H−5章 インドネシアの書籍

968.「ナーガラ・クルターガマ」 969.ラッフルズ「ジャワ誌」
970.「マックス・ハーウェラール」 971.ウォーレス「マレー群島」
972.マデロン・ルーロスフ「ゴム園」 973.カルティニ「光は暗闇をこえて」
974.「スカルノ大統領演説集」 975.プラムディヤ「人間の大地」
976.「スラット・ウラン・レ−」 977.コバルビアス「バリ島」
978.ギアツ「劇場国家」 979.観光案内書

H−5.インドネシアの書籍(注釈と資料
H−1 伝統文化 H−2 伝統工芸と伝統家屋 H−3 神話の系譜
H−4 インドネシア語 H−5 インドネシアの書籍 H−6 国民文化の創造と交流



H−5 インドネシアの書籍

968.「ナーガラ・クルターガマ」

  インドネシア各地に成立した王国ではスジャラ(sejarah)、ヒカヤット(hikayat)、ババッド
(babad)、タンボ(tambo)と称する歴史書があった。これらの歴史書は王国の起源、創始者、
外敵の撃退、王国の発展、歴代の王の神秘的事跡を綴ったものである。どの王国にもプジャ
ンガ(pujangga)という宮廷詩人がおり、年代記編纂の任務を担っていた。これら歴史書は王国
のプサカ(→704)として継承された。
  その中でもパララトン(Pararaton)は〈諸王の書〉の意味でシンガサリ(→246)およびマジャパ
ヒト(→248)両王朝の歴代王の伝記である。キドゥン(kidung)と呼ばれるジャワ語の韻文で書か
れている。1222 年のケン・アンロック(→334)によるシンガサリ王国の建国から 1420 年ごろま
でを記述の対象とする。⇒マジャパヒト王国の遺跡
  オランダはロンボック島占領(→178)の際に、支配者バリ人の建造物を徹底的に破壊した。
その際にチャクネガラ王宮のバリ人貴族の蔵書からナーガラ・クルターガマ 
(Nagarakertagama)の写本がかろうじて救い出された。ナーガラ・クルターガマとは「王国の事
跡の伝」or「聖なる教えに秩序づけられた王国」という意味である。
  ナーガラ・クルターガマはマジャパヒト王朝最盛期第四代ラージャサナガラ(ジャワ語ではハ
ヤムウルク)王(→248)の治世の頃、詩人プラパンチャ(Prapanca)によって書かれた98詩篇、
384詩節のカカウィン(kakawin)である。⇒Gramedia書店
 同書は16 世紀ごろバリ島で写されたと考えられ,オランダの学者ブランデス(J.L.A.
Brandes)が 1896 年に数種の写本から原文を校訂し,オランダ語の訳注を付して出版した。
発見された同書によって古代ジャワ史が明らかになった。
  王都マジャパヒトの描写、朝貢国、友好国の列挙、1359年の王室の巡幸、老僧の語るシン
ガサリ王朝からの経緯、王の祖母の追悼儀礼、1364年のガジャマダ(→335)の死去とその余
波、行政機構の記述、王室寺院領の列挙、宮廷恒例儀礼が記載してある。
 一般にパララトンといわれるジャワの歴史書は歴史事実の記録というより文学作品としての
性格が強い。キドゥンという韻文形式そのものは,後世に多くの「キドゥン何々」という書物とし
て受け継がれた。
  カカウィンは古ジャワ語で書かれた韻文の文学形式である。サンスクリット語のカヴァィ(詩
人)に語源があるようにサンスクリットの美文詩形式に範をとっていた点が土着的色彩の強い
キドゥンと異なる。古ジャワ語はカカウィンの言葉であったことからカゥイ語ともいわれる。
 ジャワ語はオーストロネシア語族(→563)に属し、インドとは別体系の言語である。しかしジャ
ワ語の語彙の多くはサンスクリット系(→981)の言葉である。表現形式もサンスクリット文学の
影響を受けている。
注釈と資料-968  

