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日々徒然の想

  
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何かいいことないかな 〜さよなら河島英五さん〜

 

 三波春夫さんが亡くなられたと聞いて、昭和という時代の終わりを改めて感じたが、その翌日に何と河島英五さんが亡くなられたということを聞いて更に追い討ちをかけられたような気分だった。「えっ!? うそ!? まだ、そんな年と違うやろ!?」という信じられないような気分だった。何でも肝臓が悪かったとかで東大阪の病院に入院されていたそうですね。(東大阪市在住の私には何か不思議な感覚を覚えました。)年齢もまだ48歳(?)とかで、本当に早すぎるなあって感じである。特に私は河島英五さんのファンであったというわけではないのだが、実は河島英五さんに関わる思い出が結構あったりするので、故人を偲ぶという意味でご紹介したいと思う。

 初めて河島英五さんを知った

 初めて河島英五という人物を知ったのは、20年以上も前で確か私が中学2〜3年の頃だったと思う。当時、NHKで若者が集まって討論するような番組に出演されていて表題にもある「何かいいことないかな」(正確な唄の題名は覚えてません。)を、例のごとくギターをかき鳴らしながら熱唱されていた。とは言っても当時はまだ氏もそれほど知名度が高くなかったからだろうか若者の間に立ってその番組のBGM的な音楽という感じで唄っている状況だった。ただ、当時、関西フォークやニューミュージック(もう死語か。若い人はわからんでしょう。)に(特に関西フォーク系)に傾倒しかけていた私にとっては、その時の氏の唄のインパクトが強烈だったのを覚えている。それ以後、関西フォーク系でもない、かといってニューミュージック系でもない氏の方向性にはある種、注目していたのを覚えている。ちなみに当時、氏はあのキダ・タローから、「見込みがないから、やめろ」とさんざん言われてたとか言われてなかったとか....。

 ・初めて実物の河島英五さんを見た

 忘れもしない、大学2回生の春、新歓イベントのひとつとして河島英五氏が大学にやってきた。確か、大学内の生協食堂のスペースをステージにして例によってギター一本かき鳴らして熱唱してくれた。当時、氏は山崎ハコ(これも若い人にはわからんか。)さんと大阪でジョイントコンサートをするということで、山崎ハコのある唄を歌おうとされたのだが、歌詞をよく覚えていなかったので「ハコファンがいたら唄ってくれ」と言ったところ、私と一緒にいた私のサークルの先輩がたまたまハコの大ファンだったので思い切り手を上げ、氏から指名されて歌ったのを覚えている。どれくらいの時間だったかはよく覚えていないが飾らない気さくなコンサートって感じだった。終わってから氏に握手してもらったのだがが約30センチの至近距離で並んでいる氏と私を前述のサークルの先輩が見て「何か似てるで..」と言われたのを覚えている。

そしてなんと帰りの電車も氏と同じ電車でしかもここでも半径50センチくらいの至近距離だった。思いきって「今日は今からまたどこかに移動されるんですか?」と聞いてみたところ、「うん、まあね」(だったと思うが記憶が定かでない..。)と話してくれた。そして阪急梅田駅で氏は人ごみの中に消えていったのでした。

 ・河島英五がバイト先のパン屋にパンを買いに来た

 大学生当時、私は梅田の某商店街(梅田で一番賑わう商店街)にあったパンとケーキの店で売り子のバイトをしていた。大学2回生から卒業するちょいと前までだから3年近い間かな。当時私は半一人暮らしの状態で生活費等を稼ぐ必要があったので、週に4〜5日は17時(または18時)から23時までその店でバイトしていたのだが、そこでバイトをしているとホントに色々な人たちがパンやケーキを買いにやってきたもので、商店街(飲み屋街でもある)という場所柄上、飲んで酔っ払ったサラリーマンのおっちゃんたちや、若いOLさん、お水系、たまに危ない方面の方たちなど色々なお客さんがきた。おまけにうめだ花月が近所ということで、吉本系の芸人さんたちもよく来ていたのを覚えている。(山田スミ子さんとか池乃めだかさんとか。ちなみに初めて池乃めだかさんを見たときはその小ささにびっくりしましたわ。ほんまに。)

 そんなお店にある日、長髪の結構体のでかい人がのそっとやってきた。そのときは店には私一人しかいなくて、私が「いらっしゃいませ。」と言って応対したのだが、なんかどこかで見たことがある人なのだが誰だかよくわからないという感じだった。(実はその店はお世辞にもきれいな店ではなく、照明もあまりよくなかったので立ち位置によってはお客さんの顔が逆光みたいになってよくわからんのです。)そのお客さんは、どのパンにしようかと選びかねている様子だった。というか当時の私の推測だが、”小腹がすいたから何か買って食べようかと思っていたら丁度パンを売っている店があったので行って、どのパンにしようかと見てみたら、その値段の高さにビックリして、どのパンが適当な値段のパンなんだと探している”状態だったのではないかと思う。この様相を見せるお客さんはこの店では別に珍しいことではなかった。というのも例えば当時普通の所謂’パン屋さん’で売っていたアンパンの値段が70円〜80円くらいという相場だったのに対し、その店は土地柄だろうか、それともいい材料を使った自家製だからだろうか、アンパンが当時で1個140円という高値だった。ちなみにクリームパンが1個120円、カレーパンが150円、その他ちょっと手がこんでてフランクフルトなんかを使ったパンとかだと1個180円〜200円という値段で、価格帯が普通の店の約1.5倍くらいだった。(今は一体いくらで売っているのだろうか?)

しばらく経ってからそのお客さんが、私に注文した。

ハムロール!!」と。

その声を聞いて私は突然この人が河島英五さんであることに気が付いた。そして目を凝らしてその人の顔を見たのだが、間違いなく河島英五氏だった。「なんでこんなところでこんな時間に河島英五がパンを買ってるんや!?」と内心ドキドキだったが、そういえば、ちょうど梅田のどこかのホールで誰か(確か加藤ときこさんじゃなかったかなあ?)とジョイントコンサートをしているというのを思い出して、「あっ、それでか」と一人で納得した。

注文されたパンを袋に入れて渡したところ河島さんは、すぐに袋からそのパンを出してむしゃむしゃとうまそうに食べられ、そして阪急梅田駅の方に向かって歩いていかれた。結局そのときに河島さんから聞いた声は、「ハムロール」の一言だけだった。あの時勇気を出して話しかけていればなあと今更ながらに思っている。

その後、氏がどういう活動をされていったのかは残念ながら私はあまりよく知らない。「のふうぞ」(どんな漢字か覚えていない。)とか「時代遅れの・・・」(これもよく知らない。)くらいは知っているけど具体的にどんなことをされていたのかよく知らない。残念ながら亡くなられてしまったわけだが、改めて氏が残した功績の大きさを実感する次第である。心からご冥福をお祈りしたい。

 

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