マレーシア著作

マレーシア著作集 目次

マラッカ観光のすすめ
  1.東西交易の拠点・マラッカ
  2.マラッカの歴史遺産
  3.宗教の共存・マラッカ

キナバル山麓の温泉

マレーシアとインドネシア
  はじめに
  マラッカ王国
  英国植民地
  東マレーシア
  マレーシアの成立
  マレーシアの国体
  マレーシアの経済
  まとめ

ブルネイ紀行
  1.ブルネイ国際空港
  2.ブルネイ王国の栄光
  3.引き裂かれた国土
  4.禁酒のイスラム教国
  5.黄金のモスクと宮殿
  6.車社会への変身
  7.繁栄を支える石油資源
  8.厳戒のLNG基地
  9.実験農場・マクファーム
 10.水上集落
 11.ヤオハン百貨店
 12.ブルネイ人とは
 13.密林の蜃気楼

シンガポールという国
  1.狭い国土の都市国家
  2.シンガポールの歴史
  3.シンガポールの独立
  4.外資導入による経済発展
  5.言語に見る民族問題
  6.リークアンユ−首相
  7.シンガポールの
  8.シンガポールの






マラッカ観光のすすめ


1.東西交易の拠点・マラッカ

 世界地図を見れば判るとおりマレ−半島はユ−ラシア大陸が南に突き出した最先端である。
東洋と西洋の定義は調べるほどあいまいであるが、一つの言い方としてこの半島の東側を東
洋とするというのが分かりやすい。要はマレ−半島は世界の地政学の観点から戦略的位置あ
るということである。
 東洋と西洋を結ぶル−トとしてユ−ラシア大陸の砂漠を横断するシルクロ−ドが有名である
が、それよりもはるかに多くの物資と人の交流のあったのが海のシルクロ−ドである。輸送力
の観点から船の方が駱駝の背中より勝っていることはいうまでもない。
 ところで海のシルクロ−ド、即ち船による航海はマレ−半島を迂回しなければならない。そこ
で必ず通過しなければならない関門がマラッカ海峡である。
 帆船時代には南シナ海から来た船もインド洋から来た船もモンス−ンを利用していた。マラッ
カ海峡まで来て荷物を下ろし、西からの船は東の物資を、東の船は西の物資を積み込み風の
向きが変わるのを待って帰るというシステムである。
 この通商ル−トのマラッカ海峡の最狭部にマラッカ王国がある。マラッカが世界史の表舞台
に登場し繁栄の港として世界中に知られるようになったのは当時ヨ−ロッパで金並みに重宝さ
れていた香料の集荷基地であったためである。

 マラッカ王国は港によって立つ国である。船から税金をとる。あるいは国自体が商業を行う。
多くの船が港にやってきて商売が行われることが国の経済基盤であった。マラッカは交易でも
って地域一帯に覇権をたてた。領土の支配ではなく西はアラビアから東は香料諸島、北は中
国など方々の港とヨシミを通じて通商のネットワ−クを張りマラッカに船が集まるようにした。
 このような国は商業国家といわれる。あるいは通商国家とか港市国家も同じ意味である。
 商業国家に対応するのが農業国家である。いうまでもなく日本は農業国家である。日本歴史
を振り返ると農業国家では領土を支配して農民から農産物を税として得るのが国の基盤であ
る。商人を招いて商業を振興してそこから口銭をとるというのは日本では織田信長の楽市楽
座に萌芽が見られる。しかし日本では商業国家は体質的に馴染まないまま今日に至ってい
る。
 マラッカが商業国であることを強調した理由は、今日のマレ−シアとはマラッカ王国を引き継
ぐ国であり、商業国として性格を持つためである。
 例えばマレ−シアでは食料は主食の米といえど輸入している。米はクダ州を初め各州で生産
される。やる気になればマレ−シアは米の自給くらいは可能である。しかしあえて米の自給に
固執しないで輸入するところにマラッカ以来の商業国家の伝統を見る。米の自給にこだわり世
界から孤立化しつつある日本とは対称的である。
 さて商業国であることのメリットはホスピタリィティに富んでいることである。多くの外国の商人
がマラッカに居住し外国人には自治が認められていた。マラッカは当時から国際国家である。
最近になって国際化云々を言いだした日本とは異なる。
 日本のような農業国では外国人に対して拒絶反応的体質がある。観光などは本当はやりた
くないがやむをえずやっているというのが正直なところではないか。この点でマレ−シアでは外
国の客を大事にするホスピタリティが板についている。農業国が観光をやるよりは商業国が観
光をやる方が適している。


2.マラッカの歴史遺産

 マラッカ王国はパラメシュバラ王子によって創設された。時期は15世紀の初め(1403年)であ
る。建国神話によればアレキサンダ−大王の子孫としているがマレ−人である。マラッカは英
語読みでありマレ−語ではムラカ(Melaka)である。同じくマレ−はムラユ(Melayu)である。ムラ
カ/ムラユといえば判るようにマレ−もマラッカも語源は共通である。
 マラッカ王国の王宮はマラッカ海峡を見下ろす丘の上にあった。現在ここには王宮建築の様
式を取り入れた歴史文化博物館がある。
 やがてヨ−ロッパが直接アジアから香料を得るためにアフリカを回ってインド洋にやってき
た。インドに胡椒はあつたが、高級香料のチョウジとかナツメグを得るためにマラッカへやって
きた。
 当時ヨ−ロッパで何故に香料がこれほど貴重であったかというとヨ−ロッパでは冬が来ると
家畜に与える餌がなくなるので秋の終りには豚を屠殺して冬の間の食料とした。しかし肉は臭
くなるのでその保存と臭い消しのため香料は不可欠であった。しかもその香料は熱帯アジアで
しか生産されない特産品であった。
 しかしこうして栄えたマラッカの繁栄はポルトガルの嫉みを受けた。ヨ−ロッパの武器の性能
が優れていたことからマラッカは占領(1511年)される。
 ポルトガルの下にマラッカは交易の中心のみならず東洋へのカトリック布教の基地となった。
マラッカ王国の王宮のあった丘には教会が建てられた。フランシスコザビエルもマラッカで死
ぬ。その後オランダ時代には砲台になった。教会はレンガの壁を残すだけの遺跡である。カト
リックの聖人の立派な石棺と大砲という面白い組み合わせである。

 マラッカはポルトガルからオランダに占領(1641年)され、約200年間はオランダの下にあっ
た。この間に世界の交通史におけるマラッカ海峡の比重が低下したことがある。それは航海術
の発展によりヨ−ロッパとの航海はアフリカの先端の希望峰からインド洋を直接横断してスン
ダ海峡と結ぶようになった。当時のオランダはバタビアが本拠地であったのでマラッカとバタビ
アが競合する時はわりを食った。
 しかしマラッカはイギリスに譲渡され、イギリス直轄の植民地(1824年)になった。スエズ運河
が開通(1869年)して再びマラッカ海峡は主役になった。しかしイギリスはマラッカに代りシンガ
ポ−ルを交易の中心にした。
 ここでマラッカが寂れなかったのは折しもマレ−半島で勃興した錫やゴムの開発のための資
本を供給する資本家の町であったからである。マラッカが作戦指令部、クアランプ−ルは前線
指令部としてマレ−の繁栄がもたらされた。
 植民地から独立した今日のマレ−シアにおいてマラッカは古都となった。数百年の歴史の重
層に町にはエキゾチックな香りがする。ヨ−ロッパの支配が長かったため中国系住民を含む
外国人の比率が高い。
 マラッカにババ博物館がある。ババとは明時代から移住した中国人のことである。現地化し
て中国文化とマレ−文化の融合のシンボルである。彼らは明時代に移住してきた富裕な商人
である。表から見ただけではうかがえない文化のストックに驚く。
 東南アジアの中国系住民は華僑といわれる。その経済原動力はハングリ−精神であった。
マラッカのババには華僑とは別の優雅な大人(たいじん)の文化があることを知ることができる。

 さてマラッカ王国は最初はポルトガルがマラッカを占領した際にジョホ−ルへ逃げる。今日マ
レ−シアでは9の州にサルタンがいるが、そのサルタン家は何らかの形でマラッカ王国につな
がる。マラッカはマレ−シアの歴史の原点である。
 1957年にマレ−シアの前身のマラヤ連邦として独立して再びマラッカはマレ−人の手に取り
戻された。マラッカは日本の奈良、京都になる。マラッカには歴史文化博物館のみならず独立
宣言記念館があって独立当時の資料を保管しているのはこのような歴史的背景がある。
 マレ−シアについては歴史がないとか、文化的蓄積に乏しいといわれる。それをいう前にマ
ラッカを見て欲しい。マラッカの歴史とは単にマレ−の地域史ではない、世界の東西交流の歴
史の現場にいることが実感できる。
 観光というのは食べたり泳ぐだけではないはずだ。マラッカへ行き王宮のあった丘に座り半
日ほどマラッカ海峡を眺めながら海峡を通過した歴史の光景を思い浮かべるのは有意義であ
る。ぜひそのような旅行を企画してほしい。


3.宗教の共存・マラッカ

 最近の新聞で世界ニュ−スを見ると中東、ユ−ゴスラビィア、アイルランド、インド、スリランカ
など宗教対立の深刻さに目を背けたくなる毎日である。
 マレ−人はイスラム教徒であることから独立の際にイスラム教を国家宗教と定めている。し
かしマレ−シアは多民族国家であることから宗教も多様である。それが最も顕著に見られる場
所がマラッカである。
 マラッカはいろいろな宗教が平和に共存している。イスラム教のモスクをはじめカトリック教
会、プロテスタント教会の多いのが目立つ。これらは昨日今日できたものではなくすべて歴史
ある由緒あるものである。中国人の仏教寺も日本の寺とは異なり儒教と混合したものである。
中国のものとも異なり数百年の歴史を経て南方化したものである。
 マレ−シアが現在イスラム教国になった契機はマラッカ王国が15世紀の初めにイスラム教
に改宗したからである。当時はインド洋の交易はイスラム教の商人が支配していた。言い方は
よくないが、西から多くの客に来てもらうためにイスラム教に改宗したともいえる。
 マラッカ王国を征服したポルトガルはカトリックの国であり、キリスト教への熱意が大航海時
代を作り出した原動力である。しかしポルトガルは排他的なカトリックの布教活動をやったため
に、結局、ポルトガルは商業取引からボイコットされて衰退した。日本が鎖国するにいたった事
情もカトリックの布教に辟易したからである。
 そこからマラッカが得た教訓は通商国家としては世界中からの商人を集めるためには宗教
に寛容でなければならないということである。オランダ、イギリス時代を通じてそのことがマラッ
カの伝統になっている。そしてまた今日のマレ−シアの宗教の自由の保証につながっている。
 しかしそうは言ってもマレ−シアはイスラム教国である。イスラム教は日本に馴染みがないた
めともすれば観光へのマイナス要因とのイメ−ジがある。確かに中東のイスラム教にはそのよ
うな面があるが、マレ−シアのイスラム教は寛容であると断言できる。

 マレ−シアの観光政策は遅れて始まったこともあり、前車の轍を踏まないようにしている。最
近の東南アジアの観光といえばエイズに見られるように腐敗臭さえ臭う。この中でマレ−シア
のようなイスラム教国は清々しささえある。
 仏教とかヒンズ−教というウェットな宗教にたいしてイスラムは日本人にはドライな宗教として
受け取られる。礼拝中のモスクへは入れないが、日本人もイスラム教徒の真摯な姿に触れれ
ば得るものがあるはずだ。
 研修旅行とか慰安旅行も最近は若い人、特に女性が発言権をもっている。彼らの感覚は健
康的なものを目指している。会社の行事としての海外旅行も行き先がマレ−シアであれば上
司も家族も皆が安心できる。
 日本に最も近いイスラム国としてマレ−シアとを売り込むことはタイミングにかなった意義あ
ることと思う。その際に宗教の"るつぼ"としてのマラッカ観光も折り込めばメニュ−はずいぶん
と見栄えがするというのが私の意見である。

マレ−シア観光ミッション来日セミナ−(1993年5月)
における旅行代理店出席者に対するスピ−チ要旨




キナバル山麓の温泉


 東南アジアの最高峰はマレ−シアのサバ州にあるキナバル山である。4千メ−トルを越える
キナバル山は早朝にだけ姿を現わす。日が昇ると暖められた大地の蒸気が雲となって山を覆
う。南シナ海に臨むコタ・キナバルの町からかいま見るキナバル山は異様な姿で横たわってい
る。
 このキナバル山は思いがけないことに火山である。雨で流れるものはすべて流れつくして岩
だけがむき出しにして取り残された山の形に火山の面影らしきものはない。しかしキナバル山
が火山である証拠はある。それは山麓に温泉が出ることである。
 ということでボルネオ島出張の途上のコタ・キナバルでの休日の一日を3時間半かけて熱帯
の温泉に入りに行くことにした。この温泉は日本軍の占領中に開発された。温泉にかけた日本
人の執念をカダサン人のガイドが持ち上げる。
 行政官として赴任した山崎知事が日本軍人の慰安のために温泉としての利用を始めたもの
であり、堺 誠一郎著「キナバル紀行」にこの間の経緯がくわしい。今ではこの温泉が地元に引
き継がれて国立公園内の保養地になっているという。
 熱帯では温泉に入る習慣がない。ほてった体には水浴の方が気持ちがよいからである。彼
らは汗を流すと同時に体を冷やすため一日に数回水浴を行う。熱帯では熱い湯は残虐な為政
者の拷問道具であって慰安のために使用するという発想がない。
 またイスラム教徒にしろ中国人にしろ裸は嫌う。かれらが日本で経験する最大のカルチャ−・
ショックが公衆浴場である。サバ州はキリスト教徒がイスラム教徒を上回るとはいえ、イスラム
教国のマレ−シアである。現地人に愛用されているというが一体、どのような温泉の利用の仕
方であろう。予備知識は水着を用意するようにというだけである。

