H−1章 伝統文化
903.インドネシアの伝統文化 904.ワヤン/ジャワ文化の精髄
905.ワヤンの上演 906.道化スマルの創造
907.ワヤンのバリエィション 908.パンジ物語
909.ワヤンの将来 910.ガムランの調べ
911.ガムランの演奏 912.ジャワの宮廷舞踊
913.バリの奉納舞踊 914.レゴン/女性舞踊
915.ケチャ/集団舞踊 916.バリの神前芸能
917.バリのガムラン 918.ジェゴグ/竹の合奏
919.バタック人のシガレガレ 920.ニアス島の走り高跳び
921.マドゥラ島の競牛 922.タウタウ人形
923.スンバ島の騎馬戦 924.ダニ族の戦争ダンス

H−1.伝統文化(注釈と資料)
H−1 伝統文化 H−2 伝統工芸と伝統家屋 H−3 神話の系譜
H−4 インドネシア語 H−5 インドネシアの書籍 H−6 国民文化の創造と交流



H−1 伝統文化

903.インドネシアの伝統文化

  インドネシアは統一文化の必要性を認める一方で、文化の多様性を誇っている。国家スロー
ガンの"多様性の中の統一(→367)" によって伝統文化の多様性は称揚され、インドネシアは
豊かな地方文化の存在を誇っている。
 しかしながら人口比率で圧倒的なジャワ文化がインドネシア文化の中心にあることも事実で
ある。ジャワの研ぎ澄まされたような洗練された文化に対して外島の文化は野生味溢れる文
化である。ジャワ文化と外島文化のそれぞれの伝統文化の織り成す市松模様はインドネシア
文化の魅力となっている。 ⇒古代の楽人(ボロブドゥールの石彫)
  インドネシア伝統文化はジャワ文化と外島文化の対立と調和であるが、この中でバリ文化は
ジャワ文化に対して非常に特殊な位置づけになる。ワヤンやガムランなどジャワとバリは共通
の文化を保有し、ジャワ文化とバリ文化は表裏一体である。
 その経緯はジャワ島のヒンドゥー教を奉じるマジャパヒト王朝は14世紀にバリ島の古代王国
(→265)を征服してマジャパヒト王国に吸収し、ジャワからの支配者がバリ農民の上に君臨し
た。15世紀以降、イスラム勢力がジャワ島を席捲しマジャパヒト王国は次第に衰退した。
  その際、イスラム教に馴染めないマジャパヒトの残党はバリ島に逃れた。王侯、僧侶とともに
多くの技術者もバリに移住し、ジャワからの征服者がバリ文化の担い手になった。バリ島のヒ
ンドゥー化はすすみバリ在来の文化、歴史はおどろおどろしいものとしてバリ人の意識からも
葬りさられた。ジャワ文化のエッセンスはバリ島に移転し、マジャパヒトを受け継ぐのがバリの
正史になった。
  イスラムが東南アジア島嶼部を席巻した際にイスラム化から免れて残ったのがバリ文化であ
る。バリ文化はジャワ島のイスラム化以前の文化を凍結していることから"マジャパヒトの文化
博物館" といわれる。イスラム化したのが今日のジャワ文化であり、イスラム化以前のヒンドゥ
ー教のジャワ文化が今日のバリ文化である。
  第二次世界大戦後、台湾の経済隆盛は目覚しかった。しかし台湾の経済活力は必ずしも台
湾プロパーによるものではない。中国本土の共産化によって台湾に逃亡してきた中国の企業
家によって台湾の経済発展がもたらされた側面が強い。{ジャワ島⇒バリ島・15世紀/文化}と
{中国本土⇒台湾・20世紀/経済}が対比関係にあると思う。
  インドネシアでは伝統文化の保存のため政策が講じられ、国立の舞踊・音楽学校を設立して
いる。特にバリ文化に重点があり、デンパサールにあるSTSI(Sekolah Tinggi Seni Indonesia=
インドネシア国立芸術大学)がその拠点となっている。
注釈と資料-903  ⇒265.バリの8小王国

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904.ワヤン/ジャワ文化の精髄

 『ワヤン(wayang)』はジャワで行われる影絵芝居のことである。ワヤン人形は水牛の皮
(kulit)を刻みこんだもので彩色がほどこされていることから正確には『ワヤン・クリット
(Wayang kulit=皮の人形)』と言う。 ⇒ワヤン・クリット
  ワヤンは単なる人形の影絵芝居ではなくジャワの文学、工芸、音楽を集大成した総合芸術で
ある。ジャワ人の精神構造にまでつながっている点でまさにジャワの精神文化である。ワヤン
のデザインはまさにジャワの『トレードマーク』である。
 影絵芝居の話の筋はインドの2大叙事詩の『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』による大筋は
あるが、細かな語りはダラン(→874)の即興で自由自在に変えられる。
 ワヤンはその題材からもインド文化(→981)の一端であるが、影絵という形で定着したのはイ
ンド文化圏の中でもジャワが際だっている。
 そのワヤンの不思議なところはイスラム教との関係である。何となればイスラム教は教理とし
て人形のような偶像を拒否しているはずである。しかし当初からインドネシアへもたらされたイ
スラム教はスーフィズムというイスラム神秘主義(→711)の一派であった。彼らはジャワでのイ
スラム布教のためにむしろワヤンの積極利用を行った。影絵であることが偶像ではないという
何がしの免罪符になったであろう。⇒ジャワ夢幻
  人物像も抽象化されたパターンである。ジャワ人にとって影絵とは芸術というよりも祖先の霊
魂である。〔実像〕の影の〔虚像〕に霊を感知している。
  ワヤンはジャワ人の信仰の形態である。クラトン(→121)には古いワヤンがプサカ(→704)とし
て大事に保管されている。いくつかのセットがある。人形の扱いでなく先祖の霊魂としての扱い
である。宮廷では危機に襲われた際には秘宝のワヤンを取出して上演することにより浄化儀
礼を行った。
  ダランの語り中にイスラム教の教えが潜められ、ワヤンはイスラム教の布教とともにさらに発
展した。ワリソンゴ(→712)の一人スナン・カリジョゴが多くのワヤンを創作した。ジャワにおける
イスラム教の定着によってワヤン・クリットはジャワ文化として確立した。
  ジャワ人にとってワヤンは娯楽をこえた教育の場でもある。哲学、倫理をワヤンから学ぶ。敬
語の難しいジャワ語(→633)はワヤンによって習得する。ワヤンがある限りジャワ語は滅びな
い。
  ワヤンの起源は悪霊からのきよめ、先祖の霊には助けを求める儀式である。中部ジャワで
は兄弟のない一人っ子はサン・バタラカラという悪霊に襲われやすいと信じられている。悪霊を
追い払うためにルワタンという儀式が今でも催され、ワヤンを開く。出し物はムルウオコロの物
語と決まっている。
  ヒンドゥーの題材を用いてワヤンはジャワ人の教養となり、イスラムの教義が盛り込まれイス
ラム信仰が強化された。ワヤンはジャワ人の重層信仰(→695)の表れである。
注釈と資料-904  

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905.ワヤンの上演

 南十字星が輝く満天の星の下のクジャウェン(→119)のどこかの村では今夜もワヤンがおこ
なわれるに違いない。横3b×縦1bくらいの赤で縁取られたクリルという白い布のスクリーン
が張られ、そのスクリーンに人形の影絵が写しだされる。人形は腕だけが動く仕掛けになって
いる。
 グヌンガン(gunungan)という山を象徴するトランプのスペード型の皮細工が立てられている。
ダランはそれを両手に持ち、交錯する動作によってワヤン劇は始まる。グヌンガンの揺れは宇
宙の混沌を表す。やがて人物のワヤンが現れる。⇒グヌンガン
 プレンチョンというヤシ油のランプの灯のゆらめきに従い影が微妙ににじむように動く。よく見
れば影には色もほのかに漂っている。闇の中のプレンチョンは宇宙を写す光源である。人形を
クリルから遠ざけると影は大きくなる。
  観客は影絵の側と人形の側のどちらからも見てもよいが、一応は影絵側が正面である。客
は気まぐれに両方を往来する。
 ワヤンは村の有力者の家の出産、割礼(→817)、結婚などジャワ人の一生の区切りのお祝い
の儀式に催される。招かれた村の人はお祝いを持ってやってくる。招待客には食事がふるま
われる。ワルンという屋台が店を開く。
 上演には古くからのしきたりがある。ワヤンの開演に先立って地の霊に挨拶の儀式を行い無
事に上演されることを祈る。香が焚かれ果物、菓子が供えられる。生きたままの鶏も供えられ
る。木に片足を縛られているので上演中には鶏のなき声の伴奏が入る。
  ワヤン人形はグドゥボクという雫のしたたるような切り立てのバナナ(→047)の幹に並べられ
る。グドゥボクは大地の象徴である。クリルとグドゥボクは一体となって全宇宙を象徴する。一
回の上演で約80種の人形が用いられる。
 夜8時頃から始まり夜明けの光で影が薄くなる翌朝まで延々と続けられるが、深夜までに
三々五々に引き上げ、朝まで見ている人はさすがに少ない。ダランの語りはスピーカーで深夜
のしじまを破る。これも主催者の近所への気配りのサービスであって騒音苦情などありえな
い。⇒ラーマ王 ⇒シンタ姫 ⇒ダラン
  影絵芝居はダランによって操られ、語られる。鳴り物の音のけたたましい戦闘の場面もあり、
静かな語りの場面では半分寝ながら聞いている。ガムラン(→911)奏者もプシンデンという女性
歌手も出番以外はうたた寝をしている。
 はじめは魔物や魔女の邪悪が蹂躙している。主人公は数々の試練にも隠忍と自重を貫く。
やがて夜明けが近くなると正義が盛り返す。ジャワの「夜明けが近い」という台詞はやがて正義
が勝つという影絵芝居の裏付けがある。
 夜明けに物語が終了したと見るや潮のひくごとく人は家路につく。どんなに感動しても拍手を
するようなはしたないことはない。拍手は感動を壊すだけである。
注釈と資料-905 ⇒874.ダラン

