外国籍を取得した場合は
自動的に中国籍を失うことを定めたのでインドネシアのみならず東南アジア各国で懸案であっ
た二重国籍問題は収束されることになった。



⇒中国寺院の裏庭 ⇒寺院の内部

注釈と資料-678 
 
⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


679.同化政策

インドネシアは9月30日事件(→384)以降、中国との外交関係を凍結し、華僑に対して二重国籍
を許さず中国籍の放棄を迫った。インドネシア国籍を得るための条件は出生地がインドネシア
であることに加え、インドネシア語教育を受け、インドネシア語の使用を強制され、名前もインド
ネシア風に改名することであった。
 それまでも中国文化への制限はあったが、同化政策の徹底により中国文化は強制的に排
除された。1966年、全国667校の中華小中学校(生徒27万人)は閉鎖され、中華字新聞は廃刊
に追い込まれた。政府刊行のインドネシア語と併記の漢字新聞だけが存在した。
 スハルト時代、インドネシア入国時の書類を読めば中国語の書物は"銃剣・麻薬"並の輸入
禁制品であった。内容とは関係なく中国語の書物そのものが国家転覆を計る恐れがあるもの
という扱いである。
  学校、新聞と並ぶ僑社三宝の一つである"会館"は華僑の団結のシンボルであるため解散さ
せられた。かつての華僑が自分らの中国語教育による学校を維持したのも昔話になった。ク
レンテンといわれる中国寺院だけが宗教の自由の下に中国系住民の存在の証明となってい
る。けばけばしい像が漢字でしめされ、漢字の垂れ幕がある。廟が漢字の使用を認められる
唯一の場所であった。
  インドネシアは多民族国家として文化の多様性を誇っているが、華人に対しては中国文化の
存在を完璧までに拒否して、インドネシア文化への同化を強制してきた。
  同化政策の結果、華人の若者の中国語は覚束無く、まして漢字は読めない。日本人が寺院
の垂れ幕に記載してある漢字の意味を華人の青年に説明してやるという風景が生じる。
 1994年4月、中国語が一部解禁されたが、ホテルや旅行社のパンフレットに限られていた。
台湾、香港からの観光客誘致のためである。日本・オーストラリアに続いて観光客の多い国は
台湾である。外貨獲得のためにはホテル従業員や観光ガイドに中国語を認めざるをえなくなっ
た。1999年、中国文化解禁により中国語教育が復活した。しかし外国語選択科目の一つの扱
いである。教えられる中国語は「マンダリン(Mandarin)」といわれる北京官話(中国公用語)で
祖父母の話した福建語ではない。
同じ東南アジアでもタイやフィリッピンの華僑は移住先の国への同化が自然態であり、両国の
大統領や首相が中国系であることに問題はない。これに反してインドネシアとマレーシアでは
華人の同化には強制力を伴わなければならなかった。
 同化の進捗に著しい差の生じた所以は宗教であろう。中国系住民は仏教、キリスト教には比
較的容易に改宗を行うことができる。しかしイスラム教となると改宗が容易でない。イスラム教
の断食や礼拝の厳しい実践もさることながら、実生活の食料問題としての"豚" である。あるい
は原住民のイスラム教への蔑視が潜在意識にある。タイやフィリッピンの華人は2-3世代で同
化する。インドネシアでは6〜8世代経ても豚を食べる限りブリブミとの間の障壁は高い。