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969.ラッフルズ「ジャワ誌」

  英国のジャワ島占領によるラッフルズの副総督としてジャワ在任はわずか4年にすぎない。
短期間であったにもかかわらず行政官としてすぐれた業績をあげたが、彼の永久の功績は"ジ
ャワ誌(History of Jawa)"の執筆である。
  1811年にジャワを占領し副総督に就任したラッフルズは1815年5月〜8月にジャワ島からバリ
島の視察旅行に出かけた。行政官としての必要な業務であるが、その視察行程にデイェン高
原(→133)、ボロブドゥール遺跡(→126)、プランバナン遺跡(→128)、スク遺跡(→132)の文化遺
跡が含まれていた。
  これらの遺跡はイスラム教徒に改宗した原住民にとって邪宗の遺物として放置されていた。
学問的興味からジャワの輝かしい古代歴史を予見していたラッフルズが訪れたのは政治家と
してのジャワ副総督としてよりはバタビア学芸協会会長としてであろう。
  ラッフルズは古代ジャワ文化遺跡の価値を認めた。例えばボロブドゥール遺跡の存在そのも
のは既に知られていたが、ジャワ誌第3巻に報告し、その重要性を学界に知らしめた。ラッフル
ズの指摘に刺激を受け、その後オランダの学者が本格的研究に取り掛かった。
⇒ボロブドゥールの発見
  歴史のみならず民族学に関心の深かったラッフルズはテンガル族(→659)を訪問し、マジャパ
ヒト(→248)の残影を観察している。バリ島にも渡り、ジャワと異なるバリの宗教、社会を観察し
ている。オランダにとって当時のバリ島は政治的にも経済的にも重要性はなく、奴隷供給地と
して以外は無視されていた。行政官としてはパスしてもよい所であったが、ラッフルズはバリ島
に関心を持った。
  オーストロネシア語系(→563)の言語の研究もラッフルズを嚆矢(こうし)とする。マレー語の達
人であった彼はジャワ語、スンダ語にマレー語との類似性を認めていた。
  表題は"ジャワ史History of Jawa"であるが、内容は「ジャワ誌」であり、ジャワの総合研究を
編纂したものである。歴史についても述べているが、王家に伝えられる伝聞を記したもので歴
史そのものではそれほど評価はされていない。⇒ジャワ誌(アジア経済研究所)
  オランダの植民地政策への批判から行政官として自らの政策の自画自賛の個所は目をつむ
るとして、彼の学問の業績を損なうものではない。
  「ジャワ誌」の編纂はジャワ島進駐の当初から国際政治情勢からジャワ島のオランダ返還も
ありうることの予感が駆り立てたこともあろう。学問的情熱もさることながら英国がオランダに
返還したジャワに対する愛惜の書として世論の喚起を図るべく、英国帰国後の1827年に刊行
された。
  原本は辞書の厚さの大鑑2冊であり日本語訳がないようである。残念ながらこの大著を読破
する英語力がないので下記の書籍から内容を類推してしかお伝えできない。
  別技篤彦「東南アジア地域研究史序説」1977 大明堂
  信夫清三郎「ラッフルズ伝」1968 平凡社東洋文庫
注釈と資料-969  ⇒338. ラッフルズ副総督

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970.「マックス・ハーフェラール」

  「海のかなたでは3000万をこすあなたの臣民があなたの名において虐待され、搾取されて
いるのでは……」と大書してオランダ・ウィレム3世国王への呼びかけで終わっている小説が
1860年にアムステルダムで発行された。⇒ムルタゥーリ
  『マックス・ハーフェラール(Max Havelaar)』の著者はミュルタテュリ(ムルタゥーリ Multatuli 
1820-87)である。ムルタゥーリというペンネームはラテン語で“受難者”を意味する。本名はダ
ウェス・デッケル(Eduard Douwes Dekker)といいオランダ人の植民地官吏としてナタル(スマトラ
島)、メナド、アンボン、ジャワ島の各地を勤務した。官吏としては正義感は強いが剣呑であり、
私的には金銭にルーズで多額の借金を抱えていた。
  西ジャワのルバック県副理事官を辞職しオランダへ帰り、持って帰った資料を基に一気に書
きあげた。同書は自伝的色彩の強い小説である。著者の分身であるマックス・ハーフェラール
は農民に対し不当な搾取を行う現地人首長を告発し、行政改革を計るが、上司には受け入れ
られず、ついには辞職に追い込まれる。ちなみに後に東インド党(→289)を結成して植民地の
自治を目指したダウウェス・デッケル(→687)にとって著者は大叔父にあたる。
 マックス・ハーフェラールは植民地文学の最高峰であると同時に19世紀のオランダ文学にリ
アリズムを導入した作品である。小説の構成は複雑であり、レトリックは難解であるが、エピソ
ード的に挿入されている「サイジャとアディンダの悲恋物語」は平易な語りで抒情的間奏曲の効
果を持つ。オランダ語で書かれた書物で外国語に翻訳され世界中に有名になったことでは後
の「アンネの日記」と双璧である。
  刊行にいたるまでには著者に刊行中止の条件としてしかるべきポストが提示されたり、ある
いは本人が要求するなど紆余曲折があったらしい。最後は貧困のため著作権もろとも売り渡
したため、第1版では政治的配慮からの修正が行われ、一般の目に触れる機会を少なくする
ため高価本にして発行部数を押さられた。⇒日本語版
 この小説の歴史的意義はジャワ農民がオランダの植民地治世で貧困になり土地を失う悲惨
な実態が明らかにされたことである。直接糾弾しているのは現地人首長の違法であるが、オラ
ンダ人支配者の不作為による官僚的対応を通してオランダ植民地の存在が問われた。
  オランダ議会で植民地について政府攻撃の材料になった。小説の舞台の地名ランカスビトゥ
ンは架空の地名であるが、オランダの植民地支配下の例として実在する地名のように引用さ
れた。強制栽培制度(→282)が次第に縮小され、さらに1901年の倫理政策(→283)導入にマッ
クス・ハーフェラールは無関係ではない。
 当時アメリカでのストー夫人の「トムおじの丸太小屋」と並び、ヨーロッパに世論を動かした例
として並び称されるのがマックス・ハーフェラールである。著者はこの一作だけで名を後世に残
すことになった。めこん社より佐藤弘幸訳本が2003年に刊行され、かくも名高い書物をようやく
日本語(注)で読めるようになった。                                                 
  注釈と資料-970 