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906.道化スマルの創造

 ワヤンは「ラーマーヤナ」「マハーバーラタ」のインド神話を題材としているが、ジャワ風にアレ
ンジされたものである。例えばジャワ人の馴染みのストーリーであるマハーバーラタにちなむ
「アルジュナ・ウィワーハ(Arujyuna Wiwaha)=アルジュナの饗宴」はアイルランガ王(→333)の
時代に詩人ムプ・カンワ(Mpu Kanwa)によって作られたものである。⇒アルジュナ(絵画)
 インド神話のアルジュノ(→948)は北はヒマラヤの山頂から南は海まで巡礼の旅に出る。旅で
出会う試練によって超能力を得る。アルジュナ・ウィワーハの骨子はインド神話であるが、自然
を愛する古典的叙事詩はジャワの自然を称えている。 アイルランガ王が身を隠してから王位
を得るまでの苦難の放浪の体験がアルジュナに託して語られている。
 ラーマーヤナやマハーバーラタのワヤンをインド人が見ても全部は解らないらしい。何となれ
ばインドの神話にはないジャワが産み出した人物が重要な主役となって活躍する。その代表
はプノカワンと呼ばれるスマル(Semar)とその息子のノロガレン、ペトル、バゴンのスマル一族
である。
 スマルはマハーバーラタにでてくる人気ある勇者アルジュノの従者で道化師であり、守護者で
もある。スマルが発する諧謔(かいぎゃく)は民衆を喜ばせる。あるいは、為政者に戦争の愚を
説く民衆の代弁者でもある。
 その人物像としてのスマルの特徴は出っ腹で臀も特大である。頬骨が張っており団子鼻から
鼻汁がたれている。目には目脂がたれている。他のワヤンの主役がデフォルメされてスリムで
あるのに対して、スマルはデフォルメされてグロテスクである。息子のバゴンはスマルと似てい
る。ガレンは足が不自由であり話下手である。ペトルは異常に背が高く口は達者であるが、ど
こか抜けている。⇒道化のスマル
 ワヤンの人形は一体一体が特定の人物を表している。ジャワ人はこの多くの人形を影だけ
で識別できる。外国人は興味をもって見てもせいぜい男女の区別くらいしか判らない。その中
でスマル一族だけはそのグロテスクな特徴があまりにも目立っている。
 ワヤンの上演の際、気分がだらける深夜のゴロゴロという場面転回に、スマルが登場する。
本筋とは関係のない滑稽な問答を展開する。時事問題を取り上げて痛烈な風刺も行う。眠り
かけていた客は眠気をさまし大笑いする。サーカスにおけるピエロの役割である。
 しかしながらスマルは愚鈍を装っているだけで実は宇宙を支配する最高神ブトロ・グル(
943)の兄で偉大な力と英知を持つ超能力者である。天界にあったが、父から地上に降りて人
間達を守護することを命じられる。
  プノカワン(仲のいい仲間の意味)といわれるスマル一族はジャワ人が作り出した人格の理
想像である。実際の創作者はワリソンゴ(→712)の一人であるスナン・カリジョゴといわれる。ス
ハルト大統領はスマルを守護神としていた。言い方をかえるとワヤンの登場人物はインド神話
の借り物で中身はジャワであるとさえいえる。
注釈と資料-906

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907.ワヤンのバリエィション

 ワヤンとは一般にワヤン・クリットのことであるが、ワヤン・クリット以外の色々な人形劇を総
称したものである。ワヤンの共通点はダラン(→874)によって語られる。
 ワヤン・ベベル(beber)といって絵巻物を説く演劇がある。ワヤンの起源と推測されており、そ
の起源は1000年前にもなる。ワヤン・ベベルはジャワの僻地に2ケ所でかろうじて保存されて
いる。その一つは中ジャワのウォノサリ村と東ジャワの州境に近いドノレゴ(Donorego)村のマ
ジャパヒトに連なる旧家が保有していた。⇒ワヤン・ベベル
  ワヤン・ベベルは動きの少ない分だけ単調である。影絵になってワヤンが娯楽の要素が強く
なった。ベベルは雨乞いや病気平癒の儀式に演じられてきた。これまで保存されてきたベベル
が今後は何時まで保存されるかは定かでない。絵巻物の場面の説明をダランが行なう。清姫
で名高い和歌山の道成寺で「道成寺縁起絵巻」を紐(ひも)解きながら観客を引き込む坊さん
の巧みな話術を思い出した。ジョコ・タルブは羽衣伝説(→1000)と同じストーリーらしい。
 ワヤン・ゴレック(golek)は手を動かす支えがあるが人形そのものは木製の立体形である。影
絵芝居と同じように人形をダランが操りながら語るものである。チルボン(→118)など西ジャワ
では影絵を凌駕している。
  人形そのものとして見る時はペラペラで立体感のないクリットよりはゴレックの方が人形らし
いことから外国人のインドネシア土産として人気が高い。
 人形を使わずに人が仮面をつけて演じるワヤン・トッペン(topeng)は人が人形に代わっただ
けで語りはダランが行う。仮面は能面より立体的で奈良の古寺に伝わる伎楽と似ている。上演
の際はクリス(→702)を身につける。
  そもそも日本の伎楽とジャワのトッペンの両者のルーツは南中国の呉楽につながるらしい。
はじめは宮廷で演じられたが、次第に宮廷では廃れ、地方で伝統文化として保存されている。
ジャワのマラン(→148)、チルボンやマドゥラ島(→151)スムナップにもジャワ宮廷から伝えられ
たトッペンがある。スポンサーの宮廷は無くなったが、庶民によって保存されている。
  ワヤン・オラン(orang)は役者が演じるいわゆる芝居である。ジャワでは王室で行われた。宮
廷舞踊(→912)とワヤンの折衷といったところであろうか。⇒ワヤン・オラン
 ワヤン・スル(suluh)は今世紀のインドネシア民族主義運動を題材にした。ワヤン・パンチャシ
ラはスハルト体制下のインドネシア国是のパンチャシラ精神(→365)の啓蒙である。子供の多
い家族をからかい、家族計画が効果的にPRされる。ジャワ語でなくインドネシア語で語られ
る。ワヤン・サンディワラは現代劇(→829)というところである。人物はクリスでなく銃を持ち現代
風の衣装である。ワヤン・カンチルは動物が登場する子供向けのワヤンである。
注釈と資料-907

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908.パンジ物語

 インド由来のマハーバーラタとラーマーヤナを主題とする正統なワヤンはワヤン・プルウォと
いう。ワヤン・メナック(menak)はイスラムの聖人の話である。これら以外に東部ジャワ宮廷の
英雄譚に基づくワヤン・ケドックいわれるワヤンがある。一つはパンジ物語であり、もう一つは
ダマルウラン物語で両者ともジャワの英雄譚である。⇒ジャワ夢幻
 パンジ(Panji)物語は韻律を含む古ジャワ語による代表的なキドゥン文学である。クディリ王
国(→245)の王女チョンドロ・キロノとジャンガラ王国のパンジ王子の物語である。従兄弟である
二人は結婚することになっていたが、王女は因業の継母の策略によって魔女にかどかわされ
る。王子は王女を探し求めて旅に出る。実は両者は顔も知らない同士である、しかも旅芸人な
どに変身しているので何度もすれ違うが分からない。最後はようやく出会い結婚してメデタシメ
デタシである。⇒パンジ人形
 話の大筋は以上のように他愛のないものであるが、中身の展開は多様でダラン毎に別の話
がある。パンジ物語は東ジャワで人気がありワヤントッペン(→907)で演じられる。バリ島のガ
ンブー(→916)という芝居にも取り入れられている。