 コタ・キナバルからキナバル山の間にある山脈を迂回して右に左にキナバル山麓を雲の合
間に山頂をかいま見ながら高度を増していく。麓は厚い熱帯樹林で覆われているが、山の上1
/3はむき出しの岩である。数十メ−トルあるという滝が白い糸の切れ端のようにしか見えな
い。
 カダサン人が人は死ぬと魂はキナバルの山頂に宿ると信じている信仰の山である。偉容な
岩の山塊はその信仰をもっともと思わせる迫力で見る人に迫ってくる。敬虔深いカダサン人の
山のガイドは山の神にねんごろな儀式を捧げてから山に登る。
 休暇に現地人の警告を無視し仲間だけで登山行した軍人が遭難して懸命の努力にもかか
わらず死骸さえ発見されないとカダサン人のガイドは山の神の怒りを畏れをこめて語る。
 コタキナバルからラナウまで50年前は馬を利用しての1週間の旅行であったが、今日では
快適なドライブである。木材搬出のための道路と聞くが、予想に反して怪物のような大型トラッ
クを見ることがなかったのは日曜日のせいであろう。あるいは木は切り尽くしたためかもしれな
い。

 キナバル山麓はカダサン人の故郷である。多くのカダサン人はコタキナバルなどの都会に進
出した。しかし一方では故郷を離れないカダサン人が昔ながらの生活を続けている。高原の平
地に水田が現われてびっくりするが、カダサン人は昔から水田耕作の技術を持っていた。
 ラナウ近辺の水田の風景は日本の山村を思わせる。高度も高くなると熱帯の景色の椰子も
見られない。民家の屋根の作りも日本の藁葺きの農家に似ている。
 最近ではカダサン人の農家は野菜を栽培しているらしい。熱帯の平地での野菜栽培はでき
ないので高原に住むカダサン人の生活の手段となっている。道路沿いにこれらの野菜や果物
を売る市場があった。付近の農家の主婦が自家生産物を持ち寄ったものらしい。
 客が来ても一言も言わずに静かに店番をしている。市場に伴う喧騒とは無縁の中でパントマ
イムのようにして売買が行われる。どうして高原の民は無口なのだろうか。カダサン人に経済
的才能があるようには見えない。コタキナバルに降りたカダサン人は他民族に伍して活躍して
いるのであろうか。

 ラナウという地域の中心の瀟洒な町である。ここからサンダカンまでの道は太平洋戦争中に
日本軍が英・豪軍の捕虜を死の行進をさせたという因縁の道路である。また高度を下げてよう
やく到着した所がポリン温泉である。
 50年前には馬と牛を乗り継ぎ、最後は徒歩で山ひるに悩まされながら辿り着いたという。今
日では最後の10分ほどを歩くと木立の中の切り開かれた所が温泉場であった。
 日曜日のためであろう。多くの家族連れがあちこちに陣取って食事をしている。バ−ベキュウ
の匂いも漂ってくる。人混みの奥にある湯元にはかすかに硫黄の香りがする。嘗めるとヌメッ
とした感じは日本で馴染みの温泉の味である。高熱であるので水でうめている。
 石碑には成分や効能が書いてある。ジャワでは硫黄の煙の中に若い女性がたたずんでいる
のを見たことがある。硫黄の脱色作用で色が白くなると信じている。ここも硫黄温泉であるから
女性が入浴しているのでないかと期待したが、その様子はうかがわれない。
 湯船は野天のコンクリ−ト製の3メ−トル四方のものが二つあり、子供が遊んでいる。もう1
ケ所の大きなプ−ルは水のプ−ルである。少し大きいがこちらも子供である。水着は用意して
きたが、外国人の大人が入る余地はなさそうである。
 そこで見渡して発見したのは有料の貸切の湯室がある。1時間で日本円で1000円であるか
ら現地の物価水準から見ると随分な値段である。しかし3時間もかけて温泉に入りに来たわけ
であるから利用しない法はない。
 バンガロウ風の小屋の中は8畳くらいの広さであり、殺風景なプラスチックの湯船がある。丸
い湯船は弁当箱のように真ん中に仕切になっており一人分の大きさである。どちらにも水と湯
の蛇口がついている。湯は温泉である。さて温泉の利用でこの仕切の意味を考えた。冷水と
湯に分けて交互に入るのであろう。

 マレ−系民族は水浴を好むことで知られている。ヨ−ロッパ人は世界で最も清潔好きの民族
であると言っている。ところで一概に水というが熱帯と温帯では水のレンジが異なるはずであ
る。熱帯の水とは20度台であろう。
 これに対して温帯では10度台であろう。シンガポ−ルの中学生の日本訪問記に水道から出
る水が冷蔵庫の水のようであったと驚異をもって述べていたのが記憶に新鮮である。また日本
に初めて熱帯から来た人が何気なく水浴をして真っ青になってシャワ−室から出てきたという
話がある。
 キナバル山の頂上に降る雨は雪まじりで冷たい。岩肌を滝のように駆け降りた水には大気
に暖められるだけの時間的余裕がなく冷気を保ったままでポリンに現われたのであろう。水の
シャワ−は温帯の日本人にも耐えられないほど冷たい。
 また水の色は透明である。東南アジアで川とは茶色に決まっている。熱帯で冷たくてきれい
な水は珍しい。スマトラ島でもバリ島でもそのような川があればガイドは車を止めて観光客の
注意を喚起する。キナバル山の麓では岩ばかりで侵食する土もないのかもしれない。
 屋外のプ−ルで子供が歓声を上げているのは多分水であろう。温泉もさることながら透明の
冷水の方が珍しいのであろう。
 よく見れば雑多の民族がいる。マレ−系は女性の服装で区別できるが、キリスト教徒のカダ
サン人と中国人は服装からは判らない。食事の仕方も手食と箸食にスプ−ン食と色々ありそう
であるがそう繁々とのぞき込むのはやはりためらわれる。
 ポ−リンは日曜日に家族連れで出かける行楽の場として定着している。バンガロ−などの施
設もある。庶民が多いようであるが、自動車が使える程度にリッチな人は中の上というところで
あろう。何れにせよ温泉そのものが目的ではない。
 熱帯雨林観察道という40分ほどの遊歩道があり、地上から2〜30bある樹冠の高さに渡し
た吊り橋がありそこから熱帯雨林を樹冠の高さから観察できるようになっている。日本の行楽
地のような退廃的施設はないが、そのうちゲ−ムセンタ−などができるのであろうか。
 日本人である私は温泉だけに満足して帰途につく。温泉が地元の人の健康のための行楽地
になっているのはなごやかな風景である。間違ってもプリンスなにがしというホテルができて外
国人に奪われないことを願うのみである。




マレ−シアとインドネシア

*はじめに

 マレ−シアとインドネシアを並べる場合、国土の大きさ、人口という点でインドネシアの方が
はるかに上回っている。ちなみに人口ではマレ−シアは1千8百万人に対してインドネシアは1
億8千万人と10倍である。また、歴史の観点からもインドネシアが古い。日本との経済的関係
でもインドネシアの方が密接である。
 このような状況ではインドネシアとマレ−シアというようにインドネシアを先にいうのが通例で
あろう。しかし本論はマンディ会のためのものであるので両者の単純な比較ではなく【マレ−シ
アとインドネシア】としてマレ−シアにウェイトを置いて述べることとしたい。
 地図で明らかなようにマレ−シアはマレ−半島とボルネオ島の一部からなる。面積から見る
とボルネオ島の方が大きいが人口はマレ−半島に集中している。またマレ−半島にまずマラ
ヤ連邦という国ができて、後にボルネオ島の地域を合併してマレ−シアとなったという経緯をた
どっている。従って通常はマレ−シアという場合はマレ−半島を中心に考えることとなる。
 ところでそのマレ−半島は文字どおり半島であって島ではない。クラ地峡によってかろうじて
アジア大陸に繋がっているにすぎない。この幅40qに運河を掘るというアイディアもあるが、意
外に山が険しいのでアイディアの段階でとどまっている。何れにせよ周りを海に囲まれていると
いう点では島同然である。
 このようなことから東南アジアを大陸部と島嶼部に大別する際にマレ−シアはインドネシア、
フィリッピンと同様に島嶼部グル−プに入る。東南アジアの島嶼部グル−プにはその他にブル
ネイとシンガポ−ルも含まれる。ちなみに東南アジアの大陸部グル−ブの国はタイ、ベトナム、
カンボジア、ラオス、ビルマ(ミャンマ−)からなる。
 島嶼部と大陸部というグル−ピングは風土と地理の観点からの仕訳であるが、実は
人文学的にも島嶼部は意味のある纏まりを持つ地域である。特にマレ−シアとインド
ネシアは歴史、民族、言語、宗教、文化においても多くのものを共有している。このようなこと
から島嶼地域全般を"マレ−世界"とか"大インドネシア"という言い方がある。
 マレ−シアとインドネシアはいわば親類国といえるが、一方では既に各々が別の国として存
在してきたということ自体が色々な差異を生じている。このような観点からの記述が本論のア
ウトラインである。

*民族としてのマレ−人

 マレ−シアとインドネシアの国境線はマラッカ海峡を通っている(ボルネオ島の陸の国境は後
述する)。この海峡の国境を隔ててマレ−半島にはマレ−シア人が住み、スマトラ島にはインド
ネシア人が住む、ということになる。しかしマレ−シア人とかインドネシア人というのは国籍であ
ってそのような名前の民族は実在しない。
 日本人という場合、日本の国籍を持つ人であると同時に日本語を話し、日本の慣習を守る民
族を意味する。このように日本人は[国籍=民族]であるが、世界的には民族の存在と国籍は
必ずしも一致しない方が普通である。マレ−シアとインドネシアでも各々多くの民族からなる多
民族国家であることに留意したい。
 インドネシアのスマトラ島は日本国土の総面積より広く沿岸部にマレ−人がおり、内陸部に
はバタク人やミナンカバウ人というマレ−系ではあるが別の民族がいる。
 これに対してマレ−側ではマレ−人のみならず、移住してきたミナンカバウ人などのマレ−系
民族は皆まとめてマレ−人という。マレ−人の定義はマレ−シアの方がインドネシアより範囲
が広いようである。
 マレ−人はもっと広い意味では太平洋からインド洋にかけてマレ−系民族の意味で使用され
ることもある。この場合は相撲の『曙』も『小錦』もマレ−人になる。
 要するにもともとマレ−半島側とスマトラ島側はマラッカ海峡を挟みマレ−人または同系統の
民族である。国籍は異なるがマレ−人とは即ちマレ−語を話し、イスラム教徒であり、そして彼
らはまたマレ−文化の信奉者である。
 現在の両国の国語であるマレ−シア語とインドネシア語とは実は同じマレ−語を基としたも
のである。若干の相違はあるが、その差は英語と米語の差のようなものらしい。
 マレ−人はマラッカ海峡をあたかも道路のように往来してきた。ジャングルに覆われた陸より
海の交通の方が発達していたのは自明の理である。いわばマラッカ海峡は交通のハイウェイ
である。当然のことながらマラッカ海峡の両岸は同一の文化圏かつ経済圏として栄えた。
 従ってここに国境があるのはおかしいというより間違っている。この関係は日本の瀬戸内海
に国境を引いて中国地方と四国を別の国にしたようなものであろう。ただしマラッカ海峡は長さ
は800q、幅は狭い所で40qであるので、実際の瀬戸内海より2倍ほど大きい。
 ここに国境があるのはマラッカ海峡の住民であるマレ−人が決めた訳ではない。かつてヨ−
ロッパのイギリスとオランダが東南アジア島嶼地域の利権を争った後の手打ちとして自分達の
縄張りを決めた。その名残が現在の国境である、ということでマラッカ海峡の歴史を遡ってみ
るとマラッカ王国にたどりつく。