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971.ウォーレス「マレー群島」

 ウォーレス(Wallace 1823-1913)は英国の生物学者である。同時代の英国に学者一家の家
系のダーウィンは恵まれた経済状況の下で学究に没頭していた。これに対してウォーレスは正
規の教育を受けていない偉大なるアマチュアである。25歳の時にアマゾン流域を旅行し珍し
い生物、特に昆虫を採取して博物館や金持ちのコレクターに買上げてもらうという生活を続け
ていた。⇒ウォーレス(左)とダーウィン
 ウォーレスは31歳になって足掛け8年間になるマレー群島への旅に出た。当時、マレー群島
と言われた地域は現在のマレーシアとインドネシアであり、次第に"インドネシア群島"という言
葉の方が優勢になった。アジア大陸とオーストラリア大陸の狭間で見つけた珍種、変種の発見
は彼のフィールド派博物学者としての血と肉になる。
 この旅行の成果は『動物地理学』に結実し、ウォーレス線に名を残している。さらに現地の動
物の変種の観察から自然淘汰による"進化論"に到達し、まとめた論文をロンドンの学界にテ
ルナテ島(→228)から投稿した。進化論はダーウィンとウォーレスが同時に発表したにもかかわ
らず今日ではダーウィンの「種の起源」だけが著名である。
  ウォーレスは1862年に8年間のマレー群島(今日のインドネシア)の探検旅行から戻って6年
後に著したその旅行記が『マレー群島(The Malay Archipelago)・副題は[オランウータンと極楽
鳥の島]』である。ウォーレスの生涯に刊行した24の著書のうち商業的に成功したのは「マレー
群島」だけである。⇒「極楽鳥の島々」1954年
 生物学者の旅行記ではダーウィンの「ピーグル号航海記」が著名であるが、これは冷静な科
学者の目の紀行文である。これに対してウォーレスの「マレー群島」はかなり通俗的な旅行記
である。昆虫に造詣深かった彼は蝶や甲虫の新種発見の喜びを生き生きと感情をこめて書い
ている。
  トリバネ蝶に「ラジャ・ブルック(ブルック王)」というウォーレスが発見した大型の華麗な蝶があ
る。サラワク王国(現在のマレーシアのサラワク州)のラジャ・ブルックの名を蝶に命名したの
は、ラジャ・ブルックがウォーレスのスポンサーであったからである。
 ウォーレスのいうマレー群島地域の動物の目玉はオランウータン(→071)と極楽鳥(→076)で
ある。従ってこの両者との遭遇の模様はくわしく、本書の副題にもなっている。しかし標本のた
めとはいえ出逢う毎に射ち殺している。今日では保護動物としてあの厳重な保護下にあるオラ
ンウータンと極楽鳥をである。
 動物のみならず人間社会の観察も鋭い。当時のヨーロッパからほとんど訪れる人もなかった
モルッカ(マルク)諸島の僻島の住民の珍しい風俗の記載がある。マレー人とパプア人の性格
の比較(→626)、精霊の力を借りた人口調査が興味深い。
  税制ではオランダが丁子貿易(→026)の完全独占のため管理区域外の丁子の木を切り倒す
政策を弁護するなど全般にオランダの植民地政策を高く評価している。
注釈と資料-971  ⇒080. ウォーレス線