 ダマルウラン(Damar Wulan)はマジャパヒト王国(→248)の大臣ウドロの息子である。父の大
臣は修業のため山中にこもる。後任の叔父はダマルウランの才能が自分の息子達を上回る
のを嫉妬して、馬小屋の番人に追いやる。しかし叔父の娘アンジャスモロはダマルウランに同
情し面倒をみているうちに二人は愛し合うようになる。
 未婚の女王クンチョノウンゴの治めるマジャパヒト王国は反乱軍に攻撃され風前の灯であっ
た。女王は夢で国を救うのはダルマウランだけであると告げられる。こうしてダマルウランは召
しだされる。
 ダマルウランは召使二人を連れて敵陣に向い、敵将メナジンゴの二人の妻と昵懇になる。や
がてメナジンゴとの一騎打ちでダマルウランは破れる。だが、その夜、メナジンゴの妻達はウ
シクニンという黄金の棒を盗み、ダマルウランに渡す。再び行なわれた一騎打ちでは黄金の棒
のないメナジンゴはダマルウランの敵ではない。 
 ダマルウランの手柄を嫉んだ大臣の息子によってダマルウランは王宮へ向かう途中で殺さ
れるが、父の徳によってよみがえり、王宮に出現して全て明らかになる。ダルマウランは女王
クンチョノウンゴと結婚し国王となる。アンジャスモロとも結婚し二人の妻と幸せになる。
 パンジ王子もダマルウラン王子の噺は絵本や小説として現代も出版されている。文武両道の
ジャワの英雄である両者にいえることは英雄にしてはやさしすぎ、色恋に熱心なことである。関
羽のような豪傑に及ぶべくもないが、源義経とくらべてもやさしすぎる。松本亮先生によればダ
マルウランは“月光の貴公子”である。
注釈と資料-908

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909.ワヤンの将来

 ワヤンの物語には古代のインド叙事詩に基づくストーリーが200以上ある。実際に上演される
際には、ダラン(→874)の裁量で適当な台詞がアドリブでつけ加えられる。そのアドリブには絶
えず身近なトピックスがとりこまれる。現代風俗への風刺、時事問題の解説、政治に対する巧
妙な批判もおりこまれ、ワヤンはいつも今日性を失わない。テープの普及でダランが用心深く
なりアドリブが精彩を欠くようになったといわれる。
 今のインドネシア人にワヤンが生きていることは、人の性格の言い方にワヤンの人物が引合
にだされることにも表われる。どのワヤンも人間の性格を表しており、ジャワ人はそれを熟知し
ている。 ⇒ワヤン・クリの製作
 あたかも日本人が大石蔵之助や吉良上野介を一つのパターンとして共通の人物像を認識し
ているのと同じである。インドネシアの政界ではしばしば政治の局面はワヤンの場面と対比さ
れて論じられることがある。
 このような意味でワヤンは一般に思われているように古典芸能ではなく現代に生きている芸
能であり、ジャワ農村の最大の娯楽である。ジャワ人にとってワヤンはいわばジャワそのもの
である。従ってジャワがある限りワヤンはあるといわれる。
  しかし、今、ジャワ農村にも文明は押し寄せている。映画に続いてテレビの普及が目覚まし
い。このテレビという近代文明のもたらす娯楽に対してワヤンは生き延びうるだろうか。TVで
放映されるワヤン番組はジャワ人には人気がある。しかしスマトラ島など外島出身の人には面
白くもおかしくもない。ジャカルタ発の国営民営入り乱れての全国向けTV番組はアメリカや香
港から輸入したアクションものが多い。
  一昔前の日本では文楽も農村で演じられており、かつてはジャワのワヤンに近い位置づけを
占めていたが、今はかろうじて淡路島あたりでその面影が残っているにすぎない。ワヤンの将
来については息も絶えだえに保存されている文楽の運命を思いやらざるをえない。
 当面するワヤンの問題はジャワ語(→633)という言葉である。しかもワヤンの語りはカウィ語
という日常語ではない古いジャワ語も交えている。しかしジャワ人の若い人はジャワ語に代わ
りインドネシア語になりつつある。ましてカウィ語は死語である。
 新しい試みとしてジャワ語ではなく、インドネシア語さらには英語のワヤンの上演も試みられ
ている。複数のダランが出場する方法も試みれれた。⇒新上演のワヤン⇒スカルノの人形
  映像効果をあげるため人形の材質を透明にすると影の色彩が鮮明で美しくなる。椰子油の
ランプに代わり、多色の電気照明の点滅もワヤンに用いられる。
  ガムラン楽器以外にドラムやシンセサイザーのワヤン伴奏も試みられている。コンピューター
化時代に対応すべくコンピューターグラフィックによるワヤンもある。CGIワヤンとは、コンピュ
ータ・グラフィックス・イマジナリ・ワヤンの略である。
注釈と資料-909  

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910.ガムランの調べ

  ガムラン(gamelan)はインドネシアが産み出した楽器の総称でありアンサンブルによる音楽
のことである。ジャワ島とバリ島の固有の楽器で世界でもほかに例がない。インドネシアの伝
統文化はインドの影響を受けているが、ガムランはインド文化以前にすでに存在していたイン
ドネシア固有の文化である。
  管・弦・打楽器からなるが、ガムランの語源は鍛冶屋の「ガムル=鎚(つち)」であるように打
つ、叩く楽器がガムランの主役であり、打楽器が主体のパーカッション・アンサンブルである。
主楽器が青銅製であることから青銅の音楽ともいわれる。⇒ガムラン楽器
 最も大きい銅鑼のゴン(gong)は直径1b近くもある。ゴンはガムランを象徴する楽器である
ことから曲の始めと終りに登場する。神様の楽器とされてお供えも受ける。ガムラン楽団全体
をゴンということもある。  
  インドネシアで重要なセレモニーでは大統領が開催を告げるゴンを鳴らすとザワザワしてい
た場内は一時に厳粛な雰囲気になる。
  ゴンの響きはジャワのみならず東南アジア世界で神聖な音として受け入れられているのは基
層文化としてのドンソン文化(→011)の名残であろうか。
  クンダン(kendang)は両面から手で叩く日本の鼓(つつみ)に似た打楽器である。クンダン楽器
が最初に演奏を開始し他の楽器が続く。ガムランの指揮者はいないが、クンダン奏者がその
役割を果たす。⇒クラトンのガムラン
  グンデル(gender)、サロン(saron)の鍵盤打楽器がメロディを奏でる。右手で金槌のような撥
(ばち)で楽器をたたく。次の音を出す直前に左手で残音を止めるため素早く楽器を抑える。素
人は金槌で自分の手を叩き左手が傷だらけになるそうだ。クノン(kenong)、ボナン(bonang)は
特大の鍋の蓋のような変わった形の楽器である。両手で叩く。
  楽器は通常二対からなっており、二つの楽器の間には調律がわざとずらせてある。従って同
時に叩くと「グワ〜〜ン」といううねりが生じる。西洋音楽であれば不協和音であるが、ガムラン
では魅力となる。
  ガムランのうなりの波長が、毎秒5〜8回のサイクル、つまり5〜8ヘルツといえば、脳波のア
ルファ波やシータ波の振動周波数と一致するらしい。何のことか聞けば聞くほど分からない
が、人の頭脳にひらめきを与えるのに適した音楽であるということで、研究所などのBGMに取
り入れられているそうである。
  ガムランの音階は5音階であり、7音階(ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ)の西洋音楽とは基本的に異なる
ところである。楽器が補完しあいながら一つにリズムをつくる。各パートが独立している西洋の
器楽演奏と異なるところである。
 その他にガンバン(gambang)という木琴のようなやスリン(suling)という竹製の縦笛やルバブ
(rebab)という弦楽器も加わる。
注釈と資料-910  