⇒中国寺院で

 ⇒中国の提灯

注釈と資料-679  

 ⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


680.華人への差別

中国系住民がインドネシア国籍を取得して華人となり、インドネシア風の名前に改名し、バティ
ック・シャツ(→782)を着てインドネシア語を話し、一見ではプリブミ風に見えても必ずしも華僑問
題の解決にはならなかった。
インドネシアの国立大学や士官学校で中国系学生に会うことは少ない。華人が受験しないとか
成績が悪いということではない。学生数が5~3%程度に押さえるような運用が行われていること
は公然の秘密である。
 中国系に対する差別はプリブミ政策といわれる。「プリブミ(puribumi)」とは"大地の子"という
意味で土着のインドネシア人のことである。プリブミはノンプリブミの対立コンセプトである。ノン
プリブミはコンセプトとしてはアラブ系、インド系を含むが、実際はノンプリブミとは中国系の意
味で使用されてきた。特に経済政策ではプリブミ優先という形で中国系は差別されてきた。プリ
ブミ政策とは排華政策を言い換えたものである。
 マレーシアでは大学入試の民族別定員を設けて華人の合格を規制する差別がブミプトラ政
策という名の下に制度化されていた。マレーシアの「ブミプトラ(bumiputra)」という用語はプリブ
ミと同意味である。インドネシアのプリブミ政策は表向き差別がないだけに陰険といえる。
インドネシアでは全国民はIDカードの保持が義務づけられている。IDカードは身分証明書で戸
籍の役割を果たす。カードは一見記号と数字の羅列であるが、然るべき所に見る人が見れば
分かる中国系インドネシア人のコード番号が記載されていた。
このため公務員は副収入として中国系に対しては数倍の手数料を要求することが慣例化して
いた。インドネシア国籍が有っても中国系ということで差別されていたが、中国系コードは廃止
された。
  社会の発展と国際化に伴い、差別を行うプリブミ政策の行き詰まり、1984年以来、プリブミ、
ノンプリブミという用語は公式には使用されていない。しかし国民の意識にはプリブミは生きて
いる。1998年5月の暴動事件(→402)の際の【この店のオーナーはプリブミである】という暴徒除
けのビラの写真が印象的であった。
  プリブミの超富裕上流階級は富の共有という関係を通して華人実業家と結びついており、両
者の結婚もありうる。プリブミの下層階級は暴動の際には一時的興奮から中国系商店の略奪
に加わるが、日常生活においては疎外された中国系住民に対し底辺同士という連帯感からそ
れほど悪感情はなく、暴動が終わればけろっとして元通り挨拶をしているという観察がある。
 中国系住民に対して嫌悪感情が最も顕著で生理的とまでいえるのは中産階級であるといわ
れる。彼らの心情は本来自分らが占めるべき位置にヨソモノがいるという嫉妬である。排華暴
動を生み出す土壌は上流階級の傍観、中産階級の嫉妬、下層階級の興奮の結合の相乗であ
ろう。