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972.マデロン・ルーロスフ「ゴム園」

 東南アジア植民地時代のゴム園(→502)を営む人間模様を白人側から題材にした小説では
サマセット・モームの短編集がよく知られている。モームは東南アジアに取材に来た旅行者で
あるが、植民地社会の人間模様を描写に才気が漲っている。
  これに対して「Rubber ゴム園」(1931年)、続いて「Coolie 苦力」(1932年)の著者であるマデロ
ン・ルーロスフ(Medelon Lulops)は自身がプランターの妻であった。モームの洗練さには欠け
ても生活体験からくるゴム園の生活の描写は生き生きとしている。この小説がオランダで発表
された時には植民地の退廃と圧政ということでヨーロッパ中にセンセイションを巻き起こした。
 「ゴム園」は新任監督見習の白人新婚夫婦がやってくる所から始まる。ヨーロッパやアメリカ
の大資本が投入されてスマトラ島のジャングルは切り開かれてゴムの苗木が植えられる。この
ためクーリー(→669)という労働者が中国やジャワから連れてこられた。これらの労働者を監督
する白人もヨーロッパやアメリカから出稼ぎにやってきた。独身の男はジャワ人やカラユキサン
(→347)出の日本女性を家政婦として雇って現地妻とした。⇒ゴム園の開拓
 まだ明けやらぬ早朝に『トントン』という時間の合図を告げる木太鼓の音でゴム園の一日が
始まる。男は焼け付く太陽の下の厳しい気候の野外労働に疲労困憊する。女は死ぬほど退屈
する。彼らの気晴らしは休日にクラブに集まって行う馬鹿騒ぎ(注)である。
 この退屈さと白人社会の知性の低さに耐えられないあるプランターの妻は流浪するロシア貴
族の末裔と知り合い恋に陥る。やがて不倫関係がばれて首になった男を追ってヨーロッパへ
帰る女には著者の自画像が重ねたエピソードも折り込まれている。
⇒著作「Rubber」
 白人プランターの願望は金を貯めてヨーロッパに帰ることである。5年間働いて夢にまでみた
ヨーロッパに帰った夫婦はヨーロッパの四季の花、穏やかな自然に感激する。初めは親族の
もてなしも手厚いが、そのうち植民地にいる間に身についたビールのラッパ飲みのようながさ
つな習慣、身についた召使に対する横柄な態度がつい出ることから顰蹙(ひんしゅく)を買う。
だんだんオランダでの居心地が悪くなった彼らの落着先は高給にひかれて再びスマトラ島に戻
ることであった。
 折からのゴムブームに新車や贅沢品がヨーロッパやアメリカから輸入される。クラブでは高
級ブランディやワイン、スコッチを湯水のようにあびせ飲む。宴の後にはダイヤモンドの指輪の
落し物さえある。。しかしやがて訪れる大恐慌によってすべてのブームは泡沫となって消える。
失業した夫婦は就職の目途もなくヨーロッパに向かう汽船から泥の海に拡がるスマトラ島を眺
めている。
 同著者による「Coolie 苦力」は騙されてスマトラ島へ連れてこられたルーキーというスンダ人
苦力労働者(→881)の生涯を描いたもので「Rubber ゴム園」とは視点が異なる。小説としては
後者が面白い。残念ながら両書とも日本語翻訳はない。 
注釈と資料-972 

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973.カルティニ「光は暗黒をこえて」

 「光は暗黒をこえて」はカルティニが1899年から1904年の死にいたる5年間に発した書簡集
である。手紙の宛先はオランダ人でその多くはジュパラ(→136)に駐在した副理事官の夫人と
バタビアの文教省長官の夫人である。
  女学校の開校とかオランダ留学や奨学金の手続きをめぐるものでカルティニは手紙では
“母”としてよびかけている。その他の手紙の宛先もオランダ在住の進歩的文化人である。そ
の一人は生涯に会うこともなかったオランダの同年代のペンフレンドである。
  カルティニから発信した書簡だけであるのでオランダ人がどのような返信をしたのかはわか
らない。⇒カルティニ伝
 彼女の思想の遍歴は西洋文化に没入しジャワの否定から出発した。特にジャワの一夫多妻
を憎悪した。しかし短い生涯の末期にはジャワの肯定へと着地している。
  時代の趨勢から少し早く生まれ過ぎたジャワ人には己の伝統の重みと近代意識の板挟みの
中の苦悩を訴える相手がオランダ人女性しかいなかった。死の予感からであろうか「おそらくこ
れが最後の手紙になるでしょう」と書いて1ケ月もしない間に産褥(さんじょく)でなくなった。25
歳の短い生涯である。
 この手紙の編集者であるオランダ人(注)はカルティニにオランダ留学を煽り、カルティニもそ
の気になったが、土壇場で止めさせるように立ち回った。この背信の理由は植民地の実体が
直接にオランダで話されることを恐れる圧力がかかったたからであろう。このためか書簡集に
は留学を放棄した経緯の手紙が故意に削除されているらしい。
 しかし1911年この書の刊行はオランダのみならずヨーロッパの思想界に衝撃を与えた。植民
地の原住民でありながらヨーロッパ人以上の知性をもつ若い女性の存在することの驚きであっ
た。
 彼女の居住していたジュパラ詣が植民地の進歩的文化人の流行になった。時あたかもオラ
ンダの植民地行政官の中の開明派が台頭しており、カルティニは人寄せパンダ的存在として
これらの開明派に利用された面もあるかもしれない。オランダが倫理主義政策(→283)が声高
らかに提唱したのはカルティニの晩年である。
 原著はオランダ語であるがインドネシア語にも訳され、後に続く民族主義者に感銘を与えた。
民族の心情を吐露する格調高い名文としてインドネシア人によって引用されることが多い。彼
女は夜明け前の暗黒時の民族主義の覚醒者であったと同時に文学者として位置づけられて
いる。 ⇒カルティニ夫婦
 「光は暗黒をこえて」の日本語訳は戦前と終戦直後のものがあるが入手できない。シティスマ
ンダリ・スロト著、船知恵・松田あゆみ訳「民族意識の母 カルティニ伝」、土屋健治著「カルティ
ニの風景」から書簡の全貌を推測するしかないのは残念である ちなみに英語では「ジャワの
プリンセス」との表題である。
注釈と資料-973  342.カルティニ343.カルティニの挫折