*マラッカ王国

 世界地図を見るまでもなくマラッカ海峡は太古より交通の要所である。昔からインド・中国・香
料諸島を結ぶ交差点であり、このマラッカ海峡は7世紀頃からスマトラ島のパレンバンの地に
あったスリウィジャヤ王国の勢力下にあった。当時人口も少なかったマレ−半島へはスマトラ
島からの移住民が次第に定着していたが、ジャワのマジャパイト王国が攻め入った際に王子
の一人が今のシンガポ−ルの地を経てマレ−半島に亡命した。
 スリウィジャヤ王国の血をひく王子パラメシュヴァラによって15世紀始めにマラッカ王国は建
国された。このマラッカ王国の築かれた地点は海峡の中央の最も狭い地点である。海峡を臨
む王国の所在は航行する船が寄港せざるをえない要所となり、以後、数世紀にわたってマラッ
カ海峡を支配する拠点となった。
 マラッカ王国は貿易のメッカとして世界中の商人が蝟集し物資が集散する所でありり、西はイ
ンド、アラビア、ペルシアから東は中国からの商船が集まった。日本からは琉球の船が訪れて
いたらしい。当時のヨ−ロッパのベニスやコンスタンチノ−ブルと並ぶ賑やかさだった。
 おりしも15世紀に始まる大航海時代にマラッカの魅惑的な名前は世界に轟き、特に香料の
香りはヨ−ロッパからの航海者を引き寄せた。しかしながらこの町の繁栄はヨ−ロッパ人をし
て掠奪欲を刺激せしめた。マラッカはポルトガルに占領されマラッカ王国は逃亡した。
 以来、マラッカはポルトガル、オランダ、イギリスという異邦人の支配の下におかれ、再びマラ
ッカがマレ−人の手に戻るのは四百年以上経たマレ−の独立した195
7年である。
 今日マラッカは観光地になっている。町にはヨ−ロッパの植民地時代のヨ−ロッパ風の建造
物や中国風の寺院が名所である。しかし町の起源はマレ−人の築いたマラッカ王国である。マ
ラッカとは日本の奈良、京都に対応する存在である。
 話は戻るがマラッカ王国の最盛期の支配圏はマレ−半島からスマトラ島を覆っていた。しか
しこれは今日の国家の領土とはコンセプトが異なるものであり、商業のネットワ−クの支配で
ある。このような国家は《商業国家》といわれる。あるいは交易国家、港市国家というのも同じ
である。
 商業国家と対比されるのが《農業国家》である。インドネシアのジャワ島では土地が肥沃であ
るため昔から稲作が行なわれていた。従ってここに成立した政治権力すなわち王は農民の生
産した農産物を収奪するという農業国家である。日本の政治権力も農業国家であるからこちら
の方が馴染みがある。
 これに対してマラッカ王国は商業国家である。王は港に出入りする船から税金をとる、あるい
は自ら商売をする。食料はどこからか買えばよいというのが商業国家の論理である。
 そこでマラッカがいかに農業とは無縁であったという実例を挙げたい。マラッカはまずポルト
ガルに占領され、次にオランダがマラッカを攻めた。その際、オランダは大砲を積載した船を
港の前面に並べ他の船の出入り止めた。するとマラッカでは食料も外から輸入していたので結
局は餓死者を出すようになり降参した。
 今日、マラッカの観光見物はクアランプ−ルかあるいはシンガポ−ルからバスか車で行く。こ
のようにマラッカはマレ−半島に陸上交通で繋がっている。しかし当時のマラッカとは後ろは無
人のジャングルであって港だけが外界との通路であった。その意味では島同様である。このよ
うに商業国家とは点と線だけを押さえておけばよかったわけである。
 繰り返し述べるとマラッカ王国の基盤はマラッカ海峡という交通路である。マレ−半島とスマト
ラ島に挟まれたマラッカ海峡は"マレ−人の海"である。マレ−とかマラッカといっているが、こ
れは英語読みであってマレ−語では《マレ−はムラユ》であり《マラッカはムラカ》であり、語源
は同じである。
 マレ−世界にはマラッカ海峡の商業国家とジャワ島の農業国家と二つのタイプがある。地
理、歴史のしからしむるところとして今日のマレ−シアという国は商業国家の様相が強く、これ
に対してインドネシアは農業国家の色彩が現われている。例えば独立後のインドネシアは必死
になって食料の自給を図ってきたのに対してマレ−シアは食料の自給に熱心ではなかったの
は商業国家の伝統であろう。

*英国植民地

 18世紀まで東南アジアの島嶼地域はジャワのバタビアを根拠地としてオランダが独占的に
支配をしていた。英国はインドを収めていたので初めはそちらに忙しかったが、英国の国力が
増すにつれ次第に東に膨張していった。
 ラッフルズという英国の著名な植民地行政官はマラッカ海峡に英国の基地となる適地を求
め、シンガポ−ル島に上陸し島の支配者に英国商館の建設を認めさせた。いわばオランダの
縄張りの中への殴り込みである。
 オランダは英国のシンガポ−ルでの専横を黙って見ていた訳ではない。しかしヨ−ロッパで
の交渉が遅々している間に自由港のシンガポ−ルに交易者が集結し人口がどんどん増えると
いう既成事実が出来上がった。このへんはどさくさまぎれのところがある。
 当時オランダも国力の落ち目の時でもあり現状追認から英国とオランダの勢力圏を明確化
することで妥協した。この結果、マレ−半島(シンガポ−ルを含む)は英国、全スマトラ島はオラ
ンダ、という英蘭協定が1824年に締結された。マラッカ海峡を挟むスマトラ島とマレ−半島の
同一民族の間のインドネシアとマレ−シアという現在の国境は実にこの協定に由来している。

 その後19世紀にマレ−半島側もスマトラ島側も著しい経済発展をとげた。特にマレ−半島で
は錫の資源に恵まれたことがその原動力となった。錫は軍需品としての缶詰の普及で急に需
要が増えた。ちなみに今では冷凍食品やポリエチレン容器の普及で錫の需要は全く停滞して
おり、錫は不況業種の代表のようになっている。
 さらに20世紀になってから自動車の製造とともにゴムの需要が急増した。マレ−ではゴムの
移植による人口栽培に成功し、プランテ−ション方式によるゴム栽培のためジャングルが開拓
された。いつまで車で走ってもゴム園ばかりという今日のマレ−半島の景観は第一次世界大
戦の頃に出来上がったものである。
 ゴム景気に沸いた頃の逸話に次のようなものがある。週末になるとゴム農場のヨ−ロッパ人
の支配人が夫婦共々集まり、酒やダンスでドンチャン騒ぎをし、その後にはしばしばダイヤの
指輪の落し物があるという豪勢さであった、ということを書いた小説がある。
 錫の採掘にしろゴム園にしろ問題は人口が少ないので労働力がないことであった。若干のマ
レ−人はいたが、いてもマレ−人というのはあくせく働くよりはのんびりとしたいという民族性で
あるからあまりいい労働力とは言えない。
 従って外部から労働力が移入された。その供給元は中国南部である。当時『清』といわれた
中国は阿片戦争や太平天国の動乱で乱れ、特に華南では農民が大量に流民となり、これらが
華僑として南方に流出した。
 日本では華僑というと商人というイメ−ジがあるが、本来は中国系の出稼ぎ労働者という意
味である。
 またイギリスの植民地であったインド南部からからも労働力が集められた。華僑より労働の
質は落ちるがコストはさらに安かった。主としてタミ−ル人でゴム園の単純作業に従事した。
 このようにしてマレ−へ連れてこられた華僑は苛酷な労働に必死に耐え、勤勉で金を溜めて
商業分野に進出しそのまま住み着くようになった。その結果、現在マレ−半島の人口構成はマ
レ−人が55%、中国人35%、インド人10%となっている。原住民のマレ−人がかろうじて半
分以上であるが経済的に弱い立場にある。このことはブミプトラ政策として後で触れたい。
 一方、スマトラ島はどうかといえばこちらも外部から労働力を移入した。もちろん中国からの
華僑もいたがオランダ自身の植民地のジャワには労働力が溢れていた。従って多くのジャワ
人がク−リ−としてスマトラ島に送られた。もちろんバタク人やミナンカバウ人というスマトラ島
の住民もゴム園としてひらけた北スマトラのメダン近
辺にやってきた。
 さてこの結果、ヨ−ロッパが来る前はマラッカ海峡沿岸はマレ−人だけであった所
へ他所からの移住者で民族構成が複雑になった。マレ−半島は宗教、言語、文化が全く異な
る中国人、インド人という異人種である民族集団の存在が顕著になった。これに対してスマトラ
島に移住してきたのは主として近辺の同じマレ−系の民族であり、宗教、文化を共通していた
のですぐに同化しやすかった。
 インドネシアのスマトラ島にもそれなりの民族問題はある。しかしマレ−シアのような宗教も言
葉も文化のみならず見かけから異なるモザイク型の複合社会と比べるとスマトラ島ではインド
ネシアという"るつぼ"はそれなりの機能を果たしたといえよう。


*東マレ−シア

 マレ−シアとインドネシアが陸の国境で接している個所がボルネオ島である。こちらはカプア
ス山脈に沿っており北側の1/4はマレ−シアに帰属し、南の3/4はインドネシアの領土であ
る。こちらも住民のあずかり知らぬ所で英国とオランダが勝手に線を引いたという点ではマラッ
カ海峡と同じである。
 ボルネオ島は世界第三の島であるが、沿岸部にはマレ−人が点在し、内陸部はダヤク族と
いう首狩族がいた。何れにせよ人口は希薄で長い間、無価値として放置されてきた。しかしこ
の島にも北側にイギリスが進出するに伴い、オランダとの境界を明確にする必要が生じた。そ
こでマラッカ海峡の境界の南端を平行移動しただけが国境の由来のようである。
 ここでボルネオ島この言い方には問題がある。何故ならマレ−シアではボルネオ島といい、
インドネシアではカリマンタン島という。従ってボルネオ島ということ自体でマレ−シア側に組し
ているということになる。
 ちなみにインドネシアでは独立後に植民地時代の地名を変更したものがカリマンタン以外に
もある。セレベス島はスラウェシ島に、モルッカ諸島はマルク諸島に、ニュ
−ギニア島はイリアン島である。
 東マレ−シアといわれるボルネオ島のサバ州とサラワク州は半島とは様相をことに
している。東マレ−シアでは多くの民族から成り立っている。そのうちの最大多数はボルネオ
在来の先住民である。先住民は多数の部族に細分されるが、サラワクではイ
バン族、サバ州ではカダサン族が代表的である。その次が中国系住民で約1/4である。マレ
−人もいるがボルネオ島では小数派である。しかもマレ−人自身もマレ−半島からの移住民
であるが、早期からの緩慢な移住のためボルネオ島への定着も華僑の移住とは様相を異にし
ていた。
 マレ−シアはイスラム教国であることを憲法でも明記していることを後で述べるが東マレ−シ
アではイスラム教はあまり目立たない。イバン族、カダサン族の先住民はキリスト教徒である
から町でもキリスト教会の方がよく目につく。
 ところでサラワク州の中にブルネイという国があるが、この国は14世紀頃にマレ−人によっ
て建国されたものである。英国の来る前はブルネイがボルネオ島の北海岸一帯を支配してい
た。そもそもボルネオの語源はブルネイが訛ったものである。今でもブルネイでなくブルナイが
正式の国名であるが、日本語の読みはどういうわけかブルネイになっている。
 サラワク州の歴史は西端のクチンにブルックという英国人冒険家が首狩のイバン族や海賊
のマレ−人を手なづけてサラワク王国を作り、次第にブルネイから領土を蚕食していった。今
地図を見るとブルネイはサラワク州の中で孤立しているように見えるのはブルネイがかろうじ
て残した領土である。
 さらに東方のサバ州の前身は北ボルネオ会社という英国のダミ−である。マレ−半島とは遠
隔距離が増す分だけマレ−人の存在は薄くなり、文化的にも経済的にもほとんどマレ−半島と
は無関係に発展してきた。
 インドネシア側のカリマンタンでも土地の広さに対して人口が少ない、インドネシアの各地か
らのジャワ人、ブギス人などの移住民からなる社会である。最近ではジャワからの移住が政策
として進められている。インドネシアにとってもボルネオ島は辺境の地である。
 マレ−シアとインドネシアの国境の山岳地帯はダヤク族のすみかであるが、人工密度は極
めて低い。最近ではマレ−シア側の方が仕事があるということでインドネシア側から出稼ぎに
山をこえるといった現象が見られるようである。


*マレ−シアの成立

 第二次世界大戦後の東南アジアのヨ−ロッパの植民地は次々と独立した。インドネシアは1
945年に独立宣言をしたがオランダが認めなかったので独立戦争を戦い1949年にオランダ
からもぎ取るようにして独立を手に入れた。マレ−半島は8年後の1957年にマラヤ連邦とし
て円満に英国から独立した。マレ−シアのナショナリズムはどちらかというとク−ルで、これに
対してインドネシアのナショナリズムはエモ−ショナルであるのは独立の経緯にも関係してい
る。
 ところでシンガポ−ルとボルネオ島が英国の植民地のまま取り残された。世の中は変わりも
はや植民地の存在は時代遅れとなった。特に問題はシンガポ−ルである。当時のシンガポ−
ルは左翼が勢力を持っており、ストライキが相次ぎ頼みの中継貿易もジリ貧で経済基盤は弱
い、という困難な状況にあった。
 当然マラヤ連邦への併合が考えられたが、マラヤ連邦としてはシンガポ−ルは中国系住民
が圧倒的であるので合併すると中国系の比率が高くなりマレ−人の優位が危うい。かといって
シンガポ−ルを放置しておくと左翼が跋扈して周りに悪影響を及ぼすのでマラヤに封じ込めた
い、というジレンマである。
 そこでマラヤ連邦にシンガポ−ル、ボルネオ島のサバ州とサラワク州の英国植民地と保護
国のブルネイも併せてマレ−シアとするという案がでてきた。当時のマラヤ連邦のラ−マン首
相が唱えた"マレ−シア構想"といわれるものである。これによれば中国系をマイノリティに押し
込められるというのが本音であった。
 しかしこのマレ−シア構想にはインドネシアのスカルノ大統領から猛烈な反対を受けた。理由
はマレ−シアとは英国の植民地体制の温存にすぎないというものである。マレ−シア粉砕を絶
叫し、国際世論もおもわしくないと見るや国連も脱退した。
 スカルノ大統領の意識はインドネシアこそ植民地解放勢力の嫡出子という自負に加え、本来
この東南アジアの島嶼部は盟主であるインドネシアを中心であるべきだというインドネシア至上
主義が窺われるように思う。
 今、振り返ると当時のスカルノ大統領の言動は今日のイラクのフセイン大統領とよく似てい
る。対外強硬論を叫んでいないと自身の国内での基盤が崩れるという事情もあったと思われ
る。
 フィリッピンもマレ−シア構想に反対したのはもともとサバ州の主権はフィリッピンにあるとい
うものである。フィリッピンのサバ州に対する潜在主権の問題は未だ留保されている。
 ブルネイはマレ−シア構想に賛成し加盟の予定であったが、サルタンの待遇と石油利権の
帰属問題が妥協にいたらず、最終的にはマレ−シアへの加入を見合わせ、その後は独立国と
なった。サラワク州に包囲された三重県程度の小さな国であるが、マレ−シアと対等の主権国
家である。