⇒中国寺院のお祭り
⇒中国寺門前の乞食

注釈と資料-680  474.プリブミ化政策
 
⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


681.ボブ・ハッサン

華人の政商実業家はチュコンといわれる。「チュコン(cukong)」の語源は"主公"という中国語
である。権力に癒着する政商はクローニー(crony)が国際用語であるが、インドネシアではチ
ュコンはクローニーと同意味であり、ビジネスをする中国系事業家を蔑視する言葉である。ス
ハルト時代の長者番付に載る者は全員チュコンであるともいえるが、そのチュコンの中の代表
はリム・スゥリョン(→523)とボブ・ハッサンであった。
 インドネシア民衆の中国系住民に対する憎悪の起因するところはチュコンの存在である。政
権が華人に厳しい対応を講じれば講じるほどチュコン実業家は政権によけいに癒着せざるを
えない。いわばチュコンは政権の人質であるが、スハルト体制においてチュコンの跋扈(ばっこ)
が目に余ったことがスハルト大統領の凋落を招いた要因であった。
  「ボブ・ハッサン(Bob Hassan)」は1931年のスマランの生まれである。軍との関係から高級軍
人ガトット・スボロト(→344)の養子となり、イスラム教に改宗したという特異な経歴の人物であ
る。ガトット・スボロトはスハルトの上司であったことから、スハルトとボブ・ハッサンの付き合い
はスマラン時代から始まり、ついには大統領の刎頚(ふんけい)の友となった。
  ボブ・ハッサンは40年来に及ぶスハルト大統領との特別の関係により森林開発の優先ライセ
ンスを得てきた。合板協会を設立し全インドネシアの木材輸出をコントロールし、インドネシア
の"森林王"といわれた。ボブ・ハッサンが仕切る限りインドネシアの森林破壊が止まるはずが
ない、という人物であった。
  豊富な資金を基に自動車のアストラ(→522)を掌中に収め、鉄鋼、農園、石油にも触手を伸
ばした。発行禁止になったテンポ誌(→752)を買い取り、出版も手がけた。ヌサンバ(Nusanba)
グループというインドネシアで第7番の規模の財閥を築いた。
 1994年にはスポーツ振興のためボブ・ハッサン国際陸上競技大会を開催など金の要る催し
を引き受けた。ボブ・ハッサンが他の華人と異なるところは国外投資のなかったことである。多
くのチュコンはインドネシアから得た資金を国外に投資し、スハルト大統領が失脚までに逃亡
準備は万端であった。
 スハルト大統領の趣味はゴルフと魚つりであり、その相手はボブ・ハッサンと決まっていた。
大統領のヤヤサン(→748)を管理し、一族の事業執事を兼ね、三男トミーの国民車問題(→
544)、ブサン金鉱問題(→195)等の一族内の内輪もめをさばいて来た。
  1998年のスハルト政権最後の内閣でボブ・ハッサンが産業大臣になった時は、内外とも唖然
とした。思えば田中角栄の偉かったところは少なくとも刎頚の友であった小佐野賢治を運輸大
臣にしなかったことである。
  スハルトの凋落とともにスハルト一族に対する蓄財糾弾のなかでボブ・ハッサンの不正蓄財
は有罪判決を受け刑務所にいる。彼はスハルト大統領に殉じるつもりでスハルト一族の身代
わりに甘んじているのだろうか。

⇒ボブ・ハッサン
⇒グリーンピースの標的

注釈と資料-681  494.チュコン企業
 
⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


682.1998年5月事件の受難

インドネシアの華僑は幾多の困難をへて経済的成功をおさめてきた。しかし彼らが政治的には
弱い存在であることは、オランダ植民地政庁の下においても独立後のインドネシアにおいても
同じである。
  1965年9月30日事件(→384)後の反共産党感情は反中国運動とスパイラルアップして多くの
中国系住民が殺害された。生命の恐怖に怯えた中国系住民は【反中国】のプラッカードを掲げ
て行進し、自分らは共産中国と無関係であることを訴えた。
 マラリといわれる1974年1月事件(→390)は開発政策の下でフラストレーションになった大衆
の反華僑感情が要因である。田中角栄首相の訪問に際して大衆は日本企業と合弁の華人企
業を狙い撃ちにした。インドネシア民衆の不満は華僑問題にからめて暴発するというのが、オ
ランダ時代からのパターンである。
  1980年11月のソロ事件、1989年のプカロンガン事件、バンドゥン事件、1994年のメダン事件
等々インドネシア各地の事件は中国系商店が襲われることであったが、スハルト政権の強権
下においては散発的で小規模であった。
  そして1998年5月のスハルト退陣となった暴動事件では華人の商店が襲われるというインドネ
シアのパターンがまたもや踏襲された。「スハルトは大統領をやめろ」という政治スローガンが
中国系の商店の強奪になるのはインドネシアの生理である。
  首都騒乱の中でついにスハルト大統領は辞任した。グロドック(→157)の電気屋街などチャイ
ナタウンの商店は放火された。スーパーで略奪していた民衆が放火によって400名が焼死し
た。
インドネシアのかかえる原罪ともいうべき華僑問題からでた犯罪であるが、組織的に扇動され
たことがうかがわれた。暴徒に社会不安を煽らして一気に戒厳令を目指したスハルト一族に係
わる組織の存在がいわれている。
1998年5月のジャカルタ暴動の際、通行中の車の中から中国系の女性が引きずり出されて強
姦された。華人の居住するマンションに武装集団が押し入り「アッラーは偉大なり!!」と唱え
ながら女性を集団で強姦した。犠牲者150名、無残な殺され方をした者もいた。このような実態
が明かになるにつれ、台湾、香港、中国では反インドネシアのデモが起きた。何ら抗議を行わ
なかった中国政府の弱腰も批判された。
  インドネシアでは実状を人権委員会に提訴し調査したが、問題を提起した女性が深夜に家宅
進入した犯人に殺された。警察は強盗であるとシラをきった。
  5月事件では各国はインドネシアからの出国を命じた。日本人や韓国人の特殊事情は中国
系と間違われやすい、アモック(→575)のインドネシア人には区別できないからである。これ見
よがしに"日の丸"を立てても日本人駐在員は半ばパニックになって帰国の飛行機に殺到し
た。逃げて帰る所も祖国の庇護もない華人のいだいた恐怖感は想像しがたいものである。 
⇒5月暴動
⇒5月暴動の痕 