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911.ガムランの演奏

 ガムランは伝統の楽器であるので地域によって楽器、演奏方法に相違があり、最近では華
やかな演奏のバリのガムラン(→917)に人気があるが、由緒正しいのは中部ジャワのクラトン
(→121)のものである。⇒ジャワのガムラン演奏
  ジャワ宮廷のガムラン演奏もジョグジャ流とスラカルタ流がある。ジョグジャ流はゆっくりとした
テンポで音の一つ一つがはっきりとしている。これに対してスラカルタ流は編成楽器全体の複
雑な旋律とリズムに特徴がある、といわれる。
 ガムランは宮廷音楽や寺院の儀式音楽として発達したもので正規のガムランは大編成であ
るが、影絵芝居(→904)の伴奏のガムランは10名程度の小編成である。舞踊や演劇と結び付
くことで総合芸術を作り上げている。ガムランはガムランだけの音楽が本来の姿であるが、歌
手の伴奏やワヤンや舞踊の伴奏などあらゆるところにガムランは不可欠の存在である。結婚
式や葬式の儀式の音楽である。カトリックの儀式にもガムランは使用される。
  ジャワの大衆演劇のクプトラ(→829)にもガムラン楽師がいる。ガムランを持って町や村を流
す音楽師もいる。ホテルではBGMとして演奏されている。ガムランの音色はジャワ社会の通
奏低音である。⇒ガムランの主役
  松本亮先生(→364)の言によれば「ガムランは夜闇の芳香からにじみ出る大地の夢幻のささ
やきである」。

 ガムランの演奏には楽譜はあるが、西洋音楽の楽譜とは異なり、演奏時の目途を表した数
字の楽譜であるため、演奏者が体で覚えなければならない。
 高級ホテルのロビーの実演では演奏者は観光客を見回しながら面倒くさそうな顔をしている
が、その道の達人になると霊が人の手を借りて勝手に演奏するという忘我の境地になるらし
い。楽譜はないので暗譜である。外国人が不思議がるが、バリ人によれば神様が自分の手を
使って勝手に演奏するのだから暗譜するというような意識はないらしい。⇒ガムランの演奏者
 ガムランの音色は声楽の伴奏の嫋嫋(じょうじょう)とした響きからけたたましい金属製の打
楽器による戦争場面まで演奏の幅が広い。いつも同じ曲に聞こえるが、数種のテープがある
から曲目もかなりあるらしい。
  バリ島のガムランが1889年にヨーロッパに始めて紹介され、不思議な音色はドビッシー、バ
ルトーク、ラヴェルなどの西洋クラシックにも衝撃を与えた。1931年にバリ島のマンダラ翁はプ
リアンタン村のグヌン・サリ楽団(→997)と舞踊団を率いてパリで行われた植民地博覧会に参
加しバリの芸術を世界に紹介した。その際にガムラン演奏はプーランク、ブリテン、オルフの作
曲に影響を与えたといわれる。
 ガムランはバリ人には日常の音楽であるが、ガムランに取り付かれた西洋の音楽家が研究
のため中部ジャワやバリに滞在している。何人かの日本人もいる。
 注釈と資料-911  

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912.ジャワの宮廷舞踊

 インドネシアの舞踏といえば観光客の多いバリ島の舞踏(→913)が海外に知られているが、
バリ舞踏の本家を辿ればジャワ島である。
 ジャワの古都、ジョグジャカルタやスラカルタのクラトン(→121)で演じられる宮廷舞踊は王家
係累の選び抜かれた未婚の美しい女性の雅(みやび)やかな踊りである。最近は王家の未婚
の美女の供給難から範囲はかなり拡大されているらしい。
 宮廷舞踊はジャワの王家によって保存されてきたもので王族のみが見ることができるもので
ある。一般には公開されていないので時間を定めて行われるクラトンの練習風景からその光
景を想像するだけである。各々の王家が存在をかけて優雅さを競ううちに差が生じ、ジョグジャ
カルタとスラカルタと少し様式の違うところがあるらしいが、もっともその筋の専門家でないと判
らないようなものらしい。
 ハラス(→634)の極限にまで洗練されており、舞姫の手の動作の一つ一つは抽象化された意
味があり、ジャワの精神文化が顕現されており、ガムラン(→911)の伴奏を伴う優雅な動きは
完成された芸術の極致である。⇒クラトンの舞踊
  抽象化された美の極致という点で日本の能と通じるものがある。外国人の賓客に能や宮廷
舞踊を披露しても必ずしも喜んでもらえるとは限らない。早く終わらないかとジリジリする客の
方が多いかもしれない。しかしジャワの宮廷舞踊は少なくとも舞台上の舞姫がよりぬきの美女
であるという点において能よりは有利であろう。
  宮廷舞踊を代表するのはスリンピ(Srimpi)とブドヨ・クタワン(Bedoyo Ketawang)である。スリ
ンピは"王の夢"という意味でスローモーションの極地のびやかな踊りである。第 3 代王スルタ
ン・アグン(→337)により創作されたといわれる。⇒宮廷舞踊ブドヨ
  4人の選び抜かれた舞姫の踊りは女性の斉唱,太鼓といくつかの青銅製打楽器ないしは大
編成のガムランによって伴奏され,歌詞は宗教性と洗練されたエロティシズムを兼ね備えたも
のである。演目にはピストルを小道具に使うものもあるらしい。スリンピとピストルの組み合わ
せは奇異な感じがするが、スリンピの様式はオランダ植民地時代になって完成されたものであ
る。このような小道具を取り入れてもなおかつ優雅であることがスリンピの所以である。
  ブドヨ・クタワンは9人の女性の踊りである。スノパティと南海の女神ロロ・キドゥル(→949)の
結婚の伝説に基づき、両者の愛を祝賀するもので歴代の王の即位記念日に踊られる。花嫁
姿の9人の踊り手の非対称形の複雑な動きである。
  最も神聖な踊りであるが故に上演には危険が伴う。下手な踊り手は女神によって海の底に
沈められるからである。ロロ・キドゥルが気に入った場合は知らぬ間に本人が加わり10人にな
っているという。
注釈と資料-912 

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913. バリの奉納舞踊

  ジャワの宮廷舞踊(→912)から見るとバリの踊りは田舎くさい素人の踊りということになる。事
実、バリの踊り子(→871)は日常は農業に励んでいる。女性の踊り子も器量と才能に恵まれた
者が熱心に稽古に精出して村の代表になる。
 バリ島の寺院(→644)には舞踊が行われる場所が3個所ある。奥庭は神様に捧げる神聖な舞
踊の場である。中庭は神様と人が共に舞踊を楽しむ催しである。寺院の場外は庶民の娯楽の
ための芸能が行われる。
  寺院の奥庭で行われる舞踏は神様に捧げるためのものであり、人ましてや観光客への見せ
物ではない。そもそもアジアの舞踊とか演劇の起源は神を慰めるものであることがバリ島では
目の当たりに確認できる。
 女性が着飾った揃いの衣装で神に捧げるガボガンの供え物(→931)を頭上に載せて整列し
て運ぶ行列そのものが様式化されており、すでに舞踊である。⇒お供えの行列
  寺院の境内ではルジャン(Rejang)といわれる捧げの舞踊が奉納される。ルジャンには村の
女性が若きも老いきも全員できらびやかな衣装で参加する。静的な群舞の踊りであり、あまり
動きはない。神様の移動を先導する役目である。寺院を左巻きに3回行進する。プンデット
(Pendet)も神を迎える女性の踊りである。
  男子が行う奉納舞踊のバリス・グデ(Baris gede)は神に捧げる勇猛な戦士の踊りである。槍
か剣の武器を手にし、そのいでたちは貝の装飾付きの白い三角帽子にチェンパカの花の額飾
りをつけている。衣装は赤布地に襞飾りは金ピカの細い布切れである。トランプの王様という
のがいいえて妙である。バリ人が七面鳥を始めて見て"バリス鳥"と名付けたことからもバリス
の派手な恰好がわかる。⇒バリス・ダンサー
  かつてのバリ島で王であることの資格の条件はバリス舞踏の名手であることであった。バリ
スは寺院の奥庭でおこなう村の有志の壮年者による群舞である。時には数十名の団体であ
る。王族の火葬の場でも踊られる。
  本来のバリスは奉納舞踊であるが、最近では観光客のためにホテルで行う舞踏の夕べの演
目になっている。出演者は村のむくつけきオジサンではなくて美青年が一人で踊ることが多
い。そのほか新しいバリスもちょっとした対話や歌が入り英雄劇に仕立てあげる。
 女性によるレゴンダンス(→914)も奉納舞踊として神に奉げられる。そもそもバリ島の舞踏の
起源は神への捧げものであった。しかし現在では観光客のための商業化したショーとして知ら
れる。ケチャ・ダンス(→915)も遡れば数十年前のものにすぎない。バロン・ダンス(→915)やレ
ゴン・ダンスは観光客のために化粧を行い衣装を整えるようになった。
  観光舞踊によって奉納舞踏のための衣装や楽器の基金を得ることもできる。バリ人は観光
舞踊と奉納舞踊を完全に分離することにより、奉納芸能はより豊かな経済基盤の上で神聖さ
を確保することができる、としているが。
注釈と資料-913  ⇒654.観光芸能