 サラワク州とサバ州では住民投票をへてマレ−シア加入を決めた。人口も少ない、国土は未
開発、多民族の分立で纏まりに欠けている。独立したいという民族意識も弱いという状況の中
で英国の勧めるマレ−シア構想を選択した。
 しかしサラワク州とサバ州もマレ−シアへの加入は条件つきである。例えばマレ−シアの半
島から東マレ−シアへ行くと入国(イミグレ−ション)とおなじ手続きが必要である。これは半島
からのマレ−シア人にも適用される。半島からの自由な移民を認めないという立場からサラワ
ク州とサバ州の両州はあたかも独立国のように振る舞っている。マレ−シアはマラヤ連邦以来
の連邦国家であるという成り立ちからして州の権限は強い。
 1963年にマレ−シアは発足したが2年後にシンガポ−ルは訣別された。そもそもシンガポ
−ル対策のために生まれたマレ−シア構想であるのに今日のマレ−シアにはシンガポ−ルは
含まれないという皮肉な結果になっている。そしてさらに絶望的に見られていたシンガポ−ル
が自助努力で経済的繁栄を達成するという思いがけない結果にもなった。シンガポ−ルのサ
クセス・スト−リ−といわれるものである。
 元に戻るとマレ−シアの発足に際してはマレ−シアとインドネシアは戦争直前までの状態に
なった。しかしその後インドネシアでは9月30日事件という共産党によるク−デタ−未遂事件
があり、共産党とスカルノ大統領は一挙に勢力を失った。
 インドネシアがスハルト大統領になってからマレ−シアとインドネシアは和解し、その結果、A
SEANという経済協力機構が生まれた。今日のASEANの隆盛についてはいうまでもない。

*マレ−シアの国体

 マレ−シアの国体をインドネシアと比較するとその国王制に特徴がある。マレ−シアは国王
のいる君主国家であり、一方インドネシアは共和国である。
 歴史を遡ると植民地体制の下でも以前から各地にいたサルタンは実質的には権力は取り上
げられ形骸化してはいたが、宗教的権威だけが残されたサルタンは間接統治の手段としてう
まく英国に利用されてきた。
 さてマラヤ連邦が英国植民地として独立する際にサルタンの位置づけは大幅に強化された。
のみならず国全体のサルタンとして新たに国王制が設けられた。マレ−シアの国王は非常に
面白い制度であることに9人の地方のサルタンの5年の持ち回りである。王様とは世襲が原則
であるから世界にもあまり例がないだろう。
 インドネシアでも方々にサルタンがいたが独立の際しサルタン制は廃止された。特にジャワ
のサルタンはオランダの来る前はジャワに君臨していた国王の由緒正しい子孫のサルタンで
あった。独立後のインドネシアの国王にすることも真剣に検討されたぐらいである。しかし最終
的には共和国として独立し、インドネシアでは大統領が元首であり最高権力者である。
 ここでサルタンの運命について対称的なケ−スを述べたい。スマトラ島の現在北スマトラ州と
いわれている地方にいたサルタンの幾人かは人民によって処刑された。一方、マレ−半島側
のサルタンは地位を強化され、順番とはいえ国王にもなれるというわけである。
 マラッカ海峡の両岸でこのような極端な差の生じるゆえんは民族構成であろう。マレ−半島
のマレ−人は人口はかろうじて半分を占めるにすぎない。経済的実力では華僑がはるかに上
回っている。独立と言ったものの一方では英国という保護者を失うことを意味する。この状況
下でマレ−人はサルタンに対して求心力を求めサルタンを担いで団結せざるをえなかった。
 スマトラ島にも華僑はいた。しかしジャワやスマトラの各地からの移民が圧倒的多数であっ
た。彼らには"インドネシア"という民族を超越した新しい国をつくるという理念があった。従って
彼らから見るとマレ−人のサルタンはオランダあるいは華僑や日本の占領行政とも癒着した
旧体制側として片付けられた。
 最近のマレ−シアの話題はサルタンの特権の見直しである。現行法規ではサルタンは裁判
から免責される。最近常軌を外れたサルタンが暴力行為をふるい顰蹙をかっている。この機
に乗じてマハティ−ル首相はあえてタブ−に挑戦しサルタンの免責を制限しようとしている。
 しかしマレ−シアではマレ−人がサルタン=国王を尊敬していることは想像以上で
ある、いわばサルタンはマレ−人の象徴である。従って容易なことではサルタンの特権は改め
られないだろう。
 サルタンの特権はイスラム教の位置づけと同じである。マレ−シアではイスラム教は国教、
すなわち国家宗教であることが憲法で明記されている。人種別の宗教は[マレ−人=イスラム
教徒][中国人=仏教・キリスト教][インド人=ヒンズ−教]である。
 インドネシアではイスラム教徒は約9割である。しかしインドネシアとして大同団結するために
は憲法では神への信仰だけを唱えている。もちろんマレ−シアもインドネシアも信仰の自由は
保証されているが、宗教という点ではマレ−人は特別の扱いを受けている。
 マレ−シアの建国の理念は『マレ−人のマレ−シア』であり「マレ−シア人のマレ−シア」では
ない。一見似ているようであるが、前者の場合は中国系のマレ−シア人は含まれないことにな
る。中国系住民は帰化してマレ−シア国籍を取得しても差別して二級国民として扱われること
を意味する。
 このことを政策とするのが"ブミプトラ政策"である。マレ−人が特別に優遇される制度であ
る。インドネシアでもブミプトラと同じ意味の"プリブミ"という名の下に同じ政策がこうじられてい
る。ただしインドネシアでは経済分野の許認可など狭い範囲に限られているのでマレ−シアほ
ど顕著ではない。


*マレ−シアの経済

 インドネシアからマレ−シアへ来ると裕福であることが目につく。一方、シンガポ−ルからマレ
−シアへ来ると貧乏であることが目につく。マレ−シアはインドネシアとシンガポ−ルの中間で
ある、というのは町の美観を含めて色々な側面に該当する現象である。
 経済事象であるから数字的にも裏付けられ、一人当たり国民所得はインドネシアは500ド
ル、マレ−シアは2000ドル、シンガポ−ルは1万ドルというのが概算数字である。インドネシ
アは貧しいといってもインドやアフリカなど100ドル程度のさらに貧しい国は数多くある。
 マレ−シアとインドネシアの経済的位置づけは18世紀頃まではほとんど区別がつかない状
態であったにもかかわらず、格差の生じた理由は何かということになる。ヨ−ロッパの植民地
になって差が出たことから、宗主国として英国はよく、オランダは悪いという見解がある。英国
はインフラ整備に務めたが、オランダは搾取に専念したという意見である。
 それでは英国が植民地支配していたインド、バングラディシュ、スリランカ、ビルマがインドネ
シアより貧しいのは何故か説明が困難になる。
 次にマレ−半島は錫資源というタナボタに恵まれた錫成金の要素もある。それならインドネシ
アも石油というタナボタ資源があった。
 さらにインドネシアは人口が多すぎる、人口の過疎のマレ−シアはその分だけ有利という見
方もある。それならば人口密度の近いマレ−半島とスマトラ島だけを比較するとやはりマレ−
の方が裕福である。
 以上述べた英国植民地時代のインフラ整備、豊富な錫資源、適当規模の人口という要因は
マレ−シアとインドネシアの経済格差が生じたことに無関係ではないが決定的要因とはいえな
い。それでは一体何かというと中国系住民の存在ではないか。

 さきほどマレ−シアはシンガポ−ルとインドネシアの中間であると述べた。その一つは中国
系住民のシェアである。インドネシアでは3%であり、マレ−シアでは1/3であり、シンガポ−
ルでは実に3/4が中国系である。
 中国人が華僑として東南アジアに渡ってきた時は貧しかった。しかし中国人は経済向上意欲
が旺盛であった。勤労で金を貯める、その金を資本にしてさらに増やす、このようにして中国系
住民はやがて経済活動全体を牛耳るに至った。
 これに対してマレ−人は経済向上意欲が薄い。あくせく働くくらいならゆっくりと踊りや音楽を
楽しむ。これは経済より文化を優先するという民族性の違いである。
 従ってマレ−シアでは中国系住民が多いことがマレ−人にも刺激を与え経済活動に励むよう
になり国の経済の活性化に有利に働いた。
 これに対して中国系の少ないインドネシアではマレ−シアに及ばなかった。もちろんインドネ
シアは世界的に見ると経済では成功しているという評価を受けている。

 ところでマレ−シアの経済の制約要因となることが懸念されるのはブミプトラ政策
である。ブミプトラとはサンスクリット語で『大地の子』という意味である。華僑としての中国人、
インド人のような〈移住民〉への対立概念で〈先住民〉としてのマレ
−人のことである。
 ブミプトラとして誇り高いマレ−人が自分等の大地で、英国が勝手に連れてきた移住民よりも
貧しいことに我慢できなかった。そこで採られた政策がマレ−人の経済的地位を改善するべき
であるというブミプトラ政策である。
 ブミプトラ政策とはマレ−人を優遇するという民族差別政策であり、国の理念として憲法に明
記されている。スタ−ト時点において不利な条件にあるマレ−人と有利な条件にある中国系住
民を平等に扱うことはすでにある格差をさらに拡大することで正義にもとる、というのがブミプト
ラ政策を正当化する理屈である。
 マレ−シアではあらゆる点でマレ−人が優遇されている。例えば公務員の採用でもマレ−人
が優先される。マレ−シアへ旅行すると入国手続きや税関で逢う公務員のほとんどはマレ−
人である。農民であったマレ−人が都市に出て収入の高い職業に就けるように誘導したもの
である。
 ブミプトラ政策によってマレ−人の経済的地位は大幅に改善された。この政策の実施におい
てマレ−シアが恵まれたのは経済成長の過程にあったことである。この増加分がマレ−人に
手厚く配分されることが可能であった。
 今後のブミプトラ政策の拡大、継続は中国系住民に嫌気を起こさせ、彼らの資本も海外に逃
避することも考えられる。一方、インドネシアでは中国系インドネシア人の経済活力を最大限利
用しようとしているように見える。今後の両国の経済の趨勢を見極める必要がある。


*まとめ

 ヨ−ロッパが東南アジアの島嶼部に現われる前はマレ−世界という混然一体の世界が拡が
っていた。そこへヨ−ロッパからオランダとかイギリスがやってきて勝手に線を引いて縄張りを
決めたという経緯で別の国になった。
 マラッカ海峡でもボルネオ島でもこのような人為的な国境など無視して人や物が往来してい
るのはいわば当りまえのことである。
 例えばマレ−シアには多くのインドネシア人が出稼ぎにきている。クアランプ−ル近郊のゴル
フ場のキャディの大半はインドネシア人といわれている。多分、入出国の手続きなどはしていな
いだろう。
 マレ−シアではインドネシア人は不法滞在してもやがて自然にマレ−シア人になるということ
を期待して黙視しているのではないかと思うほどである。相手が中国人やベトナム人などであ
ればこのようなわけにはいかないであろう。
 テレビの電波は国境をこえてお互いに相手の国で楽しまれている。マレ−シア語・インドネシ
ア語といってももとの言葉が共通のマレ−語である。流行歌や映画や小説も同じようにもては
やされる。
 今日のマレ−シアとインドネシアというのは植民地の名残で別の国になったが、本来は単一
の国であってもおかしくない。このような関係でマレ−シアとインドネシアは非常に親密である。
今日では兄弟国のよしみを通じているように見える。
 両国の関係を例えるならば羽振りのよい分家のマレ−シアに対して子沢山で貧乏な本家の
インドネシア、というところであろう。


本稿は1993年2月10日のマンディ例会の講演に基づく。マンディは(Malaysia and I)
にちなむ大阪における民間のマレ−シアとの友好団体である。





ブルネイ紀行


1.ブルネイ国際空港

 次第に降下していく飛行機の窓から見える景色はアメリカの都市郊外の住宅地のようでもあ
る。しかし一方では住宅地のすぐ裏側にスワンプといわれる自然の沼が迫っている。瀟洒な家
の赤い屋根と沼地のよどんだ黒い水は近代と太古のコントラストである。混ぜかえしたような景
色を拡大しながらシンガポ−ル発の旅客機はブルネイ国際空港に着陸する。
 ブルネイは国の名である。町の名はバンダル・スリ・ブガワン(Bandar Seri Begawan)は"先代
国王の町"の意味である。先王に表敬してそれまでのブルネイを改名した。
 ブルネイは国が小さい割にはよく知られている。それは石油の富の上に成り立つ国としてで
ある。新聞や雑誌からの断片的な知識は「ブルネイの王様が外国のホテルでびっくりするよう
なチップを配る」とか「ヨ−ロッパの由緒ある百貨店がブルネイに売られる」というゴシップであ
る。加えて実際に訪れる機会は少ないということがブルネイを"おとぎの国"に仕立てている。
 しかし実際のブルネイは門を閉ざしているわけではない。ビザなしで入国(2週間)できる。一
日十数本のジェット便が東南アジアの主要都市と結んでいる。空港の到着ロビ−には観光客
を歓迎している旨の看板がある。しかし入国を待つ人の列に観光客らしい人は見かけない。
 観光客の歓迎も建て前だけである。リッチな国であるから別に観光収入をあてにする必要は
ない。観光の看板は将来のポスト石油への備えであろうが、当面は公務員の仕事作りであろ
う。実際に観光しようとしてもタクシ−もほとんどない。タクシ−が普及しないのは国民すべてに
車が普及しているためタクシ−需要がないからである。
 空港の建物の中は冷房がある。しかし扉越しに見える外の風景はいかにも暑そうである。


2.ブルネイ王国の栄光

 ボルネオ島の南シナ海に面する海岸線は延々と約3千キロメ−トルにわたりほぼ直線であ
る。この中で唯一の変化のある地形がブルネイ湾である。この港に恵まれたブルネイは古くか
らの貿易都市であり、マレ−人が移住してきていた。マレ−人の支配者がイスラム教に改宗し
てサルタンを名乗るようになったのは14世紀頃らしい。
 ブルネイの最盛期は5代目サルタンボルキア(Sultan Bolkiah 1473-1521)の頃である。ブルネ
イの領土はボルネオ島北海岸はもとより、現在のインドネシアやフィリッピンにも及んでいた。
マニラも占領したことがある。5代目サルタンボルキアの墓は今日も見ることができる。まさに
芸術品としての墓にブルネイの過去の栄光をしのぶことができる。
 世界第三の島に対する"ボルネオ"という命名はヨ−ロッパ人によるものである。そのボルネ
オの語源はブルネイである。ヨ−ロッパ人が最初にこの地に到達した頃、ブルネイの支配が島
のほとんどを覆っていたという実態が今日のボルネオ島の地名によすがをとどめる。そのブル
ネイは今日では三重県の広さはあるが、広いボルネオ島の1%にも満たない。世界地図はも
とより東南アジアの地図の中でも目を皿にしないとその存在を見つけることはできない。