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974.「スカルノ大統領の演説集」

 初代スカルノ大統領とスハルト大統領の演説に関する小話はスカルノの演説が始まると人々
はラジオのスィッチをつけ、大統領の演説に陶酔していた。これに対してスハルト大統領の演
説が始まると人々はスィッチを消した。スカルノは演説がうまく国民を魅了し、街路から人の姿
が消えたといわれた。ただしヒットラーも演説はうまかったように演説のうまい政治家は必ずし
も人類に貢献した政治家ではない。
 毎年、8月17日の独立記念式典にはスカルノ大統領はムルデカ広場、後にはスナヤン競技
場(→162)で数万の国民を前にして演説を行った。毎年1時間以上に及ぶという熱弁である。ス
カルノは大統領になってから最も精力を注いたのが独立式典の演説の原稿であり、時期が近
づくと別荘に閉じ篭って原稿に推敲を重ねた。⇒演説するスカルノ
  「ソウダラ ソウダラ スカリアン(満場の同志諸君!)」と切り出し、間を置いて「見よ!この大
群集を、インドネシア革命の源を・・」と続く。インドネシア語のみならずジャワ語、サンスクリット
語、英語、ラテン語も織り交ぜながら潮のように流れる。
 式典には外国の元首も列席する。もっともスカルノ体制末期の参加者は金日成首相、シアヌ
ーク殿下というような当時の国際世論のアウトサイダーであったことはその後のスカルノの辿っ
た道を暗示(注)するものであった。
 彼の大統領の経歴の中で1959年は転機の年であり、従来に比べて長演説であった。その年
は議会が認めないにもかかわらず《50年憲法》に替えて《45年憲法》の採用を大統領布告で
強行した年である。以降、スカルノは指導された民主主義(→379)を唱え独裁化への道を歩む
ことになる。その年の演説では彼は自らの行動をダンテの神曲になぞらえて正当化している。
ダンテの〈地獄〉から〈煉獄〉、そして〈天国〉への旅を50年憲法の苦しみから45年憲法への復
帰に例えている。⇒執務中のスカルノ大統領
 スカルノの演説には古今東西の歴史、哲学が引用されロマンに満ちた演説であり、彼の博
識を物語っている。日本の政治家の演説ではせいぜい中国の故事の片言隻句どまりであるの
はやはり寂しい。
 「インドネシア革命の歩み」はスカルノ大統領の1945年の独立宣言から1964年までの各年の
演説の日本語訳である。名演説と言われるが、文章としてみると羅列や繰り返しが多すぎるの
はインドネシアの言語事情を斟酌(しんしゃく)しなければならない。
 大統領が演説する相手の国民は国語となったばかりのインドネシア語をあまり理解できな
い。大統領が行う演説自身がいわば国語教育である。繰り返し繰り返しいうことで国民にインド
ネシア語教育(→958)をしていたのであろう。
  スカルノは原稿を用意したが、聞き手の反応を確かめながら繰り返しやアドリブをふんだんに
使用した。実際の演説は草稿からかなり脱線もしたらしい。幼児の頃からワヤン(→904)に親し
み、ダラン(→874)になることも夢みていたスカルノは絶妙の語り部であった。
注釈と資料-974 ⇒440.スカルノ大統領