注釈と資料-682  403.燃える首都
 
⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


683.華人パワー

スハルト大統領の推し進めた開発政策によってインドネシア人は経済的に潤った。しかい最大
の利益を享受したのは華人の実業家であった。いくつかの企業はコングロマリットといわれる
財閥グループを形成するほど大きくなり、華人企業グループがインドネシア経済を牛耳るよう
になった。
 この結果、成功した華人と一般民衆の間の経済格差はますます拡大した。華人の抜き出た
能力による正常な経済活動の結果であっても民衆の羨望は怨嗟に転化する。特に政商として
特殊な利権にありつく華人はチュコン(→491)と言われ民衆から憎悪されている。
 江戸時代の為政者は被差別民を作り出し若干の特権と引き換えに社会の不満を吸収する
緩衝材とし、社会変動の際の"スケープゴート(贖罪(しょくざい)の羊)"の役割を果たした。イン
ドネシアでは華僑がその役割であり、この構造はオランダ植民地政庁からインドネシア政府に
踏襲され、1998年の5月事件でも、また、華人が犠牲になった。
 多くの華人企業は暴動で店舗を焼かれ無一文になった、スハルト政権と癒着していた企業で
没落したものもあった。しかし財閥といわれるような華人企業はインドネシアで稼いだものは既
に国外に避難してあり、5月暴動の際は家族ともども身一つで脱出すればよかった。インドネシ
アに残した工場などの資産が担保のように見えるが、インドネシアの国営銀行から借りた建設
資金を踏み倒せば被害は相殺される。
 インドネシアで生まれ育った華人企業はもはや贖罪の羊ではなく、世界をまたにかけて横行
するモンスターに成長していた。国家を超えて大きくなった華人のグローバル企業にスハルト
後の新政権は戻ってきてくれと懇願するようになった。
 華人企業が国家以上の存在になったのはインドネシアばかりでなく東南アジア共通の現象で
ある。近年における東南アジアにおける経済発展は東南アジア華僑の経済力の底力によると
いう評価がある。経済的成功を収めた東南アジアの中国人系企業家は国の枠を越えて連携
するようになった。東南アジアの華人パワーはグローバルな華人ネットワークを形成することに
より個々の国より優位な立場にある。
 また開放政策の下の中国の経済成長は目を見張るものがある。東南アジアにとって経済の
拡大する中国は有望な市場である。と同時に"強い中国"にいい知れない恐怖感をいだいてい
るのが本音である。
 東南アジアの華人系企業の経済パワーは拡大し中国本土への投資が相次いでいる。四人
組当時の華人に対する母国の仕打ちには健忘症となり、"僑郷"といわれる出身地の福建省
に "感情投資"といわれる採算を度外視した情念的な投資がある。
インドネシアをはじめ東南アジア各国は華人の中国本土への投資の蓄積の源泉が自分らの
膏血(こうけつ)であることに苦々しい思いで見ている。「血は水より濃い」という華人の中国本土
への結託に対する不信感を拭うことはできない。しかし不気味なまでに大きくなった華僑の経
済力にいかんともしがたいのが実情であろう。