 19世紀のヨ−ロッパ各国による植民地争奪戦においてもボルネオ島へ逸早く進出したのは
英国である。英国の進出の仕方は多岐多様であった。偶然の出来事から英国人ブルックはブ
ルネイのサルタンからクチン近辺の領土とサラワク国のラジャという王の称号を与えられた。
そのブルックは海岸沿いに北上しブルネイの国内の統治の乱れに付け込みブルネイの領土を
蚕食していき、その結果が今日のサラワク州である。軒を貸して母屋を取られる、という日本
の諺どおりである。
 一方今日のサバ州の北ボルネオはアメリカ人がサルタンに貢いで領土権を得た。その領土
権は英国人に転売されて、英国は国のライセンスの下にサンダカンに北ボルネオ会社を設立
して経営に当たった。ブルネイはサラワク王国と北ボルネオ会社の挟み撃ちにあい、両者の
バッファ−として英国の保護国として今日の領土だけ残されて命脈を保った。
 第二次世界大戦後の植民地独立の潮の中で旧英国植民地がこぞって連邦国家を形成する
という"マレ−シア構想"が提唱された際にブルネイは当然シンガポ−ル、サラワク、サバととも
に参加するものと観られていた。しかし交渉の結果、ブルネイはマレ−シアへの加盟を見送っ
た。誇りあるブルネイはかっての支配地のサラワク、サバと同列に扱われることに我慢できな
かったのである。
 1963年のマレ−シア発足に加入しなかったブルネイは英国から段階的に権限を回復して
1984年には小さいながらも完全に独立した。ASEANと国連においてもメンバ−の一員として
加盟している。
 ブルナイ(国名は"Brunei"ブルナイと表記されるが、日本ではロ−マ字読みにしてブルネイと
いわれる)が訛ってボルネオになった。
 ところでボルネオ島の3/4を占めるインドネシアでは独立後カリマンタン島と改名した。従っ
て同じ島をマレ−シアではボルネオ島と、インドネシアではカリマンタン島という。日本の地図で
はカリマンタン島(ボルネオ島)としている。


3.引き裂かれた国土

 東南アジアの地図の中で小さなブルネイを見つけることはかなり至難の技である。よく観れ
ばその国土はマレ−シアのサラワク州に完全に包囲されており、さらにこのブルネイの国土の
地図を拡大すると国土はサラワク州によって二分されていることである。(地図→P286参照)
 そもそもブルネイの行政区画は川筋毎からなる。ブルネイ・ムアラ郡、ツトン郡、ブライト郡、
テンブロン郡の4郡の名と川の名と同じである。植民地になる前のボルネオ島では河川交通だ
けであり、サルタンまたはラジャという小領主が川の下流の要衝の地で通過する船から税金を
徴収したことを表している。
 ブルネイのサルタンはこれらの小領主の上に君臨していた。そこへ西にブルックという英国
人が現われてクチンを拠点としてサラワク王国を築きたちまち領土を拡大してブルネイに迫っ
てきた。かつてブルネイに服従していた小領主が"白人ラジャ"のブルックになびいたのは、大
砲に象徴される近代兵器の威力もさることながら、どうもブルネイのサルタンからの徴税は苛
酷であったらしい。
 リンバン川の領主はブルネイのすぐ近くにいながらこうしてブルックになびいた多くの領主の
中の一人であったのであろう。この結果、サラワク王国に服従したリンバンはサラワク州リンバ
ン郡としてブルネイの領土の中に割り込む形となり、今日のブルネイとマレ−シアの国境となっ
ている。
 国境の存在はブルネイのテンブロン郡を陸の孤島としている。首都とテンブロン郡の中心の
バンガルの間は日常の交通は船で45分かかる。12名乗りのスピ−ドボ−トが定員になると
発着する。最終便は4時半であるからやはり不便である。
 テンブロン川を遡ったバンガルは数軒の商店があるにすぎないという。産業で目ぼしいもの
は砂利の採取である。そもそもブルネイは何でも輸入する国である、建設ブ−ムで需要旺盛で
あるが、砂利だけはシブロン産で自給できている。その他には小規模の製材所があるが、テン
ブロン郡の森林は手つかずのまま残されている。ブルネイの急速な開発からテンブロン郡だけ
は取り残されている。
 ブルネイとしてはこのような国境の存在を甘受しているわけではない。陸続きであるにもかか
わらずマレ−シアを通らないと軍隊も移動できないということである。1970年代にブルネイはリ
ンバンの帰属問題を提起し、マレ−シアとの関係が険悪化したことがある。
 最近のブルネイの外交はASEANのメンバ−としてマレ−シアとの関係を優先させるため領
土問題について触れることを避けている。しかしこれは問題の棚上げであって解決ではない。
ブルネイは富にものをいわせて最新鋭の兵器を購入している。国王自ら戦闘機を操縦する
が、趣味ばかりとは言い切れない。何に備える軍備なのか。イラクのクェ−ト間の国境問題と
似た問題は東南アジアにも転がっている。


4.禁酒のイスラム教国

 ブルネイはイスラム教国である。従ってコ−ランによりアルコ−ルの飲酒は禁じられている。
かつては異教徒には認められていた販売も禁止されるようになった。外国人は入国の都度、
持ち込まざるをえない。しかしこれもビ−ルならば1ダ−スに制限されている。マレ−シアやイ
ンドネシアもイスラム教徒の国である。しかし非イスラム教徒の飲酒は自由である。ブルネイは
飲酒に対して近隣諸国にない厳しさである。
 同行の商社氏に記入してもらつて署名だけするが、多分自分用のビ−ルであるということを
書いた書類であろう。こうして持ち込むビ−ルが在ブルネイの日本人には最大のお土産であ
る。しかし持ち込み者がかなりを自家消費するから後にはわずかしか残らない。
 そこで日本からの駐在員はどうするかといえばビ−ルを飲みに国外に出かけねばならない。
最も手っ取り早いのがラブアン島である。マレ−シアのラブアン島はブルネイ湾の入口にあっ
て連邦直轄地でありブルネイからフェリ−で2時間ほどである。マレ−シア政府は無税地域とし
てオフショアバンクの誘致に躍起となつているが、現在の所ラブアンの無税制度の恩恵を受け
ているのはブルネイ滞在の非ムスリムである。
 ブルネイは国は豊かで福祉も行き届き、乞食もいない。従って治安もよい。にもかかわらず
非ムスリムにとっては不自由なことが多くて日本企業からの駐在員にしては住みにくい所のよ
うである。
 ブルネイはストイックなイスラム教をそのまま実施している。豊富な石油収入で西欧社会にこ
びる必要はないからである。イスラム教徒でない者には取っ付きにくい国である。ビザが不要く
らいでは観光客が増えるとも思われない。


5.黄金のモスクと宮殿

 ブルネイで目につく建物はモスクと宮殿である。オマル・アリ・サイフディン・モスク(Omar Ali 
Saifuddien Mosque)は水際にあり3面を堀に囲まれる。黄金のド−ムが水に写る。池には16
世紀の国王の船に擬した優雅な建物があり、モスクと結ぶ。この建物は最近までコ−ランの詠
唱コンテストなどの宗教行事に使われていた。
 オマル・アリ・サイフディン・モスクは現在のサルタンの父によって1958年に完成した。東南ア
ジアで最もすばらしいモスクといわれるように床はイタリアの大理石、外壁は中国の花崗岩、シ
ャンデリアとステンドグラスは英国、絨毯はサウジアラビアとベルギ−からの輸入品である。モ
ザイクはベニスの職人による。
 現在のサルタンによって新たなモスクが最近に完成した。場所はやや内陸部の丘になる。オ
マル・アリ・サイフディン・モスクを上回る贅をこらしたものである。非モスレムは中に入れないの
で外から眺めるだけである。
 特に照明が美しいということで夜に出かける。照明の中に浮かび上がるモスクに記憶をたど
ると博覧会のパビリオンである。
 ブルネイの丘にある宮殿は世界最大としてギネスブックに載っているそうである。何が最大
かといえば部屋の数が1788部屋もあることらしい。ちなみに次のヴァチカン宮殿より388室
多いということである。何れにせよ長さ525メ−トル、幅228メ−トル、敷地の広さは120ヘク
タ−ルである。
 この宮殿は1984年2月のブルネイの独立式典に間に合うように作られた。ASEANの各首
脳、英国からは皇室のメンバ−が出席した。宴会には4千名の席がある大広間で行われた。
王座のあるホ−ルは水晶製の2トンの重さの世界最大のシャンデリアが12個もある。息をの
むばかりの美しさという。屋根は22金の金で拭かれている
という。ちなみに日本の金製品は20金である。
 宮殿が一般に開放されるのはラマダン明けの時だけである。常時は厳しく警備され
ている。門からははるかかなたに建物の玄関が見えるだけである。車で大きく迂回す
ると宮殿を池を隔てて見るアセアン公園がある。現代彫刻があるのはモダンな感じがするが、
偶像の禁じられたイスラム教では彫刻も抽象化している。


6.車社会への変身

 ブルネイに限らずボルネオ島の交通手段は河川交通であった。交通網と同じく政治権力も河
口から上流に発達しており、政治圏も経済圏も流域単位であった。
 しかし河川体系による東南アジア型社会を根本的に変えたのは車と道路である。ブルネイの
車の普及はブルネイ国土を横断的に結合し、ブルネイ人の生活のパタ−ンも変えた。
 ブルネイは車社会である。椰子がある町の景観も人の服装もインドネシアやマレ−シアと似
ている。しかし何かが異なるのばベチャという人力車、バイクを見かけないことである。すれ違
う自動車も新品である。運転は主婦もいる。窓の壊れたような車はない。すべてク−ラ−付で
ある。
 自家用車が普及しているからバスのような公共輸送手段はあまり普及していない。このため
さらに自家用車が必要となる。そこで町の中は交通渋滞になる。道路が拡張され、バイパスが
建設されているが、車の増加には追い付かないようである。
 国内のあちらこちらで道路工事が目につく。そこでは炎天下に働いている労働者がいる。こ
れらの労働者はブルネイに出稼ぎにきた外国人労働者である。フィリッピンかバングラデッシ
ュかどこの国からの人かは容貌からは判らないが、風采はいかにも貧しげである。汗で汚れ
た外国人労働者と冷房車でその横を通り過ぎるブルネイ人と両者の対比は明らかである。


7.繁栄を支える石油資源

 ブルネイのかつての領土は今のサラワク州/サバ州にまで拡がっていたものが両者から蚕
食されて現在の狭い領土になった。この狭くなった領土に石油資源があったのはまさに僥倖と
しかいいようがない。これもブルネイ人に言わせれば"アッラ−の神
の御心"である。
 しかし石油をめぐる歴史経緯はもう少し複雑である。この地区に石油がありそうだということ
で1899年から探鉱が行われていた。隣国のサラワクのブルネイ領土の蚕食は止むことがなか
った。そこで英国は石油利権を確保するためブルネイに駐在官を置いてサラワク国の領土侵
入からブルネイを保護した。もし石油がなかったならばブルネイはサラワクに飲み込まれてい
たかもしれない。
 しかし石油をめぐる歴史経緯はもう少し複雑である。この地区に石油がありそうだということ
で1899年から探鉱が行われていた。隣国のサラワクはブルネイの領土の蚕食は止むことがな
かった。そこで英国は石油利権を確保するためブルネイに駐在官を置いてサラワク国の領土
侵入からブルネイを保護した。もし石油がなかったならばブルネイはサラワクに飲み込まれて
いたかもしれない。
 幸いにして石油は1913年に発見された。1929年にセリアの陸上で商業生産されるようになっ
た。一方、サラワク側のミリでも石油生産が開始された。両者ともシエル系の会社であったた
め両油田はパイプで結合し、ミリから輸出された。ブルネイは石油のロイヤリティを得るだけで
あったが、それでも国家収入の半分以上を占めた。
 当初ブルネイはマレ−シアに加入する予定であった。しかし結局、ブルネイはマレ−シアへ
の参加を見送り、英国の保護国のままであることを選択した。加入交渉においてネックとなつ
たのは石油資源の帰属である。マレ−シアは地上の資源は州に帰属するが、地下資源は連
邦に帰属するという主張に、すでに石油を生産していたブルネイはなにがしの利益配分では妥
協しなかった。
 ミリ経由で輸出されていたが、1972年からセリアから直接に輸出されるようになった。ブルネ
イの石油はセリア・ライトとして知られる上質油である。生産の主力は陸から海底に移り1979年
にピ−クを迎え、その後の生産は頭打ちである。

 セリア油田などブルネイの繁栄の基盤の石油・ガスはブルネイの西部にある。マレ−シアと
の国境に近いクアラ・ブライトが石油の町である。ブルネイには首都が二つあるいわれる。一
つはいうまでもなくサルタンの居住するバンダル・スリ・ブガワンである。もう一つはクアラ・ブラ
イトである。
 両地域を結ぶ道はよく整備されているが、荒涼とした風景である。真白な砂の中を走る。地
図にはツトン・スノ−(Tutong Snow)と記されているように熱帯でなければ雪景色と見紛いかね
ない。シリカ砂は元海岸線が隆起し15メ−トルの台状になって50qばかり連なる。土質として
水吐けがよいので道路はわざわざこの地を選んで建設されたということである。
 シリカ成分90%の砂でガラス原料になる。埋蔵量は2千万トンである。もしブルネイに石油
がなかったならばシリカ砂は唯一の資源としてシリカ砂を原料とするなんらかの産業が発達し
たかもしれない。