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975.プラムディヤ「人間の大地」

  プラムディヤ・アナンタ・トゥール著「人間の大地」は19世紀末から今世紀初頭のジャワを舞
台にインドネシア民族が植民地の被支配民族として目覚める過程を描いたものである。第1部
「人間の大地」、第2部「すべて民族の子」、第3部「足跡」、第4部「ガラスの家」の全4部作から
なる大河小説である。
  第1部「人間の大地」はハムレット型のプリヤイ(→629)の青年ミンケはB市(著者の出身地の
ブロモと思われる)のブパティの次男である。ジャワ伝統の封建性に反発すると共に異民族に
よる植民地支配という二重の軋轢の中で近代的自我に目覚める。“モデルン(modern)”がキ
ーワードである。⇒プラムディヤの著作
  故郷を離れスラバヤ高等学校に進む。学校では数少ないプリブミ(→474)である。プリブミは
どれだけ優秀であってもオランダ人、インド(混血児)の階層社会の最下層に位置づけられ、名
字のない連中と嘲られる。
  スラバヤ郊外のオランダ人農園を訪ね、そこで妾(ニャイ)のジャワ女性にあう。ニャイは父
親の野心のためにオランダ人に現地妻として売られたジャワ女性である。オランダ側からもジ
ャワ側からも貶められた存在である。しかしニャイは自らの努力で勉学に励み、古今東西の書
籍に親しむ。ニャイは大農園の経営才能においてもトゥアン(→886)を上回る。買った女に経営
力においてのみならず人間の尊厳において圧倒されたトゥアンはアルコールに溺れ、娼家に
逃避して死ぬ。
  ミンケはニャイの美貌の娘アンネリースとのプラトニツク・ラブにおちいり、結婚する。しかし娘
は混血児であるが故に体制によって結婚は否認されて引き裂かれる。
  第2部は主人公はバタビアの医学校に進み民族主義運動にのめりこむ。

  著者のプラムディヤは9月30日事件(→384)に連座してブル島(→227)に収監されて監獄島で
書かれた。この間に初めは同房の仲間に語部(かたりべ)として語って聞かせたのが「人間の
大地」の誕生である。⇒プラムディヤ・アナンタ・トゥール
  1973年、国際世論を配慮して特別待遇が与えられ、タイプライターと用紙の持ち込みが認め
られ著作活動が許された。1973年口述、1975年筆記と記されている。  
  最初に「人間の大地」が発売された時、初版は12日で売り切れた。当時のアダムマリク副大
統領(→447)は「祖父や父がいかに植民地主義に立ち向かったかを理解するためにすべての
若者が読むべきだ」と賛辞を寄せた。
  しかしスハルト体制はトゥールの著書を1980年に発禁処分にした。発禁の理由は社会主義
の宣伝ということであるが、内容というよりは著者自身の前歴が災いしているのであろう。東南
アジア最初のノーベル文学賞候補にしばしば上がっているだけに著書の解禁を求めて文化人
がアピールを行ってきた。
注釈と資料-975  ⇒990. プラムディヤ・アナンタ・トゥール

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976.「スラット・ウラン・レー」

  マタラム王家はオランダによって分割(→252)され政治活力を失ったが、文芸はそれぞれの
王家において目覚しい展開を見せた。ジャワ人の信条の書として知られる「スラット・ウラン・レ
ー」はスリ・ススフナン・パク・ブォノ4世(1788-1820)が記した。彼はスラカルタ家の王であるから
マタラム王家の分裂後の4王家の中の本家筋にあたる。王であると同時に文人である。書で
はジャワ人の考え方、行い方の規範を次のように述べている。
  汝の努力すべきことは    寝食を減らすこと
   享楽を求めてはならない 衣類はほどほどにするのだ
   享楽を求める者は 内なる備えを欠く
 「スラット・ウェドトモ」はジョグジャカルタの王家の分家であるスリ・マンクヌゴロ4世の作であ
る。大臣または宮廷詩人ゴースト・ライターであるという説もある。「スラット・ウラン・レー」と同様
にジャワ人への教訓の書である。一部を抜粋すれば次のとおりである。
  昔のジャワの騎士道では三つの事柄を重んじた 誠心誠意を尽くすこと 何かを失って
  も冷静でいて後悔しないこと 人にさげすまれても運命を受け入れること
 この二書はジャワ人の人生哲学の書ともいわれる。原本はジャワ文字の韻文のものが手書
きで筆写されてきた。言葉はジャワ語でジャワ文字で韻文の形であるから覚えやすい。節をつ
けて歌うことができる。ジャワ人の母親は子守歌の代りに子供に聞かせた。子供がマヌンソ・ウ
トモ(徳のある人)になることを願った。⇒クラトンの人
 官吏のみならず人民に対して彼統治者の心構えを説いたものである。中身は封建的思想そ
のものである。しかしこの本が依然として発行され続けられていることに今日的意義がある。
「葉隠」は日本武士の規範として過去の遺物に近いが、「スラット・ウラン・レー」「スラット・ウェド
トモ」は今日もジャワ人の行動の規範している。
 残念ながら両書の日本語訳はないが、マルバングン・ハルジョウィゴロ著、染谷臣道・宮崎恒
二訳「ジャワ人の思考様式」に要点が記してある。本項目も同書の孫引きである。
 キ・アグン・スリョムンタラム(注1)はジョグジャカルタ王室の出身である。「幸福論」も上記二
書の延長上の心学である。⇒ジャワ貴族
  ジャワの詩聖・碩学として著名なロンゴワルシト(Rongowarsito 1802-73)はススフナン王家
(→131)のプジャンガという宮廷詩人である。宮廷詩人が果たしたかつての知の権威としての
役割はなくなったが、ジャワ古典文学の最後の栄光として評価されている。ジャワ神秘思想の
50冊近くの大著がある。彼の思想体系はジャワ人の人生観の根幹をなしている。
  ロンゴワルシトの言葉はジョヨヨボヨの予言(→299)のようにジャワ人に尊ばれ、その影響は
民衆にまで及んでいる。スラカルタに近いパラルの墓所(注2)には人々が訪れ、かたわらで一
夜を過ごす。瞑想・黙想の中で何らかの啓示を得る。スカルノ、スハルト両大統領も表敬のた
めロングワルシトの墓に詣でた。
注釈と資料-976  