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914.レゴン/女性舞踊

 舞踊で有名なバリ島の踊りとしてケチャ・ダンス(→915)、レゴン・ダンス、バロン・ダンスなどが
知られており、観光コースに組み込まれている。
 ケチャ・ダンスが男性的であるのに対して、レゴン(Legong)ダンスは未婚の美しい少女が二
人あるいは三人で踊る。きらびやかな衣装に金銀の飾りをつけている。ジャワの宮廷舞踊(
912)やタイの宮廷舞踏とも共通しており、インド文化の一端である。
 レゴンダンスは繊細で女性的な踊りである。神に捧げる女性舞踊を洗練して一つのスタイル
にしたものである。技術の修練のため厳しい訓練を経た踊りの専門家である。レゴンも神に捧
げられる場合は寺院の奥庭が使用される。
 プレゴンガンという古典的ガムラン編成による伝統的なレゴン・クラトンに対して、ガムランの
クビャル(→910)演奏に伴いレゴン・クビャルという緩急の伴う華やかな舞踏が考案された。観
光客に披露されるのはレゴン・クビャルである。最近、レボンという歓迎ダンスが考案されたら
しい。⇒レゴン・ダンス
 レゴンの踊り子は洗練されたバリ舞踊の代表としてきらびやかな衣装に金銀の飾りをつけて
いる。指の動作に象徴的な意味が込められている。手、足、腰、目の動きを最大限に優雅に
する。腰の位置は低く両腕の肘は肩の高さである。巧みに扇子をあやつる。
  ダンスのストーリーはラッサム王とランケサリ王妃を主題にした二人の踊りによる舞踊劇であ
る。チョンドンという侍女が加わり三人で踊るものもある。レゴンという名で他にも別のストーリ
ーがある。ジャワの宮廷舞踊と比べると動きが多く派手である。ジャワ人からは野暮と軽んじら
れるらしいが、見る分にはバリの方が楽しい。

 レゴンの起源はサンヒャン・ドゥダリ(Sanghyang Dedari)という舞踊が発展したものである。サ
ンヒャン・ドゥダリは神託を問うための儀式であって、今日ではバリの山奥で観光客と関係のな
い村人だけの舞踊として純粋な形で伝えられている。⇒サンヒャン・ドゥダリ
 踊り手は浄化力が強いとされる初潮前の少女でなければならない。その儀式は香木が焚か
れ、まず聖水で清める。少女は椰子殼の火の上を歩いて身を清める。やがて天女の霊は人形
に乗り移り、人形から二人の少女に乗り移る。少女が男性に肩車されたままのであるのは不
浄なる地上との絶縁の意味である。
 肩の上で目を閉じたままの激しい踊りが始まる。しかし不思議なことに二人の少女の踊りは
鏡を写すように合っている。これは練習とかいうものではない。まさに神が乗り移り、人の体を
借りているだけである。神が憑依(ひょうい)した少女は神託を告げる。
 音楽は止み踊りを終えた少女は聖水をかける儀式をへて元に戻る。しかしその時の少女は
眠りから目が覚めたと同じ状態で踊りのことは何も覚えていないらしい。トランス(→576)の世界
である。
注釈と資料-914 ⇒871.バリの踊り子

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915.ケチャ/集団舞踏

 ケチャ(kecak)ダンスは日没後、寺院の前の松明(たいまつ)がともされた広場で行われる。
上半身裸の50名くらいの男達が割れ門から現われて地面にうずくまる。リーダーの掛け声に
続き『チャ!チャ!』という舌を打つ音を発する。『ホウ!ホウ!』という合いの手が入る。
 コーラスはベースと4つのパートからなる。総合して16ビートのリズムが合成される。そもそも
「ケチャ」という語は田圃の蛙の声を真似したものであり、悪霊を追い払い神々の降臨を祈る
呪文である。⇒ケチャ・ダンス ⇒ケチャ・ダンス
  ケチャ・ダンスはサンヒャン・ドゥダリ(→914)の神を呼ぶトランス(→576)に誘う合唱をヒントに
ドイツ人のスピース(→995)が1932年にケチャ・ダンスとして創作したものである。1931年にバリ
文化の紹介映画「悪魔の島」で始めて紹介された。
 伴奏の男性コーラスが始まりしばらくするとラーマとシータ役の若い女性が現われて優雅に
踊る。ラーマーヤナの物語に基づくもので『チャ!チャ!』という伴奏音は猿神ハヌマン(→951)
の率いる猿の群れの鳴き声のように聞こえることからモンキー・ダンスとも言われる。
 コーラスは絶え間なく続けられ歌い手にトランスの症状が見られる。その症状は歌い手のみ
ならず見物人も次第に感染し陶然となってくる。初めてケチャ・ダンスを見た時の不思議な体験
である。闇にゆらめく手の動きは怪しい雰囲気である。
 踊りに参加している農民は毎晩ケチャ・ダンスをしているわけではないので観光客の便宜た
めにデンパサールのアート・センタ−で開催されている。村毎に出演の順番がきめられている
らしい。
  ケチャ・ダンスのホテルへ出前も可能である。この場合は寺院の庭の松明の明かりではなく
ホテルの芝生で蛍光ランプの下である。タガス村のグヌン・ジャティ舞踏団のケチャ見物による
とガムランや火を使った格闘技なども加わっており、ケチャも年々改良の工夫がこらされ複雑
になってきているようだ。

  本来のバロン・ダンスは災厄が起きた時に死者の寺院で演じられる奉納舞踏である。今日
もバロン・ダンスはこのような目的のために演じられる。1930年代にマハーバラタの一部が取り
入れられてバロン・ダンスと称してバロン劇の一部が観光客用のショーになっている。バリ人は
奉納用と観光客用を完全に使い分けている。
  バロン・ダンスが行われる村の仮設舞台には定刻になると観光バスがやってくる。やがて舞
台に聖獣バロンが登場する。聖獣バロンの踊りは面のついた布を被り、中には日本の獅子舞
のように人が二人入って四本足になる。
 魔女ランダの魔法にかけられたダンサーは本当にクリス(→702)で我が身を傷つけそうにな
る。《善であるバロン》と《悪であるランダ》との闘いに終りはない。
注釈と資料-915 ⇒954.バロンとランダ

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916.バリの神前芸能

  ワヤンはジャワを経由してバリにもたらされたものである。ジャワ人にワヤンが愛好されてい
るようにバリ人もワヤンが大好きである。ジャワでは人形の形も抽象化されているのに対して
バリの人形は肉の厚さが伴う。 バリ島に伝えられてきたワヤンは古い様式であろう。バリ島の
ワヤンはイスラムの影響を受けずに維持保存されてきたからである。
 人形を操りながら語りを述べるダラン(→874)は厳しい修行を積んでおり祭司的な役割もある
ことからバリ島ではブラフマナ(→642)階層の人が多い。
  ダランの語る古代ジャワ語のカゥイ語(→956)は一般の人にはわからない。そこで通訳のよう
な形でバリ語をしゃべる従者が善悪両側に2人づつ登場する。これはインドのマハーバーラタ
にはないバリでのバリエーションである。善側のトゥワレンとムルダー見かけは悪いが聡明な
人物である。知識と機転で危うい場面で主人公を救う。ヒンドゥー教以前のバリの神々かもし
れない。⇒バリのワヤン
 ジャワではイスラム教の布教の拡大とともに影絵はさらに発展し、娯楽の要素も加味され
た。これに対してイスラム教の影響のないバリでは元の儀式としてのヤヤンの形態をそのまま
留めている。芸能としてもバリの影絵はジャワにおけるほどその位置づけは高くないようであ
る。ジャワでワヤン唯一のものであるのに対してバリではワヤンは演芸の一つにすぎない。
 ワヤン・トッペン(Topeng)は仮面劇である。面の内側を口に挟んで支えるので台詞(せりふ)
をしゃべることもない。ババドという年代記の戦記物、特にガジャ・マダ(→335)の武勇の話であ
る。3〜4人の役者が次々に面を変えて出てくる。俳優が面毎の別の人物になりきる有様がポ
イントである。
  ワヤン・オランは面がなく素顔であるが、顔に表情がなく仮面のようである。主役はせりふをし
ゃべらないパントマイムである。従者が滑稽な解説的せりふをいう。どちらも影絵人形の動きを
象徴化したもので日本の能に共通するものがある。
 ガンブー(Gambuh)はバリの宮廷で演じられた古典舞踊劇である。バリのすべての演劇と舞
踊の起源はガンブーといわれる。演劇のストーリーはマラット(Malat)物語といわれジャワのパ
ンジ王子(→908)のバリ版である。ロマンにみちた冒険談である。言葉がカウィ語であるので従
者がバリ語の通訳を行う。
  アルジャ(arja)は劇あり、歌謡あり、音楽ありの大衆芸能である。演目はパンジ物語などが
多い。具体的な内容は役者が勝手に演じるという即興劇である。かつて俳優は男性のみであ
ったが、最近は女性も登場している。ジャワのクトプラ(→829)に対応するものであろう。
⇒アルジャの役者?
  観光コースのバロンダンス(→915)を見た。バロンやランダが登場し有名なクリスの場面はあ
ったが、その前段は役者が登場し滑稽な?会話を行い、飯をがさつに食べる場面などアルジ
ャ的であった。
注釈と資料-916