8.厳戒のLNG基地

 ブルネイが小国であるにもかかわらず一つの国として存立しえるのは石油という富にある。し
かしブルネイの石油資源は枯渇しつつある。ここに新たに富の源となったのは天然ガスであ
る。当初のブルネイの天然ガスも放置されていた資源であった。
 天然ガスは消費地が近くにあればパイプで輸送される。アメリカ、ヨ−ロッパでは天然ガスの
パイプ網が発達している。消費地から隔離されたブルネイの天然ガスは価値のないものとして
放置されていた。この天然ガスが商品として輸出されるようになったのは液化技術である。
 海底から採取された天然ガスは液化工場で気体から液体に転化されたものが液化天然ガス
(LNG)である。LNG工場は国の西部のルムツト(Lumut)にある。熱交換器を主とする液化工場
は巨大な装置の近代設備である。熱交換器を主として機械装置が一列に並ぶので一連の装
置群をトレイン(列車と同じ意味)という。石油化学工場と見紛うばかりである。
 天然ガスの採取はシエル(BSP)によって行われる。液化工場はシエルと三菱商事とブルネイ
資本の合弁会社である。ガスにおいてもシエルの存在は圧倒的である。ブルネイは石油ガス
収入で国家財政は潤っており福祉もいきとどいている。福祉国家の英語の"welfare-state"を
もじり"Shellfare-state"という。
 ラインのポストには技術移転がなされブルネイ人が就任しており、シエルから派遣されてきた
メンバ−は上級オフィサ−として機能している。インドネシアでもマレ−シアにおいても見られる
パタ−ンである。
 LNG工場の警備は厳重である。検問所でパスポ−トの提示を求められるのみならず、見学
の間は預ける。カメラも預けなければならない。異常なくらいの警備であるが警察国家のような
緊張が漂うという雰囲気はない。
 石油王国のブルネイが警備しなければならないのはLNG工場自体がブルネイ国家の金庫で
あることの証明であろう。過剰警備も雇用対策としての公務員の仕事作りのような気がする。


9.実験農場・マクファ−ム

 ブルネイの農業は全く振わない。人口の増加にもかかわらず米の生産も下降している。近年
の米の自給率は10%を割っている。現在のブルネイの農業は不振であり、あらゆる消費財と
同様に米も輸入に依存している。
 なぜ農業が振わないのかというと国民が離農してもっと収入のよい仕事につくからである。ブ
ルネイの財力をもってすれば食料を輸入するくらいはわけはない。日本の農業と同じである。
しかしポスト石油を考えると放置しておくわけにはいかない。
 新たな農業を模索する中でこのブルネイで新しい農業が試みられている。放牧による肉牛の
飼育である。三菱商事はブルネイの天然ガスの事業に参加して多大の利益を得ている。この
三菱商事が地元ブルネイへの還元として始めたものであり全額出資している。社名のマクフア
−ムのMCは三菱商事の頭文字である。本社での管掌もLNG事業本部である。
 1977年から空港近くのトンク村が候補地となり、1979年に300エ−カ−の牧場にオ−ストラ
リアより親牛が輸入された。その後は試行錯誤を重ねながら牧場で子牛が出産し成育してお
り一応の成果をあげている。
 マクファ−ムでは当初は半放牧式が採用され今では完全放牧である。半放牧式というのは
牛を単純に放牧するのではなくて夜は牛舎に収容する。餌も牧草地以外に補食飼料を与え
る。何か過保護のような気がするが、湿潤熱帯であるため牛を病気から守るのはたいへんで
ある。
 そもそも牛は乾燥地帯に適合しているらしい。東南アジアの風土に対応した水牛は役畜であ
り食用には向いていない。バリやインドで見かける牛はヒンズ−教のもとで食用はタブ−であ
る。
 農民に牛を貸し与える。生まれた子牛は農民のものとなり、親牛を返す。こうすれば農民は
牛を所有できる。牛を背負い込むことは世話がたいへんである。

 マクファ−ムでは野菜の水耕栽培も試みておりトマトの栽培が軌道にのってきた。ブルネイ
の土は養分が貧困である。そこでビニ−ル・ハウスで水栽培される。太陽も水も溢れるほど豊
富な熱帯でビニ−ルハウスを建てて水耕栽培するのは植物に付く病原菌からまもるためとい
う。熱帯の湿潤の地にはカビ類の菌がひしめいており、トマトのような"やわな"植物は弱いらし
い。
 ビニ−ルハウスのトマトはそれなりの価格になり、それが買えるのはリツチだからである。石
油がなくなった時に水耕栽培の農業が生き残るのだろうか。


10.水上集落

 ブルネイで観光名所を挙げるならばその第一はカンポン・アイルという水上集落である。もっ
とも政府としては宮殿やモスクを誇っているわけであるからカンポン・アイルを国の誇る名所と
いわれるには当惑するであろう。
 カンポンアイルではブルネイ川口に杭を立て、その上に家屋があり、しかもその家屋が密集
している。"東洋のヴェニス"といういささか過賞もあるが、静かな水面に影を写して浮かぶ水
上集落は異国情緒のある眺めである。熱帯の熱気の中で水上の杭の上の住宅は何か涼しげ
である。
 時たま影を乱すのは船である。水上集落では船が足であり、朝夕の通勤時間には競艇のよ
うな通勤風景が展開される。陸上のタクシ−に代ってあるのは水上タクシ−である。カンポン・
アイルを訪れるのは観光タクシ−が便利である。陸からも桟橋の通路で結ばれ、バイクの乗り
入れはできるらしい。桟橋の陸側は駐車場となっている。
 マゼランの艦隊が訪れた時にも水上集落の光景を珍しげに語っている。遠景はマゼラン時
代と変わらないように見えても、近づけばモ−タ−ボ−トやトタンの屋根、電柱、テレビのアン
テナという近代文明の風景である。
 しかも家の中は新品の電器器具であふれており、冷房付きである。見学で訪れて案内された
家の中に虎の皮の敷物が敷いてあってびっくりする。中国人の食い倒れに対してマレ−人はイ
ンテリア倒れといわれように水上集落は外見は貧しく見えても本当はリッチである。
 学校もモスクも水上にあり、水上集落の外に出ないで生活はできる。日常品は小舟で売りに
くる。水上の利点は汚水や汚物、便も下に落とせば後は川の流れが清掃してくれる。東南アジ
アの他の場所では水の流れのない沼や池の上の水が汚れて衛生的には見えない。この点、
ブルネイ河口は家は流されないが、汚物が流される程度の緩やかな流れであり、水上集落の
最適地であろう。
 カンポンアイルを観るとブルネイは土地不足の過密国家と見紛う。しかし総人口は27万人で
あるから人口密度は40人/〓と十分に余裕がある数字である。しかし水上集落の住人は3
万人というからブルネイの人口の1割強は水上集落に住んでいる。バンダル・スリ・ブガワンの
空中写真を見ると住宅は水上にあり、陸上には公共建物だけがバラバラと散らばっている。
 水上家屋はマレ−系民族の習性であり、東南アジア各地で見られる。密集すると水は汚れ
悪臭が立ち込め、一般にスラム化している。ブルネイの場合は少し事情は異な
るものの、政府当局としてはカンポンアイルの増殖は避けたい。政府は陸に公共住宅を建てて
住民に転居を奨励するが、なかなか住民は応じないらしい。


11.ヤオハン百貨店

 東南アジア各地に進出しているヤオハンという百貨店は日本の企業である、というより現在
では香港を拠点とする日本から出た国際企業である。日本では八百屋のイメ−ジが拭いきれ
ないが、ヤオハンの名は東南アジア各地では高級ブランドとして定着している。ブルネイにもヤ
オハン百貨店がある。
 何しろブルネイ人の買い物の豪勢さにはいろいろなエピソ−ドがある。ブルネイの王族が百
貨店の腕時計売り場で指差した時計を取り出したところ、お客の求めているのはケ−スの中
の時計全部であった、というような話である。
 熱帯の国では午後は暑い時間は昼寝し涼しくなってから人は活動的になる。しかしイスラム
教国であるから酒は飲めない、娯楽もまたコ−ランで禁じられているからウロウロするより仕
方がない。パサ−ルという市場はあまりにも生活的である。
 ここで所得のあがったブルネイ人に百貨店は恰好の散歩場所を提供した。夜は10時まで営
業し夜のざわめきが続く。それほど働かなくても豊かなブルネイでこのように閉店時間の遅い
のも理由がある。
 百貨店の隣はブルネイ唯一のボ−リング場である。大臣閣下以下が押し掛けて盛況である
らしい。イスラム教では娯楽はいけないので、ボ−リングもスポ−ツであると認定されて奨励さ
れている。ひととおりのもの珍しさも終わると27万人の人口でボ−リング場の維持はしんどくな
りそうだ。一汗かいてもビ−ルをいっぱいというわけにはいかない。

12.ブルネイ人とは

 ブルネイは国は小さくても小さいなりに多民族国家である。マレ−人が2/3を占め、次に多
いのが中国系住民である。かれらは華僑として英国植民地時代に移住してきたものである。
商業に従事する以外に石油産業にも従事している。英国は植民地統治に華僑を重宝した。し
かしブルネイは独立して英国が去るとこれらの中国系住民の存在はやっかいな問題となり、か
れらの身分は必ずしも明確でない。
 ブルネイの市民権を得るためには25年以上という居住年数に加えてマレ−語の試験が難
問らしい。資格があってもブルネイの市民権を取得しないで華僑であることを選択する者もい
る。従って中国系住民にはブルネイ国籍を取得した者、永住権のみの者、無国籍の者と多様
である。中国系への国籍の付与は年々厳しくなっているといわれる。中国系住民でも国籍のあ
る者は生活態度に余裕があり、国籍のない者は金銭へ執着するので見るだけで判別できると
いう説もある。
 ブルネイ人というのはあいまいな概念である。ブルネイの市民権を得ている者は法的にはブ
ルネイ人である。しかし市民権とは別の意味でブルネイ人とは一般的にはもっと狭い意味でマ
レ−から移住してきたマレ−人をいう。
 ブルネイのマレ−人もブルネイ族、ケダヤン族、ツトン族、ブライト族に細分される。この場合
のブルネイ族とはブルネイ河口の水上集落の住民である。ケダヤン族は近郊の農民である。
ツトン族、ブライト族は各地域で独自の社会を有している。マレ−語とイスラム教徒であること
がマレ−人として含まれる由縁である。
 マレ−人とは別にドゥスン族、ムルット族、イバン族、ビサヤ族というボルネオ島のタヤック系
の原住民がいる。ブルネイの人口の10%弱を占め、マレ−人とは別の民族と見なされる。山
地に居住しており、宗教もキリスト教や原始宗教である。しかしブルネイの原住民として広い意
味のマレ−人に包含されている。
 ブルネイの支配民族はマレ−半島から移住してきたマレ−人であるが、南シナ海における商
業の拠点であるから世界各地から人が集まった。例えば3代目のサルタン・シャリフ・アリ
(Sharif Ali 1425-32)は先のサルタンの娘と結婚したアラビア人である。また多くの女性が東南
アジアや東アジアから貢物や奴隷としてブルネイに連れてこられて血筋を残している。
 従ってブルネイのマレ−人は半島のマレ−人と風貌も異なってきた。ブルネイマレ−人の風
貌の方が日本人に近いらしい。あえてマレ−人というのはマレ−語とイスラム教が共通だから
である。


13.密林の蜃気楼

 ブルネイは19世紀の植民地の勢力拡大競争に英国の保護領としてかろうじて命脈を保っ
た。マレ−シア設立の際にもあえて参加を見合わせた。東南アジアのマレ−シア、インドネシ
ア、フィリッピンの勢力の中でブルネイはあまりにもちっぽけな国である。
 ブルネイは独立前も後も英国との防衛協定に従い、英国に軍隊を駐在してもらって防衛して
きた。もっとも英国が防衛してきたのはブルネイではなくて、ブルネイにあるシエルの石油施設
である、というのが穿った見方である。
 何れにせよ英国は1997年に香港を返還することになっており、東洋から総撤退が進む中で
これまでブルネイの面倒を見てきた英国ももはや当てにできない。現に勇猛で知られるネパ−
ルの傭兵であるグルカ兵の存在は英国軍の象徴であったが、次第にその数は漸減している。
 しかもブルネイは石油資源で富める国である。もし周りの国がブルネイを攻める気になれば
ひとたまりもない。中東で起きたイラクのクゥエ−ト侵略はブルネイにとってひと事ではない。
 シンガポ−ルに軍事演習の場を提供している。ブルネイは富にものをいわせて最新鋭の兵
器を購入している。国王自らジェット機を操縦するが、趣味ばかりとは言い切れない。何に備え
る軍備なのか。イラクとクェ−ト間の国境問題と似た問題は東南アジアにも転がっている。
 コタキナバルからクア・ルンプ−ルに飛ぶ飛行機はボルネオの海岸べりを飛ぶ。飛行機から
見るボルネオ島は奥深いジャングルとなって彼方に拡がる。人間の営みらしいものの痕跡が
海岸に沿って散見される。
 夜行便であると真っ暗の大地に1ケ所だけ光の塊がある。そこがブルネイである。それはま
さにボルネオ島のジャングルの中の蜃気楼であった。





シンガポ−ルという国

1.狭い国土の都市国家

 シンガポ−ルはマレ−半島の先端にある島である。半島とはジョホ−ル水道という川のよう
な狭い海によって隔てられている。半島のジョホ−ル側とシンガポ−ルの間は"cause way"で
結ばれている。長さ約1kmの cause way とは土手であって橋ではない。
 シンガポ−ルは非常に小さな国である。その面積は淡路島と同じである。その小ささを言う
例に次のようなものがある。シンガポ−ルの西にスマトラ島があり、その北部の標高800メ−
トルにトバ湖がある。かつての火山のカルデラ湖である。そのカルデラ湖の中の島はサモシ−
ル島という。シンガポ−ルはそのサモシ−ル島と同じ大きさである。
 3百万人未満の人口がこの島に居住する。シンガポ−ル市は同時にシンガポ−ル国であ
る。一つの都市が国家として独立している。淡路島に神戸、芦屋、西宮、尼崎と伊丹の人口を
移したものである。超過密国家であることが想像できる。