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977.コバルビアス「バリ島」

 ミゲル・コバルビアス(Miguel Covarrubias)は「Island of BALI(バリ島)」をアメリカで1936年に
刊行した。この書はたちまちベストセラーとなり大きな反響を呼び、バリ島が「神々の島」として
広く西欧に知られるようになった。
 バリ文化の紹介書で研究書ではないが、バリを研究する者は必ずこの書を経ているといわ
れる。刊行以来50年も経過するが、日本語の翻訳は1991年に刊行(平凡社)された。関本紀
美子訳の「バリ島」は訳も装丁も完璧である。
 著者のコバルビアスは画家が本職のメキシコ人である。しかし画家というよりも著述家として
芸術や学問の様々な分野で活躍しており、後にメキシコ人類学大学の芸術史の教授として生
涯を終えた。⇒バリ絵画
 出自から明らかなように著者は100%アカデミズムの人ではない、従って「バリ島」も学術書
ではない。バリの写真集に魅せられて1930年に始めてバリ島にわたったのがきっかけで、そ
の虜となり1933年に再訪した。彼の後半生のインディアン民族芸術への没頭もバリという異質
文化との接触の経験が大きな動機であろう。⇒コバルビアス画
 本書の構成はバリ社会、バリの宗教、バリの芸術について総合的に解説したものである。見
聞を基に平明に淡々と記されている。最後のキリスト教宣教師の布教活動への批判はバリ文
化に魅せられた著者の心情を語るものであろう。
 文章は平明な解説であるが著者の本職の魅惑的な挿絵があいまって充実した書となってい
る。また著者の撮影した写真も豊富である、当時のバリ女性の衣服は腰から下だけで上は乳
房はむき出しの懐かしい写真である。
 画家ゴーギャンはヨーロッパから最も遠いタヒチ島に憧れた。バリ島はそのタヒチ島よりもっ
と神秘的であった。バリ島が地球上"最後の楽園"として西欧人に桃源境として定着するにはコ
バルビアスの「バリ島」が少なからず寄与したことであろう。
 それまでもバリ島は一部の好事家に知られており、すでに幾人かの芸術家がヨーロッパから
バリに移住していた。画家ワルター・スピース(→995)を中心とする芸術家サロンが出来上がっ
ていた。⇒書籍「バリ島」カバー
  そのメンバーの一人がコリン・マックフィ(Colin McPhee)である。彼は作曲家であり、民族音
楽研究家でありガムラン音楽(→917)の研究のためバリに滞在(1931-38)した。本職の音楽専
門書以外に記したバリ滞在記のコリン・マックフィ著「熱帯の旅人(原題 A House in Bali)」(大
竹昭子訳 河出書房新社刊))も異文化生活体験記として面白い。舞踏の天才マリオとの交友
が記されている。
  その他の西欧人のバリ体験として1937年刊ヴィキイ・バウム著「バリ島物語」(金窪勝郎訳 筑
摩書房刊)がある。オランダのバリ島征服を主題にバリの風俗にププタン(→172)の史実を取り
入れた詩情豊かな小説である。
注釈と資料-977 