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 917.バリのガムラン

 バリでは王家はもとより村も自らのガムランを持っている。村の誇りは優れた楽器と楽団を
持つことである。村では毎日バレ・バンジャール(→595)に集まり練習を行う。そして技を磨いて
村対抗ガムラン合戦で名声をうることである。隣村とはライバルの関係にある。プリアタン歌舞
団(→997)のように国際的になり世界的な名声をうることもある。このためには優れた作曲家の
篭絡やスパイ活動もある。
  子供達は練習を見ながら大きくなり、いつかは演奏のメンバーになる。バリではガムランの奏
者は男性に限られている。バリ人は一般に音楽の才能に恵まれているが、中には先天的な音
痴の人もいるだろう。このような人は仲間外れになるのかとの心配は無用である。ガムランの
運び役として楽団の一員である。⇒バリのガムラン
 儀式用のガムランは楽器の種類も演奏も異なる。神に捧げられる旋律があり、観光客は聞く
ことができない。儀式用、葬儀用で音程が異なる。
  ゴン・グデ(gong gede)は大型編成のガムランである。大きな力強い音がでる楽器が中心に
なっている。レゴンやバリス(→913)の伴奏に演奏される。ワヤン(→916)上演時の楽団の編成
は小規模である。行列の際の携帯用のガムランもある。 ⇒ガムランの行進
  バリのガムランは伝統を引き継ぐ一方では新しい試みも取り入れ、この結果、著しい変貌を
とげている。観光客への演奏は新しいものが多い。ジャワのガムランが宮廷音楽として伝統そ
のままの重厚であるのに対してバリの音色は軽薄というジャワ側からの批判もある。ジャワの
ガムランは水の音楽であり、バリのガムランは火と風の音楽である(皆川厚一「ガムラン武者
修行」)。
  今世紀になってシンガラジャ地方(→183)で生み出されゴン・クビャル(Gong Kebyar)は曲の
テンポを急に早くしたり、遅くすることで音楽に華やかさをもたらした。クビャルとは閃光(せんこ
う)という意味である。現代ガムランの演奏としてバリ島に広がり、今日のバリのガムラン演奏
のほとんどはゴン・クビャルである。
  古典ガムランとゴン・クビャルは楽器の編成、音階も異なる。古典ガムランは半音のないスレ
ンドロ(Slendoro)音階であり、ゴン・クビャルは大編成でペログ(Pelog)音階である。
  クビャルの演奏に合わせて踊りも分野が広がった。ゴン・クビャルに合わせた踊りを総称して
タリ・ルパス(tari lepas)という。クビャル・トロンポンはガムラン楽器のトロンポンを演奏しながら
踊る。若い男性が座ったままで音楽の雰囲気を体の動きで表現する。激しい動きはバリスの
雄々しさとレゴンの優美さを併せた踊りで高度の技術を要する。オレッグ・タンブリリンガン
(oleg tambulilingan)は蜜蜂の求愛の舞は男性の扮する蜜蜂が女性の扮する花に戯れる舞で
ある。1920年代にタバナン出身のマリオ(Mario)という全ての楽器を使いこなせる天才舞踏家
によって始められた創作舞踊である。
注釈と資料-917   

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918.ジェゴグ/竹の合奏

 バリ島西部のジュンブラナ地方(→184)は東南部のバリ中心部から見るとバリの田舎であ
る。田舎とは距離的なものでばかりでなく文化的な意味でもある。そのバリの田舎にジェゴグ
(jegog)という竹のオーケストラがある。⇒ジェゴグ
  オランダ植民地時代は竹の鋭利な先端が武器になると警戒され禁止されていたという。一時
途絶えていたジェゴグが地方の名士であるスウェントラ(Suwentra)氏によって再興された。日
本人である和子夫人の内助の功が大である。
 ジェゴグは数種の大きさの楽器からなる竹のオーケストラである。6種の楽器の編成でなり小
さなものは竹の筒を琴のように並べたもので『カタカタ』と馴染みの音である。『ポロンポロン』と
いう丸い音、『ウォーン』という低音のアンサンブルである。4音階にすぎないが音色は豊富で
ある。 
  大きいものは長さ3m、直径20aもあろうかという大竹である。太い竹の発生する超重奏低
音の共鳴音は迫力がある。大竹の楽器の上の渡した木枠の通路を駆けずり回る。竹の種類
に応じて撥(ばち)に工夫がり、低音の撥は2-3kgの重さがある。
 青銅のガムラン楽器がいわばフォーマルな楽器であるのに対して、庶民の楽器は竹製であ
る。ガムランの乾いた金属音に対してジェゴグは生命の迸る植物音である。ガムランの演奏は
ユニホームを着て乙にすまして行うが、ジェゴグの演奏者は揃いの制服は着ているが上半身
裸で汗だくになって演奏する。いわばガムラン演奏がクラシック音楽であるのに対してジェゴグ
はロック音楽である。撥を打つ演奏者の中にはトランス(→576)になっていた者がいた。いかに
も野性的なネガラ似合いの音楽である。
  村毎にのチームがあって演奏の覇を村対抗で争うのをムバルン(mebalung)という。試合の
方法は一方が演奏を始めると、もう一方が追いかけて演奏する。先発が強力な演奏を行うと
後発がそれを上回ろうとする。夕方から翌朝まで迫力ある熱演が続く。相手の演奏と張り合い
ながら緩急高低を繰り返す。演奏の上手い方の音は何時までも続くが、劣勢の方の音は次第
に音が小さくなり、位負したということで勝負がつく。⇒ジェゴグの演奏
  ジュンブラナ県一帯にジェゴグ演奏をする50チームの中でスウェントラ氏の率いるスアール・
アグン(Suar Agung)楽団が著名で日本でも演奏会が開催されている。
  スンダ地方(→105)にはアンクルン(angklung)という竹の合奏(注)がある。アンクルンは竹を
震わせるとある音階の音がする仕組みである。全音階をセットにした小型のものから、何人も
が各々自分の担当の音階だけを担当して演奏する大型のものもある。ドレミファの西洋音階
のアンクルンはスンダ地方にかぎらずインドネシア全域で学校の音楽教育のために普及して
いる。
 日本から社長のお供でカリマンタン島のLNG工場を訪れた際に現地の小学生のアンクルン
で演奏する「さくらさくら」の歓迎に感激した社長が子供等にサッカーボールを贈ったことを思い
出した。
注釈と資料-918  

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919.バタック人のシガレガレ

 インドネシアの各民族は民族色豊かな“人形”をもつている。伝統を受け継ぐ民族にとって人
形とは祖先の霊であって信仰の対象である。この中でも特にバタック人のシガレガレ(Si 
Galegale)は一度見ると何故か忘れ難い。⇒シガレガレ人形  ⇒シガレガレ
  トバ・バタック族のシガレガレは等身大のからくり人形である。頭に赤いターバンを着け、ゆっ
たりとした衣服をつけ、肩にウロス(ulos)というバタックの伝統布をかけ、青いズボンを着けて
いる。一般にスマトラ島民族(注)は色彩鮮やかな衣装であるが、バタック人の衣装は黒が基
調であるためウロスの鮮やかな色がアクセントになっている。
 シガレガレは青年を思わせる木の素材そのままの無表情な像であるが、人形師が横に座っ
て操ると手が動く、舌やまぶたが動き、涙を流したり、タバコを吸うなどの手のこんだ仕掛けの
ものもある。 シガレガレの由来については幾多の説話伝えられる。未亡人が先立たれた連
れ合いを偲ぶためといわれる。別の説話は子なくして死んだ女性といわれる。バタック人は祖
先の魂は子孫によって祭られる、子孫の途絶えた人の魂は落ち着くところがなく永久にさ迷う
と信じている。従って子供のない人の魂を慰められなければならないからである。
 演奏される器楽の伴奏も止んだ静けさの中でからくりを操るカタカタという音だけが聞こえ
る。人形のぎこちない動作は死者の霊魂を表している。あるいは子孫のない悲しみかもしれな
い。その時、人形の慟哭が見る人の心に聞こえる。民族の魂のこもった故であろうか。シガレ
ガレは悲しみの儀式であるが、最近は結婚式の余興にも登場するらしい。
 シガレガレ人形はインドネシア人が生命の樹とするブリンギン(→050)から作られる。ブリンギ
ンの樹から作られるものにバタック人の魔法の力を持つ杖がある。トゥンガル・プナルアンには
三人の男、双子、一匹の犬と蛇が彫られている。ジャワ人のクリス(→702)と同様にバタック人
の守護神である。土産物屋に売っていたものを買って帰ったが、長さは1.4mほどあり、ずっしり
と重たく夢、床の間の飾りであって散歩の杖になるようなものではない。
  サモシル島(→087)北端のシマニンド(Simanindo)はバタックの伝統を残した村である。敵か
らに襲撃に備え村は要塞化している。村のラジャの家がバタック博物館になっている。伝統家
屋(→938)の露台でシガレガレやトルトル(Tortor)ダンスや歌唱が観光客に公開される。
  バタック人の歌唱力は有名である。バタック民謡にシング・シング・ソウ(Sing Sing So)という
独唱に大勢が唱和して歌う船歌がある。翻訳した歌詞によると船で行く男の航海を祈願する恋
歌とされている。しかし何か腹の底からえぐりだすような歌は単なる船歌ではない、実は葬送
の歌ではないかというのが著者の直感である。
注釈と資料-919  ⇒607.バタック人