 日本の総合商社は世界各国に出先があり、商社員はあらゆる国に赴任する可能性がある。
その中でも商社員にとっても人気のある土地は自ら一致する。例えば3Sといわれるようにシ
ンガポ−ル、シドニ−、サンフランシスコが最も住みやすい。サンパウロという人もいる。
 熱帯という気候においてハンディのあるシンガポ−ルが選ばれるのはその他の面のプラスが
よほど大きいからである。物価、治安、文化など総合したもので特に治安の上からシンガポ−
ルの評価が高い。熱帯だから暑いが、冷房がよく普及している。低い温度がサ−ビスとばかり
冷房のききすぎの所が多い。シンガポ−ルで風邪をひく人は案外多い。
 シンガポ−ルは"クリ−ン・アンド・グリ−ン"を掲げている。飛行場から都心までの高速道路
も公園の中のように緑も多く、まさに"ガ−デン・シティ"である。一方には近代的なビルが林立
してそびえる。シンガポ−ルには地下鉄もある。熱帯の地下鉄は冷房があり涼しい。ただし規
則があり駅に長い時間いてはいけないことになっている。神戸の中でコンテナ埠頭、ハ−バ−
ランド、神戸の西神地区の高層アパ−トなど新しくてきれいな所だけを組み合わせたようなも
のである。
 外見からも清潔な都市であるが、ゴミを捨てないように町の清潔さを維持するように制度が
ある。シンガポ−ルの清潔は実は罰金制度によって支えられている。
 ゴミを捨てたり、道に啖を吐くと【500ドルの罰金】という警告がいたるところで目につく。シン
ガポ−ルではこれらの文句は虚仮威しではない。本当に罰金を取られる。もっとも初回は100
ドル位であるが、回を重ねると増えていく。東南アジアの一般の慣習に従い、見逃してもらおう
と50ドルほどこっそりと差し出すと公務員を買収しようとしたということで、さらに罰は厳しくな
る。
 煙草の投げ捨ては以前から禁止されていたが、数年前から喫煙そのものが厳しく制限され
るようになった。公的な場所では全面的に禁煙である。例えばレストランでは禁煙である。要は
個人の部屋でしか喫煙は認められていない。
 空港などに隔離されたように喫煙コ−ナ−がある。そこでは人が群がり一生懸命に煙草を吸
っている。これほど厳しくなると煙草の本数は減るのかと思うがそうでもないらしい。煙草の吸
える場所があるとそこで吸い溜めするので、結果としてむしろ喫煙量は増える。何れにせよ煙
草を吸う人がシンガポ−ルを出国する際には晴れ晴れしている。
 最近ではチュ−インガムも禁止される。チュ−インガムの滓が道路に捨てられると見苦しい
ことはいうまでもない。これだけであればチュ−インガムのはき捨ての罰則を厳しくすればよい
のであってチュ−インガムそのものまで禁止しなくてもよい。チュ−インガムに対する当局側の
敵意にはチュ−インガムを噛む行為自体を品のないものである、という道徳的判断がありそう
である。
 第二次世界大戦後、世界でもこれほど変転をとげた都市はない。もはやシンガポ−ルは東
南アジアではない、とさえいわれる。しかしこのシンガポ−ルの清潔さも罰金制度とのパッケ−
ジであるように、シンガポ−ルは息詰まるような管理社会である。


2.シンガポ−ルの歴史

 世界地図を見るとマレ−半島はユ−ラシア大陸が南方に突出している部分である。この半島
が東洋とインド・西洋の仕切のような存在である。従って東西の海上交通はこのマレ−半島を
迂回しなければならない。シンガポ−ルは世界の地政学的観点からも戦略的位置にある。
 シンガポ−ルが世界の地政学の観点からも重要な地点であることは、汽船から飛行機の時
代になってもシンガポ−ルは「世界の十字路」としてその存在を誇っている。チャンギ空港が施
設として立派な空港であるが、立地条件のすばらしさをが今日のチヤンギ空港の賑わいの主
因であろう。
 チャンギ空港待合室のホテル並の椅子に座り、通る人を眺めているとあらゆる人種が様々
な民族衣装をまとい往来する。国際化とはこういうことかと思い知らされる。チャンギ空港から
伊丹空港に戻ると大阪駅から西宮駅に着いた感じと同じというのが私の実感である。

 さてそのすばらしい地点を発見して開発したのはラッフルズという英国人である。彼は英国の
東南アジアにおける勢力拡大に弾みをつけた人物である。しかし組織を無視した独断専行は
社内の体制側から忌避されて晩年は失意のうちに45歳で死ぬ。結果として東南アジア、ひい
ては東アジアに英国の進出をもたらした。ラッフルズは英国の植民地拡大を目指した帝国主
義者なのか、あるいは自由貿易を信奉する理想主義者なのか、今日でも人によって評価はま
ちまちである。アラビアのロ−レンスと似たところがある。
 ラッフルズが英国の東インド会社の下級社員としてインドに赴任した頃は東南アジアはオラン
ダの勢力圏であった。その前の香料貿易の初期の段階では英国とオランダは対等に張り合っ
ていた。例えば長崎以前の平戸にはオランダと英国の商館があリ、競争していた。しかし香料
貿易の争奪戦で英国はオランダに負けてからは、英国はインドに、オランダは東インド(今のイ
ンドネシア)というすみ分けで百年間以上は安定していた。
 オランダがジャワのバタビアを拠点に東アジアを支配していたことの例として、長崎のオラン
ダ商館はバタビアの出先である、ということをあげておきたい。
 ラッフルズは中国、日本貿易に割り込むためにはインドから東アジアに抜ける海上交通路を
確保しなければならないと確信した。そこでラッフルズは拠点としてのシンガポ−ルに目をつけ
た。シンガポ−ル島は当時は鰐の跋扈する南の島の一つであり、海賊のすみかで有用な島と
は認められていなかった。このような島でも領土とするにはそれなりの手続きはいる。
 どのようにして英国のものにしたかというと、この地域に主権を持つていたリアウ/ジョホ−
ルのサルタン家の係累の一人を担ぎ、シンガポ−ル島のサルタンということにする。そのサル
タンから商館の建設の権利を得る。サルタンには年金と阿片を与える。そのうち廃人となった
サルタンは人格に欠陥があるといってサルタン制そのものを廃止する。
 このようにして英国東インド会社はシンガポ−ル島をそっくり手に入れた。当時の列強はこれ
くらいのことはどこも平気でやったのであり、特にラッフルズとそれを引き継ぐ者が悪党というこ
とにはならない。
 英国はシンガポ−ルを自由港として開港するや、たちまちあらゆる国の商船はシンガポ−ル
に集結する。自由に商売ができるということで世界各地から多くの商人が進出してくる。港は発
展してさらに移住者も増えるという相乗効果でシンガポ−ルは東南アジアの中継港として急速
に発展した。その役割は東南アジアの物品はシンガポ−ルに集められる。そしてヨ−ロッパ、
アメリカ、中国、日本に輸出される。欧米からの工業製品はこの逆である。
 1824年の英蘭協定によって英国とオランダの商圏の線引きがマラッカ海峡に引かれた。これ
によってスマトラ島はオランダに、シンガポ−ルを含むマレ−半島は英国と確定した。その後
マレ−半島全体が英国の植民地になった。英国の勢力はシンガポ−ルという点からマレ−半
島に拡大した。
 シンガポ−ルは自由港としてますます賑わい世界中からの人が集まる。住民の数としては華
僑である中国からの移住者が圧倒的になる。始めは労働者である華僑の中から多くの経済的
成功者を出す。シンガポ−ルは南洋華僑の町として東南アジアの中の異分子的存在になる。


3.シンガポ−ルの独立

 太平洋戦争後に植民地独立は世界的潮流となり、シンガポ−ルでも世界的な反植民地運動
の中で英国からの独立の機運が高まった。しかしシンガポ−ルは中継貿易の港都市であり、
独自の経済基盤がない。そこで英国が意図したのはシンガポ−ルを取り込んでマラヤ連邦に
併合することである。これによってシンガポ−ル工業都市として後背地を確保することになり、
農業国のマラヤと補完関係になる。
 しかしここでマラヤ連邦とシンガポ−ルの合併に困難なハ−ドルとなったのはシンガポ−ル
の人種構成である。マラヤ連邦もマレ−人、中国人、インド人からなる複合民族国家であり、
マレ−人の国として既に独立(1957年)していたが、実体はマレ−人が55%かろうじて過半数
を制するにすぎない。
 一方、シンガポ−ルは75%が中国人であリ、マレ−人15%、(インド人他で10%)、マラヤ
連邦とシンガポ−ルを総合すると中国人の人口がマレ−人を上回る。その国で多数決が行わ
れるとマレ−人は小数派になる。しかしシンガポ−ルをそのまま放置すると共産党が勢力を増
し、マラヤにも悪影響を及ぼすことは必至である。マラヤ連邦としてはシンガポ−ルとの合併
はジレンマであった。

 そこで出てきたのが当時マラヤ連邦のラ−マン首相が唱えた"マレ−シア構想"である。マレ
−シア構想とはマラヤ連邦とシンガポ−ルに併せて、当時英国の植民地であったボルネオ島
のサラワクとサバと保護国であったブルネイが一緒になり、連邦国家を形成するというもので
ある。
 シンガポ−ルは人口も国土も小さすぎる、単独では経済の維持も行えないと見られた。マレ
−シア構想はシンガポ−ル対策のためのアイディアであるが、隣国のインドネシアとフィリッピ
ンから猛反対を受けた。
 当時のスカルノ大統領のインドネシアは植民地解放の盟主を任じており、英国の息のかかっ
た国の存在が不愉快であった。サバ州とサラワク州とブルネイはインドネシアと地続きのカリマ
ンタン島にあるだけに、インドネシアの同盟国の成立を目論んでいた。フィリッピンはサバ州に
対する潜在主権を持つというものである。サバ州に対するフィリッピンの潜在主権の問題は今
日も未解決である。
 結局、ブルネイはブルネイ王の新連邦における位置づけと石油資源の帰属問題でマラヤ側
と合併のための話し合いが成立しなかった。このためブルネイ除きでマレ−シアという国にな
った。現在ブルネイはマレ−シアのサラワク州の中で取り囲まれているが、別個の独立国
(1984年独立)である。

 1963年にマレ−シアは発足したがそれにはインドネシアとフィリッピンと国交断絶という犠牲
を払った。しかし2年後にシンガポ−ルはマレ−シアから脱退した。というよりはマレ−シアか
ら脱退を命じられた。理由はブミプトラ(マレ−人優遇)政策を巡り、マラヤ側とシンガポ−ルの
対立は深刻になり、マラヤのラ−マン首相はシンガポ−ルの分離を決意したものである。
 マレ−シアから突き放されたシンガポ−ルはやむをえず単独の独立国となった。当時、この
小国の行く末を誰もが案じた。マレ−シア構想以来、インドネシアとの関係悪化しており中継貿
易におけるシンガポ−ルの位置は低下していた。
 インドネシアに限らず新興独立国は採算とは関係なく自らの港を持ち、直接に貿易すること
を欲した。マレ−シアにおいてさえ港機能のシンガポ−ル依存を避けるため自前の港としてク
アラ・ルンプ−ルの外港としてポ−ト・クランを建設した。
 中継貿易はジリ貧の中で、さらに悪いことには国力の低下した英国はスエズ以東の撤退を
決めた。シンガポ−ルにあった英国の東洋艦隊による基地経済はシンガポ−ルのGNPの1
3%を占めるという一大産業であった。とにかく2百万人の生活できる活路を見いださねばなら
ないという苦境にあった。


4.外資導入による経済発展

 独立後のシンガポ−ルの発展はまさに東南アジアの奇跡、あるいは世界の奇跡とさ
えいわれる経済発展である。実験都市の絵にかいたようなサクセスストリ−としてもてはやされ
る。
 ブルネイという特殊例を除けばアジアでは日本に次ぐ高い所得水準で国民一人当り所得は1
万ドルある。国民の84%がHDB(日本の住宅供給公団にあたる)の高層アパ−トである持ち
家に住む。この率も世界最高という。
 中流階級が育っておりその生活水準というとメイド(フィリッピン人など)を雇う、海外旅行をす
る、子供を海外に留学させるのが平均的シンガポ−リアンの像となっている。食料品も安いの
で生活しやすい。輸入品には税金がかからない、これは海外からの買い物客の観光客誘致の
ためである。ただしシンガポ−ル人だけが使用するような乗用車の税金は高い。例えば日本
の車も450万円という。
 シンガポ−ルの経済の現状はまさに「東南アジアの優等生」である。シンガポ−ルが提唱し
たのは資源もない国である日本の経済的発展である。「日本の勤勉に学べ」という合言葉で優
秀な人材による優れた政府主導の政策が結実したものである。