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978.ギアツ「劇場国家」

 アメリカの文化人類学者のクリフォード・ギアツ(Clifford Geertz 1926‐)がバリ島のフィールド
ワークの結果を著作にしたのが「バリの親族体系」であり「ヌガラ(Negara)」である。後者には"
19世紀のバリの劇場国家"という副題がついている。
 ヌガラの語源はサンスクリット語で"町"を意味する、デサ(村)の対立概念であり、インドネシ
アでは宮殿、都、王家、国家の意味である。
 ギアツはバリ王国(→265)の仕組みを"劇場国家(Theatre State)"と名付けた。その意味する
ところはバリの王国は見せ物的な儀礼を行うことが国家の存在の目的になっているというもの
である。⇒ジョグジャの書店
 通常の西欧的な通念では政治とか国家機構というものにおいては権力の体系は上から下に
降りていく。しかしバリではこのような権力構造が見られない。むしろバリでは上位の人がある
役割を演じることを下から期待され強制観念となって迫ってくる。つまりヒエラルヒーが逆に構
成されている。
 バリの国家システムは通常の国家における法的機関のようなものではなく国家全体が劇場
のようなものである。王は興行主であり、儀礼を司る祭司は演出家である。農民は役者であ
り、照明係でもある。何よりも演劇を盛り上げる観客である。国家の末端の人間も単なる受け
身の存在ではない。
 国家は元首の即位の儀礼や葬儀は派手に行う目的は権威を見せ付けることである。バリで
は式典や儀礼の手段が目的になっており、インドネシアにもその傾向がある。
 初代のスカルノ大統領はどん底の経済をものともせずに国民体育大会や独立記念式典のイ
ベントを盛大に取り行った。独立記念塔(→158)を建立し、都心の交差点は公園のように花で
飾られ豪華な彫像がそびえた。このような情熱はバリ人の母からの血を引き継いだのかもし
れない。
 次ぎのスハルト大統領はスカルノを否定することから始まった。しかし多くのイベントはそのま
ま引き継ぎ、また巨費を投じてTMII公園(→164)が建設された。これらはナショナル・アイデンテ
ィティ確認のためのパフォーマンスである。この意味ではインドネシアはバリの劇場国家の要
素を継承している。劇場国家的体質はあるいは発展途上国に共通の現象かもしれない。
 バリ王国はいわば劇場国家の家元である。華々しく王族の集団自殺であるププタン(→172)
を演じて古代バリのヌガラは幕を閉じた。ププタンこそ劇場国家の壮麗な悲劇のフィナーレで
あった。
  ギアツは諸シンボルの解釈を課題とする意味論的人類学を提唱している。より客観主義的な
立場に立つ人類学者は,ギアツに強い反発を示すが,『諸文化の解釈』 (1973) にまとめられ
た一連の問題提起により,今日の人類学に大きな影響力をもつ。
注釈と資料-978  

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979.観光案内書

 最近は外国旅行の案内書も多くなり、本屋の外国旅行のコーナーにもインドネシアの本は増
えた。「地球の歩き方(ダイヤモンド社)」とか「自由自在(日本交通公社)」シリーズのインドネシ
ア編はバリの情報が多い。しかし注意しないと著書名だけではパリの案内書と間違えることが
ある。残念ながら書棚では《パリ》の方が《バリ》よりも有力である。
  日本人の海外旅行もバックパッカーの若い人中心であることを反映してこれらの本の情報提
供者は若い人である。旅行業者のお仕着せのパック旅行と異なり自由に歩いている様子がう
らやましい。
 しかし中には気になる記述もある。バリの寺院は肌の露出者や生理中の女性が寺院へ入る
ことを拒否していることに若者はこれに抵抗感があるようである。しかしバリのタブーを悪習で
はなく慣習の相違である。バリではバリの文化を尊重しなければならない。
 その他の案内書はホテルやレストランや土産物店の広告が多い。ただでもらうパンフレットで
も書いてある内容で買うほどのものではないが、ないよりはましであるということであろう。
 英語の案内書はいいものだけが目につくせいか充実している。例えば日本語のバリ案内書
は南部とキンタマニ湖(→182)に集中している、せいぜいウブド(→175)どまりである。これに対
して英語のバリ案内は北部、西部にもくわしい。単なる名所旧跡にとどまらず歴史、社会、宗
教、文化などにも適切な解説がある。
 この差はオーストラリア人らしい。インドネシア訪問の外国人は最近になってようやく日本人
が第1位になったが、それまではオーストラリアが首位であった。人口の少ないオーストラリア
人がこれだけ多いことはインドネシアには何度も出かけているからであろう。
 日本人が海外は他に出かける所があるのでインドネシアを訪れるのは初めてか数回目に過
ぎない。同じアジアの国として共通点を探し、インドネシアではこの程度である、という見下す視
点がある。あるいは文化は初めから無視して安くて気の利いた土産物生産地とかマリンスポー
ツやゴルフの場としか見ていない。
  しかしオーストラリア人にとってインドネシアとは最も身近な外国である。自らの文化と180度
異なる異質なアジア文化への好奇心が強く、その中でも文化が最もリッチなバリ文化には畏敬
の視点がある。この点は全欧米人にいえることであろう。
  ボロブドール遺跡や万里の長城にそれほど驚かない日本人がピラミッドやコロシアムに接し
た時の感動は物理的距離以上に心理的距離がありそうに思う。とにかく日本語の案内書の解
説は行けば分かることばかりであり、何も知らないで行った方が新発見の印象が強くなる。
 バリ島観光客の主流は欧米人から日本人になり、続いて韓国人、中国人が急増している。イ
ンドネシアの観光地の俗化が思いやられる。
注釈と資料-979  ⇒514.観光産業 

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