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920.ニアス島の走り高飛び

 ニアス島の住民はプロトマレー系(→563)の個性の強い文化で知られている。他の民族に見
られないニアス文化の特徴の一つは石造構築物(→700)に優れていることである。ニアス島は
石の文化の島といわれる。伝統を最もよく残している村が南ニアスのバウォマタル
(Bawomataluo)村である。バウォマタルとは「太陽の丘」を意味する。石を整然と敷きつめた
480段の石段の続く山の上にある。石の広場を高床式の建物が囲んでいる。熱帯の日中に石
は焼け付くばかりである。石の文化は厳しい。
 インドネシア紙幣“1000ルピア札”のデザインにもなり、最近テレビなどで紹介されているの
は成人式に行われるホンバ・バトゥ(fahombe batu)という走り高飛びの伝統行事である。村の
石を敷き詰めた広場の中央には2b強の石の壁がある。横にした飛び箱である。その手前に
石の踏切り台がある。⇒走り高飛び ⇒走り高飛び
 若者はなみいる観衆の前で約20mを疾走してきて積み石を踏切にして手を介添えにして石
の壁を飛び越える。以前は石は粗いままであり障害物で覆われていた。夜間に隣の村の塀を
乗り越え首狩り(→625)を行う訓練が起源である。飛び越えた者だけが成人の有資格者で結婚
できるという厳しい関門である。手を使うので走り高跳びの競技とは異なるが、インドネシアの
走り高跳びの選手はニアス人がなりそうである。
  最近ではホンバ・バトゥは観光客が訪れるとショーとして行われる。ホンバ・バトゥだけでは物
足りないのでニアス人の踊りが加わる。ハイライトは戦闘シーンがショウーとして行われる。ニ
アス族は首狩りをしていただけに迫力がある。⇒戦闘ショー
  ニアス島の伝統家屋は高床式(→792)であるが、特徴は住居の下部が丸みを帯びている。太
い丸太で脚柱が組まれているのは多発する地震対策になっている。住居の下部の丸みが船
の構造を思わせる。室内は間口一杯に設けられたベンチや格子窓、天窓からの採光で、簡素
ながら彫の深い豊かな空間性が感じられる。
 首狩り時代には侵入者対する防衛上の必要から共通の階段とポーチでつながり、村の全住
居は地上に降りずに歩行できる。壁は槍を通さない厚板を使用しており、床下に侵入して槍を
突き刺す敵から防御する仕掛けもあり、住居は要塞としての機能がある。
 石の文化、首狩り、戦争のやり方、儀式、高床式住宅という点でニアス族は強烈な個性のあ
る部族である。このニアス族とインドのアッサム地方の山間のナガ族との共通性が指摘されて
いる。イラワジ河上流にいたグループが南北に分かれニアス族とナガ族になったものだろう。
 石の広場には椅子や机、柱などの模様をほどこした石の彫刻が置かれている。死者の記念
碑である。彼らは木彫り彫刻にすぐれている。ドイツ人のキリスト教宣教師はニアス島で布教し
た際に宗教的色彩の彫刻を邪教であるとして没収してドイツへ送り、島民に伝統の神を彫るこ
とを禁じた。従ってニアス彫刻の最も優れたものはドイツにある。
注釈と資料-920 ⇒096.ニアス島

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921.マドゥラ島の競牛

 マドゥラ島のクラピン・サピ(Kerapan Sapi)という“競牛”は島を挙げての伝統行事である。競
馬ならぬ競牛で牛が走るだけであるが、住民は熱中する。農閑期の8月になると村で部落対抗
予選が始まり、各々の村を代表して郡代表予選にすすむ。郡代表は9月にパメカサン
(Pamekasan)で行われるマドゥラ島の決戦に挑む。
  競牛はマドゥラ島最大のイベントであるから東ジャワ州知事はもちろん大統領が出席するこ
ともある。マドゥラ人は他郷へ出た者も年に一度の競牛の際には帰省する。インドネシア各地
から観光客も集まる。⇒競牛風景
  角は色のついた布をまき、頭飾りや首飾りなど派手な衣装をつけた牛の堂々たる入場式で
始まる。牛の闘志を煽るためガムラン(→911)演奏の儀式があってから競技に入る。
競牛のやり方は二頭が一組で牛の間に渡した台に“騎(?)手”が乗る。「ベンハー」の映画であ
った戦車の構造である。スターターの合図で騎手は牛に鞭を入れると牛が疾走する。
  日本の牛は歩くのさえ大儀そうであるが、マドゥラ牛は人より早く百メートルを9秒台で走るら
しい。牛が疾走するのはバンテン牛(→062)の野生の血統もあろう。2頭の牛が息を合わせて
同じスピードで走ればよいが、牛の息が合わないと騎手はバランスを失って落ちることもある。
牛もこの日は昂奮して鼻息も荒くなっているから、必ずしもゴールをめがけて走るとは限らな
い。観衆もまた牛が飛び込んでくるのを待っている。
  走る練習の積み重ねかと思うが、練習よりは牛の精神力の鍛練の方が重視される。生卵を
50個?も食べさせ、ビールを飲んで磨き上げる。優勝した牛は大統領から表彰される。牛は所
有者の名誉であり大事にされて天命を全うする。

  バリ島のヌガラ地方(→184)ではムクプン(mekepung)という水牛の走行レースが稲刈りの終
わった頃にある。この日ばかりは着飾られた牛が荷車を引いて2`ばかりの野道を疾走する。
大勢の見物客の声援を受ける。レースはスキー競技のように順番に繰り出され2頭で競争す
るが、勝負は必ずしもタイムとか着番ではない。何を競うかといえば走る姿の優美さということ
である。⇒バリ島の競牛 ⇒バリ島の競牛
  ロンボク島のマレアン(Malean)という牛の競争は田植え前の田で稲の神様スリ女神(→698)
を慰めるために行われる。スンバワ島(→214)は水牛の競争である。田植え前の水田は水牛
が走ると水飛沫があがり水上スキーのようらしい。蹄耕という田の中を牛を歩かせることによ
る耕作法の名残らしい。
  ミナンカバウ人が闘牛でジャワ人に勝ったという牛の伝説にあるように闘牛はインドネシア各
地で行われたと思われるが、今日では東ジャワのボンドウオソ(Bondowoso)で行われる。
注釈と資料-921  ⇒060.牛151.マドゥラ島