 経済の歴史を振り返ってみる。マレ−シアから分離されたシンガポ−ルが生存のためには
経済を振興させることであった。工場を誘致して製造業を興し、経済基盤を中継貿易から加工
貿易に変身させることであった。このための政策として外資の導入を無条件に認めることにし
て外国資本を積極的に誘致した。
 外国資本が進出しやすいように町の郊外のマングロ−ブの林であったジュロン地区は工場
用地に整地された。また当時シンガポ−ルの名物であったストライキを強権でもって禁止した。
外国資本にインセンテイブを与えるために送金、現地資本との合弁などに一切の制約をつけ
ないことにした。
 これらの政策処置によってシンガポ−ルへの外国資本の進出は目覚ましいものがあった。
その例が石油精製工場である。国際石油資本はアジアにおける石油精製の拠点としてシンガ
ポ−ルを選んだ。この結果、シンガポ−ルはヨ−ロッパのユ−ロポ−トにつぐ世界有数の石油
精製の基地となっている。
 植民地から独立した新興独立国は政治的のみならず経済的独立も意図して、しばしば旧宗
主国の外国資本を国有化し、新規の外資の進出も厳しく規制する。インドネシアはスカルノ大
統領の時代にオランダをはじめほとんどの外国資本を国有化した。日本でも外国資本が日本
に入らないように資本の自由化は厳しく制限されてきた。
 シンガポ−ルでは開放政策の下に製造業は発展した。しかしやがてシンガポ−ルの労務コ
ストがタイ、マレ−シアなど他の東南アジアを上回るようになり、製造業がシンガポ−ルを撤退
するようになった。この際にもシンガポ−ルはサ−ビス業へ積極的な転進を行った。
 もともと地の利からシンガポ−ルは海運に係わる船舶代理店が賑わっておりサ−ビス産業
の基盤があった。シンガポ−ルは世界の有力な銀行、証券会社の店舗を誘致した。この結
果、シンガポ−ルは現在の世界有数の金融市場となっている。
 自国の【経済=金融】を国際市場の荒波に晒さずに金融市場を形成したのは"オフショア・バ
ンク"という制度である。オフショアというのは海岸線の海側という意味である。即ち国内法の
適用しないということである。オフショア・バンクは一般のシンガポ−ル人相手の営業はできな
いが、シンガポ−ルの金融政策の対象外になる。これらの金融機関はシンガポ−ルに場所を
借りるだけである。オフショア・バンクも事務所経費や雇用を通してシンガポ−ルの経済に寄与
している。
 シンガポ−ルの経済的発展は国土が狭いという物理的限界がある。このため経済圏を国境
をこえて拡大している。成長のトライアングルと名付ける。むしろ政府はシンガポ−ルにある工
場がマレ−シアやインドネシアに移転するのを奨励している。シンガポ−ルが最終的に目指す
のはヘッド・クォタ−の所在地としの機能である。


5.言語に見る民族問題

 シンガポ−ルは複合民族国家である。その中で中国系は人口の3/4の絶対多数を占め
る。他から見ると同じ中国系であっても華南の出身地によって福建、広東、客家、海南という主
要地域別に区別される。言葉は方言であるため華人間でも話が通じないという事実がある。
 そこで最近では華語=北京官話=マンダリンといわれる言葉が中国系住民の間の共通言
語となつてきた。中国人学校の初等教育も華語で行われるようになった。しかし方言は発音の
差であり文字については漢字が共通している。
 何れにせよシンガポ−ルは中国本土、台湾に続く第三の中国人の国と言われることを恐れ
ており、そのように見られないように神経を使っている。
 言語に関してはシンガポ−ル憲法ではマレ−語を国語にしている。国語としてのマレ−語が
実際に使われているのは国家と軍隊の命令用語だけで憲法の国語は形骸化している。これ
はシンガポ−ルがマレ−シアに合併した時の遺物である。日本憲法の第9条のようなものであ
り、実体は英語である。シンガポ−ルがあえて憲法のマレ−語をそのままにしているのは近隣
国への気兼ねである。
 シンガポ−ルで発行される中国語の新聞の字もよく見ると、北京で発行されるものと違うとこ
ろがある。中国では漢字の略体が用いられている。これに対してシンガポ−ルの中国語の新
聞では旧体の漢字が使用されている。シンガポ−ルの中国語新聞が新しい漢字に置き換える
資金の問題ではない。
 もしシンガポ−ルの中国語新聞が北京の略字をそのまま使用すると、文化的に北京に服従
しているかのように見られる。このような誤解を避けるためにも故意に旧体の漢字を使用して
いる。
 ちなみに"中国"という言葉は国の意味になるので民族、言語を意味する場合には華人、華
語といわれている。英語では"Chinese"一本である。

 シンガポ−ルが採用している言語政策は二重言語政策である。初等教育は各民族であり
各々の言葉が教えられる。これに加えてもう一つの言葉を学ぶことが義務づけられる。ここで
もう一つの言葉とは英語である。この英語が共通語となる。
 英語が異なる民族の間に会話を成立させる。実用本位の言葉であるからかなり乱れた英語
であるからイングリッシュでなく、"シングリッシュ"といわれる。就職においても英語が話せない
と不利になるのでほとんどの若い年代は英語が話せるようになっている。
 当初、このような英語重点の政策には中国系住民からの反発があった。言葉を失えば民族
の誇りをなくするというものである。しかし当局側にはこのような中華思想をなくするのが狙い
であった。
 シンガポ−ルには南洋大学という私立大学があった。中国系住民の献金によつて創立され
た大学で東南アジアにおける中国文化研究のセンタ−になっていた。南洋大学が政府の圧力
で国立のシンガポ−ル大学に吸収合併されたのも発想は同じである。
 シンガポ−ルは華僑の国ではない。そこで新しいアンデンティティとして"シンガポ−リアン"と
いうコンセプトを提唱している。「ケネディがアイルランド人でなくアメリカ人であるように、私は
中国人でなくシンガポ−リアンである」とリ−クアンユ−首相の理念に近づいている。英語重視
による二重言語政策はシンガポ−リアンの具現化であろう。


6.リ−クアンユ−首相

 シンガポ−ルは自由主義陣営に属してきた。しかしその実施していることはまさに社会主義
国家である。例えば土地は国有であり、国が直接管理している。主要な産業は国有である。所
得の40%は年金として強制的にめしあげられる。世界で唯一の成功した社会主義国家である
といわれる。
 シンガポ−ルの発展は政治家リ−クワンユ−の存在なしにはありえなかった。リ−クアンユ
−は客家華僑のシンガポ−ル生まれの4代目である。登小平も客家の出身であるように中国
人の政治家の素質として客家が注目されている。客家は華北から華南に移住しても団結心に
よって防衛しながら独自の文化を保持してきた。
 彼はケンブリッジを一番で卒業してシンガポ−ルで弁護士をへて政界に入る。人民党を設立
し、初めは名のごとく左派政党であったが、政権を握るや容共派を排除して体制派に転じた。
シンガポ−ル自治国、マレ−シアとの合併を進めた。同首相はマラヤの力を借りて共産党を
ねじ伏せようという考えであった。マレ−シアの首相になることを意図していたともいわれる。
 シンガポ−ルの困難はマレ−シアから突き放された時である。独立シンガポ−ル国の自立
を国民に涙で呼び掛けた。その後も首相であり続け、シンガポ−ルの独立と発展をもたらした
歴史に残る優れた指導者である。
 汚職には厳しい謹厳な人であり、清潔な都市つくりも彼の個性の反映である。経済繁栄の実
績は住民の強い支持を得ており、比較的多数が議会において絶対多数になるシステムを通し
て現在は人民党による一党独裁である。野党がいるが一党独裁でないことをデモストレ−ショ
ンするために故意に割り当てているほどである。

 シンガポ−ルを繁栄させようという国家の強い意志は、強力な警察力を持ち、現制を脅かす
者には徹底的に弾圧される。盗聴も行われる。「シンガポ−ルがいやな人は出ていってくれ」と
いうのが最後のセリフである。独裁に対しての批判も押し潰されている。
 リ−クアンユ−首相は1990年にゴ−チョクトンを後継者にして30年以上勤めた首相の地位
を降りた。しかし新首相の保護者として今後も有力な存在であることは否定しえない。新政権
では息子が副首相であり、ゴ−チョクトンは直接息子への政権譲渡を避けるための中継ぎと
いう見方もある。


 7.シンガポ−ルの外交

 あらゆる国から商売のため商人がやってくる。そのための場所を提供するのが中継貿易で
ある。過去の世界の歴史において中継貿易国家はすべての国と友好的であることに国家存立
の基盤がある。中継貿易の港としての歴史を持つシンガポ−ルも近隣友好を国是としている。
 シンガポ−ルは狭い島国で食料はもちろん、水についてもマレ−半島から供給を受
ける。ジョホ−ル水道には道路と鉄道と水道のパイプが敷設されている。太平洋戦争のシンガ
ポ−ル攻略の最激戦地はブキテマの水源地であったように熱帯の地では水のウエィトは高
い。
 政府は使い捨て容器の使用を奨励し、水の無駄使いにも罰金で臨んでいる。シンガポ−ル
の水の生命線はマレ−シアからのパイプである。水の供給力の拡大のためマレ−半島にダム
が建設される。もちろん資金はシンガポ−ルの負担である。
 マレ−シアから分離されてもシンガポ−ルはマレ−シアとの友好関係を損なわないように懸
命の努力を行う。シンガポ−ルのイミグレ−ション手続きはマレ−シア人は準シンガポ−ル人
扱いである。シンガポ−ルは出稼ぎ者の流入を制限するが、マレ−シアはフリ−パスである。

 シンガポ−ルにとって近隣友好が優先する。準陸続きのマレ−シアとインドネシアは最も気
を使う相手である。インドネシアは中国共産党が企てたとして9月30日事件のク−デ−タ−事
件以来、中国との国交を断絶していた。ようやく最近になって昭和天皇の葬式のための来日を
きっかけに両国の外交は復交した。
 シンガポ−ルもインドネシアに殉じて中国との国交を断ち、関係を復活したのはイ
ンドネシアの後である。中国系住民が3/4を占めるにもかかわらず、中国との関係は隣国で
あるインドネシアの思惑を気にせざるをえない。
 東南アジア経済協力機構といわれるASEANはインドネシアとマレ−シアの和解に基づき
1967年に発足した。軍事同盟ではなく経済協力であり、シンガポ−ルは当初からのメンバ−で
ある。成功した国際経済協力としてこの地域全般の経済発展は世界から注目を浴びている。
ASEANが繁栄している限りシンガポ−ルは安泰である。
 地域協力の中でも近隣政策としてシンガポ−ルの繁栄を周辺国と享受する。シンガポ−ル
だけの繁栄は嫉みを招く。繁栄の三角地帯というのはシンガポ−ルを中心にマレ−シアのジョ
ホ−ル州とインドネシアのバタム島を囲む地域である。

 マレ−シアとの国境であるジョホ−ル水道の土手はマレ−シアからの通勤者で朝晩ラッシュ
である。工場をマレ−シア側に移しつつある。一方、シンガポ−ルの海峡を隔てた島はインド
ネシア領のバタム島である。バタム島からはシンガポ−ルの高層建築が見える。その島に工
業団地が作られ、日本からも多くの企業が進出している。

 シンガポ−ルの経済は国境をこえてマレ−シアのジョホ−ル州とインドネシアのバタム島に
拡大する。シンガポ−ルは繁栄を"おすそわけ"することによって安全を確保している。経済発
展による近隣友好関係を東南アジアに拡大したのがASEANである。
 しかしシンガポ−ルを取り巻く状況は厳しい。シンガポ−ルは中国系住民が圧倒的である。
中国系住民は移住してきたものであり、そもそもはマレ−人の領域である。シンガポ−ルはマ
レ−シアとインドネシアの中における"点"である。過去の経緯から中国人に対して良い感情を
持つているわけではない。
 イラクがクェ−トに侵略したように領土についてはこじつけはどのようにでもできる。シンガポ
−ルを英国が入手した経緯はマレ人にとってはだまし取られた感が拭えない。だまし取られた
領土が処分されて中国人のものになっている、として何時かは周りから攻められないという保
証はない。
 シンガポ−ルは国民皆兵制であり、近代兵器を買い付けている。ASEANを通じて友好な近
隣関係を維持すると同時に非常時の備えに怠りはない。シンガポ−ルと最もよく似た国がイス
ラエルである。今後も安全確保のための必死の模索が続けられるであろう。


8.シンガポ−ルの観光

 シンガポ−ルでは空港にもホテルにも、あるいはデパ−トにも多くの日本人観光客を見かけ
る。シンガポ−ルへ行きたがる人がかくも多いのは日本に比較的近いこと、従って交通費も安
い。観光客の主目的は買い物であるらしい。
 世界中から大勢の人に来てもらうために税金を取らないというのはラッフルズがシンガポ−
ル港を開いて以来の伝統である。今日では買い物客に来てもらうために物品税、消費税はな
い。このためパリやイタリアのブランド品が税のない分だけ安い。
 また清潔であることもシンガポ−ルの魅力のようである。もっとも風紀の取締も厳しいのでシ
ンガポ−ルの"非"魅力という意見もある。
 シンガポ−ルの数少ない観光名所に"タイガ−・バ−ム・ガ−ディン"がある。タイガ−・バ−
ムという軟膏の塗り薬で富豪になった実業家が作った遊園地である。香港にも同じものがあ
る。回遊式になった通路を歩いていくと中国の故事にちなむシ−ンが見られる。三国史、西遊
記、水滸伝など日本人に馴染み深いシ−ンがある。
 しかしこれを見てなつかしいとかうれしいとかいう感情は生じない。原色のあくどさに辟易する
ばかりでまず二度も見に行く人はないだろう。タイガ−・バ−ム・ガ−ディンもけばけばしい中国
寺院も華僑文化である。
 華僑とはそもそも文化とは無縁の貧困の民である。彼らが急にリッチになっても産み出すも
のはこの程度という証明である。ということでシンガポ−ルへ観光旅行に行っても文化的なも
のは期待できなかった。
 しかし最近では経済的に裕福になったシンガポ−ルは文化的なものにも力を注ぐ余裕がで
てきた。シンガポ−ルの地に根を下ろした中国文化は"熱帯地化"したもので中国固有のもの
ではないであろう。自らマレ−的なもの、インド的な要素を吸収したものとならざるをえない。
 伝統のないいわば人工の島に世界から集まった多々の民族によって新しい文化が創造され
る過程にある。目覚ましい経済の成功と同じように、文化においても何が現われるかを世界が
注目している。

本稿は西宮市某公民館活動における講座(1993年11月)のための原稿である




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