⇒暴動の後片付け
⇒華人パレード

注釈と資料-683  

⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


684.華人の行方

5月暴動事件(→403)はインドネシア華人に衝撃を与え、インドネシアを離れた華人は25000人
といわれた。彼らの国外脱出は資金もろともであり、800億ドルのマネーが流出した。1997年の
通貨危機を契機とする東南アジアの経済への打撃は、他の諸国では頓挫から立ち直ったが、
インドネシア経済はより一層悪化し大きな後遺症を残した。
  スハルト大統領の退任に伴いハビビ大統領(→405)が就任し、最初に行ったことは経済回復
のために国外に逃亡した華人のインドネシア復帰を求めたことである。新大統領の民主化政
策によって永年にわたって継続してきた華人政策に変化も表われた。華人政党「中国人改革
党」の結成が許され、中国語の使用や教育の解禁を言明した。しかし、逃げ出した華人は様
子を見守るだけであった。イスラム教に片足を置く排華思想がハビビ大統領の片言(へんげん)
隻句(せっく)から窺われ、彼が何を言っても華人の不信感は払拭されなかった。
 1999年2月、ハビビ大統領は台湾の新聞社との会見でインドネシアにおける中国系住民に
対する差別問題を聞かれて、「シンガポールの軍隊ではマレー系の将校はいない。このほうが
差別国家である。行って調べるがよい」と問題を回避して直答しなかった。しかし実際はシンガ
ポールにマレー人将校は存在していたことからハビビ発言がシンガポールはもとより、マレー
シアなど東南アジアで反響を起こした。
  ハビビ大統領に代わってワヒド大統領(→411)が就任し、華人問題の改善が期待された。ワヒ
ド大統領は選挙運動中に「自分の母方の祖先は華人である」と訴えた。ワリソンゴ(→712)の家
系を誇るワヒドにはイスラム教のインドネシア布教に貢献した数百年前の中国系の先祖がい
ることを臆することなく述べた。
  経済で行き詰まったインドネシアは華人に依存せざるをえないことが明らかであった。ワヒド
政権において闘争民主党の副総裁のクィック・キアン・ギー(注1)が経済担当調整大臣に就任
した。経済通と一目おかれた華人の大臣就任に期待は高まった。
 2001月、ワヒド大統領は経済再建のため5月暴動で国外に脱した華人のインドネシア復帰を
呼びかけた。排華運動を取り締まり、中国正月の祝日(→710)を約束した。獅子舞や龍舞の中
国文化の復活も認めた。華人にインドネシア名に強制しないなど華人に強制されていた同化
政策は緩和されることになった。漢字新聞も刊行されるようになり、中国語を学べるようになっ
た。
 タマンミニ公園の南のチブブール(Cibubur)のコタ・ウィサタ(Kota Wisata)では「カンプン・チ
ナ(中国村)」が開業(注2)した。中国風の門をくぐると紫禁城や万里の長城が展示され、中国
建築の店舗があり中国の物産が販売されている。
 2005年にスー・ホック・ギー(注3)という華人の生涯を描いた『Gie』という映画がインドネシア
人によって制作され高い評価を得た。
 この数年の華人に対する政策転換は画期的である。しかし華人問題は残る。それが華人問
題である。

⇒選挙運動の華人
⇒祭りの行列
⇒新規開業のテーマーパーク
注釈と資料-684 

⇒ページ(F-8章)トップへ

現在の位置
インドネシア専科目次F 社会F-8 華僑と華人


トップへ
トップへ
戻る
戻る



F-8 華僑と華人(注釈と資料)
F-8 華僑と華人(注釈と資料)