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922.タウタウ人形

 スラウェシ島の山中のトラジャ人の葬式は盛大である。死んでから長期間にわたり儀式が繰
り返され、最後に死者は村の外れの断崖に埋葬される。
 絶壁の下から梯子をかけて岩壁を穿ち、死者の棺桶はそこへ引き上げられて安置される。
クレーン車を持ち込まずに行う危険な作業であるので当然、死者も出る。ここまで死者に手間
をかけるのは、例え、村が敵に襲われても死者は最も安全な場所に匿われていなければなら
ないというのがトラジャ人の信条である。トラジャでは全てが〈死者〉のために〈生者〉がいる、と
いう発想である。⇒懸崖の墓場
 死体は穿たれた岩壁の中に埋葬されており、岩壁の前面はテラス状に穿たれそのテラスに
タウタウ(tau-tau)人形が並ぶ。タウタウは死者そのものに似せた等身大の人形である。死者
の生前の社会的身分が高いほどテラスのある位置も高くなる。20mほどの断崖絶壁の墓は下
から見るだけである。岩壁は死体から流れた汁で汚れている。  
  タウタウ人形は墓所から彼方の村を見守っている。霊は人形に移っているから人骨は単なる
物質にすぎない。風化していない死体は臭く、蝿が集っているが、風葬の乾いた雰囲気は熱帯
の明るい日差しの中では墓地という感じはないらしい。
 人形には食事が捧げられ、顔も化粧して生前の衣服を纏い、古くなると着せ代えられ、あた
かも生きているがごとく扱われる。人形の材質はナンカ(→775)の木で作られているので初め
は黄色であるが、時の経過とともに褪せて白くなる。⇒タウタウ人形
 ランテパオから南6kmのロンダは懸崖の墓場で有名である。観光客は入場料をはらって墓
場を観光する。土産物屋も営業している。
  村によっては断崖に杭を打って棚を作り、棚に遺体を置く墓場もある。落ちないように紐で縛
ってある吊り下げ墓である。
  いずれにせよ岩壁の墓場は貴族階級であり、庶民の墓は別の容易に近づける所にある。自
然の岩陰や岩を刳り貫いた洞窟に安置する。墓所には古くなった数世代の棺桶や髑髏(どく
ろ)や骨が累々と積み重なっている。以前は人骨の間を観光客が歩きまわっていたが、最近
はガラス張りを超して見るだけで中へ入れなくなった。
  歯が生える前に死んだ赤ん坊は立ち木をくり貫きそのほこらに埋めて蓋をする奇習がある。
人以前のものを自然に帰すという考え方である。
 山間の桃源郷にも他所からの侵入者が増え、タウタウ人形も閑静な山峡で安穏にしておれ
なくなった。いつ拉致されてスラバヤ通(→161)の骨董品店で売り物にされるかわからないから
である。どのようにして入手したか定かでないが、千里万博跡の民族学博物館にタウタウ人形
の実物?がある。
 漂海民のバジャウ族(→662)の信仰は人形を精霊として崇めている。その人形の名前はタウ
タウという。トラジャ人とバジャウ族を結ぶ人形の繋がりである。
注釈と資料-922  ⇒618. トラジャ人619.トラジャの葬式

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923.スンバ島の騎馬戦

 ヌサテンガラ諸島のスンバ(Sumba)島は四国程の大きさがあるが、インドネシアの辺境であ
る。以前は白檀の樹の茂る森林があったが、乱獲されて枯渇した。サバンナ気候の下では森
林も消え岩がむき出しの大地である。インターネット・サーフィンで見つけた「インドネシアに緑
を増やそう」というNGO活動はスンバ島のことであった。
  近代文明から取り残されたのはスンバが豊かな土地でもなく他の島々に比べると貿易として
は魅力はなかったためであろう。⇒スンバ島の伝統家屋
 プロト・マレー系(→563)の島民は昔さながらの生活様式を堅持しており、特に葬式の盛大な
ことはスラウェシ島のトラジャ人(→619)と共通している。葬式には総ての家畜を捧げるのが伝
統である。これには政府も見兼ねて屠殺税を設け過度の葬式用家畜の屠殺を防止しようとし
ている。宗教はスンバ在来のマラピ神の祖霊崇拝のアニミズム(→696)信仰であるが、最近で
はキリスト教(→715)が熱心に布教している。
 スンバ島の行事で特に有名なのは西スンバのワノカカ地方のパソラ(pasola)という騎馬戦で
ある。海沿いにサッカー場のような広場があり、パソラの戦いで亡くなった戦士の墓がある。パ
ソラで死ぬことは男の誇りである。
 イカット(→928)の黒装束の民族衣装をまとい、飾りをつけた馬に乗馬して地域を二分にした
二軍に分れて戦う。首狩りへの戦闘への出陣式が起源であろうが、今ではマラプ神に稲作の
豊作を祈る一種の儀式として籾まきの始まる2〜3月に行われる。同時期に海面にニャリ虫が
群生するのも豊穣のシンボルとされる。
 氏族を代表する二人の対戦で火蓋がきられる。突撃し、槍を投げ、相手を馬から落とすこと
である。武器の槍は雨のシンボルである。敵をなぎ倒す勇士に見物の女性から喚声があが
る。戦いで流された血は精霊に捧げられる供えである。⇒騎馬戦・パソラ
 そういえば日本の福島県の相馬地方にも同じような行事がある。パソラの観光客が少ないの
は飛行機を数回のりかえないと行けない僻地だからである。
 パソラの方は本当の実戦であって本物の槍を投げあうから当然死者が出る。しかし人の血
は神への捧げものとして意に介さない。政府が本物の槍の使用を禁止してからは棒が用いら
れているが、それでも怪我人は避けられず、時には死者も出る。
 騎馬戦であるから馬は不可欠である。荘厳な儀式であるにもかかわらず時代物の映画のロ
ケーションさながらである。パソラに登場する小型スンバ馬(→063)はロバ程度の大きさであ
る。パソラが何か童話の世界のような印象が残るのは馬が小さいためだろう。パソラが終わる
とタブーであった他の氏族との交流も解禁になう。
 東インドネシアのマルク諸島、スラウェシ島のミナハサ地方にかけての戦士の踊りは「チャカ
レレ」という。極楽鳥(→076)の羽飾りをつけて見るからに勇ましい出で立ちは西部劇のインディ
アンと似ている。
注釈と資料-923  ⇒220.スンバ島

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 924.ダニ族の戦争ダンス

 バリエム盆地(→239)の手入れの行き届いた畑とホナイ(honai)といわれる民家からなる村に
見張りの塔があった。初めてこの地を訪れて桃源郷と思ったヨーロッパ人には塔の使用目的
が分からなかったが、やがて敵の攻撃を見張る物見の塔であることが分かった。
  ダニ族は約30の氏族に分かれて住んでいる。氏族の間は敵対関係にあった。ダニ族は勇
敢で部族闘争に熱をあげる。女、豚などをめぐり侮辱と感じれば戦争が始まる。土地がからむ
こともある。
  両軍は戦争を始める前にダンス(注)を行い雄たけびをあげて次第に昂奮し戦意を高揚させ
る。武器は槍と弓である。武器に鉄はないから死傷は少ない。しかし戦争であるから本気で闘
えば死者はでる。⇒戦闘ショー
 政府の出先かあるいは教会が仲裁に入る。仲裁者の負担で豚の御馳走がふるまわれて一
件落着となる。しかし男の存在意義は種付けと戦士であることであるから戦争を禁じられた男
はレーゾンデトールを奪われたと同じである。従ってしばらくすると戦争はまた勃発する。
  戦争する場所は村外れの原っぱと決まっており、時間も日中と限られている。女性は危なくな
いところから戦争を見物し、戦争には参加しない、という意味では村対抗のかなり危険な競技
意識の要素が強い。戦争が秘めている人口調整の役割もあろう。
  当局の意向もあって最近ではガス抜きのため模擬戦争が行われる。出陣ダンスはあらん限
りの装飾を施しリズミカルな動きは興奮の度合いを高める。極楽鳥(→076)の求愛ダンスであ
る。観光客向けのショウーを兼ねるためのやらせの戦争ごっこであるから本物と比べるべくも
ないが、迫力は圧倒的である。⇒出陣の正装
  コテカ姿(→790)で体に豚の油をテカテカに塗りたくる。鼻の中央の隔膜には猪の牙を通すこ
とができるように穴があいている。頭には極彩色の鳥の羽をつける。あるいは顔に色泥を塗り
たくり恐ろしげに見せる。
  溢れる原始エネルギーに圧倒され、太古の昔に里帰りしたような昂奮に呆然とするらしい。
中には都会慣れしたか細い神経の繊細な人にはカルチャー・ショックが大きすぎるため予定を
操り上げて早々に帰る人も多い。

  姫路の瀬戸内に面した灘といわれる海岸地帯では「けんか祭り」として知られる秋祭りがあ
る。祭りには村々から神輿(みこし)がせりだす。隣の村の神輿と出会った際には神輿をぶっつ
け合って衝突音がする。威勢のいい若者に担がれ神輿は有らん限りのエネルギーを発散させ
る。傷ついた神輿は傷ついた軍旗のごとく村の誇りである。
  警察がやかましく言い、実行委員会がいくら申し合わせても死傷者がでる。昔は死傷者の数
を誇る風潮さえあった。まだ見たことのないダニ族の戦闘ダンスの記述を読んでいると灘の
「けんか祭り」を思い出した。
注釈と資料-924 ⇒627.ニューギニア高地人

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